はてなキーワード: 即物的とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/shota_hatakeyama/n/n5662ae20a1e9
上記の記事を見ながら思ったのだけど、これは高等教育を受けたものだけが富を得られるという構造がやはり大きい。
日本にもあるがアメリカは人種問題や教育制度の仕組みもあってより深刻になってる感じがする。
日本でもアメリカでも教育は誰でも平等に受けれることになっており、勤勉に努力したものだけが努力の結果の報酬として様々なメリットを受け取るのは資本主義的に正しい気はするし、インセンティブの管理としては妥当に思える。
この前提にたって「自分たちは勤勉であったから価値があるのだ。怠惰だったものはもっと頑張れ」という主張は一見正しい。
このような人は所得の高い職に就き、お金持ちになるし何よりわが子の教育に再投資する。ゆえに正のフィードバックが回り経済格差は固定化される。貧乏人は教育を受ける余裕もなければ教育が大事という教育すら受けてないのだ。魚の釣り方ではなく魚そのものが必要な状態では仕方がない。つまり「自分たちが勤勉」という前提は必ずしも真ではなく「勤勉でいる事が容易な環境に生まれた」という本人には管理できない部分によるところも相当に大きい。もちろん「貧乏でも努力して。。。」みたいな例外はいるが例外は例外である。その例外を受け入れる姿勢は良いことだと思うけど。成り上がるチャンスはあるが、成り上がるより引き継ぐ方がずっと簡単とう話。
これが財閥クラスの真の大金持ちだと100年後の安定を求めて社会全体の教育水準を上げることが地域の安定や経済的な富になると考え投資もするだろう。彼らは社会基盤が安定してればもはや稼げるのだ。ゆえに社会基盤を安定させることが経済的な基盤を保つための原則だ。
しかし年収数百万だの一千万だの数千万と言ってる程度の中流階級な小金持ちはそうではない。競争に勝たなければ経済基盤が安定しない。勤勉が価値の源泉だ。ゆえに自分たちの同僚のような勤勉な黒人の権利を守るために働きかけるが、怠惰な黒人がどうであろうと基本気にしない。勤勉でインセンティブが得られるという構造が自分たちの利益になるのでそこを守るために動いている。
つまり「黒人差別はしないが黒人も白人も貧困層(=怠惰な層)を差別する」。別に博愛主義者じゃないので勘違いしないでよね。
もちろん、そうでない人もいるがそれは単にその人の趣味だ。「人はパンによって生きるのではない」。そういった趣味とか信念とか信仰の結果でそういった行動をする人たちももちろんいるが、経済的なメリットとか即物的なものじゃないので万人の行動原理にはなりづらいだろう。
自分は所謂がり勉でもないし、受験戦争とは無縁で家族からも過度に勉強を強いられたことはないが、塾にも通わせてもらったし大学にも行くことができた。
父は時折「お前は次男だから財産として渡せるのは教育だけだ」という事を言っていた。田舎の兼業農家なので継ぐといっても大層なものは何も無いのだけど、少なくとも人材的投資の価値を信じていた言葉だと思う。
まあ、母は学校の教師だし、父も大学ではないが農業の専門学校を出たようなので当時の地元としては高等教育を受けていた可能性は高く、そのサイクルを肌身として知っていたのではないかろうか。そんな話をしたことはないが。
いずれにしても、この状況から自分の価値感はかなり小金持ちよりだろう。実際、仕事してれば生きてける程度にはお金に困っていない。そういう感じで恩恵を受けている側なので50年、100年の未来に問題が噴出するだろうが積極的に改善するモチベーションが無いのも本当のところだ。人種によらず努力が実る環境は目指すが、努力しなくても何とかなる社会をそこまで目指してはいない。
現在の格差拡大は貴族と平民、大富豪と奴隷、そういった近代的な価値観とは違いあえて言えば平民同士の格差の拡大だ。そういった点が今回のアメリカ大統領選でも見えた気がする
大富豪は別なレイヤーに存在していて、どちらかとうとそちらの方が自分たちのメリットのために平等や底上げを目指していると思う。
構造的に政治の中枢というのはエリート、つまりここでいう金持ちが集まりやすいので抜本的な改善はクーデーターでも起こらない限り難しいのではないかな。。。
すでに富の再分配として日本でもアメリカでも高収入の人間は税金をバカすか取られてるわけだし。たしか日本だと少なくとも年収が年収890万円は無いと払った以上の公共サービスを受けてることになるみたいだし。まあ、実際は消費の担い手としての価値もあるから社会のお荷物というのは言い過ぎだけど。
これを程度レベルじゃなく根本的に変えるにはそれこそ社会主義的なドラスティックな変更でもないと無理な気がするし、個人的にはそうはなってほしくないというのが本音である。
さっき映画を見てきたいちファンだけれども、同調できる部分は多々ある。
同時に、増田の分析はかなり正確だが、結論がズレている(悪い意味ではない)理由もわかる…ような気がする。気がするだけ。
鬼滅は元増田が感情移入しきれていない部分が刺さる人たちに刺さっている、今までの人気少年漫画と世界観(没入するところ)が違う作品だと思う。
思うに、雑誌という枠を超えた大ヒットを飛ばせる作者というのはおそらくだが自分の中で確固たる哲学を持っている。
その哲学の毛色は、今までのジャンプ発ヒット作はかなり似通っていたと思う。鬼滅はかなり違う。
語弊を恐れず言えば、今までのヒット作で人気を博した要素はかなり男性ウケする価値観ではないだろうか。
戦って勝つ、その紆余曲折で高められる勝利の快感、高度な戦術戦にハラハラわくわくする、頭脳戦に感心する、
ひらたくいうと「強いオスに心酔する、感情移入するときにはその強いオス、苦戦しても最後に「俺は勝つ!」自分ツエー感+おまけでほぼ必ず自分より戦闘能力で劣る仲間との絆でちゃんとぼっち描写回避の群れのボス感を出す」である。
こういう作品の面白さには物語の複雑さ(よく練られたプロットや上手に張られた伏線が知性を刺激する面白さ)も含まれる。
増田も言っている
>強くなりたい理由なんて「この星で一等賞になりてーの!オレは!」
の通りだ。
既存のヒット作品の多くは強くなることが目的であり、鬼滅では「強くなる過程」は主題ではない。
これは私の極めて個人的な、つまり根拠のない感覚だが、「鬼滅の刃、あれ自分には何が面白いのかさっぱりなんだよね。」という人間は、おそらく男性のほうが多いと思う。
作品を読んだときに「この要素に感情が動く」という要素にはおそらく性差がある。
男女では女性のほうが鬼滅に入れ込む率が高いように思われるが、これらはおそらく「強いオスが闘って勝ちました」以外にも心が動く人間に刺さる物語なのだ。
主人公は最強ではない。(ある意味最強クラスの活躍はしてるけど…)
繰り返し、主人公が敵(人間を食料としか思っていない害獣)に対しても優しさや思いやりを投げかけ、家族をどれだけ大切に思っているかが描かれる。
人間が普遍的に(本当に古今東西人類なら同じように感じるかは知らん)きれいな感情と大切にしたがる感情を恥ずかしげもなく臆面もなく描いてくる。
たとえば作中最強の登場人物は神の域に到達している。
いや本当に。物理法則…以外のありとあらゆる法則を無視してくるからね。
人間の神経の伝達速度は速くても0.1秒、あなたその間に何回数キロの鉄の塊である刀を振れますか?1回?2回振れたら十分に居合の伝説の存在になれるよね多分。
鬼滅の刃のこの最強人物は1500回振れる…おかしいでしょ!!人間はモリハナシャコガイではない!!しかも「標的は1800個あった」って視認してるのおかしいでしょ!!
さて、これが既存の「最強オスであるオレ」作品ならこの最強キャラは世界を征服済みの魔王=倒すべき強大な敵として思うがまま暴虐を振るっているはずだが、
鬼滅の世界ではこの人物が望んだのは「家族と平穏に暮らす幸せ」である。強さ関係ない。
鬼滅の世界には強さ比べがない。鬼退治ものというバトル漫画だけど、ある意味バトル漫画ではない。強いオスの価値観が入り込む隙間がない。
・回想多すぎ
常に「敵を倒しました→こんな過去を持っていました…」が語られるのを、ファンですら多いよねと言っている人が一定数いるのを知っている。
ただ、回想はキャラクターそれぞれ違うところがこの鬼滅の大事なところなんだと思う。
典型的な男性物語はキャラクターをそこまで掘り下げない。キャラクターに役割を振れるほど識別性があればそれで「キャラが立っている」範疇である。
心情が語られるとしても多くの場合、戦いに参加する心構えに終始する。
他人の感情にそこまで頓着しない人間なら、鬼滅の繰り返し語られる個人的な話はうっとうしいだけだろう。
ただ、鬼滅ではこの「実はこんな人間でした」を繰り返し語ることで、人間それぞれの尊さ、愛おしさを描いている。
ヒトという形でだけ見るなら何十億もいる存在の、それぞれを内面で深く知って抱く愛情のような気持ち。
これなんて言えば伝わるのかな。
その共感と愛着を、せりふ回しが生み出す非常に強い没入感をもって読ませるのがヒットした要因の一つだと思う。
3行まとめ:私が思うに、増田は鬼滅世界が訴えかける感情を受け取る必要性を感じていない人。だから分析は正確なのに「こういうのが最近は求められているのかな」と着地点がズレるのだと思う。昔からコレを求めていた人はいたはず。鬼滅の人を引き付ける要素は、既存の人気作品とかなり違うのだと思う。
ネウロの犯人の中に、「他人の脳を揺らす」スキルで世界的な人気を博したキャラがいる。
大多数ではない。でも、そのスキルを使うと確実にスキルで脳が揺れる人々がいる。少数でも世界中で見ると何億なので…といった説明があったと思う。
https://togetter.com/li/1608453
この手のに深くハマるのは努力したくない人ではなく、努力が下手な人か努力の仕方を知らない人。
一般的に努力と言われるものには体力・時間・忍耐だけ試される単純な努力と、それらに加えて知性・技術・才能が必要になる複雑な努力があり、当然後者の方が難易度が高い。
複雑な努力をできる人間からしたら単純な努力しかできない人間は努力が足らないように映ることもある。
しかしそれは努力をしたくないのでは無く、適切な努力の仕方を知らないか、それを理解する能力が無いだけだ。
一方で自己啓発やスピが求める努力は単純な努力に寄せてチューニングしてある。
その上、ゴールや努力評価規準をちゃんと明示してモチベーションまでお膳立てしてくれる。
特にスピ系や宗教ではゴールは即物的なものでない事が多いので努力の効果判定まで曖昧になり、努力の正当化と自己満足の世界に陥りやすい。
しかしスピや自己啓発にハマっている人たちは元々それらの努力リソースを適切に使うことができなかった人たちなのだ。
本人たちからしたら無為に生きるよりはよっぽど良いかもしれない。
もしそれに異を唱えるなら適切な努力の方法とゴールをセットで提示するくらいはすべきだ。
それもまた別のカルトへの鞍替えにすぎないのかもしれないが...
余談だがハンター×ハンターのネテロ会長の「一日一万回 感謝の正拳突き」は一見すると単純な努力だが、その実行と成果には研き続けた技術と類稀な才能が必須であり、まぎれもなく複雑な努力だったと言えるだろう。
人生のあらゆる問題に対処して、あらゆる人に苦痛なき人生をもたらさねばならない。
……みたいなこと考えるの、文系リベラルの陥りがちな間違いだと思うんだよな。
一切衆生を救うのは、仏様のすることで、人間や思想家の所業じゃないんだよ。
所詮は科学者の一種である文系思想家は、まずは社会において人生に苦しんでいる個人が存在することは許容範囲内であることを認めねばならないよ。
別に救われないやつが居てもいいよ。鬱屈したやつがいてもいいよ。そいつの人生はそいつ自身が救うんだよ。
それについてどうこうできると考えるのはおこがましい。
もっと即物的に考えるべきなんだよ。例えば、モテないってことは老後の世話を見る子供が居ないことだから老人ホームの建設が今までより一層必要ですねだとか。
友人は男女4人で飲んでる最中だった。友人以外知らない人だった。
合コンかなと思ったので邪魔しては悪いと言ったが、友人は同席を進めてやまなかったので、おとなしくご一緒させてもらった
そしてしゃべってるうちに男性の一人とプロ野球の話で盛り上がった。
会計の時、友人らと当然別会計だと思っていたのだが、プロ野球好きの男が私の分まで支払ってくれた。
申しわけないので断ったのだが、友人からも「甘えちゃいなよ」と押し切られた。
そして、自宅の方向もプロ野球好きの男と同じだったので、タクシー代まで支払ってくれた。
さすがに気が済まないので、今度お礼させてほしいから、連絡先を教えてくれといった。
そして、LINEを教えてもらった。また連絡します。そう言って別れた。
本当にお礼がしたいとも思っていた。初対面なのに、それも友人らと同席する前から一人で結構飲んでいたのに、奢ってもらったのは心苦しかった。それに、少なからず、下心というか、趣味は合うし、この先どうなるかはわからないが仲良くなりたいと、その時は思っていた。
とりとめのない会話から、贔屓休団の話、そしてまた飲みに行こうよという話がまとまった。
もう切り込んできたか。と思った。
まあ、わたしはまだるっこしいのは嫌いだし悪いとは思わなかった。
でもこの後がいけなかった…。
増「いないよ~!」
男「意外~!」
増「そう?」
増「え?」
増「何言ってんの?」
と思ってラインを閉じた。
混乱した。確かにわたしも、もしかしたらもっと仲良くなれるかもなとか考えてはいたが、それはずっと先の可能性の話で、こういう即物的な相手として接しているつもりはなかった。
それなのにこういうメッセージを送ってこられるって…わたしのふるまいにはなにか問題があるのか…と呆然とした。
10分くらいして、わたしからの返信がないことに焦ったのか、「ゴメン、テンション上がって変なメッセージおくっちゃった;嫌だった?ゴメンね」
的なラインがきた。
嫌にきまってるでしょ。
どういうつもりだ。
申しわけないけど関わりたくなくなってしまって、そのままブロックしてしまった。
わかる。わかるんだよ。これはファンのための絵だよね?千歌ちゃんかわいい。
でも私、これをガルパンでやられたらすっごくがっかりする。戦車はしっかり描いてくれるのに女の子の制服はラテックス素材かよ…!って思う。
なんていうか、これは見方によるけど、ファンの人は現実と二次元の表現をどう見てるのかな。あれをエロく無い、と言い切るのはかなりむずかしいと思う。いつもの制服より体の線も強調されてるし、股に不自然すぎる影が入っている。(デフォルメとは要素の歪曲・単純化・強調を示すものであり、現実にないものを書き足すのはデフォルメではない。デフォルメであるとするとこれは股間の強調ということになるのでやはりエロということになる)
エロくてもいい!とは思っているんだけど、私は好きな子が不必要に、不自然にエロい格好させられてたらすごく申し訳ない気持ちになっちゃうんだ。かわいい水着着てたり、ちょっとセクシーにランジェリー的なものがあってもいいんだよ。
でもあの絵、なんか股にスカート挟んでるかラテックスか、制服じゃないうっすい布着ているだけじゃん。いつも着てるやつ着せてあげてほしいんだ。
好きな子には可愛くて、素敵なものを着てほしいんだよ。ラテックスの制服じゃなくて。
全方位にラッキースケベしなければならない子なのかと思われると、そうじゃない!千歌ちゃんは歌もダンスも頑張ってる努力家なんだ!明るい性格だし本当に魅力的なんだよ!って言いたくなる。
そんな単純なラッキースケベだけで千歌ちゃんの魅力を即物的なものにしないで欲しいんだ。少なくとも公式が。
千歌ちゃん?見た目も可愛いけどめっちゃいい子だからとりあえずサンシャイン見てよ!って言いたいんだよ。せっかくやるなら意味のあるものにして欲しいんだ。ファンの人はそう思ってないのかな。
増田を見ている皆さん、こんにちは。皆さんは1月18日から劇場公開されている『劇場版ハイスクール・フリート』を何回見ましたか? 私はまだ4回しか見ていないのですが、きっと皆さんはそれ以上に『はいふり』を堪能しているのでしょうね! 羨ましいことです。
さて、『ハイスクール・フリート』で多くのカプ厨を沸かせたシーンといえば、やはり「本屋晴風」でモモちゃん……もとい青木先生の薄い本を読んだときのシロちゃんとミケちゃんの反応の差が挙げられます(それにしてもナマモノ本を当人たちに見せるってなかなか肝が据わってますよね青木先生)。
青木先生の薄い本を読んだシロちゃんが真っ赤になる一方で、ミケちゃんは「シロちゃん、これって何してるの」などと尋ねており、明らかに内容を理解していない様子です。
しかし2人は同じ高校1年生のはずなのに、どうして青木先生の漫画の理解度に差が生じているのでしょうか。ミケちゃんが無知すぎるのでしょうか、それともシロちゃんが性知識豊富すぎるのでしょうか。
この増田では、いくつかの仮説を検討して結論を出したいと思います。
青木先生の薄い本の内容がエッチではあるがさして突飛でもない常識的なプレイだった場合、シロちゃんの性知識は年相応のものだがミケちゃんのそれはそうではない、という仮説が導かれます。
おしべとめしべも知らずに艦長が務まるのかという疑問はあるでしょうが、別に航洋艦は女郎宿でも何でもないわけで、船の動かし方についてよく知っていてさえいれば子供ができる仕組みについては理解していなくても問題ないということなのでしょう。
ミケちゃんはあえて理解した上で無知を装ってシロちゃんに質問することで天下の大通りで羞恥プレイを楽しんでいるという解釈ももちろんありえます。
「漫画の中だと、わたしたちここまで進んでるんだね……現実には、まだ××もやってないのにね。ね、シロちゃん、ちょっと△△してみよっか?」
みたいな感じでシロちゃんに仲良しすることを誘った挙げ句に家族しそうですよね。好意をストレートに伝えてきそうというか。なのでこの説も惜しくはありますが却下です。
そもそもモモちゃんが描いていた内容には特に性的な描写はなく、いたって普通の恋愛漫画に過ぎないのだが、恋する乙女シロちゃんが過剰に興奮してしまった……という仮説です。
正直シロちゃんはかっこいい表情でシロちゃんに迫るミケちゃんのイラストを見てドギマギしちゃうレベルのシャイガールだと思うので、青木先生がちょっと気合の入った全年齢ミケシロイチャラブシーンを描いただけでも真っ赤になってしまうのはもう火を見るより明らかです。
この場合、ミケちゃんも別に性知識が極端に乏しいとかではなく、特殊な生育環境ゆえにポッキーゲームを知らなかったとか壁ドンの意味がわからなかったとか、そういうレベルの無知だった可能性があるのではないでしょうか。
このレベルの無知ならありえる話じゃないかと個人的には思います。
青木先生の描かれたシチュエーションもといプレイがあまりにも特殊であった場合、あるいは同じ業界の人にしかわからないような隠語やメタファーが散りばめられていた場合、平均的な性知識しか持っていなければ内容を理解できない、という可能性は十分にありえることでしょう。
もしもミケちゃんが保健の授業をちゃんと聞いていたにもかかわらず青木先生の薄い本で描かれているものを理解できなかったとするならば、その内容は極めて特殊な性癖にリーチした内容のものである可能性があります。
ではそれをどうしてシロちゃんが知っていたのか? という問いに対し、「それはシロちゃんがムッツリだから」と答えるのがこの仮説です。
ムッツリであるシロちゃんは日頃から特殊な性癖や隠語に親しんでおり、それゆえに青木先生の描かれる特殊な内容の薄い本を完璧に理解することができてしまったのでしょう。
しかしシロちゃんがムッツリだとするならば頬を赤らめながら熟読するはずで、正視に耐えないとばかりに目を逸らしているあたり別にムッツリではないのではないかという疑念が湧いてきます。
そうであるならば、いったいどうやって彼女は特殊な性知識を得たのでしょうか。その疑問への答えとして、次の説が提出されます。
劇場版でのシロちゃんの回想シーンで、ご幼少のみぎりに部屋に入ったところ真冬姉さんがホラーを鑑賞していたため、怖くて一人で寝られなくなってしまったというエピソードが語られます。
姉の見ていたホラー映画をうっかり見てしまうことがあるのなら、姉の持っていたエロ本をうっかり読んでしまうこともあるのではないでしょうか。
しかし、真冬さんはTVアニメや漫画『はいふり』の描写では尻! 胸! という感じのなんというか非常にわかりやすい即物的な性癖の持ち主であり、そこまで特殊な性癖をこじらせているようには見えません。
この件について友人と熱く討論をしていたところ出てきた説です。
劇場版などでかなりのSっ気の持ち主であることが衆目に晒された宗谷三姉妹の長女宗谷真霜さんですが、彼女が実は割とディープな腐女子であり、その蔵書をうっかりシロちゃんに見られてしまったと考えれば、色々なことの説明がつきます。
漫画版を見る限りでは、彼女の私生活はかなりだらしなく、シロちゃんはしばしば彼女の部屋に立ち入っています。そのような関係の姉妹ですから、うっかり秘蔵の薄いブックを目にすることもままあったのではないでしょうか。
そして真霜さんの蔵書によって植え付けられた一般の方があまりご存知ないような営みについての知識を持っていたからこそ、おそらくは真霜さんの同好の士であろう青木先生のミケシロナマモノ本に反応することができた、と考えれば辻褄が合います。
個人的には宗谷真霜さん腐女子説に一番説得力を感じるのですが、はてなの皆さんはいかがでしょうか。
他にも、「モカちゃんに上下関係を叩き込まれた説」「ココちゃんにブルーレイを見せられた説」「クロちゃんが夜這いしてる説」「ミーちゃんにダンケダンケされた説」「リンちゃんに下剋上された説」「タマちゃんに撃ち抜かれた説」「メイちゃんに魚雷発射された説」「サトちゃんにピロピロされた説」「まゆちゃんにどん底に堕とされた説」「まりこおじさんの薙刀が一閃説」「実はシロちゃんもマッチの女説」「みなみさんの保健体育実習説」「古庄薫は夜の教官説」「真雪母さんが4人目に向けて活動中説」「宗谷家に伝わる因習説」など様々な説がありますが、蓋然性が低いことからここでは採用しませんでした。
なお、増田はミケモカ前提のミケシロと宗谷真霜×古庄薫を応援しています。いやだってモカちゃんはどう見てもシロちゃんをナチュラルに見下してるしシロちゃんもシロちゃんでミケちゃんとモカちゃんがいちゃつくのを眺めながら「まあ正妻さんですから仕方ないですね」みたいな一歩引いた二号さんの表情をしてたじゃないですかそんなんだから正妻戦争で敗北するんですよわかってるんですかシロちゃん! リンちゃんにも岬さん呼びでマウント取られてるの理解してるんですかシロちゃん! 仕方ないからシロちゃんのことは大親友で心の友であるわた納沙幸子さんに面倒を見てもらうといいと思います。
個人の主観的要素が多くかつ「深く考えていない」とまで言われているので、他者がこれを維持するための活動を継続し続けるの、すごく困難なのでは…?
とりあえず、幸福領域を明確にしておいて、そこを重点的に強化するとかなんだろうか。
○生活満足度・・・収入、貯蓄、住居など即物的なものの評価(経済的豊かさ+住と暮らし環境の評価)
○幸福感・・・生活満足度に心理的、審美的な要素を加味したもの。きわめて表面的な個人感情の評価で、深く考えていない。領域的にも、家族の夫婦・親子関係や学歴の満足
度など個人的な要素の評価。(例.住居面積、所得、持ち家でもローンがあると幸福感は低下する)
http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis182/e_dis182_02.pdf
コンビニは便利だ。
しかも最近のコンビニは質が良い。ちょっとした街のスイーツをしのぐだけのクオリティを24時間365日提供し続けている。
コンビニで買える物は変化した。
結論から言えば、愛は買えない。愛の無い人が求めるのは従業員の接客サービスであり、温かみであり、真心である。家庭の味に似た消費者寄りのサービス。
お客様はそれを最も美しい物になぞらえて、愛と呼ぶ。
確かにコンビニで欲求は満たされるだろう。即物的に食欲を満たす事は可能だ。
承認欲求、人と関わりたいという高次欲求は食欲などの低次欲求が満たされて初めて、発生するとされる。であるからして食欲が満たされた人間が次に求める物、それが愛になったに過ぎない。
愛とは一年、二年かけても裏切られるものである。一方で、親からは延々と降り注がれる大地の恵みのような物である。
それと同様の物を低賃金のコンビニエンスストア従業員に求めるのは正しいのであろうか?方向性がまるで間違っている。
タチの悪いことは、最近のコンビニは質が良すぎるということだ。スピッツがこの世紀の発見をした1997年当時、コンビニは劣悪なものであった。その時に買えたのは安っぽい甘みでしかなかった。あくまで日々のインスタンスな欲望を満たすための甘味でしかなかった。
ひるがえって現在のコンビニスイーツはどうだろう。ちょっとした街のスイーツをしのぐだけのクオリティを24時間365日提供し続けている。コンビニスイーツと王様のブランチで人気のスイーツの違いはただの希少性でしかない。
つまり、つまりだ。コンビニで買える愛も変化してしまったのだ。ただひと時の欲望を満たすだけのインスタンスな愛ですら、その愛の質だけを見れば行列に並んで手に入れる高級な愛と大差ない。僕たちはコンビニで買える愛だけで一生を過ごしていける。何もかもが即物的な時代になってしまった。愛は失われたのだ。