はてなキーワード: 仲間意識とは
映画ジュラシックワールドは作品を通してラプトルとオーウェンの繋がりが描かれています。
ティラノサウルスとともにラプトルはジュラシックパークシリーズに継続して登場しています。
1作目,2作目ではラプトルは着実に迫ってくる恐怖であり,その機動性と数はティラノサウルス以上の恐怖です。
2作目ロストワールドのラプトルの茂みを駆け抜ける,次々に人間が減っていくシーンは印象的です。
3作目ではラプトルは恐ろしい存在ではありながら「賢い存在」として描かれます。
罠を使い人間を喰らおうとしたり,自分達の卵を盗んだ存在を執拗に追い続けます。
3Dプリンタで作られたラプトルの笛を用いラプトルとの交渉を成功させます!
(今作のオーウェンはラプトルの笛の存在を知らないのかな?と思うんですが,
ジュラシックパークが大嫌いなグラント博士は笛の存在を秘匿したのかもしれません。)
ここまで踏まえての今作のラプトル達です。
特にバイクに乗ったオーウェンとラプトルが夜の森を疾駆するシーンは,
Ⅱでラプトルに襲われまくったことを覚えていると頼もしいことこの上ないです。
字幕だとボスという訳があてられているのでちょっと分かりにくいですが,
ラプトル達は物語序盤から度々「ブルー」「チャーリー」「デルタ」「エコー」とB,C,D,Eの名前で呼ばれています。
「あれ?Aの名前のラプトルが出て来ないな」と思っていると弟グレイ君の質問からAは主人公オーウェンであることが明かされます。
この「ラプトル部隊の一員として人間が入っている」という感覚は本作最大のカッコいいポイントだと思います。
またオーウェンは「俺のラプトル」という言葉を使い愛着を持っていることが作品を通して感じられます。
これは字幕だと分かりにくかったです。吹き替えはどうだったんでしょうか。
この友情があってこそラプトルとオーウェンが最後に通じ合うシーンは説得力を持ちます。
本作の悪役の1人ホスキンス(太ったオッサン)。
ラプトルに殺されそうになり命乞いをして結局殺されてしまいますが
命乞いをして
↓
相手が油断した所を
↓
銃で不意打ちしようとして
↓
返り討ち。
このいかにも銃に頼りそうな悪役ホスキンスが銃を出さないことで,
ホスキンスは命乞いをし,ラプトルに手を伸ばすと食いつかれます
ラプトル達が人間同様の知性と情を持った存在であるということがはっきりわかります。
本作の見どころは色々ありますが,とにかくラプトル達はかわいいです。
あの恐怖の象徴ラプトルがこんなにかわいく頼もしく見える日が来るとは思いませんでした。
ブルー以外のラプトル達がやられてしまったのが残念でなりません......。
親がその内高い仏壇かって朝夕の勤行をするようになるのはまあ前提として。
まず、月一くらいでその地区の学会員(母親が入ったのなら恐らく婦人部のおばさん)が家庭訪問に来るようになる。
週一くらいで会合もあるし宗教っていう仲間意識もあって助けになる人間関係が出来るのは確か。
ただ、信者はピンからキリまで居てメンヘラで妄信的で目がイッちゃってる信者も居れば、
朝夕の勤行自体にそんな絶対的能力がある訳じゃなく規則正しく生活して朝晩に発声する。
人として正しい行いを抽象化した物が宗教だってきちんと話が出来る人間も居る。
一人暮らしの母親の人間関係のきっかけになればいいが、結局どうなるかは本人と周りの環境次第だと思う。
政治家でなくとも良い、
例えば、テレビを見ている内にそのような話題が取り上げられた際、
この芸能人はそれに賛成なのか、反対なのか。
相手の立場を知りたくなるという欲求がある。
気になって当然であると言える。
あながち結論の異同に依って、敵味方を判断する事は出来ないように思う。
極論、
という二つは判断過程は同等だが、結論だけ違うという一つの例だ。
しかしこの二つは、表層だけでぶつかり合い戦う事となる。
何とも悲しい結末だ。
結論だけ知ろうとする事は容易く、
知れば相手との関わり合いを容易にもつ事ができる。
少し踏み込むと、仲間意識を醸成できるし、あるいは、相手を糾弾する事ができる。
相手が賛成か、反対かの表層を知りたくなる気持ちは、
不快だった話をかく。
理系にいかにも女慣れしてないような。
自分がそういうめにあったらという恐怖的な意味でもそういうノリは好きじゃないし、
彼には同情し、少し仲間意識さえあった。
しかし、その仲間意識が彼に伝わったのか、なにやら雲行きが怪しく感じたのがこの間の飲み会。
・やたら接近してくる。
・飲み会場のはしご中、帰り道、どさくさにまぎれて二回も肩を抱かれる。
・電車での別れ際、ハイタッチのつもりなのか、こっちは何もアクションしてないのにつり革をつかむ私の手をポンっとワンタッチしてから去る。
喪女のくせにこんな言葉使っていいのかわからないけど、これってキモイだろ。
キモイって感じても許されるよね?
私的に連絡をとったこともなく、会社以外で全く話したことない間柄なんだよ?
私喪女だからわからないんだけど、世の中の男女ではこれって普通のやりとりなわけ?
決して酒で酔ってたからとかじゃないんだ。
明らかに確信犯的に一連の行動をとってる。
いや悪気がないのはわかるんだ。
いかにも女慣れしてない!って感じのアッパー系の空気読めないくんだしね!!
なんて考えてたら、だんだん「こんな奴に肩抱いていいと思われてる自分」への自己嫌悪がすごくなってきた。
リア充女子とか手も届かないような美人とかにだったら絶対やらないだろ?
私も喪女のくせに彼を見下す周囲の人間と変わらなかったわけかと反省しそうになりつつ
≒世界の不毛化された記憶が凝結する地下墓地=ミイラや<死者>の住処
≒社会的あるいは象徴的に交換されなかった大文字の他者の語らい
≒自己複製子の乗り物(?)
≒相互性の平面の下方に放逐された過剰な欲動の場≒バタイユのいう「呪われた部分」
≒自己幻想の世界=無条件の連帯の肯定も平等も存在しない共同体で自己愛を過剰に傷つけられ自己認識が悪くなった存在=承認の供給不足にある存在
≒権力者側の情報ネットワークからヨソモノとして外されている存在
≒仕返しを招くような親密な共同体の絆が欠けている存在
≒植民地化された地域の周縁化された存在=ほかで許されないことが許される別世界=誇大自己を持った者の自尊心の基盤
≒暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過される対象
≒パノプティコン的な匿名の不可視の視線の下で見世物化された監視付き生活を強制されている存在≒近代社会の合理的理性を自称する存在による抑圧的意志の対象
≒生政治的範例
≒排除された後も外での動きも捉えられる存在 ≒日常においては禁止され構造から排除されている部分=構造内で下層に抑圧された者
≒非差異、無差別、連続=差異の抹消=相互暴力状態=怒号と喧嘩の音
≒警察権力が市民生活の内に力を発揮する場=秩序創成暴力の対象
≒一般市民より下の階層の者として認識され、愚か者の範疇に入っており、隠している愚かな事物を暴いても重大視されていない
•理想自我=想像界=小文字の他者a=内在的な他者=生物的な世界
≒マスコミやカタログ文化でつくり出された美化・理想化された自己イメージ
≒貧しい文化や洗練されていない不自然な表現=モテない存在=影の薄い人
≒掟の門の前で衰退していく棄民=勝手に「悪」とされ共同体メンバーに愛されず衰退していく者
≒状況を自覚していない灰人と知らされている共同体メンバーとの境界線上にいる人
≒「象徴的他者」の位置より一段下の、原始的な対象の位置(想像的なもの、性的慰安の対象)に留めおこうとされた「想像的他者」。ラカンは「対象a」とよぶ。転移を拒否された患者が、分析家をおく場所も、この「対象a」としての場所である。この関係は、相手に社会的な幻想を抱いていた転移の局面と比べてはるかに不安定で、患者の攻撃性が分析家に向け、容易に発動しやすい状態
≒外部の情報が入ってこない<下>に見られた人のいる壁に囲まれた世界の外の世界を知ろうと巨人のいる世界を調査しようとする人
≒他者から尊重されたり対等な存在としてメッセージを交換する「人間」の壇上に上げないように弾圧される<生ける死者>といった世界
≒暴力誘発性、脆弱性を帯びた存在
≒「傷つけられる」という条件により発動した摸倣欲望
≒自己をそれとして措定してくれる言葉をもつ代弁者の探索にとらわれている状態
≒自己の統一を預けることのできるような相手を探してさまよう、鏡像としての他者の中への囚われの関係
≒動物のルアーへの反応をモデルにして語りうるような直接的な関係
≒理想化された鏡像として他者の表現の複製を取りこみ、融合しつづける動き
•自我理想=象徴界=大文字の他者A=超越的な他者=社会的な世界
≒文化の秩序、象徴秩序、言語的秩序としての構造=サンボリック
≒エディプス期につくられる=父、母、子どもの三者関係の中ではじめて成立する一つの小社会
≒掟によって自己中心的な万能感の感覚を否定し、その掟を守ることで成立する秩序と理念をもった世界
≒個々人の欲望や自己中心的な感情を一度克服してはじめて、確立されるような世界
≒自己中心的な個人的な自己愛を一度否定したところから成り立っている
≒万能感を捨てて入っていく世界=個人の実質、個人の存在全体の基盤
≒社会的絆であり、信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約
≒共同幻想の世界=個体保存の欲望と各人のナルシシズムを言語の内に吸収し共同化された世界≒豊かな影を持った存在
≒仲間意識で連帯した世界=倫理的関心を内輪に限定する世界=感情で動く世界=ビオスの世界
≒魅力を持った生に変わらなければならない場であり、魅力による上下関係や差別や排除がある世界
≒魅力の低い者が客観的な理屈として正しいと思って主張した事も認められない世界
≒魅力の高い者が客観的な理屈として間違っている事を主張しても容認される世界
≒目に見えない効力をもつ法としての場の空気や人間関係の網の目に支配された世界
≒掟の門の門番
≒セミオティックの位置にある存在が自我理想を持った対等な「人間」であると主張すると生意気に感じて苛立ち権力や言葉の暴力を振り回し「下」に置こうとする存在
≒「下」に見られた人の過失は吹き散らすが自分達の過失は隠してしまう存在
≒長い例外的状態にある<エス>や<対象a>など存在しないという主権者
≒「小文字の他者a」を対等な人間として文字に残る形式で相手にする必要がないと判断している存在
≒近代国家の一市民の世界=国家の保護の下にある者=権力者側のウチワの情報ネットワークの中にいる存在
≒ネットの掲示板やコミュニティを教育的な豊かな知識を与える場所として使う事が禁止されている世界
≒労働や勉強で生産的な成果を挙げ社会的に評価される事が美徳であるとされる世界
≒人が自分を社会化するために選ぶ標識=名誉の対象=美徳のもとになる秩序
≒人が憧れる、かくありたい存在=モテる存在=小文字の他者aに模倣される存在
≒第三者の審級=規範的な判断の究極的な帰属先=権威を感じ自発的に従おうと思う存在
≒言語的、父権的な中心ないしコード=象徴的父の表象であり、制度であり、掟
•超自我
≒誇大自己に執着した存在=他者を非人間的に判断したりする存在=モラルのない世界
≒法の影=狂った法であり法を無視する=「享楽せよ」という命令
≒集団の「エス」や「セミオティック」の位置にある存在を徹底マークして情報を「自我理想」の位置にある存在に流している存在
≒植民地主義の国家、民族差別を容認する国家、人権侵害を推奨する国家、死刑を支持する国家、同じ国民の中に棄民を作り出す国家
≒近代社会の合理的理性を自称する存在=非理性的な「エス」とした存在を抑圧的制裁の対象としていいとしてもいいとする存在
•対象a
≒羊抜け
≒現実の領域は対象aの除去の上になりたっているが、それにもかかわらず対象aが現実の領域を枠どっている
≒犠牲のメカニズムにより歪められた表現を犠牲者よりに修正した回顧的な文章を書く暴力行為を告発する探偵
≒秘密の宝=他者にとっての私に還元されない<私> ≒象徴秩序の外
≒寄る辺ない存在
27時間テレビなんかほっとけばいいのになぜ批判したがるのか。
いったい何様のつもりで批判してるのか。
批判することでフジテレビに対してなにか行動を起こさせたいのか。
同業他社なのか。
目に入るから斜め読みで見てしまうけど、どれもこれも気持ち悪い。
批判コンテンツは共感を得やすいしPVも稼ぎやすくアフィで生活している人にとっては美味しいコンテンツなんだろう。
ただそれ以上の目的意識はまったく見えない。
手っ取り早くPVを稼ぐために批判できるネタをさがしてるハイエナにしか見えない。
批評の後に「私はこういう番組を作っていて、あんなもんじゃない、ずっとすごく面白いです、だから見てください」っていう結末ならアリだと思う。
でもそんな人はまったくいなくて、横からふらっとやってきて批判記事をその人それぞれの手癖で書いて、俺すごいってやってるだけ。
批判記事で食ってる人って元ネタがないと生きてけないって気がついてる?
イジメのターゲットを見つけて面白おかしくいじめて、周りのシンパを増やし、イジメの対象者を作ることで仲間意識を作っちゃう。
なんかそんな感じ。
自分はもともと安倍政権を支持していたけれど、今回の法案可決には正直急ぎすぎ感じがしていてあまり好感を持てなかった。
とはいえ民主党などの野党は15日のプラカードで正直呆れたし(Twitterで#クソコラグランプリってハッシュタグが付けられてクソコラ画像祭りが起きてたのはさもありなんって思った)、相変わらず共産党は法案を「戦争法案」なんて的外れな呼び方をしていてダメだこりゃって思ったし。
…と長い前置きですが、これに関連して、最近の政治家以上にデモ活動に本当に呆れている。
理由は色々あるけど、いくつかちょっとここで吐き出させて欲しい。
まず1つは、よく言われている参加人数にまつわるところ。
国会議事堂前とか日比谷公園に法案反対のデモ隊が集まって、毎回毎回主催側は5万人とか10万人とかが集まったって発表して、
そして警察は6~7000人が集まったと発表して、Twitterで「水増ししすぎにもほどがあるわ」ってツッコミが来るやつ。
◯万人が集まったって言うことで「これだけの人数が反対してるんだぞ!」っていうアピールをしたいんだろうけど、
正直そんなアピールされたところで、こちらとしてはほんの一部の声のデカい人たちの集まりでしかないっていう認識は変わらないし騙されないよって思う。
なぜなら先日の週末(7/4か7/5だったかな)に、新宿駅東口のアルタ前のあたりで安保法案に反対する活動家らしき人たちがビラを配ってるのを見かけたとき、
道行く人は見事にその人達に近づかないように歩いてましたから。自分も若干遠回りしてそこを通るのを避けてました。
結局、デカい声を張り上げてもそんなものです。道行く大多数の人から興味を持たれていない。
2つ目は内輪で盛り上がってる人達のイタさ。
たぶんデモで同じ考えをしている仲間がいると盛り上がるし仲間意識も芽生えてさぞ楽しくなるんだと思うけど、Twitterでそういう人の発言を見るとまあ痛々しいというかなんというか…
安部総理に不満を持つのもわからんでもないけど、平気で人をバカ呼ばわりしたり、それは違うんじゃないの?ってことまで安倍政権のせいにしたり、「それはないわー」っていう発言が多すぎる。
そんな人には関わりたくないです。
3つ目。ここからは安保法案というより別のデモの話になるんだけど、デモ活動が風評被害やデマの温床になっている件。
福島の原発事故のとき、福島の農作物が危険だとか、子供の健康被害がどうとかっていう話が盛り上がったけど、反原発デモがデマの温床になっていたという事実がある。
このcakesの記事(https://cakes.mu/posts/9339)で、原発事故後の福島のことを研究してきた開沼博氏が発言しています(要会員登録)
以下抜粋。
上野 開沼さんは本書のなかで、福島のために何かしたいと言う人に対して、「買う、行く、働く」この三つをすすめてます。私は、ほかにもあると思うんですが。
~中略~
上野 福島のために、「自分の今いる持ち場でできること」。たとえば、脱原発のデモに行く、はどうですか?
開沼 なるほど。それはやりたい人がやればいい。ただ、デマ・差別の温床になってきた側面は確実にあり、強い嫌悪感を持っている当事者も多くいます。直接的に地元の人が喜ぶのは「買う、行く、働く」に集約するかな、と思いますね。
具体的に知りたい方は、開沼博氏の「俗流フクシマ論批判」(https://cakes.mu/series/3229)やその連載をまとめた書籍「はじめての福島学」、開沼氏と糸井重里氏との対談記事「福島を知ろうとすること。」(https://cakes.mu/series/3391)を読むことをおすすめします。
つまり、反原発デモの参加者が結果的に福島の風評被害を与え、福島県民や福島出身者のことを傷つけていたということです。
これは沖縄の反基地デモの話なのですが、先日発売されたニューズウィーク日本版6/30号(http://www.fujisan.co.jp/product/5766/b/1263891/)の記事を読んで知ったものです。
沖縄の反基地デモも色々と穏やかでない話を聞きますが、沖縄県民から反基地運動に対して次のような不満があるとのこと。
辺野古地区で青年会長を務めるT氏は「基地ではなく反対運動に迷惑している」と嘆く。朝からの連日の騒音だけでなく、道路での封鎖活動や路上駐車による渋滞など、地元にとって反基地活動は降って湧いたような災難でしかない。徳田はあるとき、仲間と話し合い。日常取り戻すためにゲートのフェンスに運動家が貼ったテープのごみを剥がす美化活動を行うことにした。「米軍の回し者」と罵られ、「体をぶつけられたりすることもある」というが、黙々と剥がす。地元住民からの反発は辺野古に限らず、普天間飛行場(基地)周辺でもたびたび耳にする。
反基地運動に対する沖縄県民の不満には主に2つの要素が含まれていることが多い。1つは徳田が述べるような具体的な生活被害に対するもの。もう1つは、こうした被害をもたらすものが県民の見るところの「よそ者」であるということだ。「日本人」「ヤマトナンチュー(大和人)」「ナイチャー(内地人)」…本土出身者を指す言葉が基地反対運動対しては嫌悪をもって語られる。「あれは寄留民の運動じゃ」と吐き捨てる人もいる。
沖縄県民でも基地をこれ以上作らないでほしいという声が多いのも承知してるけど、反基地運動にもまた不満があるのが事実だそうです。
なにより「体をぶつけられたりすることもある」っていうのは傷害罪になりうる行為だし、他にも米軍に罵声を浴びさせる活動家がいるなど色んな悪評を耳にした。
これが本土の人間がやっている、あるいは本土の人間が現地の人を煽ってやらせていることだとしたら、本土で暮らしてる身としては面汚し以外の何者でもない。読んでて怒りがこみ上げるレベルですよ。
とにかく言論の自由っていう大義名分を掲げて人に迷惑をかけている集団でしかないし、頭の中がバブル前から変わっていない政治家と同じで何も進歩していない。
デモ活動に対するイメージはそんな感じです。それを支持している芸能人やジャーナリストに対しても不信感が募るばかりです。某津田大介氏とかね。
結構いると思いますよ。安倍政権のやることすべては支持できないけど、デモ活動してる人たちの仲間なんて死んでもゴメンだって人は。
数年前に兄が自殺した。
いつも死ぬ死ぬ詐欺を家族にしていて、でもなんとなく自分には「あぁ死ぬのかな」って思ってた。
覚悟を決めたような顔でもなく、言葉でもなく、親からいつものようにこれからどうするのか、という問いに対し
兄の苦しみは当時の自分にはわからなかった。とにかく問題児で、両親の注意は兄に惹きつけられていて、私は兄の文句を毎日日々聞きながら、生きてきた。
親にこれ以上迷惑をかけないように、堅実に生きようとして真面目であるべきだと感じていた。
自分と違って、普通に学校へいくことも、働くことも、人と接することが満足にできない兄が鬱陶しかった。自分ができることをなぜできないのか。
人が出来て当たり前のことが何一つできない。そんな兄の愚痴をいつも車の助手席で、運転する父から聞きながら、だったらもう家から追い出しなよといったとき、「あいつは病気だから。病気だと考えて接しないと、やっていけない」といった父の言葉も、当時はわからなかった。
なんだ、病気って。自分だってどんなに辛くても学校へいったし仕事も自分で見つけたし、仕送りなんかうけずに独立したし、人付き合いが苦手でもそれなりにやってきた。
兄が死んで数年たって、ボロボロになった実家を訪ねて、なんとなく兄の部屋に入った。
兄はずっとひきこもっていたので、部屋がどうなっていたのかなんて知らなかったけれど、とても綺麗にしていたようだった。
大好きなギターやベース、電子ドラム。お金がないくせに誰にこんなもの買ってもらったのか、とおもったら親ではなく当時ヒモになっていた彼女からもらってたらしい。
兄は壊滅的に人付き合いはできないけれど、悪い人ではなくて、「どうにかしてやらなきゃ」と思わせるような人間だった。だからきっと私もそこまで辛くあたることはなかった。
死ぬ死ぬ詐欺を繰り返す兄だったけれど、この人はかまって欲しくて言うのではなくて、本当に消えそうだ、と思うから「そんなこといわないでよ」「お兄ちゃんがいなくなったら寂しい」と言った。本心からだった。兄は何も悪くない。私は途中から気づいてた。
でもある日、兄は消えた。いなくなってからすぐが衝撃的で、私は何もする気にならなくて、感情をごまかすためにわざわざ忙しくした。
最近になって、仕事が辛くなってきた。最初は楽しかったのに、仲良くなりすぎた為に、色々ギスギスしはじめた。
悪口ではないんだけれど、人の文句を大勢でチャットで盛り上がるような風習があって、誰かが祭り上げられてる度に、自分も言うべきなのか?と思ったけれど、思いっきり自分に返ってくるブーメランかな、と思ったからあまりそういったことに入り込むことはやめた。
きっとこうやって人に対する文句を言っている人は少なからず自分のことも言っているはずだ、と思うと胸がざわざわして切なかった。
誰かを貶めて悦びを得て仲間意識を繋げるのは、嫌だった。本当にそうだと思っていたしても、自分の心の中にとどめておくべきなんだ、もし吐き出したいと思っても、それは同じ繋がりのある人間ではなくて、家族にでも話しておけばよかったのかな、と思う。でも悪口って結局は共感を得て快感を得たいだけだから、どうしても身近な人間を巻き込んでいくのだろうな、と思った。
自分も何か言われているのだろうなぁとは薄々察しながら毎日を過ごし、ある日それが確定的になった。誰がそういったのか、という疑心暗鬼は拭えず、様々な選択肢を考えて抜け出したいと考えた。自業自得なところもあるから、これも罰なんだろうなぁと考えて抜け出すための手段をあれこれ考えるのだけれど、考えて浮かぶ度に、何もかもが嫌になってきた。
抱え込むほど辛い悩みではないと思う。
でも考えれば考えるほど辛くて、抜け出したくて、時間を巻き戻せるならあの日に戻したいと思う。
兄の部屋で日記を見つけた。
兄はお世辞にも字がうまくなかったから、まさにミミズが走るようなその文字で色々書いてあったけれど、こんな気持ちになってから兄の日記を見つけて読んで、ああ、と兄の自殺した意味がわかってきた。
死ぬほどの理由に値することは人にとってそれぞれ違って、溢れ出る限界を人によって違う。死ぬほどのことか、って思っていたけれど、彼が感じていた絶望は、今は私が感じている絶望に等しかったのかもしれない。
こんなに悩み苦しむのであれば、選択肢としての「死」は悩みや苦しみから解放される最良の選択肢にすら思えてきた。
お兄ちゃんの心は、死んでからラクになったのだろうか。
お兄ちゃんに聞けるのであれば、「ラクになりましたか?」と聞きたい。
死ぬことはよく考えるけれど、今に引きずられて中々考えることはなかった。それ以上に怖かった。何もない無の世界なんて、今ある世界に比べたら恐ろしいくらいの恐怖だと感じていたから。
でもお兄ちゃんが救いを求めていった「死」にこそ今は助けがあるのではないかと絶望の淵で考えてる。
残された人になって、お兄ちゃんに今会いたいって心から思う。
あなたはラクになったの?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20150125-00042523/
「同胞意識が無くなったのは嘆かわしい」っていう内容で最後には「涙が出るほど、情けない」と締めくくられてる。
細かい内容は実際に読んだほうがわかるはず。
こういう時代錯誤の考え方から脱することができない人達を見ると中国、韓国、北朝鮮が思い浮かぶ。
同胞というだけで責任感を無視した仲間意識を持つことは裏を返せば同胞でなければ仲間意識を持たないということになる。
人質となった2人の根っこの部分は第三者にわかるわけがないのにジャーナリストの必要性を訴えたり
的外れな記事やコメントを書き殴っている、所謂知識人と呼ばれる人達が多い。
同胞って何?この人達はテロリストが日本人なら同胞ということで支持するのか?
大人が責任を放棄するのなら法律なんて守られるわけがない。各々の裁量で行動するのが大人だろう。
危険な目に合うことは簡単に想像できただろう。人質に取られることは想像できただろう。
もっと言うなら、ただただ拷問を受けて殺されることだって想像できただろう。
それでも、わざわざチケットを買って危険地域に入っていった彼らの責任はどこにあるのか?
安易に「同胞だから助けなきゃ!」という発想は子供じみているということに何故気づかないのか?
仮に大金を払って彼らを助けたとしよう。
その金はどこから出るのか?その金は何に使われるのか?彼らは助けられたあと日本で大人しくするのか?
また危険地域に入り人質に取られたらどうするのか?同胞だと騒いでる人達は金を出すのか?行動するのか?
同胞論で騒いでる人達は「同胞」という狭い言葉で日本人だけ仲好ししてれば良い時代じゃないということに気づけ。
そして今回の騒動は平和な土地で暮らす日本人が危険な地域に足を踏み入れることの危険性を知り
同時に、そこには責任を背負って行かなければならないということを深く理解してほしい。
全国のトルシエ信者同志よ、今こそ声を上げるべきではないのか。オフト?あの当時のレベルをちゃんと教育できたってだけでしょ?岡ちゃん?二回とも想定外の代役でしょ?
いや別にトルシエもっぺん呼んで来いと言ってんじゃないの。あの時の真剣さ、ベンゲルに何度断られてもすがりついて、
そのベンゲルが推薦した人物を一に二もなく採用、どれだけマスコミにバッシングされても(一応)(ふらふらしながらも)守り通した、あの泥臭い精神を日本サッカー協会は思い出すべきなんじゃないのかってこと。
だってクライフとかにもオファーしてたんだよ昔は。バカだね。でも成り上がり新興中堅国がお利口さんでどうするの。我々は辺境の島国なんだよ。身の丈に合った手堅いチョイス、なんて上手く出来るほどの蓄積はないんだよ。
韓国みたいにせっかく神奇監督で金字塔打ち立てたのにまた自国人監督にこだわって、なけなしの自国英雄の名に泥を塗るのを繰り返してるよりはましだが、結果的にやってることはそう変わらない。(それにこっちには古英雄がそんなにいない)
2002年からこのかた日本サッカーの「地位」は一歩も進んでいない。そりゃ世界も進歩しているが、日本は遅れながらのたのた付いてきているだけだ。これが目指していた場所だったの?W杯自国開催(共催)できればもう終わった話なの?
中堅どころの監督なんて性格に問題なければたいていただの世渡り上手だ。メディアとは上手くやっていけても肝心の腕はそれなり。なら見どころのある問題児の方がいい。むしろ正確に難のある方が日本代表監督には向いている。
以前本田圭佑が「日本のストロングポイントはチームワーク」なんてことを言っていたが、もはやはっきりした。日本のウィークポイントはチームワーク。ザックやジーコのように「選手の自主性を尊重する」監督の下では日本代表は同じ症状に落ちいる。それは「エースの顔色を伺うサッカー」だ。ボールを持ったらまず本田を探す。「本田くんこれでいいかな?」というサッカー。ミスすれば「本田くんごめん!」というサッカー。今なら本田、昔は中田。
それを打開し秩序を打ち立てられるのがトルシエや岡ちゃんのような戦術主導の監督だ。エースと言えども戦術のためにはためらわず外す。(トルシエは中田を外すことまではできなかったが)
できればトルシエのように「俺が首領だ!」と主張するタイプがいい。そうすればサッカー選手に必要なお互いの対等意識が生まれる。
日本サッカー協会はトルシエで懲りたのかもしれないが、「日本の文化に理解のある外人」など選ぶべきではない。我々は厳しい勝負の世界で「和」を尊ぶことのできる民族ではない。気遣いと嫉妬と常識と僻みと気おくれと尊大と仲間意識と階級意識にがんじがらめになる民族である。
同い年のおっさんが、
読ませてもらった。
自分も去年、旨い物が作れるようになって
お察しのとおり生徒20名中で、
男性は俺1人だけ。ぐるっと見て気付いたのだが
若くてすごく綺麗な子もいるが
こういう場では、迂闊に綺麗な子に真っ先に
話しかけたり仲良くなろうとすると悪評が一瞬で沸く。
女の人は、俺らが思っている以上に男の下心に敏感だ。
「俺は女を作るために、ここに来たわけではない」
と念じ、自分に刷り込んだ。
まぁ半年以上のコースということもあったので、
とりあえず真っ先に隣の席のおばさんと仲良くなった。
おばさんと仲良く話すようになると、警戒心が減るのか
他の人も話してくれるようになった。最初の1~2ヶ月は
そうやって授業前に話せる人を徐々に増やしていった。
俺が通っていた講座は3か月目くらいから
コンセプト提案してプレゼンテーションするという。
素人には負けたりはしない。同じチームで、
若手に教えるように一緒に企画書づくりをすすめるようになり、
チームの仲間意識がぐっと芽生えた。
教えてくれた。
同じチームで可愛かった5つ年下の子をご飯に誘った。
すんなりOKだった。
一つづつ、彼女と一緒に食べ歩いた。4回目くらいの
遊びをやることになった。
食べるのと料理作るのが好きな奥さんが、
愛おしくてたまらない。後で聞いた話だけど、
凄く褒めてくれてたんだそうな。
(ちょっと追記)
帰りに見てみたら、コメントいっぱい
○作り話すぎるだろ!
まんま書くと完全に身バレするので
が、だいたいの展開はまんまです。
○プレゼンしないだろ!
実は一般のABCとかではなくて、
店舗企画とかそういう授業もありました。
(隣で最初に仲良くなったおばちゃんは
身バレすると、下心で通い始めたことが
ばれるので許してください。
自分の得意分野が発揮できたりすると
良いかもしれないですね。
おススメですよ)
○デートの時のご飯屋の選び方が教えて。
http://anond.hatelabo.jp/20140414232151
昔書いたこちらをご参考いただければと。
なんとなく吸い始めたってのがきっかけだけど、
もともとタバコをすっている、タバコに依存している自分がいやで、
一回もないかも。
むしろ吸い始めて、吸ってよかったと思うことばかりだ。
メリットは、吸ってるとき気持ちいい、幸せな気分になれる、マイノリティであることの仲間意識と
罪悪感と優越感、痩せる。
デメリットは、金が減ること。
一番大きいのはタバコをすっているとき幸せな気分になれること。
一日大体20本位吸うけど、そのうちの10本分くらいは気持ちいい幸せな喫煙。
一本大体5分くらいで吸い終わるから、一日50分は幸せな気分を味わえる。
一般的な煙草が今20本430円だから、215円で一日50分間の幸せを買ってることになる。
いろんな種類の幸せがあると思う。
おいしいものが食べたいとか、好きな人とおしゃべりしたいとか、
あの靴がほしいとか、あんな家に住みたいとか、
そういう幸せのコストを考えると、煙草の幸せのコストは相当安い部類だと思う。
で、幸せと依存というのは表裏一体の関係で、何か満たされない部分があって、
それを満たした瞬間に幸せを感じることはよくある話だと思う。
食べたかったあの店のあれを食べたとか、会いたかったあの人に会えたとか、
欲しかったあの靴を買ったとか、せまっくるしい家から理想の広い家に引っ越したとか、
趣味を持てよ若人よ。
常識的に考えてだ、出会い系や婚活で「お友達から始めませんか?」なんて悠長な奴はそういないだろうし、単に異性というだけで友達になろうとしてくる奴と友達やりたい奴なんていないだろう。
それも、イケメンならいざ知らず冴えない野郎が何阿呆なこと言ってるの?って話。
趣味を持ってて友達いないのは、自ら人を拒絶している場合か極端な方向性に走りすぎて誰も話についていけなくなった場合くらい。
趣味の世界では趣味を同じくするというだけで仲間意識が生まれるし、趣味の世界におけるカーストは、それに熱心であればあるほど、趣味への精通度合いに大きく影響されるようになる。
精通していなくても、初心者キャラで親切にしてもらえる。人は相手に教えたがる。
また、趣味での活動であれば会話もし易いし、比較的簡単に誘い出せる。
趣味をやるには時間がない、金がないという人が多くいるけど、そこは選ぶ趣味と工面で何とかなる。
たとえば写真を趣味にするなら出勤時や帰宅時の道が活動場所になりえる。金も(恐らく)一年のビール&おつまみ代を我慢すればお釣りが来るレベルだろう。
纏まった時間が取れるなら語学&旅行というのもいい。近くに運動場などあればスポーツでもいいだろうし、複数の趣味を持つのもいい。