はてなキーワード: 不干渉とは
自分の考えを発表することには慣れているが、このような匿名の場で発言することが少く、もしかすると思慮分別に掛けた失言があるかもしれないが、そこはどうかご寛恕いただきたい。
一サラリーマンでしかない自分が、差別だの階級だのという深刻な問題について色々熟思することになった発端は、近頃流行りの、フェミニストや助勢権利問題に関して盛んに議論しているような場面をネットでしょっちゅう見掛けたことである。ここで敢て話しておくが、私の身の回りではフェミニストがどうこう、男がどうこう、女がどうこうという大局的な視点の議論はあまり行われていない。一体どこのどういう層が、どういう考えからこうした議論をしているのだろうという好奇から眺めるうちに、自然と自分がこうした差別について考えるようになったのである。
極端な話、こういうものは不特定多数に向けて発信されるのだから、その不特定多数の中で刺激を受けた人間がまた不特定多数に情報を発信し、こういう聯関が幾度となく続いて奇妙な合戦が始まるというのが実情である。何百人もの眼に触れれば、一人くらい「お前が言えたことじゃない。俺はこういう差別を……」と言って反撃してくるものも居るだろうし、それを見て「問題をすり替えているだけだ!」と批判してくる者も一人は出てくる。一人の意見が数百人に伝えられて色々な思想を掘り出すのはネットならではの現象。現実を見たら、まるでそんな議論起きてないじゃないか!と思っても何もおかしくはない。しかし、こういう前提を受けた疑心の強い私は「口に出していないだけで、こういう考えや不満を持っている層は一定数いるのでは?」と勘繰って、更に色々のことを調べた。あくまでもフェミニズムや女性差別、セクハラ問題、Metoo運動などについてだが、本当に多様な議論があるものだと内心驚いた。少年漫画をジェンダー論の視点から語るもの、男性差別と女権拡張論を一緒くたにして語るもの、ポリコレ棒をひたすら恐れるあまりありとあらゆる人権を憎悪し、また差別されることに怒りを覚えた人間たちが、そういう特定層が属している集団全体の問題へと広げて争うこと………。
大概の議論には少なからずこうした不毛な要素が孕まれているが、ネットは憎悪の導火線に火をつけてあちこち爆発させるのに非常に適した性質を持っている。文字数制限があるSNSもまた、そういう性質を持っている。ほんの微妙な解釈の違いが、やがて不毛な言葉遊びに繋がり、いつの間にやら人種差別、性差別の話題に敷衍されている。そうした事例をいくつも見る度に一番疑問に思うのが、「何故これほどまでに単語が錯綜しているのだろうか」ということである。
情報過多のこのご時世は、少しでも少ない語数、少しでも簡潔な言い回しで知的に物を表すのが良いとされている。微妙に差異がある言葉を言い尽くして、詳細に伝えるなどは馬鹿のすることと切り捨てられる。そのために、一つないし二つの意味合いしか持たない言葉や、本来いくつかの分岐がある言葉が下位互換の概念を包括することで、とことん省略しようと試みている。こうした考えを持っているのはおそらく私だけではない。著名な人物で言えば、かの三島由紀夫もこうした問題に警鐘を唱えている。
民主主義という言葉は、いまや代議制議会制度そのものから共産主義革命までのすべてを包含している。平和とは時には革命のことであり、自由とは時には反動政治のことである。長崎カステーラの本舗がいくつもあるようなもので、これでは民衆の頭は混乱する。
自分で言うのもなんだが、私は古い人間だ。未だに家父長制度があり、男女間は厳密には不干渉であるべきで、それを易易と超えるような浅はかな行為は慎むべきだという考えを持ち、性犯罪で女性側がだらしのない格好をすれば「何故襲われるだろうと予測できないのか」と疑問に持つような人間だ。そうした考えは、先進的な思想家や活動家からとにかく攻撃され、時代遅れと呼ばれて封殺される。それでも、フェミニストの中には色々な考えがあり、ラディカル、リベラル、いずれの思想は言葉の上では微妙に、根本では大きく異なっている思想にもかかわらず、リベラルがラディカルに、ラディカルがリベラルに、なんとも不思議な混濁が起きる。こういう事を近頃は主語が大きいと言うと仄聞したが、単なる無知ではなく露骨な印象操作のためにこの事態が起きるのはあまりに不毛である。喫緊の問題は、こうした語義の混乱が争いを招く事態を避けることだが、それを実現するのはとても難しい。
ナヨナヨして女みたいな顔した男がイケてるメンズでイケメンだって主張して
それ以外のタイプの現実の男性は「デブマッチョw」「毛むくじゃらw」「キモブタw」とか言って馬鹿にしくさって迫害してるのは許されるのかよ
こっちはダイレクトに現実の男性を小ばかにしてるのに問題なくてスルーなのか
それよりジャンプに乗ってる巻頭カラーがマンコシコれない内容だった方が圧倒的に許せないのか
モテない男はできるだけ現実の女性に不干渉にしてBLで楽しもうがジャニーズ追っかけようがひたすら無視してスルーしてるのに
女の方は自分が特撮ヒーローのイケメンでシコってるのにジャンプの巻頭カラーにイチャモンつけてんのか
仮に特撮ヒーローの次の主人公がキモくて金のないオッサンなら手のひら返して観ないで抗議しまくる癖に
なんでこいつらはダブスタをやめようとしないのか
ポリコレって「俺が気に入らない表現や行動をするな!」って自由の侵害に当てはまらないの?
機会均等を自由というのは分かるけど自分の嫌いな表現が公開されてたらそれを抹殺するって自由とは逆じゃないの?
多種多様な人種がいるなら各々自分たちの好きなことして嫌なことには不干渉するっていうのが個人選択の最大自由じゃないの?
だってお互いがお互いを気に入らないからやめろって言いだしたら何もできなくなるんじゃないの?
それがウンザリだからトランプが大統領になってしまったんじゃないの?
集権的自由と分権的自由ならどう考えても分権的自由の方が個人選択の自由の幅は広がるでしょ
軍事とか国家レベルのことならそりゃ集権的自由の方が一番最大幸福に近い採決が取れるけど
最近は最強主人公が減り、オタクが感情移入しやすい主人公が増えてきてますね。
そんな現在のアニメの傾向に、僕はオタクに媚びすぎでは?と思ってます。
SAOや劣等生、ノゲノラに代表される、いわゆる俺tueeeストーリー。
(正直この言葉自体インターネットの気持ち悪い部分が出てるのであまり好きではない)
この手のストーリーでは視聴している最中、視聴者が主人公に感情移入し、気持ちよく視聴することが出来ます。
実際、僕も中学生の頃はこの手のアニメにドップリハマっていた時期もありました。
しかし、この感情移入が生み出した負の遺産があります。それは「中二病患者」です。
古代の文化「萌」を嗜むオタクであれば、俺tueeeではなく、ヒロインに目が行くので中二病にかかりにくかったはずです。
しかし、問題は、俺tueee時代からオタクになり始めた世代です。オタクになり始めた初期は特にストーリーに影響されやすいため、インパクトの強い「俺tueee」で人格が形成されていきます。これが「中二病」に繋がっていくのでしょう。
しかし、中二病というのは一時的な病気で、熱が冷めると突然今までの自分の行動が「黒歴史」に変わっていきます。この世代の感情の変化が現在のアニメの傾向につながっていると僕は考えています。
エロ漫画先生、俺ガイル、冴ヒロ2期、これらのアニメは現在のアニメの傾向を良く表していると思います。
中二病を卒業すると流石に「俺tueee」が「痛く」思えてくるので、アニメの好みも変わってきます。
そこで制作側は次のジャンルに切り替えてきます。それは「主人公がオタク」という新たなジャンルです。
表面的なアニメとしてのジャンルは変わりませんが、主人公のキャラクターが大きく変わっています。
中二病患者はSNSで群れを作り、様々なオタクとコミュニケーションを取っているため、オタクの特徴を熟知しています。
その中二病時代の感覚をくすぐり、感情移入しやすい「オタクキャラ」は一定層のオタクに好評でした。
また、この頃からオタクの定型句のようなものが固まってきたためそれをアニメ側が使う様に成りました。
これが気持ち悪い
オタクとアニメの間には明確な壁があり、両者が客観的な視点で互いを見るべきだと僕は思っています。
オタクがアニメに近づこうとしたり(中二病)、アニメがオタクに近づくと(主人公オタク化)現実の世界観やアニメの世界観に大きな影響を与えてしまいます。
そのため、純粋なストーリーとしてアニメを見ることが出来なくなってしまうと僕は感じています。
互いに不干渉であった「萌」はその点今よりも良かったのでは無いでしょうか?
アニメの制作方針として、視聴者を掴むための「主人公オタク化」はとても上手い方法だと思います。
しかし、それで世界観を曖昧にして、作画で誤魔化すのでは本末転倒ではないでしょうか。
実家を離れたからこそ、家族の問題が見えてくる。父がモラハラ気味に母を縛ろうとしているように感じる。自分になにかできないだろうか。
正月で一年ぶりに帰省した。不満は多いけれど、両親のおかげで自分は人並みに幸せな学生時代を過ごさせてもらったと思っている。就職して5年近く経ったが、この短いやすみで実家に帰ったときだけは、自分が子供時代に帰ったような安心感を感じる。それと同時に人は誰もが必ず年老いていくということをふと思い出すと、この家族もいずれバラバラになって自分が一人になるのだろうという不安感も感じる。
母は比較的自由人である。しかし、子供だった自分を精一杯育ててくれた。(変な味付けの)ご飯をつくり、(埃が積もってきた頃に)掃除をし、洗濯をしてくれた。そして母自身が些細な趣味を持ち楽しんでいるように見えた。月に1−2度趣味の集まりに出かけ、飲み会に行った。そんな日は帰りが日付を回ることもあったが、夕飯を用意していってくれた。子供が一人で食べる夕食はちょっぴり大人になったようで、自由に食べたいだけ食べられるという点で楽しくもあった。なによりも一軒家の中でたった一人という開放感が新鮮で嬉しかった。
父は平凡な会社員だったが幸運にもほとんど残業をしないで済む生活をしていた(これがどれほど幸運なものか、自分が就職をして初めて知ることになる)。 父自身もちょっとした趣味を持っていて、今考えると結構な額を趣味に突っ込んでいたが、それで家計が苦しいということは(少なくとも私は)感じなかった。だから、父も自由人だと言いたいところだが自分にはどうしても理解できない点がある。
母が趣味のために出かけて飲み会から帰ってくると、父はいつも母を責めた。その理由は、「普通のカミさんはそんなに飲んだりしない!」というものだった。母はその責めに対して、父だって飲み会に行っているじゃないかと子供の喧嘩のように応戦していた。自分が小さな子供だったころ、このような喧嘩が度々起きると母は泣き出し、父は怒鳴り散らし、自分にとってこの世が終わってしまうというような恐怖を感じていた。この対立は今にも続いているが、ボルテージはだいぶ下がり、私も成長して夫婦喧嘩を冷静に見ることができるようになった。
自分には、父の主張が全く共感も理解もできない。母が飲み会に出かけていたのは月にたった一回か二回程度である。それ以外の日は家に居て専業主婦の役割を全うしていた。だから、母は家族の誰にも迷惑を掛けていない。月に数度の母不在の日で仕事帰りにご飯が食べたいなら、母の作りおきの夕食を食べたらいい。家の掃除はキチンとされているし、風呂に入りたければボタン一つで温めることだってできる。毎日洗濯しているので、明日着る服に困ったことはない。そんな十分すぎる環境があって、何が不満なのだ。どうして、月に一二度の母の楽しみを糾弾するのだ。母は映画の中の貞淑な妻のように、「旦那様お帰りなさいませ」と三指ついて出迎えるべきとでも思っているのだろうか。自分には、父が母を『家庭に縛り付けたいというおぞましい欲望』を持っているように感じる。
私は、少なくとも家族に(金銭的、家庭内業務の分担で)迷惑を掛けずに楽しむ母を誰も糾弾することができないと思っている。父が母を家庭に縛り付けようとする試みに、自分はできる限りで反論しようとしてきた。父に対し私は、「母は家庭の仕事を全うして、その上で自分の楽しみをやっているんだから、誰にも迷惑かけてないよね? そっとしておいてあげようよ」と説得を試みたが、「カミさんがこんなに出かけているのはおかしい! 普通の家のカミさんはこんなに飲んだりしない!!!」の一点張りで、まったく議論にならなかった。最近は、飲み会へ行った翌日(休日)で疲れた母を父が朝早く理由もなく起こすという嫌がらが始まっている。
結局自分は、今のところ自分の信じる(家族の)自由を履行できずに居る。いつか父と母が分かり合えるのだろうか。そのような夢物語が実現しなくとも、なんらかの現実的な妥協点を見出してある程度の不干渉を引き出せないだろうか。
こんな面倒くさい家族だから、自分は実家へ帰るのを渋っているんだぞ!
勘弁してくれ!!!
(追記)
ああ、みんな反応をしてくれたんだね。嬉しいです。
ちなみに、父は酒は付き合いで飲む程度でほとんど飲まない。
・飢えずに飯が食える
やはり飢えによる死は恐ろしく辛いので食える方がいいだろう。
寒さで寝れないのは辛いことだ。暖かく雨風のしのげるところで眠れるのはより人間らしい生き方だろう。
・自由恋愛ができる
産まれや差別や偏見で自由に恋愛できないのは不幸だろう。特にLGBTの問題で影響を受けて恋愛できないのは辛いだろう
まず3大欲求に触れるところから見てみたが、これをクリアできてれば先進国以外では幸福に当てはまるのではないだろうか?
・子どもが作れる
子どもを育てることのハードルが高すぎない。2人くらいを大学までは奨学金を使わずに行かせられる。
イベント等でたまに贅沢な食事をして思い出を作ることができる。ホームパーティなど。
趣味を持つことができて、なおかつ他者に侵害されずに自由に楽しむことができる。
・向いている仕事orしていて楽しい仕事or楽しくなくても給与が保障されている
仕事で暗いネガティブ感情が産まれないようポジで選択しやすいか、もしくは生活の保障がされている
病気全般に対して最先端の医療が受けられる、また難病の治療に国が積極的
自由だが政治に影響させない、また他宗教に干渉しない、基本的にお互い不干渉を約束する
一気にハードル上がった気がする。
子どもや外食、趣味、医療など個人で使えるお金で増減するところだ。
仕事や宗教に関しては個人のスペックと関わってくるし、やはりこれもお金が関わってくる。
先進国でこれを常日頃感じていたらちょっと危ない人間にしか思えないし大多数にこれは不可能だろう。
結婚も子どもも金が前提になった社会でこれは無償でもなんでもない。
答え出ちゃったよ。
奴隷制に関してはマジョリティとマイノリティの立場が逆転したからという話で済む。
今奴隷制を導入しようとする国家があったら間違いなく国際問題&経済制裁でデメリットしかない。
そこに至るまで順を追ってマイノリティでなくマジョリティへと支持率が増えていった結果の変化であって
南北戦争でいえば、ちょうど南と北とで奴隷がある・ないで利益が2分したから引き起こされた戦争と対立だし、
だから奴隷制撤廃に関しては心理的な多数派・少数派ではなくて、お金の多数派・少数派の対立で多数派が勝った話になる。
なのでここでは正しく、マジョリティ側の最大公約数の幸福が通ったと考えて不自然ないと思うよ。
心理的でいうなら結局奴隷というカテゴライズが消失した今でもアメリカ合衆国では有色人に対する差別が根強く残る地域もある。
これは未だに問題解決できてないので心理的な要因も後押しして奴隷が解放されたと言い切れないところがある。
うーん、何がいいたいのか分からなくなってきた。
なんだったか。
まあ、お金を基準に考えれば、大体お金が大きく生まれる方向に向かえば人間は幸せになりやすい。
だから社会全体の幸福を考えたとき資本主義社会においては経済効果をまず第一に考えなければいけない。
満足とは「快」の感情に集約する。
人格により「快」ではなく「不快」に感じる商品があっても、マクロ視点で「快」>「不快」なら確実に社会を幸福に導いている。
そして、商品は一つではなく八百万に存在するので、別の商品では同じ人の中では逆転している場合もある。
世の中のコンテンツを全て「快」>「不快」の評価に落とし込むことができれば、個人レベルで何かしらの恩恵を受けることは約束されている。
それが社会全体の幸福であり、個人の幸福にもイコールで繋がってくる。
しかし、ノイジーマイノリティはこれではなく「不快」にしか注目しないため、
それはノイジーマイノリティ同士でも不快認定の選別が違うからだ。
結局、全て根絶やしになる以外にはこの流れが止まることはない。
心理的に止めることはできないわけではない、
お互い不干渉であるべきだというまともな大人の対応を知ればいいだけだし、
ネットでノイジーマイノリティの主張がこれからも大きくなるだろうけど、
マネタイズの観点・マクロからの視点で正論を根気よくぶつけ続けていけば
ノイジー市民が馬鹿でも国は理解しているので簡単に規制強化されない理由は歴史を勉強して
つまるところ市民の安全と健康も経済の障害となり得るから極力排除したいのであって
個人の鈴木さんや佐藤さんが死のうが生きようが当たり前だがどうでもいい。
異文化や異なる常識同士の衝突というのは同じ国同じ民族同じ年代同性であっても発生しうる。
さらにいえば脳構造がお互いまるで違うので同じ体験でも違う捉え方をする可能性がある。
理解し合うことが不可能なことも存在するという前提が確かにある。
そういった場面に直面した場合、
お互いが引くことがなければお互いは相手の人間性と常識を否定する行動しか選べなくなる。
「お、なんやテメ」
「んだ、コラ。おっ」
すれ違うヤンキー
お互い干渉せずににらみ合いながら遠ざかる。
ぶつかる必要はない。
ただ単にすれ違うだけでいいのだ。
お互い干渉しようとしなければいいのだ。
接触しないように住み分けすればいいのだ。
ただ、それだけで平和は守られるのだ。
という軽いノリを持ち出したいくらいには今とても焦っている
誰か、一回くらいしてみようよ!いいよ、いやになったら離婚しても。
精神的フォローも、お互いの趣味への不干渉も、毎日のご飯もわりと出来ると思うよ。
お風呂洗ってくれるなら私は部屋の床を磨くように、お互いにゆるく気を使いあおう。
結婚してから価値観のずれを少しずつ認め合えればいいじゃない。
と思っている
今年30になる
この年齢で結婚したいのに出来ないなんで?って思う人は
あれはだめこれもだめと価値観を凝り固まらせ始めているんじゃないか。
若くして結婚した先輩たちの「思い切りの良さ」、「覚悟」が足りなかったあの頃の私よ。
今もう一度やり直そうと思う。
別に子どももいないが、もし子どもが自分の嫌いなものを好きになったらどういう態度をとろうか迷う。
ここで嫌いなものとは、食べ物とかそういう社会生活に必要不可欠なことではなくて、娯楽とか思想とかそういう場合。
もちろん一番良いとされるパターンは、子どもの好きなものは出来るだけ肯定して親がなるべく不干渉になることか共感してあげることだろう。
でも、自分の親を思い出すと俺が好きだと言ったものに対して、わりと普通に親は好き嫌いを表明していた気がする。
俺が「××が良い」と言うと、「えー、××のどこが良いの?」という風に難色を示していた。
ではそういうことをされて俺が親のことをどう思っていたかというと、別にイヤじゃなかったし、
どちらかというと親が親自身のパーソナリティな部分を持っているように感じられて、ある意味そういう部分を尊敬していた気がする。
そういう親の親個人としての感性を子どもとすり合わせずに独立させることで、また別のつきあい方が生まれるだろう。
処女歴26年の自他共に認める非モテだけど、不妊治療やってる友達と会ったときに「問題なく子供が産める年齢と身体なのにどうして結婚しないの?勿体無い」って怒られた。お前私に彼氏いたことないの知ってるだろ。それ以前の問題なのわかってんだろ。
咄嗟に「結婚出来て経済力もあるのにさらに子供まで欲しいなんて欲が深すぎる」って言いそうになったけど、どこをどう足掻いても社会的に正しいのは向こうだから黙るしかなかった。
不妊治療続けてる人が「私結婚できない」「子供も諦めた」って自虐する奴に苛つく気持ちはわからんでもない。でも非モテは非モテなりの苦労があるんだ。親の圧力と同僚の生温い視線と上司のパワハラに耐えてるんだ。
小学生の頃から親のPCでネット漬け。ネット漬けといっても小中学生が回る範囲なんて限られていて「インターネット=おもしろフラッシュ」程度の認識しかなかった。
ネットを使えるやつはみんなフラッシュを見ていたし、学校でも友達の家で遊んでいてもどのフラッシュが面白いだとかそんな話ばかりしていた。
だから、いつもみている「おもしろフラッシュ」から「エロフラ」にたどり着くのは自然なことだった。
「おもしろフラッシュ」を見るために親の設定したフィルタリングを平然と破るようなクソガキなのに「エロフラ」を見るのはすごくイケナイことのような気がして、胸の鼓動がざわついた。
その体験は、資源ごみに出されたエロ本をこっそり覗き見る感覚と似ている。リビングにあるPCでフラッシュを見ながら馬鹿笑いしつつ、親が部屋から消えた隙に高速で「エロフラ」へのリンクをたどる。広告ばかりでたらいまわしのリンク群に苛立ち、悪質な釣りやブラクラもかいくぐり、辿り着いた目的のページは画面上からゆっくりとページが描画されていき、ページが読み終われば今度はフラッシュのロードが始まる。常に背後のリビングをちらちらと確認しながら目線と片手はせわしなく動く。ようやく始まった「エロフラ」は甘美としか形容できない代物で、翌日学校に行っても四六時中「エロフラ」が頭のなかを駆け巡る。家に帰るとすぐPCを立ち上げ、ブラウザが立ち上がるのを待ちながらエロフラまでの道筋を頭のなかで巡らせる。まさかお気に入りに追加するわけにはいかない。その頃にはお気に入りは既に自分の登録したネタサイトばかりで、親の見ているサイトは端っこにちょこんとあるばかりで、それも使用されているのか疑問なぐらいであったが、少しでも自分が“ああいうサイト”にアクセスしたという痕跡を残すわけにはいかない。履歴の消し方もちゃんと調べていた。こんなひどく回りくどいことなんてせずとも当時からインターネットの世界には無数のエロにあふれており、そういった世界に精通したクラスの識者からは「一本道」がすごいという情報がもたらされ、男子のひそひそ話の中では呪文のように「一本道」の言葉が繰り返されたが、そういったサイトに直接アクセスする勇気はなかった。ゴミ捨て場のエロ本をひっそり持ち去る勇気はあっても、本屋のエロ本コーナーに堂々と入り浸る精神は持ち合わせていなかったのだ。
そうしてあの頃の自分は、何度も何度も同じ「エロフラ」を見てオナニーばかりしていた。
高校に入ると、周りのやつらはみんな携帯やPCを持っているのが当たり前で、自分も念願かなってノートPC(家族と共用という条件付きだったが、実質自分専用のようなものだ)を買ってもらっていた。
そうなると、どんなエロサイトを見ているかなんて話題も事欠かなくて、クラスで人気があったのは「X-video」だった。まるでそれがエロサイトの代名詞のようにも扱われ、「x-Hamster」とどっちがエロいかなんていうくだらない話題で盛り上がった。そういったバカ話の中でよく起こったのが三次元と二次元の対立で、おかずは絶対三次元派と二次元に限る派が両者相容れぬ論争を巻き起こした。しかしこれはいくら話し合っても不毛なことだと互いに理解してか、相互不干渉という態度で解決した。しかし時折、三次元派に“絶対おすすめ!”としてエロ漫画を送りつけたり、二次元派に不要な雑誌付録のDVDを押し付けたりとささいな嫌がらせが続いた。そんな三次二次戦争での自分はもちろん二次元派に分類されたが、別に三次元が駄目なわけではなく、あとで三次元派が話していたマル秘動画をひっそり検索したり、同じく三次二次の垣根を持たない派を見つけて情報をシェアするなど賢く立ちまわった。一方で、三次元派勢力の有力者が二次元にクツワ替えするなどの騒ぎもあり勢力図は混迷を極めたが、それは別の話だ。
中学時代に毎日危険なインターネットの波をくぐり抜けてオナニーライフを送っていた自分が、クラスメイトの話に漏れ聞いたエロ動画を探すくらいじゃ満足するはずもなく、自分がインターネットに求めるエロは次の段階に至っていた。
「おもしろフラッシュ」を卒業した自分が次に辿り着いたのは「2ch」であった。「おもしろフラッシュ」同様、多数のネタが供給される一方で「2ch」はインターネットのエロの秘境でもあった。
おっぱいうpスレは言うに及ばず、自撮り系の新鮮なエロ画像が毎日生産されるそこはまさしく「天国」とでも言うべき場所で、親が定めたPCの使用時間ギリギリまでうpを粘り、PCを見れない間に流れてしまった画像には涙をのんだ。再うpを行ってくれた者に対しては惜しみない賞賛を送り、また自分も画像を取り逃がした者にたいして手を差し伸べるのを惜しまなかった。うpされる画像にかけられているパスワードにはいくつかのパターンがあって、それを知らなければ画像は拝めない。学業よりも真剣にパスを学んだ。自撮り系の三次以外にも24時間いつでもどこかでエロ画像スレは建っていたし。「欲しいエロ漫画の1ページをアップすると、全ページうpしてくれる神」なんてものも存在した。おおらかな時代だったのだ。自分もアンダーグラウンドな世界に誘われ、よりスリルのあるエロを求めてWinnyに手を出しかけるも複雑さに断念した。同時期にtorrentの使い方が広まり、「エロゲを丸々一本あげる神」も多数出現したが、スペックもHD容量も低いノートPCでは体験版の時点で動かないソフトも多く、エロゲをやるには至らなかった。しかしわざわざゲーム本体をやらずともエロい公式サイトはいくつもあり、サンプルCGを使って何度もオナニーをした。それらのCGもかかざすダウンロードし、ノートPCのHDはエロ画像で埋め尽くされていった。
ダウンロード違法化が施行されると「2ch」からは一気にエロコンテンツの姿が消えた。よりアングラな一部の専門板では引き続きエロ画像の供給が行われ続けたが、いつも利用していた雑談系の板からエロが消え、エロを求めいた者は自然と場を移さなければならなくなった。
自分が次に行き着いたのは「RPGツクールエロゲ」だった。その界隈ははっきり言って無法地帯のような有様で、大体のゲームはあたりまえのように無修正なものが公開されていた。またしても自分は天国を見つけてしまった。製作者の大半が素人な「RPGツクール」は当たり外れも大きいが、当たりなソフトは一般的なゲームソフト以上の作りこみがなされていて、ゲームとしても非常にやりこみがいが高い。シチュエーションはマニアックなものが多く、普通の人ならば受け付けないような描写もあったがそれが逆に興奮を誘った。
それと同時期に、違法なコンテンツの扱いが厳しくなった「2ch」では、オナニーの方法に焦点が当てられていた。「オナクール」に騙され冷えた下半身を暖めながらブラウジングしていた最中見つけたそれは自分に衝撃を与えた。音声による誘導のみで人を絶頂に導くそれは「催眠オナニー」というもので、自分はこれに生活リズムが崩れるくらいにのめり込んでいった。「思い込みが激しい性格」で「想像力も高い」というのもあってか「催眠オナニー」は自分にとって相性抜群で、様々な音声に魅了されていった。しかしハードな音声は体力を消耗させたり、術後のメンタルに影響するものもあり、仕方なく自粛した。それくらい「催眠オナニー」は強力だった。
「催眠オナニー」から遠ざかった自分が次に行き着いたのは「pixivランキング」サイトだった。「pixiv」も毎日のようにエロ画像が生産される、素晴らしいサイトだったが、自分には何か刺激が足りなかった。アングラな世界に浸かりすぎた自分には「pixiv」程度の健全なサイトでは刺激が足りなかったのだ。何を言っているのかわからないかもしれない。しかし今、コンビニでエロ雑誌を普通に買える年齢になっても、昔拾った捨てられていたあのエロ漫画がどうしても忘れられないのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20150222201638
昨日TwitterのTLを賑わせた上記の日記とその反応には、多くの艦これファンならびに東方ファンが深く心を痛めたことだろう。
怒濤のように押し寄せるTLを眺めていた私もその一人だ。
艦これと東方、本来ならば衝突するはずもないジャンルであり、共存の道を歩むこともできたはずだ。
それが何故このようにファン同士が互にいがみ合う事態になってしまったのだろうか。
一ファンとして、僭越ながら思うことを述べたい。
艦これと東方の対立は今やインターネット上ではありふれたものとなってしまったが、例えば東方とアイマス、ボカロとラブライブといったような争いは寡聞にして知らない。
その理由はいくつか考えられるが、まずそもそもとしてこの二者の対立はどこから始まったのだろうか。
現状からはとても信じられないかもしれないが、艦これが登場してすぐのごく初期の段階では艦これと東方は共存を実現していたのである。
それは仲良く手を取り合ってというわけではなく、相互不干渉に近いようなごく緩い共存関係ではあったが、それでも互いの存在を認め合って争うことなくそれぞれの平和を享受していた。
その関係を一気に崩壊させたのは、たった一つの匿名記事なのである。
http://anond.hatelabo.jp/20130923222204
「東方ファンは東方から艦これに乗り換えたサークルをリスト化している」
少し立ち止まって考えれば首を傾げるようなデマ記事を、心無いTwitter利用者たちが拡散させてしまった。
更にはそのようなリストを作成してサークルを取り締まる東方警察という組織がでっちあげられ、面白がった艦これファンが火のような勢いでTwitter中にばら撒いてしまったのだ。
もちろん、このようなバカげた行為をたしなめる東方ファンや良識ある一部の艦これファンもいたが、流星の如くTLを駆け巡るRTの前にはなすすべもなかった。
こうしてたった一つの悪意ある記事によって両者の束の間の共存は瞬く間に崩れ去ってしまったのである。
なるほど東方ファンは過去の行いから、時として一般に粗野で無教養で無分別で偏執的であるとさえ言われる。
しかしながらそれを理由に濡れ衣を押し付けるのは良識ある文明人のすることではなく、許される行為ではない。
もちろんこの件に無関係だった現在の艦これファンが、個々に謝罪や反省の念を持たなければならないなどというのは全くの筋違いだ。
だが、過去にどのようなことがあって現在の状態があるかということを正確に知っておかねば、いらぬ憎悪が増え続けるだけなのもまた事実なのである。
艦これと東方の対立で最もよく用いられるフレーズが「東方はオワコン、時代は艦これ」だ。
しかしそもそもこの前提は本当に正しいのだろうか。
東方は現在もいわゆる"オワコン"と言われる状態なのだろうか。
現在東方で最も人気の高い作品は、外伝にあたる「秘封倶楽部」シリーズだ。
主人公のマエリベリ・ハーン(東方の舞台である異世界「幻想郷」を統べる妖怪「八雲紫」の現実世界でのペルソナ)がもう一人の主人公宇佐見連呼を引き連れて現実世界を暴れ回るゲームだ。
綾瀬なずな氏の集計によると、直近の東方専門同人誌即売会でも秘宝倶楽部の占める割合は前同で約23%増加している。
水雷戦隊クロニクルで艦これファンにはお馴染みのコンプエースで掲載されている東方鈴奈庵、コミックREXの東方三月精はともに人気が高く、特に鈴奈庵は物理書籍の出荷数が20万を超えるヒットとなった。
しかし反撃もここまで。
永夜抄以降の本編ゲームは鳴かず飛ばずで息の根が止まってしまっているのは言うまでもないが、コンプエースでの鈴奈庵の掲載順序も常に水雷戦隊クロニクルよりも後ろで、人気の点で常に艦これ公式漫画に後れを取っていることが浮き彫りとなっている。
そもそも艦これの公式書籍はより取り見取りの状態で、漫画だけでもゆうに10作品を越え、更には小説まで発刊されているのである。
特に、艦娘たちが史実を乗り越えようと試行錯誤するいつか静かな海で、様々な作家の艦これ漫画を集めて艦娘たちのいろいろな姿を楽しめるアンソロジー集は評価が高く、書店でも品薄状態が続いている。
艦これ公式書籍の発行数を全て合算するとゆうにミリオンを越え、東方書籍など足元にも及ばない。
尚参考までに例示するが、モバマスは碌な公式書籍がないため論外である。
ラブライブも同様だ。
また先ほど挙げた同人誌即売会も、秘封シリーズがやや堅調なだけであって他は壊滅、瓦解、総崩れという言葉の似あう惨々たる有様だ。
他の東方即売会も艦これ即売会を併催するパターンが増え、特に規模の大きかった名華祭、大⑨州東方祭が艦これの支えなしには開催できない状況なのはまさに没落と呼ぶにふさわしい。
さらに近年はコミティアやふたば学園祭のように東方作品を拒絶する即売会も増えつつある。(艦これは禁止されていない。またふたば学園祭は主催主導で艦これ合同企画を計画中なので興味のある方は覗いてみるといいだろう。)
以上をまとめた上で率直に結論を申せば、やはり東方は"オワコン"だったのだ。
艦これと東方、この相反するジャンルの対立を解消する弁証法的な解決方法は存在するのだろうか。
唯一の解は東方ファンが東方がすでに衰退しきっているのを認めることである。
何もサンドバッグになれと言っているのではない。
東方厨が自らの誤りを認め、事実をありのままに受け入れれば、自然と対立は解消するのだ。
確かにかつて、艦これファンは東方警察という(その当時は)事実無根のデマを躍起になって流布してしまった。
しかしそれは、東方衰退という事実に対して何のアポロギアにもならないのである。
今衰退を認めようがあとで認めようが同じことだ。