はてなキーワード: 不干渉とは
俺が駄目だったのは全て俺の行動が悪かったのが原因でそこから立ち直る見込みが出てきたのは俺の頑張りと支えてくれた家族のおかげであって、間違っても目掛けが足りなかったからでも目をかけてもらったために神様から特別に運気が向いてきたからじゃねえんだよ何無関係のくせに現実の行動をすっ飛ばして上から目線で関わってくるんだよ死ね
万歩譲って俺を支えてくれた家族のさらに精神的支柱になって間接的に世話になったことは認めるよ。それが原因で家庭崩壊寸前まで行っても翻さない程強固に入り込んでくれたもんな
だから内心には不干渉だって距離置いて触れないことで忘れてんだからそっちからも関わってくんじゃねえよ押しつけんのやめろよ
アンタの科学的根拠のないふわっふわした上から目線の説法聞かされるの心底苛立たしいんだよ殺したくなるのを我慢してんだよ、俺には根源から合わねえんだよ不干渉以上に俺を救う方法はないとわかれよ
これだから家に戻りたくなかったんだこんな立場の弱い身分で家に戻るなんて死ぬほど嫌だったんだ
それでも家に戻るしか選択できない程人生を失敗した俺が死ぬほど腹立たしい
結局全部ごく普通の高望みなく出来て当然の筋道も満たせなかった俺の能力不足が悪いんだからむしろ恵まれてすらいた環境を生かせなかった自己責任なんだから俺を責めるのが正しくて俺に何も言う資格なんかなくて俺の失敗に何ら関わりのない奴を責めるのはクソみたいな八つ当たりなんだけどせめて人生が二桁になる前から不愉快な目に味あわされ続けてきた来たことが許せなくてやっぱり死んでほしいと願わずにはいられない愚痴
そしたら主人が時を同じくしてモラトリアム病にかかっちゃいまして。
お前らはよくご存じでしょうが、ニートがフルタイムの生活を始めたら、最初は体力をつけるのも、精神的な葛藤もかなり大変です。ところが主人にはそれが理解できなかったというか何だか始終不安みたいで、あまり威張り散らさなくなったのはいいのですが、今度はもうね、やたらにべったりくっついてくるんです。
日に日にそれは激しくなり、私が休日の昼間に昼寝していた(身体を使う仕事でもあるため休日は横になる時間が多い)ら、自分も横に寝てくる…。前はこの人は絶対に昼寝なんてしなかったのに。聞くと、最近は疲れるんだと。
いや。実際精神的にキてるんなら疲労度も増してるんでしょう、それは分かります。
しかし。私たちは夫婦別室で休みます。もう何年も、きちんと床を並べて休むことはありません。
中途半端な時間帯に横で添い寝されてると休めないんですが、と言ったらキれられました。
不愉快なことに夫婦生活に主人は興味がありません。つまり私はジョーチョフアンテイな主人にとって飯を炊くぬいぐるみか何かなのです。
静かにしておいてほしい、休みの日は構わないでほしいと話し合っても、それがイヤなようで絡んできます。
平日もベタベタする日が増えました。
主人につきあっていて息がつまりそうです。
しかも主人は正しく素直に生きようとし始めているようで…分かりますよね、自分がいかに成長したかをいつもいつも確認させたがるわけです。
例えば上の動画なんかを見て欲しいんだけどさ、これなんかも当事者以外が見てもチンプンカンプンなんだよね。
「ホラ!俺は喧嘩で勝ったぞ!」とかいきなり提示されても、第三者としては「わけわからん。こいつは何を言ってるんだ・・・?」としかならないわけ。
それは当たり前の話であって、だって投稿者と視聴者は文脈を共有してないから。
この投稿者が腐女子と喧嘩してたことなんか、視聴者は全く知らないのよ。
それをいきなり「さぁさぁみなさんご存知の俺と腐女子の喧嘩の結末は・・・!」とか言われても、視聴者は「いや知らねぇよ」としかならない。
だからまず、この動画の投稿者がやるべきなのは、どういう経緯があって淫夢厨と腐女子が激突したのかをきちんと提示することだと思う。
でもそれだけじゃほんとは不十分で、そこでこの記事が出てくる。
houyhnhmとkurahitoがバトっている理由
上の記事の投稿者はhouyhnhmとkurahitoがバトっている理由をみんなに説明したいみたいだけど、あんまり上手く行ってない。
「houyhnhmはこう言ってるよ、houyhnhmはこうみたいだよ」とだけ言われても、読み手は「フーン、そうなんだ」という感想以外は持てない。
だって私たちはこの記事を読んでも、houyhnhmの発言に別に問題を感じないんだもの。問題を感じているのは、どうもこの記事の書き手とkurahitoくらいなんだよね。
だったら、「じゃあ何が問題なのか」を読み手に説明してくれないと、問題意識の共有ができない。
houyhnhmのコメントを列挙して、「な、こいつオカシイだろ?」と言われても、読み手としては「どこかオカシイの?kurahitoは何を怒ってるの?」としか返せないわけである。
そりゃあなたは、houyhnhmのコメントの文脈を知っていたり、またそれを自由に解釈する材料も持っているのかもしれないが、
読み手はhouyhnhmのコメントの文脈を知らないし、またそれを読み込んで解釈する必要性も無いのだから、そこで大きな断絶が生まれるのは当たり前である。
だからいきなり「な、こいつオカシイだろ?」と言われても、私としては
「ううん、現時点ではわからない。だから、あなたは彼のコメントをどう解釈してそこにどんな問題を感じたのか教えて」
という返答をするしかないのだ。
こういったことはゼロ年代が終わってから頻繁に起こっており、つまり「俺が知ってるならお前も知ってるよな?」という前提で情報を提示する健康な人間が増えており、
これがインターネットの公共性を損なっていることは間違いない。第三者が見てもスムーズに参加できないようなものを提示しておいて、「参加して!」「読み込んで!」
と他者に乞う姿勢の人間が増えており、そういった姿勢の集大成がアニメ『メカクシティアクターズ』であろう。
私がそういう人間たちに言いたいことは、「あなたが見たものを俺は見てないし、あなたの感想と俺の感想は違う」ということである。
まずそれをしっかり認識しておかないと、他者に何かを説明する必要性に迫られたときに、適切な説明ができなくなる。
何かをフワリと提示して、「ね?ね?俺が何が言いたいかわかるでしょ?俺の気持ちわかるでしょ?」とアピールすることしかできなくなる。
しかし私に言わせてもらえばそんなものはそもそもアピールにもなっていないし、それを読み込むことや解釈するコストをこちらが負担させられているようで、不愉快な気分になる。
「お前が何を感じているのかハッキリ言え!」と怒りたくなる。
ゼロ年代が終わり、インターネットは様々なものを失ったが、情報の提示方法の技術も失われつつある。
「他人は他人でしょ」という健康な人間の論理がネット世界では悪い方向に進み、「知らない奴には情報を提示しなくていい」もしくは「知らない奴には情報を提示しちゃダメ」
という風潮が蔓延し、けっきょく人々はネットで他者や第三者に何かを伝えたいのなら「ほのめかし」をするしかなくなってしまったのだ。
「ほのめかし」という攻撃方法がLINEの世界にはあると聞いて私は笑ってしまったが、笑い事ではなかった。既にそのやり方はネットを覆いつくしていたのだ。
そういう意味では、メカクシティアクターズの作者や、わけのわからない動画を投稿した淫夢キッズ、またhouyhnhmとkurahitoのバトル解説を試みた記事主も、
そういった「ほのめかし」の風潮に毒されてしまった犠牲者なのかもしれない。
だがインターネットでほのめかしをする必要など無い。何かを言いたいのならハッキリと言えば良いのである。なぜなら私とあなたは全く同じものを見ても全く違うことを考えるのだから、
そのあなたの感想をしっかり教えてもらわないと、相互理解ができないではないか。健康な人間はここがわかっていないのである。
と、私がこんなことを言ったところで、彼らはほのめかしを止めないだろうし、メカクシティアクターズのような作品は増える一方であろう
(9話まで見ても話の全貌がわからない作品が今後増えたりね)。
それは、ゼロ年代が終わり、SNSが前提となった今のインターネットでは、生き残る術がそれしかないからだ。
私たちは相互不干渉を貫いて「ほのめかし」て行くしかないのだ。そういった意味では、インターネットは既に終わっているのである。
個人的にはそれも引っ括めて面白いから不干渉を主張したいんだが、それは今の世界のスタンダードじゃねえみたいだ
だから「社会に害を与える文化は滅びていかなければならない」と仮定しようか
社会に害を与えるという事は1:社会通念上認められる物ではない 2:社会に期間の長短に関わらず不利益を出すもの のどれかである事ともいえる
捕鯨問題については2010年の国際捕鯨委員会で支持39カ国、反対49カ国となっている
これは果たして「社会通念上」の名を冠するに足る数字だろうか?
先に絶滅危惧種ではない鯨もいるという以上、捕鯨そのものはIUCNなどの保護精神には反していない事も挙げられる
おもしれーからいーじゃん
どの国でもあるいはどの宗教でも、死んだあとどうなるのか? は一大テーマだ。キリスト教は神の国に行くし、仏教は輪廻転生するし、神道は死んだら神様になる(そしてまた人間に戻ったりする)。
http://www.hachimangu.com/cgi/kouwa/kouwa.cgi?mode=one&namber=199&t...
神道では、人間が死ぬと、すべて神になると考えています。これは、私たちの魂は神から頂いた、神の分け霊、分霊と考えるからです。神の分霊なんだから死んで霊界に帰れば神に戻ると考える訳です。
私たちが死ぬと肉体と魂は別々になります。死んでまもない魂は、霊界での初心者、若葉マークの霊であると思います。肉体と魂が離れても実感として分からない時期、まだ死を認められない霊なのです。病気やケガで足を切断した人が、ないはずの足がかゆくなったり、痛くなったりすると聞きますが、そのような、まだ肉体のあった頃の感覚が離れられないでいる時期が若葉マークの霊であろうと思います。肉体の感覚が残っている内は、この世での執着心も残っているのです。
「自分は死んでしまったのか。それではもうこの世にはいられない。神の世界、仏の世界、御先祖様の世界へ還ろう。そして、魂の修行をして、神となって子孫を守っていこう」と決心したならば、執着心も切れて、迷うことなく霊界へ行くことができるのです。
この引用は一例だが、洒落怖あたりをみてもなんとなくこういう意識を持っている日本人は多いように思われる。仏教が入ってくる前の神道だと魂の修行とか言うのはなかったと思うが、その代わり祈祷などで鎮めていたのではないかな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A8%E9%9C%8A#cite_note-Yahoopedia-2
憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている[2]。
霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える[2]。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える[2]。
ちなみにこの死者が安楽に辿りつけない場合もあるという考えは日本固有ではないが、一神教系だと地獄にいくことがおおいようだ。アミニズムは現世に災いをもたらすらしい。
有名なのは平将門ですよね。生霊といえば源氏物語の御息所。医療や科学が発達していなかった時代に、アミニズムはそれを神様がやったってことで納得していた。一神教の場合も神の試練だと、仏教は功徳が足りないと思っていたのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの(日本三代実録)である。
仏教的にはどちらかと言うと荒神の信仰に近いものかな。阿修羅とか。
靖国神社もそもそもはこの御霊信仰のもと建てられた神社である。
http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
前進は明治2年にできているので、戊辰戦争の御霊供養のために建てられた神社であり、その後の日本内の内戦および諸外国との戦争でなくなった人々の供養をしている、ということになっている。
政府のたてまえとしても、靖国神社参拝は御霊供養のため、ということになっており、単純に墓地に行くのとはまた違う意味合いを持っているようだ。そもそもが怨霊を鎮めるためのものなので、死に方(戦死・処刑)に関しては問わない。ところでここって空襲で亡くなった人は入ってるんですかね?それはまた各自か。そもそも神社って系列があるし、霊魂はどこでもいけるしな。
こうしてみると、靖国にA級戦犯が眠っているから参拝してはいけないというのは的外れで、むしろそういう人がいるからこそ供養はせにゃならんということになる。祈る内容は「もうしません」でも「つぎはぜったいかちます」でもなんでもいいわけだが、とりあえずこの観点から反対するのは無理筋だろう。
んで次に気になるのは、別に首相がいかなくてもいいんじゃね?という点である。
多分これは崇徳天皇のせい。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
いろいろとロマンチックなひとだが、気性が激しいともいう。
[要出典]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である。
しっかり子供作ってエンジョイしてんじゃんとは思うが、日によっては荒ぶっていたのかもしれない。どちらかというと彼に対する罪の意識で、後々伝説が作られたような気がするが、なんせ千年前である。確かめるすべはないな。まぁいいや。とりあえず天上人の天皇が荒ぶって怨霊になってしまったので、天皇が御霊鎮魂をするようになったもよう。これが国のトップが御霊慰霊を行うようになった理由だろう。
1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
ちらっと調べた限り3がある以上それをひっくり返すのは無理筋だが、いまのところ行くこと自体は1で押し通している。奉納するとなると3に引っかかるのでそれが争点になるようだ。もし私費で奉納とかしてりゃ1があるので反対するほうが悪いが、そうではないのなら違憲判決が出されるのは妥当な所。
しかしそこまできっちりとやってしまうと、天皇制がそもそも違憲、内閣総理大臣を天皇から任命されるのも違憲になってしまうので極めてグレーである。
ただ天皇は戸籍がないので、日本国籍を持ってない。例外として日本国民ということになってはいるが、主権もないしこのへんもグレー。突っ込んではいけない領域である。
このうち1は明確に信教の自由があるので以降といくまいと自由。
2は前述のとおりグレー。
3は参拝が軍国主義につながるというのが主な反対の理由のようだが、参拝は御霊供養のためであり、反省するのも軍国主義を目指すのも当人次第(しかも信教の自由があるのでそれを規定することはできない)ので的外れ。一般的にキリスト教では参拝は神への信仰、仏教は魂は輪廻転生してしまっているので特に意味のない行為(参拝自体は功徳を積むため)で、御霊供養の概念はきちんと説明しないと伝わらないと思われる。4,5も同様。
したがって、問題の争点は政教分離の観点でOKなの?という部分だけだな。ちなみに諸外国がこれに反対するのは内政不干渉の原則に反するが、言うの自体は自由である。
診断を受けた訳ではなく、既に故人だから確かめようもないが、恐らく母は子供に対する精神依存を持っていたと思う。
10年もののうつを患っていた弟はその母と共依存状態となっていたのだろう。
とにかく遠くに逃げることだけを考えていた。結果、日帰りなどとても無理な程の遠方に仕事を見つけ、
以降、母がガンで余命数年であることが発覚するまで実家には近寄らなかった。
母が亡くなった後、どうなったかと言えば…
父は相変わらず仕事の多忙を理由にろくに家の口座管理すらせず、払える金はあるのにローンを滞納するざま。
めんどくさいことを全て母に押し付け、愛情と依存の区別がつかなかった母がそれぞ全て引き受け、結果として体を壊して死んだ。
その後、残った人間は成長するでなく自省するでもなく、義務を放棄し、あるいは対象を変えて依存を続けている。
俺は下手に実家に関わって母の身代わりをさせらるのはごめんだと、実家と距離をおき不干渉を貫いている。
母は苦労してきた人間だと思う。
親(俺から見た祖父)は酒を飲んでは暴力を振るうような人間だったと聞くし、
周囲の反対を押し切って結婚した最初の夫、俺の実父は俺が物心付く前に自殺している。
結婚の理由は金だった聞いている。時代が時代だ。女手一つで子供を育てるには厳しかったのだろう。
それでもよき母、よき妻として振舞おうとしていたことだけは間違いない。
少なくともと父をただのATMとみなしぞんざいに扱うようなことはしなかった。
それでも愛情は持ててなかったように見えた。
このまま疎遠になって互いに知らない間に死んでしまえばいいと思っている。
母の苦労を思えば申し訳ないが、俺は弟にも父にも愛情を持てないし、義務感も感じない。
身内をすら切り捨てる冷血については他ならぬ母から指摘されていたことでもある。
橋下はこの一回の議論で負けたらお金も地位も名声も失うというスタンスで臨んでいる。
相手の勉強をし、データを整理し、バックアップ体制を固め、どうやったら強みを全面に出せるか、弱みを隠せるかの作戦を立て、闘いに出ている。
弁護士スゲーと思わせるところがある。
他方、相手のやる気のなさ。
まず第一に、相手を甘く見てる。
というような序列が頭の中にあって、橋下は政治家ではなく民間人にカテゴライズされてる。
という意識がある。
それに、議論に負けてもまったく痛くない。
反橋下派は、反橋下派のグループ内で生きているので、仲間内での評判さえ落とさなければ痛くないのだ。
たとえば君が代日の丸反対派の中での序列は、どれだけ君が代日の丸を激しく叩くかで序列が決まっているので、いかに日の丸が、君が代が悪かを説くかに固執する。
悪という前提から始まるので議論にならないし、聴衆のジャッジでは負けるのだが、本人達はそれで満足してる。
二番目に、学者はとにかく保留しておくことが好きだ。
現時点で正しいとされていることを覆すことで真理に近づけると思ってるので、たとえ今は正しくても、といって実行に移したがらない。
そもそも、学問を世に還元するより、学問を追求したいから学者などをやっているわけで。
これは自分の個人的が想像だけど、学者の10人に1人くらいは嫌儲思想だ。
50代、60代の古株のなかには、民間就職するなんて資本家の手先になることだ!という理由で学者になった人間もいる。
文系だととくに顕著だったはずだ。
もちろん、学生運動で逮捕までされちゃったような過激な連中は途中で退学しちゃったわけだが、口先は一流、実行力はない、という人間が学者になってる(場合もある)。
あんまり過激だと出世の道もなかったんだけど、社会党が強かった北海道なんかは、思いっきり左派思想でも出世できたし。
科学は科学の発展のためだけに存在するべき、という消極的嫌儲主義。
反原水爆と相性がいい。
共産主義が勢いがなくなり、平和主義と看板を変えはじめたころから歩を同調させている。
まあとにかく、グダグダが好き。
俺が思うに橋下の
「そうはいっても予算と人を引っ張るのは金も労力もかかるし、その原資は税金だし、グダグダ言ってても前に進まないから」
という主張はもっともだ。
それに対して
という反論もありだとはおもう。
ただ、正しいことだから堂々と主張する!悪いのは橋下!
という態度は、橋下に言われた通り、税金で食わされてるのにその態度はなに?
と聴衆に判断されてしまう。
それから、君が代日の丸の強制は教員だけということなので、子供の教育に~という話にできないのも大きい。
嫌なら違う高校に行けばいいって話で、小学校中学校は私立は無料じゃないけどさ。
橋下にだって、突かれると痛い部分はあると思う。
俺は大筋で賛成だけど、大阪の抱える諸問題がクリアされるとは思えない。
大阪都構想で経済の地盤沈下をどうにかできるというわけでもない。
ただ、そこんところは代案がないのなら、聞かせて欲しい、という態度で聞くべきじゃん。
自分には結婚・恋愛願望がない。そういうことをできそうにもないし、できるまでにかかる苦労が大きそうだから持たないことにしてるし、そういうことをすることに対して得する自分を想像できない。つまり非モテだと思っている。
しかしながらいまだにどこかでモテることは善もしくは美と考える傾向はあるような気がする。非モテと呼ばれる人たちはいつも場末の居酒屋で愚痴るようにリア充やイケメンをけまいと嘆く。リア充よりも自分たちが優れているアピールをしたとしてもどことなく自虐的だったりする。その一方で非モテが努力してモテるようになったみたいなストーリーの映画やドラマもあるし。
さて「好きの反対は嫌いではなく無関心」という言葉がある。この言葉をうまいこと使えないかなぁと思ってる。相互不干渉ってやつね。嫌いには2通りあって憎たらしくて一泡吹かせたいっていう嫌いとめんどくさいから関わり合いたくないっていう嫌いがあるんじゃないかなぁと思う。前者が非モテの愚痴で後者は無関心に近づきたいという願望だと思う。
無理にモテない人間をモテる人間に変えようとするのはしんどい。少子化対策はモテるやつだけがやればいい。モテない側はモテる側に対して憎悪の念を抱くことはもうしなくてもいい。そういう人もいるんだ程度で自分が楽しいと思うことだけに興味関心を注げばイラつかなくて済む。モテるモテないを勝ち負けにさせるからいかんのよ。だから結婚するよさと独身者でいるよさが対等になればいいと思う。これまでは結婚ばかりがいいとされていたけど結婚したって嫁の尻に敷かれるストレスとか保険金殺人事件の標的にされる恐怖とか問題点だって色々あるはずだし
ただモテないからモテる人間にどうしてもなりたいって人、この人達への配慮が難しいといえば難しい。こういう人達のために恋愛感情を沸き立たせるようなラブストーリーもののドラマや映画を廃止しましょうとは言えないし。かといって諦めて下さいと言って易々と諦めてくれる人ばかりじゃないだろうし。もうこればかりは国民全員に誰を見ても美男美女に見える幻覚剤でも作って飲ませるしかないのかも知れない。