はてなキーワード: カップ麺とは
http://anond.hatelabo.jp/20140713221124
この記事のブコメに、分析的な太るコツの記事が読みたいとあったので書いてみた
・コツよりもまずは病院にいけ。
人間の体がもっとも恐れるのは飢餓だ。現代は飽食の時代と呼ばれている。先進国では、資産に反比例して肥満患者が増えている。
健常者なら、飢えに対する防御機能から、食って寝ていれば太る。つまり、食って寝て太れないアナタは臓器に何らかの疾患を抱えている可能性がある。
先天性の胃弱か、下痢が続く心因性の過敏症か、理由はわからない。もしかしたら、自覚症状がないタイプの大病、糖尿病やガンなどを患っているかもしれない。だから、まずは病院にいけ。
・上記を前提にして「太るコツ」を書いてみる。
・アナタは胃弱の可能性がある。よって、ジャンクフード、清涼飲料水などを避けて、野菜、肉、魚、穀類をバランスよく食す「健康的な生活」を維持するためにできることから始めよう
以前の職場に、病的にやせている男がいた。聞くと、食事は、牛丼、コーラ、ポテトチップスだけで、野菜は全く口にせず、さらに平均睡眠時間は四時間を切っていた。彼に必要だったのは、
食物ではなく、健康的なライフサイクルだ。もちろん、様々な理由で「健康的な生活」ができない、「栄養のある食事がどこにあるっていうんですか!」とキレたくなる、
ホタルの墓のような状況の人間もいるだろう・・・しかし、例えばだが、そんなアナタの寝床は腐海に沈んでいないだろうか?快適な寝所なら、たとえ短時間でも疲れは抜ける。ストレスが軽減されれば
ジャンクフードをやけ食いし、炭酸飲料をガブ飲みする必要はなくなる(ストレスを感じると、人間は乾きを覚える、そんな時のどに刺激を与える炭酸飲料は最高においしく感じる)
体と地面が接する道具に金を惜しむなではないが、ゲームやフィギュアにかける金でちょっと高いベッドや布団を購入するなどして生活の質の向上につとめよう。例えば、はてブに上がってくる
ライフハック記事を馬鹿にせず、チェックして自分にあいそうなものを一つづつ実践してけばいい。もしくは、NHKの情報番組で勉強する、試してガッテンなどは特におすすめだ。
病気ではなく、生活環境もそこまで劣悪でなく、自炊能力があるなら、やせることが悩みになることは少ない。なので、アナタには最低限の健康管理能力、栄養に関する知識がないものとして話を進める。
まず、カップ麺、ファーストフード、ハンバーガーや牛丼を止めろ。一日一回程度ならいいが、三食すべてはやめろ。ポテットチップスなどのスナック菓子、炭酸飲料、コーヒー、症状によっては緑茶、ウーロン茶も
NGだ。酒はもっての他だ。酒が百薬の長というのは、健康体の人間の話だ。お前に酒は毒だ。病人食とまではいかないまでも、胃腸に優しいと思えるような食事、消化吸収しやすい食物・・・おかゆや、パスタをメインに献立を考える。
例えば今日の俺の朝食はこうだ。
五分粥、肉味噌、インスタント味噌汁に電子レンジで温めた根野菜(カボチャ、人参、サツマイモ、キャベツ)を具にしたもの、納豆
適当に刻んだ野菜+インスタントスープの素はおすすめだ。病院で診察を受けたアナタは大病を患っていない、とすると単純な胃弱、俺と同じ消化器官系の能力が他者より少しばかり低い人間だと仮定する。別に一年三百六十五日
こんな生活をしろとはいっていない。ただ、週に2日や3日は健康に気をつかって、胃に気をつかって、酒をひかえて、ジャンクフードを我慢し、野菜や米を食べていれば自然と適正体重になる。俺がいいたいのは結局それだけの話だ。
ちなみに、体重を増やしたかったら、脂質や糖質より、炭水化物をとるようにすればいい。米、麦、豆、芋などの穀類だ。ただし、豆腐はダイエット食品に利用されるほどカロリーが少ない、食べるなとはいわないが太るという目的からは外れる。
基本は、飯と粥の中間の少し水を大目に入れて炊いた米、あるいはパスタがオスススメだ。アナタは量も食べられないはずだから、一食一食を大事にとれ。その様な観点から、空腹感が薄くなる清涼飲料水も避けた方がいい。食事を
より楽しむために、食べることが億劫にならないために、味のついている飲み物は避けた方がいい。糖分が欲しければ、ジュースよりチョコや飴をなめろ。水分は、基本は水か、ぬるま湯だ。あと、アナタは絶対に牛乳で腹を下すタイプだ。
乳製品を食べたければ、ヨーグルトやチーズなど乳糖を変化させたものにしなければいけない。
自炊環境がなくても、基本は上記と同じだ。清涼飲料水、コーヒーを避け、飲み物は水かぬるま湯を基本にする。消化のよいものを心がけて食べよう。おかゆ、パスタ、ゼリー・・・ラーメンはスープに多量の油や塩が使われているため避けたほうがいい。
アナタはラーメンを食った後、必ず下痢にならないか?多量の脂質は消化しきれず、出しすぎた胃酸は食道を痛め、下痢の原因となる。
性格や勤務地や給与によっては、賃貸よりビジネスホテル暮らし+朝食バイキングの方が方が生活費が安く、健康的に暮らせるケースもある。いっそのこと住居環境やライフスタイル自体を根本的に変えてしまうのもいいだろう。
リアルな困窮者の方は、市役所のような公共のサービスか、事情に応じた相談を受け付けてくれる各団体、共産党事務所などを頼るといい。
はてな匿名ダイアリーが読めるアナタなら、いくらでも調べる手段、相談する手段はあるだろう。
心配するな、年をとれば基礎代謝が落ちて自然と太る。その際、内臓脂肪のつく、お腹ぽっこり型の肥満にならないよう気をつけろ。痩せていて身軽に動ける今からストレッチと筋トレを習慣にした方がいい。毎日やらなくていい。自分に最適なメニューを選んで
週2~3回でいい。数年後、明確な差になって現れるだろう。
番外編
・食事に興味を抱けないアナタは味覚障害の疑いもある。口腔内科(耳鼻咽頭科)を受診するのが一番よいが、市販の亜鉛やビタミンBで症状がよくなることもある。試してみる価値はあるかもしれない。
一部の、精神薬は、副作用で太ることがある。満腹感を感じにくくなり、食事量が増えるからだ。症状、薬によっては、倦怠感を覚えて運動量が減り、睡眠時間が増える傾向もある。心因性で痩せていることが悩みのアナタは、精神科を受診することで悩みが一挙に
解決するケースもあるかもしれない・・・ただその場合は逆に太ることが悩みになるかもしれないことは心に留めておこう。
案の定電車も遅れ気味だ。
車内はいつも以上にごった返している。
人の乗り降りが多い駅でも頑なに入口付近から動かない女に舌打ちを食らわせたい気持ちを抑えつつ、今日も仕事に向かう。
このたった10分の間に、歩きタバコをしているおっさんを毎日3人は見かける。
別に個人的にタバコの煙は嫌いじゃないのに、何となく侮辱されている気分にさせられるのは何故だろう。
会社につくとまずは売店によるのが日課だ。
売店では昼飯を買う。弁当を作ってくれる人はいないし自分で作る気もないので、大体カップ麺を買う。
店員は競合店が存在しないからか、やる気の感じられない人が多い。
やる気ないなら辞めちまえ!と怒鳴りちらす自分を想像しながら小銭を渡す。
エレベーターに乗ると、別会社の事務員だろうか、美人なお姉ちゃんと出くわす。
ようやく会社に到着。
始業時間までおよそ15分。
ギリギリまでグーグルニュースを流し読みする。特に面白い記事はない。
ダラダラとやり過ごす。
上司が帰った後、15分程待った上で、自分も帰り支度を始める。
帰りも雨で憂鬱。
傘をさしながら自転車を漕いでる爺さんが横スレスレを通って行く。
爺さんのチャリのブレーキって何であんないうるせえんだろうなとかどうでもいいことを考えていたら、もう駅だ。
動線なんてお構いなしに突っ込んでくるリーマンや女子高生を何とか避けながらホームへと向かう。
ちょうど電車が来た。
車内が臭う。雨だからだろうか。
俺も凝視している。
中毒ってわけではなく、ただ単に他人と目を合わせたくないってだけだ。多分皆もそうだろう。
最寄り駅で降り、本屋へ向かう。
そこで俺は彼を見かけた。
物凄く太っていて鼻毛がボーボーで、ハアハア息を切らしながらラノベコーナーを徘徊している男。
それが彼だった。
彼は周りの目など気にしていないし、周りの人間なんて目に入ってなどいない。
目に映るのはラノベ、ただそれだけ。
わけもなく、ただただキモいなーと2分くらい思い続けたけど、後はもうどうでもよくなった。
帰ってもやることがないので酒を飲む。
週に7日は酒を飲む。
何か趣味を始めたいなーとか
色々思うけれど、結局は酒を飲む。
今も泥酔しながら大した理由もなく、特に面白くもない日記を書いている。
こうして毎日をやり過ごしている。
○朝食
ご飯と炒り卵
○昼食
○夕食
○調子
今日はすこぶる悪い。
なんだか消えてしまいそう。
セールで購入したが、haloをずっとやっていたので、FPS疲れが生じていることがわかった。
1面で迷いまくって、ヘッドショットのアワードだけ解禁して満足。
意外とハマるが、やはりキネクトは一人でやるとむなしさがあるなあ。
○CastleCrashers
ベルトスクロールアクションは、小学生時代に友達の家でやったことがある程度で、あんまり馴染みがないため、意外と新鮮だった。
またいつか気が向いたらやろう。
○ポケモン
いじっぱり、HA、ファストガード、ねこだまし、れいとうパンチ、ドレインパンチ
持ち物は検討中。
個体値は、ABDS(Hは15ぐらい。面倒だから妥協しちゃった、素早さと違って耐久や攻撃系は乱数もからむし、調整するほどの知識も無いし、めんどい)
ギャラドスと組ませて、ダブル威嚇いえーいとかしてるけど、イマイチぴんとこない。
最初はいたずらごころやはやてのつばさから守るぜいえーいだったけど、いざ使ってみると読み合いになるんだよなあ。
相手:ランドロス(霊獣)、プルンゲル、クチート、ファイアロー
ランドロス威嚇
1ターン目
ランドロス:いわなだれ➡ヤミラミ残り八割 脱出ボタン➡マニューラ
2ターン目
マニューラ:こおりのつぶて➡ランドロス(霊獣)乙 命の球ダメージ
➡ヘルガー 残り二割
ヘルガーサンパワーで残り一割
3ターン目
4ターン目
5ターン目
➡ファイアロー乙
6ターン目
クチート:ふいうち 失敗
7ターン目
8ターン目
以上、僕の勝利でした。
ダーテングのふいうちは強い(結論)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140404/k10013500081000.html
あー腹立つ! くっそむかつく!!
あのさー、景気悪いとか庶民金ないとかいろいろ言われてるし、デフレだなんだで売価上げたもん負けみたいな風潮出てきてんじゃん。削れるコストを限界まで削って、従来の売価を維持して、そんで増税でなおのことがんばるよな。
たとえばカップ麺なんかが典型なんだけど、小麦粉の値上げとか震災からこっち、メーカーも積極的な商品開発やらなくなってるし、仮にどこかでやってたとしても、あんまり小売チェーンでは採用しないわけ。でも違うの。200円前後とか168円とかそういうんじゃなくて、300円オーバーのカップ麺とか絶対に売れるんだって。なんなら縦型で398円でくっそ凝ったカップ麺とか出してみろよ。絶対に売れるから。
ちなみに高価格帯の商品が売れるようになってる理由なんだけど、これ景気がよくなってるからとか、可処分所得が増えてるとかそういう理由じゃないから。
ひとつにはね「週末にお出かけして金をガツンと使う」っていう消費形態が崩れてきてるってこと。じゃあどこで使うのっていったら、日常生活のなかで「ちょっと贅沢なもの」に金使うんですよ。年収が下がってきてるとかなんとかいうけど、日常生活のレベルで食うや食わずやで飢えるってレベルまで行ってる人ってそんなにいないの。ふだん食ってる168円のカップ麺を398円にしたからって明日から生活が成立しない、もうだめだってくらいに「完全に困ってる」っていう人はボリュームゾーンじゃないの。だけど海外旅行に行くほど余裕がある人がボリュームゾーンってわけでもない。
もうひとつは、これと関係してるんだけど、消費行動が刹那的になってる。いいものに金をかけるとか、貯金しといてなんか買うっていうよりも「無駄遣い」にあたる部分で金使う人がけっこう増えてきてる。「とりあえずいまあるから使う」って人、けっこう増えてんですよ。そのことの是非は置いといて、現実にそういう消費行動って増えてきてるの。確実に。まあその反対側で、しっかりと計画的な使いかたして「いいものを買ってずっと使う」っていう消費行動も増えてはきてるんだけど、それはコンビニの土俵じゃないからひとまず置いとく。
だから、この数字のつくチェーンの施策は大正解。あってる。ムカつくくらいあってる。そういう商品がずっと欲しかったんだよ。手間かけずに家で簡単に贅沢できる商品。価格は多少高くても、買ったら確実に「ああ、高いなりのことはある」と納得が行く商品。素材の安全性とか国産とかそういうことじゃなくて。もっと下品に、下世話に「高い」ってわかる商品。これあったら売れるって俺ずっと言い続けてきたんだよ。兆候はいくらでもあったじゃん。525円もする米菓が日常的に売れるとかさ、デザートでも高価格帯だからって発注弱気になる必要ない、むしろ高品質であることをアピールすれば売れるってずっと言ってきたじゃん。だれも聞きゃしねえよ。なんのためのPOSデータですかなんのためのビッグデータだよ。
あーもうこれでまた某数字のつくチェーンの一人勝ち状況が進展するってよ。あとから追いかけても遅えんだよ。
ほんとむかつくわ。この「だれもがなんとなくわかっていたこと」をしれっと実行してちゃんと客に提供するこの姿勢。そりゃ強えわけだよ。
「経済的」という言葉はあまり好きではありません。個人が経済的を追求していくと、結局物を買わなくなる。物を買わないからか、安かろう悪かろうのプライベートブランドで消費者を呼ぼうという誤った手法を用いるスーパーが出てくる。あるいは、薄利多売ばかりで無茶な経営をする店も出てくる。
あらゆる物はそれなりのコストがかかって作っているので、何でもかんでも「経済的」で安いもの、お金のかからないもの、を追求していくと、本当に粗悪品ばかり扱う国になってしまうと思う。
なるほど、その通りだ。これは失礼した。
第一に、あなたの言うところの「食事が台無しになる」ことがほぼ無くなる。まともな箸は折れることもささくれ立つこともない。
第二に、割り箸に伴う健康的リスクを回避できる。具体的にはhttp://news.ameba.jp/20130917-44/などに書いてある。
第三に、多いに主観的で恐縮だけど、割り箸よりマイ箸の方が、ご飯が美味しく感じられる。和食はきちんと塗られた箸で食されるべきだ。カップ麺なんかは割り箸の方が雰囲気出るけどね。
こんなところかな?如何だろうか。
社会人になってからは仕事が忙しすぎて、食べるものといえばコンビニのお弁当や、カップ麺ばかりでした。
でも今日は早めに帰宅できて時間ができたので、ついさっき、家でお味噌汁を作りました。
さあ食べようとしたら、自分が作ったお味噌汁に1本の髪の毛が入っているのを見つけました。
その時、思い出しました。
実家に暮らしていた頃、お母さんが作ってくれた料理に髪の毛が入っていた事がありました。
それを指摘するとお母さんは「ごめんねぇ。」と言いながら、
自分の皿と取り換えてくれたり、おかわり分の食事から取り直してくれたりしました。
髪の毛が入るのは確かに「ウッ」と思う事がありますし、衛生上どうなんだ、と言いたくなるケースもあります。
でも、一人暮らしを長くしている今では、
そのような、お母さんがごはんを作ってくれていた日々がとてもありがたいものだったのだと、気づきます。
お鍋と向き合って、毎日おいしいごはんを作ってくれていた人がいたんだなと。
髪の毛問題はとりあえずおいておいて、そんな素晴らしいお母さんという存在に感謝します。
料理は取り換えなくてもいい。とにかく、お母さんのごはんが大好きです。
とりあえず後で電話しておこう。
何でだろう、これ書きながら泣いています。
コンビニのカップめんの棚のまえで立ちすくんでさんざん迷ってしまい、途方に暮れた末に、結局カップヌードルカレー味にしてしまうことがよくある。最近はそば系のやつとかもよく食べるけど、カップヌードルのたまに帰ってきたくなる感は異常だ。
その中でもカレー味が1番好き。昔カップヌードルに入っていたよくわからない立方体の肉の塊、ネット上での通称「謎肉」はカレースープによく合った。いまは「コロチャー」という別の肉になってしまったけれど。いまのも別に嫌いではないんだけど、やっぱりあの肉がまた食べたいという気はする。(調べるとライトやリフィルのほうにはまだ入ってるらしいのだが)
カップ麺の世界も競争が激しくていろいろな新商品が出ては消えていく。その中でよく見るのが「生麺そっくり」というような、本物のラーメンと比べて遜色ないことを喧伝する謳い文句だ。あと有名ラーメン店とのコラボ商品とかもよく見かける。ふつうに鍋でゆでるタイプの袋麺をめぐる状況もだいたい同じ感じで、マルちゃん正麺という商品がヒットしてから、より生麺っぽい乾麺を目指す技術競争が加熱してきたようにおもう。
しかし、これだけ各社が技と工夫を凝らして新しい麺を開発してるのにもかかわらず、(他のカップ麺と比べれば相対的に値段が安いとはいえ)カップヌードルはこんにちに至るまで淘汰されず、同じ味を守りつづけている。他のインスタント麺が「まるで生麺!」とか「行列のできる店の味!」とかばかりにこだわっている中で、カップヌードルの姿勢のあの揺るがなさ。堂々たるものである。
それは、カップヌードルが自らひとつの評価軸になってしまったということを意味するのだろう。チョコレートやポテトチップスやコーラは日本人の記憶の中では比較的最近登場した食べ物だけど、チョコレートやポテトチップスやコーラをようかんやおせんべいやほうじ茶と比較しておいしいとかおいしくないとか言いだすひとはいない。チョコレートはチョコレート自身なのであって、他の甘いお菓子とは別のジャンルを確立しているからだ。それと同様に、カップヌードルはラーメンではない。ラーメンや他の麺類とはまったく違う、異質の食品が20世紀後半のある時期の日本に突然発明されてしまったということが重要なのであって、この一点においてカップヌードルの偉大さは他のカップ麺と比較できるものではない。
そういう食べ物って他に考えられる? いまちょっと考えたけど、乳酸菌飲料とかはそうかもしれない。ヤクルトとかおいしいとおもうんですよね。
後発のインスタント麺はしょせんラーメン的イデアの似像に過ぎないので、王道っぽいしょうゆ味やとんこつ味が多いし、カップの形からしてだいたいがどんぶりを模した横長だ。対してカップヌードルは非ラーメンなので、カレーとかチリトマトとかクリームシチューとか、かなりのゲテモノを投入しつづけ、しかもちゃんと受け容れられている。
そこでおもいだしてみると、カップヌードルCMでふつうの家庭人が家で平和にカップヌードルを食べてる風景というのはあんまり出てこないことに気づく。たいてい宇宙にいくとか南極に行くとかそういうSF。
ここまで考えると、あーまんまと広告戦略に踊らされてただけだったなーという気にはなるんだけど。まあ、それにしたって「カップヌードルという食べ物」のセルフイメージを確立するまでの道のりというのはなかなか平坦なものではなかったろう。
猫舌だから全品熱いもので構成される食事については「いただきます」と声に出して覚悟を決めないと箸をつける気になれない。
まぁ冗談はさておき。
例えば麺類食う時に音を立てるか立てないか、という話をしよう。
ちゃんと自己観察してれば、音を立ててすする時とそうでないときがあることに気付く。「麺類はすすって食って美味いという意思表示をするのがマナー」というのの裏返しで、つまり「マズい麺類&美味いという意思表示をする必要が無い場合」は実は音をたててすすっていない。
これは「美味しいと言う意思表示が無意識のうちにされている」結果だろう。たぶん、無意識というのは思っているよりシビアな審判に違いない。
同じように、いただきますと言う時と言わない時がある。
実家に寄生してて言うのもなんだけど、基本的に親とはそれほど仲が良くないので、美味い飯とは言え(実際に美味い)親と食事する時には半々ぐらいの割合(腹の減り具合やその日の機嫌による)でしかいただきますと言わない。
ただ、帰りが遅くなったりして適当に自炊する日があって、その時は必ずいただきますと言う。腹が減って疲れて帰って来て摂る食事は格別だ。
カップ麺なりコンビニ弁当なりの時はほとんど言わないけど、定食屋とかだとほぼ必ず言う。なか卯やすき家辺りが半々。これに関しては、例えばマクドナルドなんかではレジで商品を受け取る時に「ありがとうございます」と言うのが「いただきます」の代わりを果たしているとも考えられる。
自分で淹れたコーヒーに対して「いただきます」とは言わないけど、他人からコーヒーを貰った時には「いただきます」と言う。それが缶コーヒーであったとしても。
あと、朝飯の時はほとんど言わないけど、昼飯や晩飯の時は上記の言わない場合に該当しない限り言う。
これらを総合するに、食事を共にする人間との関係、食事の際の心理状態、食事を供した人間との関係、献立の規模(間食、軽食、食事)などの複合的な要因が、自然な気持ちで「いただきます」と声に出すかどうかにかかわっているのであり、一概に「いただきます」を不要とする元増田は非常に乏しい食生活を送っていると思われる。
最近は冷蔵庫に入ったりなんかくわえたりするのが流行りらしいです。
このへんのことについては、書こうと思ってうまくいかなくていくつか文章を放置してあったんだけど、今日、どこぞのまとめ見て不意にまとまったので書いてみる。
なおこのエントリは、本来だったらもうちょい精密に考えなきゃいけないところを、自分の経験に引き寄せすぎて、ちょいとざっくりと処理しちまってるので、あんまり論としてはよいものではないです。
さて、件の炎上した人たちについては、バカに見える。現実問題としてアホだなあとは思うわけだが、俺自身の思想によって、バカであるという判断では終わらせられない。もしバカなのだとしたら、過去にも同様にバカはいたはずで、過去のバカと現在のバカはあまり変わらない、彼ら、彼女らだけが特異的にバカなのではない、と考えるわけだ。つまり、彼ら、あるいは彼女らが悪いというのはではなく、環境やら状況やらに理由があってこうなった、ということをまず考える。実際悪くねえかっていったらそりゃ悪いことしてるんだけど、そういう状況に至ったのにはなにがしかの理由があるはずだ、ということだ。
話が錯綜しそうなんで、先にだいたいのところをまとめておく。代名詞はめんどくさいから「彼ら」で統一する。
彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されている。
彼らの感覚としては「所与の権利」の範囲が非常に広い。権利が広いため、たいていのことをしても許される「ことになっている」。許さないものがあるのだとしたら、それは許さない側の理屈がおかしい。「うちらなんにも悪いことしてないのになに文句言ってくるの」ということになる。
彼らには「インターネット」という概念がよくわからない。よく言われることだが、たとえばTwitterならTwitterという「個別のアプリケーションがある」というのが彼らの感覚である(LINEは使ってないんでよくわからん)。実際にはそれは、インターネットの仕組みの内部で動いているサービスなのだが、ここでSNSと「うちら」の結託が起こる。SNS=うちらとなるわけだ。なんとなくは「インターネット全体」という外部があることは知っていても、それが「うちら」に積極的に介入してくることは考えない。もしそれが容喙してきた場合、彼らの理屈に従えば「うちらなにも悪いことしてないのになに勝手に干渉してくんの」ということになる。ましてネットの場合、リアルとは違い「外部」は完全に可視範囲の外にある。おそらく彼らにしてみれば不意打ちの感覚が強いだろう。
こうして「冷凍庫に入る」という行為が「許され」、それを「うちら」の内部での武勇伝として公表し、しかし外部の存在はまったく意識しないため、炎上する可能性を想像できない。さっき見たラーメン屋のまとめでもこの流れは完全に一緒である。
なぜ想像できないのか、という問題がある。
これについては「あらかじめ許されている」という感覚との関係を考えたい。所与の権利の幅が大きいということは、逆になにやっても自分たちには危害は及ばないということでもある。つまり危機意識の低さだ。その一方で、情報はどんどん入ってくる。情報が入ってくるということは、世界は有限だということでもある。「しょせんこんなもん」という見切りが先に立ってしまう。つまり彼らは「しょせんこんなもん」という有限の世界で、手足をどう動かそうと「許され」、それだけになにをやっても手応えがない。脱法スレスレ(と彼らが考えるところのこと)のことをすれば、それなりのリアクションはあるからおもしろさはある、ということだ。
以上、ざっとまとめるつもりだったが、これだけでかなり長くなった。
俺がなにゆえこういう考えに至ったかというと、そういうものを日常的に見ているからだ。俺のブログを読んでいる人は、はてなのアカウントを持っている人がわりと多いだろうし、そしてはてなはおそらくネットのなかでも特異的に高学歴の人が集まっている場所だと思う。俺はよくこのことに言及するが、根拠は「自分の周囲から聞こえてくる会話」と、ブコメなりなんなりから漠然と把握される「はてなユーザーの平均的なイメージ」との乖離があまりに大きいからだ。
どうオブラートに包んでもうまく表現できないだろうから、あえて露骨な言葉を使う。この世には「低学歴の世界」というものがある。ネットからは非常に可視化されにくい場所だ。ここでは当用漢字ですらも通用しないことが多い。最近では「試飲」という言葉が通じなかったたため「ためしに飲んでもらう」という言葉に言い換えた。特定の個人に通じなかったわけではなく「ああ、これはだいたい通じないな」と思ったから言い換える結果になった。抽象的な概念はかなり通じない。そもそも「概念」という言葉そのものが通じないだろう。個別具体的な事物を束ねて、現象として説明するような言葉では、なにも伝わらない。
そういう場所が現にある。
彼らが「インターネット」というものの全体像が把握できないと気づいたのは、バイトがmixiに個人情報をまるっと書いていて、そのことについて口を酸っぱくして注意してもまったく通じなかったからだ。どころか「コメント欄に知らない人が書いてたけど、悪い人じゃないっぽいから今度会ってくる」と言い出した。
善悪定かでない不特定多数の人間が、自分の名前、ケータイ番号、職場、交遊関係にアクセスしうるということがなにを意味するのか、彼らは理解できない。というより「不特定多数」という「人間一般」を思い浮かべることが難しい。彼らにとって人間とは「知人」か「知人でないもの」の区別くらいしかなく、そして「知人でないもの」は、彼ら自身がそうしたものになんの興味も持たないように、相手も自分に対して興味を抱かない「はず」の存在である。
結局バイトに俺の注意が伝わったのは、実際に俺が自分のPCでmixiの該当ページにアクセスしてみせたからだ。
店頭にたまるお子様たちから学んだこともある。あまり治安がよろしくない彼らだが、こちらが注意すれば、ひとまずはいなくなる。しかしまたすぐ現れる。何度注意しても同じである。こちらが見ている目の前でゴミを捨てる。カップ麺の残りはだばぁする。やりたい放題なのだが、意外にも「出入り禁止」は効果がある。ただ出入りを禁止するだけではだめで「あんたら客じゃないから」というのが効果がある。そう伝えると、彼らは裏切られたような顔をする。彼らの自意識は「客」である。客であり、買い物をしている以上「明確な犯罪でなければ」なにをしてもいい、ということになっている。実際のところ、彼らは意外なほどに万引きなどはしない。
だから「俺ら客だよ?」に対しては「別に買ってもらわなくてもいい」と言う。「ほかの店を利用してくれればいいです。うちのことは利用しなくていいです」と言う。これは彼らにとって、前提となる権利の全否定だから、裏切りにあたるわけだ。しかし諦めはわりと早い。権利を保証しない以上、彼らにとって俺はいてもいなくてもいいものになったからだ。
こういう経験を通じて、最初に書いたような考えに至ったわけだ。
彼らの常識は、いわゆる社会の常識とは異なる。異なっている以上、社会化されていない。俺はエントリとして書いた以上、彼らを社会化する方法について述べるべきだろうが、いまのところちょっとなんの対策も思い浮かばない。特にネットにああいう迷惑行為をアップしてしまうような手合いだと、なにをどうやっても制御できる方法が思い浮かばない。
とはいえ、そういうものはかならずなんらかの制裁を与えられるのがこの日本の社会というものである。よくも悪くもそういうものだ。
で、それがネットの炎上というかたちになって表れているのだと俺は思っている。
この流れは続く。続かない理由が思いつかないからだ。ひとつには彼らが炎上を避ける方法を学習すればいいのだが、それにはたぶん相当の時間がかかる。どこかでの炎上があって、それを見たとしても、それと自分たちの行為が結びつかないからだ。「あれは外部で起きていることであり、うちらとは関係ない」が原則となる。また、炎上させるほうも手を緩めることはないだろう。なにしろ彼らの傍若無人なふるまいは、同世代にとってこそいちばん迷惑になる。ならば、ネットという「力」を活用しない手はない。
俺は、俺の思想にしたがって、彼らの存在を可能な限り正しく把握し、そこに感情的色彩を挟まない努力をしなければならない。「あれはバカで、どうにもならない」でかたづけてしまうのは、俺にとって敗北だからだ。
というような話を、車のなかでうちの奥さま相手にしていた。うちの奥さまいわく、
「だから、子供できるだろ、結婚すんだろ。そうすると落ち着くんだよ。伝統芸だろ」
芸かよ。
「いまでもこの方法は有効だと思うんだけど……でもなあ……昔はそういうのが有効だった理由って、暴れるだけ暴れて、それって反抗するってことだったんだけど、やるだけやれば、反抗してた大人たちはそれなりに大したもん、というところに落ち着いたからじゃん。そういうの、ないからね、いま」
「ないですか」
「ないよ。大人もいなくなりつつあるし、反抗でもない。両方の側面からアウト」
アウトですか。
さて、俺は考える。俺の常識、社会の常識のほうがまちがっていて、彼らの「うちら」感のほうが正しいという可能性をだ。俺には「うちら」と「うちら」が出会ったときにどうなるのか、ということについての知識がない。しいていえば、各コンビニごとに溜まる集団はひとつだけで、住み分けが成立している、ということくらいだ。
俺に考えられるのはこのへんまで。
おそらくこういうのちゃんと論じた本とかはあると思うんだけど。
同じ場所でけっこうな期間にわたって店をかまえていて、彼らが高校生のころから見てたりもするんだけど、昔だったら、男は肉体労働、女は水商売っていう上がりのかたちがあったはずなんだけど、受け皿のほうが少ないせいか「どうやって生活してんだろこいつら」と思うようなのが増えてる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
自分は日常生活を送っているとたびたび死にたくなる。ツイッターでアニメを実況しながらその日三杯目のカップ麺を食ってるとき、記憶の底に押し込めて門外不出にしておきたいような恥ずかしい記憶が何かの拍子にふっと思い出されたとき、とてつもない失敗をやらかしたとき、何もかもうまくいかないとき。例を挙げれば数限りないが、共通しているのは大抵の場合「死にたさ」は唐突に湧き出してくるということだ。勿論ポジティブな気分でいるときに死にたくなるわけはない。何となくネガティブな気分でいて、自殺なんかとは全然関係ないこと、例えば明日までに仕上げなきゃならない課題の山や、こじれまくった人間関係の修復方法について考えているときに、突然強烈すぎるくらいの負の願望が意識に浮かび上がってくる。そして即座に消えていく。
仲間がいれば安心するってわけでもないが、この唐突な「死にたさ」の襲撃を受けたことがある人間は大勢いるようだ。インターネットによって手軽にそれを調査できる。一日ツイッターのタイムラインに張り付く根気と暇があれば、必ず一個は死にたいツイートを目にすることができるだろう。ツイッターを「死にたい」で検索すればそれこそ秒単位で発言があるのを確認可能だ。勿論ネット全体の人口に引延ばせば1割にも満たない人数だろうが、それだけ集まれば「死にたさ」の存在を証明するには充分だろう。それどころか、かつて人がここまで「死にたさ」を前面に出してきた時代があっただろうか。自分はこの現象を、即時的なメディアであるツイッターの登場によって、以前から我々の意識の流れの中に存在していた「死にたさ」が可視化されたのだ、と考える。自分にそれを検証するだけの心理分析の知識はないが、状況証拠から判断すれば「死にたさ」は普遍的に存在する、と言っていいだろう。
自分がしばしば感じる「死にたさ」とそうした普遍的な「死にたさ」が同じものだと仮定して話を進めると、この「死にたさ」は、より本来の性格に即して表現するなら、「消えたさ」になると思う。あるいは「病死したさ」。さらに言えば、それは「消えたさ」「病死したさ」であって、「自殺したさ」ではない。自分だけかもしれないけど、その言葉が与える印象は厳密なところでちょっと違っている。消えるのも病死するのも、自分の意思とは無関係に起こることだ。自分の意思で存在が消滅したり病死したりできる、というのはちょっと面白いけど起こりえない。消滅も病死も、己以外の何かの力によって命が奪われる、という性質を持つ。対して自殺には意思が必要だ。自殺したい、ってワードを言葉通りに解釈すると、その人は、消えてしまいたいという意思と、練炭やらロープやら自殺の予定地やらを準備する意思を同時に持っているということになる。その点、「死にたさ」におそらく意思は、「死んでやろう」みたいな感情はない。「消えたい」と表記する方が「死にたさ」を表すにはより的確、というか純度が高いと自分は考える。
自分にとって、これらの単語を区別しているのは積極的な意思の存在だ。「死にたさ」はあらゆる意味で受動的なものだ。消えてしまいたい。急病で突発死してえ。あくまでも消極的に、実行する意思はないままに自分の存在がこの世界から消滅することをちょっとだけ望む。「死にたさ」に意思が存在する場合、そこで初めてそれはより強く、より持続する「自殺したさ」へと変化するはずだ。「死にたさ」は思いつきのようなものに過ぎないため、意識が次の事柄に考えを集中させればすぐに消えうせる。その字面が与えるインパクトより、実際の「死にたさ」とはライトで軽微なものなのだ。
なぜ人は「死にたさ」を覚えるのか?「死にたさ」とは、存在の消滅を望む消極的で突発的な感情だとこれまで書いてきた。分析する手がかりになるのが、「死にたさ」が己の意思とは無関係に、脊髄反射的に意識に浮かび上がってくるものだということだ。ここから、「死にたさ」は思考や意識よりも、心の持つ基本的な働きに起因するのではないかという仮説を立てられる。それを明らかにするために、ここで我々がどういう時に死にたさを覚えるのか、その具体例を検証してみたいと思う。
「時間は深夜4時を既に回った。とっくに就寝しなければいけない時間は過ぎていたのに、男はキーボードを打つ手を止めることができずにいた。文章のテーマは「死にたさの分析」。男はその時間になってようやく後悔しつつあった。なぜ俺はこんな課題でもないし、お金が貰えるわけでもないものを生活リズム崩してまで書いてるのか。俺はバカか。平日だぞ。明日ちゃんと早起きしなきゃならんのよ。昨日遅刻してるからもう絶対今日は時間通り起きなきゃならないのに…後悔の言葉は空虚に響いた。もう何を言っても遅い。遅すぎる。最低でも午前二時には寝なきゃならんかったのだ。途中トイレに立ったところで止めとくべきだったのだ。バカだ俺は…物事の優先順位も分からずにクソが…。じわじわと後悔は絶望に変わってくる。いっつもこうだ…後先考えずにどうでもいいことおっぱじめて、やるべきことは放置して…あっそういえば明日までにやらなきゃいかん奴全然仕上げてねえよ…ああーもう間に合わねえかな、やる気も出ないし…ああー明日行きたくねえなあー…「死にてえ」……男にはやるべきこと、時間をそれに費やしていれば実りある成果を得られただろうことが他にいくつもあった。それらを全て無視し、「死にたさの分析」を書きあげるという選択をしたのである。無意味に。男が遅刻を避けるため、とりあえず徹夜する覚悟を固めて顔を洗ったとき、時計は5時を示していた。」
以上の挿話の流れは、おおよそ次のように分解できる。自分の責任でどうにもならないバッドな事態へ落ち込む→絶望して自分を責め始める→さらに絶望する→死にてえ…
上述したように、「死にたさ」が論理的な思考の流れとは無関係に出現していることが分かるだろう。ここで鍵となるのが、「死にたい」と感じることによって一連のネガティブな思考に決着が付いていることだ。バカだとか物事の優先順位が分からんとかいった自己の欠点をあげつらってみたり、いっつもこうだ~によって自分自身を悲観してみたりしたあげく、どうにもならない現実を確認した上での「死にたい」。確かに、「死にたい」って言葉ほどパンチ力のあるネガティブな言葉は存在しないだろうし、「死にたい」と思ってしまった時点でそれ以上に自分を責めることも、現実を悲観することもとりあえずは打ち止めになる。「死にたさ」は自己否定がそれ以上深化することを防ぐための防衛機能なのではないだろうか?
「死にたさ」が同じような働きをしている例は他にも存在する。屈辱的だったり恥ずかしかったりして思い出すのに抵抗があるような記憶が、何かの拍子にふっと思い出された時、反射的に「死にたい」と感じてしまったことはないだろうか。恐らくそれも自己防衛の機能を持った「死にたさ」だと考えられる。精神に負担がかかるような経験をし、自己の存在が揺るがされたとき、程度によりけりだが、その記憶を思い出して客観的に事実であると認識することが難しくなってしまう。記憶を事実とストレートに認めることによって、再度自分自身に精神的負担がかかってしまうことを防ぐためだ。「死にたい」と感じることが思考を打ち切る機能を持つことは既に書いた。軽度のトラウマ的な記憶を思い出してしまった場合に感じる「死にたさ」もまた、精神が自己を守るために、それ以上記憶を探らせないため意識に発した救難信号だとは考えられないだろうか。
このように考えてくると、思考を中断するために「死にたさ」を発する人間の心がなぜ「死にたさ」というものを発しなければならなかったのか、その理由をなんとか推測することができそうである。人間は生きている限り、起床時であればほとんど間断なく思考することが一応は可能である。これを逆に言えば、人間の思考が完全に中断するのは、就寝と死亡、二つの機会をおいて他にない。意識の消滅した状態を欲求するということは、とりもなおさずこのどちらかの状態を欲するということだ。就寝を欲求するのは人間の本能の部分なので、本当に眠たくて寝たい時ならともかく、精神が「眠たさ」の発信を思考を中止させるためだけに行うことは、そういうこともあるとは聞くけど、普通の状況では起こりえないだろう。本当に寝てしまって一時的に活動を停止してしまう危険があるからだ。しかし、「眠たさ」が発信されているとき、人間はまともに考えることが難しくなるということは誰もが首肯できる事実だろう。一方、意思の部分が欠けているために肉体的な死とは繋がっていない「死にたさ」は、思考を一時中断する機能を持つと同時にどれほど濫用しても対象の肉体が危険に晒されることがない。
自己を防衛するために一時的に「死にたさ」で頭を一杯にさせ、思考のそれ以上の進行を食い止めるという心の働き。所詮は仮定と推測の寄せ集めでしかないが、「死にたさ」の正体としてはこの辺りがありそうなところではないかと自分は考えている。「死にたさ」は救難信号である。それが発信されているということは、自己の精神面が危険に晒されているということを意味している。もしこうした突発的な「死にたさ」に襲われたなら、それは己を否定することをやめ、あるいは記憶を直視すまいとすることをやめて冷静に状況を判断し、それを好転させる絶好の機会といえるだろう。精神もただ苦しませるためにあなたを死にたくさせているわけではないはずなのだ。
特売品でメーター98円の布を買おうかどうか迷った俺が居るんだが?
布屋で布の値段をチェックしてる俺と布の価格でなんか話すか?
ちなみに、デニムとかだと確かにメーター1000円ぐらいかかるな。
特殊布だと4000円近いものもあるが・・・どんだけドレスを作る気だ?
大人のワンピース一着だと110巾で260ぐらいひつようなんだが、子供服で何m布を使う気だ?
既成品のほうが安くなるのは、ペラい布で無地の、大量生産の素Tぐらいじゃね?
ちなみに、鉱物資源で銀なら80円ぐらい金なら18Kでざっくり4000円前後。カップ麺なら日清なら120円ぐらい。パチモノなら90円台とかだ。
《前提》
《方法》
会社は土日で誰もおらず頼りにできる親戚もおらずぼっちで友人もおらず、実家も海外旅行中で、警察もクレジット会社も金貸してくれず、JRもバスもタクシーも乗せてくれなかったら若干詰むが、それでも2000円あればなんとかなりそうな気がするなー。飯は毎日100円〜150円でカップ麺orパンorおにぎり。別途飴を一袋買って糖分補給。水は駅や公園で。これだけ歩くと靴はズタボロになりそうでそこは心配だね。