はてなキーワード: 白と黒とは
★★★★☆
2巻8話。
BJが山間部を走るバスに乗っていたところ、バセドー病の患者を見かける。
ここ一帯で評判の医者へ行くというので、気になりついていくことにするが、
しかしBJは、こんな無医村で医者を続け、村人の尊敬を得ていることを立派だと話して去る。
初見。
ラスト、白と黒の対比もよかったし、見送るBJがどんな顔してたであろうかも想像できて面白い。
BJが手放しで医者をほめるシーンの、中空を見上げながらなんともいえない表情をしてるコマもすごくよかった。
ここで、自分と同じモグリなのにこんなに尊敬を集めてて小憎らしい!
とか、村人にバラしてやる!とかなんないのがすごいところだなあ・・・
自分にないものを認めて、素直にすごいと言えるってのは、簡単だけどすごく難しい。
こんな無医村で三十年も医者をやって あれだけ村人の尊敬を受けているんだ
私はね 先生にほれこんだんですよ……フフフフ…
だからこそオペもお手伝いしたんだ
古和医院
ピノコ愛してる
二度死んだ少年
アリの足
えらばれたマスク
白いライオン
シャチの詩
二つの愛
幸運な男
閉ざされた三人
万引き犬
奇胎
からだが石に…
佐野研二郎氏盗作疑惑について(学生個人の意見です/2015年8月23日時点)。
彼はご存知の通り多摩美術大学のグラフィックデザイン学科を卒業し、現在はアートディレクターをやりながら多摩美術大学統合デザイン学科の教授も務めています。
実際には、まだこの学科自体設立から2年目で、佐野教授自身が講義を行うことは今までにほとんどありませんでした(というか、私はまだ彼の講義を一回しか受けていません)
統合デザイン学科は、多摩美の本キャンパスとは別の上野毛キャンパス(世田谷区)にあります。
学科長はプロダクトデザイナーの深澤直人教授で、そのほかに、ウェブデザイナー・インターフェイスデザイナーの中村勇吾教授、HAKUHODO DESIGNの永井一史教授、そしてアートディレクターの佐野研二郎教授の4人と統合デザイン学科専任の講師や先生で構成されています。
現状、学校によくいらっしゃるのは深澤直人教授(統合デザイン論)と中村勇吾教授(メディア技術概論)で、あとのお二人は統合デザイン論に前期で一度講義をしたぐらいです。3,4年から講義が「プロジェクト」という形態に変わり、そこで教授別にクラスが再度編成され、たぶんそこからお二人もがっつり学校にいらっしゃるようになるはず。
世間的に言えば「つぶしのきく」学科だと思われがちなのですが、実際には「デザイン・ベーシック」つまりデザインの基礎を最初の2年間で徹底的に教わり、そのベースを生かして次の2年間で社会的にローンチできるプロジェクトのデザインを学んでいきます。具体的には現在、グラフィック・プロダクト・インターフェイス・描写などの必修と、そのほか選択を受けています。教授の顔ぶれをみてわかる通り、細分化されたデザインをあらためて"統合"することで、「これからのデザイン」に特化した人材を育成する学科です。現在、デザインそのものが非常に広い意味をもつようになり、そんな時代において「グラフィック」や「プロダクト」などに特化しているだけでなく広い知識と経験を持った人材が必要とされています。一見デザインとは直接関係のないようなこと(たとえば佐々木正人さんによる『アフォーダンス』の講義)や、表面的なグラフィックの造形技法からCADを利用した立体物、Webやメディアアート作品などに応用されるプログラミングなどいろいろな技術を学ぶことと同時に、それに付随する感覚みたいなものも学習しているように感じます。実際、そういった感覚みたいなぼわっとしたものが現場で役立つこともあり、領域の垣根を越えることでみえてくることや繋がることもたくさんあります。
(武蔵美の基礎デザインとどう違うのか、と聞かれることがあるのですが、基礎デとは根本的に近いはずです。学科長は原研哉さんで、そもそも深澤教授は基礎デザイン学科の教授だった)
(とにかくやることが多いので、課題の量は半端ないです。たまに自分がなにやってるのかわからなくなります。あと先生たちもまだどのくらいの量の課題を出したら学生達の生存に関わるのかをよくわかってないっぽい。勘弁して欲しい。)
先ほども言った通り、まだ学科が生まれてから2年しか経っていないので、3,4年を経験した学生はいませんし、卒業生もいません。だから、就職先のデータもなく、倍率はそこまで高くないのですが、統合デザイン学科特有のコンセプトに魅力を感じて、たとえば多摩グラ受かったのに蹴ってこっちに入学したり、試験内容が東京藝大のデザイン学科に似ているところがあるので(平面構成)そこを目指す人たちが受けたりすることもあるみたいです。
〜〜
ざっと学科についてはこんな感じです。詳しくは学科のサイトをみたり、各教授のNHKプロフェッショナルとか本をみたりしてみてください。デザインに興味のない人でも、おもしろいと感じる点はきっとあると思います。
さて、たぶんこれを読んでるみなさんが一番興味があるのは佐野研二郎さんについてだと思うので彼の話題に。
関係ない話ですがエンブレム発表の前日に佐野教授と現場の手伝いに行った視デの友人曰く、めちゃくちゃ笑顔だったようです。彼自身、亀倉雄策さんのオリンピックエンブレムがかなり好きで、それを(いい意味で)引用して新しいエンブレムを作り出し、それが選考で選ばれたんだから、嬉しくない理由がわかりません。
最初に自分があのエンブレムをみたとき、直感的にかっこいいと思いました。シックで、いままでのオリンピックエンブレムとは一線を画すような新しいデザイン、新しい東京のイメージを担ってくれるような力強いものに感じました。そしてそれと同時に、あ、きっとこれ佐野さんのデザインだ!と思いました。たぶんそう思った要因の一つに、中央の「黒」の棒の部分があります。完全な黒ではありませんが、こういったエンブレムで無彩色の黒を使うのは一般的にはわりと暴力的で結構批判もきそうだなと思ったのですが、そもそも佐野教授自身黒色を多く用いることで有名なので納得がいきます。たとえば、「統合デザイン学科」のロゴやその周辺のデザインはすべて白と黒で形成され、学科の、現状では異端であるもののそれがこれからのベーシックになっていくはず、という考えや、力強い勢いを感じられ、学科の学生の多くはこのデザインを気に入っています。他にも東京国際映画祭のロゴをはじめ黒を多用したものは多く、今回のエンブレムに関して喪章だなんだと言われていますが、まあそういうネガティブなイメージで彼がデザインしたということはないかと思います。
造形的にベルギーのデザイナーのエンブレムと似ているということで炎上していますが、擁護派の皆さんが言っている通り、ああいった幾何学図形を利用したロゴマークである限り、なにか他のデザインと似てしまうのはしょうがないことです。というか、そもそもロゴの本とかをみると似ているもので種類分けされているぐらいです。造形的に似ているからといって、そのなかにあるコンセプトは異なります。造形的な点のみで「パクリ」だと決めつけてしまうのは、あまりにも強引なのではないでしょうか。今回のエンブレムは、エンブレムとしてのオリジナリティよりもその拡張性や普遍性を追求した、シンプルで力強いものだと感じています。
さらに、ベルギーのデザイナーはそのロゴを商標登録していないとのことです。となると、エンブレム側にまったく問題がないと言っても大丈夫なのではないでしょうか。
記者会見で佐野教授が感情的だったという話がありますが、もともと彼は自分自身でも「おれはキレキャラだ」とおっしゃっていたり、講義中に実際にキレてくれたりするので、まあ無理はないかなと思います。余談ですが彼は最近藤子・F・不二雄関係の仕事が多く(映画やTOYOTAの広告の成功から)、ドラえもんミュージアムにあるレストランで新聞広告用の写真を撮りに行った際「ジャイ子の“ハット”シュッドビーフ」がもう販売中止ということを聞いて、レストランの方に無理を言ってその場で作ってもらい、その写真を新聞広告に載せメニューを復活させたという逸話があります。好きなものに対してのオシは誰よりも強く、普段から感情的にはなりやすいような人なのだと思います。 http://fujiko-museum.com/blog/?p=18605/
このエンブレムに唯一問題があるとすれば、なんとなく「高揚感」が感じられないところです。ただ、それは佐野教授に問題があるのではなく、それはこのデザインをたくさんの候補の中から選んだ選考委員に問題があるのです。他に、もっと「オリンピックらしさ」があって、高揚感の感じられるデザイン案なんていくらでもあったはずです。
その選考が一般的な選考会の方式をとっているのであれば、いまいわれている佐野さんのデザインだから特別に選んだということ憶測もありえないのではないでしょうか。基本的に選考は名前を伏せるはずだし、原研哉さんや葛西薫さんをはじめ他にも応募した有名デザイナーはたくさんいらっしゃいます(応募基準も厳しい http://www.fashionsnap.com/news/2014-09-19/olympic-tokyo-emblem/)。
これについては、一人のデザイナーとしても、いち仕事人としてもありえない行為だと私は思います。まったく擁護できません。佐野教授の下の人がやったとしても、「佐野研二郎デザイン」と書いてしまったからにはそれなりに彼にも大きな責任が生じるし、そもそも画像からまるごとトレース(というよりコピペ)するのはまさに「パクリ」で間違いないと思います。いかに制作環境が劣悪だったかがわかります。一般的なデザイナーであれば、なにかをトレースする際、そういう素材の揃ったサイトに月額とかでお金を払って利用したりしていることがほとんどかと。こんなやっつけ仕事でお金がもらえるなんて、純粋に「いいなー」と思いました。バレてよかったですね(今後のMR_DESIGNのためにも)。
ネット上では、佐野教授周辺の関係図みたいなものが話題となっています。審査委員が同じだとか、広告代理店が牛耳っているだとか、いろんな話があります。つまり、デザイン業界は身内のなかで行われているということです。残念ながら、それは確かにあると思います。業界内で評価するシステムというのは確かにあるし、長嶋りかこは彼の直属の後輩です。
自分の話になりますが、私は実はまったくデザイナーになりたいと思っていませんでした。多摩美の、統合デザインに入りたいと思ったのは、まさにそのコンセプトに魅力を感じたからです。深澤教授のおっしゃっていた「いいものを触った時、『これがほしかったんだよね』と人は言う。本当に欲しい物のかたちは、すでに決まっている。」この言葉が、デザインのみならず広い意味で今後の「デザイン」に応用できると思ったのです。だからいまでもグラフィックやプロダクトをやりつつもそれが最終地点ではなく、デザインという思想や考え方をあらゆる事柄に応用していきたいと考えています。そういうことを学ぶには、ぴったりな学科です。そして受験勉強をするために、予備校に通い始めました。そこの授業ではあらゆる有名デザイナーの作品が取りあえげられるのですが、その中にはどうしても理解できないものもありとても悩んだこともありました。もしかしたら、そういったもののなかには現在問題視されているような業界内評価システムの土壌でうまれたものもあるのかもしれません。
一般人に受け入れられにくいデザインは、果たして優れたデザインと言えるのでしょうか。なにをもって、ただのデザインは優れたデザインになりうるのでしょうか。その答えはまだ私にはわかりません。
いま、どんどん新しい「パクリ疑惑」のデザインがネットユーザーによって見つけられてきていますが、デザインの歴史が深くなり文脈が形成されていくと、そこには明らかな引用や模倣も増えていきます。それはどんな文化でも同じで、音楽なんかもそうです。デザインもスタイルであり、継承されていくものなのです。だから、造形的な面でなんでもかんでも「パクリ」と決めつけられてしまうと、デザインの歴史が続いていくことそれ自体を否定することと同じになってしまいます。なにかから影響を受け、文脈が形成されていくことを「パクリ」の一言で否定しないでください。
今回の件で佐野教授に問題があったことも明確になりましたが、一方で、彼の講義を受けていたからかもしれませんが、とてもじゃないけどオリンピックのエンブレムにおいて彼は雑な仕事をするとは思えません。
亀倉雄策の仕事で一番好きなのは1964年の東京オリンピックのエンブレムだ。シンプルで力強く、唯一無二のデザイン。いつの日かこのようなシンプルで骨太な仕事がしてみてみたい、と思うようになった。ニッポンを、世界を、あっといわせる仕事。一生に一度でいいからそういうデザインをしてみたい。シンプルであること。明快であること。太くあること。Simple. Clear. Bold. ある日から僕のデザインの指針となった。デザインとはなんだ。デザインにはなにができる。そういう自問自答を繰り返した。(中略)目の前の画面は世界に確実につながっている。デザインはシンプルで深い。考え、それを超えるべく手を動かし、また考え、また手を動かす。邪念はいらない。デザインは思想だ。簡単に。深く。明快に。太く。でも簡単に。ストレスはある。でもいつも朗らかである。そういうデザイナーでありたい。デザインの道はまだまだ続くのだ。負けない。僕には亀がついている。亀はゆっくり、確実にやってくる。
エンブレムの問題とトートバックの問題は根本的にまったく異なるものです。そこを一緒にしてしまうことが、今後のデザインを殺すことにつながりかねません。
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・エンブレムについて、おそらく審査員も彼の作品だと見ただけで分かる人もいたかと。黒を使用したこと、そしてあのTOKYO 2020のフォント。あれは東京国際映画祭のロゴでもおそらく使用していましたし、彼のデザインだと一目でわかる点でもあります。正直、あのフォントが幾何学図形を用いたあのデザインにとって最も理想的なフォントであったとは思いません。
・学生じゃないだろみたいな意見をみて「いや学生ですけど・・・」と匿名なりに思ったりしたしそれを証明できないのもなかなか悔しいのですが、多摩美術大学統合デザイン学科の学生です。「業界の端っこにいるみたいな気分になってる時点でこの界隈の闇を感じた」美大って、セミプロみたいな人が集まるんだと思います。それは、一般大学とは別の特殊な試験内容が課せられるからで、それをクリアするために誰しもある程度のレベルの状態で入学してきます。そういった意味で、業界の端っこみたいな感覚は私自身拭えない点です。生意気だと思われてしまったら、申し訳ないですが・・・。
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・ベルギー側が商標登録していないためエンブレム盗用疑惑について私は「まったく」問題がないと書きました。著作権がある、ということだけでエンブレムとの類似性を訴えられるのであれば、本当にどんなデザインでも訴えられてしまいます。商標というシステムは、そういう意味でも機能している。ただ、自分自身勉強不足でもあるのでもっと調べてみます。 http://ipfbiz.com/archives/olympiclogo.html たださっき調べたら、東京オリンピックのエンブレムもまだ商標登録が済んでいないとのことで・・・w
・佐野教授への評価は、私自身、下がりました。学生ごときが評価とかなにを偉そうにと言われるかもしれませんが。こんな仕事をするひとにはなりたくないな、と純粋に思いました。トートバックのような小さな仕事でも、しっかりと制作しなければ、大きな仕事、つまりオリンピックエンブレムのような仕事もダメになるというか、結局ものをつくるときの姿勢ってそのひとの評価やデザインにもちゃんと反映されるんですね。この一件はデザイナーや関係者、それを学ぶ学生、もしくはいままでデザインの外部にいたとされていた人たちにとって、デザインとはなんなのか、パクリや模倣とはなんなのか、そういったことを知り考えるきっかけとしては良い機会になったと思うのです。だからこそ、そこで歪んだ考え方や間違った見解が社会に浸透していくことは、できるだけあってはならないことだと思います。なにが正しくて、なにが間違っているのかすらよくわからない時代ではありますが。
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・多摩美情デに関する批判は完全に話題から脱線している内容であり、改めて読んでも全く的を得ていないものです。訂正しお詫びします。大変申し訳ありませんでした。
・ご指摘の通り「在日」や「売国」などに関しては一部のネットユーザーが根拠のない事実を拡散しているだけだと認識しています。この一件を複雑化させるだけだと感じたので訂正しました。
最近は、あまり見なくなったけど、リンクされてる文字列やタイトルに「虚構新聞」って書いてないから、思わずクリックしちゃったじゃないか。虚構は死ねとかいう、とてもとても繊細な人を、割とよく見た時期があって。
そんな繊細な人のために、ユーザースクリプトとかを考えていたんだけれど、作るのが面倒になってやめたので、コンセプトだけ。
昔、一眼レフを買ったときに舞い踊る気持ちで紅葉の写真を撮りにいった。
そして、一枚写真を撮ったときに、私はものすごく衝撃を受けた。
なぜかと言うと裸眼で見る紅葉より、一眼レフを通した紅葉のほうが美しかったのだ。
一生懸命頭を悩ませ、いろんな人に話を聞いた。
さまざまな答えが返ってきたが、一番印象に残っているのは
という二点だった。
よって私はカメラのレンズは裸眼で見える意味での真実は写していないという結論となった。
これは2年前ぐらいの話なのだが、つい最近あるプロモーションビデオを見た人のコメントで
「こんなに美しい世界を普段見ていたということに改めて感動しました」
そして常にカメラのレンズを私たちの目につけているわけではないとすると、その世界は存在しないのと同義なのではないか。
中学生の頃授業で読んだ文章で、はっきりとは覚えていないのだが
「世界から色が消えるときは、白と黒しか判断できない犬のみがこの世に残ったときだ
たとえカラフルな景色が存在しているとしても、この世にそれを見ることができるものがいなくなれば、世界から色が消えることと同義だ」みたいな文章を読んだことを思い出した。
それに似ている気がした。
つまり何が言いたいかというとプロモーションビデオの内容と普段わたしたちが目にしているものは
別物と言ってもいいのではないか、ということ。
だから悪いということでもないし、あんまり深く考えずに美しければいいじゃん、みたいなことを言われそうだが
なんとなく思ったことをまとめてみた。
ちなみにそういうのをやる仕事はなんていうか知ってる?営業って言うんだよ。
会社って営業だけしかいないと思う?なわけないよね。その裏でサポートしている人がいる。この人たちはなんていうか知ってる?事務。彼らはそんな肉体労働するわけないよね。まあPCの移動などの多少の肉体労働はするだろうが。
それで彼らを採用するのはどんな人達か。人事。お金を管理しているのは。経理。他にもITなら開発職としてシステムエンジニアという人達もいる。彼らは社外に出ることはあるにはあるが、それが常ではなく、基本的にオフィスの中での仕事がメイン。
君の思っているきっつい仕事だけが全部じゃないし、君の思っているエリートはきつくないかっていうとそんなことはないよ。そして、きついときはきついし、きつくないときはきつくない普通な仕事もある。
LINEでしきりに「自分は地味だ」「通勤中の姿なんて見せられない」「スカート持ってない」と繰り返すので、
「自分は落ち着いた感じが好み」「頑張りすぎてもつらいから普段通りでいいよ」と伝えたけど伝わらず、
カフェの駐車場に現れた彼女は不慣れな化粧とスカートのせいで、ぶっちゃけ最初は誰だかわからなかった。
この前と雰囲気違うね、控えめにそういうと彼女は「頑張ってきました~!」と満面の笑みを浮かべて僕の顔をじっと見る。
ああ、自分のために頑張ってくれたのはすっごい嬉しい。笑顔も最高にかわいい。
けど残念ながら、僕の好みからは離れていた。
聞けば周囲の女性から「やっぱスカートっしょ! メイクもバッチリ決めなきゃ!」みたいなアドバイスがあったそうだ。
違う、そうじゃない、普段のありのままでいいんだ、僕は地味子が好きなんだ。まぶたの紫色のキラキラとかマジやめて。
なんで紫色なの? チアノーゼなの? 救急車呼ぶ? それとも冠位十二階? マウンティング女子ってこと?
付け焼刃のメイクよりも、せっかくがんばるならメガネをかけてほしい。かけるだけでいいから。
異性のための頑張りが空回りしてしまうことは、僕にも覚えがある。
僕は自分に自信が持てなくて、ネットにあふれるモテTipsをいくつも読んで、髪をセットし、香水をつけ、
体重を20kg近くも落とした。
だけどある時、ようやくできた彼女に聞いたところ、髪型や香水よりも、気遣いとか、会話やLINEの面白さだとか、
何より自分と雰囲気が合うことが重要なのだそうだ。肌色のベイマックスのようなお腹もかわいく見えるらしい。
けれど、むしろ髪なんかセットせず、「これで大丈夫なのか?」ってくらいが、地味子にはウケるらしい。
ちなみに彼女も地味子だった。服のカラバリは白と黒と青しかなかった。残念ながら別れてしまったが。
同じくモテるために筋トレに走った知人は、僕よりもはるかにスリムでマッチョでスリムだし職業もハイスペック。
だけど残念ながらモテない。話がつまらなくて、何より空気が読めないから。
本当に異性に求められる努力ができていない。
なぜそうやって空回りしてしまうのかというと、自信のなさの裏返しなんじゃないかと思う。
自分の自信のなさや嫌われる恐怖への処方箋として、髪型や香水やファッションやメイクで補強して、
「自分は大丈夫だ」と思うのだろう。かつて僕がそうだったように。いま彼女がそうであるように。
だから僕は声を大にして言いたい。
2.相手の好みは素直に相手に聞いたほうがいい。ぶっちゃけトークは距離を縮める。
3.相手から認められ、好まれることが、何よりも自信につながる。
http://anond.hatelabo.jp/20140421200127
台湾人女性の「甜美味」をあなたは知る機会があったら、もう一度同じ記事をあなたは書くだろうと予言してみる。
キティちゃんで部屋を埋め尽くすし、
もちろん同窓の披露宴パーティにロリロリ系ピンクピンクのドレスにアクセサリー、バッグで揃える。
え、何人見たかって?
驚くべきことに20人くらいそうだったんだよ…
そして、そうでないタイプの女性は薄め赤色のドレス、エナメル白×ピンクのアクセサリーにバッグが多かった。
(中華圏では結婚式披露宴にお客として行く時、白と黒の組み合わせは禁忌!葬式スタイルと言われてしまう)
強烈な人はどこにでもいる。
白色がプレミア価格で取引されていた頃ではなく、流行が完全に終息し、内蔵されてるボタン電池よりも安くたたき売られていた頃の、である
どうやら女子中高生の間ではiPhoneはスタイリッシュな憧れのアイテムではなく、目の前の流行に安直に飛びついたバカの証として忌避されつつあるらしい
特に爆発的に普及したiPhone4、4S、5あたりは基本的なデザインが同じでカラーリングも白と黒しかなく、カバーやストラップの類でしか個性を出せないのが、少しずつではあるが競合製品(といっても実質Android搭載スマホだが)の多様な形状、デザインに対して見劣りしつつあるのだとか
また、発売から時間が経過すればするほど安くなるのも知られているため、今春の進級、進学を機に最近購入した者は「値段の安さに釣られて今更のように飛びついたにわか者」と仲間内から陰口を叩かれる事もあるそうだ
なんでこんな馬鹿げたことをしているのだろう.
白と黒の間を中途半端にふらついて,金と時間を惜しげもなくドブに捨てて,俺は何をしているのか.
俺の幸せは,グロテスクな自己の内面と戦うことで得られるのか?
もうそろそろいい時期なんじゃないのか?
彼女に尽くして,外したのか外れたのかも忘れたあの軌道に引き直して,またそれなりの社会的地位を取り戻して,それで充分幸せなんじゃないのか?
そのくらいの余力はまだ残ってるだろ?中途半端さえやめれば,鬼にさえなってしまえば承認欲求だってきちんと満たされるんだ.
お前の可哀想な弟にも.そこそこうまい飯と,あったかい寝床を与えてやれる.
それでいいじゃないか.
いや、実際問題。白と黒以外は 他の家電だって 売れない(正確には売れにくい)ってのは事実。
ビビットな色は、模様がえに追従しにくいしね。コストかかる割には売れにくい。その一端には流通在庫の問題もあるんじゃないかと。
量販店が在庫抱えるの嫌がるからね。だから、BTOで直送にでもしない限りは、色は出てこない。
需要はあるけど、少ないという事実。もっとも、その少ないニーズをどう拾うか?というのはあると思う。
ただ、木目調とか、高級感 および、質感という路線は考えてほしいなとは思う。
黒と言ったって、いろんな黒があるんだが。と。
最近は、良いデザインも増えてきたが・・・いかんせん、黒は黒でも全体デザインとして悪いというのは、あると思うよ。
正直、オーバーベゼルマウント にはしてほしい。 ベゼル用のマウンタ穴つけておいて欲しいんだよね。
まぁ、シールでもいいけど。
あとは、IRの受光部はベゼルの上につけて欲しいとかね。下だと干渉することがあるんだよね。他のものと。
台の上には物が置かれることがあるって、考えてくれない。 センタースピーカーは当たり前、ぬいぐるみ置くやつだっているだろうに。
はてさて、もう2010年も終わりだ。
今年の一年は今までの人生で一番目も当てられない一年であったと思う、なんとも自由で堕落しきった一年だった。
人との関係を蔑ろにした一年だった、人に縛られないことを自由に感じるより人に縛られることを不自由さを感じた。
望んでいたもの手に入れたつもりだったのに、ダラダラしているだけじゃ不満ばかりが募った。
逃げた、いろんなことから逃げた。逃げた先に更なる苦難があることを知っていながら逃げた。
今年得たことは何だろう?
偏見とか
あー、そういえば絶対はまらないと思っていたパチンコにあっさりはまった年でもあったな、それこそ週3ペースで行ってた。
今思うとぞっとするな。
一回持ち金が尽きて2ヶ月前くらいからやってないけど、いつ足元を掬われるかわかったもんじゃない。
それにしてもあれは凄いな、依存を引き起こす仕組みが。なんでちゃんと規制しないのかな?社会が悪いんだ(笑)みたいな?
そういえば、人に対しての見方がひどく悲観的になった気がする。
人は自分のことしか考えてないんだーとか、弱肉強食だーとか、人は一人だーとか、人間なんて所詮動物だーとか、世界はもう征服されてんじゃないかーとか
それと働きもしてないな、知り合いの偉い人が「学生の本分は勉強」とか言ってたから、まぁそれなりに単位は取ったけど。
アホな大学だしな、自分を嫌いになるよ。ああいうトコは。自己認証がみるみる崩れて気がおかしくなってしまった。
ほんと、さっさと辞めてしまいたいけれど、裕福でも貧乏でもない?両親の金で(もったいなさすぎて恐ろしい)
行かせて頂いている学校だし、文句を親に垂れることはしてない、辛いとか言ったら全国の奨学生の目の敵になるから言わない、言えない。
あまっちょろくてごめんなさい。
そういえば、今まで自分の属するコミュニティの中に美人がいれば逐一惚れてきた、恋多き男だったはずなのにこの人と付き合いたいと思った人に出会わなかった一年だった。
昔の人はよく「恋こそが生きる原動力」だとか言うよね、まさにそうなのかもね。ぜんぜん服に金を掛けない、靴なんて一年ほとんど同じ靴だったことには自分ですら引いちゃうな。
人と会わないから必然だったともいえるけれど、どんどん俗世との隔絶が深まっていってるような気がする。
戦術論、販売、会計、英語、組織論サボった分の穴埋めも年明けまでにしなくちゃいけないなー
クリスマスの予定が無いんだよなー、家にいると肩身が狭いなー、あー
大晦日と正月は昔の友人とその元カノ(顔見知り)とその友達(面識ほぼ無し)という前年と同じ奇妙な集まりがあるから寂しくはないんだろうけどなぁ
寂しいってなんだろうな、もう自分がそういうのに飢え過ぎていて、そのことにも気づかないことに気づいているレベルだよ、もう。
寂しくて泣いたのは今年が始めてだったな。
あーもうぜんぜん女の子と喋ってない、ヤバイ。っていうか男とも喋ってませんでした、声が出るか心配です。
好きなものは嫌いになったし、嫌いなものを好きだと思い込んだ。
欲しかったものは捨てるべきものになったし、
必要なものは不必要になったし、
持ってたものは無かったことに、
こういうのって、大体の青年期に訪れるらしいけど、やっぱり結構重症かもしれない。
あー、そういえば高校の部活ではしょっちゅう「部活やめる」って言ってたよ、俺。
きっとかまってほしかったんだと思う。いい迷惑でした、ごめんなさい。
あー、でもだましだまし過ごすことに限界を感じてる気もしなくもなくもない。
くるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
と言っていながら、
大人しいのになんか印象として一クセある服装してたり。「目立ちたくないならユニクロでジャストサイズのシャツとスカート買えばいいのに。白と黒で」って余計なお世話なことを思ったりしてた。
と言う矛盾。
まぁ、個性的だけとおしゃれじゃないと。言いたいんだろうが。
そんな辺り。
日本と言う国は、他国と比較した場合に異常なほど無彩色に近い色の表現名が多い。
江戸時代に平民に無彩色が推奨されていた時期があるからなんだが、わずかな違いで名前が違う。
黒ですら、黒、漆黒、濡羽色、少しでも色が付くと紅黒、黒緑、烏羽色などと呼ばれる。
そんな国のアートが、無彩色に近いどどめ色とか、豊富にある和彩色で表現されていても何も驚く事は無いと思う。
なぜ「キモい」ことはいけないのか?
理解できないから。
理解できないから、危険かどうかが分からない。
というか、理解できないものは危険な事が多いから避けたいと思うのは当たり前。
元増田です。
過去に、男女交際を全て禁じ、それどころかオナニーまで禁じ、でも性風俗は許容するような純潔教育が存在していたことを踏まえると、「純潔」という言葉に敏感なのも当然かと思います。
なるほど、しかし「純潔」という言葉は私が言い出したものであって石原が使った言葉ではありませんよ。にもかかわらず石原は叩かれた。
それに、私自身「自分自身に純潔道徳を課していた」みたいなことを書きましたが、増田以外のところでこんなことを言えば「童貞の負け惜しみ乙」とかへんな風に受け止められてまともに相手にされないのがオチですよ。少なくとも私が自分自身を律するためというためだけのあのような考え方でさえ、「そういう考え方があり得る」という程度にさえ受け取られないのが現状だということを考えると、単に宗教原理主義的な動きへの警戒というだけでは説明が付かないものがあると思います。
そしてたぶん、あなたは「自分で責任が取れるようになるまでセックスは控えておいた方が自分のためだよ。どうしても無理なら避妊しなさい。」にも否定すると思うのだけど、それに対する反論は以前書いたとおりです。
いや、その言い方は否定しないし(ニュアンスは違うかもしれないが)、「以前書いた」という「反論」が具体的にどの部分にあたるのか読み返してみても今ひとつわかりませんでしたが、自転車と危険レベルが同等とは思いません。
少なくとも都市部においては日常の移動手段として小学生ぐらいでも自転車を使うことに反対する理由は見あたりませんが、どれだけ「きちんと教育」したといってもたとえば中学生ぐらいがセックスすることがよいとは思えません。第一、あなたの書いたとおり「やるやつはやるよ。だって性欲あるもん」なのです。避妊をしなければいけない、とかそのあたりの自制心を働かせたり言い出したりできず、その場の流れで過ちをおかすことだって十分あり得るでしょう?中学生ぐらいって精神的にもそれぐらい未熟ですよ。教育や避妊手段の整備という議論自体には同意しますが、あなたやフェミはその効果を過大評価しすぎていると思わざるを得ないです。
そもそも、危険性では圧倒的に低い酒やタバコにしたところで、「酒はやめておいた方が自分のためだよ。どうしても無理でも一気飲みだけはやめておきなさい」なんて生ぬるい教育が通ると思いますか?そんなことないでしょう。要するに、どうしても、「性」だけは特別視したいというイデオロギー的なもの(という表現が適切かどうかはともかく)を感じるのですよ。あなただけでなくて社会全体からね。
いや、そういうことを言いたかったわけではないわけですが。売買春かどうかは本質ではありません。
そもそも、児童を直接的に性的対象とすることがなぜ虐待とされるかというと、未成熟であって性的主体たり得ない児童を直接的に性的対象とすることは児童の人格を蹂躙しているからということで、強姦や強制猥褻が本人の意志を無視していることで相手の人格を蹂躙しているというのと同一線上にあるはずです。逆に言えば、成人を合意の上で性的対象とすることが許されるのは、成人は性的主体たりうるとされているからです。
さて、そこで、世の中ではたとえば、高校卒業時の性体験率が半数近くという現状を問題視すれば保守反動扱いされかねないわけです。だとすれば中高生あたりを性的主体と認めるべきだという意見が主流であると考えてよいでしょう。しかしそうだとすれば、中高生を性的対象にすることは虐待ではないということになりますよね。これは論理的にあまりにも自明だと思いますが、違いますか。これはほとんど明らかなことなのに、どうしてそんな過激なことが主張できるのかというのがまず第一点。
そしてもう一つは、この問題をなんとか乗り切るとしても、その上で「児童性愛者は人間のクズ、まして実際の行動に出る奴は極悪非道の人非人で何の同情の余地もなし」というようなことを大勢の人は平気で言ってしまうのですが、それが怖くないのだろうかという疑問です。たとえば、現行法の運用みたいに「成人が未成年者を性的対象にすることは許されないが、未成年者同士は問題ない」とかして(これは「ごまかし」でしかないわけですが)なんとか第一点の問題を回避するとしても、たとえば19歳が17歳に欲情することは許すべからざる児童性愛であるということになってしまいます。少なくとも形式上はそうです。それが先のアメリカンジョークのおかしさです。もちろんそんな馬鹿なことを真に受ける人はいないでしょう。しかし、ここからもわかるように何が「児童性愛」であって何がそうでないかという境界は極めて曖昧なわけです。スローガン的に言えば「誰でも昔はロリコンだった」ということです。そして、いつまでが「昔」として許されるかはかなり微妙な問題なのに、児童ポルノ規制の議論ではそこがいつも完全に素通りされてしまっている。その結果、件の「サンタフェが児童ポルノか否か」という問題(同種の疑問は誰しも持つと思うのですが)にすら誰しも納得できる答えが出せないのに、一部の強硬な人を除いては「規制あるのみ、問答無用」で一致してしまっている。その意見が正しいか正しくないかというより、自分の首を絞めることになる可能性が誰も怖くないのか不思議でならない、それが第二点です。
説明が長くなりましたが、要は「グレーゾーンを無理に白と黒に切り分けてしまうことのおかしさやその弊害にどうして誰も気づかないのか、気づかないふりをしているのか」ということですよ。なんでみんな、この手の話が単純でもなんでもないことを見て見ぬふりをしているのか、あるいは本当に気づいていないのか、それがどうしても理解できないのです。