はてなキーワード: 定形とは
元気に走り回る話を聞くのが正直辛いですね。。。とブログに書いたところ、
あるブロガーさんが、私をデフォルメしてピエロみたいなキャラにして、「おまえの走り回る話を聞くのが辛い人、どうでもいい人もおるんやで!」との主張を含む小説にしていました。。。
わざわざ小説にする必要のないものをネタにされた時点でイラッときましたし、ピエロにされた時点で、潜在的かどうかはともかく、この方は私または私の属性を嘲笑する意図があるとみなしました。少なくとも、面白さを優先したのは間違いありません。
更に、この人が元ネタですと私を名指ししたので、抗議したところ、名指ししたのはすいません申し訳ありませーんすいませーん申し訳ありませーんとふざけたような繰り返しと、謝罪の定形文を詰め込むだけ詰め込んだような記事がアップされました。
なんにも反省してないんですね、と詰め寄りました。理解できないようで、ふてくされていました。
後日、彼と共通の知り合いから、繊細チンピラはこれだから困るわーと触れ回っている、と聞きました。想像力がない人は小説、ブログを書かないでほしいと切に感じました。数年前の話ですか、ふと思い出したので書いてみました。
情緒不安定な知り合いが精神科に行って、「病気ではなく性格の問題だ」と言われて帰ってきたらしい。
性格の問題だと医者に言われたことで、自分と向き合う勇気が出たと言っていた。
羨ましくなって、私も有名なクリニックに足を運んでみると「軽度のうつだ」と言われた。定型でも非定形でもなく軽度だそうな。
軽度ってなんやねん。
診察中も終始面倒臭そうだったし、とりあえず「うつです」って言っておけばいい風潮なのかね。
処方箋も貰ったけど薬局に行く元気がなかった。なんかショックだったし。
それからお医者さんのだるそうな態度が印象に残りすぎて、それ以降クリニックにも大学のカウンセリングにも行く気になれない。
甘えた若造がなんかごにょごにょ言ってるなーと思いながら話聞いてたんだろうな。ほんとそれな。私だったら絶対そう思うわ。
昔から低気圧に弱くて、今時流行りの気象病ってやつにもなりやすいんだけど、気圧が下がるたびに自分に言い訳してるみたいで嫌になる。
メールの書き方ってなんとなく定形っぽいのが決まってるけど、各人で微妙に違っていておもしろい。
いつもお世話になっております。
いつもお世話になっております。
いつもお世話になっております。
...(中略)...
いつもお世話になっております。
いつも大変お世話になっております。
1: http://anond.hatelabo.jp/20140817034159
サクセスストーリーは始まらない。小説のようには。これは、生身の人間の記録だ。
話は少しさかのぼる。ぼくが中学校二年制三学期を迎えたころ。両親が離婚した。雨の日だったと思う。正確には、ぼくが離婚させた。
ぼくの父は、破綻を迎えるまでの十数年、ほとんどまともな職につかなかった。職にありついている時も金を家にいれないので、働いていてもいなくても同じだった。さらに男は、部落出身だとおのれを偽り、人権団体を傘に生活保護を認定させようとしたこともあった。それくらいには、どうしようもない男だった。ぼくの毎日のおかずがその男より少ないのも、ぼくを苛立たせた。
僕は中学に上がってしばらくすると、学業の意味をみいだせずサボりだした。家にいると、その男は、気まぐれにぼくを闇ポーカー屋や、パチンコ屋についてこないかと誘った。ぼくは、男の思惑については考えなかった。ただ、クズが出来る工場には興味があって、何度かついていった。そこでわかったことは、前者は場内で飲み物と食い物が只だった。しかし、必ず負ける。もう一方は、給餌がない。ただ、勉強すれば儲かるようだった。ぼくは研究を重ね、中学三年の頃には、その成果としてまとまった金を手にしていた。お金自体より、お金が増える仕組みを実践できているのが楽しかった。
一度、父にパチンコの攻略法を共有しようとしたことがある。そのとき彼は、ぼくの説明を聞くなり
と言い放った。餓鬼は夢を言うものだし、攻略法は確かに存在していた。血を分けたとはいえ、肉身との合意形成まで神は保証していないことを思い知った。ぼくは二度と同じことを口にしなかった。ぼくの手元にはいくばくかの金がすでにあったが、やはり出口はみつからなかった。
そんな折、転機が訪れた。父方の祖母が他界した。これが一家破綻を引き起こした。なぜか?父はできちゃった婚をしてこのかた、せっせと毎年、百万ずつ消費者金融に借金を作っていた。祖母は、このギャンブルによる借金を二年毎に内密に精算していた。その二年の精算周期を目前にして、祖母は死んだ。母があけすけにぼくに話してくれた。自転車は前のめりに急停止し、乗員はほうり出された。中学生にして人生はハードからベリーハードモードになった。その頃のぼくは、定期的に母に金を渡していたので、頼りはぼくだけだったのだろう。仕方なしにタネ銭のほとんどを母にわたし、祖母の四十九日の法要が終わったらみんなで出ていこうと提案した。暴力から逃げよう。貧しさも和らげることができるかもしれない。そして一方的に、ぼくは母の手をとり、家を出た。父を一人残した。金の重要性は再確認された。
十六歳になるのを待って、ぼくはアルバイトを始めた。解体工事、ピザの配達、飲食店調理、エロビデオ屋。スーパーのレジ。気持ちとは裏腹に、どれも長続きしなかった。三ヶ月もすると定形作業に慣れ、新しい事がしたくなる。気を紛らわすために、あいた時間で、頼まれていないのに段取りの効率化や改善をした。ポスシステムを無断で走破し、廃棄率や回転率を計算してオリジナルノートに映すのを空き時間の趣味とした。店長会の議事録を盗み見するのも日課になった。そういった業務に関係のないことを社員にやんわり諭された次の日が、だいたいぼくの自主退職日になった。金銭的にはじり貧だった。
いくつかのバイト歴を経て、最後に応募した求人が「PCオペレーター募集」という求人広告だった。その時代、地方都市でまだ見かけない求人だった。その頃にはぼくは開き直り、一つのアルバイトを六ヶ月で必ず辞める。そして、同じようなバイトはしないことに決めていた。コペルニク的回転により収支を安定させた。とりあえず生きていけるし、お金を増やす方法をよりもっと知りたかった。今回も、その怪しい求人の裏側を見てやるつもりだった。
面接に行くと、縦長のプレハブ小屋のようなみすぼらしい雑居ビルだった。中に入ると垢のついたソファに男が一人座っている。マネーの虎に出ていた堀之内九一郎のような風貌のスーツ男だった。その虎風の男は、釣り上がった眉で、自らを社長だと名乗った。アルバイト面接にもかかわらず、名刺をぼくに差し出す。話しぶりからも慣れていないのは明らかだった。口だけは達者なので、営業上がりだろうと推量した。
ぼくはその時代にしてはめずらしくパソコン先生だったので、すぐに採用が決まった。学歴にかかわらず。虎は、二人バイトが辞めるから明日からきてほしい、と言った。ますます怪しかった。ぼくは、いやらしい笑いを隠し、業務内容を聞きだす。男は壮大な事を奔放に話していたが、要するに、出会い系サイトのサクラが仕事だった。ぼくはとても面白そうだと思って、了解した。
入社して一週間で、ぼくは完璧なチャットレディーになった。しかし、完成された演技力とはうらはらに、客が異様に少なかった。ほかに事業もしていない。日商は大幅な赤字に見えた。でも、ぼくはノウハウを掴んで六ヶ月後にはやめるつもりだったから、それはどちらでもよかった。
「金が無い。来週払うはずの給料が払えない。どうやってもいいから自分で売上をつくってくれ」
と、通帳を手でひらひらさせながら虎はいった。漫画のような状況にぼくは少し面食らう。とりあえず事情を説明させた。
「じつはこの会社、きみが入社する一ヶ月前に出来たんだ。出会い系システムも他社から買ったものだった。彼らが送客を保証をするので二ヶ月で間違いなく黒字転換するという話だった。が、客がこない。約束が違うと納入元にかけあっていたが、そうしている間に、わたしの脱サラして得た運転資金も底をついてしまった」
虎は切なそうに泣く。額面どおりぼくの目の前でぽたぽたと涙する。社会は惨めな大人で満ちていた。
ぼくは、いくつかの方法を使って業界を調べた。社長の首根を掴んで、納入元にもいった。そこで話を聞くと、業者は、しなびた我らが虎から、すでに二百万の導入費用を支払わせていた。さらにシステム利用料として粗利の五割が毎月抜かれる。そのうえ、月々のサーバー維持費、合計十数万の支払いがまだなので、早く払ってほしいという。悪びれもせず。あとで分かったことだが、このころ全国的に、ヤクザのフロント企業が出会い系システムを詐欺同然に売りつけていた。上場しているあの情報通信企業も、元を辿れば同じ穴のムジナだ。
ぼくはだいたい事態がつかめた。それに加え、ぼくはこのビジネスに可能性を感じていた。だが、虎を救ってやる気は微塵もなかった。体面を保たない大人を、ぼくは嫌いだった。その後、給料の支払い日がやって来たが、予告通り給料の支払いはなかった。社長はぼくに、面談と称して言い訳をくどくどとする。ぼくは、うんうんと頷きながら話を無視し考えを巡らす。ふと、試しに揺さぶってみようという気になり、声を出した。
「なるほどー。でも社長も大変っすね。退職金使い果たして。さらにぼくが訴えたら、前科持ちでしょ」
そのまま、社長の眼球をぼくは下から見据える。張り付いた彼の眉・目・口。時間にして五秒。次の瞬間、彼の全ての部品がハの字に垂れ歪んだ。ぼくのほうも口元が歪むのを完璧には止められなかった。もう一押しする。
「わかりました、……じゃあ給料いらないです。そのかわり、納入元になんとかいって残りの支払い手打ちにしてください。その後、システムの引き取りを彼らに申し出るんです。サーバーをぼくにわたしてくれたら、それでこっちも手打ち」
――こうしてぼくは、くだらない会社をのっとった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140711-00000015-wordleaf-sci
この記事中で、ラジオ番組書き起こしサイト「ラジおこし」の運営者の言葉として
著作権としては、たしかにグレーといえばグレー。ただ、著作権は親告罪で、ご本人からの申し出があって初めて問題になります。削除の要望があれば、すぐに消します。
とある。ある種の定形文句みたいなもんだけど、権利者の削除申請にハードル(事務的なもの、心理的なもの、諸々含めて)があることを踏まえた上で、上手いこと逃げられているような気がしてならない。
最近のこの手のサイトに関しては、先に違法状態を作っておいて、後から権利者に認めさせる、みたいな一連の流れが出来つつあるが、もっと正統な方法では物事を進められないものか。
E3で発表された任天堂の『Splatoon(スプラトゥーン)』が各方面で任天堂らしいアプローチのTPSとして期待されているが、任天堂であるがゆえの以下縛りにより大成功が期待出来ない。
最も期待できない理由がこれ。任天堂のポリシーとして中途半端な出来のゲームはユーザーに提供しない。
ゲーム発売後のゲームバランスの調整、ステージの長期的な追加、武器の追加、ユーザーリクエストの受け入れ等はされないだろう。
(深刻なバク調整や予定通りの期間限定拡張コンテンツを除く。また、バグやバランス調整が仮にあったにしても些細な修正の提供に数ヶ月は要するだろう。)
想像してほしい、パッチや拡張がほとんど当たらないFPSを。TPSを。
また、あれだけ動いているゲームであるのに関わらず発売も来年であり、来年になったら皆この興奮を忘れるだろう。下手をすればアイデアをスマホのゲームにパクられるだろう。
理由は不明であるが、任天堂は実力を反映した公平なマッチングや長期的な順位付けをあまり好まない。
上手いプレイヤーも下手なプレイヤーも同時にそれなりにそこそこ楽しめるゲームバランスになるだろう。
その結果起きることは、ガチプレイヤーは雑魚とのマッチングにうんざりし、初心者はガチにボコられてうんざりするだろう。
「かんたん・あんしん・無料」が任天堂の掲げてるネットワークのポリシーである(かんたんだが不便、あんしんだが退屈、無料のせいで高度ネットワーク対応が出来ない)。
未成年を守るためにプレイヤー間のマッチングは以下のいずれかになる。
前者は直ぐにマッチングする反面、定形発言によるコミュニケーション以外不可。対戦プレイヤー履歴も残らず後腐れなく戦えるものになる。ボイスチャットなんてもちろん出来ないので高度な戦略はとれない。
後者はフレンドのみという事で事前登録した文面の発言や任意のユーザーによる対戦が可能ではあるが、相互承認済のフレンドのみという縛りがキツすぎて事実上は8人もプレイヤーが揃うことは無いだろう。
Miiverseというクローズドコミュニティはあるが、あれはお喋りかお絵かき掲示板であり密なコミュニケーションを行う場とはならない。
上記の理由からおそらくボンバーマン的な楽しさはあるゲームであるが、長い期間多くのプレイヤーに楽しまれるタイトルにはならないだろう。残念だ。
リアルに死のうと思っていたのは、2010年1月、実家に帰るのがこわくて、オフィルの高層階、寮の近くの団地、探してさまよった。実家の近くの大学の高い塔に登って地面との距離、衝突時の衝撃を目測した。
上野まで来て、遠くまでいこうとして、頭が朦朧とした。昔住んでいた日暮里の近くから舎人ライナーに乗り、ホームセンターで、サンポールと硫黄を買おうか、ロープを買おうか、非定形で死のうか、定形で死のうか。
ドアノブにロープを引っ掛けて、吊るのは簡単だった。2chのスレを見て、探していた。自殺の値段をジュンク堂で汗を垂らして立ち読みした。バスのりばまで来て、高いビル、人の迷惑にならない場所を探した。
今は死なない。死なない。親に生きてほしい。姉に生きてほしい。俺も俺じゃないだれかとして生きてほしい。ダラダラいきたい。しっかりいきたい。
死ぬことをしていないから、あの時必死に止めてくれた、入院する親に対して何かできるかもしれない。
死ぬことをしていないから、あの時殴られた姉の子供に会えるかもしれない。
俺は恵まれれているのかもしれない。人生は辛い。
かなり、持道具をそろえないと、やっていけない状態に否が応でも追い込まれる。
でも、やっぱり死なないでほしい。日本社会はえらい辛いから。。。
本当にやっていくのは辛いんだけど。俺に相談してくれ。
「ASD診断基準変更、の報に、これからアスペルガー症候群じゃなくなりそうな一自閉症者が思うこと」(ここまでタイトル)
DSM改定で「アスペルガー症候群」の診断名がなくなったらしい。「社会コミュニケーションの障害」「限定した興味や反復行動」に絞った結果、有病率は1/4程度に減ることが見込まれるとか。自分は大学時代に診断を受けた「アスペルガー症候群」の人間になるのだけれど、まっさきに思ったことは、「なんだかなあ」だった。Twitterで呟こうと思ったらひどく長くなってしまったので、匿名ダイアリに投稿してみることにした。昨今いわれる「一記事800字ルール」から大きく逸脱していて読みにくいと思うのだけれど、勘弁願いたい。
アスペの本質は「心の理論」の障害じゃなくて、感覚の取得機能の異常(異常というか、「社会適応に必要な情報だけを拾えない)だ、という風に、(旧診断基準では「アスペルガー症候群」と診断されていた)自分は考えている。考えている、だけだとアレなので、一応つけくわえると、以前、お世話になった先生に確認したところ、「その考えは間違っていない」というような事を言われたので、おそらく間違えてはいない(一応、そんなような研究結果もあったと記憶している。まあ、私は学究者ではなく一当事者なので、エビデンスが若干いいかげんなのは許してもらいたいのだけれど。
人間の感覚には、いまどきのカメラのように「オートフォーカス」機能がついている。それも、大変高性能な。これが、オートマじゃなくってすべてマニュアルなのが自閉症(=アスペルガースペクトラムだ。たとえば、誰かが「それ」と言って何かを指差したとする。定形発達の子供は、「指示の対象に目線を向け、そ話者が何かしらの指示または主張を行うに備える」という一連の処理を、ごく自然に身につける。しかし、自閉症者の視界は、蟻の視界だ。「特定の範囲の、限られた情報」だけを拾うことができない。まず、「人間の輪郭」を意識するのが難しい。うごき、を俯瞰してみることができない。そして、「手振りの意味」を理解するのには、もっと時間がかかる。
指差した先を意識すればよい、と学んだとしても、その後がまた大変だ。自閉症者のせまい視界は、「それ」として指し示された物体「以外のもの」を意識できない。あたかも同化するように自閉症者の意識は「それ」とひとつになってしまう。指示、という行為の先にある意図へ辿り着けない。本人の記憶にも残らないような小さい自分に、こんな小さな「ロス」をくりかえして、自閉症者の社会能力は定形発達者のそれからどんどん遅れてゆく。
自閉症者は往々にして、「世界と自分とのあいだに、一方通行の分厚い硝子の壁がある」という表現をする。入ってくるものは、ときに自分たちに害を与えるけれど、こちらがわから触れることはできない。氾濫した感覚世界に、ドナ・ウィリアムズが自著のタイトルとして記したように、「何者でもなく。どこでもいない」自分だけが残される。興味が限定されるのは、何かしらア・プリオリな原因があるわけではない。単純に、あまりに「細かすぎ、多すぎる」情報の波に晒されていることの裏返しだ。自閉症者は、その複雑すぎる世界を規則化するために自らひねりだしたルールにより所を求める。あるいは、数字や言葉などの「より強固で、確実な」曖昧さの無い世界に逃避し、没入していく。
さて、ここで重要なことがある。成長が遅い、ということは、「いずれ追いつく可能性がある」ということだ。IQが高い場合は年齢が上がればコミュニケーション能力は(或る程度は)向上する。限られた環境であれば適応できるようにもなる。IQが低いと、成長速度が社会が要求する適応レベルに追いつかないので、わかりやすい「知恵遅れ」になる。旧DSM水準においては、診断の多軸性、「コミュニケーション能力の障害」以外の細かい部分こそに、自閉性の障害の本質があったように思う。高機能な自閉症者(これまでの診断基準でいう「アスペルガー症候群」、言語機能に遅れがあるものは「高機能自閉症」)は、往々にして、その能力と努力によってコミュニケーション能力が向上させ、また、社会の中で自分が受容されるポジションを獲得し、
あたかも「社会に適応した」かのように振舞うことができるようになることもある。けれど、知覚過敏や感覚から来る負担の大きさ、ある種のデリケートさ(適応しても処理量は変わらないせいで疲れやすい)、過集中傾向、カクテルパーティ効果への適応不可能などは歳を重ねてもあまり改善しない。二次障害との複合で、ひどくなる場合もある。そして二次障害。我らが最大の敵である二次障害だ。慢性的に感覚的に、また社会的にストレスを受ける環境による鬱や神経症、PTSD様の症状(瑣細な感覚刺激からフラッシュバックを起こし、日常生活に支障が出る)なども、かなり改善させづらい。というより、社会に出ている多くの自閉症者は、コミュニケーション能力の障害以上にこれらに苦しめられることとなる。これらの人間に、「アスペルガースペクトラム」の診断基準から外れたとき、医学はどのように対応するのだろうか?
私事になるけれど、自分は二次障害への対応に、かなり苦労した。「病気になる原因」というのが感覚的な特性と、それによって経てきた生育環境に大きく拠っているために、一般的な治療方針やアドヴァイスがあまり役に立たないためだ。普通の人間は、ごくふつうの家庭で(母親は多少厳しくて神経質だったけれど)そこそこ健康に育ったにも関わらず、重篤なフラッシュバック症状(いわゆる「自閉症パニック」の主原因になるもの)を抱えたりしない。精神科、に行って自分が求めた治療を受けられたケースはとても稀だった。最初の二件くらいは適当に薬を出されて、経済的に継続困難なカウンセリングを勧められて終わり。結局、これではらちがあかない、と感じて(また、「はっきりさせるために」)実家に帰って診断を受けてきた、知的障害者向けの施設の外来の先生、そして、某k橋先生(統合失調の大家である)との出会いが、自分にとっては得がたかったけれど、必要な治療を受けられないままの人は未だ多いと思う。数年前にアルバイトを探していたとき、2ヶ月ほど支援センターにお世話になる機会があった。自分の大学時代と比べてこの数年、随分とサポート体制が整ったのだな、と感じて感心した(そして、その実現に走り回ったであろう人々に敬意を覚えた)、それからしばらくしての今回の報だった。
未だに「心の理論」ありきの「アスペルガー症候群とは」みたいな文章はよく見る。精神医学の世界って当事者も臨床も置いてけぼりなんだな、遅れてんなあ、というのはずっと思っていたけれど、今回の改編でよりその印象は強くなった。二次障害が軽くなって、今の生活が忙しくなるにつれ、自閉症を取り巻くもろもろの社会的状況に興味を向ける機会が減ってしまったので、偉そうに論じる権利は無いのだけれど、「まだこんなに遅れているの?」と、失望にも似た気持ちになったことは否めない。
私は診断をうけたとき、その時点で、もともと積極奇異タイプだったこともあり、社会能力自体はかなり改善していた。コミュニケーション能力に重きを置く診断基準だと、今はそのように診断されるかかなり怪しい。当時は、二次障害が今より重かったのに加えて、義務教育期間を終えたことで、それまでの細かな「不便(大学でお世話になった先生曰く『目に見えない腕の欠如』」がいちどに明らかになり、社会的な困難が顕著になっていた時期だったため、「診断が下っている」ことに、自分は自己分析の面で、そしてひとから助けを得る上で、随分と助けられた。この障害がときに致命的なのは、コミュニケーションの障害よりもっと前のステップ、感覚すること、世界に。社会に働きかけること、「関わる」ことそのものに困難を抱えるからだ。「コミュニケーション能力」だけに重きをおいて、障害の本質をばっさり切ってしまった新基準に、本来の意味で自閉性の障害を抱えた人間たち(ここ数年で顕著になったように、世間においてけして少なくない)を、フォローできるとは思えない。
自由業で不安定な生活なので、定期的に、「障碍者手帳を得るべきか」に迷うのだけれど、この機会に行動すべきかなあ、と、また、少しだけ迷っている。職種的に実感する機会は少ないのだけれど、「診断を持っている」というのは、「障碍者の枠に入れられる」ということであると同時、「自分の特異性がア・プリオリなものとして理解され、社会的に許される」手続きでもある。<そして、負担の多い日常に対してシステム的なバックアップを受けられる、というのはとんでもなく大きい。
以前は、手帳を取るなんて甘えだ、と思っていた。実際、生活しはじめると、やるべきことをやるために、使えるものを使わないことこそ甘えなのではないか、と思う。今のうちに診断書もう一回出してもらって、支援センターに相談に行くべきかなあ。けれど、ここまで「診断されない人間が出る」ことに異を唱えておきながら、自分はいつも立ち止まってしまうのだ。生きることに混乱を抱えるのが、自閉症者特有の事象であるはずはない。そんなことは重々承知していて、その上で、おそらく定形発達であれば経験しなかったであろう経験を、自分は重ねてきている。そして、思ってしまうのだ。自分のこれは、この、抱えた差異と、それによって生じる無数の困難は、自分が経験し・乗り越えてきた沢山のことは、果たして「障害」なのだろうか、と。無論、この逡巡が、社会的に「障害」とみなされるか、サポートを必要とし、サポートを得ることで社会の構成員としての生活を送ることへの困難が軽減される人間が存在するか(そして、自分がそのサポートを必要としているか)、という観点とは、デリケートながら別の問題だ、ということも重々承知しているのだけれど。
ネット上で一つ年とることを十数回したが、誕生日を祝われないことに苦しめられる
誕生日を祝われるべき日であるとする通念に苦しめられる、という思いを毎度強くする
ある一定の良好な人間関係をもてば、誕生日は文字通り特別な日であり、その日だけは他者から、自発的に、法外な祝意を受けられる
ただ、その日までに特段優れた社会的功績、他者への貢献もなく、人間関係もネットでの交流もほとんど実らなかったならば
社会的に、他者との関わりにおいて、自分は誕生してもとりたてて祝われる存在でない、必要な存在でないと通告される日に変わる
(両親や親族の祝意は問題ではない)
祝われないことにみじめになり、そこから発奮できれば越したことはないが、概してそうはならない
「きょう誕生日なんだ(祝ってね)」とつぶやいてみて、もらおうとする「おめでとう」リプライなんて望んではいない
それは人の矜恃からいって負けている
祝われるべき誕生なら自発的に祝われるだろうし、祝われないならそれだけの存在なのだ、あきらめ苦しめ、と
誕生はその人自身にはどうにも抗えない事実-自分の意志で誕生できるわけでない
(東浩紀さんがどこかで「誕生の事実は脱構築できない」という趣旨の発言をしていたと記憶している)
誕生日は自意識をもった幼少期に親から知らされる 自分がその日に生まれた、とは自分では確認できない、後天的に付与された日付
それが無条件に祝われる日であるという社会通念に、結果疎外されれば、かえって生きる意志は害される
誕生日にはじまり、記念日とか何周年とか、そういう節目という時間の枠組みに遭遇して何かをする、といった機会は異様に多い
誕生日を祝われないことに苦しんだ経験から言えば、その時にしか何かをしない・されない、という慣習に見えてくる
過去の一事実や人の存在をその日付・年月にとどめ、その節目に思い起こすため・風化させないための装置として記念日は確かに有効なのだろうが
時間という定形にしかすがれない・依存してしまっている人の思考のとらわれにがくぜんとする 時間という枠組みが強烈すぎて意気消沈する
そのようなアニバーサリーものは、いちど距離を置き、自分との関わりにおいて必要なのか確認する過程を持つようにしている
「きょうは何とかの記念日だから」という無自覚な行動がもう少し社会的に抑えられたらいいのに、とすこし願う
「俺がカレーを注文したのに甘いカレーを出しやがったこんなのカレーじゃねえ指導してやる」とか言うのだったらそんなの指導とかしなくていいから店かえたらいいんじゃないかな
それとちゃんと注文した?
辛いカレーが食べたいとか注文した?俺の知ってるカレーが食べたいって持ってる知識を伝えた?
シェフの味覚でいうところの辛いがどんなものか確認して伝えた?シェフは星の王子様カレーでも辛口っておもっちゃう人じゃないって確認してた?
構造工学的に指示だしてないと「シンプルで」とか意味わかんないよね
いろんなサンプル見せたかもしれないけどそれ「俺がおもうシンプルデザイン」だよね
お相手の方の感性だと「あれこの枠シンプルじゃないんすけど」とか思ってない?思ってたら言ってほしい?それシンプルに思えないって性格を矯正したい?
他人の無定形な作品をみて系統を割り出したりマネしたり特徴を捉えたりってもう芸術の粋だから「サンプル見せたらできるだろ」とか意味わかんないよ
カレーに生野菜が入ってたりすると「素材をそのままぶつぎりにしてカレーにいれるのはシェフの仕事じゃないでしょ」とかいっちゃう感じ?
ごめんねカレーの話ばっかりして
とくにシーフードカレー
どんなものをみても「あーこれ新古典主義のドーリア式だわこのスペーシング比率はシンケルっぽいわ」とか的確なデザイン分類ができるディレクターさんなのだったら
やっぱり指導しなくてもいいと思うわ
たぶん「あなたの」センスを理解してくれる人はそんなにたくさん居ないと思うんだな
赤ペンいっぱいいれて返したってのは「人の作品の上に自分の思いをぶっかけた」だけのものだよね
「俺の気に入るものを作れ」っていうならおごりで飲みにでもさそって「自分の気に入る基準」を見つけさせる機会を与えないと無謀だし
「俺の言ってる基準のものをつくれ」って美術論を勉強させるなら職業訓練に行かせる必要もあるだろうし
それ考えたら指導とかしてる暇あったら仕事しなさいよって感じなんだけどな
ディレクターさんって教育担当でデザイナ育成を担う職業じゃなくてプロジェクトを推し進める人じゃないの?
プロジェクトが滞ってるのをデザイナの責任にするのがディレクターの仕事じゃなくって進むデザイナに変更を判断するのが仕事なんじゃないの?
残業代を稼いでデザイナを罵倒していいものできたら俺の指導のおかげで失敗したらデザイナの責任でとか言うつもりなのですか
業界の保全のために悪い噂を流しておきますねとか業界の保全はお仕事に含まれているのか謎だけどその人によほど素質があると見抜いているのかは知らないけれども自分の成就が待ち遠しいのを書いてしまったのかもしれないけど
俺も30代前半であり、ミソジニーをこじらせた経験がある。ミソジニーっていったって、単なる女性恐怖症なのだが、これはミソジニーなのだが、それはおいておくとして、同年代の男も、またミソジニーをこじらせた。その話を効きながら、俺は本田透の『電波男』から7年くらい経つんだな、ということを考えていた。本田透も、ギャグとして「非モテ」といっていたのが、段々と30代が近くなってから、病的な印象を与えるようになって、あの本を書いた、みたいな話をきいた。
女性か、あるいはこじらせていない男子は覚えておくといいのは、30代になってから、急に「非モテをこじらせて暴れる」ということが往々にしてある、ということだ(ちなみに、これを書いた当初は「翁媼」と誤記してしまっていた)。
今となっては殆ど信じられないが、『電波男』に影響されたのかどうかわからないが、はてなで非モテの議論が熱心にかわされていたことがある。非モテを一言で語ることは難しいが、単純に「モテないという"自意識"を抱えている男」くらいのまとめ方でいいと思う。彼らが定形化した「※ただしイケメンに限る」という言葉は、彼らの"実体"とは余りにもかけ離れているように思われた。自分もちょくちょくとオフ会などで顔を出していたが、半分くらいは、少なくともフェミニズムもどきの話を出来るくらいには、インテリだった。実際に、男性学がどうのこうの、という話をしていた。
その後彼らの人生を見てたら、技術者として大成し、一人の「デベロッパー」として注目を浴びるようになった。また、海外で働くのを選ぶものや、あるいは大企業に勤めたり、あるいは定期的に同人雑誌を出したり、単著を出していた。そういえば革非同ってどうなったっけ?まあいいや。とにかく、そいつらは、殆ど非モテの話をしなくなった。なぜなら、それはもはや「センセーショナル」ではなくなったからだし、彼らは非モテを語ることよりもやるべきことが見つかっただけだ。
それは宇野(当時の仮想敵)か宮台か知らないが、当時に言っていた「小さな成熟」なのかもしれない。ある程度、彼らは自分の「自意識」に折り合いを付けて、卒業した。他人がどうあの空間を気持ち悪いと思っていたとはいえ(あとから、そう話をちらほら聞いた)し、実害を出していた。乱暴にまとめるが、結婚に付いて語るだけでフルボッコにされた。しかしあの頃を考えるに、それはイニシエーションだったのかもしれないな、と思う。要するに、自分の自意識とどう折り合いをつけるのか、あるいは、そういう話を通じて、自分が「モテない」という、主観的な意識を相対化していったように思う。
最近になって、比較的「リベラル」だと思われる男子が、30代を超えて「恋愛について全てを諦める」といい始めた。これが魔法使いの意識なのかとは思ったが、それはいい。彼は社会学の教育を受け、そしううて大学院に入り、ポスドクになったわけだが、急にそういう風にいい始めた。非モテはネタだし、リア充は爆発しろ、というのは若人にとってはネタではあるが、だんだんと周囲が結婚し、子供を生むにつれて、「それをやっていない自分と言うのは、世間から見て劣っているのではないか」と思い始めた。社会学を専門にしている人でもそういうことを思うのか、へぇ、とは思ったが、学問的な含蓄と実践というのが結びつかないのは往々にしてあるのは知っている。それは、鈴木謙介のクズさだし、東浩紀が単なる「哲学に詳しい中小企業のおっさん」になってしまったのと一緒だ。それも「小さな成熟」かもしれないが、それはよくわからない。
それはともかくとして、既に若者には「非モテ」より、ただ「2ちゃんねるまとめ」の気の利いた話を聞いたりしているが、彼らからは「自分がモテないという自意識をこじらせることについて」みたいな話をしているのか、というのは気になるところだと思う。だんだんと論客が減って、そこにこだわっているのはシロクマ先生みたいなものだが、宇野の「サークルクラッシュ研究」と似たようなもので、もう「脱非モテ」みたいなもので、それを語ることはない。まあ、東にしろ、宇野にしろ、単純に言ってしまえば「非モテなんて自意識をこじらせたやつは気持ち悪い」と心の底では思っているだろうから、そんな彼らの悩みなんて触れたくもないだろう。
はてな村が大好きな有村悠は未だに「童貞」をダシにしているが、あれも単純に童貞を捨てたら自分の価値が無くなるから、アイデンティティを必至に守っているだけでしかない。彼もまた「女性がエロ漫画なんて書くわけがない!」というのを定期的につぶやいて、ミソジニーをこじらせているっぽいが、もはやあれも芸であって、「自分の欠点を認めたくないが故に、自分の欠点を認めたフリをする」といったものなんだと思う。とはいえ、男性のホモソーシャル(ようするに男性中心で回っている共同体)なんつーのは、ただそいつが「童貞」だからという理由だけで同情して仕事を与えたりする。
ただ思うのは、そういう話題が出来なくなって、結果として「俺がモテない」という自意識について、半年くらい考える機会というのは、自分の恋愛経験を相対化して、消化して、自分がどうするべきか、について方向性を与える機会というのはあったと思う。チャーチルの名言(これも怪しいものだが)としてよく挙げられている「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」という言葉があるが、結局のところ、非モテを続けている人間は、芸風だけになってしまった印象だ。あれだ、童貞.comの人(勝手に検索してくれ)が、なんかロフトプラスワンでイベントをやるたびに女性を食いまくるために、童貞をダシにしていたのと似ている。あとえがちゃんか。えがちゃんという名前を聞くたびに吐き気がする人間は数人知ってるが、彼は上手く企業して、ぼちぼちと受託をこなしているそうで、彼は彼でまた「あがり」になった。
食堂で飯を食っていたところ、慶應大学生らしき学生二人組が隣に座って「俺たち非リアだもんなwwwwあーゼミの発表とか忙しいなー、○○ちゃんノートうつさせてくれねーかな」みたいな感じだ。もしかしたら、そっちのほうが健全なのかもしれない。だって「俺はモテる」というよりは、「俺がモテない」というほうが話題が進むからだ。(前者はただの嫌な奴だが、後者は「なんでーそんなことないのにー」みたいなキャバクラトークになる)
もしかしたら、今の「中途半端に真面目な人間」というか、「真面目系クズ」と呼ばれるような男子は、Facebookか、あるいはTwitterで、5年前と同じことを繰り返しているのかもしれない。これは観測範囲という問題なのだが、あんまりそういう話題をてんで見かけなくなったように思う。最近の流行りはどうやら「意識の高い学生を叩くこと」だが、そこには怨みたいなことはなく、おっさんの説教みたいなことが繰り返されている。俺がよくわからんのは、今のそういう「自意識をこじらせた男子」というのは、何処で話題を深めているのだろうか。それとも、結局これはインテリの遊び事であって、インテリの遊びが、そういう哲学ごっこではなくて、むしろ「売れている作品のマーケティング戦略を分析してわっしょいする」(これをインテリ界隈では「批評」と呼ぶと聞いた。濱野智史の新書はそういう本だって聞いた)ということのほうが楽しいのかも知れない。そりゃそうだ。誰にも頼まれないのに悩むなんてバカがやることだ。
しかし、この手の「リベラルな男子」が自分のミソジニーみたいなものをこじらせたとき、今は何処に行くんだろう?ゲンロンカフェか?まあいいや。こういうことを書きたくなったというだけで、おっさんであり、老害だ。「俺と結婚しろ」と書いて「まってました!」みたいな承認を貰ったほうが、インターネットは楽しくなったというだけだ。むしろそっちのほうが健全なのかもしれない。そういうのを気にするのは、「みうらじゅんは嘘つきだ」という今更の話をただずるずると引きずっているだけなんだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20130428150329
http://anond.hatelabo.jp/20130428001709
http://anond.hatelabo.jp/20130428151525
アルゴリズムだと思っていいです。
でも、出すとやっぱり売れるんですよ。
コンビニのレジで、「○○キャンペーン中です。おひとつどうでしょうか?」と一言言われると、ウザいじゃないですか。
でも、あれをやるとやらないとじゃ売上がずいぶん違うんですよ。
要するに、嫌われる可能性を怖がって、営業をかけないってのは下策ということなのですよ。
女に嫌われて困ることってありますか?
ティッシュくれたり、小銭がないとき両替してくれたり、そういうのはしてもらいにくいでしょうね。
そういうの求めてるなら、無難に、できるだけウザい行動避けてください。
でも、君はセックスがしたいんでしょ?
というか、アスペだと嫌われてても気づけないからダメージそんなにないですよ。
嫌われるというのは、それ自体恥じることでもなんてことないですよ。
嫌われたからといって自分の価値がなくなるわけでもないですし。
死ねと言われても、ポジティブに、名誉の負傷くらいに思えばいいんですよ。
100件回って10件契約が取れる営業マンとない100件回って1件しか契約が取れない営業マンがいるとします。
後者が、前者と同じだけ契約をとるにはどうしたらいいと思いますか?
そういうことです。
でも、難しく考えすぎです。
相手から会話を引き出した(そこが最大の難関なのですが)あとは、適当でいいです。
しょうもない悪口やら、しょうもない悩みを言ってくるわけなんです。
「AがBで、私はC」
Aには個人名が入ります。ヒトだけじゃなくて、モノだったり、ニュースだったりなんでもです。
BにはAの行動が入ります。
Cは、「悩んでる」「むかつく」「うれしい」「かなしい」等々、の言葉が入ります。
まあ、ホントに聞いてる側としてはどうでもいい。
それに意見を求められてるわけじゃないんです。
悪回答の例を出すと
「ふむふむ。君の言い分はわかった。しかし、相手の意見も聞いてみないとなんとも言えないね」
と言っちゃいけません。
基本相槌でいいです。
だいたい、数パターンでいいです。
1.相槌
そうすると、相手が続けます。
「うん」だけじゃ見破られるかもしれないので、数パターン用意するといいでしょう。
でもパターンが少なくともなんとかなるでしょう。
そいつでもちゃんと会話が続くんで、女って不思議な生き物です。
2.要約
相手の行ったことを要約する。そうすると、相手が相槌をうつ。
今度はこっちのターンになります。
ここで変に頑張る必要はありません。
「なるほど、それで」
と相槌に相槌で返してけっこうです。
3.共感
正しくは共感したふりでいいです。
「えー」「ほんとー?」みたいな感嘆詞を挟むだけでいいし、悪口とか悩みみたいなのには、「○○は悪くないよ」とフォローしとけばいいです。
正論は要りません。
「グダグダ言わずに働けよ。30過ぎて仕事選んでんじゃねーよ。」
と言ってあげるのが相手のため、とか考える必要はありません。
そういうのは友達の役目で、恋人(あるいは候補)の仕事ではありません。
余談ですが、こないだ古い友人に「彼と同棲してるがセックスレスで」という話をされました。
正直どうでもいいし、しなくても死なないよって言いたかったんですが、テンプレ通り適当に答えました。
繰り返しになりますが、相手は物事をわかってないのです。
つまり、
そんな相手に、真面目に応えるというのは、無駄です。
法律の問題は弁護士に、人間関係の問題は友達に、上司に、健康問題は医者に、政治の問題は政治家に任せておきましょう。
とりあえず誘いましょう。
飲みに誘って会話していくとお互い気分がたかまってっというのはアスペには向きません。
アスペじゃなくたって、よっぽど会話が上手い人じゃない限り向きません。
を重ねて
に持っていきましょう。
こっちは運転してて前を見てるのに、必死に身振り手振りで表現します。
自分でも、適当に返事してるとバレるかなって心配になったりしますが、ほんと不思議なんですが、何時間だってそれでやりすごせます。(あまり長くないほうがいいと思いますが)
勝手に喋らせるのが目的の初期のデートは、あんまりロマンティックなムードはいりません。
勝手に喋らせて、会話が盛り下がらないうちに切り上げる。
仲が良くなってからのデートは、ムードがあってあまり喋らないで済む場所にしましょう。
そのあと食事をして勝手に感想を喋らせるというのもアリなんですが、たいていの女は表現力が貧弱で対した言葉が出てきません。
「悪口だったらエンドレスなのに、お前はあの名画をみてそれだけしか感想がないのか!?」
と思っても言っちゃいけません。
長丁場の勝負ですから、ボロを出さないようできるだけ喋らないで済む場所をハシゴしましょう。
出会って3ヶ月以内に告白しないと成功率は落ちるそうなんで、ゆっくり好きになろうなどと考えず、好きになってもらおうなどと考えちゃダメです。
セックスできません。
とりあえず、頑張ってキスまでいきましょう。
欧米人と違って、キスはオーケーだけどセックスはダメみたいな感じじゃなくて、キスまで許したらいずれセックスという風に考えてますから。
逆に、告白もキスにもいかなければ、同時進行で数人アプローチしちゃっていいです。
というか、しろ。
次の勝負です。
何度も言いますけど、理解されたいとか、愛されたいとか、抽象的な目標はダメです。
具体的なゴールを設定して、戦略をたてましょう。
セックスがしたいんでしょう?
なら、それを真剣に考えなきゃ。
ここまで読んで、よし頑張るぞって思った人も、こんな頑張んなきゃ恋愛出来ないなら、もういいやって人も、これだけは覚えておいてください。
精神的に満たされたいとかは捨ててください。
精神的な満足は、フルマラソン走りきるとか、年収1000万を達成するとか、自分自身で充足させてください。
本当の自分なんてどこにもないし、したがって本当の理解者なんてありえまえん。
そんな甘ちゃんはおっぱい吸って寝んねすべきです。
とにかく、まあ人生は前に進むのみです。
僕もまあ、嫌われてても気づけない性格だし、他人になにを言われてもへっちゃらな性格なんですが、アスペならもっと楽だと思います。
以上
「良薬は口に苦し」と思っている人間に苦い偽薬を与えて、苦い思いをさせてるだけじゃねーのー。苦い思いをするだけ損だよ。くっだらねえなあ。お前が書いた文章には、何一つ、実行できるアクションがないんだよ。ほとんど、「だろ?」「だろ?」「だろ?」、だろ?抽象的なアイディアでもご披露するかと思ったら、勝手な分析しかしてねーじゃん。
アスペルガーの方へ。コイツは、アスペルガーの人や似たような事で苦しむ人がどうすればさらに苦しむか、を知ってる人間だと思うよ。あなたはフローチャートに落とせば、ものすごく苦しくてもある程度できるんでしょ?で、あなたは、この人が書いていることをフローチャートに変換できないし、要素分解できないって思っているんじゃないかな。僕も全然できないよ。多分、空気を読むのがうまい人でもできない。コイツの文章はわざと出来ないように書いてあるんだよ!コイツの文章は考えても考えても具体的な行動を起こせないように書いてあるんだよ!コイツは考えれば考えるほど悪循環になることを知っているから、わざとそうなるように書いてる。アスペルガーだけじゃなくて、定形でも精神が不安定な状態でこれを信じると、どんどん精神がおかしくなっていくよ。だから、コイツを信じないように。