はてなキーワード: 新見とは
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220411/k10013577421000.html
「通学に必要なので、芸備線がなくなると困ります。もしもバスだけになってしまうと、一度に乗れる人数が限られるので、芸備線は必須です」
確かに車両の定員は3割程度減るが、バスの増便1~2本でカバーできるのでは?そして増便したほうが利便性が増すのでは?
JR西日本キハ120形気動車 49(席)+63(立)=112名 (知らんけど1両編成なのかな)
いすゞ ERGAmio 中型路線バス 27(席)+51(立)= 78名
「日常生活ではバスを使うことが多いですが、岡山の実家に帰省する時に芸備線を使います。もしもなくなってしまったら困るので、もっと乗って売り上げに貢献したいです」
「高校時代は毎日利用していたのが懐かしいです。今はふだんは車を使いますが、高齢になって車に乗れなくなると困ると思います。国に援助してもらうなどして、なんとか残してほしいです」
備後庄原駅 から広島方面は平日は1日7本(0730, 0830, 0954, 1531, 1803, 1923, 2005)、新見方面は1日4本(0730, 1338, 1531, 1803)しかないけど、バスに転換して数本増便すれば利便性が向上するんじゃ?
「本数が少なく、待ち時間がとても長いので不便だと感じています。朝と夕方は座席が埋まって、立っている人もいます。本数が減るのはしかたないと思うところもありますが、なくなってほしくないです」
うん?
「本数が減るのはしかたない」ということは本数が減ってもバスへの転換はしてほしくないのか。バスにして本数を維持するか、増やしたほがいいのでは?
「いつもかなりの人が乗っていますが、本数が少ないので困ることが多いです。部活動をすると運行が終わっていることもあり、本数を増やしてほしいです」
日本の大学院でうまくやれなくて、逃げるようにして海外の大学院に行った。行き先はPIになってから数年の若手だがメジャーな論文にいくつも論文をだしている教授のいる、一流ではない州立大学だった。最初は居候をさせてもらう形で、その後PhDコースの試験を受けて入学をするような段取りだった。
この後のことはあまり書きたくない。彼は非常にフェアであり、かつ、環境も悪くなかったと思うが、結局、私自身の怠惰のせいで、その段取り通りには行かなかった。海外にまで行って再度思い知らされたのは、学部でのパフォーマンスの良し悪しと、その後の研究室での良し悪しに関して、求められるものが全く違う、ということだった。そこの落差を乗り越えるためのサポートや、それを乗り越えるための努力の仕方などは国が違えば様々なのだが、落差を本人の努力によって乗り越えなければいけないということには違いはないのだった。
研究とは本質的には関係のないところで海外に行って私を悩ませたことの一つとして、世間知のようなものの体系が大きく違うことがある。読んできた本、見たテレビ、口ずさんだ歌、学校のあるある話などが全く違う。私は、新見南吉や森のくまさんで育ち、ドリフやとんねるずに笑い、山月記やドグラマグラを読みながら世界に対して斜に構えてみたりもしてきた人間なのだが、そのような経験の引き出しは海外の人間と共感し合うのに当然ながら何の役にも立たない。会話のネタというのは共通の経験や知識に基づくものだから、それが薄い相手とは、面白い話をすることが難しい。私は、知的でユーモアのある人間でありたい、と欲しているのだが、そのような会話ができない、というのは地味に辛かった。
話は脱線するが、クイズや謎々というのは知的な遊戯だが、一方であれは、高度にドメスティックなものである。クイズ番組などでは、日本で一般的な良い高校良い大学を出ている「知的な」人間が7割程度解けるように調整された問題が出題されるのであり、「知的な」人間は芸能人やクイズ王と競い合いながら、自らの知性を感じるのが彼らにとっての楽しさとなっている。海外に行くと当たり前だが、クイズ番組で出題される問題がまったくといっていいほど分からない。日本語の壁を下に見て海外に出たのは私自身だが、日本語の中でこそ私が自分の知性と見做していたものに相対的な価値があったことに気づかされ自尊心を傷つけられたのだった。
菜の花ばたの、あたたかい月夜であった。どこかの村で春祭の支度したくに打つ太鼓がとほとほと聞えて来た。
巳之助は道を通ってゆかなかった。みぞの中を鼬いたちのように身をかがめて走ったり、藪やぶの中を捨犬のようにかきわけたりしていった。他人に見られたくないとき、人はこうするものだ。
区長さんの家には長い間やっかいになっていたので、よくその様子はわかっていた。火をつけるにいちばん都合のよいのは藁屋根わらやねの牛小屋であることは、もう家を出るときから考えていた。
母屋おもやはもうひっそり寝しずまっていた。牛小屋もしずかだった。しずかだといって、牛は眠っているかめざめているかわかったもんじゃない。牛は起きていても寝ていてもしずかなものだから。もっとも牛が眼めをさましていたって、火をつけるにはいっこうさしつかえないわけだけれども。
巳之助はマッチのかわりに、マッチがまだなかったじぶん使われていた火ひ打うちの道具を持って来た。家を出るとき、かまどのあたりでマッチを探さがしたが、どうしたわけかなかなか見つからないので、手にあたったのをさいわい、火打の道具を持って来たのだった。
巳之助は火打で火を切りはじめた。火花は飛んだが、ほくちがしめっているのか、ちっとも燃えあがらないのであった。巳之助は火打というものは、あまり便利なものではないと思った。火が出ないくせにカチカチと大きな音ばかりして、これでは寝ている人が眼をさましてしまうのである。
「ちえッ」と巳之助は舌打ちしていった。「マッチを持って来りゃよかった。こげな火打みてえな古くせえもなア、いざというとき間にあわねえだなア」
「古くせえもなア、いざというとき間にあわねえ、……古くせえもなア間にあわねえ……」
ちょうど月が出て空が明かるくなるように、巳之助の頭がこの言葉をきっかけにして明かるく晴れて来た。
巳之助は、今になって、自分のまちがっていたことがはっきりとわかった。――ガソリン車はもはや古い道具になったのである。EVという新しいいっそう便利な道具の世の中になったのである。それだけ世の中がひらけたのである。文明開化が進んだのである。巳之助もまた日本のお国の人間なら、日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。古い自分のしょうばいが失われるからとて、世の中の進むのにじゃましようとしたり、何の怨みもない人を怨んで火をつけようとしたのは、男として何という見苦しいざまであったことか。世の中が進んで、古いしょうばいがいらなくなれば、男らしく、すっぱりそのしょうばいは棄すてて、世の中のためになる新しいしょうばいにかわろうじゃないか。――
巳之助はすぐ家へとってかえした。
寝ているおかみさんを起して、今家にあるすべてのガソリン車に石油をつがせた。
おかみさんは、こんな夜更よふけに何をするつもりか巳之助にきいたが、巳之助は自分がこれからしようとしていることをきかせれば、おかみさんが止めるにきまっているので、黙っていた。
ガソリン車は大小さまざまのがみなで五十ぐらいあった。それにみな石油をついだ。そしていつもあきないに出るときと同じように、車にそれらのガソリン車をつるして、外に出た。こんどはマッチを忘れずに持って。
道が西の峠とうげにさしかかるあたりに、半田池はんだいけという大きな池がある。春のことでいっぱいたたえた水が、月の下で銀盤のようにけぶり光っていた。池の岸にははんの木や柳が、水の中をのぞくようなかっこうで立っていた。
巳之助は人気ひとけのないここを選んで来た。
さて巳之助はどうするというのだろう。
巳之助はガソリン車に火をともした。一つともしては、それを池のふちの木の枝に吊した。小さいのも大きいのも、とりまぜて、木にいっぱい吊した。一本の木で吊しきれないと、そのとなりの木に吊した。こうしてとうとうみんなのガソリン車を三本の木に吊した。
風のない夜で、ガソリン車は一つ一つがしずかにまじろがず、燃え、あたりは昼のように明かるくなった。あかりをしたって寄って来た魚が、水の中にきらりきらりとナイフのように光った。
「わしの、しょうばいのやめ方はこれだ」
と巳之助は一人でいった。しかし立去りかねて、ながいあいだ両手を垂たれたままガソリン車の鈴なりになった木を見つめていた。
ガソリン車、ガソリン車、なつかしいガソリン車。ながの年月なじんで来たガソリン車。
「わしの、しょうばいのやめ方はこれだ」
それから巳之助は池のこちら側の往還おうかんに来た。まだガソリン車は、向こう側の岸の上にみなともっていた。五十いくつがみなともっていた。そして水の上にも五十いくつの、さかさまのガソリン車がともっていた。立ちどまって巳之助は、そこでもながく見つめていた。
やがて巳之助はかがんで、足もとから石ころを一つ拾った。そして、いちばん大きくともっているガソリン車に狙ねらいをさだめて、力いっぱい投げた。パリーンと音がして、大きい火がひとつ消えた。
「お前たちの時世じせいはすぎた。世の中は進んだ」
と巳之助はいった。そしてまた一つ石ころを拾った。二番目に大きかったガソリン車が、パリーンと鳴って消えた。
「世の中は進んだ。電気の時世になった」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20191019223745
読んだ。花澤香菜や山田長政といった人名があ段のみでできているのは特に面白かった。
思ったのはあ段のみの苗字は赤坂や中山や浜田や高畑、色々考えられるけれど、あ段のみの名前は意外に選択肢がないということ。でも一番豊富。
い段のみの苗字は新見とか市木とか一力とかが考えられる。名前は美紀や利吉あたりか。あ段に比べれば少ない。有名人にはほぼなさそう。
う段。苗字が難しい。名前はゆずる一択。どうでもいいがフルーツって全部う段なんだな。
え段。江部くらいしか苗字は思いつかない。名前も乏しい。寧々くらいか。
お段。苗字としては大野や菰野。名前は友夫とか桃子とか、子や夫をうしろにつければ意外といける。有名人にはいなさそう。
あと、言葉遊びが好きな作家さんとかたくさんいそうだけど、○段のみの作品名は案外なさそうだなと感じた。登場人物の苗字が○段のみとか、いかにもありそうに思うのだけど。
「図工の時間で動物の絵を描くことになったので動物の写真が載ってる本が見たいです、どこにありますか?」
「今度の調理実習で芋を使った料理を作ろうと思うので芋の料理が載ってそうな本を貸してください」
「新見南吉の本がひとクラス分くらい欲しいんで、他の図書館から借りたりして集めてください」
「お楽しみ会でクイズをするんですけどクイズの本ないですか?」
たまに「○月にこういう学習をするんで……」って事前に教えてくれる先生もいるけどたいていは子どもたちが急に図書館にわらわらーっと来て
「先生~~、今この本がいるんで今出してください」「僕も僕もー!」「私もー!」って形
このジャンルの本がここにあるよ~っていうのは教えてるけど子どもたちは何回言っても覚えられない(たまーに覚えてくれる子もいる)
担任は忙しいので子どもたちを図書館に残したまま教室でマル付けとかしてるっぽい
ので私が右往左往しながら応対する
司書のいない学校ってどんな感じなんだろう?うちの市はほとんどの学校で司書を置いているのであまり想像がつかない
分類ラベル貼って決められた場所に置いてても目当ての本を探すのって難しいのに、
ラベルのない本が数千冊、ごちゃごちゃになって置いてあるんだろうか?
貸し出し手続きせずに勝手に取って勝手に戻しに来るのかな。行方不明本の数凄そう
そもそもそんな状態で調べ学習ができると思えないから、図書館は使わずに担任が事前に用意した資料や
フィルタリングガチガチのパソコンでなんとか調べてるんだろうか
図書館前に掲示物貼ったり、ポップ作ったり、本のデータをパソコンに登録したり、貸し出し数の多い子にちょっとした表彰状を出したり、図書館だより作ったり、子どもたちに読み聞かせしたり、そういうのもないのかな
なんかさみしいなあ
関東に進学し憧れの深夜アニメライフを数年過ごしそういえば憧れのエロゲをやってないことに気づきプレイしようと思った。
選んだ作品は「カミカゼ☆エクスプローラー!」学園物の優等生的作品らしく巨乳だらけで舞台が現代で田舎じゃないのが好感触。
中古で6000円もすると思わなかったが。エロゲは値崩れしないのかな?
さてプレイを始めると期待通りのものがお出しされた。ボイスの無い主人公にかわいいヒロイン達とおちゃらけた悪友の甘いストーリーが展開された。
しかしいかにもなエロゲ空間や会話の作り物臭に馴染めないままエンディングを迎えてしまった。
リアルタイムの深夜アニメはほぼ網羅し過去の名作にも手を付けラノベも読んでいるから萌え作品の会話に耐性があるはずなのだが、どうしてもキャラの掛け合いが寒く感じて受け付けないのだ。想像していた通りの物を出されたにも関わらず文句を付けるなど俺が悪いに決まってるのだが。
実はギャルゲならアニメの影響で「アマガミ」と「Steins;Gate」の2作品をプレイしたことがありその時は何も感じず没入できたので相性が悪かったのかもしれない。
ヒロインが皆漫然とかわいくとも琴線に触れなかったのもある。体験版のプレイが重要とはこのことだろうか。絢辻さんが大好きで今はフォトカノの新見さんが気になっている。
それとエロゲ塗りも受け付けなかった。妙に毛量と目が大きく全体的に硬そうに感じて苦手。
あとエロゲ声ってBBA声が無理に作ってるように聞こえて苦手。喘ぎ声ってAV見てても苦手。作ってるぽさが出るとさらにだめで。俺以外の男は本当に甲高い嬌声に興奮を覚えるの?信じられない。
コミケの同人誌って題材こそアニメだけどエロゲ文化圏の延長に感じる。だから行っても買おうと思う物が少ないんじゃないかと思った。