2013-08-19

誕生日に祝われないこと ~記念日という害

ネット上で一つ年とることを十数回したが、誕生日を祝われないことに苦しめられる

誕生日を祝われるべき日であるとする通念に苦しめられる、という思いを毎度強くする

ある一定の良好な人間関係をもてば、誕生日は文字通り特別な日であり、その日だけは他者から、自発的に、法外な祝意を受けられる

ただ、その日までに特段優れた社会的功績、他者への貢献もなく、人間関係ネットでの交流ほとんど実らなかったならば

誕生日は単なる日常の一つ、いつもの一日にすぎない

しろ誕生日という余計な情報自分をむしばみ、さいなむ

社会的に、他者との関わりにおいて、自分誕生してもとりたてて祝われる存在でない、必要存在でないと通告される日に変わる

(両親や親族の祝意は問題ではない)

祝われないことにみじめになり、そこから発奮できれば越したことはないが、概してそうはならない

「きょう誕生日なんだ(祝ってね)」とつぶやいてみて、もらおうとする「おめでとう」リプライなんて望んではいない

それは人の矜恃からいって負けている

誕生日をわざわざ公言することとの悲哀というかむなしさ

祝われるべき誕生なら自発的に祝われるだろうし、祝われないならそれだけの存在なのだ、あきらめ苦しめ、と

誕生はその人自身にはどうにも抗えない事実自分意志誕生できるわけでない

(東浩紀さんがどこかで「誕生事実脱構築できない」という趣旨の発言をしていたと記憶している)

誕生日自意識をもった幼少期に親から知らされる 自分がその日に生まれた、とは自分では確認できない、後天的に付与された日付

それが無条件に祝われる日であるという社会通念に、結果疎外されれば、かえって生きる意志は害される

誕生日にはじまり記念日とか何周年とか、そういう節目という時間の枠組みに遭遇して何かをする、といった機会は異様に多い

誕生日を祝われないことに苦しんだ経験から言えば、その時にしか何かをしない・されない、という慣習に見えてくる

過去の一事実や人の存在をその日付・年月にとどめ、その節目に思い起こすため・風化させないための装置として記念日は確かに有効なのだろうが

時間という定形しかすがれない・依存してしまっている人の思考のとらわれにがくぜんとする 時間という枠組みが強烈すぎて意気消沈する

そのようなアニバーサリーものは、いちど距離を置き、自分との関わりにおい必要なのか確認する過程を持つようにしている

「きょうは何とかの記念日から」という無自覚な行動がもう少し社会的に抑えられたらいいのに、とすこし願う



(…それでも、ふかわりょうより、松本幸四郎さん、 森麻季さん、奥寺健さんらと同じ日なのがかろうじて誇らしい

 恋愛経験なし歴=年齢がいつ解消されるのだろうか それだけが生きていてつまらない)

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