はてなキーワード: 辺境とは
放っておいてくれ、と最近よく思う。
細かく言うなら、よく知りもしないし、知る気もないことに口を出すぐらいなら、いくら怒ろうと悲しもうと、放っておいてくれ。
私は宮城県南部に住んでいた。内陸部だ。仙台に行くより福島に行く方が近かった。
原発事故における福島県内部と県外の被害のあり方はすこし違うように思える。
福島県内部は県内に原発を抱えていたから、影響は当然大きく、放射性物質は「あるもの」として対策を打つところから始まった。
県外は違う。まず影響があるかないかは政治が決める。見て見ぬ振りをするか、対策をするかだ。私の住んでいた地域は農村部だった。放射性物質なんて、農作物の商品価値にとっては致命的だ。
みんな、と書いた。
それは違う。価値観が違う。
たしかに農作物のために、騒ぎ立てたくない人が圧倒的多数だった。
しかし、安全性をウリにしていた農家や、小さい子供を抱える母親は違った。
家庭内で、職場で、自治会で、農協で、学校で、放射能に対するスタンスの違いは、深刻な対立を生んだ。
事故当初の線量は、小学校の砂の校庭で地上1.5mで約0.8μsv/hくらいだったと記憶している。これは5月頃のことだから、ヨウ素よりもセシウムの影響のほうが大きかったはずだ。畑や競技場はもう少し高かった。
でも当時は、除染基準はもっと高く、そして政府もただちに影響はないとしか言わなかった。
みんな葛藤があったと思う。
生計を立てるべく売りたい農作物、保証されない安全、内部被曝と外部被曝の複合的な影響は?この山菜は食べていいのか?自分たちの今までの生活はどこへ行ったのか?この川魚を孫に食わせていいのか?
それでも地域住民の大多数は「風評被害」を生まないために沈黙を守るべきだとした。
知ろうともしない人は、当事者意識すら持たなかった。
でもそうではない人もいた。
近所の人に、本当の理由を告げられぬまま、私たちは引っ越した。自主避難だった。
あれからもうすぐ6年が経つ。
勘違いがないように言っておくが、もうおおよその農作物は安全だ。
放射性物質もほとんど検出されていない(きのこや山菜はまだ基準値以上のものが出たりする。まれに)。
あのとき近所に住んでいた人たちがガンになったとか、そんな話も、幸い耳には届いていない。
けれど、あの時の私たちの判断を、誰が責められるというのだろう。
6年。
その間にいろいろな言説を目にした。
ただ今、どうしても気になるのは、こういう地元の葛藤を一切意に介さず、遠くの安全圏から声高にそして意気揚々と、口汚く意見してくる声だ。
ふざけるな。ふざけるなよ。
それでもあの当時、何も信頼できるものがないあの状況で、我々がした判断は間違っていたか?
結果論じゃないのか?
線量の落ち着いてきた今ならまだわかる。
けれど事故当時にすら、放射脳と、呼んではばからない奴はいた。そこらじゅうに。
あなた方は、私たち当事者の、その中の多数派意見に味方し、少数派を徹底的に叩きのめす。
それで正義のつもりになってるんだ。
あなた方は、私たち当事者が抱えざるを得なかった葛藤を知らないし、知ろうともしない。
下手をすると、放射線の影響や、過去の事例、現場がどれくらいの線量なのか、それすら知らずに、声が大きい当事者たちの味方をして気持ちよくなっている。
それなら何も言わないでいてくれ。
頼むから。
地域共同体としての我々は、意見対立からズタズタに引き裂かれてしまった。
もしあなたたちがここに来て、本腰を据え、じっくりこの問題に取り組み、当事者の1人になってくれるなら、いくらでも意見を聞こう。
でも、そうじゃなかった。
非難の声はだいたい的外れだった。放射脳と叫ぶ声だけでなく、危険だ危険だと叫ぶ声もそうだった。何も知らないんだろうな、と思った。
これは一例だ。
そしてその無責任で乱暴な声は、落ち着くどころかどんどん声高になっているようにすら思う。
「辺境」に押し付けなければならない問題を扱うとき、安全圏からモノを言うのはやめてくれ。
沖縄の基地問題、反対派の抗議活動に、「県外の人間の仕業。地元民はみんな賛成しているのに、邪魔」とか、賛成派のインタビューに、「政権側の印象操作。反対派が大多数だ」とか、見ていてものすごく苦しくなる。
どちらもいるに決まってる。
そしてどちらが多数派だからと言って、少数派を徹底的に叩いて排撃していい理由にはならないのだ。
再稼働問題もそうだ。「どうして対岸の都市が口出しをするんだ」とか、「援助金をもらっているから文句は言えない」とかもうやめてくれよ。
そもそも援助金がもらえる自治体だけがリスクを負えばいいかもしれないが現実そうじゃなかった。
放射性物質は自治体の境界を越え風に乗り山に飛びそして海にも拡散されてゆくと、知らないのだろうか。
知らないだろうな。
口出しするなら、せめて当事者意識を持ってくれ。
我々の葛藤を意にかけてくれ。
少数派だからといって口汚く罵るのはもうやめてくれ。
この世界は水戸黄門ではない。善悪二元論は成立していないのだ。
残念ながら。
月1000~3000円の定額で、ゲーム進行に影響するアイテム課金は無し
できれば日本製
ジャンプが出来て条件次第(かなり厳しい)で空も飛べる
ワープ不能な、時間をかけて困難を越えて行く価値がある「遠い場所」が存在する
行動の大部分はフィールド上で
戦闘に地形を利用できたり、地面に何か仕掛けたりできる
最強装備も半分くらいは売買可能
IL制じゃない
消費アイテムがけっこう強力
ソロでも30分程度で取り戻せるデスペナあり
惰性で14を続けてるけど、不満だらけなのでつい書いてしまった。14の戦闘はプレイヤー間で競合する要素がまったくない。PvPはゲーム内スポーツとして隔離されているので、わざわざやる理由がとても稀薄。ソーサーやカードで暇つぶしするのと同じ。
一定以上に強い装備は取引できないし、最強装備でもアップデートでゴミになるのが早すぎる。IL制とインスタンス主体という最悪のコンボ。クラフターはマケボ上で戦うのが楽しいけど、最強装備から完全にハブられてるのがとても不満。
UOがけっこう理想に近いのかなと思って調べてみたら、古いだけあってもう経済が飽和して死んでるらしいのね。経済はとても重要なので、時間が経ち過ぎたゲームはだめかな。ファンタジーRPGに限定しなければけっこう近いのがありそうだけど、今は剣と魔法の世界に浸りたい気分。
2
2日目 午前
ホテルの朝食の後、午前のおやつの蛋餅を食い、猫の村 猴硐→九份に向かうことにした。
まず地下鉄での行き先は台北車站(セントラルステーション)だ。
着いたら、駅周辺を散策する事にした。
すぐ近くに市場があり、その中ではここでも屋台的なものがあった。
台北では其処彼処で料理をして、其処彼処で誰かが何かを食っている。
市場を出ると小雨が降って来たので、近くにあった美術館に入ることにした。
美術館はひんやりして心地いい。
照明を落とした展示室では、赤と青の幻想的な浜辺で艶めかしく肌をさすり合う男2人と、それを覗く小太りな水兵の映像作品が放映されていて、よくわからないけど南国を感じた。
勝手な印象だけど、中華圏の現代アートは男の性を描いたものが多い気がする。
美術館をでたら、むしろ雨は強くなっていたが、3分もしないうちに止んで、強い日差しが古式ゆかしい建築様式の美術館を照らしてきた。
きっと今日もまだまだ暑くなるんだろう。
2日目 午後
台北車站に戻り、台鐵で猫の村として名高い猴硐に向かう。
この途上でも旅の目的の一つがあった。
台鐵弁当だ。
台湾鉄道には日本統治時代からの伝統で駅弁があるそうで、これは蚵仔煎と並んで是非食べなくてはいけないものだった。
どこで売っているのかわからず、改札を通ると、改札のすぐ脇に売店があり、そのまえの待合所で、老若男女が弁当をガツガツ食っていた。
きっと、現地人も食うために生きているし、旅行者もここに何かしら食いにきているに違いない。
排骨(スペアリブ)弁当がイチオシのようだったが、暑さにやられたのか、少し重い気がして、なんだかわからない別の弁当を頼んだ。
でてきたのは、角煮弁当だった。
温かく、蕩けるように柔らかい角煮を口に含んだ瞬間、思わず「うまい」と呟いた。
台北の食い物は、不味いものこそなく、むしろ多分ずっと食べても嫌になる事は無いだろうと思うくらいには美味いが、「びっくりするほど」とまではいかなかった。
しかし、別に飯屋でも屋台でもなんでもない、駅の待合所で、遂に美味くてびっくりするものに出会った。
台鐵を乗り継ぎやがて猴硐に着くと、ホームには猫ならぬ、猫耳のついた麦わら帽子を被ったお嬢さんがいた。
ここに来る人は、自らも猫になって来るらしい。
改札を出たらさぞかし猫だらけなのだろうと思ったら、改札を潜る前にすでに1匹、窓際で寝息を立てている。
一枚写真に収めて改札を通ると、其処彼処に猫が。
観光客にすっかり慣れているのか、どいつもこいつも写真を取られようが撫でられようがどこふく風。南国は猫も呑気なもんだ。
カフェに入って一息つく事にした。
大きなテーブルでアイスコーヒーを飲んでいると、4人客が入ってきて、マスターが「席をかわってくれないか?」
いいよ、と窓際席に行くと、椅子の上に寝息を立てた白猫が。
と、少しすると、不意に便意をもよおしてきた。「やっぱエリーさんの言った通りだったかな?」とも思ったが、一昨日の飛行機から寝不足気味ではあったし、正直台北の食に関しては衛生的に完璧といったものは少なかったので、何が原因か特定が難しい。
そんなに深刻な不調でもなかったので、トイレを借りて用を足し、「もっとまずくなったらその時は台北に引き返そう」位で、旅程を続ける事にした。
お土産の猫型パイナップルケーキを買うため、また筆談メモを描いていると、ブレスレットが何処かに行ってしまった事に気付いた。
頻繁にカバンに手を突っ込んでいるうちに外れてしまったのだろう。
少し探したが見つからない。
そうこうしているうちに雨が降ってきたこともあって、諦めて駅舎に向かう事にした。
「山の天気は変わりやすい!」
猫型パイナップルケーキを売っているお土産屋さんのおばさんは日本語が堪能で、結果としてメモは無駄だった。
目当ての品も手に入ったので、駅前を散策していると、「ブーーーーン」という音。
猫の写真を撮りきにて、実に珍しいものをカメラに収めることができた。
まだ日は高い。エリーさんのオススメに従って、猴硐から遠く無い、十分の瀑布を見る事にした。
十分駅に着いたは良いが、急に決めて下調べがないので、滝までの行き方が分からない。
とりあえず人並みに従って歩くと、沢山の人がいろんな国の言葉で天燈を空に飛ばしていた。
十分は、色々な願いが書かれた天燈が宙を舞う事でも有名な村だ。
天燈の翔ぶ界隈を過ぎれば、川沿いの通りに出た。
さあどうしよう。
これに乗れば確実だ。
メモに滝の絵と「十分瀑布」と書いて、運転手のオッチャンに見せる。
すると、呆れたような顔で「歩いた方が早いよ」
そうなのか。
ワンメーターでも乗せて、良い加減な値段でもふっかけりゃ稼げるだろうに、正直というか商売っ気が無いというか。
でもよくよく考えれば、そんな客を乗せるより、ここから直接九份や台北に行く客を待った方が良いのかもしれない。
オッチャンが指差す方向にしばらく歩くと、「十分瀑布公園」に到達した。
渓谷にかかる吊り橋を2つ渡ると、遂に大瀑布が見えてきた。
滝の飛沫と折から降ってきた小雨であたりはビショビショ。
傘をさしてカメラを構える訳にもいかないが、幸い雨ガッパを持ってきていた。
用意周到。エリーさん、そんなに迂闊な男でも無いんだぜ。
飛沫と小雨に濡れながら、十分の瀑布をカメラに収めることが出来た。
さあ九份だ。
2日目 夕方
十分から九份最寄り駅の瑞芳に向かう車内、向かいに座っていた女性2人の親子連れ、娘さんの方が騒ぎ出した。
言葉を聞くと韓国からきたようで、どうもこの列車が瑞芳に留まるかどうかがどうしても気になるらしい。
手元にスマホがあるので調べれば一発なのだが、なぜか地図アプリなどを見ていて要領をえない。
英語でお互い話そうとするも伝わらない。
お姉さんが先程の女の子に聞いた。「あなたは何処から来たの?」「I'm chainese.」大陸の人だろうか?
「ここに日本人もいますよ」シャイな日本人らしく、心の中だけで言った。
2日目 夜
瑞芳に着く頃にはすっかり日も落ちて、九份観光には絶好の時間帯だ。
駅前で張っていた兄ちゃんに「九份」伝えると、すぐに車を紹介してくれる。
タクシーのオッチャンに行き先を伝えると、出発進行。
しばらくすると九份老街に到着した。
中国語は発音がダメ、英語も中学生レベル、日本語だって怪しい。
台湾は人気の観光地だから日本人が沢山いると思ったら、これが意外と会わないもので、むしろ白人の方がよく見かける位だったが、ここ九份ではちょっと歩くとすぐ日本語が聞こえる。
しかし、良い加減、歩き通しで疲れてきて、少し具合も悪くなってきた。
脱水症状かな。
九份ではお茶でも飲もうかと思っていたのだが、人ですごいし、都合よく茶藝館も見つからない。
写真も撮ったし、もう切り上げようか。
ふと茶器の店が目に入ったので入ってみると、幸運な事に、茶藝館が併設だった。
茶藝館では店員さんがお茶の淹れ方を流暢な日本語で説明してくれる。
赤く光る街を見下ろして、ゆっくり金萱茶を飲んでいると、果たして大学生か若手社会人と思しき兄ちゃん3人連れが、賑やかにやって来て、日本語で高山烏龍茶とお茶菓子を頼んでいた。
諦めかけていた目的が果たせたので、会計の際に店員さんに伝えようと思い、「旅行の目的の一つが九份でお茶を飲む事だったんです。」と言ったが、さすがに日本語で複雑な言葉は伝わらないようだった。
説明の日本語が余りに流暢だったので油断したが、あれは決まり文句なのかも知れない。
「最高だ。」
「謝謝!」
他人を「あいつ使えねえ」とか言ってんじゃねえよ。お前は自分を「使える奴」だと思ってんのか?お前が思ってるほどお前は有能じゃねえよ。少なくとも他人の能力や資質をどうこう言えるほどのものはお前にはねえよ。
「こうあるべきだ、こうするべきだ、何であいつらはそれをやらないんだ」って、わざわざ抜かしてんじゃねえよ。みんなそれをやった上で次善の策としてそれをやってるんだよ。お前が思いつく程度のことは、もうやってるんだよ。
周りの人間を馬鹿じゃねえのかって態度出してるんじゃねえよ。そりゃ、お前は賢いだろう。周りもお前が頭いい事は知ってるよ。わかるか?周りも、お前と同じくらい頭がいいんだよ。
自分が理解されないからって「それを理解できない奴は不勉強だ、教養がない、感性が古い」とか抜かしてんじゃねえよ。ハイコンテクストだがなんだか知らねえけど、だからお前のいうことなすことは辺境の好事家止まりなんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20140501214714
これの話題が出ていたので、今思い出せるものを書き連ねてみる。
これ以外にも「読みたい」ってやつで、続き出てねーなーと思い出したものがあったら教えてくんちぇ。
近年ではなろう発の小説もバンバン打ち切られてるんで拾いきれません。
2016/06……8巻
2015/7……6巻
アニメは1巻を12話に引き伸ばすというスーパープレイ。短編集を間に挟んだけど、本編は2年お預け。
2015/12……4巻
2015/06……11巻
えっ……もう2年出てないの。クライマックス間近なのに。
2015/05……3巻
コミカライズ始まったし、それがうまく行けばなんとかなるのかな。
2007/03……3巻
太田が悪い。『傷物語』の特典小説でちょっと出てきたらしい。希望はある。
2008/12……『不気味で素朴な囲われたきみとぼくの壊れた世界』
メフィストに載ってたっけ? こちらも特典小説に出てきたらしい。希望はある。
2014/04…… (9) 破滅の星 (上)
最近出たと思ったけど、もう3年前……。
2016/08……12巻
2016/03……1巻
http://over-lap.co.jp/bunko/arcadiagarden/
2007/08……2巻
2005/01……メドゥーサ4巻
「メドゥーサ編」までは完結しているけど、続きがあってほしい。
2013/07……2巻
「つづく」で続かない。このラノ文庫は虫の息。
2015/09……3巻
水着回やって続きは未定? 『A/Bエクストリーム』って何年前?
2013/06……11巻
あんスタで忙しいんだよきっと。
音沙汰なし。絶望的。
2012/03……4巻
一応区切りの部分だが、不完全燃焼。著者はもう何も書いてない?
2007/10……7巻
まー、もう書かんのだろうね。アニメ化後に刊行止まるケース多すぎ。
2009/2……666 6巻
もはや完結したと思え。
2004/10……6巻
完結したんだ。そうなんだ。
2012/01……龍盤七朝 DRAGONBUSTER 02
2005/01……ミナミノミナミノ
合掌。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00NI96I9W/
3月まで都心部で暮らしていたが、採用された会社が西日本の辺境だったので仕方なく田舎で働いた。GWで実家に帰ってくると、田舎と都会の違いに驚かされる。
まず、目につくのは都会の女子高生は異常にスカートが短いこと。都会のjk達よ、太もも丸出しでおっさんの性欲を煽るのは止めてください。田舎のようにひざ下まで隠してもらえればJKはパンチラを気にせずwin、オッサンは無駄にムラムラしなくてwin。お互いに楽だと思うのだけどね。都会のjkは化粧してケツの見えそなスカート履いて色気づいてやがる。そもそも田舎には若者が少ないし、徒歩で出歩いるのは老人だけ。都会に行くと若者の多さに驚く。
つぎに、都会人は通行人をむやみにジロジロと見ない。知らない顔だからって監視していたら社会が成り立たないからね。田舎ではジロジロ見られる、しかたないから「こんにちは」とか言って挨拶しておく。都会で見ず知らずの住民に挨拶したら不審者扱いぞ。
最後に、都会は建物が新しいし綺麗。田舎は未だに木造平屋建て(築40年)みたいなのがいっぱいある。平屋根の鉄筋コンクリートなんていうモダンな建物は役場くらいなものだ。それで田舎では、そのボロボロの家で網戸もつけず開けっ放しにしている。断熱サッシ付きの都会とは建物の思想がちがう。
田舎ぐらしに憧れもないし、仕方なくクソ田舎で仕事をしている。今のところ職場の同僚以外で住民に関わることが少ないので、田舎の闇には触れずに住んでいると思う。田舎にも一定数の基地外がいるんだということを知った。ちょっと楽観的すぎるかもしれないが、プライバシーを犠牲にして得たものなのか不思議と田舎では都会のような殺伐感(騙し合い、猜疑心)から無縁で居られる気がした。
4月12日よりマストドン参入。最初はシステムがよくわからず、辺境のよくわからんところでフランス語かイタリア語かよくわからんそのへんの言語のなかで孤独な2バイト文字の戦いを繰り広げていたのだが、ものすごく楽しくなかったので、そのときちょうど開設されたピクシブ運営の例のインスタンスにアカウント開設。
あの場所に関してはわりと最初からインターネット老人会の雰囲気はまったくなく、ものすごい勢いで絵が流通していた。しかもロリ絵とかショタとかふたなりとかリョナとか、まあ基本的にあまりおおっぴらにできない趣味の絵が非常に多かった。というよりロリ率の高さはまさに異常。高速美少女回転寿司なんて比喩があったが、高速すぎてなにも見えないうえに、意を決して手をつっこんでみたらロリ寿司しか当たらないよっていううれしい♡世界。
まあ運営がピクシブということで、平均年齢は非常に若い感じがした。十代後半から二十代前半までというところだろうか。なおこれを書いてる増田は相当のおっさんであるもよう。
もちろん若い人、というかピクシブ由来の参入者ばかりではなく、俺のように「とりあえず新しい場所だから参入してみた」という人間もいるだろうし、ちょうどjpが落っこちてるタイミングだったので、ひとまずマストドン始めよう、ここでいいかみたいな感じでアカウント取ったインターネットおもしろおじさんも相当数いたようだ。
これらが一度に一箇所に飛び込んだものだから、そりゃもうすごいありさまだった。いくらなに突っ込んでも鍋は鍋でしょって言ったって、だれがチョコぶちこんでいいって言ったんだよみたいなそんな状態。印象としては「ツイッターが取りこぼしたもの」が濃密なごった煮になってる感じだった。たとえばそれは嗜好性の強いエロ絵。すでにコミュニティが確定してしまったツイッターという場で新しいものを得られなくなった人々。
とにかくローカルタイムラインの存在は強い。もちろんかつてはツイッターにもあったものだけれど、これが高速で流れていくことのなによりの感動は「回線の向こうにも無数の人間がいて、日々生きている」ということが可視化されるということだ。もうインターネットやって20年近くになるけど、俺が求めていたのは常に「自分は一人ではない」ということだったような気がする。一人ではないということは、二人になりたいということでは、実はない。たくさんのうちの一人であることは、とても安心感のあることだ。
新しい場所では、人は新たな関係を築こうとする。その結果が大量のふぁぼやフォローとなってあらわれる。てきとーに連投してればふぁぼやフォローがいくらでも増えていく。といっても、そのふぁぼやフォローは「相手に知ってほしい」からするものというのとは少し違う気がする。これこれこういう場があって、自分はそこにいる。ほかの人もそこにいる。「あるある」とか言いながらふぁぼをする。いってみれば、場を共有していることに確認のためにそれをするような気がする。
これが日本特有なのか、あるいはほかの国でもそうなのかは知らんけど、こういうがらんとした空間に人間を閉じ込めた場合、人はまず「ここはこういう場所である」という設定から入る感じがする。共通のジャーゴンの発生がそのあらわれだ。今回のpawoo鯖の場合、非常にタイミングよく、他のインスタンスから遮断されるという、より「この場」を定義しやすい事件が起きたことも大きい。
そして「なにもない場所」に人が集まる。このときに通貨として使用されるのがふぁぼやフォローである感じがした。
いま、その状況はすでに落ち着きつつある。ふぁぼの乱舞や場の確認行為のあとに続いて多く見かけるようになったのは、あいさつである。「フォローありがとうございます」などの。通貨はよりコストの低いものとして流通しはじめる。
おそらく、これを書いている段階で、初期の狂騒はすでに終わっているのだと思う。残念ながら俺はおっさんである。ミクシからニコ動、ツイッターやら、ほかいろんなサービスの消長というやつを見すぎてきた。
なんというか、ドッグイヤーどころの騒ぎではない。すでに随所で見かけている感想ではあるが、SNSの発生から隆盛、そしておそらくは衰退までも、超高速でやらかしている感じである。
個人的には、ローカルタイムラインがきちんと機能している限りは、マストドンは、そこそこは楽しい場所であり続けると思う。できれば、そうあってほしい。
ピクシブがインスタンスを作った時点で、これは企業主導でやるしかないだろ、というようなことをすぐに思った。素人の戯言ではあるが、個人的には、さまざまな企業が自社文化と親和性の高い人間をどんどん囲い込むためにマストドンは有効なツールだと思う。逆にいえば、特定の企業が作ったインスタンスに集う人たちが、ローカルタイムラインになにを放流するのか見てみたい。ドワンゴやらfc2やらいかにもな企業が作ったものよりも、たとえば新人物往来社とかオーディオテクニカとか「え? そこ!?」みたいなのが見てみたい。あと、はてなインスタンスは想像するだけでクソ濃密そうなので別にいいです。あったとしても、俺は逃げる。
「世界の辺境とハードボイルド室町時代」という本の「未来に向かってバックせよ」という章に、勝俣鎮夫さんの説が記載されてます。元々は、空間概念で、前をサキ、後ろをアト、と表現していたそうです。時間概念として使う場合に、古代や中世の日本人は、未来は未だ来ずという意識で見えないもの、「アト」と表現し、過去は過ぎ去った景色として見えるもの、「サキ」と表現したそうです。ところが、経験と技術の進歩で、16世紀頃に未来が予測できる、コントロールできるもの、目の前に広がっているものという認識が生まれて、全く正反対の時間概念の表現も混在するようになったそうです。おもしろい説だと思います。
俺は大都会の真ん中で生まれ育って、そのエリアの国立大の大学院まで行ったので、まあ、都会の人間だと思う
大学は望めば誰でも行けるものと思っていたし、勉強嫌いな人や、特に他にやりたいことがある人が行かないよね、程度に思ってた
言うとバレそうだけど、辺境の人口10万人程度の街の高専の先生をやっていた
高専なので、当然、ここに来る人は1年次から普通に受験して大学に行くことはない
都会に近い高専なら、7割くらいは大学に3年次編入するけど、僕のいた高専では、大学編入者は半分以下だった
最寄りの大都市まで行こうと思うと高速でも3時間程度かかるような田舎で、大卒がほとんどいない街で、大学に行かない子供達を教育し、進路指導する
こういう経験を何年かするとね、ああ、田舎ってこうなんだなぁーってものが見えるようになって来る
ああ、俺、田舎って知らなかったな、って
そういう学生と関わるからこそ、ただ田舎に暮らすだけじゃ見えない田舎の文化も見えるようになる
しかも高専生はそこそこレベルが高いので、田舎であるがゆえに、優秀だけど大学にはやれない家庭、みたいなのとすごく関わるんだよね
田舎の中でもただ貧しい子、ってわけじゃないんだよね
このくらい、都会と田舎の両方を肌で理解して、都会論田舎論語ってる人って、はてなじゃほとんどいないよねーって思うわ
都会も田舎も、文化の違いであって優劣じゃないんだよ、ほんとに
都会が劣ってるところも腐る程あるし、田舎のつらいところも腐る程ある
田舎暮らしは言うほど安くない!って騒ぐ人も多いけど、単身者じゃあんま変わらないし、中流家庭を築くコストはどうやっても田舎のほうが安い
自分の家族構成、ライフスタイル、趣味趣向によって、合う街合わない街があるだけ
コミケでカメコに囲まれているコスプレイヤーの"画像"を見るととても安心する、精神が安らぐ
それがどんなに美人であっても、その"画像"からその人物の承認欲求が読み取れる
普段相手にもしないであろう下層たるカメコに、その人数や熱気にあてられコスプレしてしまっている美人、という搾取が感じられる
ローアングルからの下卑た眼差しを受けている愚かなコスプレイヤーという構図は本当に肴になる
それは"画像"で画面の向こう側の出来事で、それは俺に笑われるだけの"画像"でしかない
さっきツイッターのリツイートで某アイドルコンテンツのコスプレを見かけた
ものすごく上手な絵師が描いた美少女の絵がリツイートで流れてくるように
ポートレートとでも呼ぶのだろうか、被写体の他に余計なものが写っていないもの
コスプレ元のキャラ同様なんだか品のよさが伝わってくる、鼻も高いしものすごく美人だ
その人のアカウントに飛んで数分間、他にも公開しているコスプレを見漁った
背景や構図なんかも素敵でため息が出る
プロフから察するに良くわからないが本職は別にありコスプレがメインじゃないらしい
そんな風に漁っていくうちに熱が引いていきだんだん冷めていった
キャラへのリスペクトも感じ取れるし、流行りものにだけ乗っかっているとかそういう感じもない
コスプレへの態度がしっかりしているほど、公開されているものの美しさに目を奪われるほど、負の感情が溢れていく
この人はコスプレに執着しているわけでもない、本職もある
生まれ持った顔の美しさで上からこちらをぶん殴ってくるコスプレ
上等な暮らしをしている人が片手間に楽しんでいるであろうコスプレ
この人が公開しているのは作品であって、俺が肴にするようなコスプレ"画像"ではない
あくまで俺はその作品を見せていただいている四畳半で暮らす下流のオタクで、俺がこのコスプレイヤーを搾取することなど到底出来ない
その事実を認識するばするほど情けないやらなんやら腹が立ってくる
ツイッターはリアルから切り離された場所である!電脳世界万歳!自分の身分も忘れられる!そう思いたかった
フェイスブックのようなリアル自慢、充実アピール大会が行われない場所でないと思っていた
そのはずが、こんな完璧人間が住む世界と地続きになっていただなんて
それも男性向けオタクコンテンツのコスプレでそれを見るだなんて
不意打ち、だまし討ち
最悪だ
復讐として腹いせとして、搾取の構造を守りたい俺は欲望のはけ口にしてやろうかとも思ったがそれも出来ない
最初にそれを始めたのが、誰だったのかは知らない。
金貨を集める仕事をしている。正確には、交換してもらう。
私にとっては、何の価値もないガラクタ。
街で不要になったそれらを集めて辺境へ赴き、「これは価値のあるものだ」と言って、金貨に換えてもらう。
それが悪いことだとは、思いもしなかった。
価値観は人によって、また、地域や文化的背景によって異なる。
私は確かに、その人たちにとっての「価値」を提供しているのだ。
そう教わったし、自分でもそう思っていた。
集められた金貨は、街の中央にある機械に投下される。
機械によってそれらは一枚ずつ、丁寧に積み上げられて行く。
うず高く積み上げられた金貨の塔は、建物の屋上より遥か高く、上空までそびえ立っていた。
光り輝くその塔が、この街のシンボルだった。
――いつか崩れ落ちて来るのではないか。
そう想像したのは、私だけだったのだろうか。
この街に来てから、二年ほどが経った。
地震が起こったのは、その頃だ。
最初は、少しぐらつく程度の地震だった。それでも、地域では珍しいものだった。
不安に思ったのは、私だけではない。
だが、空高く伸びる金貨の塔は、わずかな揺らぎを見せながらも健在だった。
「絶対に崩れることはない」
塔と、システムの管理者たちは、力強く宣言した。
二度目の地震は、より大きかった。
塔は再び揺らいだが、そのときも持ちこたえた。
管理者たちは議事堂に集い、対策を講じた。
付け焼き刃の対策の後、街は三度目の地震を迎えた。
それは、この世の終わりかと思うほどの大地震だった。
私たち街の住民は広場に集まり、身を寄せ合った。
街の民家や施設が、次々と壊れていった。火の不始末があったのだろう。燃え上がった家もあった。
人々は身を縮めながら、あの塔を見上げた。
崩れることはないという、金の塔を。
しかし、その塔もまた、大地の怒りを耐え凌ぐことはできなかった。
目に見えない亀裂が次第に広がり、それが飽和に達すると、堰を切ったように弾けた。
私たちが集めた無数の金貨は、大粒の雹のように地面に降り注いだ。
その内の一枚を拾い上げた。
それは私の目の前で、ただの土くれに変わった。
地震が止んだ後、街を離れる者は多かった。
多くが生活の基盤を失ってしまったから、仕方のないことだった。
かつての塔とシステムの管理者たちは、塔の再建を約束したが、心動かされる者はいなかった。
私も、また。
以前、私が住んだ家があった場所には、焼け跡だけが残されている。
(終)
これまでそれなりにネットの世界にドップリしてきて、それなりに楽しんできたつもりだった
……何だか「凄く楽しそうだった」のだ
ありきたりな、語録も使えば下ネタも言う、ネットネタを使えばゲームやアニメの話もする放送だった
なぜだか「置いて行かれた」と思った
なぜだか「なんで、俺が居ない所でこんな楽しそうにしてるんだろう」と思った
「自分が自分の世界に篭っている間に、ここではこんなに楽しそうにしてたんだ」と
にも関わらず、片やこんなふうに集まってワイワイ出来ていた人たちと、そうではない自分
もしかすると、こういう感覚を得た人というのはそれなりに居るのかもしれないと思った
理由は色々だろうが、自分が所属していたとおもっていた場所に置いて行かれた感のある人間は
10月ももう10日となって、秋始まりの新作アニメの第1話があらかた放送されましたね。
今期は例年と比べても各制作会社入魂のバラエティ豊かな作品が揃っていると思います。
シャフトが制作と発表されたときにはいくらか悲嘆の声も聞こえましたが、蓋を開けるとなかなか評判が良いようです。
特に絵本や水彩画の様な淡い背景が羽海野チカさんによる原作の空気感を再現しており魅力的ですね。
この作品の美術設計を担当したのは、「とんがり帽子のメモル」や「楽しいムーミン一家」のキャラクターデザイナーである名倉靖博さん
ん?名倉靖博?
そんな名倉靖博さんが演出、絵コンテを手掛けたのがスペース☆ダンディ第21話「悲しみのない世界じゃんよ」。
ある時ふと気づくと辺境の惑星リンボにいたダンディが、不思議な住人に案内されその星の真実に近づくというお話です。
バイクの様な宇宙人、哲学する大きな巻き貝、喋りだす飴、モーニング・ベールを被りリュートをかき鳴らす鳥人。
幻想的な夢の中のような世界観が独特の美術と共に描かれた、スペダンの中でも指折りに個性的な一本です!
今期は特に変身美少女ものが多いですが、その中でも最も個性的なのが新進気鋭の制作会社3Hzが送るこの作品。
1話では若手からベテランまで実力派のアニメーターが集まり、今期随一のアニメーションを見せてくれました。
監督は今回が初監督の押山清高さん。元は若手ながらヱヴァやジブリに参加するアニメーターでした。
ん?押山清高?
そんな押山清高さんがなんと一人で脚本・美術設定・作画監督まで手掛けたのがスペース☆ダンディ第18話「ビッグフィッシュはでっかいじゃんよ」。
賞金5000万ウーロンの幻の魚ムーナギを捕まえるため、訪れた星で出会った小さな女の子と共に奮闘する話です。
おとぎ話のような物語とビジュアルで、フリップフラッパーズに通じる押山さんの世界観が前面に出ています。
東映大長編から続く日本アニメーションの魅力を再確認できる一本です!
オリジナルアニメの多い今期でも一番のダークホースだったのがこの作品。
男子フィギュアスケートを題材とし、漫画家久保ミツロウと、峰不二子という女などの監督を務めた山本沙代がタッグを組み、
実写を参考にした滑らかなアニメーションでフィギュアスケートの演技を見事アニメーションに落とし込み、性別に関係なく楽しめる良作です。
ん?山本沙代?
そんな山本沙代さんが絵コンテ演出を手掛けたのがスペース☆ダンディ第20話「ロックンロール★ダンディじゃんよ」。
ふとした事で宇宙の覇権を争うジャイクロ帝国の総統、ジョニーと、その正体を知らずロックバンドを組むことになったダンディの熱いバンドムービーです。
この回ではゲストキャラクターデザイン原案に上條淳士を迎え、全体の作画や演出でも彼の作品を意識。
劇中歌の作詞作曲には向井秀徳を起用。分かる人には分かる音楽ネタを交えつつバカと真面目をどちらも全力でやり切ったパワフルな一本。
東京出身の某氏が炎上しているが、果たして『東京目線』だけが悪いのだろうか。
擁護したいわけではないが、彼女があのように言い切るにあたって京都人に非は無かったのか?というと
もしかするとあったんじゃないかな? いや多分あったんだろうな、と思う。
もちろん彼女のように口に出すことはあまりないかもしれないが、ふか~~~~いところで日本人全体を馬鹿にしているのが奴らだ。
奴らにとって京都以外のモノは取るに足らない、辺境から来た、未開なサムシングであり、隙あらばマウントを取ろうとする。
ほとんどの『日本人』が心の何処かで憧れている帝都東京であろうがその対象に含まれているのは言うまでもない。
地方出身、あるいは地方在住の方があの記事の『東京目線』に怒り、京都は『こちら側目線』の代表であると認識しているなら、
それは大きな勘違いと言わざるを得ない。
彼らの目線は『東京目線』と大して変わりない、どころかもっと酷いものであると記しておく必要がある。
そもそも純粋京都人は京都のことを『地方都市』などとは1ミクロンも考えていない(この事実に気付くのに私は7年掛かりました)。
東京の権威はどこでも通じる(京都を除けば概ね正しいが)と信じ『地方都市』へやってきたのに、奴らはそれを評価しないどころか
逆にただの一地方のお上りさん扱いで上から目線が透けて見える。こちらにもプライドがあるのにそれを鼻で笑いやがって。
私のバックボーンにはこれだけのものがあるというのに。我が東京と較べて大してメディアも人も集まらないくせに。
というようなことがあってもおかしくないのが京都であり、仮に彼女があの傲慢さにあてられていたとしたら、私は同情を禁じ得ない。
ああいった、後ろ足で砂をかけるような言葉が出てくるのも心情としては理解できる。
とは言え、もしそのような状況であったとしても言葉は選ぶべきであろう。