はてなキーワード: 美的とは
しかし一向にできない。おかしいなとも思いつつどこかで機会や出会いがあるのだろうと思っていた。
そんなこんなでもう四年目。就活もそろそろあり、このまま社会人になったら自分は一生童貞でしかも孤独に死ぬ未来予想図がありありと見える。
夏休みになってマッチングアプリというものを始めてみた。結果的に現在はマッチングアプリを9個やっている。
自分は身長165cm、顔は下の下でないことを祈りたいくらいの塩顔。髪型は短髪で体型はいわゆる普通体型。大学もまあまあ名前が知れてるし、自己評価としては好物件ではないが悪くはないだろうくらいに思っていた。
男はマッチングアプリで課金をしないとメッセージもできないということを知り、4000円近くの金を突っ込んで始めた。
そしてマッチングアプリを始めて1ヶ月、誰一人としてマッチしない。世界から否定され、自分の無価値を世界が認めたような気分だ。最悪だ。
マッチングアプリには足跡という機能がある。これは誰が自分のプロフィールまできたかわかる機能だ。1ヶ月で100人くらいはプロフィールを見に来ているようだ。
つまりケーキ屋で言えば店内入ってきてショーケースまで見てそこで帰ってる客が100人いる。自分がパティシエだったらコック帽をおいているだろう。
何が辛いかというと足跡があってマッチしないことが辛い。つまりわざわざ中を見るまでされ、精査された上で「お前には価値がない。魅力がない」と突きつけられているのだ。
そしてまず考えたのはアプリが悪いのではないかということ。今振り返ると別にそんなことはなかった。ただそのときは自分の価値が自分の想定より断然低く見えており現実を見えていなかった。
ということで次のアプリを始めた。結論からいうと全くもって同じ結果であった。
つまりどういうことかというと自分は完全にこのマッチングアプリという市場において無価値であるというがサンプル数2で太鼓判を押されたのである。
しかし2個ではたまたま偶然同じようなアプリを選出した可能性があると自分を鼓舞した。なので3個目のアプリに手を出したのだが結果は裏付けるサンプルが増えただけなんだ。笑えるよな。
弱者男性というものに自分が属すのではないかと不安になり、そしてそれを受け入れ始めた。
自分が使ったアプリはいわゆる恋活アプリというものであり、恋愛を目的としてアピールされているマッチングアプリである。これに対し結婚をアピールする婚活のアプリも存在する。
そして傾向としてかわいい(一般的な美的感性の美人)は恋活の方が多い。考えれば当たり前で可愛い子は別に結婚など若いうちにする必要はなく、遊びでマッチングアプリでいい男を探せばいいのだ。
これに対し婚活アプリになった場合はかわいいの平均が著しく下がる。実際の顔の美醜ではなく、写真写りが露骨に悪い。自己プロデュースが下手な女性が多いのだ。
また婚活アプリのプロフィールは20~25歳くらいだと極端に精神疾患や障害などなんらかの追加情報を持っていることが書いてあることが多い。また必ずと言っていいほど「それを理解してくれる優しい男性」を希望しているのだ。
そして自分は恋活アプリでは全くもって箸にも棒にもかからないくらい相手にされなかったのだが、婚活アプリに関して言えばまあまあ健闘できた。
理由としては写真だろう。自分はオシャレなどとは程遠い人生を送り、理系の大学でびんぞこメガネをかけた陰キャを地で行く人間だ。悪くいうのなら垢抜けず、野暮ったく、ダサいのだ。
しかし婚活アプリの市場においては相手側はいわゆる恋愛強者が少なくなるので、それらの女性の非恋愛強者(恋愛強者と恋愛弱者が排反ではない)がオシャレな男とマッチするという自己評価をしておらず、一見誠実で遊んでなさそうに見える男性を同程度またはそれ以下の相手だと考えてマッチするのだと予想した。
マッチングアプリの難しさというものは自己改善の難しさである。
当然なのだが男性は女性のプロフィールしか見えない。もちろん女性であれば男性のプロフィールしか見えない。
マッチングアプリの基本的な形式だが、男は女に選ばれる側という明らかな上下関係にある。女は選り好みしなければ男なんて掃いて捨てるほどアプローチがくるが、男は1ヶ月しても1回もアプローチも来なければ自分のアプローチが実らないこともザラなのだ。
つまり男はマッチングアプリにおいて競争環境に置かれているのだが、レースで言えば横を走っている相手を知ることができないのだ。
受験だって普通は他の人の成績を見て自分は日本で何位で他の人より英文読解が弱いとか分析することができるのだが、マッチングアプリではそれができないのだ。
これが非常に辛かった。これでも理系のはしくれなので論理的に改善をできるなら前向きに生きることができるのだが、そのための比較ができず改善もできない中で完全な暗中模索。しかも結果は出ないのだから辛かった。
写真写りなのだが正直ここがよくないとマッチもしないので交際のスタートラインにも立てないのだということが分かった。
新宿のホストっぽい写真(なんかいかついスーツ)・スーツのビジネスマンみたいな写真・TDL背景のただの笑顔で服を女性に選んでもらったカジュアル3割フォーマル7割みたいな格好の写真・自分の普段のオタクみたいな写真の3つをそれぞれ1週間ごとで写真を変えた。
他人の写真を使うのは倫理的に憚られるのでPhotoShopで気合いでアイコラしてゴリゴリのフィルターで1枚目の写真を作成した。2枚目は大学の入学式あたりの写真を使った。
3番目はカメラマンの友達に金を払って「マジで仕事と思って頼む」といって相手が断る中で半ば無理やり金を握らせて撮ってもらった。
結果はとして受け取ったいいね(自分からいいねしていいねが返ってきてマッチしたいいねも加算してる)
0/1/2/1
1/0/4/0
これだけを見れば女性に服を選んで貰ってカメラマンに撮って貰えば改善するように見える。
ここで比較としてホストをやったこともあるイケメンの友人にお願いして同じアプリで同じようなことをしてもらった。(この友人の彼女には自分の方から謝罪と事情説明をしてOKをもらった)
ホスト風の写真/普段の写真(ファッションがわからない自分には女性に選んでもらったやつくらいオシャレ)/自分がチョイスしたださ目オタクファッション(自分の普段着)
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ここでわかるのだが結局顔なのである。身も蓋もなさすぎる気付きなのだが大きな気づきだった。
マッチングアプリは顔がよければどうにでもなる。
この結果は救われたような気すらした。所詮顔の差でしかなく、逆に言えばここがよければ改善も可能なのだ。自分は人間としてオワリなのではなく、ただ顔が良くないだけで人間的にオワリとは言い切れないということが収穫だった。
※上記実験は全て同じプロフィール、同じステータス(毎日ログイン)、同じ会員ステータス(課金)、同じ開始時期なので差は完全に写真だけなのである。またマッチングアプリには新規登録ユーザーの優遇が存在するため、自分と友人のアカウントはアカウント作成後1ヶ月放置し、そのあとに課金を始めている。
写真を以下の条件のもと、プロフの文章を長め(趣味嗜好・休日の過ごし方・恋愛遍歴などの長文)と基本的な自己紹介と挨拶だけの短めの文章(写真の実験で使用した文章)を用意した。
それぞれ1週間の実験期間であるが、この実験は写真の実験のあとに行っている。
長文 5 短文 2
長文 5 短文 4
長文 57 短文 43
長文 290 短文 238
ということで気持ち長文の方が増加傾向なのだが、写真以上のインパクトはない。しっかり書けばだいたい1.1~1.2倍程度いいねの向上が見られた。
記載の通り、この5週間で以下の成果を得られた。これはおおきな進歩だ。正直最初にいいねをもらった時は嘘じゃなく飛び上がるほど喜んだ。生きていていいんだと感じた。
驚くべき成果だ。自分は無価値だと思っていたが見せ方次第ではある程度改善が見込めるのだ。
しかも努力が反映され、これが即結果につながることが分かった。この時点で自分は完全にマッチングアプリを数値的なゲームの感覚で触れるようになった。
与えられた環境で最大点を出す努力をするのが快感になり始めた。自分はもともと資格勉強とかの結果が明白にすぐ出る努力が好きなのでこの環境で頑張ってみようと思った。
でも、ほんとの恋愛強者ってのは高校とかの時点で彼女を作って、別にマッチングアプリなんか始めずに大学生活を周囲の女子とかとディズニーとか行って惰性で付き合ったりしてるんだろうな。まあもう自分にはなれないからただただそんな人は羨むしかない。
ここから先はメッセージしてから実際に会える確率についての実験と9個のアプリに手を出す話が続くのだがこれはまた今度書きたい。
○ご飯
朝:お椀で食べるチキンラーメン。昼:カロリーメイト。玄米ブラン。夜:人参と大根のスープ。目玉焼き。ナポリタン。間食:チョコ。プリングルス。
○調子
○和階堂真の事件簿 TRILOGY DELUXE
抽象化されたドット絵で謎解きの雰囲気を演出する短編ミステリアドベンチャーゲーム。
スマートフォンで展開していたエピソード3作に加えて新作エピソードを追加した移植版を遊んだ。
昭和の世界観なレトロな雰囲気を演出するためだけでなく、この作品独自の演出やストーリー展開のためにもドット絵の表現が生かされているのが面白かった。
タバコの煙が醸し出す昭和の空気感に、キャラクタの顔がわからない程度のドットなど、なるほどこの作品はこのビジュアルじゃないと成り立たないなと腑に落ちるのが心地よかった。
システム面はオーソドックスな探偵もののADVらしく、人への聞き込み、証拠品や現場の調査を繰り返してキーワードを集めていき、それらから正しい選択肢として選んでいくお馴染みのそれ。
かなりサクサク進み、とんとん拍子に証拠品証言が集まっていくので、いっさいだれずに捜査を進めることができた。
ほとんどミスリードや捜査が空振りする展開がないため、悪く言うと遊びがないとも捉えれるが、僕は無駄なく綺麗にまとまっていると感じた。
とはいえ文量のボリュームは少な目なので、ある程度は、そういうものとして前提を飲み込まないといけない部分もあった。
それが欠点ではなく、物語に良い意味で余白を残していたからだと思う。
表情がわからないほどに荒いドット絵ながら演技の表現が入るため、そこに見入るような熱があったのが余白を感じれた理由の一つ。
そして何より、今作最大の魅力である捜査終了後のサプライズ要素。
4作品全てでこのサプライズ展開が徹底しているのはお見事だった。
短編だからこそ“お約束”として触れないと思っている部分に容赦なく触れていく、どんでん返し系の構図は驚かされた。
流石に3作目や4作目になると身構えるので、ネタ自体は予測できたものの、魅せ方の工夫が効いていて面白かった。
どのエピソードも良かったけど、あえて一番を選ぶと、2作目の「隠し神の森」。
狭い村の人間関係を調査するパートが楽しいし、恒例のサプライズ展開もそこをズラすかあ、と感服した。
あと孫がいる年齢の男女が老いて尚お盛んな描写がエッチなんだけど、ビジュアル面がドット絵なのでイヤラしくないのも抑え目な表現がいい味。
勿論他のエピソードも面白く、1作目ながらシリーズの魅力が詰まっている自己紹介的な「処刑人の楔」、虚構と真実の境目で迷う主人公を俯瞰する楽しみがある変格っぽさもある「影法師の足」、オーソドックスな館物ながらシリーズを通して遊んだ後のご褒美的な側面も嬉しい「指切館の殺人」と、どれも楽しかった。
どのエピソードも、短編ながら捜査の楽しみと、謎解きからのサプライズ展開と、文量という意味ではなく、体験という意味でのボリュームはしっかりあるので、プレイ時間(4時間ほど)の割には満足度は高い。
ただ、謎解き部分はかなり真っ直ぐな構成であり、謎らしい謎が少ないところは、少し僕の好みではなかった。
道中の捜査の楽しみも、勘所は抑えられているとはいえ、流石にボリューム的に遊びの文章が少ないのも惜しかった。
京都弁や京都人の、皮肉や迂遠な悪口を言う存在というイメージがインターネットでネタにされることは多い。
大体の人間にとっては感覚的に自明だろうが、ネットで行われる京都弁ネタ、皮肉がうまい、婉曲的な言い回しを好むというステロタイプイメージの扱いはは、基本的に誉め言葉である。
インターネットというのは――もしくはオタクというのは――或いは日本人というのは――もしかしたら人類の多くが――皮肉や口の上手さ、風刺、アイロニー、ウィット、気の利いた言い回しといったユーモアを好むものだ。
たとえば、現実のイギリスのアイロニカルなジョークは人気だ。フィクションでは、ジョジョのプッチ神父のツバメの話やニンジャスレイヤーなどの捻った挑発も人気だ。
誉め言葉方面でも、漱石がI LOVE YOUを月が綺麗ですねと訳したというエピソードも人気だ(これは創作実話らしいが、人々がこのような婉曲表現がステキと感じるからこそ、創作実話なのに広まってしまったのだろう)。
意味が分かると怖い話、落語の考えオチ、なんかの楽しさも、遠回しだからこそ面白みが増す事例だろう。
しかしそれも素直に京都の高い言語文化を褒めるのでは面白みがないから、まるで京都人が意地が悪いから複雑な言い回しをしているかのようなひねりを入れた誉め方をしているわけだ。
少し蛇足になるが、最近はインターネットやSNSが一般化したことで、皮肉や逆説、反語表現などが誤読されることが増えたという話題をよく目にする。だからアイロニカルな表現は止めよう、と。
だが、私はSNS時代でも、アイロニーや皮肉や捻った言い回しを捨てるべきではないと思う。
言語表現・言語文化の洗練というのは、「誰にでも齟齬なく伝わり便利である」という実務的方向だけではなく、「美しい、おもしろい、何かが掛けてある」のような美的方向もあるだろう。
過去の歴史で、言語文化が発達したとされる場所や時代は、大勢の人間が言葉で交流ができる環境と余暇があって、面白みやひねりのある言い回しが沢山生まれたことで言語文化が花開いたとされることが多い。
まさにインターネットは人類史でもっとも広く日常的につながった言語環境だ。
そこで芽生えてきた、そして今後も花開くであろう、華美で、ひねっていて、アイロニカルで、美しくて、遠回しで、おもしろい言語表現を諦めるなんて、あまりにもったいないのではないか?
ハライチ岩井をキモいって言ってる人、煽りとかではなく本当に嫉妬ではないのか?
自分がマジで理解できない感情なので気になる。マクロンがどうこうとか関係なく本当に好きにすればいいと思ってるので
嫉妬だとしたら、加齢とともに日々劣化していく若さという自分の美的価値の劣化を直視できずに、若さという基準で選んだ男の方を叩くってロジックなのか?
だとしたら日本で美的価値の評価が相対的に高い女性特有の感情なのか?
どうにもグルーミングとか言ってる人が感情の後付けで理論をくっつけてるようにしか見えんわ
少なくとも今岩井でツイート検索して出てくるようなキモいって言ってる毒吐き垢とかはグルーミングとかソーシャルジャスティスを考えてるようには思えない
10点: 顔立ちに顕著な非対称性や特異性があり、一般的な美的基準から大きく外れている。20点: 非対称性がやや目立つか、一般的な美的基準に少し欠ける特徴がある。
30点: 平均的な顔立ちで、特筆すべき美しさや特異性はないが、大きな欠点もない。
40点: 平均以上の顔立ちで、いくつかの魅力的な特徴がある。
50点: 全体的にバランスが取れた、魅力的な顔立ち。
60点: いくつかの特徴が特に美しく、魅力的な外見。
70点: 顕著な美しさを持ち、多くの人にとって魅力的。
10点: 顔立ちに顕著な非対称性や特異性があり、一般的な美的基準から大きく外れている。20点: 非対称性がやや目立つか、一般的な美的基準に少し欠ける特徴がある。
30点: 平均的な顔立ちで、特筆すべき美しさや特異性はないが、大きな欠点もない。
40点: 平均以上の顔立ちで、いくつかの魅力的な特徴がある。
50点: 全体的にバランスが取れた、魅力的な顔立ち。
60点: いくつかの特徴が特に美しく、魅力的な外見。
70点: 顕著な美しさを持ち、多くの人にとって魅力的。
神社は割と人通りの多い小道に面しているため、静謐、といった雰囲気はないが、左右に砂利が敷かれた短い参道を抜けて、背の高い木々に囲まれた昼でも暗い拝殿の前に来ると、「ほぼ現世、少しだけ異界」ぐらいの空気はある。
境内に一本、御神木なのか、ひときわ大きい樹が立っている。木には人の胸ぐらいの高さに縄が巻かれていて、汚れ一つない純白の紙がそこから垂れている。
…
夏になると、境内の地中から蝉が出てきて、この木に登る。羽化するために現れて木を登っていく。
蝉、しめ縄をよじ登って越えていくか、反対に縄の下であきらめて羽化すればいいのに、わざわざ縄に下げられた白い紙を羽化のポイントに定めるやつが何匹かいる。真っ白な紙の上に点々と、透明で茶色い抜け殻が残る。
しめ縄というのは、どっしりとした円柱の大木に風雪で少しささくれた縄が巻かれ、そこから新しくぱりっとした純白の紙が垂れている、そういう宗教的かつ美的な意匠なんだと思うが、まあ蝉には関係ないもんな、と思う。蝉にとっては、ちょうどいい高さにあるちょうどいい場所でしかない。
…
神社を出て100mほど、道なりにいって曲がると、今度はだいぶ由緒あるらしい寺が建っている。高名な僧が数百年前に開いた名刹らしい。
俺が住んでいるのはある有名な地方都市で、住民も多いし、観光客も大勢行き来している。しかし、この寺のお堂へと向かう広葉樹と苔だけの道を1分ほど歩いて境内に入ると、まったく何の音も気配もしなくなる。聴こえるのは、それこそ蝉の声ぐらいだ。
俺はときどき、お堂の廊下に座って、物を考えないで風景を見る。廊下は南側と北側があって、南だと境内に植えられた木、北だと目の前にそびえる岩壁を清水が伝うのが見えて、両方飽きない。
…
この前、南側に座っていたときのこと、でかい羽音を立てて蜂が一匹飛んできた。
虫が好きな人間の固有スキルの一つに、蜂が刺すやつか刺さないやつか瞬時に判断できる、というものがある。そのときも、クマバチ=刺さない、とすぐにわかったので、むしろ観察するぐらいのつもりで様子を見ていた。
蜂はぶんぶん言いながら、お堂の庇に近づいていった。
お堂の庇は木を組んだ複雑なアミアミになっている。蜂は庇のどこかの一点が気になるらしく、決まった範囲をホバリングしていたが、急にふっといなくなってしまった。
「?」と思ったが、少し観察を続けてみて、さらに驚いた。
庇に直径1cm強ぐらいの穴が空いている。ある種の蜂は木に穴を開けてそこに住むが、どうも、クマバチが巣を作るためにお堂に穴を開けてしまったらしいのである。
美しい建築も、あるいは宗教的に洗練された意匠も、生き物としてあるがままにやっている存在には太刀打ちできない。物体であることの限界というか、この場合、お堂<蜂、もしくはご神木<蝉、そういう力関係と言える。
…
風情的には少しあれかもしれないが、寺社建築をよく見ると火災報知器がついていることがある。安全面もそうだが、文化的にも重要なものだから、火には注意しているのだろう(法律的に必須なのかは知らない)。
同じことが蜂に穴を開けられた場合にも言えるはずで、歴史ある建物としては損なわれない方がいいに決まっている。
俺は寺務所に言いに行こうかと思ったが、少し考えてよした。
主な理由は「お堂に蜂が穴を開けてますよ」というところから会話を始めるのが我ながら気色悪く、億劫だったからだが、もう一つ挙げると、そもそも仏教的に、「かたちあるものが虫によって損なわれようとそれがなんだろうか」というノリなのでは、とも思ったためである。
皮相な理解だが、一切皆空の世界だし、悉有仏性の世界である(と聞く。宗派的に色々あるのかもしれないけど)。
人がつくったお堂に蜂が穴を開けようが、それでお堂が朽ちようが、お堂につくった巣で蜂が栄え、その蜂もいつか滅びようが、すべてが等価というか、はじめからそういう、かたちを結んで消えていくのを織り込んでいる世界観が仏教なんだっけ、と思った。
それで考えると、神道もいわゆる「八百万」の世界観であって、序列はあるのかもしれないが、蝉にも蝉の神…というか、「土中で数年暮らしたあと地上に出てきて飛んだり鳴いたり(オスだけ)したあとあっけなく死ぬ」神性? みたいなものがあるのかもしれない。
どういう神性だよ、という気もするが、ヨモツヒラサカに生えた桃の木とか岩とかを神と見なすのだから、蝉の神がいてもおかしくはない(おかしくはないのだけど、実際のところ、虫の神を日本神話で見た覚えはなくて気になっている。アゲハの幼虫を信仰していた宗教が大昔にあったみたいだけど)。
そういう意味では、自然界の営みによってシンボルが物質的に損なわれたり、上手く機能しなくなったりしても、一部の宗教はシステムとしてあらかじめ、そういう破壊や変質をうまく組み入れているのかもしれない。これは生命よりも宗教の法理の方が、包括的という意味で上位ということで、生命<法理であると言える。
…
で、最後にどこに着地するかというと、信仰もただの理念や言葉、ロジックだけでは生き延びたり広がったりしていくのは相当難しい、やっぱりモノ・カタチにする必要がありますな、というところに着地する。
心を寄せるためのシンボルや、目で見て手で触れられるオブジェクトがあった方がいいし、大衆の政として考えても、建築やでっけえ像とかがあった方が広めやすい。
仏像でもピラミッドでも教会でも、最低限、紙の聖典でも、とにかく、教えとして生き残り広まっていくためにはブツが必要だ。水を汲んで運むのに器がいるように、信仰にはどうしても、ブツが要る。その点では信仰<モノである。
ただ、モノはいずれ、壊れるか変形するかするわけで、俺なんかはもう、「物質を伴わなければ存立・拡大できない宗教は、戦略として物質化を伴うがゆえに、滅んだり変化することも許容し、あきらめることをどこかに織り込まないと理屈が破綻してしまう宿命でもあり、拡大と必滅の板挟み」なのでは? とさえ思う。まあ考えすぎかもしれない。
…
いずれにしても、これでお堂<蜂<信仰<お堂の三すくみが完成した。ありがたいことである。
…
正しいかは知らない。
…
何年か前に泊まった旅館は山寺のふもとにあって、せっかくだから登っていったら、と宿の人に言われ、お遍路でつくような杖をわたされた。
要らねえけどなあ、と思って登り始めたら、山道というレベルを超えて文字通りのマジ崖であり、むしろ杖あっても登れねえよ、と思ったが、どうも引っ込みがつかなくなり、気合いで登り続けた。
道がどんどん狭くなって、「落ちたら普通に死ぬなこれ」と思っていると、やがて、ほとんど空中にかかったような、ひと回りするのに10秒かからないほど小さいお堂にたどりついた。
当たり前だが、誰もいなかった。辺りは静寂に支配されていて、青い空が近くて、山の中が一望できた。
厳密に言うと誰もいなかったわけではなく、小さめのスイカぐらいあるスズメバチの巣が完全に完成してお堂の庇からぶら下がっており、スズメバチが「竣工式でーす」と言って飛び回っていた。
俺はふもとに降りてから、「蜂です」と宿の人に言った。さすがにスズメバチは言う。
ただ、蜂には当然、あれがお堂かどうかは関係のない話である。また、お堂サイドも、まあ仏教の法理に人格のようなものがあるとして、「こういう世界だからしょーがねえな」と言って苦笑する感じというか、空の近くにある静かな山中のちんまりした古刹で蜂が生命を躍動させているのに、なんかすげえ調和としか言いようのないものを感じたのを覚えているので、書いておく。🦑
「テンプライアンス(Tempura Compliance)」とは、
テンプライアンスの目的は、天ぷらを一貫して高品質で安全な状態で提供することです。以下に、テンプライアンスの一般的な要素を示します:
1. 揚げ油の管理: テンプライアンスに基づく天ぷら店では、揚げ油の管理が重要です。揚げ油は適切な温度で維持され、定期的に交換されます。使用済みの揚げ油は適切に処理され、安全な方法で廃棄されます。
2. 食材の品質管理: テンプライアンスでは、天ぷらに使用する食材の品質管理が求められます。新鮮で高品質な食材を選び、衛生的な環境で保管・調理されます。食材の衛生面に配慮し、十分な下ごしらえが行われます。
3. 衛生基準の順守: テンプライアンスに基づく天ぷら店では、衛生基準に従うことが重要です。調理場や調理器具の清潔さを保ち、従業員は手洗いや衛生管理の実施に努めます。また、食材の取り扱いや提供時の衛生対策も徹底されます。
4. 提供の美学: テンプライアンスの一環として、天ぷらの提供には美的な要素も重視されます。天ぷらは適切な温度で提供され、見た目にも魅力的であり、食べやすい形状やテクスチャーが守られます。
これらのテンプライアンスの要素を遵守することで、天ぷら店は安全で品質の高い天ぷらを提供し、お客様の満足度を高めることができます。
この記事で言うポリコレ潮流とは、今まで日の当たらなかった弱者やマイノリティに光を当てたり称揚しようという世界的な流行のこととする。そして特にエンタメ業界についてに注目する。
世界的、あるいは日本の世間的な言葉の意味はさておき、この記事ではそうする。
説教臭さや、諸々に配慮してますという目配せが娯楽への没入感を削ぐし、僕の美的好みから外れるキャラ・タレントの登場頻度が増えたからだ。
だが、ポリコレ潮流的な物が百害あって一利なしだとは思っていない。
僕は大学進学の際に、九州の人口20万くらいの町から人口100万くらいの町に出たのだが、そこのツタヤに、地元にはおいていなかった僕の好きなアニソン系歌手のアルバムがあった。
それを見て僕は、この町は僕みたいな周囲と馴染めないキモいやつもにも居場所を準備しているのだ、と嬉しくなった。
これは利便性の問題ではなくて、大衆が普段使いする施設が、自分のような人間の存在を想定に含めた運営をしていることが精神に与える影響の問題だ。
もう少しオタク一般に伝わる表現で言えば、アニメイトだったりとらのあなだったりコミケだったりの、オタクの存在を前提とした場所に始めて行った時の感覚にも近いと思う。
だから、差別されやすい民族とか、セクシャルマイノリティとかがエンタメでの登場頻度を増したことで、その人たちが「世界には自分たちの居場所がある」という感覚を得ることができるだろうというのは十分想像できるし、それはいいことだとも思う。
ではあるのだが、やはり僕はポリコレ潮流に好感を持てない。
最近の僕は、100万都市に出る以前の、というかそれ以上の、「この世界から僕は厄介者にされている」という鬱屈を抱えている。
ポリコレ潮流が、居場所のない人間にも居場所がある安心感を与えてくれるはずなのに、僕はそこから落ちこぼれている。
100万都市で精神を病み、無職童貞で三十歳を超え、実家に引きこもってネットで悪ふざけしたりロリエロ漫画でシコりつつも、最近ちんちんの勃ちが悪いことと両親の老いに怯えている僕の居場所は狭まっていくように感じる。
潮流という言葉を使っているが、じっさい上げ潮と引き潮のようだ。或いは株の上がり下がりのようだ。
僕が世界に存在を許されている感覚は、中学生までの頃は居心地の悪い引き潮、進学で人口の多い町に行き居場所のある感覚を得て上げ潮、おりしもネットの発達やオタク文化の一般化と共に最高潮になったが、その後潮が引き始め、下げ止まらない。
最高潮の頃の遺産で居場所や娯楽自体はまだあるが、成長率は低い。
ちょうど日本が、過去の遺産でGDPが世界三位ではあるが、GDP成長率は鈍化していて閉塞感が漂っているのと似ている。
まだ世界から捨てられきってはいないが、この後どんどん居場所が狭まるだろうな、ポリコレ潮流で引き潮になっているな、と思うから、僕はポリコレ潮流を好きになれない。
今のポリコレ潮流で、世界が自分達の居場所を認めつつあるという安心感を得ている人たちの、その喜びはいいことだが、僕という存在の株価が下がっていくこと抜きにそれはできないのだろうか?
なんか見た話である。
女性の身体を性的に誇張した萌え絵を公共空間に出してはいけないという主張に対して西洋絵画の例としてミュシャは?と問う人がいた。
これにミュシャは芸術ではないと答えられていて炎上していたのを見て、ミュシャは果たして西洋絵画の代表例として適切なのか、考えてみた。
美の基準は人それぞれだが、美術界においては審査を受けて合格し美術館に展示されるものが美術であると考えられる。
その点では、フランス時代は広告イラストレーターとして活動し、チェコに戻ってから画家として大作を完成させ、祖国に寄贈したミュシャは、自分自身の仕事によって芸術家として支持され自らの地位を自ら作った人だと言える。
官展が作品・芸術家を権威づける美術界においては確かに正統派な経歴ではないだろうし「いわゆる」一流の画家と言えるかは議論の余地があり、その点でそもそも西洋絵画の代表としてミュシャを提示することがそもそも誤りなように思える。
だが、大衆に支持され祖国の人々の心に残る優れた芸術家であることは間違いないのではないだろう。
ではミュシャが芸術家なのであれば萌え絵も芸術的な広告として出して良いのでは?
どちらも女性の裸体を描いたものであるが、美術とは王侯貴族や宗教画こそ良しとされていた時代に、娼婦を描くことで権威的な美術界に一石を投じている。
ではミュシャと比べると、ミュシャは世間の常識を踏まえて広告イラストを描いているように見える。
フランスではデコルテ出しは問題ない代わりに足を出すとはしたなく見られる。
それは王侯貴族の肖像画だったり、現代では映画祭なんかでセレブが着ているドレスでもデコルテまわりは出していても圧倒的に足出し率は低い。
また、今ほど食料が豊富ではなかった時代、豊満さは豊かさであり美しさであった。
であれば、全体的に女性的な丸みを強調したシルエットは性的というよりはむしろ健康さの強調であると考えられる。
さて、萌え絵はどうか。
時代は移り変わり、細身であることが美しいとされがちな現代の美的価値観に則って身体全体としては細身の印象であるが、胸など性的に描かれやすいパーツのみ強調されているに思える。
美しく描くためというよりは性的な魅せるための強調と言えるのではないか。
ちなみに、かつての日用品や広告などが今となっては価値あるものとして博物館に並べられるように、今後萌え絵が芸術となる可能性もあるのだから保護すべきというような意見も見かけた。
ただし、その評価をするのは今ではない。
現状商業性の強い萌え絵広告はすぐには美術品として飾られることはない。
では萌え絵がいずれ美術品としての地位を得ていくためにはどうすべきか。
ミュシャの例を見ると、イラストレーターとして支持を得て着実にステップアップしていたミュシャはある富豪から金銭的な援助を受けたことで故郷のチェコへ戻り、『スラヴ叙事詩』という大作の絵画を作り上げている。
ここから、すぐにできることとして、お気に入りのイラストレーターがいたら創作を続けていけるように作品を買い支えること、また作品はいずれ寄贈できる時に備えて大切に保管しておくことを挙げる。
無理に押し出して変な騒ぎを起こすことはむしろイラストレーターから創作意欲や仕事を取り上げることにつながりかねない。
信じて推して待つ。
できることはただそれだけなのだ。
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより