はてなキーワード: 物差しとは
最近の同人系エントリが続いているので、クソカシクバリババァどもに届いてくれればありがたい。
カシクバリとは、同人系の差し入れで「とある形体」のものを差し入れてくる人を揶揄して使われる言葉である。
(出典は私も知らないけれど同人板あたりなんでしょうか?)
「とある形体」とは、スーパーやコンビニなどで売られているお菓子や飴玉なんかを
そういったものを差し入れる人のことをカシクバリと呼んでいます。(多分)
よく見受けられるものはファミリーパックのあるカントリーマァムやらホームパイ、キットカット、
飴玉、ラムネ(フィルムでねじねじしてるやつ)、ハッピータン、などなど。
えっよく買うしおいしいじゃん!てなる。分かる。私も自分で買うし大好きおいしい永遠に食える。
1衛生面が気になる。
個包装されているとはいえ、素人がひとつひとう手でラッピングしている。
とか言うと「手をちゃんと殺菌しています!」だの「仕事はパティシエなんでそういうのしっかりしてます」言い始める人も出てくる。
ちがう…そうじゃない…
お菓子だし多少はね…?と思うけど、本当にイベント前に買ったものなのか調べるすべはない。
↑こういう情報を見たのか「賞味期限記載してありますので!」と差し入れてくれるあなた…
だって差し入れくれたからって何かお返しするわけじゃねーしな…
あと「賞味期限が分からないのでこういった差し入れは遠慮します」=「持ってこないで欲しい」って何故わからないんだろうか??
3単純に貧乏くせぇー!!!すまんーーー!!!私はクソ野郎だからこれが一番当てはまるんじゃーーー!!すまねー!!!
やっぱりそれか。
そういうのしか差し入れられないレベルのサークルが何言ってんだ。
とか言われても仕方ないけど、自分で買えるもんをわざわざ手を入れて差し入れられてもさ…なんか…なんか…じゃね?
いっこいっこ丁寧()にラッピング()とか何かきめぇ…オカンアートの気まずさとちょい似てるんじゃ…
潔癖じゃない私ですら「子供の面倒みながらラッピングしました!」とか言われて差し入れられたら
ゴミ箱ダンクしたくなるだろ簡便しろ。いやそんな一言なくても嫌いなんですけど。独身だろうが素敵なママだろうが嫌なんですけど。
本当に心が貧しくて申し訳ねぇ!でも嫌いなもんは嫌いです。嬉しい度に表すと、
お手紙・素敵な贈り物くださる方>会場で本買うついでに一言感想くださる方・ただ本買ってくださる方>>>>>>>感想付カシクバリ>>>>>>>>>>>>>>>カシクバリ
ちなお手紙付きのカシクバリの場合手紙だけ貰った!て脳に勘違いさせてる。脳トレです。
あとカシクバリについて「え~私は詰め合わせ嬉しいけどな~」て偽善者サークルは滅んでくれ~お前はいいかもしれんけど嫌なやつもおるんじゃ!そして嫌なやつはなんかとても嫌なやつになってまうんじゃ!
こんなことで株を上げようとすんな!いや活動は勝手だからどんな株の上げ方してもいいんだろうけども!そして本当に嬉しいサークルも居るんだけども!!
この嫌だって主張してる時に「私はそんなことない」て言われると「うるせぇー!!」てなるの仕方ないだろ!
誰かの主張のアンサーじゃくて最初から、自分から主張してくれ!駄菓子詰め合わせセットが好きだと!勝手にやっててくれ!!
それって嫌いなもん持ってくるなっていう自分勝手でクソみたいな主張じゃん?
て感じだけど、ここ数年本当どのジャンルでも貰うので言わせてほしかっただけなんだ…
甘い物きらいなサークルが、甘い物差し入れられてキレてるのと変わらなくない?という問題だと思う人は同人界隈でも、一般参加の人ばかりだと思う。
サークル間だとけっこう処分に悩んでる人多い気がする…。問題になってる!とまでは言わないけどさ…
これ誰かがそういう方が喜ぶ、礼儀、みたいにしてるのか?金もらって本渡してる時点で等価交換は済んでるんですけども????
普段文章を書かないからもう疲れて来たし、まとめらんないし、〆るね!!
(カシクバリが嫌いかもしれない)作家さんへのおすすめの差し入れ
・手紙
以上!あと「駄菓子詰め合わせセット(=カシクバリ)私は好き!何で嫌われるのか分からない~」って作家さんにはばんばんしてあげて下さい。
※あと手紙が好きじゃない作家さんもゼロではないと思いますので自己責任です。ていうか差し入れもらうためにイベント行ってないので、
感想欲しそうにしてない作家さんについては何もしないのがベターですかね…。
それか聞いてください。リプ以外で。リプみたいな誰でも見れるところで本音なんて言えるわけねーだろ!!
こんなエキサイ!エキサイ!してしまってもうし訳ない…もう少し分かりやすく、人々に受け入れられるようにどなたかエントリして欲しい。個人の感情抜きのやつ。
こいう主張系って個人の感想入れると上げ足とられるしダメだってのは分かるんだけど、チラ裏としていいかって書いてしまいました。
頂いたものにどうこう言うのは正直心苦しいし、そもそも差し入れなんぞ無くたって本を買ってくださるだけでとても嬉しいです。
これがめちゃくちゃ大前提だということを分かって頂きたいです。
好きなサークルに何か差し入れたい!という気持ちを持って頂けたら、お互いに負担になりにくい感想がいいのかなと現時点では思っております。
(多くの場合は二次創作ですし、二次創作の感想を書くのってかなり難しいし、頭も時間も使うし面倒なのは分かりますが…)
善意だとは分かっているものの、駄菓子詰め合わせを持ってこられると素直に喜べないのです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/toianna.hatenablog.com/entry/2018/01/17/173000
文章中でいろんなものを傷つける表現してるだろ。それについてはスルーかよ。その辺りを、彼女は傷ついているのだから大目に見てやれ、みたいに仲間感覚で物差し笑歪めるようなことやるなよ。
それはあちゅうの時の無能なとりま汚さやってること同じ。トイアンナさん擁護してるやつら、いつものミサンドリー連中ばっかりでお察しなわけだがな。自分らが気に入らないものをすぐミソジニー呼ばわりしてくる基地外ども。
お前らがバカでかつ意見が偏ってるのはまだ許容できるが、お前らも叩きブコメしてる人たちに対して叩くな、だけじゃなくて口汚い罵りの言葉を載せてるのだけど自覚できてるのかい?ってとこなんだよ。そこすっとぼけてるのは許しがたいよなあ
その辺りが無自覚なのか自覚的なものなのかは知らんけどな。自分が言ってることについて相手がムカついてるのかも知れないって可能性を想像することができないやつは男女問わずゴミだぞ
私もやってみたいとか、まじ舐めんなって笑
あんたの様に現実逃避の為にコスプレしたり、小説の真似事して、内輪で傷舐め合ってちゃぷちゃぷやってただけの奴が勘違いすんなって笑
しかも30歳でしょ笑
始めるのに遅いなんて事はないってのは、
それまで他の事をガチで追及してる人にのみ適用されると思うよ。
楽しみ方の一つだし、
なら、現状の自分のスキルで作れる範囲内のモノを作って楽しもうな。
周りにいる自分よりもスキル高い奴を使って、自分の作りたいものを無理矢理無償で作らせようとするな。
ドライな話だけど、大人になったらWINWINの関係じゃなきゃ金銭のやり取りなしで創作とかしないから笑
こっちを巻き込むな笑
相当歌が上手いならいいよ。
素直にそれ指摘したらめっちゃ凹んでるし。
ボーカルスクールのプロデューサーさんに表現力が高いって褒められた?
そんなんスクールだから、ビジネスだから生徒が気持ちよくなるよう褒めるわさ。
録音して、好きな歌手の歌い方と比べて何が違うか比較研究しろや。
体の作りがーとか、のどの開きがーとか、私はライブ畑の人間だからーとか御託並べる前に、他人の意見を一回受け止めろよ。
全部否定しないで。
受け止めてみてちがうなら、捨ててくれればいいし、
納得できれば吸収してくれればいいし。
恥ずかしいことじゃない。
そんなことができないようなら、なんも上手くいかないって。
やり方か考え方が確実に間違ってるから笑
なおさらこれまで培ってきた物差しとか判断基準とか改めた方がいいでしょ笑
実際違うんだって笑
実力社会で、一回一回120%で打ち返さないと次があるかどうかわからん世界なんだって。
そんな場面でお前のカラオケレベルの仮歌とか使える訳なかろうに。
マジで舐めんな笑
大学の同期が成人式をむかえる前に書こうと思っていたが、結局こんな時間になってしまった。
この時間になって成人式ねーうん・・・みたいに思ってネット見てる人間が見ればそれでいいや。
「成人式に行かない人って、いったいどんな理由があるんでしょうかね」というのは、改めて考えてみるとこれがいまいちよく分からない。
あるいは自分がなんだかんだ言って結局行った方の人だからなのかもしれないが、行くのを結局決めたのは前日の夜になって「ああやっぱ行こうかな、一応準備だけしておいて寝坊したらあきらめるか」といった具合でいたら当日きっちり目が覚めたので、ええホントに行くの俺?みたいな思いを抱きながら行ったという有様だったので、その辺のところ行くまではかなり割れていたのだが、実際行った後になってああやっぱ行ってよかったなとなるような強い価値観の変化があったので、そのあたりのことがいまいちよく思い出せないし、結局行かない側の人ではなくなったので、行かない側の人としての物言いをしなくなったからだと思う。
というのも、その成人式人生三回目のセンター試験の一週間前だったし。
その頃の自分に何があったかというと、まあなんだかよくわからないことになっていた。少し本題とずれるので、結論だけ見たい人は読み飛ばして構わない。
単にシンプルな物言いで表したり表されたりしたくないだけなのかもしれないが、一年目も二年目も、センター利用で受かった大学にそれぞれ親に入学金と半期の学費、それから半期の休学費用をハタかせておきながら大学受験をおかわりしていたからである。
結局一度目はもっと高いランクの大学に行きてえと抜かす自己肯定感の欠如と、それでいて自分の有様をよくわかっていないが生きる上では大切な若者特有の貴重な熱意を、18,9年生きててそれだけしか身に付けなかったんかとばかりの崇高な偏差値という単線的指標に振り向けて、それさえ達成できればこれまでも中高大と一度たりと第一志望というものに受かったことのない過去の自分の救済になると信じて突っ走ったものの、大元の問題が何一つ解決されてないがゆえに何一つ解決するはずもなく、終盤完全に行動の伴わない支離滅裂なメンヘラという訳の分からない人になりながら本試は全て落とし、所属するが故の苦い部分から解放されもはや生きてるだけで自己肯定感を補填できる依存先と化していた元の大学と、唯一受かった1ランク上の、しかも受験が終わった後になってどうやら自分が本来大学でやりたいと思っていたものと違うらしいということが分かった大学のどちらにすればいいか迷っていると口にし親父を激怒させて終わった。
二度目のほうはもはや凄惨と言う他はなく、元の問題、つまりは自己肯定感の欠如であるとか偏差値以外の指標を実のところ持ち合わせておらず、大学受験というそういうことの最後の振り分けが終わった後でじゃあ自分が何をすればいいのかがわからない、自分に好きなことややりたいことがあるんだかないんだかわからない、ましてそいつを新しく見つけ出すこともできちゃいないし、前の大学の専門や多分野性は楽しかったし、自分のやりたいことのような気もしていたがそいつは自分でかなぐり捨ててしまった。そうこうしているうちに時間は過ぎ、周囲にいる一つ年下の人間はめいめいにそれを見出したり、あるいはそうでなくても仲間を見出していく。新しい人間を迎えるムードやチャネルは閉じていき、ただ一人、コミュニケーションに長けているわけでもなく、まして19になって未だ携帯電話さえ持ったことのない現代人にあるまじき自分は人間関係からも完全に弾かれたまま過ぎゆくただ時間に溺れ流されていた。前期の単位は夏前に再受験が決まって期末を受ける必要もなくなっていた前の大学のさえ下回り、初めてのバイトもクビになり、夏が終わるころには高校のころ深刻であった鬱状態が完全に再発状態となり、対人恐怖に加えて社会恐怖に陥り、狭いキャンパスの狭い学科で知っている人間と会うのも、知らない人間がそれぞれ彼らなりの為すべきことや適応を見出しているさまを目にするのも耐えられず、大学は来てもまともに講義に出ることもなく普段人の来ない大学の非常階段で横になりながら、人の話し声や足音におびえ、ただ一日中耐えぬ眠気と抗うつ薬の副作用からくる体調不良でくたばっていた。
そのような状況を見かねてか、というより、自身も家族も学生相談室もお手上げ状態と化しており、少時に発達障害でかかっていた大学病院の心理士やら全落ちした中学受験時代の予備校の先生にまで話に乗ってもらい、しまいに温情で元の大学に戻るなり、また別のところに入りなおすなり、リセットの機会を与えてもらったというのが11月、という有様であった。
というような具合だったので、高校を出てから二年間の間で、自分の人生は高校を出るまでは同期で同い年の(自分の周囲にいた)人間が辿っていたそれからは大いに逸脱していた。
二度目の大学の同い年の同期とも、ましてや歳の違う同期からも逸れていた。少なくとも、当時の自身にとってはそうだった。
もとは転勤族で住んでいる地元にそれほど愛着があるわけでもなく、昔から付き合いのある人間もいない。親類ですら、精神・物理的に最も長い付き合いがあり、肉親としての付き合いらしさを覚えはじめていた爺さんは最初の大学受験の途中で突然死した。ましてや住んでいるところの人間など、地理的なり関係性的になり分断が続いたので、初めて親しいらしき人間関係が三年を超えたのは、電車で一時間の高校を出てからのことである。
↑以上読み飛ばし
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↓読み飛ばし了
そんなわけで当時の自分は、血縁・地縁または精神的な人間関係という側面において、また学年や同期など社会的地位としての側面において、そして以前より自分が持っていたイメージ(と現状との乖離)という三つの面において、一般的な「20歳」という存在群から離れていた。(すくなくとも、当時はそう自覚していた)
とはいえ成人式のハガキというものは、本人のそうした事情や自意識とは全く関係なく、ただいつ生まれてどこに住んでいたかということ以外何一つ問わず、だれの元にも届くものである。
ハガキが届いた時点で、すでに自分の人生が同年代の多くの人間が歩んでいるのと同じような人生など望むべくもないと思ってはいても(事実そうだとしても)、である。
これは生まれて20年の1月を迎えるまでの経緯がどんなに平凡であろうが特殊であろうがおそらく同じことだが、成人式というものは、義務教育を終えた人間に来る、「ただ同じ年(度)に生まれたというだけで世間から全く同じ扱いを受ける」最後の機会だろう。ひょっとしたら最後ではないかもしれないが、少なくとも当分同い年というくくりではこれほどの等しさと無差別性を持った体験をする機会はないだろう。たとえ義務教育をどっかでドロップアウトしようが、義務教育後に社会に出ようが、小中高のどっから私立なり特殊な学び舎に通っていようが、あるいはそういうことのなかろうがである。
分かりやすいので義務教育を例にとってはいるが、それ以外であっても人間この国で20年も生きていれば意識しようがしまいがなんがしか本人なりの本人しか持たない(あるいは似たような人しか持たない)部分というものが出てくるものだし、そんなことはないと思っていてもそう思えること自体がそうである。
これは多分行く前はあんまり分かりにくいことだと思うが、ともかく成人式というのはそういうものを可視化してくれるこの上ない機会だと思うんすよね。
自分が変わっていようが、あるいは変わっていなかろうが、それがどう変わっていて、どう変わっていないのか。会場に集まった普段どこに住んでたんだみたいな70年代の珍走団の生き残りみたいな連中やら、無数にいるスーツにトレンチコート羽織った黒い大群やら、量産型みたいな晴れ着の女やら、(ときにキンキラキンの)紋付袴決めた男達やら、そこにいる連中すべてがまぎれもなく自分と同い年という光景は、少なくとも成人式以外にあるまいと。自分が前日にやっぱ行ってみようかなってなったのは、そういう風な光景って実際どんななんでしょってのを見てみたかったのが一つある。これ考えても実際に見てみないと絶対分からないぞと。少なくとも、行ったことは何かの話のタネになるが、行かなかったら何にもならない。あとでやっぱ行けばよかった、がシミのように残ると思った。
成人式のハガキをなくしたのならなくしたと言えば現地で何とかなるし、着ていくものがないならまぁ少しでもちゃんとしてそうな格好をしていけばよいだろうし、そういう成人式だってあってもよいだろう。別に地元に友達がいなかろうが、それはそれで自分にとっての成人式はそういうもので、そっから見える光景というものがあるだろう。ひょっとしたら、意外な出会いというものがあるかもしれない。俺の場合は誰一人知り合いとすれ違うこともなかったが、それはそれで面白かった。久しぶりにでも会いたくないやつがいたとしても、そいつと会うのはその日が最後だ。遅刻したって別に会場に入れてくれないということはないし、まあ既に終わってても贈答品くらいは貰えるだろう。
いずれにしても、成人式に行くことによっぽどの、それこそ生命の危機が伴いでもしない限り、積極的に行かない理由をひりだすことはないんじゃないか?
仮に生命の危機があっても相手は少年法の適用外だ。別に贈答品目当てだってよかろう。地方によっては金券まであるらしいし。ぶっちゃけ、ほかの自治体のでも潜ってる人はいるし、そういう手もあるだろう。
成人式という上に述べたような場で何が起こるか、あるいは自分にとっての成人式がどういう場で、どういう体験をしたかってのは、これまでの自分を同じ年齢の違う人間という物差しで照らし合わせて改めて見直すことができるいい機会になりうると思うし、あるいはこれからの自分がどうするかを決める上で一つの観点を得られる機会となることもあるだろう。
俺の成人式の話をすると、その日の朝は普段より早く起きて、普段予備校に行く格好のまま家を出て、最寄り駅のトイレでカバンに忍ばせたスーツと革靴(最初の大学の入学祝い)に着替えて行った。
贈答品は会場に一番近いマクドナルドのクーポン券なのは事前情報で知っていたので、特に期待はない(要らねえけどなんかムカついたから二枚使った)。
日本で最も規模のでかい成人式のひとつなので、夥しい人間がいた。その中で明らかに事前の期待を裏切ってよかったこと・面白かったことが3つと、クソだったことについて書いて終わろう。
まず前座で良かった点、開式の国歌と市歌の斉唱。これは完全に盲点だった。いや、人生であれだけの人数で国歌と市歌を斉唱するという機会は以前もなく、おそらく今後もそうないだろう。規模は地元によって変わるところなので一般化はできないが、大勢で国歌だとか市歌だとかをまともに歌ってみるというのは、歌というもの(または斉唱)が持つ効果について体感することができたし、本人の政治的スタンスによって様々に見方があるものだと思う。
クソだったのは、少しは面白い話するかとほんのちょっぴり期待していた林文子(市長)が死ぬほどつまらない話しかしなかったこと。マジで役に立たねえ話しねえ。1行で要約すると
「携帯電話が普及して直接コミュニケーションをとれる機会が私たちの世代より減ったと思うので密接な人間関係を築けるよう頑張りしょう。」
いやもっと役に立つ話しろとは期待が高すぎたかもしれんがせめてなんかそれについて掘り下げた話はできないのかよなんだそのお手本みたいなお年寄りのお手本トークは・・・というもの。これはこれで、ある種の貴重な機会かもしれない。毎年使いまわしてる可能性があるから横浜市民は要チェックだ。
輪をかけてクソだったのがその次の新成人のスピーチ。まあ新成人代表なんぞに選ばれてスピーチを打つやつはまず間違いなく模範的成人みたいなやつかそれに類するものだと思っていたのだが(それ以前のスポーツ選手みたいなのの紹介とかもそうで)、そいつの語り口が聞いていて気に食わなかった。正直後のインパクトで話してた内容をあまり詳しく覚えてないのだが、まあ今はボランティアとかいろいろやってます系の大学生が自分の人生を語るというものだったんだが、その途中で(当人の人生が実態としてどうであれ)妙に「こいつスピーチの話術として落としをやっているな?」というところがなんか聞いていてイラついてくるのである。「いじめられもしました」の言い方が湿っぽいんだよなんか。でもお前いい人に囲まれててよかったねいい人生だねと市長のスピーチに続いて半ば来たことを後悔し始めたのだが、ここからがとてもよかった。
これは行く前と行った後で最も価値観が変わったことである。かねてから成人式の乱入というものはまぁおよそまともなものではないと思っていたが、しかしその場ばかり、その場の自分にとっては違った。
むかし怪獣特撮で怪獣が町を破壊するシーンで喝采があがったとかいう話が少し分かった気がした。
成人式というのは、その主役は新成人である。そこにいる、会場に座っている全ての人間が主役である。彼らの社会的日向日陰此方彼方近郊遠方、全てを問わず、しかし彼らのものであり、選ばれた新成人と、一世一代の晴れ舞台乱入を試み壇上へ駆け上がった名も知らぬ煌びやかな和装姿の彼と、私と、あるいはすれ違うこともないがしかしそこにいるはずの知人どもとの間に、いったい何の違いがあるというのか。誰が彼と彼らと分かちうる権利を持ちうるのかと。成人式とは、生きてきたこと、為してきたことの如何を問わず万人がそこにいる場ではないのかと。
ひとり私は拍手し、心の中で喝采をした。壱萬の大群と自ら選んだわけでもない代表者という構図の中に包まれていた会場を破戒し、否、そうではない、と示した彼の姿に。
そのように見出した彼の姿に心打たれ、ある種の感謝と、自らの肯定を覚えたからだ。彼の行動によって、万人の場としての当市成人式は成立をなしえたのだから。
最後に。これは来ていちばんよかったと思えた光景なのだが、式が終わって駅に行くまでが死ぬほど混んでいたので見物感覚で大回りして駅の空いてるほうに向かっている途中、まあいかにもあまり中学の休み時間窓際で話してそうな感じのイケていなさそうな感じの風貌のダウンジャケットの男二人が、しかし久しぶりに会ったと思わしき感じで、いかにも久しぶりにやるその頃の二人のやり取りという感じで楽しげに歩いている、その光景を後ろから見ているときだった。
こういう成人式も、あるのだと思った。
自分には彼が組織の決定に個人的な物差しで断固として反対を続けている老害にしか見えないです。
彼がああして抵抗を続けている間に組織の評判は下がり続けているというのに、それでもその姿勢を崩さないなんて組織に取って害以外の何者でもなくないですか?
組織が正しいとはいいませんけど、事故が発生したら速やかに収束させて全体のダメージを最小限に抑えるのがそれぞれの役割だと思うんですが、彼はその逆の行動しかしてませんよね。
代表取締だって組織の私物化は害でしかないのに、それを一役員がし始めたら降格させられて当然だと思うんです。
それなのに降格がおかしいってなったら、今後の組織運営がうまくいくはずがないですよね。
それに、はじめから気になってたんですけど、彼、組織に対する鬱憤を日々募らせてて、この一件を口実に組織に一発かましたかっただけなんじゃないですかね。
その証拠に彼は無視は続けるけど建設的な意見が一個も出てこないですよね。
会議で人の批判ばかりして自分の意見を全く言わない(持ってない)老害クソ役員と何が違うんでしょうか。
これって組織論ではあたり前のことだと思うのだけど、周囲にこの話をしても全く通じなくてかなり困っています。
これってそんなに極端な話ですか?
私は明日でちょうど2週間後にセンター試験を迎えることになる。
正直こんなことをしている場合ではないのだけど、少し話させてくれ。
私は某都立高校の生徒で、奨学金を使わずに私立大学への進学することを許可され、それに向かい努力している。裕福かどうかはそれぞれの物差しによるだろうが、私は幸福で満足な生活を送っていると思う。
叩かれるかもしれないと思って匿名で投稿しているが、やはり傷つきはするので叩かないでほしい。
4月からずっと黙って勉強をしてきたけど、私は大学受験がしたくない。大学進学自体もかなり悩んで、就職及び専門へ進む生徒がほとんどいないという状況、大学は出ておきなさいという母の言葉からやらなきゃいけないことだと判断した。その先で、大学で勉強をすることに魅力を感じたし、大学で勉強したことはその先私の糧になると思った。それで勉強を始めたが、いざどうするのか話をしても母も父も適当で、まあ入れたところに入ればいいよとか、よく分からないけど応援してるとか、干渉されることを苦痛に感じていた友人を見ていたので別に構わないのだが本当に大学進学を望んでいたのか疑うレベルであった。
さて、本題はここなのだが、何故私の両親は私にお金を払うのだろう。私の未来に価値はあるのだろうか?大学進学もしなくていいし就職したいと言った娘に大学進学をすすめ、高いお金を払おうとしてくれているのかが分からない。これをここで言うことで自慢したいわけでも、今さら両親への怒りがこみあげてきたわけでもなく、ただ分からないのだ。私が将来なにかすることを見返りとして求めているのだろうか?それを両親が気づいているかは知らないが(とはいえいくらなんでも気づいているであろうが)そんなに立派な娘ではない。そんな娘に投資する理由を誰か教えてほしい。
最終的に自分のために勉強を始めたけど、いつもどこかでこの先私の未来へ無条件にお金を払ってくれる両親のためにもできるだけ名のある大学に進みたいという感情がちらついている。そのために私の力だけではどうにもならないと思ったから塾に行きたいと言えば行かせてくれた。私の意志で頼んだ以上は努力しなきゃいけないと思ってここまで駆け抜けてきた。そして今に至る。
突然、怖くなった。受験も、その先の将来も、何もかもが。
私にここまでかけてくれたお金は、どう進むことになったとしてもこれからかけてくれるお金は、どうなるのか分からないことが怖い。私がどうしたらいいのか分からないことが怖い。血縁の子供に大量のお金をかけてきた両親がなんでこんなに真心こめて私を育ててきたのか、どう思ってるのか、どう思うのか分からなくて怖い。
私は多分今もこの先も自分のことで手いっぱいだろうし、家族といえども他人(自分以外)に特別興味もないし、結局自分が一番可愛いし他人のために自分を犠牲にできるか分からない。だから多分結婚も向いてないし出来ないだろうし、孫の顔も見せられないだろう。性格も卑屈で歪んでいれば容貌も歪んでいる。
異常なほどに過保護に愛されてきたわけではないと思ってきた。三人兄弟の真ん中として普通の、あるいは真ん中らしい愛を受け取ってきたと思っていた。どれもこれも私のものさしでしか測ったことがない。私の本当は全部あべこべなのだろうか?私はどうしたらいいのだろうか。
誰にも聞けなくて誰にも話せなくて誰も教えてくれなくて、匿名で怪文書を作って、また勉強して、そのうち世界は終わる。
長々と失礼しました。
追記(2017/12/30)
もしかしたらだれか私に答えをくれているのかもと思い覗きにきて、たくさんの反応をいただいていたことに驚きました。頂いたコメントをすべて拝読しました。暖かい言葉や厳しいお言葉まですべて、ありがとうございます。
私が伝えたかったことが届いていなかったり(これは私の文章力に問題があります)、私が想定していた以上にたくさんの角度からレスポンスを頂いたり学ぶことばかりです。純粋に応援の言葉はとてもありがたかったです。そして叩かないでほしいと書きましたが、変わらず叩かないでほしいと思う一方でもしかしたら努力不足な自分に鞭を打つ言葉をどこかで探していたのかもしれません。
答えは見つからない。前述したように見方も捉え方も多様であり、どれが私の答えか分からなかった。でも次は、大学生増田として投稿すると思う。
私は変わった人間と言われる。しかし人間なんて無くて七癖、どいつも変わったところの一つや二つはあって当たり前だ。みんな違ってみんないい。だから胸を張って言おう。私の他人と違っている点は、「スイッチ」を持っているということだ。ニンテンドースイッチではない。心のスイッチのことである。
「さあさあやるぞやるぞさあやるぞ!よしきたよしきたさあやるぞうおおおおおおおおおお!!!!」みたいな状態に心を持っていかないと、ついつい何でも後回しにしてしまう。今年から社会人になって働き始めて特にその傾向は顕著で、業務時間外での自分の日常は自堕落そのものとなっていた。仕事帰りの電車でBluetoothヘッドホンをつければ、だらけスイッチオン。掃除洗濯家事全般もうなーんにもする気がなくなる。昨日まで、三畳半の部屋は散らかり放題で、全てのものに定位置はなく、その真ん中に万年床だけが自分の居場所をどっかりと主張していた。しかし今、私は長い長い年末休みを頂き(邪推は無用。そういう業界なのだ。)、ついぞスイッチを入れ直す時が来た。この為に整理整頓術をググっておいた。それによれば、まず使用頻度の高いものと低いものに分類し、使用頻度の高いものを取り出しやすい位置に置いてから、使用目的別に分類するのが整理整頓の王道だという。ヘッドホンのスイッチを入れ、万年床をベランダに干してスペースを確保、その後は無心でひたすら、然るべきものを然るべき場所に移動していく。クローゼットに納まるもの、ハンガーラックに掛かるもの、ゴミ袋に詰められるもの、場所の貴賎ほどあれ、ものたちはそれぞれの居場所を見つけたようだ。最後に万年床が再び定位置に戻ったのは日が暮れた後だった。
部屋の整理整頓は終わった。今度は心の整理整頓が必要だ。せっかく長い休みをもらったのに、年始の予定がほとんど決まっていない。休みに入る前は漠然と、青春18きっぷでずっと電車に乗って、英語の勉強しながら旅気分も味わって過ごそうかと考えていたが、きっぷはまだ買っていない。年始の予定だけではない。自分がこれからどう働きたいのか、どんな人間になっていきたいのか、一度立ち止まって考えてみたい。
どんな人間になりたいのか。20年以上生きてきて、未だ答えを出せたことはないが、ただ一点、両親のような人間になりたくはないとだけは言える。両親は警察24時のような番組を好んで見る。警察に捕まり、取り乱して発狂する犯人を見て、「異常者だね」と呟く。私はそんな、異常か普通かという単純な物差しで人を測ろうとする人間になりたくなくて、世界を知りたくて、自分の知らない世界が世の中にいくらでもあることを知りたくて、英語を勉強したくて、TOEFLの対策予備校に通っていたのだった。9月末から2ヶ月間、一応、用意されていたカリキュラムが終了するまで通い続けたことになる。10人ほどのクラスの中で、先生の評価は2-3番目であったし、自分で言うのも何だが、まあまあやれていた。しかし、カリキュラムが終わってからの自己学習が思うように進んでいない。12月はちょっと高圧的な上司と一緒に働いていて、MPがガリガリと削られていたし、忘年会続きだし、準備は全て下っ端である私の仕事であったし、MPがガリガリと削られていた。そんなことを言い訳にしてしまう自分が恥ずかしい。
考えてみれば、今まで上に書いてきた文章は全て言い訳に満ちている。言い訳は必要ない。「やろう」と思ったことをしっかりやる。それを続けていれば、新しい世界を知り続けることができるだろう。いや、そこまではできないかもしれないが、少なくとも、自分の知らないところにも世界がある、と思い続けていられる。
松岡茉優が好きで、初主演映画「勝手にふるえてろ」を拝見する機会があった。主人公のヨシカは本当に言い訳ばかりで、「スイッチ」を持っている人だから、自分に重ねてしまうところがある。でもそんなヨシカも電気ストーブで家が燃えかけたのをきっかけに、「人間いつ死ぬかわからないから、自分のやりたいことをやってから死のう」という発想に至り、自ら作り上げた言い訳でできた世界を行動によって塗り替えて行く。
そんなことをこの文章を書きながら思い出していた。何が言いたいかというと、自分のような人間は映画「勝手にふるえてろ」から全てを学ぶことができるし、松岡茉優は最高だということだ。
色々と言われてるのを見て読んでみたけどまあ普通に面白くはあったけど店売りの本を買うほどのものではないなって感想。
たぶんそのあたりは全部主人公が性格悪いせいだろうなーとは思う。これは好みの問題であって、主人公に好感が持てない話は好きじゃないってだけのことなんだけど。
で、個人的にこの人にすごい聞きたいのは「アレ呼んで本当に主人公のこと英雄とか思ってるんです?」っていうこと。
英雄とはつまり人殺し(ただの人殺しでなくて大量殺人者)のことである、という認識であればハルは英雄かなーと思うけどよくあるヒーロー像としてはハルはかけ離れた存在で自分勝手でわがままなただの小娘でしかないから真逆だと思うんだけど。
ネタばれかましまくるけど、ハルって自分がいわゆるチートスキル持ってるのにそれを使ってどうこうしようってつもりはなくて自分でも「千葉の方がまだ考えてる」って言うくらいに怠惰だし、自分の身の安全のためとは言え同郷の千葉に恨みを持ってる相手に対して「あんたの女になるから(千葉のこと)殺して!」って言いながら、実際そいつに千葉が襲われたらその返り血を見て「なんで殺してるの!?」とか言っちゃうような子なんですよ。しかも「殺してはない」って言ってるのに「なんでそんなに残酷なことができるの!?」とか言っちゃう子なんですよ。お前がけしかけたせいやがな。
ハルが生きるためにはそういうリップサービスも必要だっただろうし、千葉はある程度強いってことも知った後なんだからけしかけたことそのものはまあ仕方なかろうと思うけど、それに対して殺しにかかってきたから相応(どころか温情もあったと思う)の対応で返した千葉にサイテーって言っちゃうのはどうかと思うし、自分はヤリ殺されそうになっても日常でそういうことがあったらそれに対しては残酷だなんだ言うのはまあどう考えても身勝手ですよねとしか。
ハルって子は結局自分のせっまい物差しでしか周囲を見てなくて、しかもその基準って自分かわいさにまみれてて、けどまあ逆にだからこそ人間臭くて生生しいし一種の面白さが出てるとは思うんだけど、最後にあのおじいさんが言ったことって何もはずれてないんだよね。その通り、彼女はただ自分のわがままで人も魔物も殺してるんですよ。その恩恵にあずかってた人達のことは何も考えないし、それで助かってた人に対しての補てんなんて一切考えてない。
実家が貧乏で親父は中古のバンに乗っていた。多分10万ぐらいのぼろいやつ。
でもガキの頃は中が広くて遊べるこのバンが大好きで、友達の親のセダンに乗った時なんて「俺の親父の車はもっと広いよ!」なんて自慢して恥かいた覚えもある。
そんな俺もアラサーになり、人の親になってガキにおもちゃを買ってあげたりするんだけど、高いおもちゃほどすぐ飽きて、100均で買ったおもちゃを離さなかったりする。
そうだよな。資本主義で決めた価値なんかに踊らされなくて良かったんだよな。忘れてたよマイベイビー。恥なんて思ってたガキの頃の俺をぶん殴りたいよ。
ブスは見てるだけでむかつくし、美人には嫉妬するし、思い通りにならないと心の底から虫唾が走るし、自分の物差し以外クソだと思ってるし。とにかく心中いつも罵詈雑言なんですよ。
彼女いわく
ドン底のブスでもない。でも言うほどほど美人でもない。ど真ん中の普通よりはややいい、偏差値55~58の駅弁大学顔。
化粧して小綺麗に振舞って、美人だねと言われる程度。
美人にコンプレックスを持ってブスには嫌悪を抱く。そんな面構え。
◆女として半端な恋愛
相手にはされる。でも本命は女子アナとかモデルみたいな生粋美人で埋まってる。
◆生まれが半端
少しだけ裕福な家庭に生まれた。
すべてを諦めるほど貧困でもなく、全てが手に入るほど裕福でもない。
でも完全に中流よりは少し上。
◆学歴職歴が半端
だからね、上には入れないし、下とも馴染めない。自分たちは中途半端に手に入るから、諦めのつかない中途半端なクズなんですよ。増田さん。
いつも何かにコンプレックスを持っている。半端に世間に褒められる。でも賞賛されるレベルでもなく、賞賛はいつも他人が持っていく。
だそうだ。
妙に納得できるはなしであった。
女だって、自分よりも年収の低い男を配偶者として認めることはできるよ。その代わり、家事や育児など専業主夫や兼業主夫になってもらうけどね。
そして、ここからが本題なんだけど、女が自分よりも年収の低い相手と結婚する場合には、絶対に避けては通れない条件がある。
それは、男の「容貌の美しさ」だよ。男だって、専業主婦になる女には顔の綺麗さを求めるんでしょ、お互い様だね。
女性は男性の魅力の物差しとして『年収』を捨てられるんだろうか?、というあなたの質問だけど、捨てられると思う。
ただし、繰り返すけど年収の代わりに「顔」を求めるようになるよ。
選択的夫婦別姓論者が別居子無し別家計を条件に婚活してる人にごちゃごちゃ言う
全体に押し付けようとしてるわけじゃないんだから人それぞれ自由なんじゃないの?
「子どもなし別居希望? それ結婚する意味あるの?」に対する答え、逆風に立ち向かうということ マンガ『合理的な婚活』著者インタビュー(3) - ねとらぼ
「合理的」「自由」と語る口で誰にも迷惑掛けず自分に合うと思ったスタイルで婚活する横嶋氏には説教おばさん説教おじさんになる
理解できなかったとしても自由を主張する者は「理解できないけど自由だよね」で終わる話なのに何故か自分の結婚観を語りだす
「くらえ、チョウナ・ブーメラン!」
「おい、シロクロ! やめろよ。投げるな」
「なんでだ。人に向けて投げてない」
「人に向けて投げなくても危ないだろ!」
「え? なんで?」
「投げること自体が危ないって言ってるんだ!」
「じゃあ、何を投げればOKなんだ」
「何も投げるな!」
「随分な話だな。そこまでの権限はさすがにないだろ」
「うわ、急に正気に戻らないでよ」
「こうして問題は意外な形で終結し、今でも『ヴァリオリ』の登場人物たちはこれまでと変わらない武器を持っているってわけさ」
「なんだか、腑に落ちないなあ」
父の話に、俺は疑問を投げかけた。
それは別の表現をスケープゴートにして、問題をウヤムヤにしただけだ。
父にそう返され、そりゃあ……とまで言ったところで、ふと口をつぐんだ。
そもそも何をどうすれば、どこまでやれば解決して、そしてそれが本当に正しいことなのか、或いは間違っているのか。
それらを的確に判断できるような、普遍的な物差しが俺にはなかったからだ。
いや、恐らくほとんどの人間はないのかもしれない、って言いたいのか。
「息子よ、覚えておくといい。問題ってのはな、それ自体は問題ではないんだ」
父の言葉に、俺は首を傾げる。
「この界隈の『検閲するかどうか』っていう最終的な判断は、世論などの総意によって決まっていると思われがちだ」
「だから各々が議論をして模索していこう、ってことになるんじゃないの?」
「それは観念的だし、プロセスの話でしかない。俺たち作り手にとっては何も言っていないのと同じだ。答えを迫られたときにどうするか。多くは個々人が決めるしかないことだったりする」
「それで表現を変えたくないって答えを出した場合、どうすればいいのさ。ゾーニングとかレーティングとか?」
「それは妥協案に過ぎないし、結局は表現の統制だろう。それらの基準だって漠然としている所が多いし」
じゃあ、どうすればいいんだろうか。
「つまりな、こういう番組は案外“上手くやっている”ってことさ」
含みのある言い方に、俺はその意図を読み取ろうとする。
「……もしかして」
そして、ふと思い至る。
確証はなかったが、俺は恐る恐る尋ねた。
「その入浴シーンに意識を向かせてウヤムヤにしたのは、武器だとかよりもっと問題のある表現を隠すため?」
俺がそう言うと、父は淀みなく笑った。
「はは、そんなわけじゃないか」
俺の指摘がなんであろうと、そう答えるつもりだったんだろう。
もしかしたら俺たちが気づいていないだけで、あのアニメには“問題にならない問題”が他にもあったりするのだろうか。
その答えに迫られたとき、俺はどう言えば“問題ない”のだろうか。
俺は父にもうひとつ尋ねた。
「結局、父さんはどう思っているのさ。彼らのクレームはくだらないと思っているのか、汲み取るべきところもあると考えているのか」
「息子よ、物事は0か1かじゃない。YESかNOだけではないんだよ。善良な意見に耳を傾け、頷きながら、暴力的で性的で低俗な表現をし続ける。本当の意味での“自由”はそういうことなんじゃないかな」
それって、つまり突っぱねているのと同じなんじゃないだろうか。
俺が言い表せないモヤモヤとしたものを抱えていると、弟の声がテレビのある方向から聴こえる。
どうやら『ヴァリオリ』を観ているようだ。
主題歌を口ずさんで楽しそうだった。
なんだか腑に落ちないところはあるが、弟が以前のように楽しんで観られるのなら、まあ良いかってことにしよう。
度重なる押し問答の末、シューゴさんはとうとう爆発した。
「もういい! もうたくさんだ! こんな曖昧な基準で、表現が統制されてたまるもんか!」
「ワガママを言わないでください。社会にとって害悪なものは統制される。それが今回はアニメだったというだけの話じゃないですか」
「俺から言わせればな、普遍性のないボーダーラインを大義名分に、表現を統制しようとすることこそ害悪でありワガママだ」
「上等だ! 奴らが文句を言うのはもちろん自由だ。だが、オレたちにも同じくらい尊重すべき自由がある!」
シューゴさんは頑なだった。
「自分にとって不都合な影響を与えたくなくて、躾もロクに出来なくて、その責任をオレたちに擦り付けるしか出来ない。だったら、いっそ何もない家に一生閉じ込めておけ。それが一番確実で健全だ」
「なぜ自分と同じ物差しを、誰もが持っているべきだと思いあがれる? よしんば持っていたとして、同じ物差しで同じ場所に、同じように線を引くとでも思ってんのか。それを踏みこえてはいけないと、なぜ言い切れる?」
父もフォンさんも溜め息をつくが、どこか安堵もしていた。
シューゴさんほどではなかったが、二人とも今回の対応に不服であったのは同じだったからだ。
どこかでシューゴさんが突っぱねてくれることを期待している節があったのかもしれない。
そして、放送後……
「シューゴさん、苦情が……」
「変える気はないぞ。主人公たちの武器はこれまでと同じ、人間相手にもバンバン使っていく」
「いや、今回はそこじゃなくて……」
「ん? どういうことだ?」
「『入浴シーンがセクシュアル的でよろしくない。青少年の健全な成長に悪影響を与える!』……とのことです」
それを聞いたシューゴさんは大げさに笑って見せ、父は白々しく「あちゃ~」と言いながら頭を抱えた。
「わっはっは。あ~そっちかあ~」
「というか暴力表現に関する苦情はどうしたんです? 今回はアクションシーンが派手だったから、いつもより来ていると思ったんですが」
「恐らく、入浴シーンのほうが気になったんでしょう。性的描写の方を問題視する人って多いですから」
「性別関係なく湯気をこれでもかってくらいつけているんですけどねえ。作画の手抜きを湯気で誤魔化しているんじゃないかって疑われるレベルで。更には放送局がそこに雑な修正まで入れてるほどなのに」
「一番スケベなこと考えているのは子供より、そいつらの方なんじゃねえか?」
「また、そういうこと言う……それに暴力描写と性的描写は別物ですから、判断基準も変わってくるのは当然ですよ」
「どちらも表現の一形態だろ。これは良くて、これはダメ。ここまでならOK、これ以上はNG。それを区別する境界線を誰が、どうやって決めれば正しいんだ」
「それは私も分かりませんが、彼らの主張自体は理解できるでしょう。これはTPOに基づいた、妥当性の問題です」
「その“T”と“P”と“O”とやらを、それぞれ具体的に考えたことあんのか? そんな状態で妥当性なんぞ共有できないだろう。基準が曖昧なままなのに、主張に汲み取るべきところがあるからと受け入れていったら、雰囲気だけで規制できてしまうぞ」
「そうです。都合のいい言説を振りかざしているだけです。主張の内容はそれっぽいことを並べてはいても、象徴的だったり抽象的なものの域を出ていない。とどのつまり恣意的に判断しているのを誤魔化しているわけです。それで表現が統制されるべきとは思えません」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ。私たちも上から通達が来たから業務上やってるだけで、それが本当に正しいことか分からなくても、やらないといけないわけですし……」
「ああ、そもそも上の指示に大人しく従ったのがケチのつき始めだったよな。それで安易に変えてしまったら、他の表現も次々とその対象になる。クリエイターを抑圧し、萎縮させて、風当たりだけが強くなっていき、虚構のディストピアが出来上がるわけだ」
「そうして世間の目が矯正されれば、今までは全く問題視されていなかった表現まで規制の対象と認識される。事例や風潮の積み重ねが基準やエビデンスを形作るなら、なおさら現状にNOを突きつけるべきなんです」
この時フォンさんはかなり戸惑っていたようだった。
目の前の問題から目を背けて、二人が不平不満を言っているだけのように見えたからだ。
「二人とも、検閲そのものの是非はともかくとして、結局何らかの対応はしないと……」
「それなら大丈夫だ。今回のエピソードでお上からの指令は来なくなる」
「え、どういうことです? むしろ余計に悪化しそうな気がするんですが」
「“自由の応用”・・・・・・?」
「オレたちは表現の自由を不可侵の聖域だとは思っちゃいない。なぜなら表現の自由は、言論などの“自由”も包括しているからだ」
意見を肯定するか、否定するか、スルーするかという選択はできる。
だが都合の悪い意見そのものを失くそうと黙らせるのは矛盾した行為だという。
「ではどうやってこの流れを止めるというんです」
「直に分かりますよ、フォンさん」
父たちは作り手だからこそ、表現の自由に構造的な欠点があることを知っていた。
それはつまり、“その他の自由”にも欠点があるのを知っているってことだ。