はてなキーワード: 南部とは
などなど。
体罰が話題になるたびに思い出すことがあるんでいちど記録しておく
幼稚園〜小学校低学年あたりを親の転勤の都合でアメリカで過ごして、現地の学校に通ってたんだけど
体罰、あったんだよなあ
教室にはいくつかルールがあって、そのうちの重大なものを侵すと叩かれる、みたいな感じ
人のものを盗んではいけない、とか、ケンカのときに急所を殴ってはいけない、とかだった、たぶん
「この子はこういう行為をしました」「なのでこれから私はこの子を叩きます」って宣言して
出入り口の横にかけてある羽子板みたいな板を持って、その子を廊下に引っ張り出す
叩く回数は決まって2回
パァン!パァン!って音がそこらじゅうの教室に響き渡ってたのをよく覚えてる
叩かれた子が泣きわめいて顔をぐっしゃぐしゃにして戻ってきてたのも
なんか今思うとあれって正しく「刑罰」だったのかなって
日本で体罰の是非の話になると、手に負えないから手が出る、思わず叩く、みたいなのが前提になりがちな気がするけど
ああいうルールに対するペナルティ、って形で取り入れるのもナシなのかなぁと思う
https://anond.hatelabo.jp/20170630204058
当方ネット歴は長く、あのブログが一番長続きしているのですが、12年書いてあの記事のPV数がダントツでトップです。記事数が2000ほどもあるのに、それにあの記事は書いてから1年ちょっとしか経っていません。これは一体どういうことなんでしょうね?
ちなみに、本文中に精神保健福祉手帳で受けられるサービスというHPへのリンクがあります。
少し不気味なのは、以前奈良の産婦人科で(この言葉は嫌いですが)救急のいわゆる「たらい回し」(大淀事件、2006年)が起こった結果、妊婦さんが亡くなったことがありました。奈良南部はそのとき「スクープ」と色々暴いた毎日新聞女性記者の迷惑をいまだに被っているようです。何でこんな話になるかというと、その時の記者がわたしの書いたブログの発展型を4ヶ月後くらいに書いているからです。その記者のいる九州まで電話して問い合わせましたが、現在まで数ヶ月コメントはありません。
http://anond.hatelabo.jp/20170611183038
これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。
一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド・西域・東南アジアの文化を伝えた。
遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人を日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベルの用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?
ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しかも桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺の大仏開眼供養会はインドやベトナム出身の僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。
「日本がしばしば新羅を従属国として扱おうとしたため、両国の関係はしばしば緊張した。しかし、日本の遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」
これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使が新羅人に助けられたというのは、円仁の著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?
また、上掲の講談社『日本の歴史』シリーズから引用すると、次のような話もあります。
遣唐使の派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅の商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通と新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台・真言の平安仏教の旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。
このころ唐では、みずからを世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷は新羅や、朝廷に服属しない東北や九州南部の人びとを蝦夷や隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。
朝廷が東北地方や九州南部に進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試の問題を解くときのヒントになるでしょう。
もっとも、この点はやはり、山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方の蝦夷、九州南部の隼人を異民族(夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。
それに比べると、三省堂の教科書は、遣唐使と中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。
実教出版にも「奈良時代に遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版は9世紀のことも記述していてグッド。
遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから、9世紀末まで遣唐使を派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。
理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。
これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています。時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本の僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しかし朝廷は遣唐使の派遣に積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。
[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的のなかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。
東京書籍の教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。
これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。
ちなみに、このとき「天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王スメラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本の朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないから日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的な問題は、国史編纂のときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社「日本の歴史」シリーズや青木和夫著の中央公論社『日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)
さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」「倭国」「朝廷」等の表記になっています。
なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号・国号は、ある時期の特定の政治状況のもと、人為的に作られたものだからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号・国号の使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である「日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。
無論、教科書では便宜的に仁徳天皇、推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権的国家体制の形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています。
GDPがいいぞってのは企業が儲かるぞって話であって、これからクソのように老人が増えて若者が減り生産活動がおっつかなくなって馬車馬のように働かされて子供も出来ずさらに出生率が減って
しょうがないから移民を入れるしかないかと、馬車馬のように働かされる斜陽国家日本にわざわざきてくれるまともな教育も受けてないよく分からん宗教を信じてるような東南アジアとか南米の人たちが大量にやってきて単純労働を請け負うようになり
日本人の単純労働しか出来ないようなアホな人たちは海を超えてくるエリート単純労働者に駆逐されて失業し、人手がないのに働けないなんだか存在価値を全部否定されたような状況になり、財政が良くないから保証もなく腐ってホームレスなどやっているうちにバカバカ死んでいき、
職のある人達も忙しいばかりでまともに人生を楽しむ余裕もなく東南アジアの人たちにベビーシッターに来てもらってなんとかやっているが、
黒人を乳母にした南部アメリカ人のようになんか日本語の訛りが普通じゃないぞという状況になって、子供との意思疎通にも壁を感じる。職場では貧乏暇無しで過労死寸前まで働かされる。
千葉になりたい。さっさと切り捨ててほしい。
茨城南部の生活は都心のベッドタウン的な位置付なのだ。会社も買い物も都内だし。東京の人からすると茨城〜と聞くだけで田舎であるのはわかる。常磐線とかほんと田舎くさいもんな。
そんな私だが、水戸まで行くと同じ県とは思えないほど田舎なのがつらい。というか行きたくない。遠すぎて関わりたくない。
数年に一回行かなくてはならないのがイヤ。茨城在住者は皆車持ってるからあんまり問題にならないけど、私は車持ってないから水戸まで90分かけて電車乗って、駅から一時間バスに乗らなければならない免許場がイヤ。免許場で説明するおじいさんとか、どう考えても無理やり不必要な仕事している田舎の公務員を見るのもイヤ。ネット配信にしようよ。
さっさと切り捨てて欲しい。千葉になりたい。
朝鮮,朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争。東学党の乱ともいう。高宗1年,東学第1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学の公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願を教徒の大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 31年2月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧に激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民で東学徒は少なく,指導者は東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍を撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国に出兵を要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍と政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。
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こうご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争】
1894年、朝鮮李朝末に起こった東学の信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府は清国に派兵を要請、日本も出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。
李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教〈東学〉は1890年代には活動を公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人の駆逐をかかげて各地を転戦した。
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1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方は開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動を公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月,全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。
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朝鮮で1894年(甲午の年)東学の信徒が主導した農民戦争。地方官の悪政に反対した全羅道の農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王朝政府は鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本も出兵、日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学
こうごのうみんせんそう
1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史上もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争をきっかけとして、中国、清(しん)の勢力を排除し朝鮮を支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護の名目で大軍を繰り出し、日清戦争を引き起こした。
当時、朝鮮の民衆は、朝鮮政府の財政危機を取り繕うための重税政策、官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏の罷免、租税の減免を要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである。指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府は清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮に侵入してきたのである。朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。
全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかにみえた。ところが、朝鮮に上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮を占領し、親日政府を組織させた。
清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である。日本政府は日清戦争と併行して朝鮮を植民地化する政策を推し進めた。この日本の勢力を追い出すため、朝鮮の農民たちは10月なかばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民は20万人を超えたといわれる。日本軍と朝鮮政府軍を相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウルで処刑された。[馬渕貞利]
[参照項目] | 日清戦争
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例
【崔時亨】より
…92年から翌年にかけて東学の合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来の非暴力的な教化主義の立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論と対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウルで処刑された。…
【朝鮮】より
…しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会の近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本の侵略の意図に立つ軍事力の行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…
【日清戦争】より
… 朝鮮では王妃の一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏の不正や日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府は日本に亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…
※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報
からすみは、岐阜県の東濃地方、長野県の木曽郡南部と下伊那郡南西部、愛知県奥三河に伝わる銘菓で、米粉でつくった蒸し菓子のこと。
下記の地域では「からすみ」と言うと、鯔の卵巣の加工品ではなく、米の粉を加工した和菓子を意味する。
このからすみは、全体に細長い棒状の棹物菓子で、包丁で適当な幅に切って食べる。特徴的なのは、長い側面の上部を両側から
中央に向けて押し寄せたようになっており、切った断面が富士山のような山の形になっていることである。
これは、蒸した団子を長く伸ばし、このような形の木型に押し入れて作られる。
食味や作り方は名古屋名物のういろうに似ているが、より固く弾力があり、べとつきが少ない。
からすみの名前の由来は、子宝の象徴としての縁起物であるカラスミの形に似せて作ったという説と、中国で作られた富士山の形を
した墨、すなわち唐墨に形が似ているため、この名を取ったという説とがある。
この地方の各家庭では、桃の節句にからすみを作りお祝いをするという風習がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%BF_(%E8%8F%93%E5%AD%90)
http://anond.hatelabo.jp/20170304135255
九州(北部限定、南部のほうは知らん)だけど、登山を始めてみたいと思った人向けの山を紹介してみる。
標高1046mだが、七曲峠からのルートを通れば標高差約250mで3,40分程度で山頂まで着く。
こちらも標高は1359mだが、仁田峠(1080m)からのルートを通れば標高差280m程度で、歩きなれていない方でも1時間程度で山頂に着くと思う。
まずは仁田峠からロープウェイを眺めつつ妙見岳に登る道で歩くのに慣れて、その後仁田峠→紅葉茶屋→普賢岳のコースに挑むのがいいと思う。
さらに慣れれば仁田峠→妙見岳→国見岳→普賢岳のコースにもチャレンジしてほしいが、このコースには水場がないので持っていく水の量には注意してほしい。
普賢岳は温泉街が近いので、登山の後には温泉で疲れを癒すのが私の定番である。
温泉と言えば大分の九重山系も有名だが、あそこは正直初心者には厳しいと思うので選外とさせていただく。
下着やらは正直替えをいくつも持っていけばいいので、ディスカウントショップで売ってる非常に安いのを着替えればよいと思う。
女性の場合途中で気軽に着替えることができないので、多少値が張っても乾きやすい生地の服を選んだほうがいいだろう。
個人的に一番こだわってほしいのは靴。
予算が許すなら雨具とザックにも気を使ってほしいが、とりあえずやってみたいレベルであれば安いもので済ませてよいと思う。
上に挙げた山のうち天山なら滑りにくいスニーカーでもよいと思うが、普賢岳はスニーカーでは危ない部分も出てくる。
靴は自身の足に合うものを地道に探すしかないので、登山グッズを扱うショップに行って店員に相談するのが一番良い。
出来れば特定ブランドのショップではなくて、色んなブランドのものを扱うショップのほうをお勧めしたい。
「店員に話しかけにくい...」と思われる方は、試し履きが出来て、かつ斜面を模した試し履き用の道具(名前が分からず...)が置いてあるところで気の済むまで試してほしい。
実家の近くなので今度あそこにできるんだなと以前から知ってました。
それもかなり右よりだなと。
ちなみに豊中市の公立学校は北部はセレブですが、南部はDQNの集まりですw
ン十年前の話ですがとあるサイトを見る限りあまり変わってないのかw
http://www5.plala.or.jp/ysk/kimigayo-toyonaka.htm
http://mid.parfe.jp/kannyo/onbudtoyonaka/katu-hou/H14/H14-6-H13-sotu-tyou-seimei.htm
・音楽の教科書の最後のページはプリントを貼るように指示される
・小学校の修学旅行は広島でなぜか公園以外にあるとある慰霊碑の折り鶴まで作らされる
というかそっちがメイン(ry
・夏休みの登校日は大体8月6日。原爆関係の映画を見せて感想文を書かせる。
・道徳の名ばかりで授業がない。というか「にんげん」という怪しい本を使った授業になる
・高校受験は学力が高いかよほどの強い意志がない限り特定の学校の受験しかさせてもらえない
・成人式になると市民会館の前で日教組の旗を持って突っ立ってる
ご近所の選挙区で同胞の有名政治家が予算委員会サボってでもすっ飛んできますよw
自分の場合不幸中の幸いだったのが中学3年間のうち2年が退職した爺さん講師(今思えばバリバリの保守思想)に当たることが多かったので
ヤバいビジネスを思いつきました。英語とコミュ力と資金があればしこたま稼げるかもしれませんし、世界を救えるかもしれません。
シャワー浴びてたら唐突に思いつきました。残念なことに私は浪人生で英語も未熟なので、誰かがこれで稼いで日本経済が潤えばと思って投下します。
最近アフリカについて勉強してます。南部でエイズの罹患率が大変なことになっているそうです。
アフリカ南部にボツワナという国があります。ここが今一番エイズ禍に見舞われていて大変だそうです。
ボツワナについて調べたのですが、この国ではエイズの感染を防ぐ為に、ABCキャンペーンというものをやっています。これは「Abstain=貞潔を守る、Be faithful=相手を限定する、use Condoms=コンドームを使用する」の頭文字を繋げたもので、所々に掲げられているそうです。
そして政府の打った広告の中に出てくる「自慰行為では感染しない」という標語があり、国がエイズ感染予防の一環で堂々と自慰を奨励しているそうです。Wikipediaにもキリスト教が半分程度しか浸透していないと書かれており、自慰に対する抵抗も少なそうだと思いました。
つまり政府公認の物凄くデカいオナホ市場が転がっているということです。
別にアフリカの人を差別する気は毛頭ありませんが、キリスト教の影響が少なくて性に対してオープンだからこそエイズが広がったわけで、セルフプレジャーが広がる土壌は十二分にあるわけです。
コンドームもそうです。政府がコンドームを奨励するキャンペーンを行っている今だからこそ、日本の物凄くレパートリーのあるコンドームをそのまま持っていけば、大人気になると思います。多分なります。
アフリカ南部の特徴を書きます。主な公用語は英語、中央に行くほどフランス語です。ボツワナは豊かな国です。アフリカで最初に最貧国を脱し、近年国債の格付けで日本を抜きました。しかも財政黒字です。インフラがキッチリ整備されていて運送などは困らないはずです。治安も良好です。
現地には豊富な資源があります。安価な労働力があります。現地に工場を建てれば安価に大量生産できると思います。現地向けに作って売り出せばとんでもない商機があると思います。ボツワナばっかり書きましたが南アフリカも十分大きなマーケットになると思います。何しろエイズ対策という大義名分が得られそうですから、堂々と販路を拡大できると思います。周辺も同様です。何しろ英語が通じます。
アフリカ諸国はエイズ禍を食い止めるために躍起になっています。ここ数年でなんとか薬が行き渡るようになっているようです。次に各国がしていることはエイズの予防や啓発啓蒙です。それは今です。いきなり工場設置なんて突拍子もないことを書きましたが、まず富裕層向けにでも現行品を輸出してみてはどうでしょう。アフリカといえども東京に大抵の大使館が揃っているので連絡したらパイプが築けるかもしれません。ああ私が受験生でなければ、元手があれば、英語が話せればやっていたのに!!!!!!!!!
工場が安定稼動したら余剰生産分を日本や先進国に回すことだってできます。夢が広がりますがこれらはしがない学生の妄想でしかありません。でもこれを妄想じゃなくしてくれる人が読んでくださる人の中にいると信じています。こんなに書くのは私がやる夫スレを読んでボツワナに個人的な愛着が沸いたから以外の何でもないですが、これで本当にエイズ問題が解決に向かったら歴史が変わります。歴史を変えてください。私はそれを待っています。