2019-08-30

昔々、ハリウッド

 

 『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が目前に迫っているというのにまだまったく心の準備ができていない。大波が押し寄せてくるのを確かに認めながら、砂浜で引き波に足を取られたまま呆然と立ち尽くしてしまっているような、そんな状態だ。

 

 『Once upon a Time in...Hollywood』というタイトルをはじめて聞いたときマジで引退しようとしてるの…!?と思った。現時点では「10作品撮ったら引退する」と言っていたり(今回が9作目)、「今度のが大ヒットしたらこれでおしまい」と言っていたりまだ判然としないのだが、そういうゴシップ的な憶測はさておき、このタイトルが持つインパクトはあまりにも大きい。セルジオレオーネ意味合いもさることながら、それ以前にこの響きだ。

 『昔々、ハリウッドで』。響きとしてあまりにも最終回すぎるのだ。仮に『クエンティン・タランティーノ』というドラマがあって、その主人公クエンティン・タランティーノ監督した作品が、ドラマ1話ごとのタイトルになっていたらと考えてみてほしい。第1話「掃き溜めの犬ども (Reservoir Dogs) 」、第2話「三文小説 (Pulp Fiction) 」、第3話「ジャッキー・ブラウン (Jackie Brown) 」、第4話「ビルを殺れ (Kill Bill) 」、……と進んでいって、第9話「昔々、ハリウッドで」である。どう見ても第9話で最終回じゃないか。こんなに引退作にふさわしいタイトルってなかなかないと思う。

 

 なんてことをメモしていたら、タランティーノ子供が生まれるとのニュースが飛び込んできた。引退について語るのを話半分に聞きながら、だがこれで子供でも出来たりしたら本当に映画撮らなくなるかもな……とか考えていたのだが、うーん、思ったより早かったなあ。つまりこのところとみに饒舌になっていた引退話は、子供が生まれるという予測のもとに展開されていたわけだ。それにしてもさ。田中裕二子供が生まれたり、タランティーノ子供が生まれたり、そんな日が来るなんておれは考えたことなかったよ。

 といっておいて何だが、タランティーノの言う「引退」について想像するとき、たしかに寂しくはあるけれども、意外と悲観的な気持ちにはならないというのが今の正直な気持ちだ。

 というのは、ひとつには、映画監督以外のフィールドでの仕事が見られる可能性に期待しているからだ。これは本人も言っていることだが、本を書いたりしたいらしい。タランティーノが書いた批評本なんて出たらぜひ読んでみたい。もしかしたら小説を書くかもしれない。それこそパルプフィクションを。あるいは脚本を書くかもしれない。脚本タランティーノ × 監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルなんて映画がつくられたら……など夢想するのも楽しい

 書く仕事ばかりとも限らない。いまのところ引退を語るうえでタランティーノが前提としているのは「劇場公開用映画」の監督業であって、フィルムに対する彼の偏愛と執着も、その前提があればこそ要請されてきたものだったと思う。その最前線から(いったん)身を引いたときある意味でそれは「引退」だが、またある意味でそれは「解放」ともいえるのではないか。何が言いたいかというと、Netflixなどでタランティーノドラマシリーズ制作する可能性はかなり高いのではないかということだ。この期に及んでタランティーノ劇場長編映画デジタルで撮る可能性はほとんど考えられないが、これがドラマシリーズだったら話は別だ。

 タランティーノがつくるNetflixドラマがあったら、それはどんなものになるだろうか。そのヒントになるような発言最近あった。自身監督作に登場したキャラクターのなかで、タランティーノが今でも折に触れて思いを馳せる人物がいるという。彼が挙げたのはザ・ブライド、ビル、ハンス・ランダアルド・レインの4人。タランティーノはそれぞれの人物にまつわる、いわばスピンオフ的なサイドストリーについての妄想を語っていた。

 ①ザ・ブライドが10年後、15年後、どうしているか。娘はどんな人物に成長したか。これは長いあいだ噂されてきた『キル・ビル Vol.3』がもし実現した場合ストーリーになるだろう。

 ②ビルはいかにして巨悪となったかエステバン・ビハイオ、服部半蔵、そしてパイ・メイという3人の「ゴッドファーザー」との関係を通して、ビルという悪魔人物オリジンを描く物語

 ③ハンス・ランダナンタケット島でどんな生活を送っているのか。ナチスきっての「名探偵」だったランダが、戦後20年くらい経ったナンタケットで起こる殺人事件解決してゆく物語

 ④アルド・レインは戦後どうなったか教科書に載るレベルの「英雄」としてアメリカに帰ったはずのアルドが、ナチスにおけるフレデリック・ツォラーのように映画に主演する…という話。

 なにこれ超おもしろそうじゃん!!!!! 全部見たい。見たすぎる。小説でもいい。読みたすぎる。ここで思い出したのだが、そういえばタランティーノこそ、地味に自分作品世界相互につなげてきた人だった。別の映画に登場するキャラクターたちが生きる一つの世界について語るとき、若き日の彼はたしかサリンジャーを引き合いに出していたように記憶するが、これって今風の言い方をすれば「タランティーノバース」だ。もちろんタランティーノ世界MCUのようになってほしいなんて気持ちは毛頭ないけれど、ジャンゴのサイドストリーはすでにコミック化されていることだし、劇場映画としてはおそらくもう実現しないであろうヴィック&ヴィンセントヴェガ兄弟の話だって、何かしらのかたちで語られる可能性は全然あるわけだ……ということを、妄想できることがうれしい。それにしても「私立探偵ランダ in ナンタケット」は見たすぎるだろ。

 で、仮に、タランティーノがこの次に撮る映画が本当に彼の「引退作」になるとするならば、その一本はやっぱり『キル・ビル Vol.3』であってほしいと、私はそう願わずにいられないのだ。 

 

 話を元に戻そう。『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の公開が迫っているのに心の準備がなにもできていないという話だ。この映画タイトルからしてこの有り様なものから映画監督クエンティン・タランティーノいかにも「集大成」という感じがしてしまうのだけれども、しかし実際はそうでもなくて、むしろ今までになく「タランティーノっぽくない」映画になっていたりするんではなかろうかと期待している。それはひとえにこの作品が、タランティーノ本人にとってきわめてパーソナルなものとなっているような印象を受けるからだ。

 『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』について、現時点で、私は予告編以外の情報をすべて遮断している。サントラにも触れてすらいない。だから実際どんな映画になっているのかはまったくわからないのだけれど、タイトルをはじめポスター予告編を通して強く喚起されたのは、「郷愁」の念だ。それは1969年、大きな変革を遂げようとしていたハリウッドとその時代精神タランティーノは "zeitgeist" という単語を本当によく使う)に対する郷愁であり、タランティーノ自身の幼少期へと向けられた郷愁でもある。しかしながらこの郷愁こそ、これまでのタランティーノ映画からほとんど感じてこなかったものであり、ゆえに今作はどうにも「タランティーノっぽくない」ような気がしてしまうのだ。

 タランティーノは、過去映画音楽からさまざまな要素をためらいなく取り入れることで自分映画をつくってきた人だ。その特徴はたしかタランティーノについて語るうえで欠かせないものだろう。でも彼の作品に宿る魅力を考えるうえでもっと重要なのは、そうした引用(あるいは盗用)のひとつひとつが、観客に郷愁を呼び起こすための装置には決してならないという点だ。観客を過去へといざなうことで「懐かしさ」に浸らせるのではなく、かつてとてもエキサイティングものとして消費された文化の「エキサイティング感覚自体をそのまま現在再現してしまえる才能。それがタランティーノのすごいところだと思うし、その意味で、郷愁、というのはむしろタランティーノ映画から最も遠いところにあった感情ではないかと思う。ところが今回の『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッドから郷愁が強く香ってくる。そのダイレクトさがとても気になるのだ。それはとりもなおさず今作の特異な舞台設定によるものだと思うけれど、開映が迫っているためちょっともう書く時間がない。超中途半端

  • >(タランティーノは "zeitgeist" という単語を本当によく使う) 本作ではカートラッセルが言ってたような気がする

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