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はてなキーワード: コンクリートとは

2020-11-21

anond:20201121161625

水素爆発って知ってるか?

原発建屋の2メートルの厚さの鉄筋コンクリートの壁が一瞬で吹っ飛ぶんだよ水素爆発凄いよ

2020-11-19

昭和50年頃の日本田舎風景

思いついた順。順番に意味は無い。

 

田舎道路舗装されて無いのがあたりまえだった。ごく一部が舗装されていたが、舗装コンクリートだった。アスファルト舗装はまだほとんど無かった。

・川にかかる橋はまだ木と土でできていた。わずか数年のうちに、全部コンクリート造りに作り変えられた。その時の橋がまだ現役。

石炭がまだ日常的に使われていた。学校の隅の方には石炭を積み上げておく小屋があって、冬は当番の子供がその日のストーブで燃やす石炭小屋から教室に運んでいた。炭の燃えカス掃除先生がやってくれていた気がする。石炭ストーブ石油ストーブに置き換わると、石炭小屋は鶏小屋改装されて、学校ニワトリを飼っていた。

火鉢や七輪がまだ現役だった。火鉢の中では炭を燃やして暖をとっていた。

掘りごたつの底は格子状になっていて、その下で炭か何か燃やして暖を取る構造だったが、それは当時すでに廃れていた。電熱線を使った電気ごたつが安くて便利なので、かなりはやくから普及していた気がする。

・家にかまどがあった。物ごころついた時にはもう使われなくなっていてプロパンガスだった。お年寄りの家ではまだ現役でかまどが使われていた。

洗濯ものは川や湧水のあるところでやっていた。湧水は出口すぐが飲用水の採取場所、数m下ると食器食べ物を洗う場所、そこからさらに数m下るとそれ以外を洗うもの、と順番が決まっていて、いつもだれか数人の主婦が何か家事をやっていた。水道が普及するといつしか誰も使わなくなり、掃除されなくなり、廃れた。

・秋には落ち葉のたき火で焼き芋を焼いて食べるのが定番おやつだった。

農業に使うかごなどが、まだ藁で作られていた。この伝統は数年後にはすっかり無くなってしまった。

・村の加治屋さんがいて、農機具の修理などをやっていた。

軽トラックが普及しはじめていたが、農道がまだほとんど整備されていなかった。車が通れない歩行者用の山道を、天秤棒をつかって前後に思い荷物をぶらさげて運ぶという仕事がまだあった。

コンクリートブロックを使って塀を作るのが流行り、みんなで競うように塀を作っていた時期があった。へー。

・車はどの車も数年でサビサビになった。今のような耐久性のある焼付塗装がまだ開発されておらず、車検のたびに車の塗装をやりなおしていた。車検とはある意味、車の塗装をやりなおすイベントだった。

カラーTV田舎にも普及しはじめた頃。

・街へ行くたびに、あちこちボコボコビルが建ち始めていた時代1970年より前に建築されたコンクリート作りのビルというのはかなり珍しいが、1970年代にはめちゃめちゃ大量のコンクリート造りのビル建設されて、日本の街の風景が一変した。

・いまはシャッター街となっている田舎商店街に、もっとも活気があった時代

軍隊帰りの教師が現役でいた。ゼロ戦特攻隊の訓練生だったとか、広島原爆が投下された後の遺体を積み上げて燃やす作業をやったという教師リアルに居た。多くの大人たちが原爆キノコ雲の目撃者だった。

・家を建てる時、壁は土壁だった。そのへんの土に藁を混ぜて建材として使っていた。土壁の中の芯は細い竹を格子に編んだものだった。

貯金金利がめちゃめちゃ高かった。しかし実際には金利以上にインフレになったので、真面目に貯金した人はむしろ損をした。

・缶ジュースは当時から1本100円だった。子供には高級な飲み物だった。

・お豆腐屋さんに毎日豆腐を買いに行っていた。田舎でも数100mも歩けば、一軒は豆腐を豆から作っている豆腐屋さんがあった。

主婦が買い物に行くときは、細い竹を編んだような、かわいらしい買い物かごを持って買い物に行っていた。レジ袋などというものはまだ無かった。せいぜい紙袋

生ゴミはかまどで燃やして処分していた。灰は肥料として活用された。街のゴミ収集車は、不燃ごみの回収が主だった。

冠婚葬祭は、5人組といわれる隣近所のグループで協力しあって、自宅で行うのが当たり前だった。

・どこの家にも子供がいた。夜は外出を厳しく制限された。今思えば、どこの家庭も夜になると夫婦セックスして楽しむのが当たり前だったんだろう。

  

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そのほか、あとで思い出したこと追記

子ども神社やお寺の境内に集まってよく遊んでいた。缶けりとかが定番だった。

・そんなド田舎にもエロ本はあった。子どもたちが拾い集めたエロ本の隠し場所神社の床下だった。

・雨の日はよくトランプしていた気がする。

レゴブロックは既にあった。当時から定番おもちゃだった。

こたつテーブルの板をひっくりかえすと麻雀用の緑のフェルトが貼ってあった。

蛍光灯が爆発的に普及したのがこの頃だった。電球よりずっと明るいので最初はみんな驚いた。

 (しかし、統計を見ると子どもが減り始めたのもこの頃。電球の方がエロい気分になりやすかったというメリットはあったのかもしれない)

バスには運転手のほかに切符を売ったり、バックする時に誘導したりする車掌がもう1人乗っていた。それがワンマンになったのも昭和50年

宅配便はまだ無かった。国鉄の駅から小包を発送していた。

国鉄荷物を送るときは、包み方にめんどくさい規定があって、紐で縛ったり指定タグをつけたりしなくてはならなかった。

昭和50年代に複数宅配便会社競争で一気に普及して、国鉄荷物を送ることは全くなくなった。

女子体操服はブルマだった。バレー部が人気だった。部活マラソン大会では女子が校外を体操服(下はブルマ)で走っていた。

ダンボールは既に普及していた。ダンボールが普及する前は農作物は木の箱に入れて出荷していたらしい。使われなくなった木の箱がよく他の事に転用されていた。

・そんなド田舎でも新聞牛乳は毎朝届いていた。牛乳はビンに入っていた。

学校の校舎は当然木造体育館木造。今思うと、体育館のような大きな建物木造っていうのは当時としてはなかなか凄い事だったんじゃないかという気がする。

バイクといえばスーパーカブのことだった。それ以外のバイクは見たことが無いレベルだった。

・車と言えば軽トラだった。それ以外の車も見かけたが、変わり者扱いされるレベルだった。

・仕出し弁当とかは薄い木で作った箱に入っていた。プラスチック発泡スチロール製のトレ―が普及したのも昭和50年

幹線道路なのに1車線のところがあり、ときどき渋滞にっちもさっちもいかなくなって警察を呼ぶことがあった。

リヤカーを引いて魚を売りに来るおじさんがいた。スーパーカブに山ほど靴を積み上げて靴を売りにくるおじさんもいた。富山の薬売りもいた。

2020-10-29

都内普通にミツバチいてワロタ

都会は一様にコンクリートジャングルで無機質かと思いきや実は街路樹とか公園のおかげで緑多いよな

🐷「藁の家やで」🐺「火炎放射器やで」

🐷🐷「木造住宅やで」🐺「クレーン持ってきたで」

🐷🐷🐷「鉄筋コンクリートやで」🐺「狭小地の建て替えは違法やで」

2020-10-28

🐷🐷🐷「鉄筋コンクリートやで」

🐺「RPG持ってきたで」

🐷🐷🐷「チョバムアーマーやで」

🐺「対戦車ライフルやで」

2020-10-17

anond:20201017130007

落として破損するのは大抵表面のガラスなので脆くはないよ。

その表面ガラスコンクリートなどよっぽど硬いものに当たらないと割れないし。

2020-09-28

遺跡になるような建物をつくるべきでは?

この前中之島あたりをぶらついたら、ガラス張りの滅茶苦茶デカビルがそびえ立ってて結構な迫力を感じた。

梅田デカビルばっかりだから逆にひとつひとつの印象が薄いんだけど、中之島は川で挟まれてるぶん開放的空間にいきなりビルがあるんでインパクトが強い。

そして思ったんだけど、たとえば300年前の建物としてあのデカさ・高さがあったら絶対世界遺産入りするんだよな。

そのへんのビル街にあるどうでもいいビルでも大概の城とか塔よりデカいし、なんなら世界遺産クラスと比べてもピラミッドくらいにしか負けない感じさえある。

現代建築デカいし精緻だしすごいと思うんですよ俺は。アンコールワットみてえなものを見て喜ぶくらいなら、家一歩出て目に入るビル、なんなら自分ちそのものに目を向けてみろ、それが500年前の建物と思ったらメチャクチャすごくねえか?

でもコンクリートってカスらしいじゃん。俺はそれが悔しいんだ。

これまで見た建築物で一番グッときたの、五重塔でも清水寺でもアヤソフィアでもパンテオンでもなく、北京空港なんですよね。

北京空港すげえんだよマジでおかしいくらデカくてさ、遠近感が狂うくらいクソ高い天井が視界いっぱいに広がってて、しかもそれが光っててさ、これまたデカい白い柱が無数に立ってんの。なんかもう神秘的ですらあったんだよな。

乗り換えするだけの空港の移動だ、と思ってロクに周り気にしてなかったんだけど、ふと立ち止まって天井見上げた時これってもしかしてマジですごい建物なんじゃないかって思ったんすよ。

でね、あの巨大でマジェスティックでとんでもないものが、なんの遺産にもならずに消えていくって悲しいじゃないですか。劣化したとか言って取り壊されてさ、仕方ないんだけどやっぱり悲しいぜ。

から現代技術の粋を集めて、長持ちする素材でひとつデカものを作ってはどうか。

北京空港くらいでかい石造りの何か、作れないのか?将来の人類、あるいは次に覇権取った知的生物が見てこいつはすげえやと感嘆するようなもの絶対作れるでしょ。

モニュメントが小せえよ。ピラミッドくらい気合入ったものを作れ!

2020-09-23

果名温泉あゆみ

果名温泉の泉質は硫黄泉で酸性度は高く石膏分を含み、典型的には乳白色の湯を湧出し、皮膚疾患や自律神経不安定症、冷え性に効くとされる。現在の果名温泉にあたる場所湯治が行われはじめた正確な時期はわかっていないが、戦国時代には国衆の松影氏と配下武士戦闘時に受けた傷を癒すために東屋を建て、熱した岩に湯をかけて出た蒸気を浴びる療法を行った記録が残っている。

旅館の立ち並ぶ温泉街が発展を始めるのは果名駅が完成し鉄道が停まるようになった大正初期以降で、大正年間には山形屋、鳳萊館、飛雲閣、梅風館、寶山閣が温泉旅館として営業を開始している。昭和初期には湯治客の増加に伴い、月風荘のように高層化した木造建築旅館が現れた。昭和10年発行の果名温泉旅館協同組合名簿には27件の加盟旅館記載されている。

温泉街は一大経済圏形成し、湯治客のみならず温泉での働き手を引きつけた。特に昭和恐慌時には各地の農村から子女年季奉公旅館に送り込まれ仲居あるいは酌婦として住込みで働いた他、「即席御料理」の看板を掲げた曖昧屋も複数存在していた。

温泉街でありながら閑寂な山居の趣を味わいうる果名温泉は多くの芸術家たちを魅了した。志摩名護也の「果名にて」や葛西前後の「波浪」といった小説は果名温泉旅館執筆されており、当時の果名温泉での生活垣間見ることができる。作曲家和賀英良の名曲「疑問」は、鳳萊館の露天風呂で着想を得たとされる。

戦時中には物資の統制や倹約奨励温泉旅館営業一定の影響を被った他、温泉街は疎開児童集団受け入れの場となった。終戦直後の乏しい物資供給を乗り越え温泉街の旅館営業を続けたが、高度経済成長期には急峻な地形に鉄筋コンクリート高層ビルを建てにくかったこから果名温泉団体旅行の受入地とはならず、鄙びた温泉地の形態を留めた。

今世紀に入って旅行者の嗜好が変わるにつれ、果名温泉街の伝統的な景観旅館木造建築が再び脚光を浴びている。経営者高齢化、湧出量の維持といった課題を抱えながらも、温泉旅館協同組合が主な担い手となり、地域産業振興策と一体となった新たな温泉街の魅力づくりに取り組んでいる。平成10年には青年会により温泉街で第1回オメガラーメンまつりが開催され、果名村が発祥とされるオメガラーメン温泉とともに楽しんでもらう行事現在に至るまで毎年秋に行われている。

(『果名村史 近代編』、果名村史編纂委員会、2018、p.201-203)

https://anond.hatelabo.jp/20200922195023

2020-09-20

anond:20200920233912

庶民が買えるマンション基本的負債しかないので

持ち家の方が良いに決まっている

防音考えても持ち家

もっとも鉄筋コンクリートで作れるかとか防音関連にどれだけ費用回せるかはある

2020-09-18

オフィスフロア内でデスクが4~6つとまとまった島がいくつかあるんですが、1つの島はOAフロアじゃなく床が完全にコンクリートで埋まってるので、LANケーブルが通ってなく無線LANネットワークに参加しています

最近その無線LANの島の中のパソコン同士の通信が、離れた島の親機をいちいち介してると言うこともあり、パソコンが隣どおしでも(当たり前ですが)通信速度が遅いと言うことで、島内も有線LANをしようという案が出ています

あんまりまたハブNASを入れると、コンセントが足りなくなり、今度は電力不足です。

あながちシムシティーみたいな話で面白いですが、簡単発電所つくったらいいって問題でもないので、案外コンセント足りない問題は切実です。

今日もいくつか増田を書きましたが、トラバブクマがつきませんでした。

ここ2~3日遅くてくたくたでした。連休中もちょこちょこ出るかも知れません。

今日はもう帰ります

また明日よろしくお願いします。

2020-09-12

EVスタートアップニコラモーターがやばい

最近EVブームにのってIPOしたNikolaだが、時価総額が3兆円に達したとかGM提携したとか景気のいい話が聞こえてくるが、ここに来てHindenburg Researchから爆弾が投下された。

https://hindenburgresearch.com/nikola/

すごく長くて読み応えのある記事だが、かいつまんで言うと、

  1. そもそもNikolaは今まで完成品を売り出したことがないが、デモとしていくつかのトラックを「ほぼ完成品」として発表しいる。しかし、全てのデモ投資家から投資を受ける方便であって、発表された車は全て詐欺的なフェイ
  2. 例えば"Nikola One"というトラックデモビデオは、坂道トラックを転がして撮影されたもの
  3. Nikolaが華々しく発表した、革命的なバッテリー技術やら水素関係技術は全て存在していないか、全く使い物にならない
  4. Nikolaのファウンダー、現CEOのTrevor Miltonは連続起業家として知られているが、彼が前に創立した企業は全て詐欺的なデモ投資を集めて、バレる前に他の企業に売り渡している
  5. Trevorはその弟を水素技術関連の研究開発部門トップに任命し、多くの給料や株を与えているが、弟はNikolaに入る前はどうやら道路コンクリートを敷き詰めたり、ハワイで家のリノベーション仕事などをしていたらしい
  6. Nikolaはそのほぼ全ての技術を自社開発したと主張しているが、ほとんどの技術はアウトソースされたものか、ボッシュなど他の企業からライセンスされたもの
  7. Trevorは既にIPO前後に7千万ドルほどの自社株を売り抜けている

他にも色々あるが、分かりやすいのはこのくらい。これらの暴露は全て、前従業員への取材匿名)や取引企業とのメールなどで裏付けが取れている。

このニュースを受けてNikolaの株価GMとの提携が発表された直後から40%ほど下がっている

2020-09-11

俺は携帯が折り畳めた頃の日記サイト打ち上げ写メをあげて感想欄に撮ったメンバーを書く女の子が、女子あだ名だけど、男子苗字+君で書く女の子が、とてもいいと思う。

夏、長いワンピースの裾をたくしあげ、畑を通り過ぎるおさげの子は純朴の象徴だけど、このデジタル化されたコンクリートジャングルでは、男子苗字+君で表す子こそが純朴といえるだろう。

そんな夏はもう来ない。

2020-08-31

一条工務店ってコンクリート埋設用のCD管を屋内配線だけじゃなく土中埋設にも使うところでしょ。

30年後、配管の取り換えで苦労するの目に見えるな。

2020-08-29

コロナでの大学研究のやりかた

コロナ人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事雰囲気が変わり始めている。

私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。

もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域比較英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたとき理科若い先生理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからいくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。

当時はショックだったが、中学校から親の転職関係引っ越し比較普通地域引っ越ししまった。小学校ときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越し地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくま中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理先生哲学議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたとき日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。

大学自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生パートナー何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本最高学府学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員ディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論テーマ自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1勝手実験をして修士論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文12本書いた。ちょっとした自慢である

博士資格名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学ポジション公募に出す中、私は自分学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外日本より風通しが良いだろうと思い、日本研究から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本出身研究室で職を得て戻っていった。不思議ものである

当時の海外での受け入れ研究室教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本講座制の影響もあり若い研究者活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である日本に戻るためには公募書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室研究をしているよりも経験つん日本研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議ものである

こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。

そんな先のコロナである実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言あおりをくらい、研究室での研究活動オンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生いるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。

学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動制限されている。以前ほどの自由担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンスペイン風邪タイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。

2020-08-23

40才バイトかけもち独身男だが

どうも生きてるだけでセクハラパワハラ独身男性です。顔はチー牛に豚丼を重ねて特盛にした感じです。

いま大阪で元・市営バスに乗ってるんだが、となりのババアがうるさい。ひたすら、嫁か娘か知らんが連れのオバハンに対して「支払いがー、年金がー」と喋りまくっている。

思うことはただひとつ。口にコンクリート詰めて、車で頭踏みたい。そして気づく。社会女性が、ワイのような毒男存在自体ヘイトを持つように、ワイもまた老害全般ヘイトを持っている、と。

世界人類のために、ワイのような者が不要削減対象であることは構わない。なら、ついでに老害処分しようぜ?南無コロナ老害撲滅勝利祈願!

とまあ、ワイなんかは存在することがハラスメントなんですよ。つまりbeingハラスメント、ビーハラね?

最期に言わせてほしい。

Ich bin bin!

2020-08-20

中一の頃トイレを覗かれていたかも知れない

 中一のある朝、学校に行くと、学年主任先生女子トイレから出てきてびっくりした。男子トイレからは学年の副主任が出てきた。二人ともすごい怖い顔をしていた。

 学年集会があったのか、クラス毎だったのか忘れたが、トイレを覗いていた人がいたと分かった。同じ学年の悪ガキ三人組だった。その三人は中二頃から不良になった。

 男子トイレ女子トイレの間の壁が、ベニヤ板を少し厚くしたくらいの板で、男子トイレでの会話が聞こえてくるのが入学当初から気になっていた。三人組は、休み時間にキリで壁に穴を開けて、休み時間にそこからトイレを覗いていたらしい。覗かれていたのは一つの和式トイレだけだったけど、もしかしたら自分も覗かれていたかも知れないと思ったら、大人になった今でも恥ずかしい気持ちになる。時間を戻したい。

 トイレをする時はスカートが地面につかないように捲し上げて押さえて、押さえながらパンツを下ろしてトイレをする。生理の時は生理用品を替える。人に見られていなくても、すごい変な格好だと思う。それを覗いて楽しんでいたことを大人になった今も許せない。

 壁に穴が空いていることに気付いた子が先生に言って発覚したが、驚いたことに、前から覗かれていることを知っていてそのトイレを使わないように別の階までわざわざ行ってトイレを済ませていた子がいた。三人組がキリで穴を開けている現場に遭遇して注意した男子もいたらしい。その人達先生にすぐに言っていれば、被害もっと少なかったのにと思ったら、言わなかったことはそこまで悪いことじゃないのに、すごく悪いことな気がした。

 壁の穴はすぐにテープで塞がれた。男子トイレ女子トイレの間の壁がコンクリートだったら良かったのに。そんな悪い奴らがいなかったら良かったのに。もしかしたら狙った時間にそのトイレを使う人がいなかったかも知れないから、実際にはそんなに見られていないかも知れない。でも見られたかも知れない。三人組に私のトイレ場面は見た?とは確認出来なかった。さすがに怖かった。

 三人組は先生から厳重注意と、親呼び出しだけだった。内申点は下がったかも知れないけど、みんな内申点あんまり関係ない私立高校に行ったと思う。もし覗いていたのが教師だったら、解雇されて前科がつくのに。悔しい。

 三人組の一人は、実家がかなり太くて、家業を継いで社長らしい。いい車に乗っていい生活をしているらしい。同窓会にも来るみたい。Facebook同窓会写真がアップされていて、そいつが写っているのを見てびっくりした。参加している女子自分トイレしている場面を見たかも知れない男と楽しく飲めるのかな。気にならないのかな、と思った。

 三人組の別の一人は二十歳そこそこで亡くなった。運が悪いとしか言えない死因だった。ざまあとは思わなかった。彼女がいたかも知れない、やりたいことがあったかも知れない、親も悲しかっただろう。でも私は、バチが当たる系のことを親や祖父母に小さい頃から言われて、それを気にする子供だったので、もしトイレを覗いてなかったら死ななかったのかも知れないとは思った。

 三人組の残りの一人は何やってるか知らない。

2020-08-11

古代に生まれて神がいると思わない方がおかし

雷!!

https://m.youtube.com/watch?v=n3gmHuekb4E

この前けっこうスゴい雷雨がきて、光ってから音がするまで2秒もないくらいの距離感になり、しばらくそりゃもうとんでもない音が聞こえていた。

コンクリートの立派な建物の中にいて、雷で自分がどうにかなる確率はほぼ0%と分かっていて、雷がどういう仕組みで起きる何なのかという知識も雑ながらあるのにスゲー怖かった。ってことは古代の人が感じる恐怖は比じゃないだろう。

家はショボく、雷の挙動は謎、なんなのかもわからん。なんなのか分からないが天がものすげえ光ったと思ったら突然目の前の木が炎上して砕け散り、えげつない轟音が鳴り響く。至近距離の雷、マジで太鼓と絹を裂く音を合わせたような怪音で怖すぎる!

そりゃ神というか、とてつもない力を持ったなんらかの存在が何かしているとも思うだろう。

噴火!!

https://m.youtube.com/watch?v=4hY_jodOecU

この動画の一本目がすげえ好きなんだよな。ムチャクチャかい噴煙、火山灰と分かっていてもやっぱり迫力がすごい。

俺も火山県の出身から噴煙はある程度見慣れてるはずなんだけど、やっぱりある程度デカ噴火があるとつい見入ってしまう。

突然5000mとかのバカみてえな高さをもつ灰色の塊が空に立ち上がるわけで、なんなのか分かんなかったらさぞかし怖かろうと思う。それこそ神にも見えるに違いない。

 

つか、太陽のアホみたいな明るさといい月の綺麗さといい海のバカデカさといい、なんつうか世界ってすごいよなあ。

文明社会で育ったせいでどうしても自然を舐めてしまうというか、いわば攻略を読み漁ったあとゲームに臨んでるようなところが自然に関してはあると思う。

俺もこの世界がなんなのか全然分かってない状態でポンと放り出されたら、雷は神の怒りだと思うし月は空にあいた穴だと思うし地平線の向こうは無だと思うし噴煙は神そのものの顕現だと思うに違いないと思う。

 

しろいまここまで神が死んでるのが本当に凄いんだよな。人類マジでよくやったと思う。

2020-08-07

子供用水路に落ちていた。

 最近の話ではなく幸いにも真冬水路に水が流れていなかった時のことなんだが、用水路子供が落ちていた。たぶん小学三年生くらいかな。私が旗降り当番で近くの交差点に立っていた時に、数人の子供達が助けを求めに来たのだった。

 子供達に引っ張られて現場に行ってみると、広くて深い農業用水路男の子が一人落っこちていた。水はないし、深さも男の子の背の高さよりはないので、何とか自分で上がれるようにアドバイスすることにした。何しろ少年、ドスコイ系で私の腕力では引き上げられなかったし。

 っていうか、普通片手でも貸してもらえばこんな高さくらい上がれんだろと思ったらダメだったのである。なんかね、手を貸した瞬間もう全力で手にぶら下がって何もしねえの。いやいや無理だって自分でもさあ、用水路コンクリを足掛かりに登ってこようとしないと、ぶら下がってるだけじゃ永劫上がってこれねえから。でもひたすらだらーんとぶら下がるし、このままじゃ私まで引摺り込まれるようにして落ちそうだと思ったので断念した。

 それで、何とか自力で上がってもらうには、まず身軽になってもらわなければならない。まずはランドセル背中から下ろして岸に上げてくれと言ったら、何故かデモデモだってをしてランドセルをおろさない。しばらく愚図愚図してやっと、ランドセルを草の上に放り投げてくれた。

 で、次に、足が川底に溜まったヘドロのせいで上手く動かせないと言うので、もういっそ靴脱いじゃえ。どうせ中まで泥んこだし、靴ががばがばして歩けなくなってんだからって言ったらこれまたデモデモだってを始めて脱がず、歩けないもうダメだとか騒ぐ。裸足になれば確かに川底に沈む何かで怪我をするリスクが生じるのだが、護岸コンクリートを登るには裸足の方がまだやり易いぞって言ったらまたデモデモだってで、登れない登れない言いながら、ヘドロの中を行ったり来たりしている。

 ヘドロの深さは踝が沈むくらい。当人、ブーブー言いながら普通に歩いているし、そこまで障害になってはいなさそうだが、どうしても無理ダメ上がれないというので、仕方なく何か足掛かりになるものを皆で探す。と、仲間の一人が田んぼ用水路を繋ぐ穴を塞ぐのに使われていた薄い板をひっぺがして持って来た。農家の人には悪いんだけど、これは使える。これを壁際のヘドロに刺して踏み台にすれば上がれるはずだ。ほんの十数センチあればよく、ぺらくても一瞬でも体重を支えられればいい。そう伝えたがやはりデモデモだってと言うばかり、うろうろするばかりで時間けが過ぎて行ったが、最終的には子供達の中の一人が私の言ったことを理解して川の中に落ちてる子に伝えたら、素直に聞いていともあっさり川底から脱出してきた。これってむしろ私がいたから川に落ちた子が愚図愚図反抗して時間がかかったんじゃね? もしかすると知らんぷりして去れば子供達だけで解決してさっさと学校に行ったのでは。

 その頃にはすっかり授業が始まっている時間で、私は小学校電話で連絡した。すると川に落ちた子の親が学校から連絡を受けて駆けつけ、子供を回収していったのだけれど、他の子供達はサクッと置いていかれてしまった。しょうがないので、私が子供達を車で学校に送り届けた。車の中で子供から聞いたが、彼らの仲間内の誰かが用水路に落ちたのはこれで三回目? くらいだそうで、学校先生からはあの用水路には近づくなと言われているんだが、つい脇を通ると見ちゃうし(歩道用水路はつい見ちゃうほど近距離ではない。)見てるとなんか落ちちゃうらしい。

2020-08-06

化石燃料があり、鉄筋コンクリートがある今、

燃料としても築材としても需要がない日本の山の木々

有史以来最も繁茂してるんじゃないだろうか。

と思ったけど、

山切り開いて住宅地作ったりメガソーラー作ったりしとるな。

2020-08-05

私はこの就活が終わったら死ぬ

この就活が終わったら死のうと思う。

 私は一地方都市のしがない大学生である私立四年生大学の最高学年であり、連日就職活動に振り回されている。それでもって例の如く就活病み精神的に追い詰められている。これから書くのは端的に言えば弱音であり、備忘録である。たぶん。

 私が死を意識しはじめた時期は小学生くらいだった。きっかけは保育園からの友人と疎遠になったことのように思う。その子と私はもともとタイプが違っていて、成長するにつれてお互い世界が広がって話さなくなる、というある意味典型的パターンだった。 

 ただ、問題だったのは当時の私にはその子達以外に友人がいなかったことだった。その子達は新しい友人を作っていたが、私は新しい友人を作ることが出来なかった。一度でも学生生活経験した人ならわかると思うが、学校という閉鎖社会生活するにはどこかのグループ所属する必要がある。私は友人を失ったことで学校での居場所も失ったのだ。それに加えて元友人は私にとって憧れの存在だった。私はその子のことがまだ好きだったのだ。今なら離れた理由もわかるが、当時はどうして元の友人と疎遠になったのかもわからず、何が悪かったのか折に触れては考えていた。

 なんとなく暗い気持ちで日々を過ごしていたときTVバンジージャンプ映像を見た。芸人タレントか覚えていないが、紐をつけて飛び降り映像を見て「あ、いいな」と思ったのだ。空の中に落ちていくのは、最後に晴れ渡るような青空を視界に焼き付けるのは気持ちがいいだろうな、と。

 恐らく当時の私は友人と疎遠なったことで学校生活不安を持っていた。そこで至った結論が、生きることをやめること、だったのだと思う。だからバンジージャンプをいいなと思ったのだ。もう学校に行かなくて済むから

 これがとんでもない勘違いであることは充分理解している。死ぬことはそんなにいいものじゃない。落ちてる瞬間はきっと凄く怖いし、空なんか見てる余裕もないし、落ちたときなんか死ぬほど痛い。死ぬんだから当然だ。それにそこで死ねればいいが、うっかり生還なんてしたらたまらない。障害を抱えて生きるか、自殺を失敗した人間というレッテルを掲げて生きるか、どっちにしても地獄である

 でも、当時の私には酷く魅力的だった。ここで死ね明日学校に行かなくていい、嫌な発表もしなくていい、最後に綺麗なモノを見て終われる。正直、疎遠になった友人への腹いせのような気持ちもあった。自殺すれば、友人も少しくらい私のことを気にかけてくれるかもしれないという思いもあった。

 小学校に通っている間、何度か四階の音楽室の窓から身を乗り出して晴れ渡る青空コンクリート舗装された地面を見つめた。あんなに熱心に見つめていたのに私は実行には至らなかった。単純に勇気がないから。私には死ぬ勇気がないから。結局私は「死に憧れる自分」に酔っているだけで死ぬ覚悟もなかったのである。そういうところが本当に情けなくて中途半端人間だなと思う。

 だらだらの長く書いたがここまでは前置きであるあくまでここからが本題。だと思う。

 なんとか小中高を抜け、大学にも進学できた。特に留年することもなくなんとか四年生になったが、そこで私は就活という大きな壁にぶち当たっている。

 就活で何が死にたいっておおよそ内定が貰えそうにないことである。今現在エントリーシートを提出した企業が5社でそのうち面接まで行ったのが2社、うち一つは面接遅刻した。まじで馬鹿だと思う。当然、不採用の通知が来た。あと残り5社ほどエントリーシートを提出するつもりだが正直内定が出るとは思えない。となると来年就職浪人非正規雇用の道しかない。

 私は今まで「普通」の人生を目指してきた。高校に行って、大学に行って、正社員になる。ごく一般的な「普通」を目指して懸命に生きてきた。なぜ普通を目指すかというと楽だからだ。これも部活動所属していた理論と近い。「普通」に生きるれば他者に埋没することができる。無駄な注目を浴びなくて済むし、他の人がしないことに労力を割かなくて済む。「普通」というより私は「マジョリティ」に所属したいのだ。常に多数派でありたい。多数派であることはいいことだと私は思う。例えば、何か不幸なことがあっても他の人も体験していれば、よくあることだと納得することができる。困ったことがあっても先人の意見を参考にすることができる。なにより多数決で勝てる。特に多数派であるという安心感は何者にも変えがたい。

 内定が貰えなかったら、新卒就職できなかったら、私の思い描いている「普通とはいえない。普通でないなら死ぬしかない。

 突き詰めれば私は明日の不幸が怖いのだ。小学校とき明日学校行きたくないと思ったのと同じように、明日明後日自分生活が続くことが怖い。

 これを言うと多くの人が人生は年々楽しくなるとか、いいことも沢山あるんだよとか言うのだが、そう言うことではない。楽しいことがあっても悲しい事は帳消しにならない。別々に積もっていくだけ。それに本当に悲しいことや辛いことがあったときに私を生かした人は責任とってくれない。自分の生に責任を取れるのは自分だけである

 本当は漫然と生きることが不安で、その不安が今回の就職活動きっかけに大きく燃え上がっている。だから私にとって自殺とはこの不安を解消するための手段なんだと思う。

 ネットの海を眺めていると私だけではなく、みんな本当は漫然と生きることに対する不安を抱えているような気がする。本当はみんな理想自殺の種類があるんじゃないのか。みんなそうだって言って欲しい。私は「普通だって言って欲しい。

 一方で安易理解は欲しくない、こんなに苦しいのに誰かに判られてたまるかって気持ちもある。みんなが打ち勝っている不安に私だけ負けている事実が怖くもある。

 私のこの漫然とした不安鬱病とかなにか名前の付くものでは恐らくない。だから病院に行って薬を貰うことは出来ないし、病院先生に話を聞いてもらったところで将来なんてみんな不安ものですよ、とかなんとか宥められて帰されるだけだろう。

 私は卒業後は就職するつもりだった。それ以外の選択肢は何も考えていない。就職出来なかった場合については何も考えたくない。

 小学生自分死ぬことに憧れているだけだったが、今の私はきちんと実行できるだろうか。死ぬことを考えるのは正直に言えば怖い。もしかしたら、まだ私は死にたくないのかもしれない。でも死ぬしかない。明日の私を苦しませないために今死ぬしかないんだ。あそこで死んでおけば、と後悔するのだけは絶対に嫌だ。それなら今きっぱり死なないといけない。もうこれ以上苦しまなくていいように、つらい思いをしないように。

 だから私はこの就活が終わったら死ぬ

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