はてなキーワード: 針の山とは
もうすぐ子供が5歳になる。
健やかに育ってくれてた。ありがたや。
一つだけ問題がある。
見ながら食うのが習慣化してしまった。
イカンのはわかってるが即効性があるのでついつい使ってしまう。
最悪だ、すまん。父は弱いのだ。
せめて食事中は取り上げたい。
取り上げるとギャーギャーうるさい。
壊れたとウソをついても
「どうせウソでしょ」
「じゃぁパパのケータイでいい」
カンダタは最後どうなったのかとしつこく聞いてくる、知らんがな。龍之介の聞いてくれ。
「地獄のあばれもの」もお気に入りでここひと月毎日観ている、針の山をなぎ倒していくシーンが好きらしい。
ちょっと前はGTAだった。殺戮破壊をケラケラ笑いながら観ていた。
ともかく、せめて食事中は取り上げたい。
お話しよう、大好きな鉄道クイズをしてあげる、などなど誘導策を試みたがダメ
あるいはたこ焼き巻きずしチーズフォンデュなど子供も製作に参加できるようなメニューを増やすか。
なにかアイデアがあったら教えてくれ。
と、ここまで書いてふと、
なんで?
一般的にはダメに決まってる議論の余地なし、だろうがそこにサイエンスは無い、エビデンスはない。
もしかしたら食事中に好きなだけスマホ動画を見たほうが利口で良い子になるかもしれない。
あるいはなんら影響が無いとか。
データを探してみたが無い。そりゃ無いだろう、デジタルネイティブ世代はまだ就労世代に達していない。
テレビを対象にした類似研究はあるが、幼児期テレビ視聴時間、食事中のテレビが長期的にどのような結果となるか追跡コホートは見つからなかった。
で、いくつか論文は読んだが、ようするに見方にもよるんじゃね?と思い始めた。
子供を大人しく座らせて食事させるためにスマホを使う、親も黙ってスマホながら食い
と、
一緒に映像を観ながらそれをテーマに話をしながら食べる、とでは違うのではないか。
落っこちたカンダタどうしたんだろね、もう一回チャンスあげてもいいのにね、どう思う?みたいな
動画をただ消費するのではなくイマジネーションを広げる訓練になれば良いのではないか
それぞれの選択肢を選んだ場合に起こりそうな事をいくつか列挙した上で
例えば「いつか死ぬことを受け入れる」か「不老不死になる」かなら
①死んだ場合に起こりそうなこと
・永遠の無かもしれない
・知り合いがみんな死んで一人ぼっちになるかもしれない
・金融商品の利得を受け続けられるかもしれない
こんな風に列挙した上でどっちがいいかを選ぶものだと思うんだが
俺は①は良いことが起こった場合と悪いことが起こった場合の差が極端すぎるから②の不老不死になった方がマシだと思う
だがこういう風に列挙した上でそれでも天国や異世界転生の望みをかけて①を選ぶ奴がいてもいいと思う
べろん♪
ぎゃあああああああああ
針山舐めちゃったあああああああ
2022-07-24
■地獄をナメるなよ
リベラル・フェミニスト系の人に多いイメージなんだけど、すげえカンタンに「地獄」って表現するやついるじゃん
アレむかつくんだよなあ!
そりゃ、痴漢が多いのは非常によくない、すげー悪い、メチャクチャ嫌ですよ
マジでくたばってほしいと思う
でも地獄ではないだろ
地獄ってもうちょっとこう、尊厳どころか生存が脅かされるというか、なんだったら生存そのものが毎秒破壊されて、でも死ねない、みたいな、そういう感じじゃん
太い針の山の上を歩かされるとか、延々溺れ続けるとか、焼かれるとか、皮を剥がれるとか、そういうのがずーっと続くってレベルになって初めて地獄だろ
考えていることを文字にするのは大切だとわかっているけど、自分で自分の思考が幼いとか、いわゆる中二病くさいとか、そういう恥ずかしさもあって、なかなか実行できないでいる。それでさらに心理的なストレスというか心理的な状況が悪化して、手がつけられないような状況になることを繰り返している。今も悪い。
外形的な環境は関係なく心理状態が悪いんだ、と自分で自分に言い聞かせているが、けっしてそんなことはないことは自分が一番良くわかっている。もし今とてもたくさんお金を稼いでいて、しかも人から尊敬されるようなことをしていたら、もし今文句のつけようのないような奥さんとか家族なんかがいて、幸せに暮らしていたら、自分の心は決してこのような文章を書くような状態には陥っていないと思う。
オリンピックを見ていても何をしていても、結局は現実逃避をしていて、その結果現実はさらに悪くなるということを何回も繰り返している。なんとかならないかなーと思いつつ、自分がアクションを起こさないことにはなんともならないことはよくわかっている。それができないでこの一年間、心は一時期に比べてストレスが少ない状態であったにもかかわらず、やはり一定のうつ状態からは抜け出せずにひたすら苦しんでいた。
人と会っていないし人の情報を得てもいないのに、嫉妬し、執着し、落ち込むことばかり繰り返していた。人と劣等感と優越感で勝負しても必ず負けて心がとんでもなく傷つく。そしてそれをわかっていながら何もできず、やはりうまく生きられない。
極度の人に対する気の遣いようというか、臆病さがあり、それによって配慮をすることで得をしてきた面ももちろんあるが、自分に余裕がない状況になるたびに人からの連絡を無視したり、不義理をしてすべき連絡をできなかったりという面で損のほうがよほど多い。もっとしぶとくならなければ生きていけないとわかっているが、自分の性質なのでなかなか治すことができない。
この世に対して深い恨み、無力感、絶望感を抱いているのに、死ぬこともしない。
死ぬことができないのには2つ理由があって、1つ目には家族が気の毒ということと、2つ目には一度自殺しようとしてできなかった経験から少し自分の自殺能力に疑問があること。自分が死んだあとには自分にとっての世界が存在しないから家族のことなんて考えても仕方ない、と頭ではわかっているが、やはり自分が死んだことを知らされる親、姉、祖父母、おばのことを考えると、さすがに申し訳ないと思ってしまい、極限のストレス状況ではない今の状況ではなかなか踏み切るところまでいかない。家族はみんな、自分が東京で出世することやお金持ちになることを望んでいるわけではなくて、単に元気で暮らしてくれたらいいと思っているだろう、ということもある。もし出世やお金持ちになることを希望しているのであれば、それは明らかに自分の能力では不可能なことなので自殺したほうがいいということになるが、そうではないのであれば、生きていたほうがいいということになる。自分としてはもちろん、生きていることそれ自体が本当につらく、耐え難い苦しみの連続でしかないので、死ぬほうが百倍楽なのだが。家族が、自分に対して元気に暮らしてくれればいいと期待すればするほど、自分は自殺に踏み切れず元気がなくなり、不幸が重なっていくという一種のパラドックスというか皮肉的状況にある。
常に強い劣等感に苛まれ、かつ何をしても絶対にうまくいくことはないという強力な固定観念があるので、生きることはただ辛い。どれだけ辛いかは本当に筆舌に尽くしがたい。生きているだけで、針の山を無理やり歩かされているような気持ちがする。自分としては、生きるのに向いていない遺伝子や個体というのもやはり一定割合のエラーの一つとして生物群の中に出てくることはまったく不自然ではないし、それが自然淘汰として自殺することも合理的と思う。それができないからつらいのだ。毎秒毎秒、塗炭の苦しみ。それも何にもつながらない苦しみだから余計に苦しいと感じる。何か成功に向けての苦痛とか終りが見えている苦痛ではなくて、ただ出口のない、無駄な、理解もされない苦痛。
高校のときに倫理の授業で「絶望は死に至る病」という本を習ったが、自分はそれを聞いて、机に落書きで「死に至らない病」と書いた。そうかんたんに死ねないから絶望というのは更に強いのだ。もし死ねるなら、絶望はそこまでひどくはない。元の本の趣旨は、絶望というのは人を死に追いやるほどの強力なもの、という意味が込められていると習った。しかし自分の感覚としては、死ねないからこそ絶望は更に深まり、もっと強力に襲ってくる。夜が明ける前が一番暗いし、日が沈む前が一番太陽が輝いているように、死を手前にしたところが一番しんどいのではないかと思う。勇気があって飛び込んでしまえる人はいい。その度胸もなく、かつ自分をうつ状態から引き戻す力もなく、絶望的なリンボーで永遠に苦しみ続ける感覚。それが16歳か17歳のときだっただろうから、少なくとも12,13年以上、自分は絶望にかこまれ、死ぬより苦しい思いを毎日、これでもかというほど味わって生きてきたことになる。もちろんそんなことは自分だけではないからそれを美化するつもりはない。また、幼い心で何か死ぬことを美化していたという面があったのか、と今振り返って反省してみるが、けっしてそんなことはなかった。死ぬことは当時から最悪の選択肢であり、人生における敗北であり、弱者の逃げでしかないことはよく理解していた。それでもなお、あまりに人生は辛く、とにかく敗北でも弱者でも逃げでもなんでもいいから死にたい。考えというよりも、感覚として死ぬことを求めている。のどが渇いたり、性欲がたかまったりするのと同じように、本当にもう無理でつらすぎるから死にたい、なんでもいいから死にたい、という強い希死念慮。それが間断なく、24時間365日襲ってくる。もしそれが抑うつ状態や軽度のうつ病の症状であったとするなら、12歳頃の子供の時から今まで、人生の大半、3分の2程度まではうつ状態であったということになる。自分としてはこれがうつ状態とは思っていない。それが平常。
主に外形的な要因で、時折、希死念慮が薄くなる躁状態のときがあったが、これがまともな人間の普通の状態にあたるのだと思う。自分にとってはそれは本当に数少ない異常状態で、絶対に長続きすることはなかった。神様が慌てて帳尻を合わせてきて、その小さな成功を取り消して、その後には2倍、3倍の失敗と苦しみを必ず与えてきた。
心の問題から離れて、外形的なほうで、なぜ人生は常にうまくいかないのかという点について。人生がうまくいきさえすれば、外形的になにもかもが思い通りに行けば、自分の心の問題はかんたんに解決すると思う。劣等感でひどく歪んだ性格や強い希死念慮、うつ状態が平常状態というおかしな心理的な特性を考えてもやはり、希死念慮に至るきっかけは常に外形的なことだったと思う。例えば部活でもっと活躍できれば、体育で体がもっと動けば、受験がもっとうまくいけば、就職が失敗しなければ、もっと女の子にモテていれば、もっと友人に恵まれていれば。外形的な、というのはそういうことを指している。
もともと自分は能力も低く、外面から見てもさほど恵まれていないし、それらを磨くという努力も怠ってきた。それが一つの原因としてなにもうまくいかない、という無力感や絶望感をコツコツと毎日休みなく蓄積してきた。そもそも自分は長期的な努力が苦手だ。かんたんに言えば怠惰だ。それにもともと持っている才能や外見やスキルもないから、当然うまくいくはずがない。世の中は持って生まれたもので勝負しないといけないという意味で公平で、結果においては公平公正ではないから、当然勝者は常に勝ち続け、敗者は常に負け続ける。有るところにはなんでもあるが、ないところには、本当に、徹頭徹尾、なにもない。本当に何もない。もちろんそれが世の中のあり方だし、みんなそれを前提に生きている。それに文句をつけるのは筋違いだ。
また、2つ目の理由として、何かしらの才能のかけらとか持って生まれたものがあって、そこの上にきちんと努力をして、成功確率を5割とか、ある程度のところまで高めても、運によってそれが左右されることももちろんわきまえている。運というのはなかなかくせもので、見た目上の確率が5割でも、実際には10割負け続ける、いわゆる持っていない人も世の中にはたくさんいる。そしてこれまでの人生から統計的に考えて、自分がその一人であることも疑いようがない。絶対に、何をしても、うまくいくことは有り得ない。少しでもうまくいきかけると、神様が慌ててやってきて失敗にする。それだけを繰り返してきた。でも、もちろんこれも同様に世のあり方だから、それに文句を言っても仕方ない。それはつまるところ天に唾するということであって、この世そのもの、というのは変えようがない。世の中すべて、というのはそれを感覚で捉え、見ている自分自身そのものだから、この世のあり方に文句をつけるのは自分の命に対して文句をつけるのと一緒。
そして自分は、何をしても、決してうまくいくことは絶対にない、ということを何度も味わった失敗からかんたんに学び取り、また世の中のあり方に文句をつけることは自分自身に対して文句をつけることと同じであることもまたかんたんに学び、その場合、死ぬことが唯一の正解だということも学んだ。死ぬことが一番の正解という考えに最終的に至ったのが16歳か17歳のときだったはず。その時の絶望は今でもよく覚えているし、また残念ながら今でも考えはなんら進歩しておらず、その後何回もの挫折や失敗を繰り返して、むしろ確信は深まっている。
死んだ人だけが良い人間で、生きている人間はみんなどこかおかしい。頭がとても悪いか、人のことをなんとも思っていないか、とにかく人の心を持っていない人間。本当に良い人間はみんな自殺してしまった。狂ったような響きだが本気でそう信じている。
自分のような人間は生きていても何も為すことはないのだから、さらっと死んでしまうのが一番なのだ。本生まれてきたのが不幸だったと割り切るしかない。なにかうまいことや響きのいい言葉を言おうという意図ではなく、本心から、生まれてきていいことは何一つなかった。
人生で得たもの。毎日のようにやってくる鈍くて絶対に消えない心理的苦痛と、死ぬことが唯一の解決なのに死ねない無力感、というか絶望感。
ふと不思議に思ったのだが、
「地獄」って聞くと、あの血の池や針の山があって、鬼とか閻魔大王がいる「地獄」を思い浮かべるよな?
反対に「天国」って聞くと何を浮かべるかっていうと、赤ちゃんみたいな天使に連れられて、
そこには死んだ人(善人)がいて、みんな頭の上に輪っかがあって、幸せに暮らしてる、みたいなイメージじゃないか?
逆に仏教における天国ってのはないらしい(「極楽浄土」はまた「天国」とは違うらしい)し、
キリスト教における地獄がどんなものかはよくわからない(「地獄」と「冥府」は別らしい)し、
神道では「地獄」も「天国」なく「黄泉の国」だけど、これが一番しっくりくる気がする。
宗教ってやっぱり「死後」を考えるところから始まるんだろうなーと思うが、
逆に宗教にとって「死後」ってクリティカルすぎて、当たり前だけど答えはないし、宗派によって無限に説があって定まってない。
「生まれ変わる」のだそうだ
地獄で。
ということで、万が一それに慣れたら死んだり殺されたりして(鬼はリセット役を兼ねているのだろう)、
また脳も精神も新鮮な気持ちで針の山の痛みを感じることになるはずだ
よかったな
針の山を登らされ続けるのも血の池で溺れるのも業火に焼かれるのもそりゃ苦しいだろうし嫌だけど、それはそれとして慣れるんじゃないかと思う
自分で腕の皮思いっきりつねりながら「この痛みを不快と思うのはなぜだろう、塩味とかと同じようにフラットに受け止められないのか?」みたいなことを頑張って思うと一時的に痛みの不快感を消すことができるんだよな 感覚はあるんだけど、ただの感覚だ!と思い込むことで辛くはなくなるというか
それと同じことが地獄の責め苦の中ではできないってことはなさそう なんせ期間が長い 何百年も同じことをやらされたら、いくらキツい行為でも絶対どこかで完全に機械的に流すことができるようになる