はてなキーワード: あの世とは
ある程度段取り考えて計画的に人生を畳もうと思ったら、自殺しかないんだよなあ
数十万~数百万円くらい払ったら安楽死させてくれて、払った金の一部は鬱で希死念慮出ちゃってる人の治療に使われるとか
そんな感じの事業ができたらいいのになあ
半分の私は、日本のテレビコメディーや音楽でブラックフェイスを見るたび、見下されたような、馬鹿にされたような、そして表面だけを見られて、人間性を否定されているような気分になります。
これは明らかに違うよな
浜田達がやってるのは『ビバリーヒルズ・コップ』アクセルというキャラクター
キャラがわかるから笑えるパロディであって「表面的に黒人を馬鹿にしてる」とはにてもにつかない
この黒人作家は『ビバリー・ヒルズコップ』の日本での・あの世代での存在感についてよくわかってないんじゃないの
また、
百歩譲ってエディ・マーフィーにはなんかいう資格があっても一般黒人の肌の色なんか誰も触ってない
あとはアクセルというキャラクターが黒人にとって容認できない差別的キャラ・黒人差別に迎合したキャラ(オタクにとっての宅八郎みたいな)ならそれをつかうことで間接的に黒人差別に加担してることになるけどアクセルにそういう問題はない筈
正体不明の連中を集めて組織票させるよりも、一人の人間が独断と偏見で決めたほうが正しい結果になるのではないだろうか
そんな思いつきから増田を代表して俺が今年のアニメランキングを付けることにした。
客観的評価+個人的評価を独自の計算式に当てはめ独自の方法で算出。
点数は未公開のため傍から見ると100%個人的趣味で決まっているようにしか見えない。
1 メイドインアビス
2 少女終末旅行
3 宝石の国
4 サクラダリセット
7 けものフレンズ
8 キノの旅 -the Beautiful World- the Animated Series
9 エロマンガ先生
10 ID-0
11 正解するカド
12 GRANBLUE FANTASY The Animation
13 ノラと皇女と野良猫ハート
14 有頂天家族2
15 終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?
17 プリンセス・プリンシパル
18 天使の3P!
19 アリスと蔵六
20 武装少女マキャヴェリズム
21 カブキブ!
24 AKIBA'S TRIP -THE ANIMATION-
25 ナイツ&マジック
27 異世界食堂
28 小林さんちのメイドラゴン
原作付きアニメの至上命題である『原作の良さの延長線上を歩いた上で限りなく先までたどり着く』を今の技術でやれる限りやり遂げたひたむきさの勝利。ハードな世界観に対して可愛らしすぎるキャラクターを生き生きと画面内に描き出していた事が強く印象に残っている。メルヘンの世界で暮らしていそうな少年少女をひたすら酷い目に合わせてその高低差エネルギーで気持ちよくなりたいという原作者、アニメスタッフの熱い思いを毎週ひしひしと感じさせていただいた。
雪と鉄に覆われた物悲しい世界と、その世界をそっと照らすような少女たちの明るさや緊張感の無さのコントラストが愛おしかった。「月は空に空いた穴だ」とは誰の書いた物語の言葉だったか、あの世界において2人の少女はまさに闇に覆われた世界に天の光を漏らす穴のようであった。少女たちの瞳というファインダーを通すことで観測者を失った世界に再び光が当たる。廃墟探索の醍醐味とは、意味の失われた場所に意味が再び与えられることにあるのではなかろうか、そんな気持ちになれる作品だ。
傑作アニメーションである。好き嫌いを抜きにして、純粋に今年のアニメで何が一番かを語るのならばこの作品を挙げていたかも知れない。とにかく映像として綺麗なのだ。身体が宝石でできた少女という設定と、3DCGという表現技法が完全に噛み合っている事も素晴らしい。この作品のアニメ化に際してこの表現の仕方を選んだという時点で既に勝っているのだ。そして、勝っている状態から更に何度も貪欲に、ここでこれを選んだ時点で勝っていると言いたくなるような手を打ち、それらを尽く完成させている。今の時代だからこそこのアニメは美しいのだろう。3DCGがもっと当たり前になった時代でも、3DCGがまだまだ未発達な時代でもこの感動はあるまい。執念とアイディアと幸運の結晶だ。
ハルキ、リセットだ。決め台詞と共に世界がグルリと巻き戻る。オタクアニメの世界ではもはや食傷気味とも言える時間ループ、その圧倒的すぎる力に対して改めて向き合った作品。大いなる力には大いなる責任が伴う。その責任を前にして、揺れ動く思春期の繊細な心模様。それらを描ききるには、作り手にもまた繊細な神経が求められる。この作品はその点においてしっかりと繊細に作られていた。ド派手なハッタリと、揺れ動きやすく夢見がちとも思える心の機微、この2つが揃ってこそのジュブナイルであり、ラノベアニメなのではないだろうか。ふとそう思えてくるようなアニメだった。
一作目のアニメでは4クールかかった道のりを2クールで消化という超特急アニメ化。それでありながら、見ていて不満になるような所はほとんどなく拾うべき所はとことんまで拾っていた。それを可能にしたのは原作や、旧作アニメへのリスペクトなのではないだろうか。OPの演出に見られるパロディや最終話での挿入歌など、グルグルというシリーズが持つ歴史そのものを受け止めるかのような作品作りだった。無理なく無駄なく完成された丁寧な作品でありながらも、メタフィクション的なギャグファンタジーに欠かせない遊び心も詰まったナイスリメイク。
(俺の)今年のアニメのおおまかなまとめ
1話以上視聴:約130作品
(ヘボットのような2016年から継続しているアニメがあるためある程度の取りこぼしが予想される)
日本のアニメはディズニーになれないのかも知れないけど、日本には日本なりのアニメ作りがある。作中の動画のクオリティが視聴者にそう語りかけてくるような入れ子構造の有言実行が良い。アニメを題材にアニメを作るとメタの絡み合いが起きるのが面白い。
うーん。この豆腐の白は現代社会の闇を描いてますね。追いかけてくるアライさんはモラトリアムの終わりを、カバンちゃんがヒトではなくカバンちゃんを名乗り続けたのは、現代社会におけるアイデンティティの本質が人種や門戸ではなく個々人に宿ることのメタファーですなー。うーんこの豆腐は白いぞー。
半分新作、半分同窓会といった印象。思い出補正抜きで見た人がどう感じたのかが気になる。あとがきの国とかは原作を知らないと完全に置いてきぼりだし、全体としてファンサービスに力を入れすぎてたような気もする。俺はそれで別に構わんのでこの順位だけど。
山田エルフ先生の完璧な負けヒロインっぷりが素晴らしい。エロマンガ先生ルートに分岐し終わっている所から遅れて幻想的な告白シーンをかますという手遅れっぷり。ifルートに分岐でもしたのかと時系列の歪みを感じるほどに、完璧に山田エルフ先生ルートの回想シーンが挟まれている。でも既に勝者は決まっているから逆転は無理。気合の入りっぷりと、フラグ状況のギャップに負けヒロインの有終の美が宿っていた。
オリジナルSFアニメを1クールで綺麗に纏めている。設定の説明もしっかりされていたし伏線の回収もばっちり。笑いあり涙ありアクション多めでバランスよく必須栄養素が揃って完成度が高い。こういう肩の力入れっぱなしでも抜きっぱなしでもないアニメが個人的には一番見やすい。
ガチガチのハードSFかと思いきや恋愛至上主義の如きオチに開いた口が塞がらない。じゃあ納得が出来ないのかというと、あの解法が間違っているとも言えないのでなんとも。やたら恋愛シーンが多かった時点でこうなる事に気づいておくべきだったんだろうね。
なんでこの順位なのか自分でも謎。ただ、映像はよく出来てたし、冒険譚として王道を進んでいたし、キャラは可愛いし、OPも魅力的だったし、偏見の目で見なければ普通に良いアニメだった。
ヤギ。あれでやられた。
テンポがいい。中でもヒキや場面転換が上手かった。見てる側が迷子にならないようにしつつ退屈もしないようにコントロールしてくれたので、こっちもテンポを合わせやすかった。
王道、いいよね。
語の上手さに尽きる。
打ち切りみたいな終わり方だけどあれで良かったのかは自分には分からない。個人的にはスパイアクションを楽しませてもらっていたのでストーリーの方はそのための舞台装置だったと考えればいいかなと。殺陣と百合を楽しむ作品だったんですよ。
小学生は最高だぜ!
小学生は最高だぜ!!
ポン刀は絵になる。そこに尽きる。
歌舞伎っていきなり言われても何のことだがよく分からんから、まずは今風に丁寧に解説してみましょう。を作中でやって作品自体でもやった入れ子構造。自分はこういうメタ的な要素に弱いのかも知れない。
女の子を酷い目に合わせまくったらこれ以上酷い目に合わせられなくなった。だから過去編をやったり奇跡的に治したりしてまた酷い目に合わせるよ。いいねえ。やりたい事がハッキリしてるのは大事な事。
異世界チーレムの解体ショー。段々失速したのは個人的にはいただけないのだが、それも計算の内なのだとしたらまことに恐ろしい作品である。
古さを懐かしさと感じられるかどうかが試される。どっちかというと、懐かしさの正体が古さだと直視した上でそれを良しと思えるかどうかが試された。
異世界で僕だけのロボを作って飛空艇を倒そう。シンプルだけどいいよね。やりたいことがハッキリしてる。
おいしそうだった(小並感)
別に無理せず前と同じようにやればいいってことをスタッフが理解してたので勝ち。平常心平常心
言葉が足りなかったなと思ったので説明すると、ここでの「ディティール」っていうのは世界設定に関してじゃなくて表現にかかってる。(一応タイトルにも雑なのは表現だと書いたんだけど)
山本某が「表現についてのディティールが雑だから」怒っているのであれば、そもそもこの作品の本筋的には表現が多少雑であっても問題がないのではないかとか、いやいや意図的に雑にしているわけじゃなくて雑でも問題がない程度であるならテンポが悪くならない程度には表現を使うべきだろうとか、それなりに前向きで建設的な話ができるんだけど。
ご本人はこう言ってるんだよね。
僕が我慢ならないのは、せっかくの異世界小説なのに、異世界要素とエロ要素がからみあっていないってことなんだよ。 普通の現代社会で女子高生が売春をやってるのと、何ら変わらない。じゃあ現代小説にすりゃいいじゃん。
これは「世界設定についてのディティール」が雑だから怒ってる、と認識するのが自然な文章だと思うんだけど。
シャワーにしたって彼はシャワーなんていう文明の利器が異世界にぽーんと出てくるのは世界設定として雑だろって話をしてるわけで。細部まで設定の練られた異世界ならではの話であるべき、って話でしょ?
それそのものはまあ否定はしないけど、あの小説を最後まで読んだならJKハルは異世界で娼婦になったという作品は現実世界でも成り立つ、とはとても言えないと思うのよ。(序盤だけ読んだ状態での感想ならある程度は理解する)
あれは現代日本ではできない、というよりはご都合主義で雑な設定の異世界でないと成り立たない作品ではあるのね。その結果出来上がったものが面白いかどうかは別として。
だから「雑な世界でしかなりたたない話を書いてるんだから世界設定が雑になるのは当然だよね」「雑だけどその雑さこそが物語の核でもあるんだよね」って話。それに対して「そもそも雑な世界観の作品が好きじゃない」という話をするなら好みの問題だし俺は嫌いで結構なんだけど、こんな雑な世界設定に意味があるのか、ないだろう、って言われたら「実はこの先この雑な世界設定が意味を持ってくるんですよ。面白いかどうかは別として無意味なおためごかしってわけじゃあないんです。雑だけど」っていう。
だから「こんな雑な世界設定で異世界ものをやるなんておかしい」という主張は無理筋でしょ、っていう。これは「雑な設定の異世界」ものであって「異世界」ものじゃないんですわ、雑であることにあえて意味を持たせた作品なんですわ、っていう話かな。
そして「雑な設定の異世界」ものをまとめてなろう系とする新しいテンプレができつつあるのかもねっていう話でもある。(その中には雑な設定だからこそ意味があるものも、雑で意味のない異世界設定も、どちらも混ざっているんだろうけど)
そして世界設定が雑か否かっていう話と、世界を読者に伝えるための言葉が雑か否か、って同じ雑でも種類が違う雑なんだよね。
例えば「私はシャワーを浴びた」は雑な表現だけど、仮にあの世界においてシャワー的な機能を有した何かファンタジックな装置Xが存在したとして、特に何の説明もなく「私はXを浴びた」って表現されたらそれって読者がどんな形状のどんなものを想像すればいいか分からない、場面の想像が容易でないって点では同じぐらい雑だけど、世界設定としては細かい部分まで練られてるから雑とは言えない。
そして世界設定そのものが雑でもそこでシャワーという単語を出さずに「私は水浴びをした」とか「私は身体を洗った」くらいだと、まあそれでも思い浮かぶ風景が統一されないという点で見れば雑かもしれないけど、少なくとも解釈違いで怒り出すような人はシャワーと比較したらだいぶ減るよね。そういう解釈違いを起こさないように表現に気を使ってる=雑じゃない。だけど具体的にどうやって異世界で身体を洗うのか触れられてない以上、世界設定としては雑と言えるよね。
ということを前提に、雑にシャワーを浴びたって言えちゃうのは表現面で雑で、その表現面の雑さはメインターゲット層には特に問題なかろうけど、それ以外の人にも興味を持ってもらうことを考えたい、客層を広げたいなら直した方がモアベターだと思うよ、っていう話。
そしてそれに気が付くべきは作者よりも、これまでに色々と本を見ているはずの編集者であるべきだったのでは、という一点においては山本某の言葉は割と正しいんじゃないかって思ってるよ。
JKハルのシャワーうんぬんについてそれはもう十人十色の反応で見てて面白いけど、山本某の批判は無理筋ってのはその通りだとしてもディティールが雑ってのは言い逃れ用のない事実だと思うんだよね。
ただ、あの物語においてそもそもそんなディティールにこだわる必要性があったのか、ディティールにこだわることでクオリティが上がるのかっていうのはある。
異世界にシャワーがあるのが自然か不自然かは個人の感覚でしかないけど、シャワーという表現に対していわゆる現代的なシャワーからシャワーに類似した異世界独自の何かの可能性の示唆まで見てるとハルがシャワーを浴びる場面っていうのは人それぞれで想像する絵が違うんだろうなって感じるし、自分なんか結局その絵そのものが想像できない。
このへんのどんな絵を想像していいのか分からない、そもそも想像する必要すらないことを手抜きとか雑って言えばそれはその通りでしかない。
○○時代にはシャワーの原型があったとか、○○したら簡易シャワーなんてすぐにできるとか、そういうシャワーらしきものの話が出てくれば出てくるほど逆にシャワーの一言で説明をすませたのは雑だってことになる。不自然かどうかじゃなくて解釈の幅の広い単語を前振りなく出してきたって意味で。
けど、じゃあそれによって物語の本筋を理解することに影響があるかって言われたら全くない。本筋に関係ないことに説明の尺を取られてしまうとその分だけテンポも悪くなるわけで、小説は特にした方がいい手抜きとか読者が好きに想像していい部分ってのはある。シャワーはそういう部分だったってだけだ。
実際あそこの場面でシャワーの説明なんかされたらはぁ?ってなるだろうし。
でも、同時にそういう本筋と関係ないことがひっかかって先に進めない人がいるのもわかる。
なんか人気で映画にもなった「博士の愛した数式」って本があるんだけど、あれ興味があったけど本は手に入らなくて当時の通ってた図書館で聞いたら掲載された雑誌ならあるから貸し出してくれることになったのね。そしたら超すごい数学者で記憶障害があっても数学のことだけはスラスラ解けるみたいな博士が、一番好きだったはずの素数の話をする場面でその素数の定義を間違えるっていうクソみたいなミスしてたんですよ。本になったときに直されたみたいだけど。
まあ個人的にはふーんてなもんだけど、ガチ理系からはあれで完璧にしらけたという評価を頂きました。(そのほかの部分についても博士が理系じゃない人間が想像した理系って感じで違和感しかなくて血の通ったキャラに見えなくていまいちだったらしい)
他から見たらささいなことでも、特にそういった方面に知識があると、そういう些細なことこそ本当は違うのにっていう部分が気になって(まあ今回の場合は本当なんてものはないけど)話に入り込めないなんてことは普通にあるわけで、そういう観点から見たときに別にあのシャワーってシャワーである必要性は全くないんじゃないかと思うんだよね。体洗ったって話ができりゃいいんじゃない?と。
その本筋とは無関係の雑さによって顧客を逃していたとしたらもったいないと思うし、シャワーを体を洗ったと書いたところでそれこそ本筋の面白さに影響なんてないんだから、そこはそれこそそういったSF、ファンタジーオタクを見てきた編集者とかがアドバイスしてもよかったのかもしれないね、とは言えるかもしれない。
ただそれは「こうしたらもっとよかったかも」という話でしかないし、それが正解だとも限らないわけで、ダメな点では決してないと思う。
あとこれも本題関係ないけど「シャワーがあってもおかしくないだけの説明がある」(から雑じゃない)という反論についてはそれってあの世界は雑な世界ですと説明されていると言ってるだけで雑であることそのものの否定にはならないよなーと思う。雑であることそのものに意味があるとか雑であっても問題ないっていう反論はとてもよくわかるし同意するけど、説明されてるからセーフっていう論調は雑な説明と雑じゃない説明がある以上それだけだと雑であることの否定はできない。
俺は「相撲部」という言葉の意味をスモーブが知らないから免罪されるとは思わないなあ。
問題なのはハルの意図と行動であって、太っているからスモーブ、しかも本名を言おうとするスモーブを遮って「あんたはスモーブ」って言うのは暴力だと感じるよ。
あの世界にヤリマンを意味する「ぎ9あhのあがおじゃお」という言葉があったとして、それをハルが知らないとしても名前を名乗ろうとするのを遮って「お前はこれから「「ぎ9あhのあがおじゃお」ね」って言ってるやつがいたらやっぱりひーでなと思うもん。
あと千葉のやつはSMプレイかー。なるほどねー。言われてみれば確かにそうかも。千葉がどこまで理解してサービスを受けてるかにもよるけど、これに関しては千葉がいいって言うならアリかもね。
しつこくてすまん。増田だ。
さすがに『JKハル』について書く機会はもうないはず、と思ってたんだけど、とあるトラバをもらってそーだよねそこ引っかかったよねという気分になり、そこに触れずにいるのは誠実じゃないかもなーと思ったので最後にそれについて書きますすまん。ネタバレあるよすまん。
んで。
言いたいことはタイトルから察してもらえる通りで、ハルってスモーブに「スモーブ」ってあだ名をつけてそう読んでるけどそれって明確にハラスメントじゃないのん、ってことなんだけど。
とある会社でセクハラを受けていた人物が、別の場所では特定の属性をいじって批判を浴びたように、暴力的なセックスをされている時のハルはたしかに被害者なんだけど、スモーブを「スモーブ」と言っている時のハルって加害者なんじゃねーのかと。
『JKハル』の中核テーマのひとつに「人格や気持ちを尊重されず雑に扱われたり抑圧されたりすることへの痛み」があると思うんだよね。
男尊女卑が行き過ぎたあの世界では往々にして女がそうやって抑圧され、それはハルのセックスを通して描かれる。相手の気持ちを勘違いしたセックス(千葉)があれば相手の気持ちを無視した暴力的なセックス(2話のモブおっさん)もあり、一方で不器用ながらも相手と向き合ったセックス(スモーブ)なんかもある。
俺が『JKハル』に凄みを覚えるのは、そういったコミュニケーションの有り様を上記のようなセックスで描写することにとどめなかった点だ。缶蹴りんぐの少年たちのようにハルを友だちとして遇することができる子どもたちが、しかしいずれ男尊女卑の価値観に染まってしまうんじゃないかという危うさを描いたり、あるいはホモソーシャル的な圧力によって恋人を性玩具として差し出すことを強制され狂う男を描いたり、と問題の根深さや辛さをジェンダーに収斂させない慎重な手つきが素晴らしい。
男と一口に言ってもいろんな男がいるし、男も男社会特有の空気の中で辛い目に遭っている。
ジェンダーによって常に強者か弱者か加害者か被害者か決まっているわけではないし、誰しも時に加害者たりうるし、ある加害者が別の側面では被害者かもしれないという可能性から目を背けない。そうやってキャラクタを一個人として目配せできるところがあの作品の秀逸なところだ。
ハルは元いた世界の教室で千葉のことを「キモオタ」と呼んでいた。
「俺や、俺の友だちのこと前からそうやって呼んでたの知ってんだよっ。俺らのことをネタにしてたのも知ってたっ。自分たちと違う生き物みたいに俺らのこと見てたよね。でもあそこ、おまえらだけの教室じゃねーし! 俺らのもんでもあんのに! ハルは、いっつも真ん中でヒロインポジで仲間に囲まれてくっだらねーことでゲラゲラでかい声で笑ってっ、モテてっ、楽しそうにしてたよな!」
ここにおける千葉の怒りは正当だ。千葉やその友人を「キモオタ」と言ってしまうハルはただのいじめっ子であり、徹頭徹尾なんの言い訳も許されないレベルの悪だ。
とはいえこれは物語の中でちゃんと消化されている。ひとつは千葉本人がちゃんとキレてるということ。ハルは千葉の主張を受け容れないが、少なくとも千葉の本音をここで知る。象徴的な意味でハルは「このキモオタが」と殴り、千葉が「えらそうにすんな」と殴り返している。最低ではありながら最低限のコミュニケーションが取れている、と俺は見る。
また、こういう千葉に対するハルの態度を、ルペちゃんがチクリと指摘することによって物語の中に批判的な視座を設けられているところが良い。
しかしスモーブを「スモーブ」と呼ぶことに対してだけは、こうやって弁護する余地が作中にない。千葉と違ってスモーブがクッソいいやつなだけに、なんでこんな呼ばれ方をされ続けにゃならんのだという気持ちにもなるし、何らか苦言を呈する奴もいない。ハルも悪いと思っている節がない。だからモヤモヤだけが残る。
これが別の作品だったら何とも思わなかっただろうが、『JKハル』はこのあたりを中核的テーマに据えている作品だけに、このハルに対し何の批判も向けないのは明確に瑕疵だと思う。
俺としては、ここで千葉が「ハル、お前がダメなのはそういうところだ、スモーブってひでーだろ、そういうこと言うのやめろや」って怒れば良かったんじゃないかと感じている。千葉なればこそ実感を伴って批判できるわけだし、千葉が他者に共感を示すという点でも意味があったはずである。
ハルがすぐに「スモーブ」呼びをやめられるかというのはともかくとして、物語の中で批判しておくのは重要なことだ。
この主張を瑣末、あるいは言いがかりって感じるひともいるだろう。しかしさっきも言ったように『JKハル』は「人格や気持ちを尊重されず雑に扱われたり抑圧されたりする痛み」を描いた作品だし、「そういうのって変えていけたらいいよね」っていう方向性を持っているだけに全く指摘せずにやりすごすのは違うんじゃないかと。
ハルはある種の超人であっても聖人ではないし、嬢仲間と裏で客の批評をしたりする卑近さが却ってキャラに存在感を持たせているしそこが良さでもあるのだが、スモーブを「スモーブ」呼びしたり、ルペちゃんが千葉に土下座させるくだりだけはどうしても共感できない。
セックスを一種のコミュニケーションとして描いているという部分はあるかもしれないけど、別に「暴力的で抑圧的なコミュニケーション」ではないと思う。
スモーブ(正直このあだ名はどうよと今でも思う。ずっとスモーブから変わらないあたりがハル自身がずっと一方的なコミュニケーションしかしてなことを示しているように感じる)とのセックスが一方的だったとは思わないし、銀髪のあの人とのセックスはむしろハルの方から懇願してだったし。
「あたしだって愛にあふれたセックスがしたい!」みたいなことをハルが言ってたんだけど、それは娼婦だからそれができないんじゃなくて愛のあるセックスをするための努力が圧倒的に足りてないからできないだけだと思った。周囲の酷い環境ももちろん理由だけど、それが解消されてもハル自身が変わらないと結局無理でしょって意味で。
結局あの世界の人たちって誰もかれもが一方的なコミュしかしてなくて、なんて一方的なんだと憤ってるハル自身が自分はもっとマシだちゃんと周りを見てるっていいながらだいぶ杜撰で、そういう部分こそが面白いんだけど。
てっきりみんなイーガン程度じゃ満足できないって事か、読むのに常時計算しながら情景を把握するのなんて楽勝って事か凄いじゃないか、って思ってたんだけど。
まさかの未読なのか。
ディアスポラ程度ならまだいい。白熱光も引っかけに引っかかったけど二回目でわかる。だが直交三部作はあの世界でこの世界と同じような熱力学を成立させる方法が未だに思いつかない。同レベルに面倒なシルトの梯子はどこら辺がヨタなのか気付けば意外とするりといける。
訳出の時期からして直交三部作は読んだ上で増田に書いてるのかと思ってたよ。
ちなみに最新作の「Dichronauts」は更にギアが上がり2+2次元になり、真面目に計算して読む作品になってる。回転に対して不変なので、作中の情景を感覚的に推測するより計算した方が馴染みやすい。
https://togetter.com/li/1182893
異世界を描くにあたって現実世界と違う文化や小道具を出してそれを表現するのは効果的だ。だから『JKハル』においては書き出しでコンドームが草だということにハルが草を生やしている。
あたしがこっちの世界に来てまず一番ウケたのが避妊具が草ってことで、「やべ、草生える」って爆笑したら、「生えませんよ」とマダムは真顔で言った。
「スキネ草も知らないの? もうかれこれ30年も前に錬成されてこの辺じゃどこの薬草屋にも売ってるけど。ずいぶん田舎から出てきたのねえ」
スマホどころかネットも電話も、そもそも電気もねぇ車も走ってねぇの世界の人によりにもよって田舎呼ばわりなんて、東京のみんなマジごめん。都市辱だよね。
避妊具が草という異世界の文化が示され、ハルが「草生える」という日本のスラングで応じる。するとマダムに田舎者扱いされてしまう。異世界より文明の進んだ東京から来たというのに! この異世界と現実世界の文化が二度にわたって対比される冒頭は、普通に読めば相当ウィットに富んでいると思うが、しかし山本はここを無視してシャワーがあるというだけで異世界的想像力に欠けていると文句を言う。難癖もいいところであろう。
問題は書き手の側が、「異世界は現実世界と変わらない世界でなくてはならない」という不思議な信念に捕らわれてるってことなんだよな。そんな意味のない縛りをはずしたら、もっと自由な話が書けるはずなのに。
「そんな意味のない縛りをはずしたら、もっと自由な話が書けるはずなのに」と言いつつ、他作家をそんなマイルールで縛ろうとし、不自由を強いてくるのは何なんだろうか? 自分が勝手に自分の作品にそれを課していればいいだけであって、それをもって「想像力貧困な小説」だと他作家の作品を批判するのは筋が悪すぎる。
山本は「わざわざ異世界に行く必要ないんじゃね?」と言うが、『JKハル』が異世界に行くのはもちろん理由がある。
ひとつは、「過酷な男尊女卑の世界で東京JKが娼婦となってサバイブする」というシチュエーションのためだ。これを現実世界でやろうとすれば両親の存在や児童養護施設といった社会的セーフティネットを何らかの形で消化しないといけないし、ハルは18歳未満なのでソープで働けないという問題もクリアしないといけない。自らウリをやるか非合法施設で働くとかそういう話になるが、そんなことを話の俎上にあげれば『JKハル』の主題からどんどん離れていってしまう。『JKハル』が描こうとしている話をやるためには誰もハルを助けてくれない異世界に放り出されるのが手っ取り早くかつ妥当なのだ。
理由はもうひとつある。それは『JKハル』が異世界転生モノへの批判と愛を内面化したメタ小説だという点だ(と書くと、「異世界転生モノを馬鹿にしているのか」とか「異世界転生モノをメタったなろう小説はいくらでもある」とか怒り出すやつがいるが、別にそういう話はしていない。『JKハル』もまたメタ異世界転生の要素をもった作品で、その消化の仕方が独特だというだけである)。これは読めばわかるし、既に指摘した感想なり論考がネットにあるため詳しくは解説しない。
せっかく異世界なんだから、魔法を使ったすごいセックスとか、非ヒューマノイド型のモンスターとのセックスとか、いくらでも突拍子もない想像力あふれるセックスが描けるだろうに、何でこんなつまんない当たり前のセックスばっかりなの?
これこそ山本弘の「想像力が貧困」で、かつ『JKハル』が描こうとしているものをまったく理解できていないことを自ら告白する一文であろう。
『JKハル』を読めば誰もが当たり前に理解することだろうが、あの作品は別に「魔法を使ったすごいセックスとか、非ヒューマノイド型のモンスターとのセックス」を描こうとしていない。そんなことを言い出してしまうのは戦国時代にタイムスリップする話は常に現代兵器を持っていくべきなどと言うぐらいおかしな話であって、別にそういう話があってもいいが、全ての作品がそうあるべきと言ってしまうのはただの暴論だ。
『JKハル』におけるセックスは、暴力的で抑圧的で一方的なコミュニケーションの象徴である。男尊女卑の行き過ぎたあの世界で、多くの男性客はハルを含む娼婦に暴力的なセックスをする。実際に暴力を振るわれることもあるし、もっと屈辱で悲惨なことさえ起こる。しかしハルやあの世界の女性たちは挫けず前向きに生きていこうとする。あの作品にセックスが描かれるのはそういう意図から発したものであって、かつその構図を純化して描くための異世界でもあるのだ。
また、ここで言明しておきたいが、男は常に悪者とかそういう話ではない。
『JKハル』が批判的なのは、他者を理解しようとせず一方的なコミュニケーションを取ってしまう者であってそこに男女の区切りはない。
物語の序盤では話を聞こうとしないシスターにハルがめんどくさそうな態度を取るし、何よりハル自身が、もうひとりの主人公とも言える千葉に対して無理解であり、そのことを別の女性キャラクターに指摘されるくだりがある。『JKハル』が主人公や女性をひたすら称揚し、男性であるというだけで批判する話でないことは、念のためここに付記しておく。
いつ異世界転生小説は現実逃避小説であると決まったのか。またそうであったとして、異世界を舞台に現実と戦う小説を書いてはならない理由はなにか。
「SF」の古典に未知なる想像力を描いた作品があることは疑いようのない事実だが、それをもって「SF」は常に未知なる想像力を描くべきというのは暴論だろう。
また、未知なる想像力を描いた「SF」や現実世界とは違う異世界描写をした「ファンタジー」が素晴らしいというなら作品で訴えてこそ作家ではないのか。それを広く世に示す作品が書けず、あまつさえ他人の作品の狙いや意図を理解せずに古典的名著を棍棒にしてただ殴りかかるのであれば、山本には小説家としての矜持と能力がないと言わざるをえないし、作家としての筆を、今すぐにでも折ったらいいのではなかろうか。
それにしても、一方的なコミュニケーションに批判的な視座を持つ『JKハル』に対し、作品を理解しようとせずマイルールを押しつける山本弘は、作中2話に出てくるモブおっさんそっくりで、非常に皮肉が利いている。
前提として、現世代も次世代も、これからの越前リョーマもすべて応援すると心に決めた者が書いています。決してアンチ等ではありません。
2年前の今日、私はテニスボールの弾む音と軋むシューズの音を聞いていた。
人々の熱気なのか暖房なのか、少しだけあつい会場。脱いだコートは膝の上に、手には双眼鏡。ざわざわとたくさんの声が聞こえてくる。前後左右、上下からも様々な声が聞こえてくる。どれも、今から始まる試合を楽しみにする声だった。
キュッ、キュッ。パコン、わぁっ。
聞こえてくる音と歓声に、人々は口を閉ざす。ごくん、唾を飲み込む音さえ聞こえそうなほど静かになったとき、幕が上がる。
テニミュにはまったのは、3rd不動峰公演。もうずいぶんと前のように思える。
しかし長い歴史から見れば「最近」なのだと思うと、このテニミュがいかに長く続く作品なのか改めて実感させられる。
3rdシーズンという3度目の夏を迎えた王子様たちを、わたしは好きになった。
座長である越前リョーマを演じる古田一紀という俳優((現在は声優の道を選んでいる。が、過去の話をするため「俳優」と表記する。))は、俳優として、リョーマとして、素晴らしい方だった。不動峰から卒業した氷帝公演まで、彼はいつだってかっこいいリョーマとして駆け抜けていた。あの青いジャージがよく似合い、帽子の下の瞳は冷静に見えて試合ではギラギラと獣のように鋭く光るところが、私は好きだった。
テニスの王子様は、心の支えといっても過言ではない存在だ。幼い頃から読み続けた物語を現実にされたとき、私のこころは震えた。
たくさん好きなキャラクターがいた。しかし、舞台の上にいる越前リョーマに心を奪われ、気付けば彼だけを追っていた。まさに恋に落ちたような感覚だった。彼しか見えない、なんてそんな馬鹿なと思うが自分の身に起きると「こういうことか」とすとんと腑に落ちた。
椅子の上で声を殺し、みっともないほど泣いた。視界が歪み立てない私を、両脇で支えてくれる人のおかげで外にでた。
大千秋楽後の空気は、むかつくほど清々しく感じた。嗚咽を漏らし、涙をハンカチで拭った。胸に大きな穴が開いたようだった。
もう二度と、越前リョーマには会えない気がした。
しかし物語は続いていく。全国優勝を目指す青学は新しい代となる。
きらきらとした、未来を見据える瞳。泥臭さより、どこか清かな印象を受ける。
遠くから見たのに、別人だと分かった。
動きだ。動きが違うのだ。
当たり前だ、別の人間が演じているのだから。しかし、わたしは覚えてしまった。目に焼き付けてしまった。あの指先まで「俺が越前リョーマだ!」と訴えるような動き、あれが好きだったのだと痛感させられてしまった瞬間だった。
それが、悔しかった。
歌も、動きも、表情も、目の動きも。全部が好きだった。
しかし時代は変わる。世界は続く。彼が渡すバトンをどうにか見届けたいと思って次の世代を、青学を観に行った。
けれどだめだった。
思い出してしまうのだ。あの堂々とした笑みも、ぎらつく瞳も、目をぐわっと開くところも、生意気そうな声も。
全部が私にとっての「越前リョーマ」だった。
必死に穴を埋めようと、忘れようとすればするほど、記憶の中の「越前リョーマ」が笑うのだ。
「ばいばい」
もはや、呪縛だった。
しかし前世代のように全通をしたり地方まで飛んだりすることはしなくなった。
「行けたら行けばいい」
そう思ったら、チケットを取らなくなった。
まるで中毒だった。あの楽しい記憶が、狂うほどに情熱を注いだ世界が、またあの世界へと誘うのだ。
そして見に行くたびに、苦しくなる。
先代たちの演じた姿が大好きだったが、時間と共に卒業を理解し、舞台の上の彼らを愛することが出来た。
けれど、どうしても越前リョーマを好きになることができなかった。
現在越前リョーマを演じる俳優は、きらきらとしている。それも越前リョーマだ。彼が演じるリョーマも、もちろん好きだ。好きなのだ。
けれど、つい目をそらしてしまうのだ。あの輝きを、私は直視したいのにできない。
それが申し訳ない。
ややこしい、苦しい、そう思ってまた彼の誕生日を迎えた。
苦しくてたまらない感情を抱えて、そしてテニミュから離れたことで虚無感がいっぱいになり、久々にクリスマスに何もないことを実感してさみしさを感じた。
チケットを、久々に探した。
ある。
私はまた、あの輝きから目をそらすのか。
そう思うと、私は席に座るべきではない気がするのだ。
けれど、私にとっては大きな光だった。
だからこそ「好き」以外の感情を持ち込んで、あそこに座ることは許されない気がした。
私は、いつになったら「越前リョーマ」を再び愛することが出来るのだろうか。
虚無感でいっぱいでつらいので、ここに書き連ねた。
オタクを辞めたいオタクが、中途半端にオタクを辞めたら毎日が虚無感でいっぱいになるんだとやっとわかった。
早く楽になりたい。
早く、越前リョーマに会いたい。
苦しい。
少女終末旅行は素晴らしい。さっき最終話を見たばかりのワタシからすればこれはもはや自明なのだが、もしかしたら明日朝起きたワタシにとってはそれはもはや説明を必要とするような感覚かも知れない。だが、ワタシはこの気持を忘れたくないので、一度言語化してみる。言語化することによって記憶は記録となる。記録を残すと思い出はより高い精度で再生する事が可能になり、明日以降のワタシも少女終末旅行の素晴らしさを忘れないでいることが出来る様になるのだ。話が逸れてきた。興奮しているようだ。落ち着け。
落ち着いた。続きをかく。
ここ数話の少女終末旅行を見てワタシの記憶に蘇ったのは2つのアニメだ。1つはけものフレンズ、もう1つはテクノライズ。どちらも素晴らしいアニメだ。片方は滅びた後の優しい世界を描いた作品であり、もう片方は滅びゆく優しくない世界を描いている。少女終末旅行の世界は優しくない世界の名残が各所に残る優しい世界だったからこの両者を思い出したのだろう。1つ間違いなく言えるのは、滅びるとは美しいという事だ。そして、滅びていると滅びていくが同居する、滅びかけの世界はとても美しいという事だ。
少女終末旅行の世界は滅びているし、滅びかけているし、滅び続けている。そして少女終末旅行の世界には世界を滅びから救う道が残されていない。人類の世界が滅びることで、別の新しい世界が生まれていると捉える事はできるが、人の世が滅びることはもはや避けられない。世界に残されているのは思い出と、ほんのわずかな人間であり、そこから人類の世界が蘇る未来はもはや何処にもない。
滅びている世界の中で、残されているのは人類がかつてそこにいた記録だけだ。だが、それらの記録を人類の記憶として再生するための人間がもはやいない。観測者不在の世界において記録はただのデータであり、記憶に書き換わることはない。そこにオッサンやオネーサンや、2人の少女がやってくることで、かつて人類がそこにいた世界を生きる日々の思い出が生まれていく。この世界に人が居たことを証明する事が出来る存在はもはや残り僅かだ。
歯車が、兵器が、工場が、食料が、機械が、記録が、人類がこの世界にいた証拠がこれほどまでに溢れていて、自然を上から覆っているのに人間はほとんど残っていない。矛盾だ。人間の為に存在するものが世界を覆っているのに、人はもうほとんどいない。矛盾ではない。人間の為に存在するものは、人間が存在していたことは証明しても、それらを築き上げた人間たちが今もそこにいることはまでは証明しない。
あの世界は屑鉄色だ。しかし、その世界で描かれる物語は暖かく柔らかい。それはそこにいる人間が柔らかいからだ。つくみずデザインの丸顔はとても柔らかい。饅頭を頭に乗せたような顔をしている。ちーちゃんはとても柔らかい。ユーもとても柔らかい。2人の関係も柔らかい。出会う人達もまた柔らかい。あの世界はあんなにも固くて冷たそうな物ばかりが溢れているのに、その世界を観測する人間が柔らかいからあの世界は柔らかい。
屑鉄色の固くて冷たい世界が、それを眺める人間によて柔らかくなっていく。その過程があそこにはある。
少女終末旅行が何故素晴らしいのか。それは夜に見るのに相応しいアニメだからであろう。それも週末の夜に見るのにとても素晴らしいアニメだ。週末にやっているという事が素晴らしいのかも知れない。放送時間はとても大事だ。平日の夜に見る深夜アニメは、次の日が平日であるという気持ちから入り込めない。平日への逃避の気持ちから深く入り込めるという意見もあるだろうが、それは入り込み方として濁っているとワタシは考える。これはワタシの個人的な意見だ。平日が終わった金曜日の夜に、一週間の仕事の疲れを抱えながらテレビを見る。季節は冬だからもう周りは真っ暗で部屋は少し寒い。だけど心は穏やかだ。膝に載せた電気毛布のほのかな暖かさと柔らかさが肌にしみる。そしてアニメが始まる。人気のない道をケッテンクラートが進む。寒空の下か、暗い工場の中を。少女達が現れる。途端に世界は晴れやかになる。晴れやかなまま穏やかに物語が進み。OPが流れる。とても心地よい。そしてCMがやってくる。
物語が再び始まる。冷たい雪景色に轍を残して軍用の半装軌車が進む。少女達が取り留めのない会話をする。雪が鉄を覆う景色は灰色と白の二色だ。しかし、その世界がまとう空気は春の並木道を思わせるような暖かさだ。世界は温かい。世界は冷たい。硬い。柔らかい。矛盾した感覚。滅びゆく世界。未来のある少女。少女2人の旅。未来のない世界。矛盾。心地よい。コタツに入ってアイスを食べるような。心地よい矛盾。
物語は進む。世界の真相は少しずつ暴かれる。暴かれているようで、暴かれていないようで、暴かれていく。世界の滅びの核心が近づく。世界が滅んでいても、2人の旅が楽しいことが確信に近づく。世界は滅んでいる。間違いない。もう駄目だ。救いはない。2人一緒の度は楽しい。もう疑いの余地はない。救いはある。
滅びの美学で少女の愛らしさをラッピングしているのか。少女の柔らかさで破滅の寒さを包んでいるのか。相互作用だ。相互に作用しあっている。混ざることのない2つが混ざり合わないからこそ引き立て合う。深夜アニメだ。深夜アニメとはこうあるべきなのだ。言い過ぎている。だが他の言葉で表現したくはない。真夜中に起きているような年齢の人間が、子供の見るような絵柄の番組を見る。内容は子供でも分かるような気がするが、大人の方が楽しめるように作られてもいる。難しい話をしているようにも見えるし、幼稚園児向けのおとぎ話みたいにも見える。深夜にやるアニメ。特別な時間。その特別がこの所は失われてきた。大人向けのおとぎ話、少し背伸びしたい子供のためのカルチャー。オタク向けの作品。オタクでない人間の視聴にも耐えるような作品。本当は誰のものなのか誰にも分からなくて、きっと誰のものでもない。子供は寝る時間。大人も寝たほうがいい時間にやる番組。狭間の世界にある狭間のテレビ。柔らかくて、冷たい。暖かくて、硬い。心地よい矛盾。その手触り。思い出せた。ワタシが深夜アニメを好きな理由。言語化しきれなかったけど、せめて言語化出来た範囲までは記録できたはずだ。何故ならこうして言語化したのだから。
とりあえず言いたいこと。ちーちゃんが凄い可愛い。ユーが可愛いのは、ユーがちーちゃんを可愛いと思っているからだと思う。相互作用。
初めに書いておくと、そいつにしかそんな事を思ってないという事。
なんでこう思うようになったのかというと、バイクで一般道を規定速度で走っていたのだけど
この道路、規定速度で走っていても飛び出しが危なくて事故が多い場所だから注意して走っていたんだよね。
そこに追い越し禁止を追い越してきたバイクが居て、危うく転倒しかかったんだけど
こいつが私の前を走っていた車も追い越そうとして前の車に煽りかけてるの。
こういうヤツ死ねばいいのに…って思ったのね。
それで、それを友人にいったんだけど「死ねとか考えるの危ないよ」っていうから
こっちは大怪我どころか下手すれば死ぬかもしれなかったんだよって言ったんだけど
こっちが死んでいた場合に、事故って死ねとも思うことすらできずに人生が終わるってのに
こっちがそういう事を考えることはおかしいって言われるのは、なんか納得いかない。
じゃあ何も考えずに死ねばよかったん?って聞くと、ダンマリ決め込んで何も言わないって
言い過ぎって言う人もいるかもしれないけどさ、実際に自分が死の手前だったら
おとなしく死ねるのかよって思うのね。
今外国とかで使われてる安楽死の方法が実は全っ然楽じゃない、めっちゃ苦しいってことが判明して
それどころか楽な死に方なんて無くて、全ての死が最高に苦しいものだって分かったら
もう尊厳死とかの話もなくなるのかな
この世にいる限り、逃げても色んなものが追いかけて来るイメージしか湧かないからな
あの世までは仕事も人間関係も借金も追ってこれまい、と信じたい
そうでなきゃ救いがなさすぎる
ババア 102歳。もう一回言う。102歳だ。
年金を介護費用、医療費に投入後、余った全ての金は自然健康食品(これがめちゃくちゃ高い)に全額投入して、毎日すさまじい量の薬を飲んでいる。いや食ってる?
介護や医療だって負担額なんてわずかなうえに年金から出ているだけで、あとは全て税金で負担。このババアが薬で延命され生かされるのに月120万くらい税金が使われているであろう。
もうこんな薬漬けにして無理やり長生きされたら、いつまで介護しなければいけないのかわからないし、こんなことが許される日本の社会が気持ち悪すぎる。
その影でこれからの世代は負担を強いられ日本は社会保障がまったくない国にまで堕ちてしまった。言葉とおり希望のない国だ。
ババア本人はそんなこと考えたこともないだろう。これからの世代のことなんかおかまいなしだ。これが倫理的に間違っているなんて微塵も思っていない。未来に税金を使おうという発想がある欧州の価値観が羨ましい。いつまで長寿はすばらしいって言っているんだ?医療技術が発展してなかった時代の価値観を引きずりすぎ。
何が悲惨って、未来ある人間の社会保障が削りに削られ、年金は消失。実質死ぬまでは働かなければならなくなった。
この薬漬けのババアを甘やかす親父に「いい加減にしとけ」とキレたら、今まで年金やら税金やら婆ちゃんは払ってきたし、そういった積立があると馬鹿なことを言いやがった。
このババア、超低収入でろくに税金も払ってこなかったのに55歳から年金もらっている。もう未来の子供何人分の将来を奪ったであろうか?どれだけの人間の犠牲の上にこのババアの延命が成り立っているんだ?
天国とか地獄なんてものは信じないが、あれば未来を顧みず社会に負担だけ与え続け利己的に生にしがみつくババアは地獄に落ちるべきだ。
これから日本で生きていく子供が不憫でならない。そのくせ国は子供を作れだの馬鹿なことを言う。何が悲しくてこんな国で子供を産まなきゃいけないんだ。まずは安心できる社会を作ることが先だろ。
長寿大国とかいっているが、不名誉極まりない。ただの「延命大国」であり、寝たきり老人率も寝たきり年数も世界一という超社会的負荷の高い国で、世界一社会に持続可能性がないとも言える。
とはいえ、安楽死のない日本の社会では、こんな気持ち悪いことが日常的に行われているんだろう。
役人は天下り先を確保しておきたいからこれをまったく是正しようとしない。処方量に上限がないのって日本くらいじゃないか?製薬会社との癒着がひどいからな。
限界ギリギリまでこんなくそ気持ち悪い社会が続くと思うと吐き気がする。さっさと破綻してほしい。あと20年か、30年か。