はてなキーワード: cGとは
ずっと心の中にあったもやもやが、北条加蓮Pの書いたエントリーを読んではっきりとした。
私は本田未央ちゃんを担当しています。シンデレラガールズの顔の一人で、パッション代表で、太陽の擬人化のような彼女に一目ぼれしてから、ずっと未央ちゃんがトップになれるように応援してきました。
去年惜しくも安部菜ちゃんに破れて以来、今年こと、2019年こそ、未央ちゃんをトップに導こうと決意して総選挙を迎えました。
炎上をネタにするザコメンタル。見た目もオタクが好きそうな感じで、これは人気が出るだろうな、と思いました。私はPaが好きなので、Paアイドルに人気キャラが増えるのは良いことだと思ったのです。
けれど総選挙が来て、中間発表があって、その考えは変わりました。
夢見りあむちゃんは中間発表でPa二位総合三位と言うとんでもない場所に立っていました。
おかしい。どうしてあなたがそこにいるの?そこにいるべきなのはあなたじゃない。そこにいるべきなのはナターリアちゃんで、梨沙ちゃんで、藍子ちゃんなのに。今までのシンデレラガールズを背負ってきたキャラクターなのに。いきなり出てきて、界隈をかき回しただけの、”浅い”アイドルが立っていい場所じゃないのに。
夢見りあむちゃんをシンデレラガールにと言う言葉をいくつも見ました。
アイドルに対して申し訳ないと思わないんでしょうか? アイドルたちの決意を見て、投票セリフを読んで、それでも夢見りあむちゃんをシンデレラガールにしようと思う人に、Pを名乗る資格はありません。
『プロデューサーにパワーをもらえば、どこへだって飛んでいけるよ!アイドル本田未央を、その目でしっかり見ててね☆』
未央ちゃんは私たちをいつも応援してくれました。本当はPである私たちが応援するべきなのに、いつも笑顔で私たちの背中を推して、手を引いてくれました。
そして未央ちゃんは私たちの応援に、全力で答えてくれました。君への詩のセリフを、私はずっと忘れることはありません。
『……いつも私を応援してくれて、ありがとう。今日ここに立てたのは、君のおかげだよっ!だから、この姿を目に焼きつけて……次の空へ、一緒にいこう!』
私は未央ちゃんと次の空へ飛んでいこうと決めました。一緒にどこまでも、未央ちゃんの姿を見ていようと決めました。
だから、夢見りあむちゃんに票を入れているPは、Pではありません。
本気で応援している人もいると思います。夢見りあむちゃんを担当して、彼女に本当にトップに立ってほしいと思っている人も、数は少なくともいるはずです。
けれど夢見りあむちゃんに投票している人のほとんどは愉快犯です。夢見りあむちゃんを総選挙をひっかきまわすだけの道具にしか見ていないようにしか見えません。というか、実際そうでしょう。彼らは夢見りあむちゃんに夢を見ているのではなく、自分の夢のために夢見りあむちゃんを利用しているだけです。そんな彼らにPを名乗る資格はありません。
夢見りあむちゃんは何も持っていません。
アイドルになりたい理由はチヤホヤされたいから。やる気もなく、何も頑張らずにトップアイドルになりたい。自分を卑下して、取柄は胸が大きいだけ。
そんなアイドルがいてもいいと思います。シンデレラガールは多様性のゲームです。双葉杏ちゃんもそうでした。
けれど、彼女には歴史があります。初期からシンデレラガールズの人気アイドルとして活躍してきた彼女がシンデレラガールになったら私は納得できます。
夢見りあむちゃんにはそれがありません。私たちは彼女の背景も、歴史も、何も知らないです。彼女はただの空白です。あなたたちはただの空白に投票券を投げつけているのです。他に美しく色づいたアイドルたちが、あなたたちを待っているというのに。
私は夢見りあむにこのところ振り回されている。夢見りあむが好きとか嫌いとか言う話でもないし、ましてや話題になっている『夢見りあむが許せない』、『私の「夢見りあむが許せない」』のような許す許さないの話ではない。(両方とも読んだけれど、あまり共感できなかった)精一杯に感情を言葉にするなら、いま、私は夢見りあむと、彼女に投票するひとたちがとても怖い。
はじめにいう。私は北条加蓮Pだ。今まさにシンデレラガールズ総選挙で本田未央とCGを争っている、北条加蓮が大好きだ。
加蓮が出てきた当初はそこまで気にもとめていなかった(ギャルっぽい容姿にそこまで惹かれなかったのだ)ので育成もほとんどしていなかったのだが、イベント完走SRとして出てきたアニバーサリーゴシックの加蓮を手に入れてから、なんとなく良い子だな、かわいいなと好きなキャラになっていた。
それから、だんだんとかれんのイラストや漫画を追ったり、同じ担当同士でかれんについて話したりもした。とくに気に入りのジューンブライドやクリスマスのカードでのかれんの笑顔はなによりもまぶしくて、かわいくて、最高に好きだ。トライアドプリムスとしてのかれんや、みかねえとのコンビとしてのかれんなど、いろんなアイドルと触れることでまた違う一面が見られるのも楽しかった。
それに、かれんPの多くは思っていることだろうけれど、かれんにはわかりやすく「ストーリー」がある。掻い摘んで説明すると、幼い頃は病弱で籠りがちで、テレビ越しに見るアイドルに強い憧れを抱く。努力とかキャラじゃないんだよね、という初期のセリフはその裏返しでもあった。
そんなかれんが、アイドルになってステージでの成功をおさめて、夢は叶うと笑う。とあるカードには、「大丈夫、あなたが育てたアイドルだよ」というセリフがあって、一緒に歩んできた月日を感じさせてくれるような、プロデューサー冥利につきるアイドル。それがかれんの持つストーリー性だと思う。
(かれんに限った話ではないが、デレステコミュではひどい書き方のものもあるので、ライターによる当たり外れはあるけれど…)
こう簡単にまとめてしまうと、割と単純なストーリーだし、なにか意外性があるわけでもない。でも私はかれんが好きだし、そして彼女の昔からの夢であるアイドルのてっぺんに、シンデレラガールにしてあげたいと思う。そして、今年の第8回総選挙は本田未央ちゃんとかれんの一騎打ちだろう、と言われていた。
だが蓋を開けてみたらどうだろう? 総選挙はそれまでの形とはどこかちがっているようにすら見えた。
なんでかといえば、新アイドルの登場だった。
双子白黒新御三家、7人のアイドルが怒涛の勢いでデレステモバマスにやってきて、いろいろな意見を生んでいた。たとえば双子、白黒については実装当初から声付き歌付きで不平等だという声が多かった。私はそこまで気にならなかったというか、たまたまその4人が実装されたタイミングは忙しくてあまりゲームもSNSも見ていなかった。ただなんとなくそういう雰囲気なんだな、と思っていた。
今思えば、私がすでに声もSSRもあって、所属するユニットは大人気という恵まれた位置にいるアイドルを担当しているからにちがいなかった。ようは新人アイドルのことなんてCGを競うような北条加蓮の前にはなんの脅威でもないだろうし、あってはならないと思いこんで、歯牙にもかけてなかったのだ。
いや、別に新アイドルが人気なのは結構なことだ。でも、こんなに人気でいいの? とも思ってしまった。なんでこんな人気なの? と。ポッと出のアイドルが。カートが少ないから当然キャラを掘り下げるだけのセリフ量も全然ないし、まだデビューしてまもないアイドルが、なんでこんなに勢いがあるんだろう? と思った。それがシンデレラガール総選挙なのかと悲しくなった。
比較的初期から登場しているかれんにはストーリーがある。夢見りあむにはない。これは別に夢見りあむが悪いとかではなくて、単に登場した時間の差だ。仕方のないことだ。だけどそんなデビューライブをしただけのアイドルがシンデレラガールになって、何の意味があるんだろう。彼女がシンデレラガールになって、そのありがたみなんかわかるのか? 彼女にはガラスの靴の価値なんかわからないだろう。叩き割って粉々にしてしまうかもしれない。私には夢見りあむがシンデレラガールになる意味がわからない。
本田未央ちゃんにCGを取られたら納得がいくけれど、夢見りあむに取られるのだけは嫌だ。本田未央ちゃんは、それこそNGとしてデレマスの看板を背負ってきたアイドルだし、担当Pの思い入れも尋常ではないだろう。そこに関しては今更書くことでもないので端折るけど、ようは、私はちゃんとシンデレラガールとして輝きたい子にシンデレラガールになってほしいと思う。
夢見りあむが嫌いなんじゃない。ザコメンタル云々という彼女のプロフィールも時代性をとりいれた新しいアイドルの形だと思う。それは砂塚あきらや辻野あかりにも言えることだとおもう(この2人はあまり詳しくない)ただ、なんでみんな夢見りあむをシンデレラガールにしようとするんだろう? 彼女に票を入れることは、言葉が強くなってしまうけれど、総選挙を冒涜してることだと思う。シンデレラガールというアイドルの目指すものを、踏みにじらないでほしい。頑張ってきた子が報われてほしいだけなのに、夢見りあむは言及した時点で負けと言われるのも悔しい。
FANZAで同人CG集買って抜くのが日課なんだけど、たまーに「あれ?サンプルは妙にエロい雰囲気だったのに中身がぜんぜん実用性ないぞ?」という同人CG集に当たる時がある。
それでも700円~1000円ぐらい払っているので抜かなきゃ損だと思って、なんとかエロいフィールを感じ取って抜く。
たまーに同人CGでも枚数が多いからか1500円ぐらいするのがある。サンプルみてかなり抜けそうだと感じて買おうと思うんだけど1500円となると考え込んでしまう。
なぜなら1500円あれば700円の同人CG集を2つ買えるわけで、つまり1500円というのは2回分の値段なわけだが、1500円1回はどうしても割高である。
性欲旺盛の20歳前半ぐらいの時なら、失敗を恐れないガッツある絶頂でボリュームがあればそれだけ楽しむことが出来たものの、今はとにかく失敗をしたくないので、同人CG集を買ったら先ず一通り眺めて「このシーンで抜くからここで一気に力を上げる」と予定を立てて楽しむので、1作品1回が基本になる。
人物・シチュエーションがころころ変わり複数抜ける作品がある大当たりなら2~3回もあり得るが、経験上、これは作家の画力に比例する。画力が高い作家は複数の人物をかき分ける。これはまろんまろんがすごい。基本まろんまろんの作品はすべて大当たりである。割高でもコスパが断然良い。
しかし、1500円とかでもキャラが三人以内だと一回しか使えない場合が多い。
だから、1500円の作品を見た時、「これはコスパが最悪」と酸っぱい葡萄の理論で避ける。(なお、セールで50%OFFとかになると買うもよう)
話を戻すが、一番最悪なのは700円払っても抜けなかったときだ。
ロケハンでざっと内容をみて、思ってたのと違うとなると大変である。
サンプルでノーマルな奴だと思っていたら製品版でおもらしが入るだとか、サンプルで催眠モノだと思っていたら製品版で常識改変で露出ハード痴女プレイ(見るに堪えない)しだすとか、サンプルでごっくんシーンがエロかったけど製品版でそのあと下品なゲップをするとか、そういう不意打ちを食らった時、怒りがふつふつと湧いてくる。
でも700円払っているのでなんとしても抜かなければならない。
そこで自分が持ってる作品は「甘い葡萄」だと思いこんで、目を瞑って抜くということをやってしまいがちである。
サンプルで感じたフィールを、目を瞑って頭の中で反響させ、サンプルの製品版画像だけを表示して、たまに目を開いて抜くのである。
例えば、本当に許せなかった例の最後のやつだが、ごっくんシーンだけを表示して目を瞑って「上品、人妻、がっつりフェラ」と頭の中で反響させ興奮を高めていって「これはいい作品だ。これはいい作品だ。抜けるいい作品だ。」と声に出しながら抜くのである。
ただし、これをすると賢者と化した時の後悔がすごい。
先ず一通り眺めて「このシーンで抜くからここで一気に力を上げる」と予定を立てて楽しむ方法だと、絶頂というのは「至ってしまう」のである。意識に逆らえきれない。ヘリコプターから飛び降りるスカイダイビングのような抗えない力に身を任せるので満足感も高い。
しかし、頭の中で反響させてシーンを切り出して抜く方法は、まるで泥の中を潜るような苦心しかない。それでも人間不思議なもので絞り出したかのように「至る」。
これを避けるためにはどうすればいいのか。
それはきっと、手が届かない葡萄を見つけた時に酸っぱいと思わないこと。そして、酸っぱい葡萄を甘いと思い込まない素直さが必要なのだろう。
アラサーBBAが10年ぶりにUSJに行ったらすごく楽しめたよ、という話。
USJが地元大阪にできたのは中学生の頃。当時はUSJに行ける人がまだ少なかったが、ディズニーランドも行ったことのなかった私は、ラッキーなことに開園1年以内に親に連れて行ってもらった。初めての大型テーマパークで、見たことのない規模の乗り物や、CGを組み合わせたアトラクションに驚き、そしてとても楽しかったのを覚えている。そして、中学2年生の時には学校の遠足で、高校生になってからは友人達とUSJに出かけた。3回ほど行くと、USJはあまり楽しい空間ではなくなっていた。当時は理由がわからなかった。そして高校3年の3月、友人達と卒業旅行でディズニーランドに行くことになった。
何もかもが驚きだった。まず安い。お土産、フード・ドリンクが安い。そしてレストランの価格が適正だ。年代に応じて使い分けができる。また、ファストパスというものを使えば、効率よくアトラクションに乗れる。USJでは1日で回れるアトラクションやショーは、5-6種が限界だったが、ディズニーでは10種くらい楽しめた。そして何より、キャストが親切だ。ディズニーという空間の演出を、キャスト全員が心がけている。ゲストである私たちに、分け隔てなく、笑顔で手を振ってくれる。友人のように優しく声を掛けてくれる。そして買い物をしたら手提げ袋をくれる!(USJは当時、持ち手のない紙袋しかくれなかった。持ち手のある大きな手提げ袋は有料だった)。その上、ディズニーにはキャラクターの数が多い。外にはたくさんのキャラクターがゲストと写真を撮っているので、どこへ行っても賑やかだ。ショーも楽しくて、建物も凝っている。店の入っていない建物エリアや、ハリボテの多いUSJはメインストリートを離れると寂しくて静かで、非日常を満喫する雰囲気がパーク全体に行き渡ってなかったのだ。
ディズニーランドでの衝撃体験のあと、一度だけUSJに行ったのだが、キャストは夜のコンビニ店員のように無愛想だし、お土産やフード・ドリンクは相変わらず高くて、アトラクションの待ち時間も長すぎるように感じて、満足に遊べなかった。アトラクションやショーも相変わらずで、種類も増えていなかった(あろうことかE.T.が無くなった)。いつしか、来園者数減少、経営悪化の声が聞こえ始め、とうとう親会社が変わるというニュースが聞こえてきた。やはり夢の国には敵わないのだな、だってUSJはあのディズニーのような、ホスピタリティー溢れる空間には絶対になれないもんな、と思っていた。
月日は流れ、最後にUSJに行ってから10年ほど経った。ハリーポッターやミニオンのアトラクションエリアができたと聞いた時も、まだ行く気はしなかった。テレビのCMで、アニメのコラボイベントをやっていると聞いた時もだ。外国のユニバーサルスタジオに行って新しいアトラクションは体験済みだったし、アニメで楽しめる年齢でもなかった。何よりあのUSJにお金を払う価値も、貴重な時間を費やす価値もないと思っていたのだ。
転機は最近だ。偶然、バスで帰ってきたUSJ帰りの若者達を見たのだ。みんな笑顔で、ぬいぐるみや、お土産袋を持って通り過ぎていく。楽しかった思い出なんて東京までもたないだろう、と思っていたが、すれ違ったほぼ全員がまだUSJの空気を大事に持っているように見えた。さらに、多くの友人が、「年間パスを買った」ことを報告しているのだ。おいおい、もう我々はアラサーじゃないか。コラボイベント?脱出ゲーム?そんなので楽しくなれるのか?と思っていたら、偶然にも友人達に誘われて、この度10年ぶりにUSJに行くことになった。この時も大して期待はしていなかった。この先、きっと行くこともないだろう、人生最後のUSJだと思って行ってくるか、と心に決めて大阪に向かった。
中に入ってびっくりした。まず、園内の装飾が賑やかだ。人も少なくて殺風景な、あのUSJはどこに行ったんだろう。そして、アトラクションだけではなく、ショーもパフォーマンスも数が増えている。アトラクションの待ち時間は相変わらず長かったが、待たずに入れるショーやイベントも多く、アラサーの我々も長い時間を楽しめるのだ。アニメとのコラボも、USJに合わずに浮いているだろうと思っていたが、そんなことはない。風景に溶け込んでいて、利用者の数も多いし、コラボグッズを身につけている人も多い。
歌やダンスは相変わらず外国人キャストが頼りのようだったが、それでも日本人のショーキャストも増えているようで、コラボイベントでの演出や演技はとてもすばらしかった。
何より、一番変わったと感じたのはキャストだった。レストランでは、「温かいものをすぐにご用意しますね!」と優しく声を掛けてくれるし、お勧めされて断っても、笑顔で受け答えをしてくれる。ぬいぐるみを買うと、我が子を養子に出したかのように優しく「この子と目が合いましたか?」とか「しっかり選んでいただけましたか?」と笑顔で言ってくれる。店員の人たちみんなに、大切にしてあげてくださいね、と言われて店を出た。あの頃の、素っ気なくて無愛想なキャスト達はどこへ行ったのだろう。紙袋しかくれなくて、袋詰めも大雑把だった、あの頃のUSJは一体どこへ?
ひととおりUSJを楽しんで、そろそろ帰ろうかとなった時、友人達は次は夏に来たいねと言っていた。別のイベントが夏に始まるのだそうだ。最後のUSJのつもりだったので、なんとなく決めきれず、曖昧に返事をした。
退園の際、私が持っていたぬいぐるみを見つけたキャストに「ティム(ぬいぐるみ)も、また連れてきてあげてくださいね」と言われた。そういえば、この子の実家はこのUSJなんだなあ、と思うと、なんだか急に寂しくなって、大真面目に「はい」と返事していた。
私は、名もなき1人のオタクである。最近ある悩みで苦しんでいるので、整理するためにここへ記そうと思う。長いぞ。
私は普段、アニメ、イラスト、漫画、ノベル、ゲーム、音楽、動画、等など様々なオタク的コンテンツを楽しんでいる。が、それらを自分で作ることが出来ないのだ。当たり前のことのように思うかもしれないが、私はそこに強いコンプレックスを感じている。
コンテンツには絶対に作り手がいる。そりゃそうだ。作る人がいなければ、何も生まれない。
さらに、オタクの世界には「ファンアート(二次創作)」という文化がある。自分はこれが好きですよ、とハマっている作品のキャラクターを描いたり、そのキャラの登場する小説を書いたり、動画を作ったりすることだ。オタクをしていると、それらを目にする機会がとても多い。上手い下手はともかく、全てのオタクが何らかの創作活動をしているのではないかと思ってしまう程度には多い。オタクは、オタクが生み出したものを目にする機会が途轍もなく多いのだ。
だが私は、絵も満足に描けなければ、小説も書けないし、音楽が作れるわけでもないし、何も生み出せない生産性のないオタクだ。
自分なりに考えてみた。
魅力的なコンテンツがあって、それを好きなオタクのコミュニティがあって、そのコミュニティは大抵絵や小説が描/書ける人間で構成されていた。少なくとも私の周りではそうだった。(オタク友達を求めて入った部活が美術部や文芸部だったからね)
生産が出来なければ、オタクの輪にはまず入れない。友達ができない。
私もオタクであるはずなのに、何一つ生み出すことが出来ない。ただ消費するだけの存在。世の人々(私の目に映るオタクたち)が当たり前のようにやっていること(創作活動)が、私にはできない。技術力も、才能もない。今更頑張る勇気もない。
素晴らしいものを見て、聴いて、私も同じことが出来たらどんなに素敵だろうかと夢想するだけの日々だ。
絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を作れたり、動画を作れたり、立体物を作れたり、作品の考察を発表したり、そういう生産者側への憧れが非常に強く、消費するだけのオタクに価値はないと本気で考えているのに、どこまで行っても結局消費者でしかない不甲斐ない自分。
最近ではどんなに良い創作物を見ても、罪悪感と劣等感ばかりが己の中に積もり、楽しめない。
コンテンツに深くハマっていくほどその裏にある作者の存在を意識せざるを得なくなる。生産者の才能への嫉妬、生産の努力すらしようとしない自分への苛立ち。
だんだんと、オタクコンテンツを見ること自体がしんどくなる。しかし私の趣味はそれしかない。
幼い頃からパンピの持て囃す流行のアーティスト、アイドル、ドラマ、スポーツetc…には唾を吐いて生きてきたのだ。今更手のひらを返して推すことはできない。
こんな私だが、創作的な活動をしてみたいと手を出したことはある。
漫画を初めて読んだ小学3年生の頃から絵は描き続けているし、ライトノベルにハマった高学年の頃から数年間小説の執筆にトライもした。
ボカロが流行っていた中学時代、楽曲制作に憧れてギターやピアノを始めた。DTMの勉強もそれなりにした。
MMD等のCG動画にハマった頃は動画も作ってみたし、3Dキャラクターのモデリングにも挑戦した。
拙いシステムとクソみたいなシナリオとゴミのような立ち絵で、自作のゲームを作ったことだってあるのだ。
しかし何一つ、満足に完成させることはできなかった。自分で納得のできるものは作れなかった。納得ができるクオリティになるまで粘り強く努力をするだけの忍耐力もなかった。
軽率に何かに挑戦し、すぐに諦めるダメな自分。結局無産な凡人のまま。
才能のある人が羨ましいと喚きながら、努力をしない自分から目を背け続けている。
オタクとして生きていくのがつらい。でもオタク以外の生き方を知らない。オタクっぽくない話はできない。
絵描きは絵描きしか相手にしないという話が一時期Twitterで話題になったように、生産者でなければオタク友達はできないように思う。(大抵のオタクは創作活動をしているという前提)(その前提が間違っている可能性には気がつかないふりをしている)
この状況を打開できる策はまだ思いついていない。
なにもかも諦めて消費者として一生を終えるしかないんだろうか?
どうなんだろうね。
ちなみに今私はバーチャルYouTuberにハマっている。
好きになったものに軽々しく手を出す癖だけは治らないので、自分で描いた立ち絵を動かして、ボイチェンを使って美少女ライバーごっこをしようとしている。
こんなオワコンの日本に生まれちまって、もう新元号を迎えちまった20歳の自分は何すりゃいいのかね
日本は2次元コンテンツの源流だし東京や東京近辺にいれば金以外に趣味で困ることはないし治安、衛生もいいとされてる先進国だ
なのに出生率は1.43(2018年)で駄々下がるばかりだし幼稚園の待機児童だの育児問題だのはなかなか解決されないからそのせいで今もこれからも年金はクソほど減ってくし
性差別は男女どちらにもまだ存在しているしLGBTQや身体・精神障害者にも同じく差別はあるしそのせいでフェミ(というよりミソジニスト)とオタク(というよりミサンドリスト)の言い争いは耐えないし
ブラック企業や○○ハラスメントという、問題にテンプレ的な呼称が与えられて問題視されるようになったけど全部の会社や仕事がクリーンになったわけでもないし
よく「クールジャパン」とか言われて称えられたアニメやCGも、最近はアメリカや中韓がこちらを後追いしつつある(例えばスパイダーマンスパイダーバースとか、アプリゲーの崩壊3rdや非人類学園の公式がうpってるアニメとか見たら「外国製www」って笑えんくなるぞ)
自分は一応今将来どこか外国で暮らせるように英語やフランス語勉強してるけど、やはりどうしても日本文化に染まりまくった俺は日本を離れるのが苦しい。数年前家族でハワイ旅行行ったけど、アプリゲーがログイン専になったりYouTubeが一部見られなかったりするのがきつくてきつくて地味に「早く帰りたい…」って思ってた
こういうこと言ってると親が「そんなに言うなら政治家にでもなって世間を変えなさいよ!」って言うけど、もしそうなろうと本気で思ってるならもっと昔から勉強してる。でも今の政治家をニュースなり国会中継なりで見ていて自分はむしろ「せっかく勉強して選挙に受かったところで、あんな誰かを蹴落すのが本性みたいな奴と同じになんてなりたくねえ!」って思ったよ
ペルソナの主人公みたいに、そう簡単に世界を変えるなんてやっぱ出来ない。出来ないからこそああいう作品に憧れや希望を抱くんだろうな
…なんか脱線したけど、やっぱ日本に生まれて日本のオタクコンテンツにズブズブになった日本パラサイトの自分は日本に骨を埋めるしかねえのかなぁ
けものフレンズ2を叩く動画が多過ぎて逆に興味が湧いた。なのでアニメ1期、アニメ二期に漫画版とアプリ版のシナリオを動画で確認したよ。ついでにケムリクサも見た。
感想なんだけど、正直けものフレンズ自体がつまらない。アプリ版はアニメ一期が話題になるまでまったく知らなかったしこの内容ではまあ終わるよなって思った。そもそもアニメ一期もビジュアルが出た当初、一話が公開された時は一話切りだろこんなものって意見がだいたいだった記憶がある。
たつき監督が比較的有能だったことにより兎に角優しい世界が作られ特別尖った面白さはないが丁寧なアニメになり、オタクの大好きな会話に使える(と思っている)フレーズも多く「君は◯◯なフレンズなんだね!」を中心にSNS特有の馴れ合い御用達アニメとして人気になったんだなって。ポピテなんとかに似た楽しみ方なのかな?あれは声優好きじゃないと無理だったけど。
残念ながらブームが過ぎた今見てしまうとあの当時の一つの作品を共有するというオタクジャンル最大の楽しみを使えないのでやはり面白いとは感じないのかもしれない。
けものフレンズ2は普通につまらない。前作のようなキャッチーなフレーズもないし中途半端に1を意識した癖に優しい世界でもなく丁寧さもない。キャラクターの成長もくそもなく、何一つ納得の行く行動や言動もない。ところどころ無理矢理な脚本で良いところは1の不細工CGよりは見た目は良いこと。ただし動きがカクカクで不自然で台無し。
欠点だらけでも何か一つ強力な面白いと思えるもの、圧倒的に凄いと言える部分があれば良い作品になれるかもしれないが2はあのすぐ終わったアプリ版を踏襲してるならまあないよね。
そのたつき監督もケムリクサを見て思ったけど多分今後も活躍する人じゃないと思うよ。ケムリクサは楽しめたよ。ただこれけものフレンズ一期と似てる。優しさも丁寧さも同じというか次やられたら多分飽きる。なので次の作品が出てまったく違うタイプのもので面白かったら謝るよ。
全部見てもう一つ思ったけどもう叩いたり、そういう動画作るのが楽しみになってないこの作品?まあ話題にもならない作品よりはマシかもね。
anond:20190315022042 の続き。
本当にTV版からガラッと変わった。途中まで、ギャラクシーの侵入作戦が始まるところまではだいたい同じだった。しかし正直なところ名前と髪型でクーデターに失敗する噛ませ犬だと舐めていたレオン三島がまさかここまで有能であったとは。TV版から反省会を繰り返したのか三島よ。本作におけるTV版との分岐点はできる三島とついに人の心をインストールしたグレースである。まあ最終的にやっぱり三島は死ぬけど。
そして何より本質的な違いは二つ。オズマによる自分を演じることへの肯定と終盤のランカとシェリルの役割の裏返り。この二つの変更点により驚くほどすんなりとシェリルがメインヒロインに固定された。
劇場版で役割と設定が整理されストーリーが単純化したことで、TV版の中盤までの流れ(病に弱るシェリル、シェリルに惹かれるアルト、スターダムを駆け上がるランカ)から終盤への流れ(シェリルが行方不明、ランカからアルトへの告白)が一気にスムーズになった。というかTV版でも密かに思っていたけど、明らかにアルトくんシェリルのこと好きだよね!そうじゃないといくらなんでも終盤のあの展開はないよね!!つまりあの矢三郎めがいなければ(主にシェリルが)あそこまで苦しむことはなかったのだよ!!!
ちなみに好きなシーンは、アルトに会えなくなってもいいのかと優しく問うグレースと答えに詰まるシェリル、アルトの病室での包丁を巡る不器用な二人のやりとり(イチャイチャ)、放課後オーバーフロウのイントロに合わせて閉まっていくマクロスクォーターの外装。
ところで劇場版ではオミットされたTV版終盤でのランカとシェリル:バジュラと交感できる声をしているせいでミンメイの再来と政治的に担ぎ上げられ生体兵器としての運用に疲れていくランカ、病に犯されながらも自分にできる最大のこと(ランカの代わりに死を覚悟して歌う)を選ぶシェリル、という無駄に重い展開も増田はかなり好き。特に歌ったら死ぬことに気づいているから最終決戦の前にアルトに恋人ごっこは終わりと告げる(= 強がる)シェリルとそれを聞くアルトのシーンがとても好き。そういえば劇場版はこの「今は答えないで。歌えなくなってしまうから」部分はランカのセリフになっていたな。どっちのシチュエーションでも振られる流れだよなあ。
冒頭のバジュラの巣の攻略や大気圏内でのマクロスクォーターのサーフィンマニューバ、やたらと陽気で軽そうだがシリーズファンからするとこれ以上ない安心感が得られるYF-19からの声、S.M.S大隊によるマクロスキャノン斉射、そしてアンタレス1との熾烈なドッグファイトなどなど見所だらけだった。増田が一番グッときたのは、実はバジュラの巣攻略戦での隧道内のブレラの操縦テク。このシーンは狭い隧道を先行するブレラをアルトが追いすがるという形なのだが、驚くべきことに狭い上にバジュラも向かってくるのに、ブレラは一度も変形を行っていない。可変戦闘機バルキリーのセオリー(様式美ともいう)通り、垂直方向への移動や複数体のバジュラの掃討にガウォーク変形で対処し即座にファイターへの変形で高速移動を行うアルトに対して、ブレラはファイター形態のままインプラント特有の反応速度をもって、機首の向きをわずかに調整することでノンストップでバジュラの殲滅と移動を行うのだ。マクロスの様式美を否定するような非常に地味ないぶし銀の描写がよかった。
TV版の不満点であった超時空二股エンド。アルトくんはっきりせいやと前の感想に書いたが、劇場版ではズバッとアルトくんの男らしい告白で三角関係に決着がついた……ついたのだけど……ついたのだけど、だけど、
思いが通じ合って両思いになった恋人たちが次の瞬間に離ればなれになるなんて、そんなことは望んでなかった!
ただ思い合う二人がイチャイチャしているところを見たかっただけなのに……
初見のときはこのエンディングで完全に固まった。そしてエンドロールの「dシュディスタb」(願いは叶うとヒロインズが歌う)を聞いてすわビターエンドの先のハッピーエンドかと沸き立ったのだが、生命維持装置に繋がれて昏睡しているシェリルの脳内想像ライブという可能性に思い当たりより消沈した。しばらくアルトがシェリルのことを愛している設定でTV版世界に戻ろうかと考えていたのだが、絶対に救いはあるはずだと考えて二週目へ。そしてなんとか一つのこじつけに思い当たった。
そう、眠り続けるシェリルは眠り姫のモーチフであり、王子様(アルト)のキスで目を覚ますのが必然であるのだ。TV版ではシェリルとランカの両方から唇(一部R18)を奪われていたアルトであるが、運命付けられたように劇場版ではシェリルにされた頬へのキスしかない。これはもうそういうことだろう。運命だよ。よって増田の中では、アルトくんが(アイくんとかで)なんとかしてフロンティアのシェリルのもとへ戻ってきてシェリルの目を覚ましたあと、二人で幸せになることが確定しました。多分アルトの病室での一幕のように互いにからかいあってイチャイチャするのだろう。よかった……。
サヨナラノツバサでも「禁断のエクシリア」から始まり、二人の掛け合いと会場のバタバタ具合が楽しい「Get it on〜光速クライmax」、めちゃめちゃイントロが格好よく演出もパーフェクトな「放課後オーバーフロウ」、そしてエンディングのお祭り「dシュディスタb」と素晴らしい曲ばかりである。ただ、劇場版を代表する曲となると「ダイアモンドクレバス」だろう。イツワリノウタヒメでのバジュラを呼び寄せてしまったことや、ギャラクシー軍のミッション開始の合図だったこと、墜落したフロンティの教会跡など劇中の要所で美しくも悲しいこの歌が効果的に使われていた。
それから見ていて気になったのがライブの演出。演出といってもすごく手のかかったCGの方ではなくて(これもすごかった)客席の後ろからステージを映すカメラワーク。カメラが歌手を追うPV型ではなく観客との一体感を深めるライブ型の演出を選択したのは興味深い。ミュージックシーンがPV中心からライブ興行中心へ転換しつつあったことと関係しているのかもと考えた。なお増田はPCモニターで見たからそこまで臨場感はなかったのだけど、当時劇場で見た人は自分がライブに参加している感覚を味わえたのだろうか。またサイリウムなどを持ち込んで応援上映のようなことができたのだろうか。
そしてもう一つ気になったライブがアルカトラズ刑務所での「星間飛行」からの流れ。何と言っても慰問ライブに参加していた/できなかった囚人たちが声を合わせてこの歌を合唱するのだ。正直はじめはなぜランカ中島リーさん以外の声を入れてせっかくの星間飛行を邪魔するのかと思った。ただ、よく考えるとランカ・リーの星間飛行を聞きたいのならばCDやPVなりを聞けば良いことに気がつき、そこでようやくこのシーンがマクロスの伝統である歌の力を素朴な形で描写していることに気がついた。
増田の理解としてはマクロスのメカニズムというのは武力と歌の相互補完にある。武力では暴力は防ぐことができても心(世界)を変えることはできない。歌は心(世界)を変えることができるけど暴力に対しては無力。しかしその二つが合わさることで等身大の人間が奇跡を起こすことができる。そのリアリティがSFをコアに持つマクロスのメカニズムであり、非対称なこの関係性に三角関係が加わることで豊かなドラマが生まれてくるのだと思う。
この歌の力という面からフロンティアという作品を見ると、二つの場面が思い浮かぶ。TV版の星間飛行ライブと先ほど挙げたライブ@アルカトラズだ。前者は言わずと知れた、ゼントラーディー部隊の反乱を歌とキラッ☆のみで熱狂の海に沈めた伝説のライブである。このライブの演出は、最初は戸惑っていた兵士たちが曲が進むにつれ武器を投げ出し鼻血を噴きそして最終的にクァドランが肩を組んで踊るという実にアホなものだが、歌が心を変える様子をこの上なく描いていた。アルカトラズのライブはというと、先に書いた通りランカを知っていた知らなかったに関わらず荒くれ揃いの囚人たちが自ら歌を口ずさみ心を一つにする。これが星間飛行のすごさであり歌の力であるのだ。なおこのライブ、この後のクランのアジテーションから囚人たちと看守たちの大乱闘がGet it onに乗せて始まるというやっぱりアホな展開になるのだけど、やっていることは単なるテロである。そして最後の「ランカちゃん〜」と「ジェリ゛ル゛さ゛〜〜ん゛」のコールに吹き出すのである(何度見てもこの部分で笑ってしまうのだけどエキストラなのかな?)
増田がマクロス7のサウンドブースター演出に違和感を持ったのは、サウンドブースターにより視覚化・数値化された歌が武器(ビーム兵器、バリア兵器)のように使われていたから。それと力と歌をバサラ一人が担当するのにも関わらず王道のマクロスフォーマットでストーリーが作られていたため、最終的にバサラ一人で世界を平和へ導くという一人の人間を超越した行いをさせてしまったことも同様。作品テーマとして武力を否定しラブアンドピースを狙っていたのは理解できるのだが、武力の代わりとしてサウンドブースターというまた別の武力を持ち出し、バサラ一人に全てを背負わせたため普通の若者の織りなす物語というセオリーを壊してしまったように見えた。洗脳されたバロータ兵を初めから出すのではなく、初めは市民トラブルを歌で解決するというような入りかたでもよかったのかなと思う。
最後になぜ増田がシェリル派なのかというとプロフェッショナルであることの誇りと責任さらにケー鯛(口からアンコ出る)を愛用するセンスを持ち、泥水をすすっても生き抜く根性があり、たとえ死を迎えることになっても自らの役割を全うする覚悟をまとい、でも支えを失うと心が折れそうになる繊細な所があり、そしてアルトくんをからかう姿がとても楽しそうなシェリルが好きだからです。
次はIIかデルタを見る予定。アイドルものと聞いてあまりデルタには興味が湧かなかったのだけど、たまたまワルキューレの歌を聞く機会があり、メインボーカルの声にぶっ飛んだので俄然興味が湧いた。アイドルものであのガチ音圧の人がメインを張るってかなり攻めてると思うのだが、どういう狙いがあるんだろ。
今はこれが話題になってるっぽいけど、
https://help.twitter.com/ja/rules-and-policies/sexual-exploitation-policy
英語版のWebアーカイブ見る限り、例の文面って去年の12月から変わってなさげ
https://help.twitter.com/en/rules-and-policies/sexual-exploitation-policy
ここに書いてある「Illustrated, computer-generated or other forms of realistic depictions」というのは米国法人が好んで使いたがりそうな表現って感じ。
俗に言う二次元規制の文脈というよりむしろリアルに再現したイラストとかでも許さないよ的な意味合いで使われるイメージあるわ。
あっちじゃ本当の人間と全く区別できないラインが一つの線引きなんじゃなかったっけ。
少なくともアニメ絵とかの話とは違うと思うなあ。
うろ覚えだけどどっかの米国企業のポリシーに書いてあったよ、イラストかも彫刻かもしれないし自然風景の中にあるかもしれない、もしくは視覚的ですらないかもしれない、でも許さんよ、と。別に写真データだけが媒体じゃないからね。まあ当然っちゃ当然よ。
まあ、Twitterがどう解釈してるかなんかTwitterにしかわからんのだろうけど。
グローバルなサービスでは英語版の利用規約読んだほうが確実では。
同期に美人がいる。100人の日本人がいたら100人が彼女は美人だというだろう。実はCGでできてると言われたらうっかり納得しかねないレベルで、彼女は美しい。
その美人を近くで見ていて驚いたが、彼女にアプローチするのはいわゆる性的弱者や恋愛弱者、KKOばかりなのだ。
いや、正確に言うと、ろくに話もしたこともない圏外からいきなりデートに誘うとか、突然オリジナルあだ名で呼び始めてあからさまに態度を変えるとか、あからさまにえこひいきするとかで彼女にアプローチしていることが可視化されるのは、上記モテない男たちなのだ。イケメンや女慣れした男たちは彼女の日常にスマートに入っていくので、アプローチなのか友人付き合いなのか曖昧でアプローチされてる男にカウントされていない。
性的弱者、恋愛弱者、KKOは失うものがない。だからはずかしげもなくバレバレのダサいアプローチをするのか、はたまたそのようなデリカシーのなさが彼らを恋愛弱者にしているのか。それは分からない
number_55
@room_number_55
・申告を推奨
ってことでいいのかな?
非実在青少年の年齢をどうやって判断するか(見た目? 設定?)がハッキリしないのが気になるが…
午後1:05 · 2019年2月24日 · Twitter for iPhone
https://twitter.com/room_number_55/status/1099520769405546496
ななしぃ@七志乃七介 @Nanacie_ 2日前
webisu_vip キリスト教的に欧米は「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイによる福音書 5:28)って考えですもの。しかし人は抑圧を受け過ぎると暴走する面がどうしても存在します。仏教は思想まで禁止してませんから、この辺の考えは諸外国のキリスト教的思考とはかなり相容れないものだと思われます。
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『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書に相当するもので現在読まれているものとは異なり、アラビア語で「インジール」と呼ばれる)が啓典とされている[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8
最近、この手の西海岸系サービスで規約レベルのイラスト排除がすごい進んでるんだよな。日本でいくら騒いでも、意思決定が西海岸でキリスト教徒によって行われる以上はまなざし論の侵攻を遅らせることはできても押し返すことができない。どうしたもんかね。やはりブロッキングしかないのか? はてなハイクに日本人が閉じこもればはてなの京都本社と俺たちの京都府警がすべてを決定することになるわけだから…