はてなキーワード: 涼宮ハルヒの憂鬱とは
アニメシリーズも楽しみにしてて、毎回リアルタイムで見てました。
エンドレスエイトの途中まで。
エンドレスエイトは2話までは真面目にみてたんだけど、3話目でこれいつまで続くの?とか思い始めて、
5話以降はテレビすらつけなかった。
終わった後も続きを見ようという気が起こらなかった。
続きは第1期にない話だったのに観なかった。
初めての経験だった。つまらないという怒りもなかった。原作を含めて興味を失っていて、何も残ってない。
昔に読んだラノベで、時間が経つと内容を覚えてないけど面白かった。もう1回読もうかな。という気持ちになることがあるのに、
そもそも『宇宙塵』の半世紀前の号に載ってた短編やら30年前のマイナー雑誌に載ってた短編やらを発掘して誰でも手に入れられるアンソロにまとめたってだけでめちゃくちゃ偉いんだから、表紙を伴名練の好みに沿ったものにするくらいは当然の権利だろう。嫌ならそれこそ買わなきゃいい。
個人的な感想をいえば、シライシユウコ絵が「マンガ・アニメ的絵」だという意識はあまりなかった。林静一から中村祐介に至るイラストレーターの系譜(もちろん彼らにくらべたらややまんが的ではある)に連なるような存在として認知していた。
ヒョーロンカの人があれを「萌え絵」と呼んでたけど、は? 萌え絵? どこが? って感じだよなw 節穴アイにもほどがある。これでよく評論家が務まるな。
萌え絵ってのは『紫色のクオリア』や『ロケットガール』や『ふわふわの泉』や『スプライトシュピーゲル』や『涼宮ハルヒの憂鬱』や『ある日、爆弾がおちてきて』や『イリヤの空、UFOの夏』の表紙みたいなやつのことを言うんだよ。
あ、『ふわふわの泉』はファミ通文庫で『ロケットガール』は富士見ファンタジア文庫の方な。ハヤカワ文庫JAじゃなく。『ある日、爆弾がおちてきて』もメディアワークス文庫じゃなくて電撃文庫な。
まあ節穴ヒョーロンカ様の目には『サマー/タイム/トラベラー』あたりも「萌え絵」に見えちゃうのかもしれないけどねw シライシユウコ絵が萌え絵に見えるマンはマジで表象とか文化史とかに口を出す資格ないと思うよ。思想信条じゃなくて能力の問題として。
『なめらかな世界と、その敵』あたりが萌え絵とオサレ絵の境界線上な感じしない? まあこのへんは人によって判断が分かれるところだろうけどさ。
だが、他人の感じる「恥ずかしさ」を「時代遅れ」と切り捨てることなく、あるいは読者同士で向き合うことで、ある方向へ流れていけるかもしれない。そこから先は、未来の話だ。作家たちの語るべき領域だ。
時代遅れって切り捨てていいと思うよ。
俺、伴名練と同年代だけどさ、中学の頃って『アリソン』の表紙ですらオタクっぽくて敬遠されてたりしたんだぜ。『マリア様がみてる』すら堂々と読むの憚られる雰囲気あったよ。
そこから、あちこちに萌え絵があふれて、多くの人がそれを受容する時代になったんだよ。いい年こいた大人が堂々と萌え絵の本を読む社会になったんだよ。マジで意識のアップデートを実感するよ。
新しい表現が生まれて自由競争の結果覇権を握ることによって萌え絵が駆逐されるなら進歩だけど、最近は萌え絵がはびこってけしからん! なんてのはただの反動だろ。
そもそも発端のtweetした人、こんなtweetもしてるんだよね。
「オラ女性SF作家特集のブログ記事書くぞ!!!」どーせ「それはSFじゃない」とかボロクソ言われるんだろうけど知るかボケ~。ゼロスタートなのでオススメ教えてください!特に国内作家。
国内の女性SF作家がゼロスタートって、こいつ菅浩江も新井素子も高野史緒も上田早夕里も読んでないの? って話だよな。
『そばかすのフィギュア』も『永遠の森 博物館惑星』も『アイオーン』も『ムジカ・マキーナ』も『華竜の宮』も読んでなかったんすね、っていう。
いや別に読んでないのは何も悪いことじゃないけど、それでSF界のジェンダー問題に物申しちゃうの失笑しない? お前完璧に門外漢やんけっていう話でしょ。何偉そうに「SFの表紙って女の子ばっか」みたいなこと言ってんの? アホなの? 2019年にSF界隈で流行ってた作品のうち『天冥の標』と『三体』と『息吹』の表紙には美少女おらんやんけ。『アステリズムに花束を』も『なめらかな世界と、その敵』もオサレ系の絵であってそこまで萌え萌えしてないよな。
SF1,000冊とか言うつもりないけど本屋でハヤカワと創元の棚の前に並ぶだけで吹っ飛ぶ固定観念を後生大事に抱え込んだやつなんて最初からお呼びじゃねえんだよ。
最初からSFに興味なんてないんだろ? だったら「SFの表紙はどれも恥ずかしいから手に取れない!」じゃなくて「SFに興味ない」って素直に言えばいいんだよ。別にそれは何も悪くないよ。俺も海外文学とか(SF・ミステリを除けば)興味ないもん。興味ないくせに「SF小説とかアンソロの表紙って漫画・アニメ絵の女の子ばっか」なんて言うからツッコまれるんだよバーカ、って感じ。
(アンソロの表紙が美少女ばかりって真顔で言ってるってことは『年刊日本SF傑作選』の存在自体を知らないってことだよな。『傑作選』も知らないやつがSFの表紙は○○ばかりとか言う資格ある?)
アニメ絵が嫌いなSFファンやSFに興味がないアニメ絵好きが口を出すならともかく、アニメ絵が嫌いでSFに興味のないやつがSFの表紙のアニメ絵に口挟む権利がマジでどこにあるんだ? お前関係ないやろ、と、アニメ絵好きのSFファンとしては思うのです。
大学生時代に「涼宮ハルヒの憂鬱」ブームを経験した三十代。当時はひねくれた人間だったので、ハルヒが流行っている真っただ中に、原作ではなくその元ネタとなった「ハイペリオン」に手を伸ばした。当時の自分はきらきらとした学生生活にあこがれていたくせに、そういう青春をテーマにしたラノベを避けていた。みんなと同じものを読むのが嫌だったのと、そういうきらきらしたものを読むと、自分の灰色の生活と引き比べてしまうからだ。そういうわけで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の知識は、書店で一気読みした第一巻と、ウィキペディアの情報、断片的に見たアニメの数エピソードに頼っている。おそらく粗があるので、話半分に聞いてもらいたい。
「ハイペリオン」とはダン・シモンズが1989年に発表したSF小説である。邦訳は1994年に出版された。ヒューゴー賞・ローカス賞・星雲賞を受賞している超大作で、登場人物である長門有希が読んでいる。
ジャンルは一応スペースオペラなのだが、あえて言うならばSF全ジャンルと英米文学のごった煮である。というのも、七人の登場人物がそれぞれの身の上を語るのだが、それぞれがホラーだったりサイバーパンクだったり時間SFだったりで、しかもそれぞれの出来がいい。
続編として「ハイペリオンの没落」「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」がある。作者の思想がややうるさいところもあるが、絵になる場面が多くて楽しい。また、人類の各文化の多様性を高らかに褒めたたたえているのが、やや西洋・アメリカ中心主義ではあるが、気持ちがいい。
長門は「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」であり、言い換えるならば「宇宙人が作った人間の形をした存在」ということになる。「情報統合思念体」には「主流派」「急進派」「穏健派」「革新派」「折衷派」といった派閥が存在し、それぞれの思惑ごとに動いている。
一方、「ハイペリオン」には、英国の詩人ジョン・キーツの人格を再現したサイブリッド(人造人間みたいなもの)が登場する。これは、人類に様々な助言をするAI群「テクノコア」によって、ある目的のために作られたものである。彼は長門ほど万能ではないが、この背後にいるテクノコアには「穏健派」「急進派」「究極派」が存在していることが共通している。ちなみに、それぞれの立場としては、当面は人類とは共存する、さっさと人類を滅ぼして自分たちが覇権を握る、人類も自分たちも滅んでもかまわないので究極の知性を創造する、である。このAIたちはとっくの昔に人類を超えており、人類を裏切ろうとしている。というか、作中ではすでにある方法で人類をひどく搾取しているのだが、これは読んでみてのお楽しみだ。
設定の上ではよく似ているけれども決定的に異なるところがたくさんあり、よくできたオマージュだと思う。
結論から述べると登場する。そもそも、舞台となるハイペリオンという惑星には「時間の墓標」なるものがあり、そこの封印が開くと未来から様々な事物や情報が送られてくる。同時に「シュライク」という殺戮マシーンが封じられているが、シュライクは時折人間の願いを叶える、とされているのだ。七人の登場人物がハイペリオンまで巡礼に向かうのもそれが理由だ。
ここで未来と述べたのだが、実は未来は確定していない。「テクノコア」が作り出す究極知性が宇宙を支配するか、人類の集合意識が生んだ究極知性が覇権を握るか、この二つの間で揺れ動いている。ここでいう究極知性とは神と言い換えてもいい。つまり、遠い未来で行われる人類とテクノコアの戦いが、現代にも影響を及ぼしているのだ。なんといったって彼らは神なのだから、なんでもありなのである。
この状態は、まさに朝比奈みくる(大)の周囲の事情とよく似ている。現代に干渉し、自分たちの望む形の未来を確定させようと活動している点が近い。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の全てを読破したわけではない自分が、本文から有効な証拠をあげることはできない。というか、いくつかのブログでそれを示唆する記述が十分に述べられており、自分が付け加えることは何もない。
よって本記事では、「ハイペリオン」で行われたテクニックを間接的な証拠として用いたい。以下、「ハイペリオン」のネタバレに触れる。読みたくない方は引用部分を読み飛ばしてください。
「ハイペリオン」の七人の登場人物は、旅の無聊を慰めるため、それぞれの出自を語る。一人はフィドマーン・カッサードという兵士である。仮想訓練の度に謎の美女モニータと遭遇し、そこでむさぼるように体を重ねるが、彼女とは仮想空間とでしか会うことができなかった。やがてアウスター(人類連邦に所属しない宇宙の蛮族)の襲撃を受けるが、そこで彼女と再会し、殺されかける。カッサードは彼女との再会を目指している。
もう一人の人物はソル・ワイントラウブという学者である。彼は娘である赤ん坊を抱えて巡礼に来た。彼の願いは、娘であるレイチェルの病を治すことである。レイチェルはかつて学者としてハイペリオンを訪れた際、シュライクによって年齢を逆行する呪いをかけられてしまった。父と同じ聡明な学者であったレイチェルは日に日に幼くなり、とうとう赤ん坊にまで戻ってしまった。レイチェルが「誕生」の日付を迎えるまで、あと数日しかない。
さて、結論を簡潔に述べよう。レイチェルの病は癒される。そして彼女は未来世界へと連れていかれ、そこで再び大人へと成長する。やがてレイチェルはモニータと名乗り、カッサードと出会うのである。
つまり、「涼宮ハルヒの憂鬱」のオマージュ元である「ハイペリオン」では、意外な二人の人物が同一人物であった、そしてその片方は未来人であった、というギミックが存在するのである。
もちろん、年齢遡行までオマージュしているのかどうかはわからない。記憶に蓋をしているだけかもしれない。ただ、妖艶な美女と無邪気な赤ん坊が同一人物であった、という驚きを、朝比奈みくる(大)とキョンの妹が同一人物であった、というかたちで本歌取りしている可能性は、検討される余地はある。
どうなのだろう。キョンの妹は小五だが低学年にしか見えないという記述もあるので、実は成長がストップし、年齢が逆転し始めているのかもしれない……。
鶴屋さんは「宇宙人と未来人だったら、どっちがいい? そろそろ決めといたほうがいいかもにょろよっ!」と発言したそうだが、これは今後の展開を予測する大きな鍵となる可能性がある。というのも、「涼宮ハルヒの憂鬱」が「ハイペリオン」をどこまでなぞるかははっきりしないが、もしも設定を強く意識しているのなら、「ハイペリオン」で「テクノコア」が人類を裏切ったように、「情報統合思念体」が最後には人類に敵対する可能性があるからだ。そして、みくるは人類と「情報統合思念体」との争いの中で、少しでも人類に有利な未来へと導こうとしているのではないか。となると、長門とみくるの決別は避けらないことになる。みくるが長門を幾分苦手としている描写を考えると、興味深い。
少しだけ触れておく。「ハイペリオン」「ハイペリオンの没落」のなかには、超能力は出てこない。出てくるのは「エディミオンの覚醒」以降であり、主人公たちがある能力に目覚めることで、クライマックスに人類の命運を大きく変えるのだが、これも読んでみてのお楽しみだ。
「ハイペリオン」であらゆる願いを叶えるとされるのは殺戮者シュライクである。実に気まぐれな神なのだ。そういうと、ハルヒが悪役シュライクだということになってしまうのだが、自分は違うと思う。明るい青春ラノベにこの設定は似合わない。願いが叶う、ということだけを拝借したのだろう。とはいえ、物語全体を通しての謎の一つ、ということは決定している。
それと、実はシュライクの正体は作中でも若干ぼやかされている。テクノコアが作った殺戮マシーンを人類側がのっとったことが示唆されているが、時間を行き来できるのだから時系列がはっきりせず、筆者の記憶も確かではない。
「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」の語り手はいたって普通の青年ロールであり、彼は破天荒な少女アイネイアーの守護者に任命される。とはいえ、物語の大半は奔放な彼女の振り回されながら進む。それこそ「涼宮ハルヒの憂鬱」の本編のように。
しかし、ロールとアイネイアーは最後にはひどくつらく悲しい別れ方をしなければならない。この設定が本編のキョンとハルヒの関係に輸入されていないことを願う。
それと、ジョン・キーツ(ジョン・スミスではないが)のサイブリッドは二つ存在し、片方が殺される運命にある、とだけ述べておこう。
彼は「ハイペリオン」四部作ののちに「イリアム」「オリュンポス」を発表している。トロイア戦争の世界、遠未来の没落した人類、機械知性たちの話が入り組んでいて、文学とSFのマッシュアップ具合が楽しいのだが、残念ながら「ハイペリオン」四部作で述べた人類の多様性を寿ぐ姿勢から後退し、明確なイスラム嫌悪が出ているのはいただけない。さらに、邦訳されていない最近のシリーズは、ヒラリー・クリントンが大統領になったパラレルワールドで、国民皆保険で怠け者になったアメリカ人が薬物におぼれているというすごく政治的に偏向した作品なので、翻訳されないんじゃないかな……。
【追記】最新作ではないのだが、2011年の「Flashback」という作品。シリーズではなかった。失礼。
【もう一つ追記】その薬物は、いつでも自分の人生の最高の瞬間を追体験できるというしろものだ。そして、世界のほとんどがイスラム過激派に支配されている。経済は日本に牛耳られ、南西部の州はメキシコのギャングに支配され、作中では地球温暖化が否定されている。アメリカの保守的な世界観を煮詰めたような感がある。
ヒラリー・クリントンについての記述は記憶違いかもしれない。ただ、イスラム嫌悪が強いのは間違いない。
https://sosbrigade.miraheze.org/wiki/ハイペリオン
おそらく、ハルヒ全盛期の頃に、こうした議論は出尽くしていると思う。だが、検索をしても類似した意見が見つからなかったため、ここに記録した。
それから、ろくに原作を読んでいないのに、そして記憶もいい加減なのに、好き勝手言ってどうもすみませんでした。
多数のコメント、感謝しております。また、「全部読んでいないのに書くなんてずうずうしい」との指摘、まったくもってその通りです。ファンの気持ちを逆なでするような行い、お詫び申し上げます。また、立ち読みも迷惑でしたね。未成年の頃とはいえ、今にして思えば赤面ものです。
自分としては、「ハイペリオン」を読んだ人間からは、「涼宮ハルヒの憂鬱」の設定はこう見える、と伝えたかったのです。笑ってやってください。また、類似した意見がネットになかったので、記録しておこうという思いもありました。
ただ、ブクマカにもあるように、ジオシティーズやインフォシーク、ヤフーブログなどの一斉削除が原因の可能性のほうが強いですね。はからずもアーカイブの問題にも思いをはせることになりました。
それでは、失礼します。
二次創作をしている。もう十年。私は作文が好きだったし国語の成績だってかなりよかった。それで、オタクになったと同時に二次創作を始めた
初めて書いた文章は「涼宮ハルヒの憂鬱」の国木田くん夢である。ほとんどト書きに近いもので小説と呼べる代物ではなく、褒められるところがあるとするならば、あのとき、だれかに読ませることを踏み止まった自分の判断だけだろう。閑話休題(この「閑話休題」の使い方、あまりに腐女子らしい)
ときを待たずして腐女子になった私は当然のようにBL作品も書き始めた。FC2やnanoで個人サイトを作ったし、専用の掲示板に投稿もした。高校生にしてはうまい方だったと思っている。残っている作品を読み返すとびっくりするので。なんなら今よりも当時の方が丁寧に書けているし、比喩表現も的確かつ適切で、これだけのものが書けていれば楽しかっただろうと納得する
そう、今はもう、まったく楽しくないのだ
これは腐女子の自分語りだ。それもかなり気持ち悪い。繰り返した上で書き進めるけれど、私は今、とあるメジャージャンルのマイナーカップリングに心底ハマっている。彼らは、まだ、原作において人物の掘り下げがさほど行われていない。公式のエピソードが少ない。仲がいいというそれだけが確かなのだ。そういう状態なので、彼らのことを妄想するときは明らかになっている数少ない設定をひたすらに拡大解釈する必要が出てくる。どうしてその性格を形成するに至ったかの理由、つまりは背景を捏造までもする。そうすると必然的に「私の理想のA×B」が誕生するのだけれど、これは自家製ハーブがもたらした私だけの認識であるから私が書くしかない。それなのに、なにを書いたところで一向に理想に届かない
私、下手なんだなあ、と思った。このカップリングで思い知らされた
もともとは自分の文章力に自信がある方だった。中傷されたこともあるけれど、ファンだと言ってくれる人の方が多かったし、なによりも自分の小説が他のだれが書いた作品よりも好きだった。書くことも、読むことも、創作にまつわるすべてが楽しいのだから苦に感じたことなんて一度もなかったのだ
自分の文章力のなさを思い知らされながらのタイピングがこんなに苦しいなんて知らなかったし、知りたくなかった。上手に書けないことは書く資格がないことのように感じられて、そうすると、二次創作をしていること自体にいよいよ罪悪感を覚えてくる。泣きたい。それなのにカップリングに対する執着に似た愛情は増すばかりで理想はいっそうに膨らんでいくのだ
理想がなければ、もっと軽い気持ちで好きでいられたならばよかったのだろう。実際にこの前、かわいいなと感じただけの別のカップリングを書いてみた。驚くほどに筆が進んだ。一度喪失した自信はかんたんに取り戻せないらしく、読み返したらやっぱり下手だと感じたけれど、申し訳なさは抱かなかったし、さすがのメジャーカップリングで評価も好きの言葉もそこそこにもらえた。私があれほどに苦しんで書いた作品たちよりもよっぽど、たったの一日であっさりと。反応自体は嬉しかったのに虚しくてたまらない。もう私、君たちのこと、うまく書けるようになるまでは嫌いになりたいよ。このままだと君たちをうまく書けない自分のことが嫌いになりそうで。私の文章力のなさが全部悪いとわかっていても。十年間も書いてきて、一体、今まで、なにをしていたんだろう
まあ大学生のアルバイトの8割ぐらいは小売か飲食かのどちらかではないだろうか。それで自分も例によって小売店で働いていた。
接客業で働いたことがある人は頷いてくれると信じたいが、自分もまた老人に常日頃困らされていた。
クレーム、マナー違反、書いてある文字が読めない、他のお客様への迷惑行為、etc
加えてガタイのいい店長が飛んでくると一気にへらへらし出す。クソみたいだ。
筋肉ゴッリゴリで色黒でサングラスしてて腕に派手な刺青があるような、明らかにヤバそうなオニイチャンの方がよっぽど優しいものだ。そういうオニイチャンに限ってにこやかにお礼をいってくれたりするのだから。
このような状況に置かれ、自分はすっかり老人嫌いになってしまった。
「それはいけない」と言い聞かせつつ、老人差別的な思想がわいて止まらない。
既に祖父母4名全てが星になってしまった後だったので「おじいちゃんは好きじゃないの?」的なストッパーも上手く動作しなかった。
「老人が一掃される出来事があればいいのに」
「例えばそう、老人ばかりが死ぬウイルスが日本中に流行するとか。」
・
社会人になった自分は、十分な勉強が出来ない環境に悩んでいた。
プログラミングにオーディオ・ビジュアルの編集や作成が出来る。
調べれば大抵のもののやり方は触りとして見ることが出来る。詳しい人に教えてもらうことだって出来る。
加えて今はインターネット上にオンライン学習用の動画や問題集が山のようにある。
しかしブラック企業でもないのにちょっと残業して家に帰るともう夜遅い。出来るタスクは気力の面でも時間の面でもほんの僅かしかない。
だが今の会社は気に入っているし、そもそもそれを理由に職を失う勇気はなかった。休職制度も手薄だった。
・
10年前ぐらいに流行ったライトノベル、そこからアニメなども製作されていた事で著名である。
自分も頭の方しか話を知らないので、最新な設定がどうだかは分からないのだが、内容としてはこんな所だ。
活動的なヒロイン・涼宮ハルヒは神のような力を持つ。だが自分が神の力を持つことは自覚していない。
神であるハルヒは自分の願望を成就する力があり、無意識のうちに自分が思った通りに世界に影響を与えてしまう。
さほど心配しなくていい
というか、マルチエンドを開発したエロゲ業界はその後どうなったかというと発展したわけじゃなく小さくなった
STGや格ゲー、RPGのマルチエンドと、ノベルゲームのマルチエンドって実はかなり別物で
なぜならノベルゲームは「異なる展開」を作ろうとすると、その別ルートをまるごと新しく作り直さないといけない
RPGのエンディング分岐なんかは、戦闘デザインやバランス等々が本体だ
全体の労力からしたらシナリオのちょっとした分岐程度はそこまでの作業量じゃない
それが、ノベルゲームで二つルートを作ると単純に作業量が倍になる
いやいや共通する部分はリソース共有すればいいじゃないかと思うかもしれない
けど、同じ文章なんて誰も読みたくない。だからスキップで読み飛ばす
じゃあ、スキップで読み飛ばせないような他のメディアで似たようなことをやったらどうなる?
有名どころだと「涼宮ハルヒの憂鬱」の第二期が、他にもいろいろな事情があったが、見事に沈没した
似たようなことを繰り返してたら、人間は飽きる
では、と飽きないように前と違う要素、異なる展開を入れるとすると、当然ながら労力がかかる
異なる展開、二つめ、三つめぐらいは、元々の作品ポテンシャルが高ければアイデアも湧いてファンもついてくるだろう
四、五、六、と続いていくとネタ重複も気になりだしファンも飽きがくる
そもそも同じ時間を反復するのは時間が先に進んでいくのより考えるのが難しい
新しい要素が極端に入れづらくなる
新たなエピソードを重ねていくのも難しい、新キャラを投入するハードルも上がる
唐突に降ってわいた過去エピソードや、ポッと出の新キャラが話の展開で重要、なんてのを何回も繰り返してたら、
最初のうちは許容してたファンも次第に無言になってく(あるいは信者化して批判を耳にいれなくなる
僕勉の作者の前作はニセコイのリブートだったが、ニセコイの人間関係や記憶は受け継がれていない
以下駄文。
恋なんて面倒くさい。
恋は嫌いだ。
ただただ鬱陶しくて面倒くさいだけ。
「恋愛感情なんてものは一時の気の迷いなのよ」とは私がこの世で1番好きな作品、涼宮ハルヒの憂鬱に書かれていたセリフだ。
正しいと思ったし、恋愛感情に振り回されて本当にやりたいことをやらなくなった人をたくさん見てしまったために、絶対に恋愛なんてしないと誓った。
両親にも、頼むから結婚とか子孫とか期待しないでくれと伝えたほどだ。
近年、結婚した友人を何組も見てきた。
ただし私にそれは幸せの頂点に見えた。
「結婚はゴールではない」誰もが耳にするお決まりの言葉だが、見てきた結婚式は全てゴールにしか見えなかった。
ゴールしたらその後は?
ゴールした後に目指すものなんてあるのか?
充実しているのか?
趣味を通して繋がった友人たちだが、結婚してからもうしばらく会っていない人たちも多い。
趣味も行っていないのだろうか?
あれだけ本気で取り組んだ時間を置いていくのだろうか?
恋は嫌いだ。
だから私は誰の事も好きにならない。
異性とは距離をおいた。
誤解をされても困るから「好き」という言葉はどんな状況でも異性には言わなかった。
ボディタッチも無し。
お酒の場でも、どれだけ酔っ払っていても徹底して異性との接触を避けた。
恋や愛について人が話しているのを聞くのも嫌になった。
いつしか、人との強い繋がりを全て避け、インターネットに繋がりを見出すようになった。
インターネット上にいる名前も知らない誰かたちは、恋だの愛だの、もっと面倒くさい政治だの宗教だの語らなかった。
ただ永遠に下らない話をして、好きなアニメやゲームの話をして、笑ってるだけで時間が過ぎ去るそんな人たちだった。
しかし、数年経ち、その人たちが恋や愛の話をしていることに気がついた。
書いてないだけで恋をしていたのだ。
恋愛話以外にも、インターネットの発達、万人が使うようになってからというもの、私の理想のインターネットは消え去ってしまった。
インターネットも嫌いになった。
孤独を感じた。
本心の状況とは裏腹に、趣味として行っていた活動は徐々に成功していった。
友人も増えた。
会場での付き合いだけ。
他に遊んだり飲んだりはしない。
そんな選択をした。
正直、嫌になった。
生きてても楽しくないって思う時さえあった。
そんな時に君は現れた。
最初は避けた。
みんなに対して距離を置いていたし、君は異性だ。
しかし徐々に話すうちに、君とずっと喋っていられる気がした。
それはずっと喋りたいという思い、願いにすぐ変わった。
それって恋じゃん。
ある日気が付いた。
声に出した。
涙が出た。
恋なんて面倒くさい。
恋は嫌いだ。
そう言ったはずなのに。
君が別の子と話しているのを見た。
お酒の場だった。
付き合ってはいないはずだが、仲が良さそうだ。
ボディタッチしたな。
知らない人だけど、無性に腹が立った。
同時に焦った。
誰かとこれからすぐ付き合ったら。
嫌だ。それは嫌。
せめて気持ちは伝えておきたい。
すぐに告白をした。
日程を取り付けて、それまでにも何回も会って、いい感じと言っても良かったのかな。
「今は誰とも付き合ったりする気はないから、ちょっと無理かな」
OKではないがそれはつまり暫くしたらOKなのだろうか、いやそれとも肝心な本心を何かはぐらかしているだけか、いやでも何だろうその微妙な表情は、私ではダメな理由が他に何かあるのだろうか、というかつい先週もうこれはいわゆる脈ありみたいな発言あったがあれは何だったのですか。
色んな思いが頭をよぎったが、君の考えを大事にした。
恋なんて面倒くさい。
その後何度も会っているし、これまで通りに喋っている。
機会があれば私が君を好きだと分かる発言もしている。
君が私と共通の友人たちと遊んでいるってツイートを見かけた。そこに私はいない。
私がそこにいないことに苦しくなった。
告白しなければそこに呼ばれたのかな。
そんな考えがずっと繰り返しよぎって悲しくなった。
どうしたらいいのかも分からなくて普段飲まない度数の強いチューハイを飲んで。でも眠れなくて。涙が出て。
恋なんて面倒くさい。
もう断られるのかなって思って来月、2人きりで飲み行くように誘った。
OKだった。
ますます分からなくて、どうすればいいのかも分からなくて、でもチャンスがあるならなんとかしたくて、君にいいよって言われたくて。
恋なんて面倒くさい。
私をこんな思いにさせる君はなんなのだろう。
ひたすらにかき乱されて。
夢にまで君は出てきて。
恋なんて面倒くさい。
こんなに苦しいならやっぱり
恋は嫌いだ。
付き合ったところで、その後どうなるかも分からない。
万が一結婚したらそれはゴールだから、その後何をすれば良いのだろう。
何も前は見えないのに、付き合ってもないのに考えてしまうね。面倒くさいな。
恋なんて面倒くさいよ。
恋なんてしたくないよ。
今も強めの缶チューハイ。
おいしくない。眠れない。
眠りたい。
恋は嫌い。
でも君が好き。
もう10年以上前に『涼宮ハルヒの憂鬱』って流行ったじゃないですか。破天荒なヒロインのハルヒが、微妙なさじ加減で好き勝手する話。私はそのハルヒが好きで。
かなり人気があったんで、色々インスパイヤ作品があったと思うんですよ。商業ラノベ的なエロ小説で、ハルヒ的な女がヒロインの話もあったと思うんですが、小説には疎くて探し様もなく、悶々と何年もすぎてしまいました。
SSは若干よみましたが、接ぎ木的な翻案でなく、雰囲気のある違う作品を読みたい次第。
例えば高校生でなくてもいいし、キョン的な男が主役でなくてもいいです。ただ『これ、ハルヒパクリだろ?』ってのが読みたいです。
よろしくぺこり
鉄腕アトム(1963)
鉄人28号(1963)
オバケのQ太郎(1965)
ジャングル大帝(1965)
魔法使いサリー(1966)
ゲゲゲの鬼太郎(1968)
巨人の星(1968)
タイガーマスク(1969)
サザエさん(1969)
アタックNo.1(1969)
あしたのジョー(1970)
ルパン三世(1971)
科学忍者隊ガッチャマン(1972)
マジンガーZ(1972)
ドラえもん(1973)
アルプスの少女ハイジ(1974)
宇宙戦艦ヤマト(1974)
キャンディ・キャンディ(1976)
銀河鉄道999(1978)
機動戦士ガンダム(1979)
Dr.スランプ アラレちゃん(1981)
うる星やつら(1981)
キン肉マン(1983)
魔法の天使クリィミーマミ(1983)
キャプテン翼(1983)
タッチ(1985)
ドラゴンボール(1986)
聖闘士星矢(1986)
らんま1/2(1989)
ちびまる子ちゃん(1990)
美少女戦士セーラームーン(1992)
クレヨンしんちゃん(1992)
幽遊白書(1992)
スレイヤーズ(1995)
新世紀エヴァンゲリオン(1995)
名探偵コナン(1996)
ポケットモンスター(1997)
金田一少年の事件簿(1997)
ONE PIECE(1999)
NARUTO -ナルト-(2002)
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(2002)
機動戦士ガンダムSEED(2002)
鋼の錬金術師(2003)
ふたりはプリキュア(2005)
らき☆すた(2007)
けいおん!(2009)
化物語(2009)
魔法少女まどか☆マギカ(2011)
Fate/Zero(2011)
ソードアート・オンライン(2012)
ガールズ&パンツァー(2012)
進撃の巨人(2013)
ラブライブ!(2013)
妖怪ウォッチ(2014)
おそ松さん(2015)
けものフレンズ(2017)
鬼滅の刃(2019)
https://anond.hatelabo.jp/20191227121330 を見て自分とも趣味嗜好が違うので自分でも書いてみた。
2chなど時代背景を取り入れてるため今は古く感じる可能性があるがちゃんとわかりやすい伏線をいっぱい用意してくれてて回収も楽しい。
化物語が10年代ではないので代わりに物語シリーズのファースト以外で選ぶならこれ。
貝木のかっこよさとひたぎの可憐さが光る。
1期は名作。
みんな大好き斑目さん。
万策尽きた。
かわいいしかっこいい。中身がおっさんということはいつも忘れられる。
現代の求められてるものが詰まったキャラのアイデンティティを感じる名作。
大山高男:舞台方面がメイン?の声優。エヴァのゼーレ(豆腐)の一人とか
鬼八頭かかし:漫画家。ヤングガンガンで連載中だった「たとえ灰になっても」が絶筆になった。
白石冬美:声優。ガンダムのミライさん、パタリロ、オバQのドロンパなど
WOWAKA:ボカロP、ミュージシャン。ローリンガールとか。
関田修:アニメ演出家。ガンダム(1979)~ムヒョロジ(2018)までコンスタントに活躍。
武本康弘:アニメ監督。らきすた、氷菓、小林さんちのメイドラゴンなど
池田晶子:アニメーター、キャラクターデザイナー。キャラデザに涼宮ハルヒの憂鬱(一期)、響け!ユーフォニアムなど
大野木宣幸:作曲家。ニューラリーX、マッピーなど初期のナムコサウンドを支えた
森永あい:漫画家。ユンカース・カム・ヒア、僕と彼女の×××など
中村和子:アニメーター。手塚治虫に認められて鉄腕アトムなどを手掛ける。三つ目がとおるの和登さんのモデル。
現代の少女漫画絵と現代のオタク絵は同祖(80年90年代の少女漫画絵)だからだよ
旧来の少年漫画絵は手塚治虫・赤塚不二夫ライン、これは現代のコロコロコミックあたりが引き継いでる
手塚治虫・赤塚不二夫ラインの少年少女漫画絵はよりリアリティを求め、従来の絵物語で有名だった永松健夫(黄金バット)あたりと合流し劇画絵に発展した
劇画絵は石ノ森章太郎(仮面ライダー)や車田正美(リングにかけろ)あたりが有名かな
劇画絵の影響は少女漫画にまで波及して有名な池田理代子(ベルサイユのばら)や美内すずえ(ガラスの仮面)などの作家が有名になる
その後、篠原千絵(闇のパープル・アイ)が登場し劇画絵の印象を残しながらも線が徐々にシンプルになっていく
よりシンプルな線となる流れを決定付けたのが池野恋(ときめきトゥナイト)の人気が白熱したことだろう
池野恋からの活躍から従来の劇画絵ベースの少女漫画絵はレディースコミックが継承することになる
このあたりから少年漫画雑誌に線がシンプルになりつつもリアリティを残す少女漫画絵調の作品が増えてくる
代表的なのが桂正和(電影少女)やあらいずみるい(スレイヤーズの挿絵)など
更に線がシンプルになる流れへ拍車をかけたのが武内直子(美少女戦士セーラームーン)やCLAMP(聖伝-RG VEDA-)や吉住渉(ママレード・ボーイ)の人気
そして全漫画業界のパラダイムシフトと主張して過言ではない種村有菜(神風怪盗ジャンヌ)が登場する
種村有菜の登場以降、それまで人気だったスレイヤーズの主人公リナの元々大きかった目がより大きくなり線も柔らかくなるなど強い影響を見せた
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つまりまとめると篠原千絵と池野恋が劇画絵を整理して少年漫画は少女漫画から絵柄を輸入しつつも種村有菜が完成させた
現在の萌え絵(オタク絵)は少女漫画ベースで出来ており、2000年代以降の雰囲気が変わったオタク業界で人気だったいとうのいじ(涼宮ハルヒの憂鬱の挿絵)などはCLAMPの影響を受けたと明言している
もし萌え絵が少年漫画をベースとしているなら現在のコロコロコミックの絵柄に近くないと説明が付かないんだよ
そのラインを引き継いでる作家を敢えてあげるなら吉崎観音(ケロロ軍曹)あたりであり、萌え絵(オタク絵)としてイメージされる絵柄とは一線を画す。けものフレンズは大ヒットしたけどね
4コマ漫画へ強い影響を見せたあずまきよひこ(あずまんが大王)も武内直子などに影響を受けていると明言している
意図的に混同というか実際のところ少女漫画絵と萌え絵(オタク絵)の境界線は曖昧なグラデーションであり混同するとかしないとかそういう話じゃないんだよ
ライトノベルはそれまで児童文学とかジュブナイル小説とかファンタジー小説とか言われていたジャンルなんだよ
児童文学と呼ぶには大人びてる、ジュブナイル小説と呼ぶには日本のサブカルの影響が強すぎる、ファンタジー小説(ハイファンタジー)と呼ぶには設定の練りが甘いなど、言葉にするには何とも言いようのないものだった
装丁は内容と合致するとは限らないという最近の例として「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズの別の装丁verとかあるよね
https://image.itmedia.co.jp/l/im/nl/articles/1901/25/l_fsfigharuhibunko01.jpg
先週金曜に劇場公開された、ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝を見に行った。
やはり京アニは凄い。
正直、TVアニメ本放送当時から本作品の話そのものはあんまり好きじゃなかったし、それは今も変わらない。
それでも、見れば目が潤む程度には感動してしまう。
それくらい絵の表現がヤバい。絵とその動きだけでここまで胸に迫るのか!と見るたびに驚愕する。
そんな極上の絵を、声優の演技とBGMが更に盛り立てるところが、まさにこれ以上ないくらい、正しいアニメをやっている感じ。
これは本作品のみならず、響け!ユーフォニアムや氷菓、古くは涼宮ハルヒの憂鬱を見たときも思ったことだ。
それで、帰宅してから久しぶりに本作品のことを少し調べ回った。
そしたら円盤収録(後にネット配信開始)の特別エピソードとして、時系列的に4話と5話の間に位置する番外編があるというではないか。
あんまり好きな作品じゃなかったので本放送終了後は完全放置していて、そんなの全然知らなかったよ。
そして、そんな重要すぎる話を後で公開するなよと思わされた。
というのも、4話と5話の間は時間的に数ヶ月、つまりほぼ季節1つぶん空いているのだ。
そして4話のヴァイオレットは本当に良くも悪くも「ロボットみたいなお人形」感がまだまだ半端ないキャラだった。
それが5話では若き王族の男女の恋を取り持つという、相当に高度な仕事を「随分と手慣れた感じで」こなす、プロの顔を持ち合わせるくらいになっていたと。
「おいおいこれ本当に同じキャラクターかよ、大きく成長したのは間違いないけど、その成長の過程をすっ飛ばしてどうすんだ」
と、我ながら相当に不快な気分になったというか、結構憤慨したのだ。
最も気になるというか、少なからず応援する的な感情移入をしてしまうところだし。
そしてこの「成長を見せなかった」件が、今の今まで本作品をあまり好きになれなかった一番の理由なわけで(もちろんそれだけじゃないけど)。
ともかく、それでついさっきその「番外編」を見終わり、当時覚えた嫌悪感がようやく氷解した。
これまた感動的エピソードで、例によって目頭が熱くなったし。
もうね、絵だけで胸に迫るんだよマジで(大事なことなので2回言いました)。
でも、今後こういう後出しは勘弁してもらえますかね、京アニさん?
さて、以下は与太話というかオタの我田引水的薀蓄。
後出しはNGでも、そもそもこういう「たった数ヶ月の間に、一体何があったんだ」的展開そのものは、個人的感覚として特に嘘くさいとは思っていなかったりする。
史実では、かの天才モーツァルトが、フランスのロココ趣味にかぶれまくっていた20歳の年に作曲した、全5曲のヴァイオリン協奏曲の話が、まさにこんな感じなのだ。
具体的には初夏に書かれた第2番のわずか数ヶ月後、初秋に書かれた第3番が前作から驚異的な進歩を遂げたことは、今でも評論家達の「天才のなせる業」という絶賛の対象となっていたり。
人数も少ない田舎のバカ校で学年の半分がヤンキー、もう半分がオタクみたいなところだった。
オタクグループはハルヒを毎週楽しみにしてて、俺もそっちのグループに居たわけよ。
ある日トイレで同じクラスのヤンキーと鉢合わせた、学年を仕切ってるリーダーみたいな人。
突然「おい増田ぁ!」と声をかけられた。
なんか気に障ることしたかなぁ、と思ってるとそのヤンキーがちょっと恥ずかしそうに、でも嬉しそうに…
と突然のカミングアウト。とにかく驚いたよ。見てるんかい!と。
その人の影響かは分からないけど最終的にヤンキーメンバーの内7割くらいはヤンキー兼オタクみたいな状態になった。
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。