はてなキーワード: 小劇場とは
新刊『都市の舞台俳優たち―アーバニズムの下位文化理論の検証に向かって―』が検証、東京は小劇場の観劇人口が多いのではなく、チケットノルマを抱えた俳優15,000名が互いに観合っているだけ
http://fringe.jp/blog/archives/2015/06/28233107.html
概して、現代劇の小劇場公演が東京以外の地域で深刻な集客難に苛まれる傾向に関心を寄せる論考の多くは、「見る側」に自らの役回りを特化するという意味での「観劇人口」の多寡に、東京と「地方」の違いを見出してきたきらいがある。しかし東京が日本の他地域には見出しがたい特徴を有するのは、自ら客となって支える舞台俳優人口が桁外れに多いという事実に他ならず、一見「熱心なファン」と観察者の目に映ずる客の中に、いずれかの劇団に所属し公演への参加を続ける舞台俳優が相当の割合で含まれている点には注意を喚起したい。
劇団員同士がバイト代を回しあって成立しているなら、公演がなくなっても劇団員の生活には直接影響しないはずだ(収入が減っても支出も減る)。
はてなー、平和ボケすぎる、、、人や社会が生きるか死ぬかという瀬戸際なのに
- estragon 全体主義に対して劇場を閉鎖させてはならぬというのはよくわかる話。感染症は政治的ではないが、それを取り巻く昨今の環境は非常に政治的だし。「万全」の対策をして開催すれば良い。劇場は小屋のことではないし
- kabutch 日頃から反権力を訴えているのだから、要請くらい撥ね付けてもいい。ただ、その権力を支えるのは一般市民
- wuzuki 野田秀樹作品はあまり好みではないけど、この意見には同意。もともと小劇場は反体制の文化があるものだし。/ 路上演劇を試みている団体はたくさんあるけど、いわゆる舞台でのお芝居とはまた別物という印象。 演劇芸術衛生文化アート
- shoot_c_na そこまでの気骨ならばやればいいじゃん。でもいまやると不謹慎厨の餌食だよ。あれは政治的になに言おうが絶対納得しない奴らが母集団だ 医療社会
- virgospica コレは「芸術vs政治」の話であって、金の問題ではない。政府が要請したら従うことに慣れちゃダメ
- kukky 開催すればいいし、それでも観に行きたい客は行けばいいし、心配なら行かなければいい。
- mobile_neko あくまで自粛要請なんだし公演は普通にやればいいと思うぞ。換気しにくい構造が多そうだし途中でうがい休憩をとったり入場時の除菌とか、座席の調整とかはしたほうが良いだろうけど。
[B! COVID-19] 野田秀樹さん「公演の継続望む」 感染防止で閉鎖は「演劇の死」 | 共同通信 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/this.kiji.is/606824784180167777
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
何もできない、まともに風呂に入ったりもできない。そんな時期が1年ほど続いている。
小屋入りやバイトの時だけ活動スイッチが入るが、授業に必ずしも行けるわけではない。演劇活動の前にはきちんと身だしなみをする。でも、本当にそれの時だけしか動けない。バイトの時は、最低限、ってくらいのところだろうか。
単位というのもたくさん落とした。実家は太く、適当に誤魔化せる。元々、大学に入ったのも4年間の自由時間を手に入れるために入ったというところが大きい。地方都市のFラン文系、ちょうど良い。
演劇漬けの日々を送った時もあった。でも、それが好きなことではない。裏方になんとなく流れただけだ。機械を触るのがなんとなく好きで、学業を真面目にする方ではなかったから、時間をかけられる。それで利用されているだけだ。小劇場の照明というのは私にはちょうど良い隠れ場でしかない。
舐め腐った人生だということはわかっている。でも、かといって生きるや死ぬとか振り切ったこともできない。左腕には無数の浅い傷があって。どっちつかずで、多少の痛みを得たたけだ。皮膚には時間が刻まれて。
それは、くだらないと思う。
発達か、なんて周囲は言ったが診断をかけても何も出てこない。(凹凸が少しあるだけだった)頭の回転が多少速いくらいであんまり役に立つこともない。
もっと人生に希望のなかった時に死んでおくべきだった。中学の時は、中学を卒業したら、高校の時は高校を卒業したら死ぬんだと思っていた。まあ、何も起こらなかったけど。小学生高学年の頃から早く大学生になりたい、と言っていた。好きなことを好きなだけやるために。まあ、そんなものは幻想だったけど。
まあ、今更死ぬことはしないんだけどね。せいぜい、アルコールを呷ったり、少しの煙、直輸入の怪しいものの乱用くらいのことだ。少し早く、くたばれるようにってね。
はるかぜちゃんこと春名風花がいま偏執狂短編集という小劇場の舞台に出演している。
女優の半数は乳房を晒し、男優女優の局部露出あり、生フェラまであるそうで、演劇舞台役者板で話題になっている。
Twitterの公演感想ツイートでも局部露出は話題になっていたけれど、ここまでとは驚いた。
18歳も未成年だけど、AVデビューできる年齢だから解禁らしい。
ちなみに春名は脱がないし咥えないとのこと。
ストリップファンの知人が年々減りゆくストリップ小屋とストリップ嬢の行く末を嘆いていた。
演劇用のステージで局部を晒して生板ショーがOKならストリップ小屋を潰すことないよな。
小劇場で脱いだり局部を晒したり咥えたりがいけるならストリップと区別する必要はないはずだ。
http://itest.5ch.net/lavender/test/read.cgi/drama/1550561283
自分の劇団で芝居をしていたのだが、とあるきっかけで、別の座組の芝居に参加させてもらうことになった。
誘いをくれた人からは「キャストに合った芝居をさせることに定評のある」と言われたので、まぁ芝居の幅はそんなに広がらないのだろうけれど、ちょっと楽しそうな演目なのでやってみようと考えたのだ。
しかし蓋を開けたらどうだろう。
脚本は本番1ヶ月前にようやく完成、稽古期間は2週間強しかないのにキャストを決めるのに数日かかり、脚本を書いた演出家は日によって演出を変更させ役の感情を振り回し、意味のない動作を役者にさせる。脚本の書き換えは一度や二度ではなくその場で何度も何度も変えさせるので覚えるというレベルに持っていけない。身内の笑いや奇妙な動きの失笑、そして下品な人を蔑んだ笑いしか生まれていない。
丁度5年前癌になって手術したんだが、その後地獄の抗がん剤治療8ヶ月が待っていた。
抗がん剤中でも上手に調整して出歩いてる人もいるみたいだけど、自分はずっと白血球値が低いままだったし体調も良くないし、メンタル的にもやばかったので病院に行く以外はほとんど出歩かなかった。今思うとちょっと鬱っぽかったのかもしれない。
で、その間に読んだり観たりして救われたと思う作品を挙げていく。
治療後に、これ治療中に知りたかったと思ったのも含まれているので時系列的におかしいとこもあるけど勘弁な。
治療中に下手な本読んだり映画を観たりして登場人物が自分と同じ病気で死んだりするとダメージくらうし、かといって主人公が元気にはねまわってるのを観て今の自分の境遇と比べて落ち込んだりするし、なかなか難しいんだよ。
病気療養中の人、あるいは周りに病気の人がいてお見舞いに本でも持ってこうかという人はよかったら参考にしてほしい。
ちなみに自分は以前はサスペンスとかホラーとか好きだったんだけど、癌になってからは一切受け付けなくなった。一番最初に死ぬ登場人物に感情移入してしまうので。
あと『きのこを食べたら癌が治った』みたいな本をお見舞いに持って行こうかと考えてるやつは自分が死んだらいいと思うよ。マジで。
【ドラマ編】
『名探偵モンク』
ちょうどHuluで公開されていてこれはマジでよかった。エミー賞も受賞したアメリカの人気ドラマ。
主人公の探偵モンクが重度の強迫性障害を持っているんだけど、同時にそれが事件の謎をとくヒントともなっているところがうまい。モンクを取り巻く元上司の警部や看護師がモンクの強迫性障害に振り回されてうんざりしつつも暖かく見守っていくという構図になっている。
探偵ものなので当然殺人シーンはあるけどソフトに表現されていて何とか大丈夫なレベル。シリーズになっていて話数が多いのも助かる。基本コメディ。
『dinner』
登場人物の一人ごとにスポットを当てていく形式だけど、誰もスネに傷持つ訳ありの人ばかり。
小さな希望を胸にまた明日も頑張ろうとする姿に励まされた。視聴率が悪くて話数が削られてしまったのは何とも残念。
ラスト一人ラジオ聞く江口洋介の姿に泣いた。サカナクションの主題歌もいいよね。
『カルテット』
社会的には落ちこぼればかりの現実離れした夢の共同生活。明快な答えも解決策もない日々になぜかほっとして救われる。
例の前夜、ゲームやとりとめのない会話を楽しむ4人のシーンは何度も観てしまった。マキさんの「ちょっとトイレ」にも泣いた。
『鹿男あをによし』
玉木 宏が鹿になっちゃうやつ。幻想的な作品なので現実逃避にもってこいだった。でも良くできてるよね。
仕事を定年退職したサラリーマンが妻と娘のため正月の福袋の行列に並ぶというドラマ。これも面白い。
ドラマはHuluで配信されて入ればHuluで、なければ無料動画配信サイトで観てた。
あんまり褒められたことじゃないけど抗がん剤治療はとにかく金がかかるので大目にみてほしい。
癌の種類にもよるけど自分の場合は1回あたり15000円、それを月3回8か月続けるのよ。
あと漫画とか本も書こうと思ったけど以外と大変だし読んでくれる人もいるかわからないのでここまでにしときます。
需要ありそうなら続き書くわ。
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漫画・本編こっちにまとめました。コメントくれた人ありがとう。
あとドラマ編で『植物男子ベランダー』忘れてたわ。NHKの30分深夜ドラマ。おっさんマジ癒し。途中の変な小劇場は飛ばしちゃうけどね。
お陰様で経過は順調です。自分の癌は10年で寛解と言われてるけど、5年を無事経過して再発の可能性は大分低くなったと医者にも言われました。
漫画や本など、闘病記はたくさんあるけど、「癌になったけど家族が支えてくれたから立ち直れました。やっぱり家族は大切だよね、妻Love」みたいのが多くて、結婚していない子供もいない自分はどうすりゃいいんだと逆に落ち込んだりした。闘病記なら何でもいいわけではない。
あと闘病記って健康な人がお見舞に持ってくものではないと思うよ。これ読んで元気出したまえって何様だ。
【漫画】
最近誰もがお察しの理由でまんしゅうきつこからまんきつに名前を変えたまんしゅうきつこさんの改名前の作品。
自身のアル中と、そこからの復帰を描いている。このひとの絶望を笑いに変えて昇華する力は本当にすごいし才能だと思う。
『大家さんと僕』
2018年4月時点で累計発行部数75万部を突破した、今更いうまでもないお笑い芸人カラテカ矢部のエッセイ漫画。
アパートの大家さんである老婦人と矢部との心温まる交流を描いている。
ほのぼのとしたやり取りの中にも、戦争、老い、介護、孤独といったテーマがさりげなく混ぜ込まれている。
アラフォーBL漫画家藤河 るりさんの闘病記(1)から仕事復帰(2)まで。
病名で検索するのがやめられなくなってしまうなどの癌患者あるあるネタも多く、頑張りすぎない自然体の作者に共感できる。
『海街diary』
これもまた有名な吉田 秋生の名作。
漫画家ってすごいなあと思った。自分が死んだことがないのになぜ死ぬ人の気持ちがわかるんだろう。
話の途中で癌になったおばさんの話が出てきて、そこはさすがに辛いので飛ばして読んだ。
【本編】
夫の入院先からの帰り道、パン屋で焼きたてのパンを買った妻が「悲しいのに幸せにもなれるのだ」と思うシーンが忘れられない。
実は木皿泉は夫婦のユニット名でご主人は脳出血でまひがある。そんな背景にも勝手にシンパシーを感じていた。
もし癌が再発することがあったら、この本を母親に渡そうと密かに思っていた。
東野圭吾の本で泣くなんて自分もヤキが回ったなあと思ったけど。
あとはYoutubeにあがったお笑い動画とかよく観ていた。主にアンタッチャブル。
転移してるかどうかの検査の結果待ちとか、もうどうしようもない時に観ていた。
よく「悲しくて胸が痛い」みたいな表現があるけど、辛すぎると本当に体が痛くなるのよ。
そんなときしょうもないお笑いをみてるとふっと体が楽になった。
やっぱり笑いの力ってすごい。アンタッチャブルまた活動してくれ。
こんなところからなあ。
PSYCHO-PASS Virtue and Vice(以下PPVV)を最近観劇した。このチケット代と同じ値段で、新感線も大人計画も観られるという事実が辛い。しかも隣の施設なんてこの値段の4分の1で楽しめる。スワローズが勝っていればより楽しいことだろう。
実は元々クオリティに期待はしていなかった。だが、脚本を原作ファンにもおなじみの深見真氏がつとめている点、ドミネーターがフューチャーされている点に興味を惹かれチケットを取った。一度くらい2.5次元舞台というものを見てみたかったという気持ちもあった。
かつて私は阿部サダヲや古田新太といった小劇場出身の俳優に惹かれ、10年ほど前はよく彼らが出演する舞台を追っていた。学生だったから毎回とはいかなかったけれど、観劇中はかけがえのない時間を過ごさせてもらったと思う。
彼らの創る舞台ほどのクオリティは期待できないかな…でも観劇自体久々だし深見さんが脚本だし本広さんも関わってるから見られないことはないだろう…と考えていた。だが、世界は残酷だった。
まず、役者のセリフが聞き取れない。これは致命的ではないのか?PSYCHO-PASSは出てくる用語が難しい。それはずっとアニメ1期から追ってるから分かるし、文字で見ないと分からないことも多い。だからスピンオフ小説も出ているし、オフィシャルガイドブックも2冊出ているのだろう。
舞台でも上記のことに配慮した演出があったけれど、にしても爆弾装置のところはマジで分かりませんでした。無理なのは承知だけれど字幕が欲しかった。舞台観てて、セリフ読むの無理しなくていいんだよ…って思ったのは初めてだ。
次いで、観劇中に辛かったこととしては会場内の笑いについていけなかったことが辛かった。お客さん達が笑ってても何がおもしろかったのかさっぱり分からなかった。皆リスニング能力が高いのだろう。私はもう一度日本語聞き取り能力を上げるべきなのだろう。
にしても、今まで舞台や映画でも会場内の「一体感のある笑い」についていかれなかったことがなかったので、置いてけぼり感に苛まれたという事実が辛かった。
もしこれが、役者同士の関係性を知らないと笑えないようなものだったら、もうお手上げだ。私は他になんの作品に出ているとかTwitterアカウントだとかいう役者の情報を全く知らないからだ。内輪ネタでは私のような役者素人(?)は全く笑えない。
またこれは仕方ないことだろうが、ドミネーターが劇中あまり出てこなかったことも残念だった。エリミネーターによる人体爆発は演出上難しいだろうし、ギミックはアニメに負けるのが見えている。
そんなわけでPPVVはちっとも楽しめず、私の中では2,000円でできる野球観戦に完敗した。2.5次元舞台も今後、観たいとは思わない。
本当は1意見としてツイッターにこれらを吐いてPPVVの関係者にエゴサされても良かったのだが、この舞台に満足しているフォロワーさんの気分を害することは避けたかった。PSYCHO-PASSファンとして今後も楽しく生きていくために、余計なトラブルを生むようなことは言いたくなかった。
だがもしPPVVを観て、『舞台ってこんなもんか…思ってたのと違う…』って思ってる人がいたとしたら個人的には最悪だと思う。
そんな方は是非、劇団四季に足を運んでみてほしい。劇団☆新感線や大人計画は今となってはプレミアチケットになってしまったので初心者には勧め難い。その点、劇団四季は各地で公演があって、期間も長く回数も多い。
よく若手俳優好きな人たちはファンではなく、オタクと名乗る。その一方で俳優は、自分を応援してくれる人のことをオタクではなくファンと呼ぶ。
両者に違いはあるのだろうか?
舞台に行くのは1つの公演につき数回で、SNSで同じ俳優や同じミュージカルのファンと繋がって楽しく過ごしていた。
初めてのファンイベントに胸をときめかせて、普段は舞台と客席という距離感でしか見られない好きな俳優が目の前にいることに、彼と話が出来て写真が撮れることに感動した。この時は彼を見られることが、彼の話を聞けることがただ楽しかった。
私は彼のオタクと名乗っていたものの、極めて善良なファンだった。
彼のことは結局5年くらい応援していたのだが、段々と熱が冷めて降りてしまった。
何かにハマっている時の何とも言えない充実感というのは一度経験すると忘れられない。
次に好きになった俳優は、彼が出ている舞台に出演していた俳優だった。彼のことをBとする。
Bとの出会いが私を変えた。
Bを好きになった舞台はかなり大きな舞台だったのだが、彼はデビューしてすぐの俳優で、その後の舞台は小劇場と言って良いのかもわからないくらい規模の小さなものだった。そこでは舞台の後にお金を払えば写真が撮れて、話せて、手紙やプレゼントが渡せた。
「イベントにもきてましたよね?いつもありがとうございます。○○さんって言うんですね」
この舞台の前に事務所イベントがあり、そこではお見送りハイタッチがあったが、流れ作業で覚えられてる訳がないと思っていたから驚いた。しかも手紙を確認して名前まで読んでくれた。
毎回写真を撮ってるファンはいても、毎回手紙を渡すファンはいなかったらしい。
Bは必ず前日に渡した手紙の内容に触れてくれた。出演者全員との写真撮影の時も「○○さんは僕の隣ですよね?」と言ってくれた。
好きな俳優が自分のことを個として認識してくれることの嬉しさ。これは経験したことのある人にしか分からない嬉しさだと思う。
あまり詳しく言うと誰を応援していたのかバレそうなので控えるが、ある事情でBのことは応援することができなくなってしまった。(炎上で降りたとかではなく)
格好良いなと思える俳優、凄いなと思える俳優はいても、応援したい、推したいと思える俳優には出会えなかった。
しかし、ある人気舞台を観に行った時Cという俳優に一目惚れした。
彼のパフォーマンスと笑顔に釘付けになり、気づけば次の舞台のチケットを集めていた。
Cはこの舞台をきっかけにかなり人気が出たため、接触に来るファンの数は凄まじく、積んだところで対応が変わりはしなかった。
それでもCのパフォーマンスと笑顔が大好きだから出る舞台には行けるだけ行った。全通とまでは言わないが8割は行っている。その度に手紙を書いた。
SNSで手紙やプレゼントに対してお礼を言う俳優ではなかったので、何の意味があるのだろう?と思うこともあったが、とにかく彼の演技が好きだからその想いを手紙に書いた。
しかし、物足りなさも感じていた。
Bの時に好きな俳優に個として認識される嬉しさ、見られることの嬉しさを体感してしまっていたから、ただ見るだけでは満足できなくなっていたのだ。
メジャースポーツではあるが2部リーグの観客は少なく、最前列でプレーを見ることができた。
その中で1人目を惹かれる選手Dがいた。プレーも勿論素晴らしいのだが、俳優顔負けのルックスだった。
どうしても忘れられなくて次の週Dのチームが出る試合を観に行った。
やっぱり彼のプレーは素晴らしく、そして格好良かった。
その日はファンサービスの日だったらしく、会場の中にはファン対応を待つファンが多くいた。(といってもチーム全体で数十人)
彼はびっくりするくらい良い人で、沢山話をしてくれて、写真を撮ってくれた。
家に帰っても熱が収まらず彼の過去の試合やファンがあげた写真などを片っ端から調べた。
Cの舞台に通いながらもDのことが忘れられなかった。
しばらくCの舞台がない期間があり、そこがちょうどDのリーグ戦の時期と重なっていたので、行ける限りDの試合に行った。
試合を見に行くほどチームや競技のことも分かるようになり、試合を見ることもどんどん楽しくなっていった。
そして試合終わりには毎回出待ちをして差し入れと手紙を渡しDと話をした。
Dのファンで遠征をするほどの熱心なファンはおらず、Dはあっという間に私のことを個として認識するようになった。
前に話したことも覚えていてくれてそれについて向こうから話題を振ってくれたり、髪型を変えれば気付いてくれたり。
私はDのことをこんなに知ってるし、Dも私のことをこんなに知ってくれてる。チームメンバーにもDのファンの子だと認識されている。会場内で会うと(選手は結構うろうろしてる)向こうから挨拶をしてくれる。
追っかけやオタクと無縁な人にとっては、くだらないと思うかもしれないが、これがすごく嬉しいのだ。
舞台の上でのCはやっぱり輝いていたし、好きだ、応援したいと思った。でも、Cにとって私は何万人といるファンのうちの1人でしかないのだとも思った。
ある日CのCD発売イベントが発表された。どうしてもスケジュールが確保できず、必要最低限の枚数だけ買って、イベントにはいかなかった。
その内容をざっくり言うならファンの力は凄く助かっているが、オタクになられると困るといったものだった。いくら積まれてもそれによって対応を変えるつもりはないと。
Cの接触でいくら積んでも個として認識される事はない、あっても向こうはそれで態度を変えたりしないのでは意味がないと思ってしまったのだ。
私は接触イベントで、一方的に俳優を見るだけでは、一方的に想いを伝えるだけでは満足できなくなっていた。
今でもCの舞台には行っている。
ただ自分が面白いと思う舞台だけ、自分の見たい回数だけ、見るようになり、接触イベントにはきっぱり行かなくなった。
結局のところ、自分の好きな存在を見るだけでは満足できない、見られたいと思ってしまう限り私はファンではなくオタクなのだろう。
鉄道を通すとその周辺の交通の利便性が上がって不動産価値が上がるってのはわかりやすいと思うんだけど、鉄道会社自身も駅前不動産を持っていて、鉄道敷設の経費を賄おうとするわけね。でもそのためには、みんなが欲しがらないとまずいわけで、鉄道会社から見ればメディアと広告代理店はパートナーなわけだ。
下北沢や吉祥寺など東京の西側、二子玉川なんかも含めて、「若者が住むおしゃれな街」みたいな紹介がメディアによってなされるんだけど、それって自作自演であってあんな場所は昔は農村と雑木林と湿地と谷間だった。下北沢なんて下北沢村だった。そこに堤が電車通してメディアが「お洒落だ!」って煽って大学キャンバスや小劇場やライブハウスがやってきて、立派な財産になったわけだ。
あるいは苗場もそうだ。なんにもないただの山だったところをバブル期にリゾート開発(悪名高きコクド)がやってきてホテルとスキー場を作り、ユーミンに「サーフ天国、スキー天国」とか歌わせて人工的に盛り上げた(結果、実際盛り上がって日本にはスキーブームがやってきたんだから馬鹿にできない)。越後湯沢なんかはJRも大いに潤った例だよね。
昔とある俳優のリアコをやっていた。今は彼が売れすぎて近くに感じられなくなって、興味が失せている。嫌いになったわけじゃないよ。でも、接触があって、なんとなく素を垣間見てたあの頃とは違う。途中で彼には演技もファンへの態度も著しい変化があった。理由もなんとなく察してるし、彼はそれによって俳優として売れ始めたと思うからいいことだ。寂しかったけど。
ちなみにわたしの趣味は元々観劇だ。小劇場もフライヤー見て行くし、東宝系も宝塚も四季も歌舞伎も気になれば何でも行く。でも、今まで推し、みたいな存在はいたことがなくて。強いていうなら、リアコしてた俳優が推しだったのかもしれないけど、応援したいとは思ったことがなくて、いつも好きだなあという気持ちだけで現場に行ってた。
表題の話である。いや燃えたと言うより、知名度がなさすぎてボヤくらいである。
最近、知人がやたらとメンズ地下ドルの現場によく行く。わたしも気になって、でもあんまり過剰接触みたいなのは怖いから、どうしようかなと思ってたところに地下じゃないって言い張るダンス&ボーカルグループを見つけた。通りがかる振りをして無銭ライブに行った。曲はよかったし、ダンスはまだまだだと思ったけど、トークもそこそこよかったからまた行こうと思ってた。全然売れてないけど、応援したいと初めて思った。
ら、突然燃えた。
わからない人はわからないままでいい。でも少しわたしの素直な気持ちを書かせて欲しい。
確かに、ちょっとした兆しはあったと思う。見たからに輩っぽいし、憧れてるのもそういうラインだろうなとは思ってた。でもトークを聞いてたら、みんな可愛くて。傍から見るのと実際に関わってみるのは全然違うことを実感して、楽しんでた。
地下とは違うと言い張る彼を見て、偶像的なアイドルという存在じゃなくてパフォーマンスを大切にしたいんだと思った。
トークの上手い彼も、歌の上手い彼も、わたし好みの顔をしていた彼も、ダンスの上手い彼も、頑張って欲しいと心から思った。
純粋な強い気持ちは人を支えるし、それが未来に繋がってくと思っているから。
それだけでよかったんじゃないのかな。
何でわざわざ他の仕事をしている人を馬鹿にしたり、喧嘩を売ったりしたんだろう。
自分の信念を貫いて、黙って実力で納得させていってくれるんじゃなかったのかな。
地下はダサい?本当にそうかな?
それを思うのも感じるのも自由だよ。
でもさ、それってわざわざ言葉にすることかな?
アイドルだろうがモデルだろうが、客を楽しませて価値を感じさせるのが仕事だよ。
地下ドルは確かに過剰接触のイメージだよね。知らないけど地下ドル出身の子もいるんだから、その大変さとかわかるはずだよね?
愛想振りまくのが、嫌な仕事だったのかもしれない。顔だけ、とか言われるのが苦痛だったのかもしれない。でも、それを仕事に選んだのは自分じゃないのかな?
変わりたい、とか、前とは違う、ちゃんとパフォーマンスで評価されたい、だから頑張るって言ってたんじゃないの?
正直、突発的にデビューしても、あれだけ曲もよくて、それに加えて歌とダンスがものすごくよかったら、もっともっと急速にファンは付くし、ジャンルが違う人も評価してくれると思う。
でも、そうじゃないのは実力不足なんだよ。それは、どんなに気持ちがあっても意識が高くても事実なんだよ。もっともっと伸びていくと思ってたんだよ。
わたしは彼らの気持ちや立場や、裏のことはわからない。よっぽど悔しいことを言われたのかもしれない。酷い暴言で馬鹿にされたのかもしれない。でも、それを理由にやり返そうとしちゃうのは違うんじゃないかな。見てろよ、ってバネにしてくれるだけでよかったんじゃないのかな。
今回の彼らの発言で、どれだけの関係ない人が傷ついたろうと思うと哀しい。
どんな界隈でも、ファンはいる。盲目的だなと周りに言われても、例え馬鹿みたいに見えても、それは本人たちにとっては真実で素敵な幸せなものなんだよ。それを、外部があれこれ言う筋合いはない。
今回のことで、彼らは、そういう気持ちを考えられないんだな、自分の信念以外は正しくないって踏み躙る人たちなんだな、と思ってしまった。
もっと素直に応援していたかった。彼らが売れていく姿を見たかった。悔しいし、哀しい。
貧弱オタクだから、彼らの売上には貢献してない。彼らはわたしのことなんて知らない。でもやるせなくて、どうしても吐き出したくて、もしかしたら彼らにも届くんじゃないかって、少しだけ期待して、ここに投稿しておきます。