2019-03-18

私はファンではなくオタク

よく若手俳優好きな人たちはファンではなく、オタクと名乗る。その一方で俳優は、自分応援してくれる人のことをオタクではなくファンと呼ぶ。

両者に違いはあるのだろうか?

高校の頃に某テニスミュージカルにはまった。

舞台に行くのは1つの公演につき数回で、SNSで同じ俳優や同じミュージカルファンと繋がって楽しく過ごしていた。

好きな俳優ファンクラブが出来ると開設日に入った。

初めてのファンイベントに胸をときめかせて、普段舞台と客席という距離感しか見られない好きな俳優が目の前にいることに、彼と話が出来て写真が撮れることに感動した。この時は彼を見られることが、彼の話を聞けることがただ楽しかった。

私は彼のオタクと名乗っていたものの、極めて善良なファンだった。

彼のことは結局5年くらい応援していたのだが、段々と熱が冷めて降りてしまった。


かにハマっている時の何とも言えない充実感というのは一度経験すると忘れられない。

次に好きになった俳優は、彼が出ている舞台に出演していた俳優だった。彼のことをBとする。

Bとの出会いが私を変えた。

Bを好きになった舞台はかなり大きな舞台だったのだが、彼はデビューしてすぐの俳優で、その後の舞台小劇場と言って良いのかもわからいくらい規模の小さなものだった。そこでは舞台の後にお金を払えば写真が撮れて、話せて、手紙プレゼントが渡せた。

舞台初日写真を撮る前に手紙を渡す私にBは言った。

イベントにもきてましたよね?いつもありがとうございます。○○さんって言うんですね」

この舞台の前に事務所イベントがあり、そこではお見送りハイタッチがあったが、流れ作業で覚えられてる訳がないと思っていたから驚いた。しか手紙確認して名前まで読んでくれた。

嬉しくなってしまってチケットを増やした。

毎回写真を撮ってるファンはいても、毎回手紙を渡すファンはいなかったらしい。

Bは必ず前日に渡した手紙の内容に触れてくれた。出演者全員との写真撮影の時も「○○さんは僕の隣ですよね?」と言ってくれた。

好きな俳優自分のことを個として認識してくれることの嬉しさ。これは経験したことのある人にしかからない嬉しさだと思う。

まり詳しく言うと誰を応援していたのかバレそうなので控えるが、ある事情でBのことは応援することができなくなってしまった。(炎上で降りたとかではなく)

その後は気になった舞台適当に見ていた。

格好良いなと思える俳優、凄いなと思える俳優はいても、応援したい、推したいと思える俳優には出会えなかった。

しかし、ある人気舞台を観に行った時Cという俳優一目惚れした。

彼のパフォーマンス笑顔に釘付けになり、気づけば次の舞台チケットを集めていた。

Cはこの舞台きっかけにかなり人気が出たため、接触に来るファンの数は凄まじく、積んだところで対応が変わりはしなかった。

それでもCのパフォーマンス笑顔が大好きだから出る舞台には行けるだけ行った。全通とまでは言わないが8割は行っている。その度に手紙を書いた。

SNS手紙プレゼントに対してお礼を言う俳優ではなかったので、何の意味があるのだろう?と思うこともあったが、とにかく彼の演技が好きだからその想いを手紙に書いた。

しかし、物足りなさも感じていた。

Bの時に好きな俳優に個として認識される嬉しさ、見られることの嬉しさを体感してしまっていたから、ただ見るだけでは満足できなくなっていたのだ。

Cの舞台端境期、友人に誘われあるスポーツを観に行った。

メジャースポーツではあるが2部リーグの観客は少なく、最前列プレーを見ることができた。

最前列で見るスポーツの迫力は凄まじかった。

その中で1人目を惹かれる選手Dがいた。プレーも勿論素晴らしいのだが、俳優顔負けのルックスだった。

どうしても忘れられなくて次の週Dのチームが出る試合を観に行った。

やっぱり彼のプレーは素晴らしく、そして格好良かった。

その日はファンサービスの日だったらしく、会場の中にはファン対応を待つファンが多くいた。(といってもチーム全体で数十人)

勇気を出して選手に声をかけてみる。

彼はびっくりするくらい良い人で、沢山話をしてくれて、写真を撮ってくれた。

家に帰っても熱が収まらず彼の過去試合ファンがあげた写真などを片っ端から調べた。

Cの舞台に通いながらもDのことが忘れられなかった。

しばらくCの舞台がない期間があり、そこがちょうどDのリーグ戦の時期と重なっていたので、行ける限りDの試合に行った。

試合を見に行くほどチームや競技のことも分かるようになり、試合を見ることもどんどん楽しくなっていった。

そして試合終わりには毎回出待ちをして差し入れ手紙を渡しDと話をした。

Dのファン遠征をするほどの熱心なファンはおらず、Dはあっという間に私のことを個として認識するようになった。

前に話したことも覚えていてくれてそれについて向こうから話題を振ってくれたり、髪型を変えれば気付いてくれたり。

他のファンに対する優越感が生まれた。

私はDのことをこんなに知ってるし、Dも私のことをこんなに知ってくれてる。チームメンバーにもDのファンの子だと認識されている。会場内で会うと(選手結構うろうろしてる)向こうから挨拶をしてくれる。

追っかけやオタクと無縁な人にとっては、くだらないと思うかもしれないが、これがすごく嬉しいのだ。


Dに熱を上げている状態でCの舞台を観た。

舞台の上でのCはやっぱり輝いていたし、好きだ、応援したいと思った。でも、Cにとって私は何万人といるファンのうちの1人でしかないのだとも思った。

ある日CのCD発売イベントが発表された。どうしてもスケジュールが確保できず、必要最低限の枚数だけ買って、イベントはいかなかった。

CはCD発売イベントの後あるブログ更新して議論を読んだ。

その内容をざっくり言うならファンの力は凄く助かっているが、オタクになられると困るといったものだった。いくらまれてもそれによって対応を変えるつもりはないと。

そのブログを読んで正直萎えた。

Cの接触いくら積んでも個として認識される事はない、あっても向こうはそれで態度を変えたりしないのでは意味がないと思ってしまったのだ。

私は接触イベントで、一方的俳優を見るだけでは、一方的に想いを伝えるだけでは満足できなくなっていた。

今でもCの舞台には行っている。

ただ自分面白いと思う舞台だけ、自分の見たい回数だけ、見るようになり、接触イベントにはきっぱり行かなくなった。

Dの試合には全て行って、毎回差し入れをしている。

結局のところ、自分の好きな存在を見るだけでは満足できない、見られたいと思ってしまう限り私はファンではなくオタクなのだろう。

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