はてなキーワード: 孫の顔とは
私は20代前半。
理由を色々考え、出た結論は「面倒なことが増えるから」だった。
妊娠・出産・育児エッセイを何冊か読んだ程度の知識なのでザックリとしているが、
つわりの地獄のような苦しみや、大きなお腹を抱えて生活することの大変さを知った。
食生活に気を使い、妊婦に優しいアイテムを買い、定期的に病院で検査し、マタニティスクールに通い、
役所で病院の費用の補助金を申請し、生まれてくる子供のためのグッズも揃えないといけない。
出産もめちゃくちゃ痛い。無痛分娩もあるが、「産むときだけ痛くなくても、いてえのは陣痛だよ陣痛」と
母親によく言われるので、まったく痛みのない出産はまず無理なんだろう。怖い。
まあとにかく生まれました。おめでとうございます。あー終わった終わった、というわけにはいかない。
この世の右も左も分からない赤ん坊を、同じく育児の右も左も分からない母親が育てるって超難易度高い。
でも面倒だからお世話やめた、なんてことはできない。もう生まれてるんだから。
もしも子供が生まれつきの持病を持っていたら。不便なアレルギーがあったら。アトピーがあったら。
とんでもなくブサイクだったら。発達障害だったら。学校でいじめられたら。逆にいじめっ子になったら。
同じクラスメイトの母親が変な人だったら。担任の先生が変な人だったら。
PTAが面倒臭かったら。受験に失敗したら。就活に失敗したら。悪い友達とつるんだら。
学生のうちに妊娠したりさせたりしたら。「産んでくれって頼んでない」と言われたら。
様々な不安が尽きない。そのくらい我慢しろよと言われるものも沢山ある。
でも嫌なのだ。可能性として起こり得ることを考えると、子供はいらない。
子供に何かあったとき、自分の人生経験と知識が乏しすぎてフォローできず、母親失格になってしまう。
子供もきっと苦しむ。
これまでの人生で出会ってきた多くの選択・出来事は、「ミスしたら自分に返ってくる」ものだった。
志望校に落ちようと希望の会社に不採用になろうと、嫌な思いをするのは自分だった。
勉強しなかったツケ、就活の対策をちゃんとしなかったツケは自分に返ってくるだけ。
しかし妊娠中の生活に気を使わなかったり育児を面倒臭がって放棄したら、苦しむのは自分ではなく子供である。
親が徹底的に子供の見本となり、子供を守り、道に迷ったときに手を差し伸べなくてはいけない。
自分がそんな立派な人間になっていないのに子供を作っては子供がかわいそうだと本気で思っている。
デキ婚する人はどうしてすぐ産もうと決断できるのかわからない。その度胸はどこからくるんだ。
たまにネットで出産が「3000万ガチャ」と揶揄されるが、本当にそのとおりだと思う。莫大な金がかかる。
そんなガチャをうちの親は私の前にも何度も回してきた。尊敬する。
今まで何人か彼氏がいたし、今もいる。
「この人と結婚したい」とは思っても、「この人との子供が欲しい」と思ったことは一度もない。
ずっと2人きりでいたい。夫との時間を独占したい…とよく思っていたけど、
まあずっと同じ屋根の下で2人でいたら、恋人時代の気持ちなんてすぐ消えて
だんだん生活がマンネリ化してきてうまくいかなくなったりもするんだろうな。
だから子供がいたほうがいいのかもしれないけど、そんな緩和剤代わりに子供をポンとつくっていいのか。
妊婦や子連れ、ベビーカーのバッシングをネットでよく目にする。
育児中にあった嫌なことや肩身の狭い思いをした体験談も沢山見る。
(家庭板のまとめを読むのはやめたほうがいいかもしれない)
私が万が一妊娠してしまったら、周りは「おめでたいこと」と捉えるから、きっと産むんだろう。
人間ひとりつくって育てるというとんでもない行為は「やっぱりやめた」ができないから、恐ろしい。
今付き合っている彼氏とうまくいって結婚の話が出たとして、「子供が欲しい」と言われたら本気で悩む。
「夫が子供を欲しがっている」とか「(義)両親が孫の顔を見たがっている」という理由で
私が折れて妊娠出産していいものなんだろうか。母体は望んでいないのに。
周りが希望してるから命をつくるなんて無責任ではないだろうか。
「産んでくれって頼んでないのに!」って子供に言われてしまったら、
私は自分に面倒事を沢山もたらした原因である子供を愛せないんじゃないか。
どんな理由であれ、私のように子供が欲しくない人はきっといるんだろうけど(多分)、
少子化という言葉があるということは、子供とは「産んで増やさないといけないもの」なんだろう。
私か相手が子供をつくれない体なら仕方ない。それよりも「つくらない」ほうが周囲から疑問視されそう。
育児がしにくい世の中になってるのも問題だけど、そういう社会的な面よりも私の心理的な面が大きい。
こんな私が、子供が欲しいと素直に思える日はくるのだろうか。
それとも、たいしてよく考えないまま流れに身を任せていたら、案外大丈夫なものなんだろうか。
一応言っておくと、親に虐待されていたわけではない。むしろ末っ子なので甘やかされて育った。
子供はあまり好きではなかったけど、最近は仲の良さそうな親子を外で見かけると微笑ましいと感じる。
ただそれは楽しそうなほんの一部分を見たからで、
その場面を自分が得るまでにどれほど苦労しないといけないのかと考えると子供を欲しいとは思わない。
甥・姪をめちゃくちゃ可愛がってしまうのと同じだ。
あと、反出生主義という主義があるけど、そこまで過激な考えではない。出産は尊いものだと思っている。
私は出産したくないというだけ。
今ふと思ったけど、学生時代が全然楽しくなかったことと、この考えには関係はあるだろうか。
つまらない地獄のような学生時代を子供に味わわせたくないとか無意識に思ってるんだろうか。
そこはよくわからない。
自分は同性愛者だ。しかも、ノンケを好きになってしまったタイプのホモだ。
今は大学院生だけど、自分がホモだってことに気づいたのは中学生くらいからだし
今回惚れたやつに気付かされたわけじゃない。
自覚があるんだから、ノンケを好きになることを回避できたのに、結局こうなってしまった。
ノンケを好きになるのは今回が初めてではなく二回目。
一回目は高校生のときで、当時一番仲が良かった友達を好きになった。
すごく罪悪感を感じた。
自分がそいつに感じている感情は相手にとって絶対に受け入れられることはないのは理性ではわかっているんだけど
それでもいつまでも好意を寄せてしまった。そんな自分が憎く、自傷行為とかもした(今思えばホントアホだったと思う)。
それに、これは今もなんだけど、自分が同性愛者ということを受け入れられなかった。
女の子を見て、かわいいと思うし、付き合ったり、将来的に結婚でもして家庭を築きたい願望はある。
でも現実には女の裸をみても不快感しかないし、セックスしたいと思うのは男だ。
そいつには卒業と同時にカミングアウトと告白をして、ふってもらった。
すごくスッキリしたけど、やっぱりノンケと付き合うことは無理なんだなってことが身にしみて分かって、一人になったらめちゃくちゃ泣いた。
その友達には気持ち悪いだろうから俺との縁を切ってもかまわないと言ったけど、今もたまに遊んだりする仲で、良い奴だなって思う。
俺がホントのことを言ったことに感謝してくれていたし、だからこそほんとに、こいつを好きになったのを申し訳ないと思った。
こんな思いもう二度としたくないと思った。ノンケを好きになるのは金輪際やめようと思った。
この時も馬鹿だったから意識して気をつけていれば、ノンケ男を好きにならずに済むとか考えてた。
そいつを好きになった。
でも理性が否定してれば、普通の友達としてやっていけると思った。だから最近まではそいつのことは全然好きじゃないって思っていた。矛盾してるけど。
ずっと俺はこいつのことは好きじゃないと必死で思い込んで、友達として接するようにしていた。
しばらくはうまく行っていたけど、ノンケとしてそいつと接するのがここ最近特にキツい。
もう長年の付き合いになるけど、今まで全くシモネタをしないし、女関係の話が出ないから正直疑われていると思う。
このまま俺がノーマルであると嘘をついていける自信がない。それに、信頼している人に嘘をつくのは結構エネルギーが要る。
この嘘は悪いことだとわかっているものの、どこかでこの嘘を正当化しなきゃ貫きようがないから。
自分がホモだってことを嘘ついて仲良くしてるのが悪いってことは自覚できてるんだよ、自覚してる分罪も重いよね。
俺がもしノンケ友達の立場だったら自分を許せるかどうか分からない。
それと、第三者からみたら気持ち悪いんだろうなって思うけど嫉妬で消費するエネルギーも大きい。
友達として接している分、心理的距離が近いからヘテロセクシャルが感じる嫉妬よりも大きいと思う。
友達の女性体験とかを聞くととにかく負の感情がすごい。自分がその女には絶対なれないと思うのはめちゃくちゃ悔しい。
なんで俺って男として生まれたのかな、って思う。性自認は男だからトランスジェンダーではないんだけど、よく女になれたらなって思う。
高校生のときに嫌な思いをしたから、こんなことを二度とするまいと思っていたけど
やっぱりだめみたいだ。
今度あったら正直に話して縁を切ろうと思う。
子の教育方針などで夫と口論するうち、子を夫と切り離し自分だけの好みの方針で育てるために離婚したくなった。
我ながら我が儘だけど。
もともと夫とソリが合わず孫の顔さえ見てればいい人たちだから、実家は当然、全面的に私の味方。
それで思い切って、ものごころつく前の子を連れて実家に戻った。
実家のサポートでいろいろ生活が成り立つようになったので、女性に寄り添い女性の言い分を通してくれることで有名な離婚弁護士さんに相談。
こんな内容を書く。
1. 一方的に自分の意見を通そうとする我が儘で暴力的な夫から激しい言葉のDVを受けた
2. 子に対する具体的なDVはなかったが今後そのおそれは十分にあり、私に暴言を吐く姿を子が見てトラウマになっていること自体も含めて。子との面会は困難
なぜこうするかはちゃんと理由があった。
家庭裁判所や調停委員は事実関係を調査せず双方の主張を聞くだけ。
明らかにこちらの言い分に嘘や矛盾があっても、それを指摘する夫の反論の激しさは「夫婦間の葛藤」の存在を証明することになるので、むしろ好都合。
それだけでは不安であれば、婦人相談所にDV被害の相談に行き「配偶者からの暴力の被害者の保護に関する証明書」を発行してもらえばよい。
この証明書の発行には証拠不要。事実確認はおろか夫側の見解聴取もない。
これは「相談があったことの証明」だが、実務的には「DVがあったことの証明」として役所や裁判所で通用する。
(内閣府男女共同参画局通知 http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/kanrentsuchi/pdf/01/n_29_20140930.pdf ここには『この保護に関する証明書は、配偶者からの暴力を理由として保護した者に対して婦人相談所等が発行するものであり、配偶者からの暴力があった事実を証明するものではないことを、念のため申し添えます』と書いてあるが、調停委員が知らないばかりか家庭裁判所裁判官も知らないほど、この注記は知られていない。)
これから別居中にじっくりと子に夫の恐ろしさを教えておけばよい。試行面会の頃までには子が勝手に夫を怖がるようになってくれる。
どんなに夫が子煩悩だったとしても、3歳くらいまでの記憶は綺麗さっぱり消える(「幼児健忘症」。病気ではない)。
夫の写真も見せないようにする。仮に子が「パパは?」と訊いたとしても、キッと睨むだけで子は「この話を母親としてはいけないんだ」と学び、保護者である母親の気に入る子になる本能で、勝手に父親を嫌いになる。
3.は実入りを少しでも大きくするため。
離婚をしてしまうと受け取れるのは養育費だけになるが、婚姻をかたちの上で継続しておけば相互扶養義務に基づく婚姻費用の分担を請求できる。
このアドバイスのとおりにやってみると、面白いように周りが全部こちらの味方になってくれた。
誰も私を疑わない。
いや、疑う流れにはときどきなったけど、疑うそぶりを少しでも感じたら
「私を疑うなんて酷い」
と泣いてみせればその話はぜんぶ立ち消えになった。
私の言い分の嘘や矛盾を夫が長々と説明しても、どんな証拠が出てきても、「そんなことはない」と言えばいい。
そう言うだけの方が良いのだ。
「証拠対証拠になると不利なので、こちらからは証拠を出さない」
夫がどんなに苦労して物的証拠を出しても、裁判官や調停委員はそれを採用せず、私の口頭の主張ばかり採用する。
子には何年も会わせてもらえない。・・・
夫が怒り始めるのも当然。
でも、
「すぐそうやって怒り始める人で大変だったんです」
と言えば1.や2.の間接的な証明にもなる。
しかも、
という裁判所独特の言い回しで、面会させない理由にしてくれる。
いい気味w
女>>>>>>>>>>>男
とあらかじめ決まってる。
夫が年収高かったおかげで20万強の婚姻費用を毎月受け取ってる。
保育所には例の「証明書」を見せれば最優先で入れて貰えたので、自分の勤めの収入も十分。
((嘘扱いされるのが癪に障るので追記注釈。実家のサポートで暮らしていて収入ゼロのうちに婚費決めさせたのと、娘がDVトラウマで今後も働きに出られないかもという主張が通って、夫の年収1300ちょっとだったけど算定表ほぼ満額が取れたんですよ http://www.courts.go.jp/tokyo-f/vcms_lf/santeihyo.pdf 現実の裁判所が嘘みたいだからしかたないんだけど、無闇に嘘扱いしないでね))
さすがにこれは酷いということで国会でも「親子関係断絶防止法」が議論になってるけど、たぶん通らない。
https://news.yahoo.co.jp/byline/komazakihiroki/20170308-00068455/
裁判所の調停や審判に持ち込まれているような場合、夫婦間でかなりの葛藤があって、敵対関係があって、持ち込まれるのが大半なんではないですか?そういう場合に面会交流を継続するのが、本当に子どもの福祉にかなうのか、慎重に考えるべき
実はこの「夫婦間の葛藤」や「敵対関係」は私が作ってるだけで実際には夫に非なんか一切無いんだけど、勝手にこう解釈してくれて、私の我が儘じゃなく「子供の福祉のために」面会をやめろと言ってくれる。
夫はこれからどう出てくるのかな。
「会わせろ」と連絡してくるのを警察に相談したらストーカー扱いしてくれたので、今はそれもない。
当たり前だよね。
少しでも振込を怠ったら私から会社に連絡がいき、給料を差し押さえられるんだから。
弁護士にきいたら、次の裁判ものらりくらりやってれば絶対に勝てるんだって。
ただ、一生ずっと面会ゼロにするためにはひと工夫必要らしいので、今それをやってるところ。
その中身は内緒だけどね。
この国は最高。
結婚してだいぶたち、結婚当初も今も、子供が欲しいという気持ちがほとんど芽生えず、周囲が子持ちになっていくことに息苦しさを感じはじめています。
そもそも子供が苦手、ということに加えて、自分は精神疾患があったり(今はとりあえず寛解してる状態)、アダルトチルドレンの気がある。
復職後に病気再発を数回経験しているうえ、年齢的にも正社員としての再就職はほぼ無理。
在宅のお仕事をしつつも、生計立ててるといえるレベルじゃなくて、それはそれで自分が嫌になっている状態。
この状態で、子供を持てる自分が全く想像できないのです。むしろ恐怖心しか湧かない。
夫は、私が病んでるときにも投げ出すことなく治療に協力してくれた人。
子供がそこまで好きなわけじゃないらしく、「無理して子供持つこともないんじゃ?」と言ってくれている。
そして、「子供持つことになったら病気再発するんじゃ?」と心配している。私もそう思ってる。
「孫の顔みせて一人前」とか、「子育てしてこそ大人」とか、そんなことを言われたら、今の私は一人前じゃないんだなぁ…とまた自分が嫌になる。
特に最近は、年齢的なことを心配されてか「今産まなかったら後悔するよ」とか言われるし。
そんな安易な気持ちで子供産んで、その後の子供に私の影を落とすようなことするほうがよっぽど辛いわ。
保育園落ちた、って話を聞いてると、「子無しでも苦しい、子を持っても苦しい」って思えてくる。
希望がなくてつらい。
昨日バズってたこんな男性は絶対ムリ!2017年もあなたが結婚できない15の理由 - 妊活ベイビーこれが元ネタ。
年末年始に帰省し、親に「結婚まだ?」「孫の顔が見たい」と言われた方も多いと思います。
「2017年こそは結婚したい・・・」と思っていても、なかなかそうはいきません。
今回は、「こんな女性は絶対ムリ!2017年もあなたが結婚できない7の理由」と題して、イケメンの僕から見たNG女性の特徴を書いていきます。
常に将来の話ばっかりしている女は、どんな男性からも結婚したいとは思われません。
例えば、
男性は、将来の話ばっかりしてくる女性と結婚したいとは思いません。
結婚したい男性が現れたのであれば、男性自身との将来・未来については彼に任せ、また、男性自身に問い詰めるような行為はやめましょう。
お金の使い方に関して、計画性のない女性と結婚しても幸せにはなれません。
例えば、
一緒に生活する上でお金は非常に重要です。お金の価値観が違うと男性は将来について不安になってしまいます。
自分にお金がいくら入ってきて、いくら出て行くのかを把握する必要があります。まずはレシートを取っておいて家計簿とかお小遣いアプリをつけて支出を確認することから始めると良いと思います。
毎月、自由に使える金額を決めてきちんと貯金することをお勧めします。
思いやりのない女性とは多くの男性が結婚したくないと思っています。
例えば、
確かに感受性は人それぞれですが、自分の言動がどう響いているのかを察知できる想像力は、いくつになっても必要なものです。お互いの幸せのためにも、思いやりの心を大切にしましょう。
本人は気づいていないことが多いのですが、相手のミスやアラを見つけては細かいことをネチネチと責め立てる女性とは結婚したくないと思う男性は多いです。
例えば、
結婚して同じ空間で暮らすのに、このように「厳格すぎる」態度で毎日接してこられると、息苦しくなり逃げだしたくなってしまいます。
「自分も含め、すべてを完璧にできる人間はいない」ということを理解して、「パートナーのミスは自分がカバーする」くらいの広い心で接することを心がけましょう。
気が短くキレやすい女性は男性に嫌われてしまい、結婚も遠のきます。
例えば、
これでは彼氏も疲れてしまうし、一緒にいて安らげるとは到底思えませんので、結婚相手としてみられません。
短期は損気です。短期を起こす前に一度深呼吸をして、彼氏に寄り添う気持ちを持ってみましょう。
時間にルーズな人も困りますが、厳しすぎる人も辛いものがあります。
例えば、
化粧のノリが悪かったり、急に体調が変わったりとか、男性から見れば些細な理由でも女性にとっては大切な理由なのです。
結婚はビジネスではありませんので、デートに厳しい時間管理を求めて相手に味気なさを味わわせないようにしたいものですね。
共働きはありえないと思っていることは、男性が結婚したくない女性の特徴です。
例えば、
確かに男性の中には、自分の収入だけで家族を養っていきたいという人もいると思います。上場企業の役員クラスなら余裕でしょう。
ただし、現代の男性の収入はあなたが思っているよりも全然少ないんです。養いたくても養えないので一緒に働いてくれる女性が良いです。
多くの男性が将来的には結婚したいと思っていますが、女性と違って出産もないのでそれほど焦っていません。
自分以外の相手への配慮はできるか、金銭感覚が釣り合うかどうか、衛生的に問題がないかどうか、感謝ができる思いやりのある人か、基本的なマナーはあるか、など細かい部分をチェックした上で問題がなければようやく結婚するかどうかを検討します。
もしあなたに「結婚できない理由」の項目が1つでも当てはまるのなら、早急に改善しないと一生売れ残りババアになってしまうので頑張ってください。
家族が認知症になると、自分のことを忘れたりしてショックだとは思う。
でも、今、一番認知症と闘っているのはおばあちゃんなんだよ。
おばあちゃんの「あれ?」って思う行動は、
認知症の症状と闘った結果なんだよ。
これは、おばあちゃんが今の認知症になった自分自身に対しての解釈、
まさに戦っている結果なんだよ。
色々なことが認知症になってできなくなって、
それ以外は今までのおばあちゃんのままだよ。
忘れたら、また説明すればいい。
1時間後には忘れているかもしれないけど、また説明すればいい。
今日が楽しく過ごせれば、それでいいんだよ。
今が何月何日かわからなくても、
もてなす準備ができなくても、
って思ってもらえれば、忘れてもいいんじゃないかな。
何度も大きな病気と手術を繰り返し、その都度不死鳥のように復活して帰ってきたおばあちゃん。春先から体調を崩してたけど、心のどこかで今回も大丈夫なんじゃないかなと思ってた。
どんどん弱るおばあちゃんが心配で、去年は10回くらい実家に帰って顔を見せた。もうすぐ初ひ孫に会えるからねと伝えると、おばあちゃんも笑って少し元気になった。
でもだめだった。寿命だったんだ。ひ孫の顔を見る少し前に亡くなってしまった。
最初は実感がなかった。けれど正月実家に帰った時、生まれて初めておばあちゃんが出迎えてくれなかった。
「よく来たね。お腹すいてないかい?」会うたびに必ず言うあの言葉は、もう二度と聞けないんだ。
悲しい。辛くて涙があふれてくる。
亡くなる間際に「おばあちゃん、いままでありがとうね」と伝えたら、朦朧とする意識の中「どういたしまして」と、目を閉じながら笑って返してくれた。
あれで終わりになってしまうとは思ってなかった。なんで。どうして。もっと一緒にいたかった。子供を抱いてほしかった。孝行も全然出来てない。
信者をブロックしていたけどレコメンドで久保ミツロウのクソみたいなツイートが表示されてしまった。私たちLGBTは久保ミツロウのような人をカテゴライズしマウントを取りバカにしながら生きるタイプの人に「でも私すごく理解あるでしょ」っていうドヤ顔をする材料になるためにLGBTをやっているわけじゃない。
腐女子でもいい。偏見があってもいい。結婚しないことを不審な目で見られても、経済的に大変なことがあっても、親に孫の顔を見せてあげられなくてもいい。
でも久保ミツロウやその取り巻きに、理解のある優しいワタクシ、の根拠として勝手に使われることだけはいやだ。
何も知らずに批判するのもどうかと思ってアニメは見た。けど、そこにあるのは全部が全部「ホモってこういう感じでしょ?萌えるでしょ?」っていう押し付けだけで、理解のりの字もなかった。しかも実在の人物をモデルにしているんですってね。勝手に決めつけられたセクシャリティによってしんどい人がいるということを知っていたら、「この人をモデルにしましたけど、それではつまらないのでこの人を勝手に男性にしました」なんて口が裂けても言えない。
http://anond.hatelabo.jp/20161207120909
奥さん以外に素人の女の人、知りません。(この前、女性の知人に「気持ち悪い」といわれてへこみました。ええ、気持わるいです。)
男が越えなければいけないハードルは、①いい印象を与える②定期的に会う③気持ちは隠す
男女関係のほとんどは打算から始まります。元増田さんもわかっておられるかもしれませんが、恋愛が上のような7段階を経るという想定自体はフィクションでしかありません。いい印象がなくても、ドキドキがなくても、焦らしに焦らされる段階がなくても、タイミングを逸っしまっても、キスなんて起きるときには起きます。定期的に会ってくれたり、アプローチに応じてくれたり、キスを受けいれたりするのは、女性が男性に好意をいだいているかどうかにもよるでしょうが、いろんな打算から「したくないけど、とりあえず、拒否はしない」というケースが多いはずです。あるいは、「かわいそうだから、あんまり好きじゃないけど拒否しないでおこうか」みたいな「やさしい」対応もすくなくないのかもしれません。現実の恋愛や恋人関係や結婚は、売春のような打算だけの関係と「フィクションのような恋愛」の間のどこかに位置しているものだと思います。(女性経験すくないのにエラそうですみません)
「フィクションのような」恋愛感情がなければセックスなり、恋人関係なり、夫婦が成立しないと、多くの人が誤解しています。しかし、戦前はほとんどの人が見合いで結婚していたわけですし、しばらく前まで正社員のかなりの人は、社内「恋愛」を経て結婚してました。それは外見は恋愛にみえなくもないけど、多くの場合、実質は見合いとそうかわらないものです。すくなくとも日本人の多くは「フィクション」のような恋をする能力に欠けているように感じます。むしろ、周囲の圧力と打算によって始まった関係を、恋とはいえないけれども、感情のこもった信頼関係に長い時間をかけて帰着させるのが、日本人の多くにとってのまっとうな男女関係のように感じます。もし、純粋な「本当の恋愛」というものがあるとすれば、それが成立するには、1から7の段階が必要かもしれませんが、私はそういう恋愛をしないで結婚しましたしし、周囲にも、そういう恋愛している人をみたことがありません。(そういう恋愛している気になっている人は多いですが)
「逃げ恥」は打算からはじまった男女関係を正面から描こうとしている点でユニークですが、ハグすることさえ、元増田さん同様に7段階を想定している点で、ちょっと残念に思います。そんな7段階自体、ほとんどの男女関係には存在していないのですから、「⑥と⑦こそが童貞に立ちはだかる難問」なんてことも、そもそもありません。多分、日本の社会の中で、仮に契約結婚した男女がいて、彼等の関係がセックスまでいたるきっかけとして可能性が高いことは、第一に、いずれかの親が孫の顔をみたいとごねることと、第二にセックスできる可能性のある相手がほかにいないもとで、男と女のいずれかが、セックスをがまんできなくなるということでしょう。男女いずれかの打算にもとづいたセックスの提案なり、セックスしたいという意思の表明をパートナーがうけいれるかどうかは、くりかえしになりますが、多くの場合、「ここは拒否すると面倒だな」という打算ではないかと思います。
こういうことを書くと男の年収800万円なければ、恋人なり結婚なりができないかと思うかもしれませんが、対象となる女性にとって、年収以外の面もふくんで、購入可能な馬券の中でそこそこお買い得だとおもってもらえればよいのであり(女性のほうも、男性のほとんどが年収が800万もないという現実をうけいれる必要がありますが)、フィクションのように「世界で一番」とか「あなただけ」とか思ってもらわなくてもよいのです。その確率を安直に高める方法は、おそらく、自分のほうでも馬券をたくさん買う(女の人のいる場所にいく、できるだけストライク・ゾーンを広くとる)ことだと思います。このことにとりくむことは、たまたま、周囲に女性の知人が多い環境があれば、これはそんなにむずかしいことでありませんが(奥さんとつきあい出した頃の私自身がそうでした)、そうでなければむずかしいことでしょう。でも、フィクションでしかない「7段階をどうこえるか」よりは実現性が高いはずです。
結婚1年目。私27歳、旦那42歳。いわゆる年の差婚。共働き。
私の両親が孫を所望している。
私はなんとなく昔から「こどもを育てる責任」のようなものが自分には重すぎるとわかっていたので、こどもを産まない道を選ぶつもりだった。
ふだんの生活が自堕落すぎて、親も「こいつは結婚しない(できない)」という態度。あまり期待はなかったように思う。
ところが運良く旦那と出会い結婚できたことで、産めるかもしれない、という期待のようなものを抱いてしまったようで。
特に母のプッシュがすごい。「30までには産まないと!」と産むことを前提に話をされる。
そして困ったことに、私自身も、最近「産んでも良いかな」と思いつつある。
もともとこどもは好きだし、旦那の甥っ子姪っ子の世話も月3くらいしている。正直かわいい。
それなら産めばいいじゃん、と思われそうだが、もうひとつ困ったことがある。同じくらいの熱量で、産みたくない気持ちもあるのだ。
産みたい、産みたくない、両方の気持ちがほとんど同じだけあって、本気で悩んでいる。
産みたい理由
・こどもかわいい、すき
・母親になりたい
・世間体が保たれる
産みたくない理由
・妊娠こわい
・出産こわい
・痛いのが苦手
・ストレスに弱い
・お金がかかる
・旦那の年齢
自分勝手な理由ではあるけれど、どちらも素直な気持ち。産みたいけど産みたくない。育てたいけど育てたくない。
30までは悩んでいられるけど、女にはリミットがある。そのときどういう決断をしたら後悔がないのだろう。
そもそも後悔しない選択がないのかもしれないけれど。
母方のおじいちゃんおばあちゃんが大好き。
お母さんには弟がいたんだけど、お母さんが当時20歳前半のころ、母弟は20歳前後。雪が積もって地面も凍ってつるつるだった日の夜中に、車で友達と出かけて事故が起きて亡くなった。
私にはお兄ちゃんとお姉ちゃんがいるんだけど、子供は2人をぐらいかと思ってた両親に、おじいちゃんが「弟が亡くなったのだから、もう1人ぐらい孫が欲しい」と言って産まれてきたのが私。
おじいちゃんおばあちゃんが居なければ、そしてお母さんの弟が死んでいなければ私は産まれてなかったんだなー。
なんやかんやあって、末っ子なこともあって、多分兄妹の中で1番甘やかされて育ってきた自覚はある。欲しいものはなんでも買ってもらってたし、なんでも食べさせて貰えた。(現在元気にピザ)
おじいちゃんは、10年ぐらい前に家で血を吐いて倒れた。その時、お姉ちゃんがおじいちゃんの家に泊まっていて、あの時の光景は今でもトラウマだってお姉ちゃんが言ってた。原因はお酒の飲みすぎで肝臓?に穴があいたとか、なんかそんな感じ。今でもアルコールは制限かけられてる。けど、これがじいちゃんのガソリンなんや笑といいながらこっそり飲んでる。おばあちゃんにも怒られてるのに笑
おじいちゃんが、おばあちゃんが大好き。私のことを愛情たっぷりに育ててくれて、私が将来おじいちゃんおばあちゃんの家に住むことを期待してただろうに、現在私は仕事の転勤で上京してる。地元までは新幹線で片道4時間。なかなか帰れる距離ではない。
大学の学費もおじいちゃんが全部出してくれた。奨学金借りたらお前が辛いやろって。車の教習所のお金も全部おばあちゃんがだしてくれた。大学の卒業旅行のお金も2人がだしてくれた。金銭面でもいっぱいいっぱい迷惑かけて、支えてくれた。
いつでも家に行ったら嬉しそうに出迎えてくれる。私が免許とってから、おばあちゃんは私には運転を任せるようになった。おばあちゃんは運転するの怖いからって。「おばあちゃんの友達は、よく孫が一緒に買い物に行ってくれない、隣を歩いてくれないって寂しがってる。こんないい年のおばばと一緒に買い物にあってくれてありがとうなぁ」って言ってくれた時は、おばあちゃんと買い物に行くことが恥ずかしいなんて思ったこともなかったからなんだかお礼を言われるのも不思議だった。
おじいちゃんもおばあちゃんもありがたいことに今も元気に2人で暮らしてる。でも、お酒を飲み続けてるせいで数値が高くなったおじいちゃんが今月末から年末まで入院することになった。心配で心配でならない。大丈夫かなって。おじいちゃんにもおばあちゃんにもずっとずっと長生きしてほしい。会うたびに120歳まで生きて、私がおばあちゃんになったら一緒に死んでね!笑、って言ってる。まだまだ恩返しができてない。私が東京に居る間に東京遊びに連れてってあげたい。美味しいものいっぱい食べさせてあげたい。田舎のおじおばであんまり出かけたこともないから、いろんなところ連れてってあげたい。ひ孫の顔を見せてあげたい。
あーーおじいちゃんおばあちゃん大好き!!ずーっと健康でいてくれ〜〜!!
おじいちゃんおばあちゃん好きすぎて死んだ時のこと想像して、想像するだけでボロボロ号泣!ヤフーで「おじいちゃん 死んだ」「おばあちゃん 死んだ」って検索して知恵袋とか文章読んでボロボロボロボロ泣いてる!今も書きながら涙が止まってない!!笑
一人で住んでいた母が死んだ。
死ぬ10日前くらいには電話で話してて、いつもどおり、喧嘩をして切った。
最後の会話は、
俺「そんなこと言われる筋合い無いよ。切るからね。」
母「なにそれ…。」
だった。
遺体確認で見た母親は少し腐敗が進んでいて、触れることさえできなかった。
なんとか諸々の手続きを片付けながら一ヶ月とちょっと経ったらしい。
仕事にも戻って、普段通りの生活になり、ゲームなんかもするようになった。
普段通りの生活になればなるほど、母が居ない事実が嘘に思えてしまう。
生きてた間は嫌いだったはずの親は、やっぱり大きい存在で、失いたくない存在だったんだなと実感する。
50で死んでしまった母親に、まだ何も返せていない気がするし、何もしてやれなかったななんて思って、
でも後悔してもどうにもならないことってあるんだなぁみたいな。
この後悔をどこまでも引きずって生きていくんだろうか、俺は。
母親に面と向かって感謝の言葉とか言ったり、結婚式とか孫の顔見せたりしたかった。
二度と会えないんだよな、もう。
面白いことを言っている人がいたので少し考えてみた。
一体このB子の感じる「すみません、すみません」は誰に対しての引け目なのだろうか?
「自分が子供を作らないことで日本国の人口増加という課題を叶えることができなかった」
という国粋的な責任感からの「すみません」ということになる。※
だが元になっているエントリでは話題の中に特に日本の人口や社会不安について女性同士で話し合いをしているようには思えない。
むしろFacebookなど友人同士のつながりの中で自分だけがしていないということについての引け目や劣等感といったものが感じられる。
「(自分が知っている)周囲の人がみんなやっていることをしていない」
この場合例えば他の国籍を持った人と結婚し、肌の色や眼の色の異なる子供を別の国籍で産んでも特に「すみません」とは思わないだろう。
もう少し深く考えてみると、女性として生まれてきたのに生を全うしていないという意味にも「すみません」がある可能性もある。
人が生まれてきた意味というと宗教論になってしまうが、少なくとも身体能力的に子供が産める女性に生まれていながらそれをしなかったというのは
ある意味すべきことをしなかったという申し訳無さにつながってもおかしくない。
この場合は
「女に生まれて子供を産める能力があったのに子供を生まなかった」
という自分自身の持っているものを使わなかったという意味で「すみません」がある。
他にも「親が孫の顔を見たがっていたのに、すみません」かもしれないし
「将来生まれてくるはずだった自分の子供をこの世に送り出せなくてすみません」があるかもしれない。
そこで話を最初に戻すが、B子が「すみません、すみません」と思わなくてもよい世界とはどういうところなんだろうかと考える。
結論を言えば「女性が自分の生を自分のものとして全うできる人生」ではないかと思う。
元エントリのブクマをみても「独身だが“すみません”は感じたことはない」という意見もちらほら見られるが、それは既に自分の生(性)は自分のものであるという割り切りができているということだろう。
自分の生を自分のものとして全うするというのは何も絶対に子供を産んではいけないということではない。
B子の感じた「すみません」というのは自分が自分として生きるということを心の中で申し訳なく思っているからではないかと思う。
※余談だがこの「日本の少子化のために産むのが義務」という考えで行く場合、一人殺しても五人産んでいればOKという理屈が成り立ってしまうい計算になるがそれはよいのだろうか?
女性と付き合っても付き合ってもまったく長く続かない。
自分はアラサーなんだけど今まで生きてきて10人ぐらいと付き合ってきたけど1年以上続いた試しがない。
特にここ最近はひどい。2年で4人と付き合って、1ヶ月→4ヶ月→2ヶ月→2ヶ月。
強がって「話し合いのうえ…」って言いたいが、ぶっちゃけ俺が振られたと言っていい。
まあ原因を簡単に言うと、付き合うときにこんな人なんだろうなとかこういうことしてくれるかな、とかっていう想像や期待を裏切ってるんだろう。
ただここ2年で付き合った人たちは大きなひどいことをした記憶がないから、たぶん小さいことの積み重ねだと思ってる。
でもアラサーで周りは結婚しているのにこんなことで悩んでいて本当に恥ずかしいことなんだと思うけど、どうしたらいいのかわからない。
好きっていう気持ちが強かったらしいから、次の人は重くならないようにバランスを取ろうとしたらそっけないと言われた。
で、その次の人でまた好きっていう感情を強めにしたらしたで重いって言われる。
こんなのが続くともうお前は恋愛する資格がないって言われてる気分になる。
こうして恋愛するのに臆病になって、これから目の前にチャンスが来ても逃すようになって、それで歳をとっていって1人孤独死していくのかな。
ああ、つらい。
父親もリストラされて年金生活までの5年間は、譫妄状態になった祖母の看病で祖母の年金頼みの生活。
母も一緒に看病していたが、さすがに介護の限界で一昨年に祖母を病院に収容。一年で寝たきりになっていつ死ぬともわからぬ状態。
自分も薄給かつ過酷な労働、自分の適正のない会社で労働を積み重ねた結果。精神を病んでまともな仕事に就けない体になってしまった。
どうしてこんなことになってしまったのか。
両親が子供たちのために貯めた結婚資金も使われることはなく、子供たちもみな両親自身のために使ってくれるようお願いしている。
他の兄弟も一時期経営が不安で定期的に給料が未払いがあったような中小企業に勤めてたり、介護職などで忙しくとも豊かではない暮らし。
みな、仕事に忙しく休みがないのもあり出会う機会もなく生涯独身で終わりそう。
出会いの場がなさ過ぎるせいか、また別の兄弟の一人はそれなりにいい生活してるようだが、
新興宗教にはまって金を宗教につぎ込んでこっちにも布教活動してくるから、親戚一同に腫れ物扱いになってたり……。
末っ子の自分すらもう40近く。なんの職能もない自分。職業教育受けたところで何にもなれそうにない。
20年前は孫の顔を見るのが楽しみといっていた母親も今となっては諦めたようで、
少ない年金で自分の老後をどうやりくりするか必死に考えいてる。
生きる意味があると考えているのは人であり、
個々人の価値観によって理解不能と相違と反発が発生するため曖昧性を回避できない。
よって絶対的な評価を下すことはできず、本人の中にしかその動機付けは内在されていない。
それでも生きる意味はあるんだと信じてやまない人間に対して問いかける。
「それではその生きる意味がもしなくなったら、すぐその場で死ぬのか?」
総ての人がNOと答えるだろう。
普段から生きる意味など考えずに生きている人間の方が多いではないだろうか。
「生きている意味があるから」ではなく「死ぬ理由がないから」である。
死ぬのは死ぬ理由を見つけたからであり、生きる理由を失ったからではない。
明確に生きる理由を持ち合わせていない人間が今、こうして生きているのは彼らに死ぬ理由がないからだ。
例えば「大金持ちになりたい」という希望は言い換えると「大金持ちになって贅沢をして『死にたい』」だ。
科学者になって世の中に貢献したい→科学者になって世の中に貢献した『後で死にたい』だ。
家族を作って子どもを育てたい→家族を作って子どもを育てて『孫の顔をみて死にたい』だ。
生と死は相反する関係性ではなく時間の尺度を変えることでどちらも同じ状態として捉えることができる。
その死へと向かう途中での暇つぶしの行動に人間は価値を見出したり、やりがいを感じたりするが、
そのすべての行動と結果は死という最終着地点までの寄り道と余興にすぎない。
どれだけ死という行動以外に大きな価値観を見つけて、
それを認めたとしても死という行動と結果は変えることができない。
だからこそ人は死以外の価値観を変えることができるし選択する権利を保有している。
肉体的・精神的に死ぬ理由が発生したときに死という結果へと帰結する。
そしてその間に許された余興をどのような形にして、
どこかの誰かに認めてもらえるくらいに綺麗な着地を決めるか、
その死への落下を決めることだけがかろうじて人間に許された行為だ。
人はそれを生の理由として捉えようとすることで死の恐怖を和らげようとする。
さも、自分は何かのために産まれてきたのだと信じることで死の事実から目を背けようとする。
しかし人間が何を考えどう行動しようとも総ては死への引力に逆らえずに引き込まれ終わりを迎える。
死という結末をどのように迎え入れるかを模索している。
どのように生きるかを考えると見失う。
どうせ、死ぬ。
どのように生きるかではなく、どのように死ぬかを考えよ。
初めて歩みたい道がその眼に写るだろう。
それがきみだけの『寄り道』だ。