面白いことを言っている人がいたので少し考えてみた。
一体このB子の感じる「すみません、すみません」は誰に対しての引け目なのだろうか?
「自分が子供を作らないことで日本国の人口増加という課題を叶えることができなかった」
という国粋的な責任感からの「すみません」ということになる。※
だが元になっているエントリでは話題の中に特に日本の人口や社会不安について女性同士で話し合いをしているようには思えない。
むしろFacebookなど友人同士のつながりの中で自分だけがしていないということについての引け目や劣等感といったものが感じられる。
「(自分が知っている)周囲の人がみんなやっていることをしていない」
この場合例えば他の国籍を持った人と結婚し、肌の色や眼の色の異なる子供を別の国籍で産んでも特に「すみません」とは思わないだろう。
もう少し深く考えてみると、女性として生まれてきたのに生を全うしていないという意味にも「すみません」がある可能性もある。
人が生まれてきた意味というと宗教論になってしまうが、少なくとも身体能力的に子供が産める女性に生まれていながらそれをしなかったというのは
ある意味すべきことをしなかったという申し訳無さにつながってもおかしくない。
この場合は
「女に生まれて子供を産める能力があったのに子供を生まなかった」
という自分自身の持っているものを使わなかったという意味で「すみません」がある。
他にも「親が孫の顔を見たがっていたのに、すみません」かもしれないし
「将来生まれてくるはずだった自分の子供をこの世に送り出せなくてすみません」があるかもしれない。
そこで話を最初に戻すが、B子が「すみません、すみません」と思わなくてもよい世界とはどういうところなんだろうかと考える。
結論を言えば「女性が自分の生を自分のものとして全うできる人生」ではないかと思う。
元エントリのブクマをみても「独身だが“すみません”は感じたことはない」という意見もちらほら見られるが、それは既に自分の生(性)は自分のものであるという割り切りができているということだろう。
自分の生を自分のものとして全うするというのは何も絶対に子供を産んではいけないということではない。
B子の感じた「すみません」というのは自分が自分として生きるということを心の中で申し訳なく思っているからではないかと思う。
※余談だがこの「日本の少子化のために産むのが義務」という考えで行く場合、一人殺しても五人産んでいればOKという理屈が成り立ってしまうい計算になるがそれはよいのだろうか?
※余談だがこの「日本の少子化のために産むのが義務」という考えで行く場合、一人殺しても五人産んでいればOKという理屈が成り立ってしまうい計算になるがそれはよいのだろうか? ...