はてなキーワード: 自己満足とは
ガチでしない人もいる。
多くは付き合いで嫌々。連絡会みたいなの兼ねた食事会でも来ない。
コロナ前は惰性でお付き合いあったけど、断りたかった人が断るようになったのもある。
自分は自炊派だけど外で食う方が楽、美味い、家でしにくい(寿司天ぷら焼肉)のと飲み会は外。
完全栄養ドリンクとかにはまったりするし、時期によってさまざま。
暇すぎて自炊したくなるのは事実。色々なパフォーマンス考えたら外食が選択肢に入ってきにくくなる。
ウーバーとかも面倒なので、冷凍の牛丼をチンしたり、玉ねぎ増やしたり、汁取っといて黒毛和牛足したり、卵でとじたり。
これは少数派か。優待狙いで株買って飽きて配りまくったりにはなる。
初期は楽しいので、結構通る道でもあり、話を盛りたくもなりそう。
てか、外食しないのと矛盾しとるな。同じ人でもどちらも経験するから、まとめて語る意味ないが。
株の銘柄とそこの系列店が結びつかないのは多々ある。よほどのところじゃないと、優待のためだけに調べて買ってるので、記憶に残らない。
持ってても言いにくい車が多い。
業務用のワゴンか軽トラか、あと自己満足で買って馬鹿にされる微妙系と。
完全に身元バレするような車か。
車の話面倒なので、持ってないと嘘をつくケースも
なんかあったらタクシー呼べた。
運転手雇うほどでもないけど足には困らないという人も居る
家庭持ちで車ないケースは珍しいな、確かに。家庭のほうが虚像かもしれない。
金持ち拗らせて何かを拒絶したり何かにハマりまくったりという時期は誰にもあって
極端な例も多いので、何もかも嘘とはいいがたい
詐欺みたいな手口とか、注目されたくて嘘ついてる頭悪いレスとかにこいつは偽だが、似たようなことしてるなぁで乗っかることもある
50代以上とそれ以下で全然生活様式というか考え方違ってたりもするしなぁ。
50オーバーはほんとにテンプレみたいな金持ち多いし、頑固な変人も多いし。
あと田舎には先祖から継いだがようわからん税理士任せとかも多く
接客業に従事しており、わたしの職場はとある販売店だ。自店舗の他、周りに別の様々な店舗がある。ショッピングセンターとかデパートとかそういう所のフロアを好きに想像して欲しい。自店も周りも女性販売員ばかりのフロアで、男女比は9:1くらいか。周辺の販売員たちは一切会話をしたことが無くてもなんとなく見覚えのある存在になっていくが、男性に対し特にその傾向がある。
その中の1人に、わたしが勝手に3児の父とあだ名している人がいる。別にその人が子供連れで職場に現れたことがあるというわけではない。体型ががっしりしていて貫禄があって、なんとなくいい人オーラがあって、3児の父ですと言われても納得するなあ、という妄想が元でそう呼ぶことにしただけだ。そしてたまに袖をまくって仕事をしているために見えてしまう腕が赤みのある白い肌色をしており、ブルベ夏か?としげしげ眺めたこともある。3児の父ブルベ夏お兄さん。勝手すぎるあだ名がじゅげむじゅげむと続いていく。言葉を交わしたことも接点も無い女にこんなこと思われて歓迎する人なんて居ないだろと思うくらいの感覚はわたしにも残っているので、誰にも言ったことは無い。
わたしは積極的に人と関わりをもってエネルギーを消費することや、傷付いたり自己嫌悪する事に伴う心の負荷を自分にかけたくない。他人を勝手に客体化して満足する自分の身勝手さに対し既に自己嫌悪は生まれているけれど、人間誰しも身勝手さは抱えているものだから許されたい。そういう身勝手さを恋と呼ぶのだろうか。でもわたしは恋に伴うあらゆる行動を何も起こしたくない。一条ゆかり作品をバイブルのひとつとしている割に、なんという腑抜けだろう。恋愛や結婚に関する欲をひとつ挙げるとしたら、これに尽きる。「弄せずしてマンションの隣で気の合う人間と別居婚がしたい」。黄桜可憐さんにぽかんとされてしまいそうだ。
3児の父ブルベ夏お兄さんが本当に3児の父だったら少し傷付くクセに、どうして予防線を張るんだよ。別に焦がれ死ぬほどの恋じゃないし無理やり関わりを持とうとするのめんどいし…なんて思うクセに、どうして3児の父ブルベ夏お兄さんのがっしりした身体に抱きついたらどんな感じかなと想像するんだよ。
そんなふうに思うだけ思って、相変わらずわたしはぼんやりとお兄さんの姿をチラ見したりしなかったりして過ごしている。
この恋愛偏差値の落第級の低さを現実の自分の生活圏で晒すのがあまりにも“だから何?”な話題であると踏み、ここに匿名で綴る。だから何?であることに変わりは無いけれど、少し自分の気持ちが整理出来て、自己満足。落第どころか受験資格すら無いな。
こちらは、日本放送協会及び民間放送の番組監視審議委員会関連団体・
今回の抗議内容について
その一
同作の放送をしなかったBS・CS局への徹底的な抗議を表明します。
何でAT-X値上げの前に、
なぜ、世の中が世知辛しくなる前に放送を出来なかったのでしょうか?
遅すぎますよ。
BS11に対して何度もBS無料初放送リクエスト送ったのに応じず、アイツらは数年間にもおよび自己満足な空き枠の使い方を続けてきました。
BS日テレもBS12も薄情すぎる、同じ作品を短いサイクルで再放送を繰り返しやがって。
アニマックスも二類期のときにやればよかったのにしなかったのかよ
で値上げ後のAT-X使わなきゃいけないザマ、ふざけんなや。
その二
他にも放送するべきタイトルあったのにそれを無視し続ける無能局どもについて。
機動戦士ガンダム逆襲のシャアだってサブカル界隈の頭がジャンプの事でいっぱいになる状況での放送となったわ、
分が悪すぎじゃなかったか、2021年か2022年に放送出来なかったのか?
閃光のハサウェイやナラティブのストーリーに?(はてな)と思う視聴者何名かいらっしゃったのに、ホント誰のせいだよ?
あの2日間のうちに「Fate/stay night 【Heaven's_Feel】第三部」も放送すりゃ良かったのにあのクソ局は…
さらにそのクソ局はこの数年にどんな酷い旧作再放送ラインナップだったか、
2021年は大抵酷かったぜ。
神なた、シグルリ、ひぐらし業、デビルズライン、スケスタ(スケートリーディングスターズ)、
そしてラスダンなんてラスドタの宣伝のためだったとはいえラスドタは21年に発表して
で始まったら
サ終決定後に謎議論をリプ欄でしてる者たちも不在。
全日では境界戦機を半年通しでと21に負けじと散々なことあったさ。
23年も新作すし詰めで
「当時転売ヤーしか買えないおもちゃ(プラモ)にめされて」(テレ東幹事)のサイマルに日曜24:30使われてその他は新作すし詰め状態。
23春というシリアス多すぎ(他局含む)のアフターケアを今更のクールにやるとか馬鹿じゃねえの?夏クールにアフターケアやった方が良かったんだよ、クソが。
人間失格の大人たち(「 白聖女と黒牧師」でのフレデリカ過労死問題)も同様の若者(「デキる猫は今日も憂鬱」 過去回想の汚い沙慈)も出てこねえ清らかな日常コメディをあの時に1つでも用意するべきだったわ。
それに今期の11も酷い有様だわ。
来週(2/21)リーズナブルBOX発売のたまこまーけっとに何で再放送の機会やれなかったんだ?
おかげでたまこの方に出費せざるを得なかったわ。
ああ、「じゃあどうしたら良かったんだよ?」と言われかねないような文句を言いまくるようにしたのは誰?
相手に対して「〜してほしい」という期待は一切抱かない、もし抱いたらすぐに捨てる
最も愚かなのは「俺が相手を思う気持ちと同じくらい、相手に俺を思ってほしい」と期待すること、唾棄すべきだ
勝手な期待を抱いて勝手に裏切られた気持ちになるのは、精神衛生上非常に良くない
俺は特別でなく、更にはある女性の特別になれるはずがない。そう願うのは、白馬に乗った王子様に見初められる以上に現実逃避した妄想だ
相手に対して「〜したい」という期待は一切抱かない、もし抱いたらすぐに捨てる
最も注意すべきは「言いたい」ことを求められてないのに話してしまうこと
相手から求められたとき、雰囲気的に乗るべきなとき、初めて話せばいい
つい自身の考えや経験を「言いたい」と思ってしまうが、相手が聞きたいことを話すべきであり、俺の考えや経験など相手は興味がなく知りたくも聞きたくもないし、反応に困るだけだろう
良し悪し問わず、もし感情的になってしまったら、口を閉じて時間を空けるべき
感情的になると、密かに抱いていた「〜してほしい」「〜したい」ことが漏出しがち
そうして俺なんかと卑屈自虐にもなりがちだが、それらは相手にとっては不愉快なだけで、自己満足の押し付けであると恥じる
行動指針が卑屈そのものによるのは否めないが、だからといって卑屈に振る舞わず、もっぱら自己批判・自制の道具にすべきだ
一方通行な罵声に近くなることすらあり、言われた相手も困るだけで全く建設的でない
録画録音されて全世界に配信されたとしても大したダメージはないような、そんな振る舞い、会話を目指すべきであろう
チャットで会話するときは原則、相手が話す以上の文字数で話さない、相手が取った間より大きな間を取るよう心掛ける
もしかしたら「自分のことを話してほしい」「俺になにかを尋ねてほしい」、「俺のことを話したい」「相手になにかを尋ねたい」と思うかもしれない
そういった気持ちを整理した状態で、上の制約を守ると、俺に知って欲しいとか俺を知りたいとか、そういう興味を全然抱いてくれてないんだと現実がわかる
会話は止まるかもしれないがそれでいい、そもそも相手は俺と会話したいなどと思ってはいない
暇な時間を潰したいとき、偶然気紛れに目に入った俺のメッセージに、考えなしのそれっぽい文字列を返しているだけだ
血の通った会話をしてると思っているのは俺だけで、相手は思考停止して無機質な文字列を返す暇潰しをしてるだけだ
人類の半数は女性であり、外見は否が応でも他人の目に入ってしまうわけだが、価値観の大きな乖離があるとき、キモいという感情を抱かれるかもしれない
半数からどう見られ考えられても、他人だから知り得ないから俺には関係ない、と考えるのは利己的で幼稚であり、あまり望ましくないだろう
TikTokやInstagramなどのアプリが女性ないし若い年代に普及?したことにより、彼ら彼女らの「自分がどう見られるか」という意識は思いの外相当に高いであろう
俺が望むのは隠れて生きることであり、努力で緩和できる価値観の乖離を放置することによって、目立ち謗られてるという疑心暗鬼は少しでも減らしたい
年頃の女性の外見に対する意識や努力を尊敬して倣えば、もし小さく縮こまっている俺の姿が視界の隅に入っても、あえて取り上げて謗られはしない程度になれるかもしれない
・すごいいましめ映画だ
いましめすぎてもはやホラーだった
・Twitterでおすすめ(半信半疑)+filmarksで3.6だったからそこまで期待せず見たけど現時点で今年1位になった 監督の次回作あったら観に行く
これもうホラーだろ…
・手づかみのレストランでの「マッマだけが一方的に楽しいと感じてる会話」が辛えわ…
・仕事の権力勾配ある状態で対等なコミュニケーションなんて不可能だから粛々と役割を果たすことに専念しよう…と思った
・息子君は社会(労働)に出たら否応なくわからせられるしアーティストになったとしても才能上位互換にぶち当たるだろうから調子こける今のうちに調子こいとけ…
ご家族から大切に育てられ、スタイルのいいイケメンでこの時代に自発的に恋愛したがって
アーティスト活動(笑)やるくらいバイタリティあって小銭稼げるくらいには人気稼げる出来過ぎな息子さんやからこれはほっとけマッマのがよほど怖かった
・初手の「ババア配信中は〜」からの「(シャワー中にドア開けて)ごめん!」でもう大切に育てられた子感すごかった
・A24作品で一番好き
なんか監督の自己満足感が少なくエンターテイメントとして伝わるよう重すぎず軽すぎず作ってくれてる感じする
・ネットで「創作者の承認欲求と自己実現の話〜」って聞いてたから「チック、チック...ブーン!みたいな感じかなそれならあんまり合わないかも?」と思って見てみたけどどっちかというと「他人に興味持て映画」だった
・キラキラワークのドヤ感を「他人に影響を与える仕事をしたくないの?!」の一言で捉える的確さよ
・最後のシェルター建築前更地のマッマの写真で「そ、その状況からイチから始めたんなら思った20倍位スゴい人やったわ…」ってなって
・職場の人に絶対「クラシックババア」ってあだ名付けられてるやつじゃん…
・母息子については「よかったね!」ってなるけど父親の存在がキャラの濃さの割にノータッチだったの、人生相談とかで母親から子育てについて相談メッセージ送られてきたが相談内容文面に父親が一切登場しないような不気味さがあった ちょっと父親だけアリ・アスター作品みたいな静かな不穏さ滲み出してて…
・「世界を変えるのは地道な仕事と相手への興味の下りは」ホンママジでその通りでございます…なんだけど他人に影響与える「福祉の仕事」と「車修理の仕事」のくだりに1ミリも関わってない女の子の口から唐突に出たからそこだけ少し「キャラに作者の思想言わせてる」感あった
・運転シーンが常に若干飛ばし気味でいつ横から車が突っ込んで来るかずっとヒヤヒヤしながらみてた
あとマッマの乗ってる車に「生活」の親近感もった
映画の人々、みんなSUV車?乗るから「お金、あるんやね…」ってなるから…
・配信中のババアノックしろよと配信で思想強めの曲やって信者からウヘられる共感性羞恥シーンはぜってえあると思ってたが無くて驚いた¥9000稼げてよかったね!
顔がいいから何でも似合う ピンホールシャツみたいな鎖、顔面が良くないと似合わん
・シコリ赤ランプ草 音楽漏れてないし「あっ…(触れない優しさ)」されるやつじゃん 家にそんな軽々とドリルの穴を…
・思想強めライブハウスの初手に出てきたシンガーの「ぼくはボンクラなので仲間内でちやほやしてくれるこの界隈でやってます!」顔に目茶苦茶わろた 間違ってないにしろ悪意ありすぎだろ!地味に2回出ててさらに草
・息子の曲の「十代にしか刺さらなそうなありふれた曲」感すげえな!顔ファン枠もそこそこいそう
・思想強めこじらせ人間しかいなそうなライブハウスで卒業アルバムに寄せ書きしてもらえる俺らマジ最強お前らとのお別れマジつれえわ…ソングは眩しすぎるからやめろ…やめろ…
・ほんま「今日は来てくれてありがと」「また来てね」の所良すぎた ちょっと涙滲んだ
・タイトル、原題のがよくない?と思ってたらラストの流れ見た後だと翻題のがいい…ってなった
砂場でトンネルを右手左手それぞれで両側から掘ってやっと手が繋がる時のような良さを的確に現しとる…
・ここまで素晴らしい映画で「自分の事ばっかじゃなくて他人に興味関心を持て人の話を聞け」と戒められたのに何で自分は他人の話に興味を持てないんや
興味関心を持とうと思って持てたら苦労しねえ!
仕事が終わって家に帰ると郵便受けに不在連絡票が入っていることがある。
送り主を見るとAmazonになっている。
おかしい。Amazonで買うものは全部「置き配」で買っているのに、なんで置いていかないんだ。
こういうことが何度もあったので、再配達してきた佐川のドライバーに「置き配で購入しているんだから、不在でも持って帰らないでよ」って言ったんだよ。
そしたらそのドライバーが「配送会社ではあなたが置き配指定で買ってるかどうかわからないので、そんなこと言われても困る」って言うんよ。
で、それが本当かどうか確かめるためにamazonに問い合わせ(チャットだが)したんよ。そんなら驚きで、佐川の兄ちゃんが言ってたとおり、置き配指定してても、そのデータはamazon内部でそう記録されるだけで、配送会社には一切伝わってないんだって。
なんじゃそりゃ。だったらなんのために置き配するかどうか選ばせてるんだよ。
システム作ったんならちゃんと機能するように整備しろよ。あの置き配するかどうか選べる選択肢は自己満足か。
一応、amazonが直営している配送会社からの配送なら置き配してくれるらしいので、まったく意味がないわけではないようだが、顧客側では配送会社を選べないので、結局、届くまで置き配してくれるかどうかわからない。
ついでに言えば、たまにamazon直送じゃない荷物でも、置き配されている場合もあって、余計にわけがわからん。会社ごとに置いていくかどうか基準があるのか、ドライバーの裁量なのか。
それで結局、土日の貴重な時間を再配達の荷物を受け取るために家にいなきゃならない。
あ~めんどくさい。
ギリギリ気を張っている被災当事者の心を折らないためには、子供扱いしてあやすのでもなく上から従わせるのでもなく対等にフェアに扱わなければならない。
信頼できる随伴者がいるのだという、寄り添い型の支援、それが基本だっていうのは意見は理解できる。
そして今のこの発災直後1ヵ月未満というタイミングで必要なマインドだろう。
罹災証明手伝います、とか公的支援がこんなのあります~とか、支援者側が見えているものをわーわーと情報洪水で押し付ける、とか避けるべきだし
そこはそろりそろりと小出しに情報提供してみて被災者が腰を上げるかどうか様子をみるしかない。
ただ、「対等にフェアに扱わなければならない。」という、その気の使い方、その言葉の端々に、当事者から離れた立場がそもそも出発点だというジレンマもあろうね。すでに知らず知らずに上から目線がにじんでいるよね。
ただ大切だっていうのはわかるんだけど、でも長い目でみて、寄り添いってそこまで大事かな、そうかな?とおもうとこもある。どちらかというと、つかず離れずなのかな、と。
今後の人生を決めるのは支援者じゃないしね。彼らの人生の何がわかるって、結局何もわかってないところからスタートするわけじゃない。
支援者としては突き放した部分というのも重要じゃないかと思う。
よく災害復興は発災直後からスタートするっていうように、これから少しずつ復興の話をしなければならないなかで
は極論だとしても、それに幾分かでも近づくニュアンスの主張というのはどうしたって誰か彼かから出てくるもの。
そのときに、信頼関係というのがむしろ邪魔になることもあると思う。
信頼関係ができて人間関係が密になると、知らず知らずに同じ人、仲間内の人としか話をしなくなるってことがある。
話し合いの場で、いろいろな人がいろんな考えを持っている、ということを排除するムードが自然とうまれていく、といってもいいんだけど。
そとからみると、内輪で鉄壁のなわばりがつくられてしまって、はたからみて何かいいたいことがあっても声をかけにくくなってしまう。
ちょっとでも被災者の心情に傷をつけるようなことをいうと、お前は被災者に真に寄り添っていない、と断罪の目線をむけてられてしまう。
支援者同士の分裂や被災者の分断ってそういうダイナミズムで生まれることが多い気がするね。共産党的マインドっていうか。
強い信頼関係が知らず知らずに、他者との温度差にかわっていくのって案外自分では気が付きにくいもの。
連中がどんだけ何もわかってないか
恐らく敵が増えていくプロセスって自分じゃなかなか、わからないだろうな。気が付かないだろうなと思ってしまう。
それは逆に、本当にあるべき地域の姿を考えようとするときに足かせになる。
むしろその地域を全然知らないような無礼にも乱暴にもみえる支援者がわーっと闖入しては去って行ったり、そういうことが許されるような、
ゆるゆるなオープンな空間のなかで、自由な発想が開花する、ということがあるかもしれない。
それは苦労して信頼関係を築いた先行者にとっては不快な雑音かもしれないのだけれど、案外そこに突破口やら解決の糸口がみつかるってこともある。
信頼関係はもちろん大切だけれども、それと同時に、多様性を受け入れる下地を作っておくことって大事だと思うね。
言うは易しで、空気が乱れ、不協和音があることこそが強みだという、そこまで突き抜けて達観することはもちろん自分でもできないけれども。
特にそれが子供という身体も思想もおぼつかない相手を対象にしたものに対しては一等嫌悪感がある。
けれど、昨今のそういう嗜好や性癖を持っているだけの人を殺せという論調を聞いていると何とも言えない焦燥感がある。
私は今年35歳になる男で同性愛者だ。
今でこそボーイズラブやLGBTQなどという横文字が広がって多少はスルーされることが多くなったかもしれないが、それでも自分は同性愛者ということをゲイコミュニティ以外で一切カミングアウトしていない。
それはゲイであるというカミングアウトだけで強烈な迫害がある人生を引いてしまったからだ。
かといって同意なしに男性を襲うなど言語道断であり、どれだけおだてられても自分が襲われる立場になったらと思うとゾッとする。
しかしそれは世界で大多数を占める異性愛者でも同じことだろう。
異性愛者だろうが同性愛者だろうが、同意なしにセックスをすればそれはただの犯罪だ。(中には金銭目的の美人局もあるだろうがそれはまた別の話)
ではペドフィリアはどうだろう。
もちろん、自分の欲求のためだけに幼児を襲ったり、そうでなくても追いかけたり盗撮したりは非人間のすることだ。
万が一相手に同意が取れたところで、未成年の同意が大人の同意と同じ効力はないし、真に受ける人間は社会性を失った猿だと思う。
ではただ黙々とそういったコミュニティに属して空想を繰り広げているペドフィリアはどうなのだろう。
正直、私も気持ち悪いし怖いと思う。
しかし、「ペドフィリア」という看板を掲げたコミュニティをわざわざ覗いて「こういう思想を持っ人間は危険だから排除すべきだ」と晒し上げるのは少し横暴だと感じてしまう。
百歩譲って、覗いて気持ち悪いと投げかけるまでは個人の感想だと思う。
ただ「そういった思想を持っている人間はすべからく社会から排除すべきだ」とまで飛躍するのは、かつてのゲイコミュニティが受けていた差別と全く同じ構造ではないだろうか。
何も犯罪は犯していないのに、男が好きというだけで迫害される時代と場所は確かにあった。
ゲイとペドフィリアは違うという人もいるが、ゲイは個性でペドフィリアは性癖だからという理論は正直意味がない。
どちらもその対象物を性対象にしている時点で同じだし、それは異性愛者もそうだ。
自分の嗜好や指向を満たすために対象物があって、同意がとれないままセックスをすればそれは須く犯罪なのではないか。
だったら異性愛者の恋バナや片思いだけが合法になりうるのはおかしいのではないだろうか。
書いていて自分でも横暴な論調だとは思うが、内心の自由すら取り締まるというのなら、異性愛者の「あのアイドルとヤりたい」とペドフィリアの「子供とセックスがしたい」も、そう思った時点で同じく犯罪になってしまう。
ただ「そういった思想がある時点で排除すべきだ」と主張する人の理由もわからなくもない。
誰だって世間一般、もしくは自分の想像から大きく外れた思想を垂れ流している人物がいたら避けたいのは動物としての本能だろう。
ましてや子供を持つ親なんて、例え関係ない架空のペド話でも自分の子供への警鐘から排除したいと思うのは当然だ。
若い人には想像もつかないかもしれないが、私がまだ学生の頃はオカマやオネエキャラというピエロにとしてエンタメに昇華されたゲイ以外ほぼ許されなかった。
もっと上の世代ではそれこそ同士でのカミングアウトすら危険を伴い、還暦を過ぎ、妻を看取り、時代がゆるやかになった今やっと言えたという人も珍しくはない。
なんなら最後まで隠し通し、自分に向き合えなかった悔しさと、妻を愛したふりをしたまま騙してしまったという相手への罪悪感のまま天寿を全うした人もいたかもしれない。
少し話がそれる。
今まで友達のように接していた人間から「お前も性別だけで言えば範囲内だ」とカミングアウトされればたじろぐ人が多いと思う。
その気持ちはとてもよくわかる。
それはこちらがどれだけ「人間が好きだからといって全人類好きじゃないのと一緒だ」と説明しても拭いきれない猜疑心だと思うし、ある意味当然であろう。
ぬぐるみから男根が生えたという女性の記事を読んで、ああいうのが近い感覚なのかもしれないと思った。
自分が性対象の範囲内に見られているかもしれないという疑いは、思ったより不快感があり気持ち悪いのだ。
私は長年友人だと思っていた異性愛者の女性から告白を受けたときにこの気持ちを味わった。
と同時に「なぜ彼女の片思いは淡い失恋として美化されて、私はその気持ち悪さを口に出すことすら憚られるのだろう」という醜い嫉妬もした。
結局は恐怖心なのだと思う。
ぬいぐるみからペニスが生えていなくとも、全く関係のない遠くの人間から「ロン毛は全員性対象だ」と言われたら気持ち悪いと思うロングヘアの人間がいても何もおかしくない。
ゲイも、ペドフィリアも、その他のマジョリティも、例え世間一般で常識であっても、人間、自分が想像する範疇から少しでも外れれば多少なりともすべて恐怖の対象なのだ。
では逆に内心の自由が保護されたとして、どこまでが内心になるのだろう。
そもそも第三者に確かめようのないことだし、確認のしようがない。
では同士で語り合ったりするのはどうだろう。
これはインターネットの発達と、そのインターネットに対するイメージの差が大きい部分もないだろうか。
私にとってインターネットは雑踏の中にある架空の秘密基地であった。
「恋愛相談がしたい」「ねこの話がしたい」「ただ眺めていたい」「死について語り合いたい」
たくさんある部屋の中から私は「ゲイ同士話してみたい」の部屋でずいぶんと救われた。
「好きな人が結婚して、友達のふりをして泣いた」と、ゲイとして言えるということは現実世界ではあり得なかったからだ。
といってもそれはインターネット内での話なので、それが実話だろうと証明する方法はないし、相手の慰めの言葉も嘘なのかもしれない。
逆にその空虚さが居心地の良さを生んでいた部分もあるだろう。
VIPからきますたwwwで荒らされても「まぁインターネットだしな」と溜飲が下がる部分も多かったろう。
インターネットは気軽な逃げ場だったのだ。
かつての生き物苦手板を知っている人はどれだけいるだろうか。
面白半分で覗いて後悔するナンバーワンの宝庫であり、いわゆる動物虐待の話をメインにした場所だ。
勘違いされないように改めてここでも言っておくが、私は犯罪は許せないし動物虐待にも強い嫌悪感がある。
ここで写真つきで虐待実況をしたものは明らかな動物虐待だろう。
しかし、ただ猫や犬をいじめるのが好きだと語る場合は果たして内心の自由になり得るのだろうか。
もちろん明らかな犯罪予告や一種の誹謗中傷にあたるようなものはダメだろう。
しかしあくまで架空の妄想という共通認識の集まりで、「もし自由にしていい猫がいたら、こういう酷いことをしてみたい」と書き込んだ場合、それは内心の自由になるだろうか。
「嫌なら見るな」の立て看板の先とはいえ、ネットで全世界に見えるように書き込んだ時点で内心ではないので取り締まるべきか?
だったら「あのイケメンアイドルにキスしたい」とか「あのキャラでヌイた」とかも内心の自由ではないセクハラとして取り締まるべきか?
そもそも架空の妄想と銘打った時点で例え言語化されて出力されたものでも内心の自由ではないか?
そうなってくると、第三者が取り締まるのはどこからが基準になるのか?
それが個人単位の気持ち悪いだった場合、明確な基準もなく個人感情で取り締まられるのではないか?
もっと正直に言えば、私は他のマイノリティやペドフィリアなぞどうでもいい。
そもそも妄想のはけ口がないと発散できない時点で人間としてまずい部分は多かれ少なかれあるのでは?という偏見が私にはある。
かといって、それらの妄想が全てそのような危険なはけ口だとも思わない。
私はそれらの嗜好をただ持っているだけの普通の人への取り締まりが始まれば、いつかはそれがゲイコミュニティに回ってくるのではないかという自己中な懸念がある。
私はマイノリティが大ぴらに権利を主張するのにもあまり乗り気ではなく、それは一部の人権団体がただ己の自尊心を気持ちよくするために、平等ではなく、同情で弾圧と優遇を叫ぶからだ。
「理解はできないし気持ち悪いけど、別に何もしないなら普通に生きてなよ」という態度がどれだけ救われるか。
ペドフィリアが全員殺されたら、今度は自分が殺されるかもしれないという恐怖が私にはある。
内心の自由はどこまで許されるのだろうか。
タイトルの通りの身分です。学生です。自分の書いている文章を客観的に見れず、もうどうしたら良いのか分からなくなってきました。文章遍歴です。長ったらしいです。
まともに文章を書き始めて一年ほどの若輩者です。二次小説を書き始めた動機は絵が下手だからというとても不純なもの。本が好きで、作品が好きで、なおかつ小さい頃から人並みよりさくさくと文章を書けるタイプだったので軽い気持ちで書き始めてしまいました。
普段は旧Twitterと支部で短編を上げています。人気ジャンルのCPで書いたものが400ブクマ付いて喜んでいる程度の薄っぺらな書き手です。
衝動で書いた一作品目に評価がついたとき、初めて文章の質というものを意識しました。そういえばこれって他人に読ませる文章じゃん、と。慌てて自分の書いた文章と、自分が大好きな作家さんの文章を比べました。適切な比喩、ちょうど良い一文の長さ、形容詞の位置、描写の順番……などなど、素人でも分かる違いが山ほどありました。それはもうバスタオルと羽毛布団くらい違いました。要するに幼稚な文章なんです。色がありません。温度もありません。パッサパサの乾パンでした。
次に文章を太らせようと思いました。もうちょっと情報量を増やそうと。そしたら今度はすごく冗長でつまらないものが出来上がりました。文字の量を増やすだけでは10Lに薄めたカルピスみたいな読むのが苦痛な作品になるだけでした。
ここまでもし読んでくださった方がいたらこいつど素人にもほどがあるだろうとお思いになると思います。字書き経験のある先輩方でしたら尚更です。ごめんなさい。
語彙を増やそうと思いました。毎日通学時に周囲の写真を撮って、匂いや気温を書き取って、その時に見た景色をメモ帳に描写しました。Web辞典と、プロの一次作家様の文章を横に並べながら。なんだかちゃんと文章を書いてる気がしてだんだん楽しくなってきました。「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる……」また比喩を使っちゃいますが、枕草子みたいな感じです。
よっしゃやるぞーと思ってまた二次創作を書き始めました。今度はプロットなるものが立ちはだかりました。起承転結というやつです。この辺りで私は、あれ、小説書くのって想像以上に難しいのでは……と気づいてしまいました。二〜三千字くらいのワンシーン切り取り型の書き方ならともかく、私は数万字に及ぶ長編に憧れてしまったのです。プロット無しの見切り発車で書くのはあまりに危険でした。しかし、見様見真似で書き起こしてみるものの全然上手くいきません。浮かぶのはつまらない展開ばかりでした。そんなこんなで今は三千から五千字のものをちまりちまりと書きながらいつか長いもの書きてぇとぼやいています。
冒頭に戻ります。本当に良い描写は脳みそにスッと入ってくるんです。たった一文で全部を分からせてくるアレです。難しい言葉も要らないし、何度も言い換えて重ねる必要もない。あれって天賦の才なんですかね。最近、解像度の高いものを書こうと思って気合を入れて書いた作品が、2週間後に読み返してみたら装飾過多、結局何が言いたいの?と思われそうな駄文になっている、ということを繰り返しています。カッコいい文章に憧れます。
ネット上の二次創作においては、流麗な描写よりもオタクに刺さる台詞のある作品のほうがたぶんウケます。自分もそういう作品は好きでした。自分自身、以前は難解な地の文なんかポイポイっと読み飛ばしてキャラ読み(?)していたわけですから。でも書き始めてから、読み手にウケるかどうか以前に自分が「こんな適当な文章で推しを表現したくない!」という執着に取り憑かれてしまったんです。もう自己満足の部分もあると思います。推しの眺めている花はただの花じゃなくて、真っ白で、透けるくらい薄くて、とても良い匂いがして……
文学オタクの扉が見えてきました。もう戻れません。知れば知るほど、私の小説はつまらない。どうつまらないのか分からないけどとにかくつまらない。引き込まれる表現が足りない。たぶん内面描写も浅いし、そもそも二次創作として、公式設定資料を読み込むのを怠っていました。なんてことだ。しっかりとした長編で評価されている方々は本当に凄いです。
自分が心底納得のいく小説が書ければきっとある程度の評価はついてきます。でも、その「自分が納得のいく小説」までにどれだけの差があるのか、具体的にどこがダメなのか、分かりません。あぁ、誰か私の小説に適切に文句をつけてくれる人居ないかな。雑魚メンタルですが最近批評が欲しいと思えるようになりました。
長々と書き連ねましたが、要するに良い作品が全然書けなくて、目標までが遠すぎて死にそうです。文章の指南書をこの前注文しました。でも本当にあんな凄いものが書けるのか……?神字書きの皆様へ尊敬と羨望と、諸々の気持ちが溜まっていきます。
文章うまいね、そんな言葉1ミリも要らないんです。いや嬉しいは嬉しいんですけど、要らないです。正直やっぱ欲しいです。でも上手くなるほうが大事です。批判が欲しい。
そういえば触れてませんでした。一次創作書けばいいじゃんっていう話についてです。私の今のモチベーションの核は、ひとえに好きなキャラを最強の文章と構成で表現したいという衝動で成り立っています。つよつよな文章で推しが喋ってる……うおお……という感動を味わいたいです。それだけです。
世の中、腹が立つ作品には批判が飛んできます。でもつまらない作品には何も言ってもらえません。ありふれた話ですが、それをとても実感しています。