はてなキーワード: 暴走とは
12/13追加
投稿から一晩たって想像以上の反応があったので追記を書いた。ブコメやリプライを読んだ上での俺の追加見解である。
https://anond.hatelabo.jp/20201213092307
以前は単に学校の選択肢が豊富な都市民のナチュラル見下し vs 学校の選択肢がない地方民の怨恨と言った構図だったのが、ここにきて公立中学校を『動物園』と揶揄するのは差別だという視点が持ち込まれて収集がつかなくなってきている。
この流れに便乗して、3万人クラスの日本海側の田舎町に生まれて、『動物園』状態(校内暴力、喫煙、窓ガラス等の器物破損、ストーブや理科の実験でのいたずらによるボヤ騒ぎ、教師いじめで学級崩壊レベル)の公立中学校の実態を経験して、地元の公立高校進学コースを経て、地元エリアの政令指定都市の国立大学を卒業して、今は東京区部に住んで外資系で働いている俺の見解を投下したい。
こんな経歴なので地元の公立を出てそのまま田舎に留まった友人もいれば、銀の匙をくわえて生まれてきたような奴も友人にいたりするので、両方の環境を知っている立場ではある。
前置きが長くなったが、この問題に対する俺の見解は動物園問題はゾーニングの問題だと言うことなのだ。
今回の話題は差別感情に結び付けられて炎上しているけれども、はじめに前提として認識しておかなければならないのは世の中には出自に限らず暴力的な奴、反社会的な行動を好むやつが一定数いるということである。昨今の上級国民と揶揄される方々の傍若無人な振る舞いや、マナーの悪い走行をする高級車の存在などを見れば一目瞭然である。逆にいかにも田舎の不良ヤンキーと言った感じの輩が改造マフラーのバイクで暴走行為をしているのもよく見る風景ではある。
で、我々の周りにはガラの悪い人たちが一定数いるのが前提で、我々は意識的、無意識にそういう環境に近寄らないことで危険を避けながら暮らしている。スリルを味わいたい人以外、ヤンチャな上級国民御用達の六本木の怪しいバーには近づかないし、西成区のドヤ街を無意味に歩き回ったりもしない。学校選びでも、当然のように同じような判断基準を適用しているだけなのだ。
ここで、『動物園』と揶揄されるのがもっぱら中学校であることに注意していただきたい。近所の子供で構成される公立小学校でガラの悪いエリアを避けるためには家の立地を気にするし、公立高校は学力に応じた選択肢があって入試で足切りもするので、そもそも問題になりにくいのである。だが、公立中学校はそうではない。
私の地元の話になるが、3万人の町に公立小学校は10校程度で公立中学が3校、公立高校が1校であった。ちなみに私立進学校というものは一つも存在しない。なのである程度教育に関心のある家族は、住むエリアを選択するときに公立小学校の校区を意識して選んでいた。だが、公立中学校は3校どれを選んでも一定数のガラの悪い生徒が混ざることを避けられない状況だった。
そんな環境でも、公立小学校の校区を気にするような家庭は大抵教育熱心なので、公立中学校で酷い目にあったとしても、高校で挽回し都会の大学に入学することが一般的である。そこで初めて地方の『動物園』出身者は中高一貫の私立校出身者と出会い、その恵まれた環境に驚愕し、嫉妬する。公立中学校の『動物園』問題はこういう構図で生まれているのだ。
ではどうすればこの問題を解決できるのだろうか。答えは一つ、ゾーニングしかないのだ。中学校入学時点で問題行動を取るような生徒はせいぜい10人程度なので、その人たちだけ少人数制の特別クラスにぶち込んで隔離するしかないだろう。そんな事をすれば人権問題になるかもしれないが、そもそも彼らは国民の学ぶ権利の敵なのだ。ある程度強権的ではあるが、都市と地方の教育リソースの差は簡単には埋められないので、現状こうでもしなければ私立進学校の選択肢のない地方民は安定した中学校生活を過ごせないのではないかと思う。
はてなーの多くが(とは知らんけど)Gotoキャンペーンを嫌悪忌避している事が理解できない、上位コメはまず反対。
政府の目指すところは「感染を抑えて経済を回す」と僕は理解しているので、大都市圏と地方は対応が異なっても違和感は無いし、状況を見ながら修正も必要だと感じている。昨日と違うこと言っても全然不思議じゃない。
経済が傷むということは失業者が増え、非正規職は優先的に解雇され、個人事業主が廃業することだ。政府はそれを最大限に恐れている。もちろん税収のためだ。
税収が落ち込めば社会保障や地方交付を削らざるを得ず(まぁ公務員の人件費とかを削れるのかもしれないけど、それも不幸だよね)、社会不安に陥ると思う。
これが前提。
ところがはてなーは「Gotoは全反対」で、そのせいか状況が変化しての政策変更は「論理整合性が無い」ということになってる。要は雇用のこと全無視で論理最重視に見える。立憲党もそう主張している、関係ないけど。
はてなーがGotoに反対している表向きの理由が「医療資源(従事者含む)」と「老人の安全」を守る、あと「与党への反発感」も少しというところかしら。少なくとも経済への言及が無さすぎる。
僕の理解ははてなーは「経済の痛みに直結しない層」ということかしら、例えばメーカー勤務(IT系含む)、年金生活者、学生か。
サービス業・女性・非正規が殆ど居ないのではと思わざるを得ない。
経済が傷み失業者が増えると、失業者が増え、税収だけでなく、厚生年金や健康保険も減収するし、生活保護も増えるであろう。
論理の美しさの為にこのような状態に陥ることを理解しているのかという疑問がある。
伝統的に左派は高学歴が多く、旧来の左派は上記の点は理解していての主張だと僕は理解している。
だが最近の毎日新聞東京新聞の暴走にコメを多数付けるとか、全面的にGoto反対には知性に甚だ疑問がある。
(最近NHKを重視する非ハテサ層も多いようだけどその反発なのだと感じている)
愚痴でした。
明日足をすべらせて溝に落ちるかもしれないし、暴走自動車に轢かれるかもしれないし、難病発症して寝たきりになるかもしれないし、
知らない人に職場に放火されて丸焼けになるかもしれないし、降ってきた隕石が頭に当たって痛い思いをするかもしれない。
どうして可能性に蓋ができると思うか。可能性はいつでも牙を剥いて襲いかかってくる。備えよ。可能性が味方であることは少ない。
『#草津温泉には行かない』、こういうハッシュタグをリベラルと呼ばれる人々が使っている現実をみて、この国のリベラルと呼ばれる人々は、もうどうしようもないレベルにまで落ちてるんだと実感した。
この話題は現時点で詳しい情報があまり出回っておらず、またあまりにもセンシティブな内容なので深く触れるつもりはないが、少なくとも住民投票が行われた事自体問題であるのは確かだと思う。
しかし、『#草津温泉には行かない』をリベラルと呼ばれる人々が何も疑念を抱かずに、条件反射で使用するのはあまりにも幼稚すぎる。
普段はネトウヨを馬鹿にし、ヘイトスピーチに対してNOを突きつけているはずの人々が、こんなヘイトスピーチまがいのハッシュタグをトレンド入りさせて、まるで自分たちが正義だと言わんばかりの態度を取っていては、多くの人々に信頼を得ようなんて到底無理な話だ。
問題提議をしたいのであれば、もっと別のきちんとした表現にすればいいのに、『#草津温泉には行かない』では、はっきり言ってネトウヨがよく主張するような排外的な主張と何も変わらないではないか。
何よりも残念なのが、主張の暴走に対してブレーキをかけてくれるリベラルの人々の意見を無視するリベラルと呼ばれる人たちが多数派となってしまった現実だ。
知性を信じているはずの人々が、条件反射の世界に飲み込まれてはいけない、それなのに、なぜ誰も疑念を抱かないのか、少なくともリベラルだと自負しているのであれば、もっと冷静に判断しなければならないはずだ。
今のリベラルと呼ばれる人々は、あまりにも傲慢になっていて、あまりにも世間とは考えが乖離しているという事実に気が付かなさすぎる。
彼らが正義を傲慢に振りかざし続ける限りは、今後もネトウヨは増え続けるだろうし、分断が起こり続けるだろう。
そしてそれが、本来であるならば、リベラルな考えを持っている人たちの意見が、過剰な分断のせいで発信できないという状況に陥らせるだろう。
自国である日本の問題に結びつけずに、他国である中国の問題にしか結びつけないことが問題だね、という話をしている。だから、ディストピアを自分の社会と連続性のある概念と捉えるためのディストピア発見実習をしようか、という話をしている訳だ。
学生が「中国の問題にしか結びつけない」かどうかは、学生とやり取りした北村紗衣先生本人しかわかんないことじゃない?いや本人にすらわかんないよね。元増田が書いているように、日本にも関連はあるけど、中国のほうが関連が強いという理由で、(日本については言及せずに)「ディストピア作品って中国みたい」って発言した学生がいる可能性が十分ある。なのに、学生が日本に結び付けなくて問題だって、北村紗衣先生が勝手に誤解してる可能性もありますよ。
「内容が中国より日本に合致するディストピア小説」の話だ、というのは増田が言い出したことで、saebou氏がいっていることとは関係ない。というか、とんちんかん。
そういう関係ないと決めつけて多様性を許さないのがディストピア。作品の内容との類似性より、自国である(他国でない)ことを絶対視しなければならないなんて、そんな決めつけが当然なの?読書は自分なりにできる自由なものだって、早稲田大学や高橋源一郎先生は言ってますよ(後述)。
ディストピア作品の内容が、日本より中国にあてはまってると考えた学生が日本と関連づけないのが問題になるのが、武蔵大学ってことなのかな。
(北村紗衣先生を「saebou氏」って書くの、すごいっすね。)
まず、ニュースピークや二重思考の話をしているから、具体的な例としてオーウェルの『1984年』が想定されているよ。具体的な例を挙げていないという批判は的外れ。
教えてくれてありがとう。ニュースピークによる語彙の制限は金盾、二重思考は社会主義市場経済とすれば、中国に当てはまるディストピア作品だから、学生が中国を挙げることは自然だね。もちろん、日本にも当てはまる事柄がないという意味ではなく、中国の方がわかりやすいという意味で自然だね。具体例があると、学生の考えに一理あることがわかりやすくなるね。
最近出版された「まんがでわかる 1984年」の宣伝では、中国にあてはめたり(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた小説『1984年』。コロナ禍を経て、今一度、権力と個人のあり方について考える状況にあるといえます。今回のコロナの感染源・中国のITによる超監視社会は、『1984年』の世界を彷彿とさせます。)、日本のようだ(自粛・正義・幸福追求・相互監視の暴走!世界文学の名作を新解釈!まるで今の日本のようだ!)となってる。「ディストピア文学の読み方が分かってないですね。ディストピア文学は読み手がどこに住んでいようと、「今、我々が住んでいる場所」を描いたものとして読むんですよ。」という北村紗衣先生からすれば、宝島社は文学の読み方がわかってない(中国を思い浮かべた)担当者が宣伝してると断言していますね。
実際、1984年が共産主義国における全体主義の批判であるのは間違いないとしても、1984年がソ連とかの社会主義国とかだけの話で、西側諸国は関係ない、みたいな読み方されても、オーウェルも困ると思うよ。
そんな読み方を誰がしてるの?元増田は日本にもディストピア作品に関連する要素はあると書いてるし、学生は「中国みたい」と言っていても、「西側諸国は関係ない」なんて言ったとはどこにも書いてない。もし言っていたとしたら、それがわかるのは、北村紗衣先生本人だけだよね?
それに、作品を理路整然と解釈した結果、作者の意図と異なることだってあり得るのに、作者が困るから作者の意図通りに読まなければならない、って、武蔵大学はそんな権威主義の学問しか学べないんですか?
早稲田大学だと、「自分だけの読み方を見つけ、人を納得させる。「自由に読むことの楽しさと厳しさ」を学べる」のに。高橋源一郎先生は「個人が読むということは、僕は書くよりもクリエイティブなことだと思っています。そこには「社会」の「声」といったものがまったくない。「こう解釈されているけど、僕は違う」と読むようになることが「何かを読む」ことじゃないかと思うんです。」と話しているのに。
で、誰とも知らない学生がディストピアを日本にあてはめないと先生が愚痴っていても、どの学生にも不利益ないよね。どこがディストピアなんだろ。言葉尻をとられて混ぜっ返しても意味ないよ。
二重思考ができてるね。(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた)小説『1984年』を教材にする北村紗衣先生(支配層)が、ディストピア作品は日本に関連付けるのが当たり前だということを刷り込み、中国みたいと思う学生の感じる力を奪うんだから、リアルディストピア。これがノンフィクションってやばみしかない。これが学生の不利益ではないって、二重思考すげえ。
あ、学生が日本と関連付け(られ)なかった理由がわかった。「1984年って、武蔵大学を描いてて、北村紗衣先生がビッグブラザーですね」って、もっとも身近な事柄に関連付けたら、単位もらえないもん。学生さんも二重思考を身につけなきゃですね。
北村紗衣先生のやりたいディストピア発見実習って、松任谷由実さんでおなじみ京都精華大学白井聡先生の単位のために学生に忖度させるパワハラみたいに先生のご機嫌取りになるだけでは。学生さんかわいそう。
はてなーの多くが(とは知らんけど)Gotoキャンペーンを嫌悪忌避している事が理解できない、上位コメはまず反対。
政府の目指すところは「感染を抑えて経済を回す」と僕は理解しているので、大都市圏と地方は対応が異なっても違和感は無いし、状況を見ながら修正も必要だと感じている。昨日と違うこと言っても全然不思議じゃない。
経済が傷むということは失業者が増え、非正規職は優先的に解雇され、個人事業主が廃業することだ。政府はそれを最大限に恐れている。もちろん税収のためだ。
税収が落ち込めば社会保障や地方交付を削らざるを得ず(まぁ公務員の人件費とかを削れるのかもしれないけど、それも不幸だよね)、社会不安に陥ると思う。
これが前提。
ところがはてなーは「Gotoは全反対」で、そのせいか状況が変化しての政策変更は「論理整合性が無い」ということになってる。要は雇用のこと全無視で論理最重視に見える。立憲党もそう主張している、関係ないけど。
はてなーがGotoに反対している表向きの理由が「医療資源(従事者含む)」と「老人の安全」を守る、あと「与党への反発感」も少しというところかしら。少なくとも経済への言及が無さすぎる。
僕の理解ははてなーは「経済の痛みに直結しない層」ということかしら、例えばメーカー勤務(IT系含む)、年金生活者、学生か。
サービス業・女性・非正規が殆ど居ないのではと思わざるを得ない。
経済が傷み失業者が増えると、失業者が増え、税収だけでなく、厚生年金や健康保険も減収するし、生活保護も増えるであろう。
論理の美しさの為にこのような状態に陥ることを理解しているのかという疑問がある。
伝統的に左派は高学歴が多く、旧来の左派は上記の点は理解していての主張だと僕は理解している。
だが最近の毎日新聞東京新聞の暴走にコメを多数付けるとか、全面的にGoto反対には知性に甚だ疑問がある。
(最近NHKを重視する非ハテサ層も多いようだけどその反発なのだと感じている)
愚痴でした。
分断を利用する、または煽ることで広告効果を得ている、との評価で炎上してるNikeのCMを見た。
個人的な感想は、「やっぱりNikeのCMはいいな。」だった。
私が一番好きなNikeのCMは、15年以上前に公開された「Y2K Jogger」というCMだ。
Y2Kとは簡単に言うと「2000年になると顕在化し、世界が滅茶苦茶になるようなリスク」のことだ。
現実では世界が滅茶苦茶になったりはしなかったのだが、Y2K Joggerはそうなったパラレルワールドを描いている。
始めてみたときは衝撃を受けた。
世界がどうなってしまったかにかかわらず、ただ日課をこなし、自分自身を律する人物が写っていた。
「いつか誰もが、ありのままで生きられる世界になるって?でもそんなの、待ってられないよ!」
私はこの部分を「自分から、自分がありのままで生きられるように行動を起こす」という意味で受け取っている。
(実際に映像では、ボールを受け取った少女が立ち上がるシーンになっている。)
どちらのCMにおいても「世界に私の意味が決められるのではなく、私が世界との意味を変えていく」という意思に溢れていると感じた。
Nikeのメッセージは変わっていない。それはJust do itだ。
若い人が怒るのは健全だ。いまの社会の問題は年寄りたちが若者に先んじて怒り狂っていることだ。
若者の暴走をなだめるべき老人たちが率先して暴れまわり、いまの若者はだらしがないとさえのたまう。
おまえたち老人がいつまでも成熟しないから新しい世代が安心して社会に怒りを表すことができないのだ。
いつまで学生気分でいるのだおのれらは。
私は、「ブサイク&吃り→いじめられる→積もった怒りで数回暴走→強い自責→対人恐怖症→不安障害」の流れで、引き籠りになってしまいました。
学生時代にされたイジメと孤独から、癇癪持ちになってしまい、その時は自衛行為と思い込んでたのですが暴走してしまって(犯罪ではなく、叫んで暴れたりとかくらい)、
何回か関係のない人にまで迷惑をかけてしまって、強く罪の意識を持ってしまい、怖くて外に出れなくなってしまいました。
家族もいないので、たびたび勇気を出して外の世界のアルバイトをして、ある程度稼いだらまた引きこもっています。
そんな生活を8年くらい続けているうちに、幸いにも、適正のある仕事を見つけて在宅で内職するようになりました。
なので、死ぬまで一応生きる事はできそうです。
ただ、不安障害がひどいんです。
なにか仕事で成果出しても、誰かに「でもアイツって昔あんな気持ち悪い暴走したらしいよ」とか、「あいつなんて何もしてないよ、ちょっと関わっただけのくせに」と言われそうで、恐ろしくて口に出せません。
リーダーにチャットでひっそりと報告するだけです。自己肯定感が高くなるような事に、とても恐怖を感じるのです。お前は一生日陰から出るなよと。
外食しようとしても、「おまえ外食なんてしてるの?あんな気持ち悪い暴走したのに」「言いふらしてやろうか?」と言われそうで、バチがあたりそうで何もできません。
服を見ても、何もワクワクしません。これを買ったらバチが当たりそうだな、としか思えないのです。
これって、どうすれば治るのでしょうか?
こうなったのは、自分が最終的に暴れてしまったからなので、全部私が悪いんですけれども、せめて、イジメられたうえに今もずっとずっと救いがないのなら、せめて怖さだけは取り除きたいです。
神様を信じてませんが、どこか神頼みしています。一生日陰から出ようとは望みませんが、怖さだけはどうにかなくす方法ないでしょうか。
病院に電話で聞くと、「不安を言葉にしてしゃべると、不安を司る扁桃体が刺激されて、和らぐ。書くだけじゃだめ。」と言われました。
ところどころ正しいのに所謂「種の保存」的な理解をしているせいで変な解釈になってる。
一部は正しい(「複数の女王の血統からなるコロニーでは女王殺しが行われないのに対し、単一の女王の血統のみからなるコロニーにおいては女王殺しが起こりやすい」とか)。
女王殺しはなぜ起こるか、未だすべてが明らかではないが、わかっている部分を説明しましょう。
ハチのような半倍数性の性決定様式では、(同母同父の)姉妹との血縁度は0.75で、自身の息子・娘との血縁度0.5を上回りますね?
つまり自分が子供を産むより自分の姉妹を増やしてもらった方が進化的にお得なワケです。
ゆえに一見適応度が低そうなワーカー(働き蜂)形質も、包括適応度でみれば適応的な形質と言えるでしょう。
しかし、オス(ドローン)はちょいと違います。女王とその息子の血縁度は0.5ですが、ワーカーと同母の兄弟(=女王の息子)の血縁度は0.25。
ワーカーとその息子の血縁度は0.5、ワーカーとその甥(同母同父の姉妹の息子)の血縁度は0.375で兄弟のそれを上回ります。
つまり、同母兄弟を次世代の父とするよりも自分あるいは姉妹の息子をそうした方がお得なのですよ。
ではワーカーが自分たちの息子を次代へ送り出す障害は?――女王だ。
女王の出すフェロモンでワーカーの卵巣発達は阻害され、それを掻い潜って産卵しても女王が制裁に来る(ポリシング)。
じゃあ、殺すしかないよね?
と、そういうワケで、女王殺しが起こるんですね。
↑の話は同母同父の姉妹で適用される理論。さんざん同父や同母という注釈をつけたのもそれが理由。
そして異父姉妹が多い(=遺伝的多様性の高い)コロニーでは話が別なのです。
そのようなコロニーでは甥の血縁度は兄弟とのそれを下回る可能性が高いので、女王殺して甥を増やすより生かして兄弟増やした方がお得になるんです。
これが遺伝的多様性の低いコロニーで女王殺しが起こりやすい理由です。
実際のところ条件を満たしているようでも女王殺しが起こったり起こらなかったりするもんで、まだまだ未解明の部分が多いんだけど、わかってる範囲ではこんなモンでしょう。
したがって、
そんな
傾向は
ない。
徹頭徹尾、利己的な遺伝子の話。多様性は結果であって目的ではないのです。
スズメバチは社会性昆虫なので、一度コロニーを形成してしまえば基本的に大型の猛禽やクマなどの肉食動物を除いて天敵が存在しなくなります。例えばオニヤンマやシオヤアブ、雀などの鳥類が一時的にスズメバチを打倒できるとしても、数百匹の群れを成すスズメバチに対抗できる動物はさほど多くありません。つまり、繰り返すように基本的にスズメバチにとって天敵は存在しないのです。
となれば、何故スズメバチの個体数はそれほど増加せずに、ある一定の値を保ち続けているのだろう――そういった疑問を持つ方もいるかもしれません。(以下略)
「一度コロニーを形成してしま」う前に死んでるんですよわんさか。
「数百匹の群れ」になる前に死んでるんですよ一匹で。
最大の難関をくぐりぬけて盤石の態勢を築いた後で「天敵は存在しない」って。その前に間引かれてるんですよ。
自分でも「きちんと巣を作ってコロニーを形成できる女王は複数いる女王の内の数%程度に過ぎないという説もあるくらい」と書いてるじゃないっすか。
それが答えです。
そう、スズメバチの巣には内乱が起こります。巣の内部にいる働き蜂は、万民の万民に対する闘争状態さながらに攻撃を開始します。その攻撃の対象は、女王、幼虫、蛹、全てに及び、そこに見境などありません。彼女らは暴走し、一切を食い尽くし、全てを破壊していきます。新女王蜂だけが先見性を持ち、その内乱から脱出し次の巣を作るという使命を持って行動することができるのです。つまり、スズメバチの巣においては、仮に気候条件が彼らの味方をしようとも、女王のフェロモンの効果が薄れるにつれて必ずや内乱が起こるようになっているのです。そのため、彼らは気候条件の云々によらず、必ず滅びる運命にあるということなのです。
そんな
ことは
ない。
研究によっては実験で巣から女王バチ除去することもありますけど、ワーカーが産卵するほかは変わらずあくせく働くんですよ。暴れたりもしません。
「あくせく働く」のはそもそもそれがハチ自身の習性なんです。フェロモンで1から10まで操られてやってるわけじゃあありません。
女王バチだって営巣初期は自分で餌集めしてワーカー育てますからね?
女王のフェロモンだってそんなに万能じゃないです。種にもよりますけど生殖能力の制限と女王のお世話(グルーミングとか給餌とか)の誘発、労働の促進(ミツバチ)くらいです。
それに「内乱」じたい必要ないんですよ。普通に飢えて凍えて老いて死ぬんですから。
(余ったワーカー候補の幼虫をモグモグしたり先述した女王殺しをやったりはしますけど。)
スズメバチは基本的に世界最強のハチであり、さしたる天敵さえも持っていません。それにも関わらず彼らがその個体数を爆発的に増加させないのには、そのような理由があったのです。言わば、彼らの生命サイクルには、内乱と死が含まれているのです。その死が彼らのシステムに含まれていることによって、その個体数は増加せずに済んでいると言えるかもしれません。
さっきも言ったけどスズメバチが爆発的に増えないのは元増田も言っているように「きちんと巣を作ってコロニーを形成できる女王は複数いる女王の内の数%程度に過ぎない」から。
それにワーカーは次代を(オス以外)残せないのだから、こいつらが仮に生き延びても「爆発的に増え」たりしないんですね。
以下の文章は私見となるのですが、あるいはこれは自然の生態系というシステムが破綻を来さないために設けた、一つの安全装置のような気がします。ある種の強大過ぎる種類が個体数を増やしすぎないという、生態系に必要な機能のコア部分が、スズメバチの生態というシステムには凝縮されているように思えるのです。
そんな
ものは
ない
ガイア理論とかナイーブな群淘汰論とか種の保存とか、その手の話にかぶれてるのでしょうか。
生態系に意思はなく、自然に安全装置はありません。生物は利己的な遺伝子の命ずるまま生み育て地に満ちるのです。できる範囲で。
スズメバチは一年間のサイクルを繰り返す。つまり、女王が生まれ、女王が巣を作り、滅びる。これを繰り返すのである。
いやしかし滅びるってなんなんすかという話であって、勿論字義通りスズメバチの巣は最終的に滅びるんですけど、その時に一体何が起こってるのかについてはあんまりよく知らない人もたくさんいると思うわけです。実際のところ、スズメバチの巣が滅ぶ際には色々常識を超えた現象が起こっています。
女王蜂が巣を作り始めるのは四月とか春の時期で、まあ色々とその時にも障害があります。そもそもきちんと巣を作ってコロニーを形成できる女王は複数いる女王の内の数%程度に過ぎないという説もあるくらいで、巣作りが失敗する理由としては、例えば純粋に病気とか栄養不足のほか、天敵に狙われてしまう場合など色々あります。原理的にコロニーを形成したスズメバチには殆ど天敵はいないのですが、つまりは翻って言うならば、彼(女)らの天敵になり得る存在はスズメバチ自身です。
面白い生き物がいまして、これをチャイロスズメバチと言います。
チャイロスズメバチの女王は基本的に自分で巣を作らずに、他の巣を作ろうとしているスズメバチの女王を襲い、巣を乗っ取ることによって勢力を持つのです。チャイロスズメバチはキチン質の硬い表皮(カブトムシなどと同質)を持っており、よほどのことが無ければ他種のスズメバチの毒針はチャイロスズメバチの表皮を貫通しません。勿論その他の噛みつき攻撃などにも耐性があるので、少数の例外はあれどチャイロスズメバチの女王はなんなく他の女王から作りかけの巣を乗っ取り、あげく成長した働き蜂をフェロモンで支配してその後の巣の運営の為に馬車馬のごとくコキ使ったりするのです。怖いですね。
いずれにせよ色々な障害のために巣作りが失敗することもあるのですが、上手く発展の軌道に乗る巣も当然存在しています。で、そういう巣は爆発的に発展して人間の目の敵になったりするんですけれど、上手くいけばその巣は十月頃まで発展します。逆に言えば、十月が彼らの滅びの始まりとなるのです。
秋から冬にかけて純粋にスズメバチの食物がなくなるので巣は滅びへと向かいます。その過程では女王殺しが行われる場合もあります。
女王は年老いてくると新しい女王に据え替えられる場合もあり、その際に働き蜂から追放され、悪ければアレされます。この女王殺しが起こる条件には色々あるようなのですが、一説には遺伝子的多様性の確保のために女王殺しが行われるそうです。つまり、複数の女王の血統からなるコロニーでは女王殺しが行われないのに対し、単一の女王の血統のみからなるコロニーにおいては女王殺しが起こりやすいのだそうなのです。どうやら、単一の女王のみが働き蜂を産み育てることで、遺伝子的多様性が崩壊するのを恐れる傾向が、働き蜂にはあるのですね。子の心親知らずというか。逆に言えば、遺伝子的多様性が担保されている場合にはある程度円満にコロニーは運営されます。
いずれにせよ冬に掛けていかなるスズメバチの巣も滅びへと向かいます。基本的には、その際に生き残るのは新しい女王蜂のみです。この新女王蜂は木の虚とか比較的越冬しやすい場所で来春までの時を過ごします。翻って言うならば、そのような女王としての素質を持っていない働き蜂は皆滅ぶことになるということです。
ここで疑問を持つ方もいるかもしれません。つまり、女王蜂と同じように働き蜂も越冬すればええやんけという話です。何なら女王が木の虚とか堆肥とかそのテの越冬しやすい場所で年を越せるのであれば、コロニー内の風通しの少ない場所で働き蜂らもある程度なら越冬できるはずなのです。しかし、そこがこのシステムのミソで、要するに新女王を除いて全ては滅びるようになっています。
スズメバチは社会性昆虫なので、一度コロニーを形成してしまえば基本的に大型の猛禽やクマなどの肉食動物を除いて天敵が存在しなくなります。例えばオニヤンマやシオヤアブ、雀などの鳥類が一時的にスズメバチを打倒できるとしても、数百匹の群れを成すスズメバチに対抗できる動物はさほど多くありません。つまり、繰り返すように基本的にスズメバチにとって天敵は存在しないのです。
となれば、何故スズメバチの個体数はそれほど増加せずに、ある一定の値を保ち続けているのだろう――そういった疑問を持つ方もいるかもしれません。勿論、季節のサイクルにおいてスズメバチの生存が難しくなることは先述の通りなのですが、女王蜂が越冬できる事実から言って、他の働き蜂が皆滅びる運命にしかないと断じてしまうことには些か違和感を持つ方もいるかもしれません。女王が生き残れるのであれば、全体とは言わずとも一部であれば来春まで越冬する働き蜂もいるんじゃねえのという話です。
とは言え、それは現実には殆ど起こりません。全く起こらないというわけではないのですが、まずもって起こらないのです。
それは、スズメバチの一生のサイクルには死というシステムが組み込まれてあるからです。
次に話すのは周知の事実ですが、基本的に子孫を成すのは女王だけで、一般の働き蜂は子孫を成すことができません。当然交尾のための行動も行わないのです。何故ならば、彼女たちは女王の分泌するフェロモンによって生殖能力を制限されているからなのです。女王の持つ権能はそれほどまでに及びます。
しかし、女王もまた定命のものです。時を経れば経るほどに、その肉体的な能力は弱体化します。つまり、その際には女王の出すフェロモンの分泌能力にも翳りが生まれるのです。
女王の出すフェロモンには色々な種類があって、まずは先述の生殖能力を制限する目的のもの、それから、働き蜂らを統制するためのフェロモンです。彼女らが何故馬車馬のようにあくせく文句も言わず働いているかと言えば、女王の出すフェロモンが彼女らを統制しているからに他ならないのです。では、そのフェロモンを出す能力に翳りが生まれるとどうなるのでしょう?
そう、スズメバチの巣には内乱が起こります。巣の内部にいる働き蜂は、万民の万民に対する闘争状態さながらに攻撃を開始します。その攻撃の対象は、女王、幼虫、蛹、全てに及び、そこに見境などありません。彼女らは暴走し、一切を食い尽くし、全てを破壊していきます。新女王蜂だけが先見性を持ち、その内乱から脱出し次の巣を作るという使命を持って行動することができるのです。つまり、スズメバチの巣においては、仮に気候条件が彼らの味方をしようとも、女王のフェロモンの効果が薄れるにつれて必ずや内乱が起こるようになっているのです。そのため、彼らは気候条件の云々によらず、必ず滅びる運命にあるということなのです。
そんなこんなで、彼らは新女王を除いて滅びます。その血統のレースは一時中断し、新女王が次のコロニーの制作に低確率で成功するまでは、その成否は保留されることになるのです。
スズメバチは基本的に世界最強のハチであり、さしたる天敵さえも持っていません。それにも関わらず彼らがその個体数を爆発的に増加させないのには、そのような理由があったのです。言わば、彼らの生命サイクルには、内乱と死が含まれているのです。その死が彼らのシステムに含まれていることによって、その個体数は増加せずに済んでいると言えるかもしれません。
以下の文章は私見となるのですが、あるいはこれは自然の生態系というシステムが破綻を来さないために設けた、一つの安全装置のような気がします。ある種の強大過ぎる種類が個体数を増やしすぎないという、生態系に必要な機能のコア部分が、スズメバチの生態というシステムには凝縮されているように思えるのです。
暗い場所、なんか精神世界みたいな場所で誰かと誰かが邂逅するシーンが好き。以下、ネタバレを含みつつそれらのシーンを解説していく。
エヴァの最終話近辺も似たような感じのシーンあるけど、あの辺は演出としてかっちりし過ぎているのでそこまで好きではない。
物語終盤において、主人公兄弟である高倉冠葉と高倉晶馬は、真っ暗な空間において隣り合う二つの独房にそれぞれ入れられている。飲み水も食べ物も見当たらないその場所で、二人は飢えていく。なお、二人の姿は物語中の青年の姿ではなく幼少期の頃の姿を取っており、したがってこのシーンが、現実ではない抽象化された世界の出来事であることが示唆されている。
お互いに独房から励まし合いつつも、飢えてかつえていく二人であったが、やがて兄である冠葉が叫ぶ。
「あった!」と。
「何が?」と晶馬が疲れ切った声で問うと、冠葉は「林檎があった。今まで気付かなかったけれど、独房の隅に落ちてた」と晶馬に伝える。「晶馬の方にも落ちているかもしれない、探してみろよ!」
暫くの間晶馬は林檎を自分の独房で探すものの、そこに林檎はない。やがて諦めを含んだ声で晶馬は言う。「僕の方には無かったよ。おめでとう、冠葉は選ばれたんだ」
この「林檎」はこの場合、「両親からの愛情」のメタファーである。晶馬は幼少期において様々な事情により、母性的愛情が欠落した生活を送っていたのである。冠葉はその乾き切った晶馬の言葉に愕然とするのだけれど、自らの手で林檎を二つに断ち割り、そしてその一方を、独房の鉄格子越しに、晶馬の方へと差し出すのであった。
先程、愛情の例えになっていると説明した林檎であるが、同時にこの林檎は、旧約聖書における「善と悪の知識の実」のメタファーにもなっている。
ピングドラムにおけるキャッチコピーは複数あり、その内の一つが「僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」である。愛と罪を共有する、というテーマが、この暗闇のシーンにおいては描かれているのである。
「『列車』はまた来るさ」
飼い猫「レノン」の後を追って、寮が併設されている学校の敷地内を走る主人公。その主人公の目の前に、幼い頃の主人公の心の支えとなり、今もなお親友として日常を共有する棗恭介が現れる。夜の暗い中庭において、恭介はレノンを腕に抱えていた。これまで、レノンは度々メッセンジャーとして主人公を翻弄していた。その尻尾に結び付けられた何者かのメッセージが、時に主人公を誘ない、時には誰も知りようのない個人的な秘密を示唆しもしたのである。
そしてその夜、いつものように主人公の理樹を誘なったレノンが最終的に辿り着いたのは、親友である恭介の元へであった。それを追ってやって来た理樹は、これまでレノンを介して自身にメッセージを与え、様々な示唆を与えてきた人物が恭介だったことを悟るのである。恭介はこれまで理樹に対して、「この世界には秘密がある」とレノンを介して度々伝えてきた。そのメッセージを目にした理樹は半信半疑ながらも、示唆に従い様々な問題の解決などを手伝う羽目となっていたのである。
全ては恭介の悪戯であったと悟った理樹は、「結局世界の秘密とは何だったのか」と冗談めかして尋ねるのだが、「世界の秘密は本当にあるんだ」という思いもしなかった答えに直面する。
「それは形而上学的に存在していたとされる世界のことか何かなの?」「そんなものは存在しないよ。この世界には秘密なんてない」そう困惑しながら言葉を返す理樹に対して、恭介は笑いながら身を翻し、闇の中へと消えていく。結論から言うと、恭介の言った言葉は本当であった。彼の言う世界の秘密とは、恭介を含めた理樹の友人の一切は全て故人だったというものである。その事実に直面することで、主人公が精神的に廃人となってしまうことを避けるために、超自然的な力を用いて恭介は理樹に対して幻影を見せ続けていたのだ。
原作版ワンパンマン第106話、類稀なるエスパーとしての才能を見出され、施設に半ば幽閉されることとなったタツマキは心の調子を崩し、超能力の発揮を躊躇するようになる。その結果研究員たちによって部屋に監禁されるタツマキであったが、やがて研究施設で飼育されていた実験動物の暴走事故が発生し、あわやタツマキもその犠牲になろうとしていた。
そんな時やって来たのが、後にヒーロー界を席巻することになる「ブラスト」である。ブラストは危なげなく暴走中の実験動物を抹殺すると、タツマキに対して自身が趣味でヒーロー活動をしていると告げる。普段は働いているのだけれど、これはあくまで趣味なのだと。
とは言えブラストの強さは圧倒的である。彼はタツマキに「何故能力を使わなかった?」と問いかける。当時十歳の幼児だったタツマキは、一時的に心身の不調で能力が使えなくなったと釈明するも、ブラストはその言葉が嘘であり、自身を根本的に人間扱いしてくれない施設の研究員に対する、自己主張の一環であることを看破していた。「今後の君のために一つだけ教えておくよ」
「いざという時に誰かが助けに来てくれると思ってはいけない」
ブラストはヒーローであり、誰かを助ける側の人間ではあるものの、自らが異常者であることを自覚していた。つまり普通ならば、人は人を助けなどしないのである。タツマキは幼いながらにその事実を突きつけられ、やがて自身も職業的ヒーローの道へと進むことを決意するようになる。誰も人を助けようとしないのであれば、自らが助ける側に回るしかないという事を彼女は悟ったのである。
他にもるろうに剣心追憶編の、剣心が巴を手に掛けるシーンで、巴の墓前の幻影を見る剣心のシーンとかも好き。
そのシーンに至るまでに、巴のこれまでの記憶が暗闇の中でリフレインするシーンとかもかなり好きである。
これらのシーンに限らず、「暗闇の中での邂逅」は多くの場合その作品におけるハイライトと直結している場合が多い。凝縮された幻影とも言うべき、強烈なシーンとして、これらの暗闇は描かれるのである。恐らく、これらのシーンを描く作家の、作家性の極地が、これらのシーンには反映されていると言っても過言ではないとも思われる。
https://twitter.com/kapibaku/status/1331586153577811970
だから、
というのが実態なんでないの?
と思うんだけど
(中国漁船に北斗端末配って日本に領海侵犯するように焚き付けてるのは中国の右派勢力、右翼団体です。
まあ、彼らを敢えて野放しにして、日本への牽制のために利用しているというのはあるでしょうけど。
政府公式の意思表示としてやるなら、もう物理的な紛争になって日本人はとっくに何人か死んでるはず。
ヤクザが暴走族を焚き付けて警察とか市民に威嚇させるのと似てるかも)
あと、「新自由主義・右翼」が社会的勝ち組かというとそうでもなくて、
もちろん、そのカテゴリーに含まれる社会的勝ち組は、自分の成功は自分の努力の賜物であって時代とか周囲とか環境じゃねーからw
という人が当然多い印象があるわけだけど、
「新自由主義・右翼」カテの貧困層、社会的負け組って意外と多くて、基本的に権威主義で服従していないと不安なタイプの人が多い
だから、貧すれば鈍するではないけど、他国で貧困層が自分の国の富裕層を恨んでいるかというと、そんなこともなく、
寧ろその貧困層が、なんでか外国の日本や米国の人種を恨んでいたり、
そんな感じで、不満の矛先を別に向けることが上手いんだろうなあと
だから、外国でもそういう人達が集まるところへ行けば、そういう攻撃的な人間が増えるし、それは日本も変わらなくて、
いちいち喧嘩を仕掛けるような言動をする、攻撃的な人間のエンカウント率が高くなる
それだけなんだなあ、と思う次第
しかし、自分の政治信条は自分でもよく分からんが、自分は何に含まれるんだろうな
マキャベリズム的に考えたって、福祉のない社会を作りたいとか暴力的な資本主義を国は放置しろは間違い
国家というシステムをどうコントロールするか考えてないからそんなこと言えるんでは?
ただ、国家間の話、外交、特に戦争は別にいつ起きてもおかしくない、単なる切り札のカードに過ぎないわけで、
派遣やアルバイトに任せて空洞化したり、本体が脆弱になってくのはもう失われた数十年で分かったのでは?
汚れ仕事を韓国や中国に丸投げしたことで、彼らは真似てパクって強くなった
そういう丸投げ、韓国中国にパクらせる切っ掛けを作ったのは資本主義の暴走であって、
結局、新自由主義者だの右翼だのは、自分で日本が没落する切っ掛けを作ったくせに、
まあ、こんなコロナだ何だでビビリ君になってる状況からどうやって核武装までたどり着くか、
自分にはまったく検討が付かなくなったが、バブルのときにやろうという話もあったけど、
国家として福祉もちゃんと機能している、太っ腹なところもなければならないし、
その一方でちゃんと戦争できる国にならないと、これも国家として意味がなくなってしまうわけで、
その両輪というかバランスというか、そもそも不足している欠けてるものが日本は未だに多いと思われるわけで、
タイトルの通りだ。
コロナで少子化が進行し、騒がれている。しかし、少子化の一体何が問題なのだろうか。
よくあげられている原因として以下の点があげられる。
1.労働力の減少
2.GDPが低下
4.過疎化が進行
6.火葬場が足りなくなる
だが、これらは全て解決できると主張している人は少なくない。というわけで、今回はこれについて説明していく。
1、労働力の減少について
だいたい人口が減るだの、労働力不足だの言われているが、その割には日本にはワーキングプアだの高齢ニートだの働けない人やひどい条件の元で働かされている人がすでに大勢いる。この人達がいる分、労働力不足はありえない。給料を上げれば人手不足なんて解消されるはずだ。
さらに、少子化が進むとむしろ日本の個人の幸福度は上がる。例えば、どこの企業も完全に人手不足になったとしよう。(完全雇用とも言ったりするが)
もしひどい条件(安月給、パワハラなど)をする企業があったらどうだろう。そこで働いている人は、当然そこをやめたくなる。ふと、外に目を向けてみると自分が働いている企業よりもよい条件で募集をかけているところがある。
大抵の人はそちらへ転職するだろう。人がいないと企業も困るので、社員にやめてもらわないよう労働条件を良くするだろう。
某社長が「嫌ならやめればいい。代わりはいくらでもいる」と発言したことが問題になった。もし、このまま人が減れば”代わり”がいなくなる。そのために、企業はより社員によい待遇を出すようにするだろう。
わざわざかなりの売り手市場になって、ブラック企業に行く人はいないだろう。こうすれば、ブラック企業はどんどんと駆逐されていく。
これと同じことは実際に起きた。中世ヨーロッパだ。
当時ペストがヨーロッパで大流行し、人口が激減した。これにより、労働力不足が発生した。それぞれの農地や工場では、人手不足を解消したいと考えていた。これにより、労働者の待遇と生活水準は非常に良くなったのだ。産業革命が起きた原因はこれでないかとする経済史家もいる。
また、経済学でもソロー・スワンモデルという理論によって、人口が減ると一人当たりの給料が増えるといわれている。
さらに、企業が待遇をよくすれば、海外からも労働者がやってくるだろう。世界的にも待遇が良い事で有名なGoogleがいい例だ。世界中から労働者が来ている。
2.GDPが低下
当たり前だ。GDPはみんな給料の合計だからだ。人口が減れば、GDPは下がるに決まっている。
しかし、問題ない。というのも、GDPの順位で生活水準が変わることはないからだ。アメリカは格差がひどいことで有名だ。GDPのランキングが高い=公民全員が豊かとはいえない。ルクセンブルクやリヒテンシュタインは一人当たりのGDPでは上だが、GDPランキングは順位が低い。
多くの人は、自分が生活していけるかが重要だろう。なのでGDPにこだわる必要はない。
おそらく多くの人はこのことを問題に思っているだろう。でも、これも問題がない。理由は「通貨発行権」だ。
日本という国は絶対に破綻しないといわれている。理由としては、お金を刷ることが出来るからだ。足りなければすればいいのだ。
こんなことを言うと、ハイパーインフレになると騒ぐ人がいる。が、そもそもそんな簡単にハイパーインフレにはならない。ハイパーインフレの例として、よくあげられる戦前ドイツは、多額の賠償金を無理に払おうとしたからだ。早い話、国が暴走していたのだ。
今はどうだろう。日本は30年もデフレから脱け出せていない。もし、そんなに簡単にインフレになるなら、とっくにデフレなんて解消している。
お金をバンバン刷って、社会にばらまけばよい。しかも、国家がちゃんとしていて、国がきちんと監視してくれている。
インフレになる手前に止めることは十分できるだろう。
そういうわけで、この点も問題ない。また安楽死などを導入すれば、社会保障費は減るだろう。
4.過疎化が進行
過疎地域の若者は都会に出て、老人は死ぬ。するとその土地には誰もいなくなる。それで終わりだ。
まず、インフラはある程度人がバラバラで住んでいるとお金がかかる。以前和歌山の山奥で一人のおばあさんのために2億円かけて橋を作ったことがあったそうだ。これを聞いて思うことがある人もいるだろう。
そもそも国民はまとまって生活していた方がよい。日本はある程度災害が多いから、完全に一極集中は難しいだろうが、それでもある程度は過疎化が進んでまとまった方が効率は良くなる。
実際、インドや中国では過疎化を勧めようとするプロジェクトが進行しているくらいだ。過疎化が進んでいけば、国はさらに効率が良くなる。むしろ良い事なのだ。
優れた文化なら残る。大丈夫。また、今のように日本全国で行き来するなら、言語は統一した方が効率がよい。今方言を学ぶ意味は果たしてあるのだろうか。
6.火葬場が足りなくなる。
増やせばよい。