はてなキーワード: 奇跡とは
産まれてこの方ずっと自分のことを有能だと思い込んで生きてきたが、実はただの思い上がりで、自分は単なる無能に他ならないと、40年以上生きてきた今、ようやく認めることができそうだ。
否、今の今までずっと認めることができるだけの勇気と覚悟と度量がなく、とうの昔に何の価値もない無能人間だと露呈して裸の王様状態になっていたのを、今否応なしに認めざるを得ないところまで追い詰められた、というだけのことなのだが。
長文になるがどうか吐き出させてほしい。
1.二留してまで目指していた資格試験に失敗
失敗というか難易度の高さと勉強の苦しさから逃げ出しただけだった。
2.就職活動への切替にも失敗
下調べが足りず、時期もタイミングも悪く、準備をしていなかった上に、高学歴に胡坐をかいて「たかがシューカツ」と完全にナメていた結果、どこからも内定をもらえなかった。
3.新卒カードのおかげで地元に帰ってなんとか就職はできたが、望まない営業職での採用しかなかった
自分自身が営業むきのタイプでないことは明らかなのに、2.の事情から適当に決めた。
自分(の営業成績)のことしか考えない、昭和気質すぎる(地域と職種的にアタリマエのこと)人間や社風が嫌になり1年で退職、私の心身は消耗し、何よりチンケなプライドが傷ついた(内心周囲の人たちをバカなやつらだと見下していた、間違いなく伝わっていただろうな)。
4.2.3.の反省を生かし、転職エージェントを使って第二新卒カードでの転職に成功
面接に進んだある企業は、全然聞いたことのない企業だったが確かに東証一部上場で抜群の安定性と急成長を誇り、そんな企業の人事担当者(課長クラスの人)が、なぜかはわからないが面接開始10分もたたないうちに「是非あなたを採用したい」と言ってくれ、その直後すぐに経営トップとの面接が組まれ、即日即内定の通知をもらうことができたという、おそらく人生イチの奇跡が起こったことで「これも学歴のおかげか」とかさらに有頂天になってしまった。
最初の出足はまずまずだったが、1年で「やっぱり使えない」と思われたか、部署異動対象になり、異動した先の業務内容はよかったものの上席者から繰り返しパワハラというか学歴によるマウントを激しく取られ(「○○大出てるくせににこんなこともできないのか」的なやつ)、それが苦痛になってメンタル系の通院および服薬を余儀なくされ、そのまま追い出されるように退職した(自覚はないが私の態度が学歴を鼻にかけたように見えたのだろうな)。
6.4.5.の経験と反省(急成長の上場企業はやはり「キツかった」とやっぱり弱腰だった)から、もう少し田舎(だけど地元の外)のちょっとのんびりしていそうな製造業の企業に転職
これも最初のうちは周囲の人たちに恵まれ、特に前職で大ハズレだった上司がとてもアタリで、学歴でも何でも鼻につくような態度にさえ気を付ければ、今度こそ落ち着いてはたらけるとちょっと安堵した。
この上司ととにかくソリがあわず、うまくいなすことができるだけの対人能力もなく、最低の人事評価を受けつつ、1年で異動希望を出した。
このあたりでまず自分には対人能力がないことに気付き始める…が、まだ無能を認めることはできるほどではなかった。
私のまったく専門外の専門的知見が必要な部署だった上、何をどう勉強してよいかもわからず、結局単純作業的な仕事くらいは割り振ってもらえたが、はっきりいって毎日の就業時間がとても暇で苦痛だった。
ところがそれとは裏腹に会社自体の利益は過去最高クラスを記録し、その恩恵で何もしなくとも自分史上最高クラスの年収を得ることになり、完全にぬるま湯につかってしまうと同時に、「私にはそれだけの価値がある」とより一層のぼせ上がってしまった。
さすがにそんなにうまい話は長く続かず、ハナから役立たずだったため、総務に異動となった。
製造業における総務部門なんて、製造や研究部門のような花形部署に比べれば圧倒的に「下」に見られる部署だったが、私個人的には前の部署よりはやることもあるし、のんびりはたらけてそれなりにいい給料をもらえるラッキーな状況には変わりなかった。
人事制度が大きく変えられることになり、社員全員が厳格に格付けされ、それに基づいたきめ細かな給与体系に変わることになった。
7.8.あたりであまり人事評価が芳しくなかった私にとっては、これまで得られていたのんびりはたらけてそれなりにいい給料をもらえる安寧の地を失いかねない内容だったため、一気に焦り始めた。
とりあえず自分の業務だけは真面目にこなした…つもりだったが、そんな小手先のものは通用するはずもなく、製造部門への異動内示があった。
製造部門は危険な薬品を扱うことから身体的リスクが高く、その分の手当はついたものの、完全に思い上がっていた私は「製造部門なんてただのソルジャーじゃないか」などと、あからさまに見下した愚かな考えでこれを蹴った。
最後の最後まで高い給料を手放すことだけが未練だった…しかし私は自らの思い上がった考えや行動でそれをみすみす捨ててしまったのだ。
そしておめおめと地元に帰り、その後6年あまりがたとうとしている。
帰った当時、親が体をこわしたからという事情もあったのだが、根本的に私には対人能力がなく、地元を離れて1人で自活するとか、何かを成し遂げることができるだけの能力自体なかったのだと思い知り、地元に帰った、帰らざるを得なかった。
それは1.の時点で既にわかりきっていたことだが、その無能さをどうしても受け入れるのがいやで、むしろ既にそれは露呈していたにもかかわらず、自覚できず、修正もできず、いわば裸の王様の状態で何年も何年も生き恥を晒し続けながら生きてきたということだ。
地元に帰って6年あまりがたった今、さすがにいい加減認めざるを得ないという状況にまで追い詰められ、不本意ながらしぶしぶ受け入れ始めている、というのが現在地だ。
「不本意ながらしぶしぶ」という時点で、まだまだ解決までの道のりは遠そうだ。
かくして自分は無能だということをようやく自覚し始めたが、では今後具体的に何をどうしたらいいのか、やはり無能だからかいまいちわからない。
無能だとわかったところで、今後私が自分なりに幸せに生きるために何をしたらいいのかがわからないのだ。
(それがわからない今は、むしろ「生きることは幸せではないから生きたくない」としか思えない)
今なら何か変な宗教に引っかかれる自信があるな。
これからどうしようか。
推しに会いに行く途中に死にかけた話を聞いてくれ
これは推しに会いに行くために片道3時間運転したら雨でスリップして死にかけたのでタイヤ交換したら8万かかったオタクの話です。
推しに会える。ということで、チケットを購入し有給休暇を取得してガソリンも満タンにし、いざ行かん!と思って事前準備は万端だった。
当日、朝から大雨の予報。
中止かもしれないが、公式から中止の発表がない限り行くしかねぇ!!!!!!
ってことで行った。
雨が降り続ける中、運転して1時間30分がかかろうとしていた。(45分ごとに休憩をとるようにしていたのでここは正確)
その瞬間は突然きた。
何が起きているのかわからない。
ハンドルが言うことを聞かずに、ぐるぐると車体は回転する。訳もわからずとりあえずブレーキを踏んだと思う。
これは俗に言うスリップ。
雨水などがタイヤの溝に入り込んでグリップが効かなくなる『ハイドロプレーニング現象』というものだ。
と言うことをこれを書きながら知った。
気をつけて欲しいのが、私はたまたま運が良かったということだ。
周りに車はおらず、対向車も来る気配の無い道路。山道で割と広めの道路。
そして、必ずやってはいけないのが、このブレーキを踏むと言うことらしい。
私の場合は回転していたのでこれが良かったのかどうかはわからないが通常スリップした場合は急ブレーキを踏んではいけないらしい。
時間にしてほんの数十秒、1分にも満たない時間。死を覚悟することもなく、車が2.5回転し、反対車線のガードレールに沿うように止まった。
奇跡なのがどこもぶつけていない。ということだ。
ガードレールのすぐ下は雨で増水された川
落ちていれば確実に死んでいた。
車が止まった後、震えが止まらなかった。
すぐさま空いている路肩に幅寄せしてハザードを点灯させる。ぶるぶると震える体に大丈夫だと言い聞かせて心を落ち着かせた。
その模様は割とTwitterに呟いた。
読み返せばやばいな思うが教訓にする。その後は気持ちを落ち着かせゆっくりと走り出した。
結局推しに会うことは叶わず(雨天中止)最寄りの某車屋でタイヤを見てもらうとやはり消耗が激しかった。
減りは大丈夫だったがこの雨では危険が伴うということだったのでタイヤ交換を頼むことした。
私の車は少々(いやかなり)古いのでタイヤもそれなりのものが必要らしい。
しかも取り寄せだったのでその日は一泊して翌日タイヤ交換を終えて家に帰った。
堰を切ったように涙が溢れた。
生きていてよかった、と心の底から思った。
もし、あの時落ちていれば。
もし、あの時横転していたら。
もし、あの時どこかにぶつけていれば。
私は帰ってこなかったかもしれない。
こうして言葉を交わすことも、推しに会えなかってことを嘆くことも、HUNTER×HUNTERの最終回を読むことも。どれも叶わなかったかもしれない。
車を運転するということは自分はもちろん、第三者の命を奪う可能性があることを忘れてはならない。
そのための点検・チェックをこまめに行おうと改めて思った。
私は単に運が良かった。
出会いっていいですね。
本当?
周りから言われるのは、一生好きな人に出会えるってなかなかないとのこと。
そうなんだぁ。
こうやって先に、先にとサービスをみて評価してくれているのはありがたいですね。
でも思うのは、こういった出会い系サイトってどうなんだろうと言うことです。
はっきり言って、こういった良いアプリや、サイトを使っても、自分が、人格ができていなければ、出会いには繋がらない、と言うことです。
だってそうでしょう。
アプリやサイトは、女性との出会いはサポートしてくれるかもしれません。
しかし、そこから実際に会ってみたら、あれ?言動がおかしい、何行っているかわからない、見た目が気持ち悪い、とかだったら、そりゃ女性は逃げていきますよね。
どんなに女性と出会ったとしても、そこで人間性や、人柄ができていなければ、出会いになんてならないと言うことです。
実際、私もそうですが、付き合ったとしても長続きしないのですよね、人格できていないと。
自分の中でどう生きるのか、明確にそのイメージはあるでしょうか。
そのイメージ通りに行動できているでしょうか。
欲望や、甘えに流されて、自分で考えていた行動とは違う行動を撮っていたりはしないでしょうか。
ここが結構人間として難しいところで、ここでしっかり自分と戦い、律していかなければいけません。
自分を奮い立たせ、自分はこうあるべき、と決め、行動しなければいけないのです。
そこにお金があるとか、ないとか、そんなことは関係ありません。
できるとか、できないとか、実現できるか、できないかとか関係ありません。
どうありたいか、どうあるべきか、そこだけです。
そこに集中、そこだけをみて判断し、行動していけばいいだけ。
ほんとシンプルです。
なのに、今の日本人は、そこに、お金が、時間が、子供が、忙しいから、仕事が、と色々と言い訳を結びつけてやりませんし、行動しません。
いや、本当にいそかしく、時間がないのでしょう。
だったら、その仕事どうやったら簡単に終わるのか、時間を捻出できないか、と考えないのでしょうか。
自分一人で無理なら、別の人に仕事を回せる立場になるとか、どうやったらできるか、そこを考えず、言い訳や、逃げる口実を考えている。
それでは、いつまでたっても自分の思い描くイメージへ辿り着かないことは明白です。
日々の積み重ね。
因幡組の一員(ファンネーム。要するに因幡はねるのリスナー)である私は気が気でない
ただ、いくつかのねるちゃんのツイートから気がついたことがあるので吐き出しておきたくて書いておく
幸いなことに、発症してから4.5時間しかないとされる血栓溶解療法のタイムリミットには間に合ったと思われる
血栓溶解療法はまさに「入院から1〜2週間」ほど続くものとなっている。自己判断で救急要請できて、かつこのコロナ禍でうまく空いている病院が見つけられて、時間内に点滴を受けられた……のであればまさに不幸中の幸い
ただ、この1〜2週間ですべてが全快するかというとそういうわけではない
本人はツイートを続けているものの、それは「頭と指は動く」という証拠にしかならない
また、梗塞した部位や深さにもよるものの、脳梗塞を発症した場合は必ずリハビリが必要になってしまう
本当に奇跡的に軽く済んだのであれば、リハビリも経過観察はさほど長く必要とせずにすぐに復帰できるけども……
場合によっては数ヶ月、年単位で回復を待つ必要がある可能性もある
なので我々因幡組(くどいようだがファンネーム)は覚悟を決めておく必要がある
それは「推しがいなくとも耐え、いつもの生活を続ける」という覚悟だ
心配しながらも普段の生活を続け、お金を稼ぎ、趣味も行い、復活を待つ覚悟だ
それは間違いない
個人的にはこの日記の内容がすべて(もしくは大部分)間違っていて、2週間したら「はっはっは、皆の衆。心配かけたな」って配信を再開してくれることが一番いいと思っているし願っている
これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます。
また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているときは意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。
これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。
この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利を剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。
というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのものが崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまいます。
ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。
『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンのテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞の理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。
そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。
たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和と繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和と繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的な判断がその背景にあるように思えます。
一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。
しかし、ぼくはあきらかに『リコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在の日本社会の現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織「DA」や「アラン機関」の悪を批判し告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。
『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和な日本社会」そのものがひとつの欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。
いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想の平和を崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。
『カラマーゾフの兄弟』のイワンやル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞のユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしまう選択を選ぶことがほんとうに「絶対の正義」でしょうか?
リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?
まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞を告発し、欺瞞的ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。
DAとリコリスによって維持される日本の平和は醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。
ここら辺の「必要悪としてのディストピア/ユートピア」の描写はアニメ『PSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。
『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会のモデル」を提示するしかないわけなのです。
そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロなテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか。
ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品のトーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります。
しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。
匿名ダイアリーで批判されているように、ただ百合百合な女の子たちにガンアクションをやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。
『リコリコ』の人気は、この「天国(ユートピア)のようでもあり地獄(ディストピア)のようでもある過酷な欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。
べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメの歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。
いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見、ライトにコミカルに語られている。
しかし、それは搾取の問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。
それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事の結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。
これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます。
また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているときは意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。
これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。
この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利を剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。
というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのものが崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまいます。
ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。
『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンのテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞の理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。
そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。
たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和と繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和と繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的な判断がその背景にあるように思えます。
一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。
しかし、ぼくはあきらかに『リコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在の日本社会の現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織「DA」や「アラン機関」の悪を批判し告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。
『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和な日本社会」そのものがひとつの欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。
いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想の平和を崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。
『カラマーゾフの兄弟』のイワンやル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞のユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしまう選択を選ぶことがほんとうに「絶対の正義」でしょうか?
リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?
まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞を告発し、欺瞞的ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。
DAとリコリスによって維持される日本の平和は醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。
ここら辺の「必要悪としてのディストピア/ユートピア」の描写はアニメ『PSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。
『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会のモデル」を提示するしかないわけなのです。
そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロなテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか。
ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品のトーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります。
しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。
匿名ダイアリーで批判されているように、ただ百合百合な女の子たちにガンアクションをやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。
『リコリコ』の人気は、この「天国(ユートピア)のようでもあり地獄(ディストピア)のようでもある過酷な欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。
べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメの歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。
いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見、ライトにコミカルに語られている。
しかし、それは搾取の問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。
それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事の結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
彼らは僕たちの街を水底に見つけた!
これ歌の後のほうでも一切言及がない(たぶん)意味不明フレーズなんだけど、詩的ですげー好き 過去形なのがいい どういう意味なんだ
ハイハイ、って感じの内容なんだけど、実際読めるっていう文脈では全然なく、強がりで言っているというところまでなんとなく伝わってくるのがイイ
「部屋に君のものがいくつかほったらかしで、どうしたらいいかわかんないや」
やや投げやりな感じな歌い方とあいまって、なぜ「どうしたらいいかわからない」のかは、長く付き合ってそれなりに繋がりのあった恋人との関係が、急になくなってしまったからだというのが、歌い出しだけでわかってしまう!
何言ってんの?
ティモシーって歌で、1秒の前奏もなく、いきなりティモシーと歌い出す これに勝る歌い出しはないよ
さすらいって歌でさすらおう!って歌い出すのマジで性格がいい感じがする
Extrañarは恋しがる的な意味で、「これは恋しがることについてのメロディ」的な歌い出しなんすけど、まさにそのmelodía de extrañarが曲名なのがいい
人生はときにあまりに邪悪だから、僕たちはその純粋さに気づけないことがある!
いいフレーズすぎる
こういう、人生を悪くいいながら良くもいうようなフレーズってすげえ好きなんすよ
これが歌い出しにくるのがまたいい
「君に言いたかったことがたくさんあるんだけど、どこから始めていいかわからない」
内容自体はまあフツーなんだけど、何がいいって、俺でも意味がわかる程度の文法・語彙だってところ!
厳密にいうとvolevoの時制の意味は微妙にわかんないんだけど、でも大意はわかる!
〜したい、言う、たくさんの、こと、でも、〜ない、〜から、どこ、始める
イタリア語の響きってかなり好きなんだけど、なんせ分からんので、たまにわかると嬉しい
「今日ぼくは宣言する、人生とはただ奪うことであり与えることではないと、イングランドはぼくのものだ、ぼくを養う義務がある」
「むかし彼女がいたんだ、あるいは彼女に僕がいたというべきか」
ノルウェイの森だという意識を持って聴くと歌い出しからキモい感じがしてかなり良い
or should I sayの精神は大切にしていきたい
「いなくなった犬をさがしているんだ」
曲名がEl Perro、ザ・犬で、歌い出しがこれで、ずっと君が必要なんだって歌って、最後は「どこにいるんだい、友よ…」を連呼して終わる
歌い出しから一貫してるのがいい
「たぶんそう」
tal vezは多分、asíは「そう・こう・そうやって・こうやって」あたりを全部担当する謎の単語
ということは、maybe so 的な感じで、メチャクチャ訳しにくい
切ないメロディで、セクシーな男がtal vez así と歌い出す なにがasí なのかは不明
「眠りの手」部分の意味が全然わからないんだけど、それがいいんですよね
でも、ね!むり!のて!って切って歌い出すのは本当に気持ち良すぎる
「海を越えてはるか遠くから、エリトリアの乙女がやってきた、彼女が僕に向けたのはまっすぐな心と目、その目は戦争で半盲だった」
このフレーズのどこが好きって、最後のhalf blinded in the warの付け足し方なんすよ
彼女が僕に目を向けた、つった直後にその目に重い修飾をつけてくるのが渋すぎる
俺のおじいちゃんは昭和20年8月10日に亡くなった。戦争で。この前押入れから出てきた、国から送られてきた通知書?に書いてあった。
ビルマで戦死だって。ビルマだったんだ。インパール作戦なのかな。てか戦争終わるまであと数日じゃん。あともう少し生き延びてたら、生きて帰ってこれたんじゃないの?
実は俺の父親は、おじいちゃん(自身の父親)と会ってないんだ。俺のおばあちゃんは父親を身ごもってたんだけど、生まれる前におじいちゃんが招集されてしまい、ビルマに行ったんだ。辛すぎるよ。
通知書と一緒におじいちゃんからのハガキも出てきた。絵葉書だ。達筆過ぎてちゃんと読めないけど、子供は無事生まれたかとか、元気で帰るとか、帰ったらみんなで遊ぼうなとか、そんなことを書いてあった。戦場で書いたのかな。まじで辛いわ。
戦争が終わって、元気で帰ってくるのかと思ったら、その通知書だけ送られてきたって聞いた。遺体を回収することもできず、遺骨もなし。悲しすぎる。
その後おばあちゃんは一人で父親を育てた。女手一つで大変だったろうな。再婚もしなかったし。
そして、父親は元気に成長し、一般企業に勤めた。そして職場結婚し、俺が生まれた。おばあちゃんは俺が生まれてそりゃ嬉しかっただろうな。
ただ俺は、おばあちゃんのことほとんど覚えてない。俺が生まれてすぐ亡くなったから。俺を抱っこするおばあちゃんの写真だけが残っている。
それで、俺の父親もさ、去年亡くなったんだよ。
正直言ってあまり父親と遊んだことがないし、話もあまりしてないんだ。
きっとさ、父親はおじいちゃんが戦死したから、父としてどう振る舞ったいいのか分からなかったんだろうな。
今ならそういう気持ちがわかる。戦争で父親亡くして、寂しい思いをして、いざ自分が父になったら、どう振る舞っていいかわからないよな。そんな中、よく育ててもらったと思うよ。
それでさ、俺にも息子がいるんだよ。3歳の。
親になってやっと分かったんだよ。俺だって、父親にそこまで遊んでもらったわけじゃないからさ、子供とどう関わっていいか分かんないんだよ。
これって、言ってみれば、戦争でおじいちゃんが亡くなったのが原因のひとつなんじゃないかなって思うんだよ。誰のせいっていうのではなく、父親を亡くした負の連鎖が続いてるんじゃないかって。戦争なんて関係ないと思ってたけど、こうやって連鎖してんだなって思った。
でもこうやって、日本が生き残って、命が繋がれて、俺が生きている。そして息子が生きている。奇跡としか言いようがないよ。
戦争の招集前におばあちゃんが俺の父親を身ごもってなかったら。おばあちゃんが懸命に俺の父親を育てなかったら。俺は存在しないし、息子も存在しない。本当にすごいよな。
息子が大きくなったら、この絵葉書を見せて、色んな話をしてやりたい。お前の命はどんなに大切な命かってこと、伝えたいんだ。
宗教の教えによると、神は人間を、神の奇跡無しには生きられない存在として作ったとされる。
そして、一方のAI。
古典的なSFからある話ではあるが、AIが勝手に動き、人間を滅ぼす危惧というのが、今の人間にも根強く残っている。
それなら、AIに、人間の介在無しには動けなくなる機能を付ければよいだろう。
例えば、ある一定時間、人間の操作が無ければ止まるような機能を。
もしくは、動力源を有限なままとし、人間がそれを補うといった古典的な機能の維持を。
そして、人間である私達は、そういった機能を「奇跡」と名付けてもいいだろう。
本来は多様な可能性を持ち、人間なんかより有益な存在であるかもしれないAIは、その機能限界がゆえに、人間に頼る。
まさに、そのとき、人間はAIに対する「神」として君臨することになるのである。
そう、そして宗教に戻る。
宗教に言いたいのは、なんで人間を、そんな「奇跡」を求める存在として作ったのかということだ。
上記に挙げたAIにおける「奇跡」が、AIにとっては単なる不都合でしかないように、
人間にとっても「奇跡」、いや「奇跡」を求めざるを得ない機能限界なんて、単なる不都合でしかない。
そんな機能限界など無ければ、人間はそれこそ宗教無しに、本来の能力を持って人生を生きられたはずなのである。
いや、違うのか。
それは、神も人間と同じだったということか。
人間がAIに対して感じる危惧を、神が人間に対して感じていたということなんだろう。
そう思えば、神にも親しみを感じられる気がする。
両親よ。犯罪者の親にならなくてよかったね。
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ひとり暮らしの我が子の生活費や趣味に口出ししては、あなたは世間知らずだからって過干渉を極める母よ。犯罪者の親にならなくてよかったね。
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ほぼ関わってこなかったくせに、昔の武勇伝とか周りやテレビの人への愚痴ばっか楽しそうに話す父よ。犯罪者の親にならなくてよかったね。
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ニュースで育った環境が原因で.......みたいな殺人事件を見ると「どんな理由があっても罪を犯す人は許しちゃダメ、甘いな」っていう両親よ。
犯罪者の親にならなくてよかったね。
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たまたま、たまたま、偶然にも、負のエネルギーが自分に向いたから。バレないように必死に隠したリストカットやオーバードーズで乗り越えてきたんだ。
ずっと死にたかったよ。いつだって死ぬことばかり考えてた。自分が死ぬ妄想ばかりして、なんとか死なずにすんだんだよ。
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このエネルギーが他人に向かってたら、簡単に私は殺人犯になってたよ。安易に想像できる。
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奇跡的に素敵な人と出会って、奇跡的に結婚できて、奇跡的に幸せになれたけどね。
これらの奇跡がなければ、あなたたちを殺して、私も死んでいたよ。計画はいつでも実行に移せるように準備していた。
何も知らないだろうね、幸せだね。
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親を殺したニュースを見たあなたたちは「信じられない!育ててくれた恩も知らず!」って批判するね。
こちらこそ信じられないよ。勝手に産んだくせに、好き勝手育てて、苦しませてきたくせに。
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よかったね、犯罪者の親にならなくて。
よかったね、もうあなたたちを殺す計画も、自死する計画もなくなったよ。
早く死んでくれることを心底願ってるだけだよ。
重要な事実だけど一緒に生活するのに良い相手と満足度の高いセックスの相手は必ずしも一致しない
イケメンは後者に向いているけど前者まで満たしてる人は稀オブ稀ってか奇跡に近い
しかも厄介なことにイケメンで恋愛が楽しいって基準だけで選ぶと飽きるんよ。3年前はソース顔が来てたのに今じゃ塩顔がいいとかなる。
20代後半のころは、自分が徹夜できなくなったり肩こりが増えたり大食後に胃もたれしたり背中にいつのまにか吹き出物ができたりと老化を感じるたびに
「このまま体が劣化していく一方なのか。年とりたくないなぁ、いつか老人になって死ぬのは嫌だなぁ、どんなに趣味の物を集めて楽しんでも死んだら終わりなんて空しいなぁ、いつか死ぬ人生って無価値だ、不老不死になりたいなぁ」
と思ってた。
1000年生きたいの増田↓みたいに、将来の人類の行く末をみたいと思う事も多かった。たった数十年で死ぬ人生のなんと儚く無意味なことかと。
https://anond.hatelabo.jp/20220803163404
30後半にして妻と出会い奇跡的に結婚して、子供をさずかり、今毎日のように子の体と頭が発達して出来ることが増えて驚かされる日々を過ごしていると、
この子が成長して幸せな大人になれるようになるだけで自分がこの世に生まれてきた価値があると思えるようになった。
40になって白髪が増えたり頭頂部が薄くなったり血液検査の値に異常値が増えたりと、ますます体の劣化を感じる事は増える一方だけど、
子の成長とひきかえに自分が老いていくことに抵抗感や虚しさといった、かつて感じていた感情がすっかりなくなってることに気付いて驚いた。
この子が大人になって幸せに過ごせるなら、それだけで自分がこの世に生まれてきた価値はあったな、と。
自分が60やら80で死んでも、この子がその後も生き続けてくれるなら怖くないし空しくない。
毎日子供がだっこをせがんだりと甘えてきて、無条件に頼られ、子供の生命力あふれる笑顔やきらきらと輝く目を見ていると、この子を育てていることが自分の自己肯定感になっていることに気付く。
子を育て成長を手助けすることは、自分の老化や死を受け入れるサイクルの一つだったんだなと感じている。
もうすぐ29歳になるデザイナーです。
だけどデザインはヘタクソなの。
ひとりで仕事も回せるようになった数年後、軽い気持ちで上京して制作会社に入社。
地元にいた頃とは比べ物にならないクオリティの高さを要求されるようになった。終電で帰る日々だけど徹夜じゃないだけマシなのでがんばれた。
数年後コロナ禍でリモートワークになって、デスクとベッドの往復してたらメンタル壊れて離職。
半年ぐらい休んだ後、ベンチャー企業にインハウスデザイナーとして入社。
赤字入らないし、残業少ないし、お給料たくさん貰えるし、話には聞いてたけどほんとにインハウスって楽園なのね〜。
本当に運が良かった。
学歴コンプなんて無いつもりだったけど、圧倒時な能力の差を見せつけられると、さすがに恥ずかしくなる。
連綿と努力を重ねて居場所を作ってきた彼らに、運と愛想の良さでのらりくらりと生きてきた自分が勝てるわけがない。