はてなキーワード: 中毒とは
私自身の経験に基づけば、商品貨幣論は小さな集団では確かに成り立つ。
無論、歴史的な価値が生み出される経緯が商品貨幣論で説明できるとは思わないが、貝貨のように債券として機能しないものが存在していたことも事実である。
Twitterに書くには長すぎたので私の小学校高学年時代の経験を書く。
私が小学校高学年の時は珍消しゴムのトレードが流行っていて、各々の価値基準に基づいたレートで物々交換が行われていた。
香りのついた練りけしをはじめ、フィギュアのような消しゴムや、機能性押しの消しゴムも人気だった。
私は牛乳キャップを使ってコマを作るのが好きだったから、よく消しゴムを買っていってキャップと交換してもらっていた。
しばらくすると牛乳キャップには何枚かで消しゴムと交換可能な程度の価値があるという認識が学年中に広がった。
交換用に消しゴムを買うのにもお金がいるので私は作ったコマを牛乳キャップ何枚かと交換しだした。
私のコマは人気で、私がより多くのキャップを欲したこともあり、一番多いキャップを出した人とコマを交換することにした。いわゆるオークションである。
ところが牛乳キャップの入手手段は限られていたため、入札額にも限度がある。
すると持っている珍消しゴムを売りに出す人、新しいコマを買うために古いコマや作ったコマを売る人が現れ、牛乳キャップが珍消しゴムと交換する以外の価値を持つようになった。
元々コマに興味が無く、消しゴムに飽きた女子は好きな男の子に牛乳キャップを独占的にあげたりしていた。
しばらくすると、コマや消しゴムを牛乳キャップの形で保持する人が出始めた。学年内に流通しているコマや消しゴムは目新しい物の価値が高く、古くて見飽きた物は価値が下がる傾向があった。つまり飽きたなら価値があるうちに牛乳キャップに交換して持っておく方が良い。そうこうする内に消しゴムやコマのブームは去り牛乳キャップは交換券として機能しなくなったが、価値あるものと交換した牛乳キャップは誰も捨てなかった。
この時点で牛乳キャップそのものが貨幣価値を持ったように思う。
月日は流れ、自作カードのブームが来た。担任が自分で作ったカードなら学校で遊んでも良いという発言をしたためである。
UNOを皮切りに遊戯王やデュエルマスターズなど当時はやっていた各種カードゲームを学校で遊ぶため、私含め工作好きな2、3人がパックを手作りしてキャップと交換した。
トレーディングカードゲームの類はある程度枚数が無ければデッキを組む楽しさが味わえないため、かなり苦心してカードを大量生産した。パックで出たデッキに不要なカードはやはり牛乳キャップでトレードされ、各々デッキをくみ上げていた。なお、肝心の私は自分のデッキを顰蹙を浴びない程度に自作できるので、得たキャップの使い道は殆ど無かった。
またしばらくしてカードゲームに飽きた私は、パックを作りつつも今度はルーレットを始めた。キャップ工作が廃れ、毎日給食から供給されたことで大量に増えて消費先のないキャップを、大量に消費してやろうという考えだった。段ボールと画鋲で作ったルーレットでも中々中毒性があり、はまる人が出てきた。
大量にキャップを持っていた私はルーレット一回につきレートに応じたほんの少しの手数料を取って、掛け金の合計から足りない分は自分のキャップを出すという形にした。これが恐ろしい発明だった。ルーレットは全員負けることが少なくない上に主催者である自分は絶対に一定の手数料が入ってくる。キャップは消費するどころかどんどん増え、ジャンキーたちの要望により高レートルーレットの開催が増え、さらに儲かり、顧客は借キャップをし始めた。高利貸しや融資を募る人、親が儲かることに目をつけてカジノを始める人が発生し、授業の合間の休憩時間の教室は狂気のカジノだらけになった。
このあたりは最早脱線しているが、要は最初は消しゴムの交換券でしかなかった牛乳キャップが消しゴムトレード文化の衰退に伴い、消しゴムの価値を吸収し、それ自体で価値を持った訳である。
さらにカジノという、価値を物の購入以外で消費する文化が発生したことで、価値の維持に消耗品が必要なくなった(消しゴムやコマは消耗品なので、交換券としてのキャップが価値を持ち続けるためには常に新しく消しゴムかコマが存在する必要がある)。
つまり結果として、物々交換➝金の交換券としての兌換紙幣(貨幣)→金との交換の保証が不要な不換紙幣(貨幣)と商品貨幣論が実践されたように見える。これが私の経験である。
小学生程度の知性でこのありさまなので、当然長い歴史の中で小さなコミュニティにおいて商品貨幣論的過程で貨幣が価値を持つことは十分に考えられる。貝殻には装飾といった需要があったことを考えれば、貝貨が牛乳キャップ的過程で普及してもおかしくはないだろう。商品貨幣論でよく説明される金が扱いづらいから兌換紙幣が生まれたというような説明を用いずとも兌換紙幣が発生しうるという話でもある。
余談:
・毎日給食で供給されるキャップがあるにも関わらず、過度のインフレが起こらなかったのは、私のような銀行的振る舞いをする人やため込むのが好きな人がいてキャップをため込んでいたからである
・カジノ時代になると、資金が付きそうになったギャンブラー銀行家が他人の預金を使ってギャンブルをしたため、微妙に信用創造的なことも行われていた
・高利貸しがいる以上破産はするが、破産者には多少恵んでやるという暗黙の了解があったため、破産しても1、2週間程度で復活できた
特徴
犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは以下のように定義している。
良心が異常に欠如している
慢性的に平然と嘘をつく
行動に対する責任が全く取れない
罪悪感が皆無
口が達者で表面は魅力的
オックスフォード大学の心理学専門家ケヴィン・ダットンによると、サイコパスの主な特徴は、極端な冷酷さ・無慈悲・エゴイズム・感情の欠如・結果至上主義、である[1]。現状では、チェックリストのみが診断基準であるので医学的にサイコパスと同じ状態であっても反社会性がなければサイコパスとはならない。反社会性などの診断基準を満たす者は幼少期からの素行問題など行動面の異常を示すことが多い[2]。
日本国の精神保健及び精神障害者福祉に関する法律・第5条に、「この法律で『精神障害者』とは、統合失調症、精神作用物質による急性中毒又はその依存症、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者をいう」と定義され、精神障害者に該当しつつ、保護の対象者と成る事を法的に認めているが、必ずしも全てが該当するとも言えず、時代相応の医学(科学)的な診断結果に基づいて判断される。
サイコパスの主な特徴は、極端な冷酷さ・無慈悲・エゴイズム・感情の欠如・結果至上主義、であり、サイコパスの人間の大部分は殺人を犯す凶悪犯ではなく、身近にひそむ異常人格者であるとされている。
しかし中程度以下のサイコパスであれば、社会的成功を収めることも多いとされている。サイコパスはその定義上、悪人とされる[3]。そして彼らが悪事に手を染める理由にはありとあらゆるものがあるとイェール大学の心理学専門家ポール・ブルームは断定している[3]。
見てないのもそこそこ
一覧はアニメイトのサイトが便利(https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=5806)
1話段階のレビュー→https://anond.hatelabo.jp/20190717174713
何件か指摘があったけど前任者様じゃない
https://earofrice.hatenablog.com/entry/20190811/1565450856
荒ぶる季節の乙女どもよ。
マンガの袋小路感が消えてるというかまだそこに至ってないだけ?
うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれない。
すでに離脱
かつて神だった獣たちへ
1期のあのまま
ホモ展開でもいいけどめんどくさい話にはならないで
とても良い、こんなに良いとは思ってなかった
ロボットものになってることで殺し合い(要約)の生々しさが大幅にカット出来てるのは素晴らしい
こればっかりは好みだから好き嫌いあるけどハマったら毎週笑える
ソウナンですか?
徹底してサバイバル、そこがいい
キャラの可愛さで押してくるわけじゃなくサバイバルをベースにして展開
15分は勿体無いけど30分だとダレそうで難しいところ
ずば抜けて面白い
手品先輩
「エロ漫画の導入をひたすら繰り返す」
気になったら見るしかない
いつもの
科学で進化してくのかと思ったらメインがバトルになっちゃった?
とはいえ科学ありきなのでそこがなんとかブレなければ最後まで面白く見れるはず
BEM
つまらぬ
墓場へ調査に来たら両腕ボウリング球のボウリング野郎と殺し合いして
まちカドまぞく
散々見た奴なのになんで面白いんだろう
ギャグ要素高めで良き
ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-
どこを楽しんで見てるのか参考までに教えて欲しい
日本は、資源が無い。そう昔から言われてきた。それで、戦前は侵略大国に、戦後は加工大国、高付加価値大国になった。
そして、いま、文化大国を目指しているらしい。それで、あれもこれも、政府に、補助しろ、カネを出せ、と喧しい。
だが、その文化と言われているものが、プロスポーツやアイドル、マンガやアニメ、スマホか。
祭りも年に1回。あれも、麻薬やギャンブルと似た昂奮を伴う。たまにならいいが、常習化すれば、まともな生活が破綻する。
ところが、いまやプロスポーツイベントは、年中、隙間がないほど。プロスポーツなんて、やればだれかが勝つのだから、かならずニュースになる。
それで、あれはもともと新聞やテレビがネタ切れにならないように販売促進で始めたもの。
政治なんかに関心をもって庶民が騒がないように、報道番組の半分も使って、国民を中毒にしている。
アイドルも、夢を売る、と言えば聞こえがいいが、もてないブサたちが余計なことをしないように、夢だけを味合わせ、カネを巻き上げ、力を奪い、去勢する。
貧乏人を見てみろ。収入も少なく、衣食住もまともにできていないくせに、家賃の高い町中に住みたがり、部屋の中はガラクタだらけ。
これこそが、現代の典型的なバカ貧困層。自分自身の境遇がみじめであればあるほど、
他人のものごとを追いかけ、身の回りはわけのわかないブランド品、スポーツファングッズ、アイドルグッズ、アニメグッズが溢れかえる。
そして、生活費の中で突出した通信費。次から次へと新機種に乗り換える。
ちょっと前まではパチンコだったが、そのカネと時間の消費がプロスポーツやアイドル、マンガやアニメ、スマホにシフトしただけ。
貧乏人にも文化は必要だ。それはそうだ。しかし、文化はあくまで彩り。
まともに自立した衣食住も成り立たないのに、その彩りで彩るべき衣食住を破綻させてしまうなら、元も子もあるまい。
一刻を争うビジネスの現場にいるわけでもないのに、年がら年じゅうスマホをいじり、ツイッターやフェイスブックで自慢話ばかりしていて、
仕事が留守では、生活が向上するわけがない。まして、プロスポーツやアイドル、マンガやアニメなど、自分自身の現実の生活ではない。
自分の生活もまともに成り立っていないやつが、人の「応援」など、おこがましいにもほどがある。
いや、庶民はカネづるだ。余計なことに関心を持たず、意味もない粗製乱造のガラクタ(「プロールの餌」)を買い続け、
稼いだカネをすべて費やしてくれればそれでいいのだ、ということか。
しかし、麻薬中毒、ギャンブル中毒と同様、プロスポーツやアイドル、マンガやアニメ、スマホの中毒の連中は、自分では生活を作らないし、作れない。
バイト程度の収入しかなく、すでにカネを吸い上げられて貯金も持たない。おそらく結婚もできないし、家も建てない。
いまは生活保護だの、奨学金貸与だの、サラ金より見えにくい政府からのカネの注ぎ込みで、見せかけのまともな生活を維持しているが、
経済バランスとしては、とっくに破綻しており、また、将来的にも改善の見込みは無い。
このバカたちにカネを湯水のごとく注ぎ込んで、むりやり回しているのが、文化大国とやらの日本経済。
だが、虚構のソフトの大量生産だけでファンダメンタル(実体経済)の向上が無い以上、
このキリギリス国家は、生活保護や奨学金貸与などへの大盤振る舞いは、いずれ限界に達する。
そのとき、富裕層、というより、まともな中間残留層は、自業自得の自己責任、と言って、貧困層の援助を拒否するだろう。
ろくな稼ぎもないくせにガラクタ集めの追っかけで散財しているだけの身の程知らずの穀潰しは、遠からず親族たちからさえも見捨てられるだろう。
追記:読解力の無いやつがステレオタイプにサブカル批判と勘違いしているが、源氏物語でも、ヘーゲルでも同じこと。
文系オーバードクターなんて、そんなのだらけ。中毒のように限りなく他人のことばかりを追っかけているから、自分がどんどん貧しくなる。
苦しみながらも投げぬいたぞ感動!とテレビは囃し立てる
俺は今なんだよ!とジャンプは語り
コロコロコミックですらボロボロになりながら練習することを尊いと子供を洗脳する
スポーツの持つ最も素晴らしい側面が苦痛に耐えながら勝利を目指す自己犠牲の精神であるかのように喧伝することを許してきた者は誰だろうか?
スポーツ選手の持つ最高の精神性は自分の将来よりも目先の勝利を優先することであるという物語を好んできたのは誰だろうか?
そうだ!これは我々の罪だ!
それを今更になって自分たち以外の誰かが悪いなどと言うのは卑怯者のすることだ
私は逃げない
ハッキリ言ってやろう
脳味噌筋肉のスポーツ中毒者どもよ!貴様らがこの世界に提供できるのは感動ポルノだけだ!
感動ポルノを提供できるのならば死ぬまで球蹴りやカケッコをして生きる道も許してやろう!
貴様らが我々に提供すべきはメダルかポルノかゴシップだ!それを否定するのならバイトでもしろ!
水遊びや障害物競走で金がもらえる生活を続けたければ諦めて感動ポルノの生け贄になる道を選べ!
それが嫌ならスポーツで食っていくなどという与太をほざかずに近所の町工場にでも頭を下げて雇ってもらえ
これは我々普通の国民の総意だ。
肝に銘じよ。
タイトルは「"歩き"たばこ禁止にしよう?」だよな。たばこを吸いたい奴が吸うこと自体は、増田も反対していないようだし。
歩きたばこは、喫煙禁止されている道でも普通にスパスパ吸いながら歩く奴が大勢いて、
またそれがだらしない顔で吸ってるから、ヤク中にしか見えない。
公共の決まり事よりも、何が何でも吸いたいという個人の欲求が完全に勝ってしまっているんだろうな。
自分は喫煙しないから、依存のことについてよく分からないが、ルールを破ってまでも吸いたくなるようなものなら、販売を禁止するしかないんじゃない?
一応いっておくが、混雑時の優先席付近でスマホをいじっている奴も同じヤク中、スマホ中毒だぞ。
正直、無意味な決まり事だと思うけれど、それでも車内にでかでかと掲示してあるのだから、守れよ、と。
周りの子供もおまえらのことみてるぞ。どの面下げて、子供に「社会のルールは守るんだよ」なんて言えるんだ?
2階で死んだ人の場所は、大半が1階の火元から一番離れた場所になってるじゃん。
想像だけど、火事だと気付いた次の数十秒でほぼ黒煙で室内は真っ黒になったんだよ。
この時とっさにベランダに向かった人は、ベランダに出ることができ、最終的に飛び降りて助かったが、
煙のやってくる火元の方向とは反対に逃げようとした人たちがほぼ全員
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。
友達の話。
アイドルゲームにどハマりしてるアラサーの子持ちママなんだけど、子育てどうしてるの?ってくらい二次創作やゲーム関連のイベントに参加してる。
あげく最近では海外に出張して1人を謳歌してるそうだ。まだ1、2歳の子どもを残して。
正直、子供がかわいそうだ。
こんな自分の趣味にしか生きず、子どものそばにいてやろうとしない親、私だったら好きになれない。自分の親がこうでなくて良かった。
人様のことだからとやかくいうのは間違ってると思う。だからここに吐き出す。
自分の趣味が大事なのはわかる。二次創作も、ジャンルが加熱してる今だから出来ないのも分かる。
でも、それを捨ててまで、子どもとの時間よりも二次創作か。ホモを書くのか。
けど、彼女は限度を超えている。
旦那が仕事で毎日大変だと口では言いながらフォローはせず子守り要因としてしか見ていない、そんな人間の作る同人誌など読みたくない。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、
自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。
まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、
あらすじ
東京くんと雨ちゃんの壮大なラブストーリー。二人の恋模様が映像と音響を通して感情豊かに描かれる。
途中なんかちっこいホモサピが邪魔してくるけど、なんだかんだあって二人の恋は成就するし、ついでにホモサピ共も満足そうで大団円。よかったね。
予告見て、キャスト見て、新海誠はそっち方面で食ってく気になったのかと勘違いしてた。違ってびっくりした。
巷で言われているエロゲ的なそれがどうの、というのは、そういう文化を通ってきてないのでピンときてない。けど、おじさんたちがすごく興奮しているのでそういうことなんだろうと思う。
ハイコンテクストすぎる何かをやっているな、とは、それでも感じることができた。
瀧くんに圧倒的に足りていなかったポエム力を、穂高くんが取り戻していてとても良かった。
好きなシーン
ピロウズ流れたらメディカルメカニカに殴り込みに行ってた 危ないところだった
え、何すんの?マジで??そらそうなるやろ!!ってなってよかった
1位 3年経ったとこ
腹抱えて笑った
ニヤニヤを我慢しながらおうちに帰って、各自のマイベスト新海誠を見返したり、カタルシス中毒おじさん達の不満を見て悦に入ったり、各々好きにしたらいいと思う。
あー楽しかった。