はてなキーワード: 一部の人とは
SNSで知らない人が何か面白そうなイベントをやると告知したら、すぐに参加したりしていた。
それで悟ったことがある。
人生を本当に楽しめているのは、一部の人間だけだということに。
もちろん大多数の人もそれなりには人生を楽しめるのだが、
ある種の人の楽しみ方は、それ以外の人とは全く次元が違う。
彼らをオプティミスト(楽観主義者)と言えば、イメージに近いが、
それとも少し違う気がする。
「気まずいなぁ」とか「どう思われてるだろう」とか「何を話せば良いんだろう」などと気をもんだりしない。
普通の人は気まずい場などに居ると偽物の笑顔の下で冷や汗タラタラ胃はキリキリという事が結構あるが、
オプティミストは、どんな現場でもあまり気まずさや居たたまれなさを感じない。
普通の人は何か楽しそうな事を思いついても、関係者がどう思うかを心配して、実行しなかったりする。
すぐに不動産屋に電話して、賃料などを確認し、立地などからできそうな事を想像し、
その場でスマートフォンで関係するキーワードでSNSを検索して、初対面の人に連絡を取り、
などという事が、何の心理的抵抗もなく行える。「自分は素人だから。。。」などというマイナス思考は一切ない。
別に本気で起業しようと思ってるのではなく、単に面白いから、という理由だけで実行できてしまう。
だから街をダラダラ歩くだけでも、誰か知らない人と話をするだけでもワクワクしっぱなしなのだ。
普通の人では上記のことは、よほどアイデアに自信があったり、何か逼迫した事情がないと実行できないだろう。
見ず知らずなのに、いきなり「飲みませんか?」などと誘ってくる人に乗っかる人はたいてい
オプティミストのケがあるので、そういう人で集まって飲むと、すぐに具体的な話がどんどん進んで行く。
その過程で、情報収集の為に一緒に旅行に行ったり、イベントに参加したりする中でフィルタリングされ、
なぜなら「最初のアイデアにたまたますごく興味があって参加した普通の人」は、
話し合いの中で出てくる、ほとんど本筋と関係ないようなイベントには参加しないからだ。
オプティミストは目的が違う。成功することが目的ではなく、その過程を楽しむことが目的なのだ。
だからわざとそういう人だけが残るように最初の呼びかけと関係ないイベントを発案して実行したりしていた。
単なる好奇心でそうしていた。
私はその途中で躁状態が解除され、普通の人に戻ってしまったので、
(彼らには思考や文体からすぐにバレるだろう。突然連絡取れなくなった奴が私です。当時は失礼しました)
私だけが何もできない泥沼のような中を無為にダラダラと過ごしている。
当時の連絡先を使えば、容易に成功が手に入ることはわかっているが、
恐ろしくて実行できない。
当時の知り合いから連絡が来ることもあるが、
すぐに色んなことに誘われて面倒だからだ。
今では、ただただ、ひっそりと無難に生きて行きたい。
でもたまに当時のことを思い出して、みんなが羨ましくなる。
あ、素人童貞だった自分がやっとの事でゲットしたモデルの彼女には、すぐに振られました。
8/9 1:50 追記
ホッテントリ入りしてるのに気が付いたので、多勢に変に誤解されないように追記。
「リバウンドで躁病になった」というのは確かにおかしいかも。医者にも「躁転してますね」って言われたんだった。
当時は「これは躁じゃないよ。本来の自分だよ」と思って気にもしてなかった。病院にもすぐに行かなくなったので、ちゃんとした病名は不明。
躁鬱の人がこんな文章を書けないってのは、どういう意味かよくわからないけど、今はうつ病ではないです。普通の状態です。
即行動でウェーイの人が孤独ってのは、意味がよくわからない。私の知人は、心の中まではわからないけど、心底人生を楽しんでいるようにしか見えない。
あと私自身がウェーイ系の人と相性が良くないので、あまりウェーイな人とつるんでる認識は無い。ウェーイの人の事はよくわからない。
ハイテンションというのも、ちょっと違う。大声を出したり騒いだりは、みんなしなかった。「カンパーイ!!!」とかほとんど無かった。
ただ「これどうですかね?」「へー、面白いね。やってみよう」みたいな方向でノリノリではあったけど。
一部シェアハウスに出入りしてた時期に「あー、これがウェーイ系かー」と感じたことはある。そういう人は確かに空虚な感じがした。話もあまり面白くなかった。うるさいだけ。
急に性格変わったって人はひとりだけ知ってる。大学生のころに何かを悟ったらしいけど、その後も彼女はその性格を10年以上維持してるので躁病では無さそう。謎。
でも、そんな人はひとりしか知らない。たぶん1000人以上に会ってるし、けっこう深い話(好きなんです、そういうのが)をしたが、自己啓発みたいなので性格が変わったって人はひとりも会った事ない。無理してるなーって人には結構会ったけど。
失敗してる人も多そうって言うけど、オプティミストから深刻な失敗の話は聞いた記憶がない。借金して大変って話は噂も聞いた事がない。軽い失敗は、楽しいからぜんぜん問題なしって感じだし。そういう小さい失敗なら、成功の数十倍はある感じ。
逆に普通の性格だけど、頭が良かったり、少し意識が高くて行動力がある程度の人は、深刻な失敗をしてる人が多かった印象。
あと、オプティミストの人に共通するのが、すごく自然体なこと。変にテンションを上げたり緊張したり力が入ったり、他人を攻撃したりする人はほとんど居なかった。
例えば堀江さんとかひろゆきさんがテレビとかで他人を攻撃してるのを見るとわかるけど、あまり怒ってないんだよね。
不快感は示すけど、根に持たないし、すごく付き合いやすい。躁状態の自分はけっこう失礼なことを言ったりやったりするけど、
列整理といえば浦和レッズのサポーターも有志による抽選方式で運営していた。
(2014年の段幕事件以降はすべてクラブ公式で仕切るようになったが)
試合前日の朝6時半にスタジアムに集まり、グループにつき1枚くじを引き、試合当日のキックオフ4時間前に集合して入場。
くじの早い番号を引いたグループが持ち回りで次回の運営スタッフを担当する。運営能力のない雑魚は前日抽選に参加する資格はない。
試合当日のキックオフ6時間前にも当日抽選のくじが配布される。こちらは前日抽選組が入場した後の、キックオフ3時間前に再集合して入場。
2002年のナビスコ杯決勝で徹夜組がひどかったことから導入された、とか聞いた気がする。
思い出して書いてはみたものの自分は抽選に参加したことはない。一人か二人なら抽選に参加しなくても席を確保できたので。
「戦争法案」という表現が、一部の人から批判されているようだけど、なんだかなぁと思う。というのも、「戦争法案」という表現は、修辞法上の分類である「論点先取」にほかならないと思うから。安保法案に賛成する人は、それがあった方が戦争を回避できると思っているわけだし、反対する人は、ない方が戦争を回避できると思っている。つまり、安保法案が「戦争法案」なのか、「戦争回避法案」なのかが議論されているわけだから、「戦争法案」という表現は、無意味とまでは言わないけれど、せいぜい主張の結論を言っているのに過ぎない。「これこれこういう理由で、安保法案は、戦争法案であると主張したい」というなら筋が通っているわけだけど、一見これと似ている「安保法案は、戦争法案だから反対」という主張は、循環論法に陥っている。そして、昨今の政治運動で「戦争法案」という表現が、この前者と後者を意図的に混同させるような使われ方をしていることに、違和感を感じるわけだ。
ただ、論点先取は、政治・・・国の政治だけではなく、社内政治のような場面でも有効なことが多いと思う。そういう意味では、「戦争法案」という表現を使って行われる政治運動は、政治の王道であるし、だからこそ成功している面もあるだろう。だから、プラカードに「戦争法案」と書くことは、政治的な戦略としてはとても良い。ただ、そのことによって、本来考えられるべき、法案そのものの是非が覆い隠されてしまうことには、複雑な心境で眺めている。
そもそもの話を言うと、安保法案が戦争法案か、戦争回避法案かなんて、そんな簡単に結論が出るものではないと思う。自分は安保法案は要するに、アメリカに対して軍事的な支援を行うことで、守ってもらおう・・・ただ、それによって日本自身が別の形で軍事的リスクを負うことになるかもしれないが、利益の方が大きい・・・。という考えに基づいていると思っている。要するに二つの利益を天秤にかけて、どっちが大きいかという判断が、安保法案への賛否なわけだけど、こんなこと素人に分かるはずがない。おそらく、外交のプロにだって分からないだろうし、そんなこと、自分になんてわかるはずはない。ただ、一つ言えるのは、「それがないと著しく安全保障上不利益」というほどのことではなさそうだということ。A投信を買うか、B投信を買うかみたいな、結構微妙な問題なんじゃないかということ。
であれば、憲法解釈上の疑義を招いてまで、頑張って通すようなものではないだろう・・・というのは、自然な結論ではないかと思う。
個人的には、今の政治マターの中で、一番関心が高いのが、自民党が進めようとしている「基本的人権の縮小」。もちろん、安全保障は大事だけれど、どっちが正しいのか分からないような問題のために、取り返しのつかなくなるような事態は避けたい。避けてほしい。そういう意味で、一番嫌なシナリオは、今後自民党内の勢力争いの結果、首相が交代となり、「禊」を済ませた自民党が、次の選挙で勢力を維持し続けるということ。そして、その結果本丸である、基本的人権関係の規定に手をつけ出すということ。そういう意味では、安倍さんにはまだまだ首相の座にかじりついてほしい。それが日本のためだと思う。
コレ見て思ったこと書く。
反対派の理想ってのはまぁ、「戦争反対」やら「法治主義の徹底」あたりでしょうか。
戦争自体もう二度とやってはならんという意見や、憲法違反の法律を通したら政権のやりたい放題になる、という話。
一方賛成派は徹底して「現実的な対応」という主張を繰り返すが、コレも結局ある「理想」に基づいて主張されてるのは
賛成派の人たちは自覚してないんじゃないかと思う。
安保法案に関しては「憲法にそぐわない」というのは一部の人以外の共通認識としてあると思う。
そのうえで、「現実に対応するために仕方ないんだ」という賛成派の人がいるのは理解できなくはない。
中国なり、北朝鮮なりの勝手な行動に対応する策を用意しないといけないという点については賛同する人は多いと思う。
ただ、それが憲法違反な法案を通す理由としてホントに正しいものなのか?ってのはちゃんと考えないといけないと思う。
これを認めるって事は、「今後のすべての政権が必要だと判断したら国民の反発にあってもそれをゴリ押ししていい」っていう事を
認めることになるんです。
もはや「安倍政権がこの法案をどう扱うか」の範疇を超えた問題になるんです。
その辺ちゃんと考えて賛成してる人ってどれだけいるんだろう?
ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えりというアニメが今期放送されている。
日本国内(銀座)に突如開かれた門から異世界の住民が日本へ侵攻を開始し、多数の民間人の死傷者が出ることになる。
そしてその自衛隊と異世界住人との交流と、政治的闘争そしてそれに伴う自衛隊員と異世界住人の奮闘を描く
というのがGATEの主な内容だ。
現在4話まで放映中だが自衛隊という特にデリケートな話題を扱っているだけあって、あちこちでやれ正しい、正しくない、いや気持ち悪いだのと紛争になっている。
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1848180.html
http://anond.hatelabo.jp/20150717111517
http://h.hatena.ne.jp/yellowbell/11539586800175745164
さて、問題になっている部分の多くが政治的な部分と自衛隊の心理的描写に関してである。
作品としては賛否両論有るだろうしここで具体的言及は避けるが、今回の騒動を一通り確認した上で現実のシミュレーションとして考えた時恐らく似たような反応であふれるであろうことを想像した。
もちろん現実に自衛隊員が日本国外の特定地域に派遣されるというようなことになるのであればこの比ではない規模の騒がれ方はするだろうが。
しかしながら自衛隊員の心理に関する部分に関しては特筆に値する現象だ。
今回、自衛隊員の人たちをサイコパスのように見えるとした方達がいたが、おそらくこれはほぼ現実に適用されうるのではないかということだ。
つまり何らかの事情により戦地に派遣されてしまった自衛隊員達はほぼほぼ同じような精神病質者であるとみなされることが容易に想像できる。
いくつかの情報を参考にしたところPTSDになる確率は全体の15%。
これは相当多い数字のように見える。実際日常生活を過ごしている人と比べた場合特筆して高い値になるだろう。
しかし、これは残り85%はPTSDにはならないということをも示している。
つまり、戦地からPTSDにならずに済んだ85%の人たちは一部の人達から人殺しのサイコパスであると叩かれるということである。
当然自衛隊員はあくまで平静を保とうとするので一見すると非常に冷静に見えてしまう。これはゲートで描写されている自衛隊員を見てサイコパスであると感じたのと全く同じだ。
PTSDとは言わずとも自衛隊員それぞれに思うことや考えていることは有るはずでしかしそれは表に出すことは許されない。
このアニメは図らずも自衛隊を派遣した場合(いやあるいは何らかの敵対勢力が日本の領土に迫り撃退した場合と考えてもいい)の我々日本人の反応の未来を予測しているように見えてならない。
アイディア自体がどっから出てこようがそれには意味がなくて、それを「いける」と判断し、実際に金や人を動かして実現することにほぼ全ての価値がある。そこまで人工知能がやるようになったらまた違うと思うけど、「責任を持って選ぶ」ことを人間がやっている間は人工知能も単なるツールのひとつにすぎないんじゃないかな。
もちろん、言われるまで気づかなかったけど言われてああそうか!となるアイディアっていうのは存在する。けれども誰もがそう思うような、つまり誰もが聞いてたちどころに理解できるような素晴らしいアイディアがこれまで埋もれていたという確率は極めて低い。わかりやすく語られるようなアイディア発見の逸話であっても、実際は、その時点でそのアイディアを聞いてたちどころに理解できた人っていうのはその分野の第一線にいるような一部の人に限られることがほとんど。「アイディアを盗まれる心配などいらない。本当に良いアイディアなら、相手の口に無理やり押し込んだって理解させるのは難しいだろう」って誰が言ってたんだっけな。
いやなんだろう。
1つは同調圧力であり
1つは無知だとおもうけど
ぶっちゃけたはなし、デートにハイヒールを履いてこられると移動にタクシー呼ばなきゃいけないから、めんどくさいし
東京のど真ん中を車で移動する人たち(あの渋滞して駐車場がしんどい=運転手がいる人達)の常識に合わせて、普通の人が引っ張られるのはとてもシンドイ。
いわゆる、ハンコが曲がっているから、性格がゆがんでいるんじゃないか?に似ている何かがあるけど。そういうところ以外で他人を評価できないんだからしょうがない。
でも、女性も、そういう一部の人達の常識を会社で当てはめるのはいいけど、デートの時には忘れてくれとはおもう。
六本木ヒルズとか官公庁町(裁判所に警視庁)、新橋虎ノ門、KITTE… 銀座と有楽町のデパート…
あたりはブロック1つ、ビル一つがホントにでかくて歩いて次のビルまでいくだけで疲れる。逆にビルのなかで何でも揃う。
そしてそのビルが1つの町くらいの規模になってて、高給取りがうじゃうじゃ居て、
昼ご飯には(中のレストランでまかないきれない一部の人が)わっさーと這いだしてくる。
そういえば霞ヶ関ビルは日本一高いビルだった昭和の前半の時代には何でも尺度にされてたんだよ(今の東京ドームの容積とかスカイツリーの高さみたいな)。
新宿は二丁目、思いで横町と駅まわりのぐにゃぐにゃ改築でめんどくさいところが新宿らしいといえばらしいかなあ。
都庁まわりもわさっと縦に人がつまってるけど。
そういう特徴(範囲は狭い)を除くと商業地域って路面からのアクセスが勝負だから
小さい建物で歩けるところというと新大久保だったか、立川、荻窪、中野、あたり
個性ある自営業でも住みやすそうで実際アニメスタジオもいっぱいあって実家が金持ちそう。
東京からみると新宿は昼間はもうだいたい綺麗にとりつくろえたから
単純な見た目でいうと岸和田やら修羅の国に負けてる~って感じはあるけどどうなんだろ。
今ankopan叩きが流行っているらしい。もうやめて、中身が出ちゃうというくらいみんな楽しそうに叩く叩く。
彼の行為を擁護する訳ではない。彼のした事は間違っているし、一部の人には迷惑だった。
だがブクマ目当てに彼を自ら進んでフォローし、便利なブクマankipanのように使いまわした卑しい弱小ブロガーの僕が彼を叩くのはおかしい。
彼を無邪気に叩く権利のある人は一方的に望まないブクマを着けられて迷惑だった、と胸を張って言える一部のブロガーとブクマなどという卑しい点取りゲーム争いに参加していない一般市民だけだ。
便利だったankipanは今腐ったanpanのように無邪気に捨てられる。
叩けるものは叩け。だが僕のように権利のない、何処か後ろ暗い思いを抱くものは静かに呟け。
おてぃんてぃんビロロロ〜ン。
先日、歌い手の「鋼兵」がアップロードした「【ゆっくり雑談】「なぜボーカロイドは衰退したのか」を解説する」という動画が話題になっている。
とうとう今日になってニコニコニュースに載ったほどだ(マッチポンプかな?)。
なお、始めに言っておくが、このエントリはその動画の主張が偏りすぎていることを批判するものである。
と書くと、「鋼兵はボカロPとしても活躍しているではないか」とツッコミが入るだろう。
しかし、私は確信を持って言える。あの動画は歌い手としての立場で書いているだけに過ぎないと。
ボカロ衰退論バックナンバー http://ceripher.tumblr.com/post/123365252187
時代を遡れば「メルト」登場時から衰退論は存在していたのである。
そして、一時期ボカロPとしても精力的に活動していた氏が、なぜ今になって突然衰退論を口にし始めたのか?
先日AHSから「猫村いろはV4」が発売されたことを覚えているボカロクラスタの人々も多いだろう。
VOCALOID3の時点で既に「数が飽和しているのではないか」と言われていたボカロ音源だが、V4の登場以降、着々と音源は増えている。
ではボカロPたちはどうだろうか…?
今では人のために曲を書くプロになった人もいる。
相変わらず何でもありの世界が続いているのだ。
さて、「歌ってみた」はどうだろうか。
最近になって、歌ってみたカテゴリで賑わっている動画の傾向が変わってきていないだろうか?
「歌ってみた」のボカロ離れが始まっている? http://ascii.jp/elem/000/000/877/877539/
2014年時点で、この記事の通り、「歌ってみた」で歌われる楽曲の中のボカロ曲の割合が減ってきている。
現在のニコニコ総合ランキングでランクインしている歌ってみたの中にも、アニソンを元にしたものがちらほらあるだろう。
そして、その動画で歌っているのは、「昔ボカロ曲を歌ってた歌い手」である。
氏は動画の中で
「歌いたいと思えるボカロ曲がなくなった」
私はこの主張を全面的に信用する事はできない。
以前なら凄い再生数を叩き出せたであろうクオリティの楽曲でも、現在では埋まってしまっている。
それらの楽曲を歌いたいと思う歌い手は存在しない、というのだろうか?
彼らは人気曲を歌うのだ。人気ではない曲は歌う気が起きない。
なぜ人気曲しか歌わないのか?
殆どの人は知っていることだが、ニコニコ動画で動画をアップしていると、
「クリエイター奨励プログラム」というシステムの元、お金をもらうことができる。
いくら分のポイントになるかは時期などによっても変わるが、だいたい再生数の40%弱ほどの金額だと思ってもらえばいい。
そう、人気ボカロ曲が誕生する時。それは歌い手の稼ぎ時なのだ。
もちろん、クリエイター奨励プログラムはJASRAC楽曲の歌ってみたなどでも適用される。
つまり本来、このまま歌ってみたは寄生先をボカロからアニソンへ変えてうまい汁を吸い続けていればいいはずなのだ
が。
氏は気づいた。アニソンの歌ってみただけじゃヤバい。ボカロ曲の時代と比べてかなりヤバい。
アニソンはだいたい1タイトルの1クールでOPEDの2曲+α。それが例えば30タイトルあったとしよう。そうすると60曲。
しかし殆どの人が見ないアニメやハズレ曲があるとなると、やはりごく一部の人気アニメの曲を歌うしかない。
そうなると1クールで5,6曲。
ボカロではどうだろうか?ヘタすると殿堂入り確実視されているようなPが一週間に2人ぐらい新曲を出したりする。
1ヶ月で10曲以上は選択肢があっただろう。どちらの方がチャンスがあるだろうか?
アニソンを歌うのは誰か。プロの歌手である。(最近はプロ化した歌い手が歌うものも増えたが)
それを相手にして歌うのは、これまでボカロと比べられるだけだった世界とは比べ物にならないほど険しい道だろう。
ヘタに大御所プロの曲を歌って信者が「原曲超えた!」なんて言ったら大戦争になりかねないし、
それこそプロ化した歌い手が担当しているアニソンを「歌ってみた」なんてしたら信者の代理戦争である。
アニソンだけではないが、JASRAC管理楽曲はCDにするときに制作枚数の申請もしなきゃいけないし使用料の納付も必要となる。
つまり同人CDとして売る時にもめんどくさくなる。商業CDであっても今度は会社がめんどくさくなる。
ライブでも同じことになる。
ボカロ曲を歌っていたころは、「○○(曲名)は歌い手の~~さんのが一番」とか言われて、舞い上がったこともあったろう。
…そう、このままアニソンを歌うようになっていくと、最終的に自己顕示欲もお金も満たせない。
ただでさえ、二次創作の先端を独占できなくなっていたというのに…!!
元来、ボカロ曲の二次創作は「歌ってみた」「踊ってみた」「演奏してみた」などの「~してみた」が最先端(つまり一番外側)であった。
ということは、一番一般人に近い位置にいるコンテンツであった。
これはつまり、フリーライダーとしてノーリスクハイリターンな位置に居たことを意味する。
「ボカロ曲を元にした小説化・漫画化・アニメ化」のムーブメントである。
これにより、ボカロ曲の二次創作による恩恵を作者自身や、関係企業が受け取ることができるようになっていく。
無論、そのテーマソングなどに歌い手が呼ばれることもあるが、それは歌い手をメインとした企画ではない。
さてここで冒頭の動画に戻ってみよう。
・歌いたい曲が無くなったから衰退した
・プロジェクトとかメディアミックスとかでボカロを前に押し出さなくなったから衰退した
……ん??
「歌い手が歌いやすいようにボカロ曲(仮歌)をどんどん出す事が正義」と世論を誘導しようとしているだけではないか。
一時期のうるさい外野が去って、人それぞれがやりたいようにやれるようになった現在の落ち着いたVOCALOIDというジャンルに、
それじゃあ自分たちがおまんま食えないからと誘導するための動画を作っただけではないか?
……あとは歌い手としてもボカロPとしても大成功を収めたHoneyWorksへの嫉妬とも見られるところがちょくちょく見られたけどそこらへんはしーらないっと!
父母会やPTAではみな平等に子供一人につき1回は役員にならないといけない。
しかし、小さい子がいる、介護がある、仕事があるなどの事情で会に出席することが困難な場合もあり、
なるべく平等とはいいつつも、一部の人に作業が集中するなど不公平な状況になる場合も多い。
人によっては休むことが大きなダメージ(休暇数によっては退職せざるを得なくなるなど)になる場合もあるため
また、彼らはドタキャンしたり、無気力、非協力だったりしてせっかく積極的に参加している父母にも悪影響が出る。
この状況は、新自由主義の原則に従って「金」で解決するしかない。
「じゃあ、ベルマーク仕分けの対価は時給に換算すると30円だから、8時間分で240円ね♪」なんてのはNGだ。
活動自体に重みがあるということを忘れると、このような意見がでるが、それは間違いだ。
さまざまな事情で活動をサボる人にはその人の時間対価を払えばよいことにする。
・日給5000円のパートの人は5000円×3日で1万5千円払えば欠席しても良い
・日給換算で30000円の正社員の人は30000円×3日で9万払えば欠席しても良い
・赤ん坊がいてこれない家は、一時保育3日分払えば欠席しても良い
・介護で来れない人は、臨時ヘルパー3日分払えば欠席しても良い
換算の基準は痛みだ。
つまり、痛みの量で計算すれば、不平不満はでないということだ。
本当に、少しでも平等、公平に近づけばよいと思う。
書けども書けども我が増田ホッテントリ入りせず、ぢっと手を見る。
会心の出来だ!とか、一部の人は釣れる!とか思ってもブクマ数が1、2、たくさん・・・!で
自分のブログに使えるようなネタまで増田で浪費していても積み上がるものが何もない。
それなら自分のブログに記事を積み上げていって未来のアルファブロガーを目指すべきではなかろうか。
ここで記事を重ねていても、ひとつひとつの記事が一定数に読まれる反面、
書き手として評価されて、全体のアクセス数が伸びてきたりすることはないからなぁ。
それを極端な形でハッキリさせてくれるの増田だと考えられなくもない。
オレはようやくのぼりはじめたばかりだからな このはてしなく遠いアルファマスダ坂をよ・・・!!
追記
id:sabacurryさんにマジで裁かれてしまった・・・・・・サ・バイカル方面軍!
適材適所でリソースを振り分けられずに増田に全部投入してしまう感覚を浪費と表現していますが、
(増田に適しているものを増田に使う場合は浪費とは感じません)
どこか下に見ているかもしれないのも完全には否定はできません。
記名の記事にするならば――あまりリスクなく――「自分を飾る」だけの価値はある内容だと評価しているわけで。
追記の追記
こちらこそなんかごめんなさい。本文の「裁かれる」に応えてくれただけだと思いつつ受けたのに謝られると恐縮です。
増田度2:屋内にいる人の多くが漏れを感じる。眠っている昇給の一部が目を覚ます。
増田度3:増田にいるほとんどが、プリントアウトを必要とする。おそろしいおそろしいを覚える人もいる。
増田度4:かなりのフェミニストVS.ミソジニーがあり、一部の人はメタブタワーを上ろうとする。眠っているIDのほとんどが目を覚ます。
増田度5弱:多くの肛門がミの安全を図ろうとする。一部の増田は歩行に支障を感じる。
増田度5強:非常な昇給を感じる。多くの人が二段ジャンプに支障を感じる。
増田度6弱:立って読むことが困難になる。
増田度6強:現状を変えることができず、増田でうかがいを立てないと動くことができない。
追記
職業上同性愛者とよく会うので、友人知人も同性愛者が多いです。そんな中、ゲイの友人に「同性愛者なら海外に行ったら?」みたいな言葉を平気でいう人達が一定数います。「同性愛者が結婚できる国の方が、良いじゃん」「あっちだったら(同性愛が)認められているからさ」なんて無責任に言っちゃうのです。私はその言葉を聞いて、非常に違和感を覚えます。愛のために、自分の居場所や今まで築いてきた関係、意のままにあやつれる母語をかなぐり捨てて、海外に行ける人なんてそうそういません。第一、海外に住むには膨大な面倒くささが含まれています。ビザの問題とか、仕事とか、住居の関係も。
私は2年くらいサンフランシスコに住んでいました。サンフランシスコにはレズビアン、ゲイ、バイシェクシャル、トランスジェンダー(LGBT)に対し、かなり先進的な考え方を持つ町でした。まさに、寛容、という言い方がしっくりきます。年に数回そういう人達のための集まりやパレードがあり、そう言う人達が集まるコミュニティやお店があります。そこで感じたことは、「この人達は行動したから、自分たちが欲する権利を得ているのだな」ということです。そして、一部の保守的な人達を除く一般の人たちも、その人達に関して非常にオープンでした。ゲイパレードの参加者の3分の1くらいは、異性愛者でしたから。
アメリカのLGBTの人たちは自分たちの権利のために行動します。積極的に情報を発信し、周知活動(パレードやポスター等)を行います。知ってもらうことは何よりも大事なのです。アメリカにはまだ保守的な人がいて、LGBTの人たちにひどいいじめをしたり、白い目でみたり、時には暴力をふるう人もいます。アメリカは、自由の国と言われていますが、実は保守的な面も色濃く、反発の力は日本よりかなり力強いものを感じました。しかし、「愛情の反対は無関心」と、昔の偉人が言っていたように、LGBTの人たちにとって、なによりも危惧しているものは、自分たちのようなマイノリティに対して、一般的な人達が無関心・無知であることだったように思います。だから、彼らはどんなに批判され、冷たい目で見られても、結構ケロっとしていました。(実は多分傷付いているかもしれませんが)
アメリカで同性婚が認められたことを非常に嬉しく思います。しかし、そうなって当然だったとも思います。異性愛者の生徒も交じる講義の中で、よくLGBTの権利についてディスカッションされました。それは、LGBTの権利が認められるかどうかではなく、彼らの権利は「認められるべき」だと当たり前のように話していました。その上で、今後どのように法律が変えられるべきか、自分たちはどうするべきか、という議論になりました。これは、LGBTの人々が積極的に周知活動を行い、認めてもらった結果であると言えると思います。
さて、冒頭の話に戻します。「同性愛者が結婚できる国の方が、良いじゃん」「あっちだったら(同性愛が)認められているからさ」このような言葉は、いかがなものでしょうか。あたかも、この国ではLGBTであることが認められておらず、この先も同性愛の結婚が認められないだろう、とするような言い方です。また、多分そういうことを言う人は、同性愛者の人たちの実情を知ろうとしていない(=わかりあえない存在として見ている)ような気がします。知ろうとせずに、無関心でいる人達に、そして、無責任に「同性愛者は海外に行け」と、自分たちから遠くへ追いやろうとしている人達に、警告を鳴らしたいのです。
分かりあえませんか。愛の形は同じで、たまたま生まれ持ったものが大勢の人とは少しだけ違っただけだった。それを知るだけで、だいぶ目線が変わるのではないですか。
そして、LBGTの皆さん、少しでも良いから、自分たちのこと、周りの人たちに知らせてください。一部の人たちを除けば、きちんとわかってくれるはずです。真っ直ぐした言葉で、発して下さい。「私は海外ではなく、日本で生きたいのだ」と。理不尽な言葉に、人知れず傷付いて、俯かないでください。
この国は、今後どうなるのでしょうか。お互いを知ろうとしないまま、人々はこのまま人間らしい美しい愛を持った人たちを、看過していくのでしょうか。私は、この国が好きです。もっと住みやすい場所になり、繁栄していってほしいと考えています。そして、LGBTの方々もまた、好きです。その人達にとっての安心できる居場所をこの国の中で作ってほしいと考えています。アメリカのように、とは行かないかもしれないけれど、この国のかたちにあった、LGBTのあり方を模索する時が来ているのだと思います。
増田の一部の人々に監視されている気がする。私の思考を読んだ上で、私のはんのうしそうな増田を投下されているような気がする。ほらブクマした、案の定トラバしたwみたいに思われて見られて笑われているのではなかろうか。んなわけあるかい!私はまともだ。んなわけあるかいと思えた時点で今は十分まともなのである。と思う。
http://anond.hatelabo.jp/20150612204320
これを読んだ。途中までしか読んでいないが、言いたいことは分かる。
ここで、嵐の各メンバーのファンの性質を比較してみようと思う。
嵐ファンを学校で例える
独自の秩序にしたがって穏やかに静かに応援する。
おそらく大野が結婚してもそれほど騒がないが、相手次第でウォッチャーに化ける。
真剣に櫻井を尊敬する努力家。尊敬が行き過ぎて貶し愛に発展することさえある。
堅実に見えるが意外にドリーマーなので扱いには注意が必要。
二宮が提供してくれる虚構の世界に片足を突っ込むことでなんとか立っている傷だらけ。
嵐ファンの中で最もコミュ力に長けている。
追記
あぶねえ、トラバ無かったから反応ないんだと思って消しそうになった。
ブクマへの返答
・肝心の、大野ファンの特異性とは?
そうだ、大野ファンの特異性な。
大野ファンはジャニオタの中でも異質。どちらかといえば歌舞伎のファンに近い。
流行り物に目を向けず、技術と伝統を慈しむ、ジャニオタとは全く異なるタイプの人たちが、大野の出現によってジャニーズに興味を持った。
「技術を尊び、流行りものをけなす」というあの心理を、嵐というグループの二人のメンバーを使って実現しようとした結果、大野age松本sageの変な人間が生まれる。
大野ファンのうち、あくまで一部の人だけど、そういうのがいる。
あくまで一部な。ごく一部。大野きっかけで嵐にハマり、穏やかで知的なブログを書く奥様ファンとか、若いジャニーズには目もくれず大野くん素敵!って言ってる少女など、すんばらしい大野ファンの方がもちろん多い。
大野の親世代の女性が、あまりにも麗しい文で綴った嵐の番組観覧レポを、私は何度も読み返した。
(声に出して読みたい日本語だった。すごかった)
・なぜ学校に例えた?
元は二宮ファンの特異性を表現するためのネタだった。「櫻井ファンは真面目系女子、相葉ファンは純粋系女子だけど、二宮ファンはロリコンの変態」っていうネタ。
展開してる間に楽しくなって、少し改変して投稿した。
二宮と二宮ファンの関係は、「二宮の中の人」によって支えられている。
スーパーショタフェイスを内側から操作する32歳独身ゲーマーが、二宮というアイドルを作っている。
二宮ファンはそれを理解した上で、虚構の世界を楽しみ、日々の退屈さを凌ぐ。恋愛感情でも親目線でもない。玄人の楽しみがそこにある。(十代半ばまでの若いファンを除く)
ふと思いついてtwitterで騙されてるバ……賛同派の意見をひいてみると、
「最初意味がわからなくて??? だったけど原爆の隠喩という話を聞いた時に腑に落ちた」という人がいた。
意味もくそもナンセンスは意味がないからナンセンスなんだろうが、の一言で終わりそうな話だ。
でも、そんな簡単な話なんだろうか?
昔からシュルレアリズムやナンセンスは大衆的なエンタメにも取り入れられてきた。
そういうものを観て育ってきたはずの人びとが、「意味がないこと」が耐え難いというのはどういうことなんだろう。
ラッスン騒動で一番似ていると思ったのはトトロの「メイとさつきは実は幽霊説」だ。
あれは単に作画のミスであり、そんな意図はなかったという話が制作側から既に出ている。
だけれど、インターネットは未だにこの話にとびつきたがる。
なぜかといえば、ひとつには非民主的な国家が育んだ「物事にはなんでも裏がある」意識と、もうひとつは日本のインターネットの奥底に眠る宮崎勤的な欲望のせいだ。
後者には説明がいるだろう。
ざっくりいえば、おまえたちは表面上は「ほのぼのしている、かわいらしいもの」を好む一方で、裏ではこれらをとにかく破壊したがる衝動を秘めている。ほぼ確実に100パーセントそういう欲望を持っている。反省しろ。
覚えておられる方々ももはや少ないだろうが、2000年代初期に「しぃ」というアスキーアートキャラクターがいた。
かわいいかわいいネコのキャラクターで万人に人気を博していたが、一方で一部の人びとから凄惨な「虐待」を受け、しぃの内蔵をひきずりだしたり、失禁させるAAが乱造された。ただかわいらしく見えたから、ただ清純そうに見えたから、ただちやほやされていたから、という理由で。抵抗もできない電子上のキャラを一方的になぶり殺しにした。
思えば、あのときネットコミュニティはもっとこの問題について真剣に議論すべきだった。しかしあの時点では2ちゃんのAA関連板でのローカルな事象にすぎず、目についても「うわ、きもいやつらがいる」とスレを閉じるだけでやりすごせた。
それがいけなかったのだ。
抵抗する手段を持たない存在には何をしてもいいと考えるような連中を放置してはいけなかったのだ。
今、twitterでシナモンをいじめている連中が成長した彼らか、彼らと似たような子どもたちであることは想像に難くない。
彼らはやがて現実の、生身の肉体をもった弱者へと牙を向けるだろう。
まあしかしそれは本題とは関係ない。関係ないのだが、なんか今日はもういっぱいいっぱい書いて疲れてしまったので「日本人は自分らはメタで戯れることのできる知性の持ち主であることを過信して、戯れを本気にしてしまったかわいそうな人たち」という話は止めてもう寝ます。