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【bot、暴走中!】「Slackは福利厚生」と言い切る、ドワンゴ流・Slackの超活用術とは
https://seleck.cc/1063
上記の記事で取り上げられているように、ドワンゴのslack文化はおそらく社外にいる人間が予想するより遥かにフリーダムである。
そしてその自由さが何をもたらしたかといえば、一部雑談チャンネルの2ch化だ。
その中で最も参加人数の多い雑談チャンネルは、なぜかは知らないが入社時に予めjoinされた状態であてがわれる。
全社的なお知らせをbotが拾って流してたりもするので、一見全員参加の情報共有チャンネルなのかなと思うのだが、そこで話されていることは9割型業務とは無関係な話である。
まあそれでもほのぼのとした世間話が行われてるだけなら無害なのだが、時折Publicという意味を理解できないクレイジーな連中が登場して場が荒れる。
ということもあってかこの雑談チャンネルから真っ当な大人は抜けるようになってきた。
結局、ルールのないネットのコミュニケーションは同じ末路を辿る。
現職エントリ - 毎日わんわん
https://mi111.hatenablog.com/entry/2019/11/01/013545
この現職ブログがslackに対する無理解について叩かれているが、slackを業務連絡チャットとしてのみ利用している部署にとって、自分の業務外のチャンネルで目につくのはそういうところである。
そういう雑談に常駐してるのはほぼ同じメンツのエンジニアなので、彼らがいつ仕事してるのかと感じてしまうのは無理はない。
むしろこのブログ主は、開発現場を振り回しがちな番組制作者が多い中では、開発側に常に敬意を持って接している貴重な人だと思っている。
さて件の退職ブログであるが、あれが各論には同意できる部分があるのにも関わらず、一部の現職から強い反感を買っているのはこの投稿主の人となりにある。
この投稿主はmtgにしろslackにしろ、とにかく意見の異なる他人を罵倒することで有名だった。
あの記事では一切そういう面を出していないので同情が集まっているようだが、彼のtwitterの過去ログを辿ればその断片は垣間見れると思う。
あたかもニコニコの不遇と自分の境遇をシンクロさせてヒロイックに語ってはいるが、彼の場合は他の退職ブログと同列に受け取れないもやりがある。
むしろドワンゴというゆるゆるな環境の中でこれまで許されてきた振る舞いが、体制が変わって許されなくなっただけなのではないか(それでも一般的な会社に比べれば十分ゆるいが)。
今回の記事も含めてドワンゴは大企業病になったと評されることがあるようだが、個人的にはむしろ事業規模に応じてちゃんと大企業になれなかった会社だと思っている。
川上はそういうことに興味がなかった。それでも金のあるうちはなんとかなってしまったのだ。
夏野になって良くも悪くもドワンゴは普通の会社になりつつある。
それがニコニコにとって終わりに見えるのならば、そもそも終わる宿命だったのだろう。
ラノベの読者層が魅力を感じるポイントが主人公サイドの非現実的な活躍だからそうなるんでない?
指輪物語の場合、基本的に主人公サイドの力って現実の人間の延長線上にあるものでしかなく、そこから外れたガンダルフも縛りプレイ中。
そしていわば薬物的な凶悪な誘惑能力を持つ指輪を捨てることで世界を救う。
これはある意味現実にもあり得るドラマであり、アル中や各種依存症患者が立ち直るようなもので、地味だがほとんどの人間が失敗する偉業だ。
ハイファンタジーは別の現実において現実的なアプローチで問題を解決する物語であり、一方でラノベというかヒロイックファンタジーはあくまで非現実の力を振るうことで現実にはありえない活躍を楽しむものって感がある。
主人公が自ら命を絶って終わるフィクション、できれば漫画を読みたい。短編だと嬉しいけど長編でも構わない。教えてもらえないだろうか。
先日、興味本位であるロリマンガを読んだ。女児レイプ犯が最後に手を繋いで練炭自殺するやつ。
気がついたら泣いていた。ひょっとすればあり得たかもしれない、現実と自分との折り合いをギリギリつけて社会に適合できた可能性を、全て投げ打ってしまえば破滅以外に道はない。
毎日死にたいと思って生きているからか、フィクションで擬似的な自死を味わうとひどく安心できる。
16:00追記
色々教えてくれてありがとう
教えてもらったやつ確認してて思ったけど、自殺するというより、より厳密に言えば主人公が惨めに死ぬのが好きみたいだ。
トラバに上げてもらった、アイアムレジェンドとかはヒロイックすぎてたぶん好きじゃない(なんか言及URLとれんくてレスできんかったわすまん)
で、やっている中で、中坊のころハマりにはまっていたガンダムウォーさんのことを思い出したので使っていたデッキや使われていたデッキを中心につらつらと当時の思い出を書いていく。
主にはまってたのは9弾 相剋の軌跡(2002年)~14弾 果てなき運命(2005年)に少し入ったころくらい(だいたい中学3年間)。
ガンダムウォーに限らず、TCGでは高レアリティの必須カードが少なく、かつ動きな単純なデッキ=初心者向けということである。
ガンダムウォーではこの緑ウィニーがそのあたりの役割に大きなウェイトを占めていた。
そんな初心者向けカテゴリでも、思いのほか使っていて楽しいのはやはり、ザクとかザクとかザクとかがちゃんと使えるという喜びだっただろうか。
(MTGやシャドバでゴブリンが活躍してもあまりうれしさを感じられない(個人的な感想))
もちろんフィニッシャーはシャアだった。っていうとカテゴリ的には「シャア専用」というカテゴリかもしれないが。
いずれにしてもザクが活躍するのが楽しいゲームだったし、ドップやガトルという戦闘機も強くてあれこれ何のゲームだ?みたいな。
後年ではその強かったドップやガトルに下方修正エラッタが入り苦境を強いられたとかで、たぶん自分もそのころまでやってたら絶望していた。ドップやガトルでぶん回せない緑なんて…。
と思ったらそうでもないこともあったらしい。ロマン。
https://www11.atwiki.jp/gundamwar/pages/529.html
ドップ・ガトルのクイックが消滅した際、各所で緑の弱体化を憂う書き込みが殺到し、「緑消滅」とまで言われたが、エラッタ後の初めての全国クラスの大会では見事に緑ウィニーが優勝した。消滅したのは緑消滅論者だった、という皮肉な結果である。
ジオン公国にはご存知の通り多くの水陸両用MSがラインナップされていて、それらが遺憾なく暴れまわったのが第11弾「蒼海の死闘」環境。
その名の通り「水」という効果が強化されて特にシャア専用ズゴックとかズゴックEとかゾックが鬼のように強かった。
しかし「水」っていう特殊効果はどうなの。名前。ほかは「宙間戦闘」とか「速攻」とか「強襲」とか、それっぽいのに。「水」て。と当時も思っていたし今も思う
デッキとしてはシャアズゴとシュタイナーハーディズゴEが一緒に攻撃すると敵に防衛されずダイレクトアタックできて、かつ相手のMSも1枚破壊できる。夢のようなデッキ。
ティターンズとザンスカール。Vガン見たことないのでタイヤ?ハハッ!ワロスと思いながら使っていた。
激熱。
「タイヤ」という特殊効果を持った軽量ユニット(=MSとかMA)をぶん回す夢デッキ。まあまあ強い。
飛んでいく打点が本当にけた違いで楽しかったしタイヤの群れになすすべもなく沈む連邦を見るのは痛快だった。
緑が正統派できちんとウィニーしていたのに対して、黒ウィニーはタガの外れたキレるナイフみたいなアツさがあってよかった。
ゴトラタン(メガビームキャノン装備)という壊れカードで勝つデッキ。
これでコントロールして粘ってフィニッシャー出して勝つ、みたいなTCGの楽しさを味わった気がする。
割られると死ぬオペレーション(遊戯王で言う永続魔法)カードで粘ったりリセットでドーンしたりも楽しい。
大味さと繊細さを併せ持つ。
デッキ単価は高かった。
主にアクシズ。
カウンターとかが得意。
ハマーン様が「さかしいな!」と言っている絵が有名。
もちろん、「さかしいな!」と言いながらカウンターする。楽しい。
デッキとしては↑の通り黒と混ぜてよく使っていた思い出。
だいたい自分が使ってたのはこんな感じ。
ほかにも茶色(ターンAとかX)も使ってたけどまあそんなに楽しくはなかった。
ちなみに友人は青(連邦)とか白(W、SEED)とかヒロイックなデッキを使っていてすみわけできていたのもよかったし、Zガンダムロングビームサーベル装備通称ロンビは許さない絶対にだという感じだった。
まあその後ガンダムウォーが辿った道筋はあまり明るくなかったようだが、それでもいろんなMSやらキャラクターやらが、
なかなかかっこいい書下ろしイラストで描かれていて、それも普通に使えて戦えてまあまあ勝てなくもないという、
そんな感じで、中学時代をGWで過ごし、それ以降懲りて紙のカードは買わなくなったものの大学では遊戯王TFをやり込み(ゲーム一本の値段で全カード遊べるのは本当に個人的に革命だった)
今ではゆるーーくシャドバからのMTGArenaをやっているし、基本無料でできるすげーという感じである。
が、やはりGWのあの「ザクとは違うのだよ!ザクとは!(ドップ)」みたいな感じはもうなかなか味わえないなと、思ったりもする。
ソローキンのみならず、20世紀以降のロシア文学は、19世紀のパロディであるといっても過言ではないと思う。
そもそも、ロシア文学においては大元のプーシキンが西欧のパロディをやっている。というよりも、プーシキンを読んでその背後にある西欧を読み取るのが正しい読み方。
プーシキンのすごいところは、パロディや翻案でありながらオリジナルを凌駕しているところ。
オネーギンなんかもジュコフスキーからの引用が多く見られる。また、本来韻文においてはヒロイックなテーマが選択されるという常識を破り、世俗的な恋愛を描くというメチャクチャ実験的な小説だったということも補足します。
つまり、ソローキンはなんら実験的なことをしているわけではなくロシア文学の定石をやってるだけで、なんら評価されるべき手法を用いているとは思えません。
彼の新しい点としては、単なる下ネタを文学に偽装して増田みたいな人にありがたがらせたということかな。
ロシア語読めればわかるけど、彼のスタイルは19世紀的で一見すると伝統的な文学に読めてしまうんですよ。
確かにその点は新しいと思うけれど、それが優れているのかはビミョーです。
ロシアの諺に、背広を裏返して着ることは新しいけれど、それはすでに衣装の体をなしていないというのがあるけど、まさにそれだと思いますね。
「復讐?違うだろ。お前らはただ単に無敵という属性を手に入れたのではなく与えられたに過ぎない」
「急に与えられた無敵の力に酔って周囲へ奮って、狭い世界のお山の大将であることに気付いてねぇ不良のガキと何にも変わらねえんだよ」
「お前は努力してその無敵を手に入れたのか?違うよなぁ?お前は無敵の力を得る努力なんて一切してなかったはずだ。ある日ポンッと与えられたんだよ、誰にだ?」
「それはお前が復讐しようとしている連中だよ。お前の無敵の力はお前が憎み恨み妬んでる連中に与えられたんだよ」
「お前の無敵の力はそんな連中が与えたんだ!お前が無敵の力を奮おうとしている先はお前が夢見た理想の世界だ!」
「これは復讐じゃねえよなぁ!?ガキが単に駄々をこねて自分に気付け!気付け!気付け!と理想に向かって叫んでるだけだ!」
「理想から自分に向かって近寄ってこいとワガママ言っているだけだよなぁ!?」
「あまつさえその理想が捨てられなくて壊してしまえと暴れてるだけたよなぁ!?」
「馬鹿かっ!理想に与えられた無敵の力で理想を破壊したらお前はもう無敵じゃねぇんだよ!無敵の力を与えられる前の惨めなお前に戻るだけだ」
「理想に参加する権利を完全に剥奪されたお前を置いて世界は再び理想へ向かうんだ!」
現実の誘拐監禁事件を下敷きにした作品であり、賛否両論だと聞いたので、
クジ〇ックス先生的な(失礼)陰惨な性犯罪を賛美する内容を、中高生が熱烈に支持するマッポーめいた状況なのかと思い、
どんな内容なのかweb版をざっくりと読んでみることにした。
作品自体の内容としては、まず誘拐というのは完全なミスリードというか誇大広告であり、無知なJCがハイエースされてダンケダンケされ、ストックホルム症候群に陥っていく…
というような内容では全然なかった。実際の事件との関係性も(少なくとも物語上では)全く見いだせない。
男側も色々病んではいるのだが、そもそもハイエースしてない上、少女の自殺を阻止したり、レイプ被害から救おうとするなど、むしろヒロイックに描かれている。
同棲してるのも、家族が少女を虐待しているので、帰る家がないためだ。少女が未成年なので犯罪は犯罪なのだが、成人同士ならおそらく罪には問われないだろう。
作品を批判する友人に聞いたところ、実際の朝霞市の誘拐事件発覚当時、これが短編として公開されたのが原因であるらしいと分かった。
作品冒頭の誘拐犯が少女に優しくし、しかも少女は家で虐待されているという描写しかなかったので、事件当時、下種の勘ぐりで色々被害者が批判されていた内容を、そのまま肯定するセカンドレイプとして捉えられたものらしい。
今現在、冒頭しか読まないで批判してる人は論外としても、当時からの批判者にとっては、その後の作品の流れで、実は誘拐監禁など全くしてなかったということが判明しても、
それは単なる後付け設定に過ぎず、寝技に掛けられたようなもんで、壮大な言い訳を聞いているに過ぎないということのようだ。
そのため、公開当初にこれを見て衝撃を受けた人と、後から知って話の全体構造を知った人とでは、まるで受け止め方が異なってくる。
このあたりの事情が分からないと、擁護側と批判側の話は食い違ったままになるだろう。
私は人の善性を信じたいので、作者は何も考えていなかったか、またはセンセーショナルな効果を狙って冒頭だけを無邪気に公開してしまっただけと思いたい。
あるいは、あまりに無神経な短編になってしまった事に気づき、責任を取る意味で物語の続きを書き、実際の事件とは関係がなく、誘拐監禁なども起きてはいなかったのだと明示したものと信じたい。
しかしそれだけで批判がやむことはないだろうから、漫画が完結した時、またはドラマが放送された時にでも、きちんと詳細な釈明を述べるとよいのではないかと思う。
『幸色のワンルーム』についてさわりしか読んだことないし、ほうっておこうと思ってたんだけど、ドラマ化で叩きが再発というのが本当に残酷だと思ったので、書いてみる。
まず自分は小説家志望の人間で、クリエイター側に寄った意見になりがちになってしまうことは予め書いておく。
(なお自分の作風は『幸色のワンルーム』のような「危ない」ものではないため、作品へのバッシングについては正直に言うと他人事だった。ただ、だから「見捨てよう」と思ったとき、それは残酷なことではないかと考えなおした)
まず対象作品の発表またはドラマ化が悪である理由として挙げられそうなものを考えてみる。(この他にもあれば教えてほしい(⑤はほかの方に教えてもらって追記したものです))
①事件被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
②事件被害者以外の類似した事件の被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
③誘拐という犯罪を美化しており、誘拐を触発してしまう可能性がある
④誘拐という犯罪を美化しており、(家出している未成年など)被害者となりうる者の正当な警戒心を阻害する可能性がある
⑤事件に対するセカンドレイプを正当化するものと解釈されたり、助長するため
上記の可能性を検討する前に、まず罰について、確認しておきたい
確認する。
あなたがたは当該作品の発表またはドラマ化が悪であり、それを罰するために下記のような罰が適切と考えている。
上記の罰は作者の人生を破壊するに充分なものであることはきちんと認識しておいてほしい。
小説は正直に言って仕事をやりながらでも書ける。けれど漫画は創作の手間から、兼業でやっていくのはかなり難しい。人生の時間のうち多大な時間を消費し、途中で別のルートを選ぶことも困難になる。
そういった覚悟はもちろん創作者の側で用意しておくべきことだろう。けれど作品の発表中止を求めるのであれば、それがどういった影響を他者の人生に及ぼすのか――特に同様の観点で作者や作品を批判するのであれば――認識しておくべきだろうと思う。
誰かの人生を破壊するから批判はやめろと言いたいのではない。逆だ。あなたには絶対に、「これはだれかの人生を破壊してでも中止させなければならない」と確信してもらいたいし、たぶんそうあるべきだ。でなければ、ほんとうに残酷すぎる。せめて覚悟をもってください。
さきに挙げた①、②はもっともな批判だと思う。そういう可能性は実際にあるし、そうやって被害者の方が傷付くのはまったく看過できない。
意外かもしれないけど、この点について少なくとも自分はまったく擁護の術を持たない。
(一点だけ気になる点があるとすれば、多くの場合、批判者自身はこの「被害者」に該当しないこと。被害者がセカンドレイプやバッシングを受ける可能性を考えると、こうした「代弁」は非常に重要なことであるのは確か。
けれど例えば(正直に言ってかなり考えにくいと思うが)当の「被害者」に該当する人が作品のファンであったり、または発表の中止までは求めない場合、こうした処罰の代行が被害者を苦しめてしまうことにならないか、ということが気にはなる。
ただ、「代弁」をしない場合のデメリットや上のような事態の可能性の多寡を考えると、やはり代弁をやめるべき理由にはおそらくならない)
というわけで、①、②の理由から作品の発表やドラマ化の中止を求めるのは不当だ、という結論は少なくとも自分は導けない。
ただしその場合、お願いしたいのは、絶対に①、②のような可能性を真剣に考えて、真剣に徹底してください、ということです。
当たり前のことですが、①、②は誘拐に限りません。あらゆる犯罪や災害の被害者にありうることです。そしてこの基準に触れている作品は世のなかにかなりあります。
もちろん時代もあります。いまほど創作物に求められる倫理的水準が高くなかった時代の作品には残念ながらこうした危険をはらむものが存在します。
そして注意してほしいのは「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というエスケープは後述する③、④には適用できても①、②には適用できないことです。
作品が悪として描いていようが、美化していなかろうが、フラッシュバックや、被害者が傷付く可能性はなくなったりしません。
お願いですから、①、②の理由で作品を批判するなら、ほかの作品に対しても(もちろんあなたの好きな作品に対しても)徹底してください。その方法はお任せします。作品をクズだと思うのでも、ゴミだと思うのでも、発表中止を求めるのでも。作品によって対応が変わることももちろんあるでしょう。けれどお願いですからあなた自身が絶対に正しいと思えるやり方で、徹底してください。あなたが正しいと思えない基準によって、ひとつの作品が消し去られ、作者の人生が崩れてしまうのが、いち創作者として本当に耐えがたいのです。
③、④の可能性についてはいわゆる「ゲーム脳」などの「創作物が犯罪を誘発する」タイプの言説を抜け切れていないと感じる。
ここでもう一度確認しておきたいのは、あなたがやろうとしているのはだれかの人生を破壊する可能性があるということ。推測によってだれかの人生を破壊して、あとで(あるいは永遠に結論はわからないのかもしれないが)「間違ってました」では済まないということ。
③、④についてはできれば科学的あるいは統計的な根拠があった方がいいと思います。作品の擁護のためではない、だれかの人生を破壊しうることを実行するなら、その根拠となる推測が正確であることを確かめてからやるべきだと思うからです。
不正確な推測を根拠にだれかの人生を破壊するというのは、残酷なことだと思います。
そしてもちろん、③、④についても①、②と同様、真剣に考えて、真剣に徹底してほしい。
「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というのも、ただ自分の好きな作品だけ免罪させるための言い訳として使うのはやめてほしい。それは不当なことです。なにかを罰するなら、お願いですから、その正しさを信じ抜いて、貫徹してください。お願いします。
⑤についてはほかの方(anond:20180324003900)から指摘を受けたので追記した。
ただし正直なところ、単純にディベート的な命題の強弱のみを考えるなら、⑤は①、②の下位互換でしかないように思える。
作品がセカンドレイプをエンカレッジしたり助長するものであるより、作品そのものがセカンドレイプであるほうが、より悪であるということになるだろうし、より強い批判ということになるだろうから。
加えて⑤の場合は①、②よりも批判者(つまりあなた)がより際どい位置に立たされることは意識しておいてほしい。
⑤の場合、作品そのものはあくまでセカンドレイプ的言説に利用・悪用されたに過ぎず、悪いのはあくまでセカンドレイプを行う者たちであり、作者はそこに含まれない可能性があります。
その場合、あなたは作者本人は悪くないにもかかわらず、人生を破壊しうる処刑をくだすことになります。わかりやすく言えば、あなたが逆に「加害者」となり、悪側の立場に立たされる可能性もあるということです。(もちろんこうした可能性は①~④にもあります)
もちろんこれは仮定の話です。だからこそ、何度もお願いしますが、絶対に正しいと確信して作品の発表中止等を求めてください。それはあなたが悪や加害者にならないために必要な努力であるし、同時に不当に消し去られる作品やだれかの人生をなくすための手順です。
そしてもちろん、その正しさを真剣に信じて、真剣に徹底してください。お願いです。
言いたいことはだいたい以上です。長くなってしまいました。すみません。
創作者あるいは創作者志望にとって、創作は往々にして、人生をまるごと賭け金にした、自分の人生そのものの価値を左右する重要なことです。(もちろんそうでない人もいますが)
ただしそうしたある種ヒロイックな比喩でもってして、だれかを傷付けることを正当化することはもちろんできません。
けれど、そうした重みをもっている物事を、そうと知らずに軽い気持ちでゴミ箱に捨て去られるのは、正直にいって、耐えがたいです。
現在ある『幸色のワンルーム』への批判がそうした軽々しいものであるというわけではありません。ただせめて、「そうでない」ことを確認させてほしいと、思いました。
ドラマ化というのは、作者の方にとって本当に嬉しい知らせだったと思います。そうしたときにやはりまたバッシングを受ける。
ならせめて、そのバッシングだけは正しいものであってください。お願いです。本当にお願いです。正しくないバッシングによって、ドラマ化の知らせを受けた矢先に中止になるなんて残酷なことは(ありがちなことなのかもしれませんが)本当に起こってほしくないんです。
まずひとつ、私は個人的な考えとして、あらゆる創作物に対して、その客観的な価値をだれかが決められるとは思っていません。
したがって anond:20180321152456 の方の下記の記述は正当ではないし、余計だったと思っています。
まずこの方は上記の文に続いて作品の欠点を挙げられていますが、作品の欠点を列挙することが作品の「レベル」の判断になるとは自分は考えません。作品の欠点を美点が凌駕することは往々にあることだし、その美点は「自分にはわからない部分にある」のかもしれないと常に感じるからです。
またご本人が「持て囃された理由」として「「家族からの逃避と二人だけの世界への耽溺」というテーマが、思春期の少年少女や一部の人間に心地よいものだったから」を挙げられています。程度の低い理由として挙げられたのかもしれませんが、個人的な意見を申し上げれば、これは充分にすごいことですよ。
蛇足ふたつめ、
私はどこかで『幸色のワンルーム』の作者の方が女性で、若い方だと見たような気がします。(今回その情報を探してみましたが、見つかりませんでした。正確な情報ではないかもしれません)
そうした先入見が本件への自分の姿勢に影響を与えた可能性は否定できません。当然ですが、そういうことはあるべきではありません。もしそうだとしたら、反省点です。
女性が守られるべきであるとかいった考えは、フェミニズム的でないというよりその正反対だと考えるべきでしょう。もちろんそれはわかっているのですが、若い女性が漫画家としてデビューし、その後バッシングによって漫画家をやめることを余儀なくされた場合、その後の困難さが男性の場合と比してより困難であるというような「想像」が、今回の筆致に影響を与えなかった確信が持てず、そしてそれを隠すのは誠実な態度ではないと考えたため、蛇足ながら書いておきます。
女の「察して」っていうのは、その裏側に何千回も察して動いてきたということの積み重ねが背景にあるんだよな。
特に言われなくても部屋の掃除をしてあげたり、洗濯物をたたんでタンスにいれてあげてたり、あと病気になっても心配かけまいとして黙ってたりとか。
で、何千回と察して動いてくれていたという事実に無関心な男が、それを言われて「そんなこと言われても」と別に俺頼んでねーしみたいなことで「察して女はめんどくさい」って言ってんだよな。
察して動いてもらうことに慣れすぎててありがたみも何もないってこと。
尽くす女性って女性自身がヒロイックな気分に浸れていいけど、実は全く感謝されてないし「いつかわかってくれる」なんてこともないって早く気づいた方がいいね。
NHK-BSで、朝ドラ再放送~最新朝ドラ早版を30分連続でやってる朝の枠があって、出かける準備をしながら斜め見するのにちょうど良くて見ている。今は再放送の花子とアンとわろてんかが、どちらもちょうど太平洋戦争中というタイミングである。
朝ドラにおけるお約束として、当時の世相は「軍国化する体制側」と「軍国化に追随する常識的な市井」と「不本意ながらも追随せざるを得ない主人公界隈」という構図で書かれがちである。ドラマなので美化しているところも現実とは違うところも沢山あるだろうが。
まぁ、言論弾圧に反骨し投獄され獄死した人も実際にはいたわけだが、朝ドラで取りあげるには明らかにカロリー過多だし、結果的にぼろ負けした戦争を指揮したボンクラどもの尻馬に乗っかって踊った「善意の市井」を主人公にしてヒロイックに描くほどさすがに無知性に極右化するわけにもいかないだろうし、「善意の市井の恐ろしさ」を皮肉として描くには、獄中死を取りあげる以上に高カロリーすぎて朝から胃もたれ必至なので無理だろう。
増田は若いころから、「こんなに分かりきって馬鹿げたことをやっているのに、なぜ当時の「善意の市井」たちはそれをどんどん受け入れていったのだろう」というのが不思議で、戦時中もののルポやら文学作品やら日記やらを読むのが好きである。
朝ドラはフィクションである、とはいえ、歴史資料(あまり正確なものが残っていない。当時も今と同じように時間がたつと自動的に消える仕組みになっていたのだろう)や日記(文学者が残した戦時中の日記はとても興味深い)などを読んでみても、朝ドラと同様の「アホな指導層/それに踊らされる自称常識人/不本意ながら付き合わされる主人公」的な構図を見つけることはできる。
こういう趣味があるどちらかというとリベラル寄りの増田なので、ついそう読んでしまう面もあるが、太平洋戦争ではそれでまんまと、長期人口グラフでもあっここだよね!と分かるレベルでかくんと人口が減った戦争を、戦後は「ぼくら踊らされたんですー」みたいな顔した「善意の市井」の多大な協力で成し遂げたわけで、「善意の市井」の暴力性というか、大義(お国のために)と生活(逆らうと生きていかれない)が直結したときの怖さというか、そういうものがもうちょっと、朝ドラで書かれたらええのにないっそ、と思ったりもする。こういうご時世ですし、なおさら。
まぁそれはそれとして黒木華と藤井隆はほんと良い俳優だな、以前から両者とも好きだったが、どちらも難しい立ちどころの役をこなしている。藤井隆はマシューズベストヒットTVがベストアクトだと思っていたが、万丈目はんも相当良い。ドラマはまぁ、ちょっと吉本配慮が過ぎまへんか?とは思うが。
昨今は、民放局が良いドラマを作る体力がすっかり無くなっているせいか、NHKのドラマが相対的に良く見えるということもある。昨晩は録画しておいた弟の夫を見て号泣したところだ。あれは、演出演技脚本含めほぼ100点。
今やってる「ビルド」が、自警団っぽいノリで始まって今は国家紛争みたいな感じになってて
久々にスケールのでかいやつ来たなとテンション上がってるんだけど
アニメにもそういうのあるんだ
(余談だが「ウィザード」は例外として、仮面ライダーは「フォーゼ」以降セカイ系っぽくなった。
一応世界の命運を握るようなあらすじになっているけど基本的に小さな町で話が完結しているような作品が多い。
僕の仮面ライダー観の根底にあるのは「クウガ」なのでやはり近年のこういった傾向は物足りない。
普通の人間が覚醒し市民を守る「ヒーロー」となり国家や世界の命運を委ねられ自分の力に飲まれそうになる、というのが僕の中では王道なのだ。
そういう妄想をしていた頃の憧れはどこにいったんだろう。
いざやってみると全く面白くない。
名作と言われているゲームが下手な文庫小説よりはずっと面白いことは分かるけど、それはヘタな小説をライバルに設定したから勝てているのだ。
ちゃんとした小説を前にすれば肉薄することすら困難を極めている作品だらけだ。
強いていうならば製作者と消費者の双方に共通した捨てきれぬ幼児性から生まれたヒロイックな幻想とプライドの高さが混ぜ凝ぜになった欲望を満たすために作られた世界と物語の歪さが醸し出す怪しさだけは中々の物がある。
だけど、それ以外の部分は稚拙も良い所だ。
18歳以上どころか40歳以上にすら思えるほどにおっさん臭いのに時には幼稚園児レベルの言動を繰り返す全く高校生らしくないキャラクター、2ちゃんねらーのような喋り方をする地の文、たった一度のちゃぶ台返しだけを起伏としておきながら何十時間もかけて紡がれる物語。
何もかもが低レベルだ。
絵のレベルも、名作と言われるようなゲームであっても決して高くなく、むしろ絵が上手すぎると抜きゲーとして扱われて名作という枠組みからはぶかれやすくなるのではないかという懸念すら生まれる。
18歳未満の名実ともに子供であった頃、エロゲに対して憧れを抱いたのはエロゲをやったことがなかったからなのだろう。
ゲームで一番楽しいのは購入した日の行き帰りの道だという人はいるが、その道中を延々と何年も歩き続けてきたのがあの日々だったのだ。
あぁ……あの頃は楽しかった。
楽しい道のりだった。
ゲーム自体が面白かったとは言い難いが、いい夢を見させてもらった。
もう自分は子供じゃないから、別れの言葉は前向きでお互いに気持ちよく終われそうなものを選ぶよ。
楽しかったよ。
本当に楽しかった。
でももう終わったんだ。
然らばこれにていざ別れ目。
今までどうもありがとう。
ロールプレイングゲームの「ロールプレイ」って何だろうって私はずっと不思議だった。
STGの主人公だってACTの主人公だって皆それぞれの役割を演じているんだ。
それなのにRPGゲームだけがどうしてロールプレイを名乗るのかが不思議だった。
TRPGをコンピューター上で再現してマスター不要で進められるようにしたのが大本の始まりだったとして、そこから何十年たってるのに何時までたってももっと相応しい名前を考えないのは何故なのだろうと思いながらRPGを遊んでいた。
アクション要素が薄いor成長要素が強いからRPGですと言われても、果たしてそれはロールプレイなのかと納得出来ないでいた。
コンピューターRPGは確かにロールをプレイするゲームなのだと理解した。
最初のうちは神の目線でコントローラーを握っていたはずの自分が、いつの間にか主人公と一体化していたんだ。
高揚感のあるBGMが鳴り響く最終決戦の中、一緒に冒険してきた仲間たちを救うためにラスボスを絶対に倒してやるという決意が何度も胸に湧き上がった。
何でラスボスを倒すのかと問われれば、それはEDを迎えたいからではなくて、この世界を救いたいからなのだと本気で思っていた。
その瞬間、確かに私は世界を救うヒーローとしての役割を演じていた。
そして自分がヒーローとなり世界を救うために、これまでの戦いで培った自分の戦闘スタイルを駆使して目の前の苦難を打ち砕くことに対して圧倒的な使命感を燃やしていた。
あの高揚感は何だ。
大切な人を守ろうとしていた。
人間の脳には、フィクションの体験と現実の自分の体験を混ぜ凝ぜにして錯覚を引き起こすような欠陥がある。
それは確実だ。
何故なら私が実際にそうなったからだ。
そして私はそれを喜んで受け入れ、あの世界の住人として最後の戦いに挑んでいた。
いいロールプレイングゲームは役割を演じるゲームである以上に、プレイヤーに進んでその役割を演じさせてしまうゲームなんだ。
間違いない。
人間が現実と空想を切り離せないバグった生き物である事を利用し、いつの間にか役割を本気で演じさせてしまうシステムなんだ。
私の中にあったコンピューターロールプレイングゲームという名前に対する疑問は長い時間をかけてようやく氷解した。
よく出来たRPGは、プレイヤーに思わず演じたくなる役割を提供し、そしてプレイヤーがその役にのめり込めるように創意工夫をこらし、最後にはそのゲームで起きた体験をかけがえのないものにしてしまうのだ。
その道が英雄か、殺戮マシーンか、聖人か、それはゲームによって違う。
だが、完成度の高いRPGは、そのゲームがプレイヤーに与えてきた役割をいつの間にかプレイヤーに納得させ、プレイヤーの側が進んでその役になりきろうと自分の心を動かしていくように仕向けてくれる。
ありがとうUNDERTALE。
私の長年の疑問が1つ解き終わった。
あれほどまで授業の成り立たない高校で教えた経験はありませんが、
同僚などから聞く話等も含めて思うことを。
1.なぜ生徒は教師を殴るのか
の三点から考えてみた。
1.なぜ生徒は教師を殴るのか
例の動画の様子から、そもそも教師と生徒の間に一切の信頼関係が築かれていないことがわかる。
所謂教育困難校の生徒たちは、小学校・中学校段階では教師から忌み嫌われ、問題児扱いされてきた生徒たちで、
彼らの中には大人(教師)=敵という図式ができあがっている。さらに高校で同様に問題児扱いされてきた生徒がが集まることにより、
団結して大人(教師)=敵に抵抗することが、彼らの連帯を生んでいる。
さらに言えば、教育困難校の生徒たちの保護者の中にも、経験上学校や教師をよく思ってないひとが多い。
子供は基本的には家庭と学校のどちらかにしか居ない。同様に教育も家庭と学校の二つで行われて然るべきなのに、
教育(というより躾)を放棄した家庭も少なくない。小学校の担任に「箸の持ち方を指導してくれ」と頼む保護者もいるそうだ。
多分その保護者は正しい箸の持ち方で食事をしていないのだろう。
さらに悪いことには、教育(躾)を放棄するばかりか、学校での教育を軽視する保護者も一定数居る。
教育困難校の荒れた生徒たちの友情は、「教師に反抗するという同質性」を頼りにした友情なのだ。
「閉じた集団の中で何かを共有すること」、例えば同じような服装、髪型をすることで連帯するヤンキーやガングロギャルが流行ったことなどは、
「チャムグループ」という言葉で説明できる。「似ていることを条件に入れる仲間グループ」である。
教育困難校の生徒たちの間でつくられた「チャムグループ」は、教師を排除したり軽蔑し続けることで安寧が保たれる。
Uくんはそのチャムグループを代表して教師を殴ったのだと思う。半ばヒロイックな自己陶酔も感じながら。
それを囃し立てる仲間たちも痛快だっただろう。
そして残念だが、多分そういうチャムグループと教師の間に信頼関係が生まれることは期待できない。
信頼関係さえあれば、例えば軽い冗談の言い合いだとか、生徒教師相互に多少の「いじり」みたいなものが有っても愉快なのだが、
信頼関係のない「いじり」はいじめやハラスメントになる。信頼関係のないところには教育は、まともな人間関係は絶対に生まれない。
そもそも信頼することを教えられなかった生徒たちは不幸だ。そういう育て方をした親や小中学校の教員に多分に責任がある。
また別の話になるのだが、今回の件で騒ぎになったUくんもきっと、学校を信頼しない保護者になっていくだろう。
学歴や社会的格差はそのようにして再生産されていくのだろうな。
匿名のネットユーザーの性質として、教室では「素直で真面目な良い子」を演じてきた人間が多いのではないだろうか。
公の場では「素直で真面目な良い子」である一方で、匿名で誰かを吊し上げるのには、
いわゆる不良グループやお調子者が幅を利かせているパブリックな空間に対してのささやかな復讐の意味合いがあるのはないか。
また、事件の拡散は簡単だ。リツイートのボタン一つ押すだけだから。
自らが汚い言葉を使ったり、誰かを攻撃している感覚は無い。むしろ悪事を白日のもとに晒すことに、一定の正義さえ見出せそうだ。
抑圧されてきた「素直で真面目な良い子」の復讐心と、お手軽簡単なリツイートボタンがこの事件の拡散を相乗的に早めたのだろう。
いじめ自殺の問題で「いじめはなかった」とする教育委員会などが隠蔽体質と叩かれることが多いが、 わたしは隠蔽体質で仕方がないと思っている。
例えばいじめの加害者が実名を報道されれば、彼らがネット上で叩かれ、後の人生でも様々な場面で偏見を受けることは
免れないだろう。
それは当然の報いなのかもしれない。人を傷つけたら、そのくらいの懲罰があって当然だとも思える。
一方で、その社会的な懲罰は初期段階のいじめと構造が変わっていない。多数派が少数派を一方的に排除・攻撃することによって、
多数派の安寧を保つという構造だ。例えば第二次世界大戦中のドイツでゲルマン民族という多数派の血統のために少数派のユダヤ人を殺害したのと同じように、
ネット上の「素直で真面目な良い子」だった人々が、悪事を犯した少年を社会的に抹殺したいだけなのではないか。
もし、教育委員会が「いじめが原因で自殺した」と早急に認めれば、
教育委員会が「いじめはなかった」と言って槍玉に挙げられて居る限り、加害者への攻撃は及ばなくなるのだとすれば、
被害者感情はどうなるのか? そこは難しい問題だ。上のような説明をしてもなかなか納得はしてもらえないだろう。
あるいは事件があるていど沈静化してから「いじめはありました」と認めることで、世間の関心をひかない形で収めるのが関の山か。
ともあれ、今回の事件に関しては顔も実名も所属校も割れていて、拡散も限度を知らない状態だ。