はてなキーワード: ハワイとは
実際、大局的にみてどうしたいのかというのを考えてるからわからないのかもしれないので、とりあえず思いつく限りやりたいことを挙げてみたらいいのかな
フェリーとかジャンボジェットとか大陸横断鉄道とか、そういうものに乗りたい
寝る前に自販機で普段買わないジュースを買ったり、マッサージチェアを使ったりしたい
・ハワイに行きたい
行って何をしたいっていうのは正直ないが、ただうろついたりヤシの木を見たりしたい
・植物園に行きたい
近くに植物園がないのが悲しい
植物園、できたらあんまり大規模じゃないところに行って、温室のベンチに座ってジッとしていたい
・カルディみたいなところに行きたい
カルディとか成城石井みたいな、ちょっと変わった食品を売ってる店に行って、タンドリーチキンの素とか、へんなジャムとか、そういうものを買いたい
・コストコに行きたい
絶対多すぎて後悔するんだけど、それでもいい
・海が見たい
・刀が欲しい
居合の真似事がしたい
わかんねー
俺って何がしたいんだ
結局、自由が欲しいのかもしれん
共産党を擁護する義理はないのだが、共産党が「多様性の統一」の標語を掲げた事にあたって、独裁だと揶揄するブコメが目立つんだがこれらの人達どうも意味判ってなくない?
これって頻出スローガンだよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/jcp_cc/status/1452192530871697413
最近だと多文化主義(multiculturalism)と文化多元主義(Cultural pluralism)の橋渡しというか良いトコ取りの標語として使われる事がある。
多文化主義っていうのは人々の属する文化が並置されて存在している状態。〇〇人っていう属性、特色を捨てる必要ないよって考え方。でもこれだと国家内がモザイク状になって対立が発生したり、特定宗教の原理主義とかはどうする?「自由の敵」に自由を与えて多文化主義の基盤を破壊するのはどうする?って問題が発生する。
文化多元主義は色んなオリジンを持つ人々が集まるが、個々人は一つの公共的モデルに集約され、主体の改変を求められるって考えだ。
人種のるつぼって色んな人種が居る事を指していると思ってる人が多いが「るつぼ」は坩堝と書いて金属を溶かす溶鉱炉の容れ物だ。だから「人種」は溶けて元の色や性質を失っている。
そして坩堝の湯(溶解金属)は型に入れられる。冷えて出来上がるのが「アメリカ人」という合金のインゴットだ、という考えに立脚している。かなりイデオロギッシュな言葉なのな、実は。
ハワイ空港の名前にもなっているダニエル・イノウエはその尤もなモデルケースだろう。
日本軍が真珠湾で奇襲攻撃を掛けてアメリカを戦争に巻き込んだので、ハワイの日系人は立つ瀬がない。そこでイノウエは自分がアメリカ人である事の証に陸軍に志願してかの有名な442連隊に配属された。死傷率300%以上という有名な部隊だ。海兵隊では新兵訓練の際に442連隊の事は必ず触れると聞く。「アメリカとは何か」を象徴するからだ。
イノウエはそこで日系人じゃなくてアメリカ人のインゴットになった訳だ。戦後は政治家となって上院仮議長まで登りつめた。
だからこれ書いてる増田はイノウエに日系人としての親近感なんて抱かない。彼は立派なアメリカ人だった。
この生き方を強いたのが文化多元主義であり人種のるつぼ論なのだ。
イノウエの例は戦争という情況が強いた極端だが、この抑圧的な文化多元主義と、バラバラで政治主体としても弱くて実効性にも疑問符が付く多文化主義の良いトコ取りしようぜって言い方で使われることがある。
あと有名なのがインドネシアの国是、「パンチャシラ」。意味は「多様性の中の統一」。
インドネシアっていうのはこれはもう完全に人口国家であって「インドネシア人」なんて人種も民族も無かった。言語も違う。旧ユーゴと似ている。
そこにまだ統一国家も無いのに「インドネシア人」という国民意識が立ち上がっていった。「国民」はトップダウンだけで出来たのでは無い。
この意識の成立の鍵になったのが植民地下での出版業で、同一言語での大量出版がやがてその頒布される広範囲で公共心や共同性を立ち上げる事になった。
これを観察して書かれたのがかの有名なベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』なのな。アンダーソンはインドネシア歴史を研究していて、そこから国民国家の成立を発見したのだな。
パンチャシラを提唱したのは国父であるスカルノで、重要な理念として憲法前文に入れられた。
共産党を叩いている人の中には旧日本軍人がインドネシア独立に協力した事を重視する人が多いはずだが、インドネシアの有名な国是を思い出さないとはどういう事だろうか?
この流れはTTP参加決定時に似ている。
民主政権がTTP参加を決定した折、ネットは大炎上した。すると炎上の仕方が厨房っぽいので一歩ずらして「そもそも米国の利権に”環太平洋”と名付けるのがおかしい」とかかしこぶる人が出てくる。
ところが「環太平洋」という概念はソ連との冷戦が終結した90年前後からある。そして実際日本の周囲では環太平洋での経済的結びつきが強化されてきた。製鉄大国で「鉄のハブ」になっている日本の最大原料輸入国(鉄鉱石と石炭)は豪州になった。
そういうの知らんのな。知らんというか20年以上知らないを継続してきたって事だ。
因みに環太平洋の当初のアニキ役は米国と日本が想定されていたが、日本に代わって中国がアニキ役になりそうな塩梅になってる。これはGDPの伸びだけじゃなくて、日本は震災で港湾が壊滅したり鉄道民営化の上に貨物分社化して海コン扱いが出来ないなんてクソ失政を重ねたせいで物流(コンテナ、航空)の拠点が中国になっちゃったせいだ。
「多様性の統一」に噛みついた人らは、物流的に日本が中国から出てるローカル盲腸線の扱いになってるのとか知ってる?
共産党を揶揄したいって気持ちは判るよ。なんせ彼らは「民主集中制」について破棄したのかちゃんと説明も総括もしていない。
プロレタリアート独裁だってソ連や韓国、東南アジアの開発独裁の評判が悪くなってから言わなくなっただけであれってどうなの?ちゃんと破棄したのって事は有耶無耶になっている。
欧州なんかは左翼ポピュリズムが押してきているが、そういう訳なのでその流れに乗るの?って事もよー判らん状態。
だから「多様性の統一って字面が民主集中制そっくりでんなぁ」とかイヤミいうのは判るが、わざわざこんな有名な語彙を出しているのに悪意の解釈しているっていうのは、単に「国民国家の成立とか、多文化主義が起こす軋轢とか、人種のるつぼの本来の意味とか、ハワイの空港が何で日系人のイノウエの名前付けてるのかとか、インドネシアの建国理念とか知らねぇし、興味も無い生活送ってるんだろうなぁ」という情報しか外部に与えんよ。
2021年10月25日に先行配信が開始され今日CDが発売される、槇原敬之の復帰作『宜候(ようそろ)』。
(引用という形式ですが、考察として歌詞を書き起こしている都合上、このエントリはすぐ消します。)
こんな素敵な曲なのにネット上でも思ったより反応が薄いのが驚いている。
一方で、仕事中にもかかわらず号泣してしまうほど刺さってる人も居る。俺のことや。
歌詞提供しているのは、尾崎豊・村下孝蔵・玉置浩二・浜田省吾をプロデュースしている音楽プロデューサーの須藤晃。
https://www.youtube.com/watch?v=vjyQTWT-Oe8
歌詞が伝わりやすいよう、敢えて伴奏はピアノだけという最小限のスタイル。
まずは何も言わず配信サービスで聴いてくれ。冒頭35秒だけでいい。
話はそれからだ。
私は普段、歌詞考察・歌詞解説といった野暮なことは一切しない。
その作品に出会った際に各々が感じた時のフィーリングや気づきこそが宝物だと思っているからだ。
たとえ善意でも、ネタバレによって公式の意図と違う形で聴き手に伝わってしまうのはファンとして本意ではない。
ましてや、私個人の解釈というフィルターを通すと全く違った風景で見えてしまうだろう。
「説明しよう!」と割り込む人は、その作品に邂逅した時の感動を減らし自論を押し付けてしまうことになるかもしれない。(本稿の私のことである。)
「今のは何が面白かったの?」と解説を求めると白けてしまうだろう。
もしかしたら自分の前では二度とジョークを言ってくれないかもしれない。
ガルパンおじさんが「ガルパンはいいぞ」としか言わないのは、単に語彙力が足りないからだと思っていた。
しかし、実際に観てみるとそういった優しさからだったのだと今なら分かる。ガルパンはいいぞ。
だが、この忙しい現代社会。
また、曲の背景に想いを馳せるためには少しばかり教養も必要となる。
(YOASOBI「夜に駆ける」の原作小説「タナトスの誘惑」を読んで納得して
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「どちら様かは存じませんが
そのサングラスやめなさい
悪い輩(やから)に見えたら損よ
その目を私に見せなさい」
ばあちゃん 俺に微笑みかけて
かすれた声で叱ったよ
出会いと別れを 繰り返し
「もう慣れたわよ」と言ったけど
「やっぱり一人は つらいから
誰かの傍にいなさいね」
ばあちゃん遠くの空を見て
小さな声でつぶやいた
「夢なんて叶わぬうちが花だけど
待ってるだけでは駄目だから
行きたい場所を目指しなさい」
「橋の袂で声かけられて
赤いかんざし褒められた
あの日の私が一番綺麗
忘れられない思い出よ」
ばあちゃんはにかみ謝った
「ごめんなさいね こんな話」
「毛皮も指輪も 押し入れの中
どこに置いたか 忘れたわ
一度ハワイに 連れてってくれ
息子に頼んでみたけれど
伊勢神宮さえ 行けなくて
膝が悪くて 行けなくて」
「先頭に立たないように気を付けて
争いごとは やめなさい
いつまでたっても あいこでしょ」
「今度訪ねてくれるなら
どちら様かは存じませんが
これも何かの縁でしょう
「人生は思うようにはなりません
それでも希望を持ちなさい
神様なんていないけど
変わっていくものを嘆くより
変わらぬものを愛しなさい
笑う門には福来る
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さて、以降は2回以上聴いた人に読んでもらいたい。
答え合わせをしましょう。(抜け・漏れや解釈違いがたくさんあるはずなので、どうかコメントで補足お願いします。)
歌詞の大部分が、お節介な性分の認知症の「ばあちゃん」が孫(孫と認識されていない)に向けて語りかけるセリフである。
(叙述トリックで多用される「信頼できない語り手」の可能性も考慮せねばならない。なんせ認識が歪んでいるのだから。)
一見すると(前半はともかく)後半は思い出すままに過去を語ったり、
人生の先輩としてアドバイスを始めたり脈絡が無いように思われる。
しかし、言葉のひとつひとつに含蓄や温度感があり何故か聞き流せない。
「出会いと別れを繰り返し」:記憶を失う(別れる)→自己紹介(出会い)のループを指すのだろう。
後半で自分の孫に「どちら様かは存じませんが」とまた語りかけるので、「ばあちゃんまたボケとるわ!」とツッコんでしまう。
「やっぱり一人は つらいから 誰かの傍にいなさいね」と語りかけられても、
「ばあちゃん、いま孫がそばにおるんやで…」とさみしくなってしまう。
ところで、こういった違和感がないだろうか。
・ハワイに行けなかったら妥協点で伊勢神宮が来るのおかしくない?
・というかハワイに連れて行ってもらいたかったら息子より先に夫に頼めよ
・孫のことは何度も忘れてるのに、若い頃に口説かれたことは「忘れられない思い出よ」?
・なぜサングラスをかけるだけで「周囲から悪い輩(ヤカラ)と認定される」と思い込んでいるのか?
(グラサンといえばローランの民からすれば陛下の象徴と言っても過言ではないだろう)
こういった違和感や疑問を紐解き、一本の補助線を引けば、
ハマらないと思っていたパズルのピースが繋がり、この歌詞の全体像が視える。
それを前提にもう一度聴いてほしい。
「先頭に立たないように 気を付けて
争いごとは やめなさい」
この歌詞が異様に生々しく感じないだろうか。
まるで親しい人が先頭に立ったせいで亡くなったかのような物言いである。
→軍艦じゃんけんの掛け声「せーんそっ(戦争)」を嫌ったのではないだろうか。
「グー・チョキ・パー」は「軍艦・朝鮮・ハワイ(軍艦・沈没・ハワイの地域もあるらしい)」に置き換えられている。
小学校の時に「不謹慎だ」と先生に叱られた人もいるのではないだろうか。
実際、その後にお土産としてお寿司を細かくリクエストしている割に、「軍艦巻き」は入っていない。
「一度ハワイに 連れてってくれ
息子に頼んでみたけれど
伊勢神宮さえ 行けなくて」
→夫が居ないので息子に頼んでいる。おそらくハワイで亡くなった(と聞かされており、真偽は不明)。
そもそも、「ばあちゃん」は太平洋の地名でハワイぐらいしか知らない可能性も高い。
なぜなら当時のメディアは時の政府の統制下にあり、大本営発表を検証せず偏向報道をするプロパガンダの道具となっていたからだ。
国威発揚のため、日本軍の勝利を事実以上に喧伝し、大敗の事実を隠蔽する構造であった。
真珠湾奇襲の報道は大々的に宣伝したので、その印象が強いのではないか。
さて、ばあちゃんはハワイに夫を弔いに行きたいが、それが無理ならせめて国内で、
ということで日本全国最高位の神社である伊勢神宮にお参りしたいわけだ。
戦後世代にとっては戦没者を祀るのは靖国神社というイメージが強いが、
戦前世代にとっては伊勢信仰が普通であったようだ。現在も神社本庁の本宗は伊勢神宮。
(ちなみに作詞の須藤晃は富山県出身。槇原敬之は大阪府高槻市出身。)
「夢なんて叶わぬうちが花だけど
待ってるだけでは駄目だから
行きたい場所を目指しなさい」
→これは解釈が分かれるところか。素直に歌詞通りに受け取っても良い。
膝を悪くしてしまい二度と夫の弔いという夢が望めなくなってしまった悔恨にも解釈できる。
「橋の袂で声かけられて
赤いかんざし褒められた
あの日の私が一番綺麗
忘れられない思い出よ」
→孫(俺)のことは何度も忘れるくせに、「忘れられない思い出よ」。
その理由は、夫と過ごした時間が少なく他に思い出が無いからではないか。
・「毛皮も指輪も 押し入れの中」
GHQ連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの印象によるものではないか。
「変わっていくものを嘆くより
変わらぬものを愛しなさい」
→生きている人より、亡くなった夫への執着を感じないだろうか。
ここの「あなた」は孫(俺)に語っているように見えるが本当にそうだろうか。
夫に似た孫の姿を通して、
過去の思い出の姿の夫に、
ここにきて思い当たる。
「その目を私に見せなさい」と言われサングラスを外し、孫の目を見る描写。
ここでばあちゃんは若き日の夫を思い出す。
それをきっかけにこの歌詞のセリフのような回想が始まったのがこの曲じゃないだろうか。
タイトルが「ばあちゃん」じゃないのは、一人称が「俺(孫)」に固定されてしまい
メインディッシュにもなれず世の中の隅っこで苦い人生を送ってきた「ばあちゃん」の象徴として「わさび」がタイトルとして選ばれたのだろう。
もう何年前のことなのか、何でそれを見ていたのか、まったく覚えていない。
なのにいまだに、そのあまりのくだらなさに忘れることができないでいる話がある。
テレビを見ていた。
噺家の誰か(有名な人だったような気がするけど誰か忘れた)が、ハワイ公演をするドキュメンタリーだった。
日本文化の高座が外国で通用するのか、苦悩しつつも万端の準備を整えるというような、そんなストーリーだった。
いざハワイ公演本番。
全 員 在 住 日 本 人 だ っ た
高座はバカ受け。
そりゃそうだ。
普通にしてればいいんだもん。
ちなみに、そのときの噺は以下の通り。
「へぇ」
「ほぅ それで?」
「そしたら店員、なぜだか皿を持ってきた」
「ええ? どうしてだい?」
「『ティッシュ』が『ディッシュ(dish:皿)』に聞こえたんだとさ」
「(客 席 爆 笑)」
一応海外によせた内容を考えたんだろうけどさ。
あー くだらね。
奄美大島のお土産として貰った幸福の木が育ってきたので、植え替えや今後の世話のために細かい品種まで調べることにした。
幸福の木=ドラセナのイメージがあったが、調べるとコルディリネ テルミナリスの可能性が高かった。
ドラセナの中に幸福の木という品種があるが、本来の幸福の木は、ハワイで幸福の木とみなされているコルディリネが該当するそう。センネンボクとも言われている。
コロナで旅行好きな人達が嘆いているが、旅行に興味のない自分からすると全くダメージがない。
国内の近場や、隣国ぐらいならともかく、いわゆる長旅は行きたいとすら思わない。
コロナ前に結婚していたが、パートナーが新婚旅行と結婚式を兼ねてヨーロッパを熱望していたのには割とうんざりした。
結局出発前にヨーロッパはロックダウンし、旅行も式も流れた訳だが。
まず、移動費が苦痛だ。新幹線だの飛行機だの、座りっぱなしで長時間拘束されるのに、何万~何十万と払うのが納得いかない。
自費移動はできて2時間が限度。
自費でなければまあ我慢出来る程度だ。
ヨーロッパへの移動は16時間飛行機に乗って何十万も取られるのでそれが1番嫌だった。
確かに建造物はまぁ素晴らしいと思うが、北斎の天井画でも同じぐらい感動できるし、自然物にいたっては何か感情を抱いたことがない。
ものすごく美しい海も見たことはあるが、感想は「透明な海だな」ぐらいだ。むしろ気候の暑さの方が不快だった。
旅行の思い出も、遠出せずとも面白いことには面白い。何かに付随する思い出があるのはいいことだが、それは場所でもモノでも同じだ。
食べ物も都内なら大体どの国の料理も食べられるし、庶民の食生活も資料を読めばそれで十分だ。
長々と書いたが、何が一番いやかと言われれば、この旅行が苦手というのを否定されたり嘆かれたりすることだ。
ちなみ全く海外旅行に行ったことがない訳では無い。ハワイに短期留学すらしていた。(推薦で自費ではないので行ってきた)
幼い頃に家族でも何度か海外へ行った。経験としてはいいものだと思うがマストかと言えばそうでもなかろう。
ハワイで一度も海水浴していないと言ったら、物の見事に「もったいない」とブーイングを貰う。
海洋生物に興味もなければ、マリンスポーツにも興味は無いのだから仕方ない。
だいたい海水など肌も髪も痛むので御免だ。
旅行好きなパートナーが割と地雷で、あれこれ説得されるのが苦痛だし、魅力をとかれても実際に何も魅力を感じなかったことが実証されている。
旅行が苦手な人種に何を言っても無駄なので、大人しく全額旅費をもつか諦めるかして欲しい。
だから、正直コロナで移動制限がかかっているこのご時世が心地いい。
海外旅行の話は出ないし、興味もない思い出話や素人の風景写真を誉めそやす手間もない。
移動制限だけずっと続かないもんかなとは思ってる。
仕事は在宅勤務でほぼ事足りる。
飲み会とかは嫌いな訳ではないが、無くても別にいいなって気持ち。一年自粛したら変わるかと思った特にこの気持ちは変わらない。
旅行は、確かに行きたいと思うことあるけど、こんなに気を遣っていくのは割に合わんと思いやっぱり家がいいなと思う。YouTubeでハワイの映像と好きなBGM流してコーヒー飲むので十分になる。
家にいることが良いこととなり、今までの生活が自分にとって生きづらかったのだと認識した。結局このようなマインドなので、苦労している人達には申し訳ないが、コロナによるメリット(主に在宅勤務制度だが)が大きくて、結果的に良かったと思ってしまっている。
アップグレードしたタイプを買おうとは思っていたのだが、電気屋店員と話しているうちにいつの間にか今までのほぼ倍の容量の最新洗濯機を買うことになった
使ってみたら音が静かすぎてビックリした。今までのアイツはなんだってあんなザブザブ音をたてながら働いていたんだろう、まるで何かのあてつけのように。
・内海聡
(他いろんなもの、と言っていましたがおそらく上記3つに関連すると思います)
・内海聡のニコニコ動画が面白いらしいので登録方法を知りたいといわれたため
・内海聡はTwitterのプラットフォームからデマを流布しているとして削除されている人物である
・コロナ禍において情報元の優先順位が公的情報より根拠のない不正確な情報を流す人物になる判断をしている根拠が知りたい
・内海聡が何を言っているのか知らないが、少なくともワクチンに関しては従来のワクチンとmRNAワクチンを区別して考える必要がある
(過去のワクチンは効いていないからmRNAワクチンも意味はない、ということはない)
・現在は情報を取捨選択していると言っているが、内海聡の情報を参考にして今後5~10年経過した後に意固地になられて思考が
固まった人とこちらが対話しなければならなくなることを考えるとしんどいので、まずは情報元の優先順位を公的情報>内海聡にしてほしい
・ワクチン接種をすることで死亡リスクを減らすことができる。現在の研究結果を参照すれば各ワクチンにおける死亡率が確認できるけど
死亡率は飛行機事故で死ぬのと同じぐらいだったと思う 最近話題になったPDFでは「あみだくじ」を使ってその例を説明している
・厚生労働省のいうことをお前は信じるんだね、ふーん
(厚生労働省の全てを信頼しているわけではないが少なくとも新型コロナに関して公的な情報源として参考になる)
・いろんなものを見ているから特定思想にとらわれることはない、問題ない
(いろんなものを見ているという人が、最初に出すのが根拠のない不正確な情報を流す人物なのはおかしい 偏りを感じる)
・誰の発言を信用するかは個人の自由、ロック歌手は見た目が物騒だからロックを聞かないということにはならない
(歌は個人の志向の話であり、感染症とかワクチンとか生死に関わるレベルの話と一緒にすることは不適切)
・飛行機で死ぬ確率と同じくらい? ハワイに行ったこともないのに死ぬのは嫌だ!
(……?)
・あみだくじで決まるんだったら好きなことをして死ぬほうがいい
(こちら側はもし感染したら好きなことをできる時間が減ることになるリスクがあると説明したが、そこで話が終わってしまった)
・まあでもあなたにこのことでストレスを負わせるのは嫌なので、受け入れる
ということで話は終わったが面倒だったので話を終わらせた感が強い。調べてみると内海聡は今フォロワーからクラウドファンディングしてもらって
もともと『東大王』は東大生の中でもクイズ研究会の部員で構成された
東大王チームが「知識の壁」となって挑戦者チーム(インテリ芸能人だったり大学のクイズ研究会だったりする)を迎え撃つ、
そういうコンセプトの番組だったのだが
それが数年間の放送期間のうちにルール変更やメンバーチェンジやら
問題傾向の変化(明らかになぞなぞ・ひらめき系が増えた)を経て
「芸能人・専門家からなる遊園地マニア軍団と、遊園地について1ヶ月勉強した東大王チームが対決する」
という内容だった
と予告の段階から思ってた
本編をTVerで見たが、予想通りだった
東大王チームは負けていた
こうなった一番の原因は
ことだろうと考えている
過去には東大王メンバーが修学旅行と称してハワイに行く回(申し訳程度にクイズはある)や
今年の頭に「プロジェクト東大王」というアイドルオーディション番組まがいのことをやっていたが
2人のビジュアルは「ただのクイズが強い東大生」として消費することを許されなかった
その延長の「インテリアイドル」を必死に作り出して担ぎ上げているのが
初代キャプテンである伊沢拓司は現在Webメディア「QuizKnock」を運営していて
YouTubeでの発信も行っているが、その動画に出演しているメンバーにもやはりアイドルのようなファンがついている
伊沢自身は「QuizKnockはアイドルではない。歌手デビューしろと言われたら全力で断る」と発言している(https://telling.asahi.com/article/13022469)
が、「アイドル視されている」ことを認識しているからこそ出てきた言葉だろう
今の『東大王』は東大王チームに歌を歌わせてももはや驚きはない
YouTubeでQuizKnockの動画のコメント欄にはよく
「視聴者置いてきぼり」と書かれることがある
要するに「問題の難易度が高すぎるor会話の内容がマニアックなため自分は全くついていくことができなかった」という意味である
もともとクイズが好きで動画を見始めた自分からするとこの感覚は正直かなり理解し難い
この視聴者はわからない内容の会話をどうやって楽しんでいるのだろうか?
決して絶世の美男子ばかりを取り揃えているわけではないが、
スタイリストをつけ、テレビのバラエティ番組のような編集をした動画の出演者は
(余談だが、「視聴者置いてきぼり」はせいぜい高校レベルの理科・社会の内容でも書かれたりする)
『東大王』に話を戻せば、
そういった「クイズ的or学問的な知識があまりない」層に向けて
問題をひらめき寄り、もしくは簡単な問題にシフトしていったのだろう
スポーツ選手やら将棋棋士が、好きな女性のタイプが何であろうが、風呂で最初にどこを洗おうが
そのようなくだらない質問に答え続けなければならない
趣味が多様化しどの業界もいつ見捨てられるかわからない今の時代だから
有段者でないとプロの手に好手・悪手を自分なりに判断できないだろう
野球・サッカーみたいなメジャースポーツでも、プロでも難しいプレーを
「クイズの内容は全くわからない、でも参加者は魅力的」と感じるような
アイドル的ファンが『東大王』とQuizKnockには増えすぎてしまったと私は考える
しかも野球・サッカーのようなメジャー競技は経験者による「わかってる楽しみ方」が崩れないのに対し
クイズ界はむしろ未経験者による「ニワカ的な楽しみ方」が支配的になるんじゃないか、と危惧している
難しく見える問題をすごいすごい言った方がバラエティ的には映えるから
番組としての『東大王』は来年3月までに終わるんじゃないかと予想してる
遊園地の特集をしたいならジャニーズにでもロケ行かせたほうがよっぽど面白い
『東大王』が人気を得た理由を未だに番組側が理解してないのだろうなと
放送を見るたびに感じる
なんか世の中非効率だな~と思うので、もしも俺が新しく国を創るならこんな感じにする予定。
他なんかある?
もうじき三十路という年齢で、やっとこさ正社員で、初めてのボーナス。夏のボーナス。今まで関係なかったので、明細を渡されて初めてボーナスが支給されると知り、信じられなくて会社の掲示板のお知らせを見て自分が対象であることを念入りに確認した。
一言で言うと、良かった。
こんな金額を貰っていいのかと驚いたし、同時に今までの色々が腑に落ちた。
そりゃこんだけの金額をもらったら、不満を言いつつ辞めないし、交通費が高い上に混むお盆の時期に旅行にも行くし、家族旅行でハワイだの行くし、夢の国へ通い詰めるし、実家暮らしの貯金は1000万貯まる。
そりゃこんだけの金額をもらったら、連泊でコミケに行くし、豪華な装丁のアンソロ出すし、思い切って液タブ買っちゃうし、ガチャも天井まで回す。