はてなキーワード: スタンスとは
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今までは、ただ荒れている海を時たま平和なところから眺めていただけだった。
そして、たまたま見かけた漂流物に対して思ったことを気まぐれに書いて見ようと思った。
ここから書くことは、現段階書いている私には公開するかもわからない文章であり、該当のブログ記事に対して思ったことを気ままに書くだけなので何かを伝えるというつもりは一切ない。自分のなかのことを整理しようと思っただけのことで、こばるさんが何を思おうと私は興味はないし、これを読めというつもりもない。
発端はそのブログであっても、おそらくは私の思ったことまとめに終始すると思われるからである。
以上のことを踏まえて読むかを決めてもらいたい。
これは自己保身という人もいるかもしれないが、私にそのつもりはない。
匿名で、なんの影響を被ることもない場所で、ただ書き散らかす文章だから一切の重みはないということを読んだ人皆に伝えるという意図の、私の責任感の表れと取ってほしい。この文章はただの電子ごみだ。
私は、このブログの題名に名前があがっている方のCFにまつわる問題を時たま眺めていた。最近の出来事などの一連も一通り見ていたつもりではある。
私には、一切法律的知識、CFの知識はないため、収支報告を求めるものに、「まあそりゃあ疑念が湧いたら事実確認をしたくなるよね」程度のことを思うことしかできない。これは、お使いに行かせた子供がお金をちょろまかしていないか確認したい、というような感覚と似ているのでCFに適用できるのかは私には判断はつかない。
私はここで、この方の問題について白黒をつけたことを書くつもりはない。あくまで、こばるさんのブログについて思ったことを書くというつもりだからだ。
このブログ記事は「CFした方がネットリンチをされている」という前提で書かれている。(題名からしてそう)
なので私がそのことについて書くということは、その前提に対して物申すということになってしまう。
そうなると、私の考えたいことと外れていくと思うのでとりあえずそこは保留にしておく。
以下、本文を引用しながら書いていく。
ヌメさんへのネットリンチに加担し続けている人たちへ。
あなたたちは愚かです。
優しさに賢さが追いついていない人、賢さに優しさが追いついていない人、その両方が見受けられます。
優しさに賢さが追いついていない人は、大局を見る能力がありません。「優しい」という自己イメージに捉われて、その表面的な振る舞いからはみ出す勇気がないだけの愚か者です。
賢さに優しさが追いついていない人は、あなたが学んできた知識を、愛情を持って世界に還元しないところを見ますと、やはり愚かだと思います。
正直言うと、私はこの「優しさ」や「賢さ」という言葉が何を指しているのかがわからないため、ここは飛ばす。
ただ、「寛容な世界づくり」という言葉から、弱者にやさしい世界をということなのだろうかということを何となく推察するに、この人々は強者に当たるのだろう。そのあとの、声を上げる、などは最近話題のトーンポリシングもろといった感じである。これ以降のところで語気語調で判断するな、といった内容のことが書いてあることだし。
トーンポリシングに関しては、議論の場は対等な人同士が様々なものを用いて議論をするという理想があるが、そこにも権力関係があるのだということを自覚しよう、といったものであると私は認識している。(何かで読んだ、何だっただろう…)
恥を知り愛を知る、は、まあちょっとよくわからない。思いやりだろうか。悔い改めるとかだろうか。
5年後、10年後に、あなたが自分自身の行いを恥じたとき、過去のあなたの行いを誰も責めてはいけません。
もちろん、今あなたがそれを行なっているならば、咎められるでしょう。法に基づき裁かれることもあるでしょう。
あなたの積極的または消極的な加害行為が、今、あなたからの加害を受けている人の心の安寧よりも、優先して認められることはありません。
これはまあ、おおむね一般的な考え方であるように思われる。罪は裁かれ償いをしたら一種チャラである。あとは良心の問題。
まずあなたは、あなたが何に依らなくても、あなた自身が当たり前に存在してよいのだということを、深く理解してください。
これはまず一番最初に、あなたの心の底の底に置いておくべきあなたの自己肯定感です。
あなたが今それを得られていないなら、とても悲しく、残念なことです。
自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなたが世界を信頼できる根拠になるということを、ぜひ知ってほしいと思います。
自分自身の心を明かす勇気を、あなたの愛する、信頼できる人に向けてください。
その信頼が報われたとき、あなたはあなたのための自己肯定感を得られるはずです。
その経験を得たとき、その自己肯定感や誇りが、他者にとっても同じ、誰にも脅かされてはならないものだということを、想像できる人になってください。
ここはいささか唐突に思われた。なぜここで自己肯定感の話なのだろうと率直に思った。
自己肯定感がないからこそ、曰く「愚か」な行為をしているという考えであるのかと推察するが、「自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなたが世界を信頼できる根拠になる」という点では、賛同/肯定をされた時点でその賛同/肯定されたものが、結論として善であろうと悪であろうとその内容はかまわないように受け取られる。
それとも、「愚か」なことであってもその自己肯定感が生まれたらばそれ以降回心できるはずといったようなことなのだろうか、私には少々やはり呑み込めない。
ある層に受けることを言ってしまったらその承認におぼれてしまい、そこから抜け出せないこともあるのではないか、等々考えてしまう。
まあやっぱりよくわからない。
あなたが何かを決めない限り、あなたは誰にもジャッジされることはありません。
あなたは、いつでも世情に合わせて、怒られないための「正解」を選ぶことができます。
あなたは卑怯です。安全な場所で、物事を見定めているつもりになっている自分自身のことを恥じてください。
私としてはここが一番の山場であった。ここで、こばるさんは他者に対して「対立する勇気」求めている。
私はここが一番引っかかった。
「意見を表明する勇気」ではなく、「対立する勇気」であり、「中立」、決めかねるという一つの判断を否定していると思うからだ。
以下は、浅い知識によるものだから、最初に書いたことを思い返して、あまり真に受けないで読んでもらいたい。
私は、この言葉を読んだとき、エポケーという言葉を思い出した。
エポケーは、判断停止や判断中止とも言われる。これは、懐疑的なものの見方として生まれたもので、常識などを棚上げし、事実を見るというようなことである。「これまではそうだった、だからこれからも違いない」ここに対して待ったをかけるようなものと私は習った記憶がある。思考停止とも違うということも。
判断を停止するということは、結論を下すことを中止するということで、こうだった場合にどうなるかといった想定をしてその場合の結論としてはどうなるか、と考えることをやめるわけではない。
判断停止をし、意見表明をしないということは確かに叩かれるものがないという点で「無敵」かもしれない。
しかし、むやみに敵を作るような行為は慎んだほうがよいのではないだろうか。対話が可能と思えないのならば、口をつぐむということも選択肢に入って来るのではないだろうか。そこで人は絶対に意見を言わねばならないというのは酷であると私は思う。
立場を明らかに、意見を表明できないのは、冷笑主義でもない限りそれ相応の判断停止の理由があるのではないか。
または、明らかにするほどのことではないという一種の”判断”でもあるだろう。
ここをおして判断を迫るのならそれ相応の論拠を明確に提示していく必要があるだろう。
また、全貌を知らないままに下した判断には危険性があるのではないかと言いたい。
ヨクシラという言葉があるが、ヨクシラで首を突っ込み盲目的に突っ走るというのは恐ろしいことである。むやみやたらに判断を求めたらいいというものではないと考える。
ただ、これはヨクシラで判断を下し動いている人々に対して判断を下し行動することをやめろといいたいのではなく、その判断に基づいて物事を見ることに固執しかねない、という危険性を留意しておくべきではないかという意味であり、柔軟性があるのなら、意見を表明するという言語化を通して自身の考えをまとめることができ、それを叩き台にしていろいろの人との対話をすることで自身の知見を深めることができるため、それ自体をすべて悪いとは思わない。
これはヨクシラでない人であっても同様のことがいえると思っている。固執することは恐ろしいことである。
そして、これらの話はどちらか、いずれか、なんらかの想定されるコミュニティに与するという話ではないと思う。
私は、「対立する勇気」という言い方にどうしても、二項対立ですべてを説明しようとする姿勢が見えてならない。
人々はそうそう一枚岩ではないだろう。学校のクラスの分裂ですら、賛成反対と大きく分けてみた中をのぞけば、容易にその中の分裂が見える。
「有力な参謀」という言い方も、ある組織構造を持った何かを想定しているように思える。
ここ以降は、声を上げるリスクについての説明などで、黒人の男性が黒人の若者に対し言っていた言葉を彷彿とさせるものだった。
以降に関しては特に思うところはない。しいて言うなら、「数は力」という言葉と、黒人差別を意識させること自体だろうか。(全体な気がしてきた)
「数は力」に関しては正当性があると思ってのこの書き方なのかもしれないが、それはマイノリティマジョリティの流動にしかならないのではと思ってしまう。
数は結果であることが望ましいのではと、素朴に思う。まあ、綺麗事なのはわかる。正当に数を得られるように頑張ってほしいものだ。
政治について学んでおらず、社会学に関しても知見が浅いので、これは当たらないかもしれない。(田中角栄しかでてこない程度の知識である。)
黒人差別を意識させる書き方をしてることが引っかかるのは、これは黒人差別と同じものではないからだ。
差別だって犯罪だってそう名のつくものは悪いものだ。だって、リンチで差別で犯罪だから。ネットリンチを批判することに是非は問われないだろう。
ただ、ネットリンチというレッテルを誰か他者に貼ることはどうだろうか。
私は、この悪者としてのレッテルを他者に貼ることが端的に言って怖い。
これを叩かれるのが怖いということだとは勘違いはして欲しくない。
ここでは、叩かれることは問題ではない、他者にレッテルを貼ることが問題なのだ。
その時周りなどは関係ない。私とその人との問題でしかない。間違っていた場合のことを考え、極力それをしないように努めなければならないと私は考える。気分としては推定無罪、のような感じだ。自分が責任を取れないと思うから、責任を持って私はどちらに加担することもしない。
誰かが言ってるから、そんなことで自分の行動を決めてはならない。
こばるさんのこのブログ記事は、前提がもう、ネットリンチというレッテルを誰かに貼っている。
想定されているだろう個別具体的な人々はいるのだろうが明確にはされていないから、私にはわからない。ネットリンチは無くさねばならない。
たしかに当該の方にネットリンチと(法的、公的に)されることをしている人はいるのかもしれない。
それならば、その人は然るべき罰を受けるべきだ。
私もそのネットリンチをしている人々に対してのみに当てられたものだったら特に何も言おうとは思わなかった。
しかしこの記事では、ネットリンチとこばるさんが思うものについて、ネットリンチだと断定しない人間(中立)への批判がされていた。
私はそこにとても引っかかりこんな長文乱文を迷いながら書いている。
繰り返しになるが、ネットリンチだと判断するのは、ネットリンチを批判するその個人がしなければならないと私は思う。少なくとも、公的な場で決まりきっていないなら、そうなる。
それはしかし、「どう見ても正しさの欠片もないもの」と「正しいけど程度として問題があるように思えること」など、いろいろなものがあるのではないだろうか。私刑は正しいことではない。
少なくとも私は、ネットリンチというレッテルは、どこまでいったら貼って良いものなのかの知識はない。
こばるさんはそのような発言をして批判をするのなら、せめて、明確にネットリンチがなされていると自分が思う根拠を示す必要があったのではないかと思う。
しかし、黒人差別と同等なほどに、誰がみても、正当性を持って、ネットリンチと言えるものなのだろうか。こばるさんがネットリンチだと思っているものは。
ネットリンチというレッテルを使わずに、自分が目に余ると思う行為をしてる人たちについての問題提起をするということだって、一考の余地はなかっただろうか。ネットリンチとされなくても、人道的に嗜められるべき行為などはある。
私は少なくとも、一連を見てて何に義があるかというのは、簡単に言えるものではないと思っている。
いろいろなひとがいろいろなところでいろいろのスタンスで話してるのを見かけるからだ。
そこまで注視してない私ですら様々な意見を目にするのだから、もっと様々な人がいるだろう。
私が見てる中にも、見てない中にも、ネットリンチに当たる行為があるのかもしれない。
ただ、私は誰かから困っていると言われたら、然るべき対応を、としか言えない。
手に余ることをするのは、無責任だ。
デマの流布をしないことが、一番私としては誠実な態度だと考える。
こばるさんの想定には私のような問題を外部から眺めている人間などが入ってないのかもしれない。ただ、この書き方はあまりにも広範な人を巻き込んでの批判ではないかと思う。
後半の論調的にはネットリンチに気づきつつ口をつぐんでいるサイレントマジョリティーを想定されているようにも感じられたし、基本的にこのブログ記事は、正義は我にあり、と信じて書かれているように思われる。
なので、正当な判断をしたらきっとこばるさんの側につくとこばるさんは信じているのだろう。
個人的には、正義は我にありと信じてやまない、揺らがない態度というのは、少々怖いものだと思う。
たとえ考えが変わらなく思えても、問い続けることは大事ではないだろうか。
乱文なので、また編集をすると思います。ここまで読んだ人がいたら、お疲れ様です。文意通らないとこあるかもだけど許してちょんまげです。
頓珍漢なこと書いている気もするけど、暫定的に。
現在、過去最大級に理不尽で無茶なユーザーに当たってしまって、軌道修正不可能で最終納期が近付けば大炎上間違い無しのプロジェクトを担当しているPMだ。
なのに、顔を合わせる度に妻がしょうもない悩みを相談してきて辛い。
運転中にこんなことがあって怖かったとか、幼稚園の○○会の係になって気が重いとかそういう内容なのだが、世間話やグチの類ではなく、しくしく泣きながら真剣に相談してくる。
無碍にもできないので、うんうん、と言って聞くのだが、
正直こっちはそれどころじゃないんだわ、そんなしょうもないことで悩んでんじゃねーよ、あーあ、わざわざ早く帰ってきてなにやってんだ、こんなことやってる間にあの件対応しとけばよかった、
とか思っている自分がいる。
要するに、具体的な態度でも精神的なスタンスでもよいので、自分に余裕がないタイミングで、大切な人からしょうもない相談受けた時に、皆がどう対処してるか教えて欲しい。
可愛い女の子が目的でゲームをプレイする1人のオタクの答えとしては「否」である。
が、プロデューサー(アイドルマスターを嗜む人の呼称)(言ってしまえば内輪ネタ)の答えとしては「悪になりかねない」である。
(この文章内では「容姿、ないしは言動が好み」の意図で「可愛い」という単語を使用している。これは決して女の子はフリフリ可愛いものを着なくては、といった女の子らしさの強要ではない。
また、「絵アド」も担当イラストレーター等は関係なく、いかに描きこまれてるかのクオリティーに関するものとする)
アイドルマスターシンデレラガールズ(以下デレマスと略)、そして派生アプリであるスターライトステージ(以下デレステと略)をご存知だろうか。
モバマスはその名の通りモバゲーで展開されており(運営より更新縮小が告知されているが、新カードやイベントの更新は続いている。ガチャに関してはデレステからのカードが流用されていることも少なくない)、そこから「音ゲー」として開拓されたアプリゲームである。
アイドル総勢190人の3Dモデルが用意され、楽曲に合わせて踊らせたり個人のカードを育ててアイドルの一面を知ることができる。
元の「アイドルマスター(以下アイマスと略)」シリーズが有名なのもあって、いわゆる美少女動物園コンテンツの中でもかなり大きい部類だといっていい。
キャラクターを売りにした基本無料アプリゲームの宿命、ガチャシステムも勿論搭載している。
250個の石で1回、2500個の石で10回連続で回せる。10回連続で回せばSRというレアリティのカードが1枚確定。
しかし有償で購入した石ならば60個で1回回せる。(1日1回限定ではあるが)
そういったゲームでは最上級のレアリティSSRがだいたい必須になり、インストールしたユーザーのだいたいがリセマラ(目当てのカードが序盤で出るまでインストール⇔アンインストールを繰り返すこと)をする。
一般的に想像される「キャラクターがたくさん出てくるゲームのガチャ」だろう。
皆が求めるSSRにも実は分類がある。
そのうちの片割れ、恒常SSRは「いつでも出てくる」SSRだ。追加から数日間だいたいピックアップされ、その期間が終わると確率は他のSSRと同じになる。
上記の恒常と異なるのが限定SSRだ。追加から数日間ピックアップされるのは一緒だが、その後はガチャから出なくなる。とはいっても、一定期間経てば期間限定ガチャが再度設置&ピックアップされることが多い。
限定SSRが追加されるガチャは定期的に開催され、その度に対象となったキャラクターを好きなユーザーは喜んだり爆死(ガチャ用の石を使い切っても目当てのカードを引けない現象。基準は人それぞれだが一般的に有償石を購入→購入分をすべて投入するも出ない状態をさす)して涙で枕を濡らしたりするのだ。
たかがカードに、とアプリゲームや課金行為に思う人もいるかもしれないが、デレステのSSRは特定のアイドルの3Dモデルに特別なドレスを着せられるようになるのだ。デレステの醍醐味といってもいい。可愛い子のカードに、その子だけの可愛い服を着せて踊らせる。可愛い子が好きなオタクとしては垂涎ものだ。
とあるタイミングでスターライトステージのガチャ回数に上限が設置されてからは決定的な爆死もかなり緩和された。
さて、本題。
2020年のブライダルテーマガチャで、とあるキャラクター3人の新たな限定SSRが追加された。
メンバーは黒埼ちとせ、川島瑞樹、イヴ・サンタクロースの3人である。
限定ガチャは話題性が強く(人は期間限定という単語に弱い)、イラストに気合が入っていることも多い。季節モノであれば花びらが舞ったり、海が抜けるような青空を反射している。1枚の絵として見たときに「特定のシーン(季節と場所が組み合わさって特別感を演出している)」であることを連想させるものがほとんどだ。
ブライダルテーマである。「俺の嫁(古い表現にはなるが)」という観点でアイドルを愛するユーザーも少なくはない。むしろアイドルの中でPラブ勢(ユーザーの分身である作中のプロデューサーに想いを馳せているアイドル達のこと。もちろんあくまでビジネスパートナーとしての関係を望むアイドルも多くいる)が今か今かとチャンスを狙っているといってもいい。
そんなユーザーにとってもアイドルにとっても関心が集まりやすいブライダル限定ガチャのラインナップが物議を醸した。
メンバーのうちの1人、黒埼ちとせの絵アド(同じレアリティ、性能である場合かなりの確率で絵が上手いほうが好まれる。これはデレステに限らない話)が異常に高いのだ。
よくあるアプリゲームらしくカードにはイラストが2種類用意されており、デレステでは強化前を「特訓前」・強化後を「特訓後」と呼ぶ。
現在音ゲープレイ時の編成表示は特訓状態に依存している為、結果的に特訓後のイラストを見ることの方が多くなる。尚、アルバム機能以外ではアプリ内ホーム画面に固定して表示することもできる。
イラストは大事だ。自分が元々好きな子なら大体可愛く見えるというのも勿論あるが、せっかく新しいカードが発表されるのであれば純粋に可愛く描いてほしい。その子だけの表情で、その子だけの特徴を活かした綺麗な1枚がほしい。
そう、絵アドは大事なのである。絵アドが高いに越したことはない。まず好きな子の綺麗な絵が見られることが嬉しいし、好きな子が周りから「可愛い!」と褒められたらそうでしょうそうでしょう、この子とっても可愛いんですよと誇らしい気分になる人も多いだろう。
では今回一部で話題に"なってしまった"黒埼ちとせの絵アドも同じように捉えていいのか。
問題になってくるのがまさかの「デレマスというコンテンツのスタンス」そのものなのだ。
現在190人のアイドルを擁するこのコンテンツの売りであり異常でもある(自分はそう思っている)のが「誰もがシンデレラになれる」というテーマである。
どんなジャンルでも大抵「最推し」という文化があるものだが、デレマスはそれを越えた「シンデレラ」にすることをユーザーに委ねている。
ステージもアイドルもこちらで準備できています。あとはあなたがどの子に声をかけるか。そういうストーリーがまずプレイヤーに課せられるのだ。顔はもちろん体型も趣味も違うアイドルのうち、誰をシンデレラにしたいのか。ガラスの靴を履かせて、舞踏会で周りの人が皆見惚れてしまうぐらい輝かせたいのは誰なのか。
プレイヤー(プロデューサー)はそのうちから1人(場合によってはそれ以上も)の手を取り、ともに歩みだす。
同時期に同じ目的で作られたイラストを複数を並べたときに1人だけ異様に絵アドが高いというのは、定食屋のメニューみたいに「おすすめ」とか「人気」とかを公式自らつけているようなものだ。結果、「誰もがシンデレラになれるんですよ」というコンテンツの売りが死ぬ。
勿論大人の事情もあるだろう。たまたま特定のアイドルをおすすめしてしまうことになる可能性だってある。偶然が重なった結果なら仕方ない?
仕方ないとユーザーが擁護してしまった瞬間、皮肉にも守りたかったはずのコンテンツの売りが死ぬのだ。お金が関わるから、今が時期だから、太客がいるから…そういった擁護は「誰もがシンデレラになれる」と売るコンテンツに対してのある種の冒涜とも言える。
「誰もがシンデレラになれる」を売りにしている以上、そもそもユーザーに「キャラクターAに与えられたチャンスが他のキャラクターより優れている」と気付かせて(言わせて)はいけないのだ。「誰もがシンデレラ」ならユーザー(から選ばれたアイドル)に与えるチャンスそのものが等しくないと成り立たない。
もしコンテンツ側から「公式側の推しとお前の推しで殴り合うゲーム」と明言されていれば公式が特定のアイドルを優遇しても理論上は問題ない。道徳とかそういうものは問題ありそうだが。
だがデレマスならびにデレステはそんなことは言ってくれない。あくまで「誰もがシンデレラになれる」、希望に満ちた世界観なのである。これは一周回って残酷と捉えていいだろう。
さて、ここまで読んでくれた人は「同じ限定ガチャで1人だけ絵アドが高い」という現象について改めて考えてほしい。
公式やこの文章そのものに文句がある人もいるだろうし、渦中となった限定SSRの黒埼ちとせを擁護したい人もいるだろう。その行動が完全一致することよりも、言葉の行き先に意味はあるか(何の歪みが原因で騒ぎになったか自分なりに理解しているか)を重視する方が自分は大切だと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20200530164357
そこの学生君!年収1000万でも贅沢で優雅な暮らしができないのなら、その半分以下の年収の人間(雑にググったら日本の平均年収が420万、中央値が350万くらいらしいぞ!)がどういう生活か気にならないか?
「年収1000万なんて全然生活ラクじゃないっすよ~」という上流階級の無自覚な自虐自慢に歯ぎしりを覚えつつ、今日は中流階級の生活レベルの実際を教えよう。
31歳男、独身、関西在住、去年の年収420万ほど。400万も420万も変わらないのでこれは誤差だ。今年はコロナの影響で賞与激減だから300万台いくぜ!
なお年収400万未満の方にとってはマウンティングなどと言われるかもしれないが、そんなつもりは全く無く、
キッチンは激せまで、キッチンの横にカラーボックスを置いてキッチンに置けるものを拡張しないと何もできない。コンロは1口。というかそもそも自炊はしないほうがいい。後片付けやかかる時間を考慮したら、自炊は金持ちの道楽だということがわかる。
定時退社して少し家でだらだらして7時くらいにスーパーに行ったら惣菜が半額になってるので、基本的にそれを食っている。
窓から綺麗な夜景が見れるとかも無い。シャンデリアももちろん無い。
吉野家とかコンビニ飯、ラーメンなど。俺も年収1000万の人と同じものを食っている。親近感わくな!
安いスーパーの売れ残った激安弁当とかは食っている。平日は基本的にそれ。俺が食にあまり興味がないからかもしれんけど、これで苦痛はない。
年に一度高校の同級とか数人で飲むときは、さすがにそこには行かないけど、まあ一人あたり5千円くらい。
焼き肉も勿論行くけど、一人あたり1.5万円は行ったことないですね。牛角とか、地元の焼肉屋でひとり1万円いかないくらい。
食に興味がないのか貧乏舌なのか、飲食店はそこまで高級店は行かない。
基本的に飲み放題の店ばかりなので、そういう意味では値段を気にせず飲む。
俺もコンビニやスーパーは値段を気にせず買っている。というかコンビニに売ってるものなんてたかが知れてるし。
ユニクロ。
街コンとか、趣味のロードバイクのオフ会とか、出会い系でやってる。
基本的に趣味の集まりに行くようにしてて、どちらかというと話がある人に会いに行ってるというスタンスで遊んでるので、あまり「カネ目当ての女性」に出会ったことはない。
女性との飲食代は、基本自分持ち。でも趣味のイベントとかは割り勘というか、女性は女性で買いたいものがあったりするので、当然会計は別。
タクシーは使わない。
読み返してみたら年収1000万の人とたいして生活変わらなくない?と思っちゃったけど、でもたぶん固有資産で差がついてる。俺はドラム式洗濯機もルンバも大きな冷蔵庫もソファもダイニングテーブルもないけど、たぶん1000万の人はそういうの持ってるよね…?あと貯金額もぜんぜん違うんじゃないかな。俺貯金ほぼないよ。
まあ東京は家賃高そうだし、あまり中流と上流の分断を煽るようなこともしたくないので、それぞれ生活が大変ってことで。
まあ当然だけど、年収1000万でも豪勢な生活ができないのなら、年収400万なら言わずもがなで。
「今の資本主義=新自由主義資本主義」が間違ってるからなんだわ。国が何もしないのが望ましいというな。
労働者は景気が良くて労働需要が高い時に強い立場になれるぞ。人手不足倒産の懸念を通じてな。
それには国が金を回すように誘導して景気を良くしないとならない。
国が金を回すというのはケインズ社会主義であり、1980年代以前の高度成長期の日本の経済スタンス。ケインズ社会主義をやめたのと、新自由主義が一度大規模経済危機を起こしたら長期不況を作るだけの存在だから格差が開くの。
よく知らないけど元増田のみなさんが思うほどゼイタクな生活してませんよ的なスタンスが鼻についたのでは?
家賃が15万円で1DKかつアパートって高杉〜だし、1回の飲み代が1人1万円も高杉〜
元増田は成城石井がゼイタクだと書いておるが、成城石井の生クリームメロンパンの方がナンボもお得。うまいし
カッチンときたトラ増が
おめぇ・・普通だゼイタクしてねぇって言ってけっど、だったら年収350万円の生活してみろよ
マスクなんてなんの効果もねーよ本当に日本人はバカだな、と、長年考えてきたが、この度のコロナ騒動を見てるうちに考えを変えました。案外意味あるんじゃなかろうか。
NATROMのブログ20200327:布マスクはないよりマシなのか?
http://natrom.hatenablog.com/entry/2020/03/27/111040
「症状のない人がマスクをしてもよいと個人的には考える」何故なら「たとえば満員電車内において、マスクも何もしていない目の前の人が咳をするかもしれないのだ」とある。
自分から人に移すことを「加感染」、人からもらうことを「被感染」と呼ぶとしよう。NATROM氏は「マスクには(場合によっては)被感染抑止効果がある」と考えていることになる。同時に「マスクも何もしていない目の前の人が咳をする」のはヤバイ、との記述から、「マスクには加感染抑止効果がある」と考えていることも明白だ。つまりNATROM氏的に、マスクには相互感染抑止効果があるのだ。
にも関わらず、何故かNATROM氏は、マスクに否定的なスタンスを崩さない。効果も考えられるがデメリットもあるでしょ、と記事は続き、「マスクの外側は汚染されていると考えるべき」なので、「無意識にそこを触ると手も汚染される。その手で物体表面を触れば汚染させるし、鼻や口をマスクでガードしていても目をこすれば感染する」という。この「と考えるべき」と、「かもしれないのだ」の使い分けがよくわからない。
A:満員電車で目の前の人が咳をするかもしれない。
マスクの外側は汚染されていると考えるべき。
B:満員電車で目の前の人が咳をするかもしれない。
マスクの外側は汚染されているかもしれない。
C:満員電車では目の前の人が咳をすると考えるべき。
マスクの外側は汚染されていると考えるべき。
D:満員電車では目の前の人が咳をすると考えるべき。
マスクの外側は汚染されているかもしれない
という4通りの順列組み合わせがあり得る中で、どうしてBCDは却下され、Aを採用するのか。「マスクなんて大した効果あるわけねーじゃん」という思い込みを守りたい、という以外の理由を、思いつけない。
ついでに言うと、「マスクの外側は汚染されていると考えるべき」だとすれば、マスクしてなかった場合には「口や鼻の周りの皮膚も、唇も汚染されていると考えるべき」なわけで、比較的にどっちがヤバイかと言ったら後者じゃないだろうか。
横だけど便乗
増田ブクマカの人。たまに増田をセルクマしているのを見かける。
IDの由来はよくわからないけど6つの金貨とかそんな感じだと思う
(はてサと呼ばれる人たちとよくやりあっている)
結構右寄りと思われる。一歩引いたスタンスでブコメに言及することが多い
メタブで大暴れする人。
政治やジェンダーの話題では異様な存在感を放っているけど他の話題ではそうでもない。
たまにとんでもなく雑なコメントをするので印象に残っている
たとえばタイトルの通りの問いかけをされたとしたら、工藤忍Pならきっと大多数が
「そうだよ!!!」
と答えるだろう。
彼女は今流行りのりんごアイドルが当時するよりずっと前から「りんごアイドル」だったと。
モバマスのエピソードはもとより、デレステでもハッピーマジシャンなどで十二分にアピールされている。
では、他のPもその通りなのだろうか。
デレマス界隈には「りんごアイドル」が"2人"いると、そう広く認知されているだろうか。
その答えは、もしかして『NO』かもしれない。
そう思わされてしまったのは、ニコニコ大百科での工藤忍掲示板でのことだ。
当該掲示板は荒れに荒れ、ついには書き込みは課金者限定となってしまった。
それでも工藤忍Pを、ついには忍自身を批評する声が書きこまれるということには、どうしても来年以降の総選挙での明るい展望を見出すことはできない。
そんな流れの中で一番気になることといえば、工藤忍の「りんごアイドル」への否定である。
彼女は「りんごアイドル」として全てにおいて大成功をおさめてしまったばかりに、同じくそれだと主張する工藤忍への叩き棒として利用されてしまっている。
とはいえ敵対する主張のすべてが的外れではなく、むしろ一部工藤忍Pの言動への非難には正論もあった(とはいえ過剰な人も見受けられるが)。
そしてこの流れの中で、明確に悟ったひとつの大きなズレがあった。
まず相手の想定する「りんごアイドル」とは、新アイドルの子1人のみである。
生産量は青森には到底及ばないマイナーではあるが、だからこその強みが動画ブームにより掘り出され、遂には工藤忍にはない"声"を得た。
そしてそれを持ち上げている側は、工藤忍を「りんごアイドル」ではないという。
実家はりんご農家というのは工藤忍Pの憶測であり公式設定ではない。
それが反工藤忍P達の答えだ。
私は工藤忍は「りんごアイドル」だと思っているし、こういった声は多数派ではないだろうと考えている。
そう考えているのだが、最近どうしてもその考えに自信を持てなくなってしまった。
Twitterで工藤忍を「りんごアイドル」と言っているのも、実家がりんご農家だと言っているのも、思い返せば工藤忍Pやその周辺ばかりだった。
そして今入ってきている動画ブーム経由のP達にとっての工藤忍の認知度も怪しい。
彼らの「りんごアイドル」とは新アイドルのあの子であり、しかも工藤忍がその流れに絡んでいたのは初期になるので、もしかして彼らは工藤忍のことを忘れている(もしくは忍が出てこなくなってから動画にハマった)可能性はあるかもしれない。
つまり今工藤忍は、大多数にとっては「りんごアイドル」ではない可能性がある。
今は(まとめブログの影響とはいえ)工藤忍P全体にあらぬ目が向けられている最中であり、そんな中で工藤忍を「りんごアイドル」扱いをしてしまったら、それだけで白い目で見られるかもしれない。
実際、実家をりんご農家扱いすることには一部反発が見られるし、確かに実家がりんご農家とする根拠には公式は薄いのは確かだ。
それでも私は工藤忍を「りんごアイドル」とは思っているが、今後そうではないという見方が主流になることも想定しなければならない。
だから私はこれからは、工藤忍を「りんごアイドル」と人前で言い切る前に、相手がそう思っているのか?というスタンスを見極めてから言おうと思う。
ここ一週間ぐらいどうにも気力がなくなった。
夫婦住み、夫は会社員、自分は自営で自宅作業なんだが、夫がコロナで4月から在宅だった。
在宅って言ってもその間ほとんど仕事はないのでダラダラ過ごす。
本人もイライラしているようだけど何かを積極的にやる様子はなかった。
っていうか何をやっていいのかわからなかったのかも。
夫も私に対してストレスが溜まってたんだろうな。(いや今もか)
共働きなので家事はできる人がやるスタンスなんだが、そういう状態の自分ばかり家事をやるのが不満だったよう。
私が「今手が空いてるからやってくれて当然」と思ってるのが自然に態度に出ちゃってただろうと今にして思う。
まず常に家にいるのに気を遣う。
家にいてくれるから自分の仕事がすっごい捗るってわけでもない。
気を遣うから夕飯も早い(夫は早く飲み食いしたいと思ってる)。
もっと仕事をしていたいのに気を遣って早く仕事を終了することにもイライラ。
犬がいるから朝早く起きて散歩に行って欲しいのに(いま暑いし)、朝起きてくれなくてイライラ。
でも私が早く起きていこうとすると「俺が行く予定だったのに」と怒り出す。
そんなこんなでようやく来週から会社に行ってくれる目処が立ったわけだけど、
ここ一週間ぐらいちょっと鬱っぽい。
無気力な感じ。
コロナはマジで怖くて、ちょっと体調に異変があると感染したかなという恐怖。
東京から出れない、どこにも行けないというのは自覚してなかったけどストレスだったのかも。
思えば毎週末、どっか行ってたからなー。
https://note.com/komatsuna777/n/n1d69e89f8c59
なんか上の記事で(長いので全部読んでないけど)NL(ノーマルラブ)って呼び方は差別だってあって、よくわからんかった。
俺は同性愛はノーマルかアブノーマルかでいうと、アブノーマルだと思うけど。
一応用語の説明をしとくけど、「ノーマル」は「正常」とかいう意味で、「アブノーマル」は「異常」とか「正常でない」という意味で俺は使っている。
何をもって異性愛がノーマルで、同性愛がアブノーマルなのかという話だけれども、人の自然交配が男女の組み合わせだからだと考えている。俺ら人は雌雄同体のウミウシでもなければシダ植物でもないので、人は男女の組み合わせで生殖活動するのが生物としてのノーマルだろう。
「雌雄同体の生物もいるのだから、異性愛が『ノーマル』とは言い切れない」という反論があるかもしれない。けれど俺は人間の話をしている。ウミウシにとって同性愛は「ノーマル」でも、人にとっては違うだろう。
だからといってアブノーマルを差別しろとか、迫害しようってわけでもない。好きな生き方をしてもいいし、人の恋路や生き方にとやかく言う気はない。BLの同人誌書けばいいし、誰と誰のカップリングでオナニーしようが、その人の勝手だろう。
「男が男を好きになろうが、別にいいんじゃない?(まあ変だけど)」というスタンスである。
そもそもすべてにおいて「ノーマル」なんて人はいない。同性愛はもちろん、先天的にも、後天的にも「障害」を持つ人がいるだろう。指が4本しかない人や、目が見えない人。これらは人としての本来の機能として「正常」ではない。が、だからといってなんだというのだろう。正常ではないからと言う理由で迫害を受ける謂れはないし、多様な生き方は許されるべきだ。社会はアブノーマルを受け入れるべきだ。俺だってロリコンだし。
しかしノーマルかアブノーマルかでいったら、「アブノーマル」だろう、という話である。同性愛も、指が4本しかない人も、目が見えない人も、ロリコンもアブノーマルだ。
正直言って、「アブノーマルをノーマルの仲間入りにしろ」は、言葉遊びにしかならないのでは?
たとえば同性愛をノーマルの仲間入りにしたとして、子供ができますか?という話。「子供を作らない選択肢もある」という話ではなく、「iPS細胞でいつかできるようになる」という話でもなく、「自然交配で作ることができるか?」という話である。可能か不可能かの話である。生物は生殖活動ができるのがノーマルなので、それができないのはアブノーマルだ。いくらノーマル呼びにこだわったところでだ。
異性愛でも子供ができないという人もいる。それもアブノーマルだ。ちなみに俺は精子が少ないと言われたので、病院に通っている。多くの人は病院に通わなくても子供ができるだろうけど、俺は精子の量や活動が「異常値」なので、通院しなければならないってわけだ。
もし俺が「あなたの精子が少ないのも、別に変なことではなく、ノーマルですよ」と言ってもらえたところで、「は?」という気しかしない。
「アブノーマルでも受け入れられる社会」と、「アブノーマルをノーマルの仲間入りにする社会」では、全然意味合いが異なるのには注意したい。
前者はアブノーマルはアブノーマルのまま受け入れられるのに対し、後者はアブノーマルにノーマルの機能を要請されかねない。あるいはノーマルの再定義が必要になる。そんなのめんどくせ。俺は受け入れられてさえいれば、アブノーマルのままでいいんだよ。
もしかして「普通」という概念をなくそうとしているのだろうか? たしかに普通という概念がなくなれば、すべてのものはありのままにだけども、やっぱり言葉遊びの域を出ないのでは?
個人的には、現状は男性向け>>BL>夢>CPなし年齢制限なし>女性向け男女CPという認識。BL>CPなし年齢制限なし>男女CP≫夢のところもある場所もあるだろうとも思う。育ってきたジャンルで認識は大きく違うという感覚。男性向けと女性向け男女は違う印象。BL夢(男主)は観測範囲外のためよくわからないが、女主夢やBL、男女よりは下になる認識。感覚としてはCPなし年齢制限なし以外どこも殴り合っているため、きれいなヒエラルキーとは言い難いと思う。GL(百合)はよくわからない。属性としては女性向け作品によく入り浸っていて、男女が基本的に好きな夢やBLやGLもものによってはいけるタイプ。BLとGLだったらGLの方がよく見る、夢はCPなしのようなものの方が好き。乙女ゲームだと自分としてプレイするのではなく、ヒロインと攻略対象をヒロインの体からのぞき見する感覚でプレイする。プレイヤーがコントロールできる少女漫画として楽しんでいるともいえる。2010年くらいから同人を見るようになって、途中でpixiv一本になったROM専。認識にはpixivやツイッターの存在が大きい。
1、BLについて。乙女ゲームがきっかけで二次創作を知り、同じサイトで扱っていた少年漫画ジャンルも割と見るようになったりと同人サイトに入りびたりになった。乙女ゲームなのに攻略対象者同士のBLを見つけてしまったり、女性向けゲームの雑誌でBLゲームコーナーが多いのを知るなど個人サイト時代からBLの存在は知っていた。乙女ゲームがきっかけでpixivを知り、入り浸るようになった後に某少年漫画が流行し、ハマった。女性ファンばかりなのもあって、二次創作を見るとBLが圧倒的だった。主人公とヒロインにも萌えていたが、BL作品や作者に比べると圧倒的に少ないと感じた。それからというもの女性ファンが多めのジャンルだと、元がなんでもBLばかりで検索除外しようにもCP名しかつけてないのもあったり、女キャラをBLのために雑なキャラ崩壊させるのが多かったりするというのが閲覧者として多く感じた。原作での女キャラとの恋愛描写に文句を言ったり、想定以上の女キャラへのヘイト感情が高かったり、BL以外のCPにマウントしたり、単語の意味を乗っ取ったり、ネット上で暴れたりする人などマナーが悪いなと感じることや、それへの全体的な対処の雰囲気がないように感じた。おそらく人数が多いからマナーが悪いままの人もいるとは思うが、人数が多いからこそBLのヒエラルキーはかなり高いという認識。
2、夢について。個人サイト入りびたり時代に面白いと感じる夢にも出会えたが、ヒロインの存在乗っ取り系夢、年齢制限物でキャラ崩壊が過ぎるという夢もあった。利用していたサーチでは非ヒロインものが感覚としては多く、実質のところは夢の方が男女よりも多いと感じた。pixivを利用してからは夢に出会うことはなかったが、2015年の刀剣乱舞リリース以降よく見るようになった。夢とBLとのすみわけ論争が刀剣乱舞では起こり、それを見てBLは夢よりもヒエラルキーが上なのだなという感覚に陥った。現状では原作での恋愛描写やヒロインに文句を言ったり、ヒロインをうがった目で見たり、原作でのヒロインを無視したり、マウントとったりするなどマナーの悪い人が多く感じた。しかし、BLよりは性質上作者・読者が結びついているという感覚はない。BL夢(男主夢)に関しては非恋愛夢・友情夢を好んでいたために存在は知っているし見たこともあるが、男のオリキャラと原作キャラ(男)との恋愛夢に関しては存在だけは知っている状態。百合夢も最近知ったため、夢の同性間恋愛ものについては女夢主と男キャラとの恋愛よりはヒエラルキーが下という感覚。
3、男女について。ネットで悪名高い少年漫画の男女CPにはまることは少なく、感覚として苛烈ではない性質だと思う人に出会うことが多かった。基本的には公式で描写のある男女にはまることが多かったせいもあると思う。公式で描写のない男女にもはまることは多かったが、①人気があればそのルートが作られるジャンル、②キャラの恋愛描写には決して描かれないジャンル、③公式でフラグは立つものの作者のスタンスが公式化を狙ってないものが多い、と感じることが多かった。pixiv以降ネットで悪名高い男女CPをはじめとする男女CPの人のやらかし(原作メインヒロインアンチ、多方面でのマウントなど)や作品を聞いたり見たりするうちに、男女も性格が悪い人が結構いるのを知り男女CPは完全なるヒエラルキーの底辺とは言えないのだなと感じている。ただ現状のpixivでは夢やBLの人気がすさまじく、観測範囲の男女CPが夢と区別しづらいもの(主人公の個性が必要以上に出せないゲームでの女主人公ものなど)もあり、男女を名乗ってはいるが夢(女キャラの人間性を無視して、男キャラにしか萌えてないように感じるものなど)というものも感覚としてあるため、BLよりは下、夢よりも下という認識。
4、男性向けとCPなし年齢制限ありについて。男性向けは感覚として、オタクのイメージ=男性向け創作となっていると思う。商業的にも同人的にも女性向け作品よりも多大なシェアであるという認識。年齢制限分野の話になるが、性癖が男性向け方面というのを抜きにしても女性向け創作が生緩いものが多く使えないものが多いため、男性向け年齢制限>>>>女性向け年齢制限という感覚がある。女性向けがBL、夢、男女とシェアを複雑にしている中で、男性向けは一つのパイに集中しているという認識。CPなし年齢制限ありは、それ専門でやっている人をあまり見たことがなく、BL、夢、男女の人たちが書いているのを見ることが多かった。BLの人にマウントをとられたり、夢ではオリキャラ無双、男女ではヒロイン総受けの体のいい道具として、使われているのを見た経験はある。寵愛されるのがオリキャラか自分の好きな原作のある一人のキャラかであるという点が違うだけで、スタンスとしては同じだと思う。ただ二次創作が好きな原作を創造して書くものであるため、嫌ったり厭う人は少ない認識。BLが作品・作者・読者ともに多い分、人数差でヒエラルキーは負けるものの、夢や男女よりはヒエラルキー的に上だと思う。
5、GLについて。女性向けジャンル・女性ファンが多いジャンル(男キャラが多いジャンル)によくいるため女性向け百合は全然見ないか、BLのついでの処理の感覚がある。BLの処理とは原作で男←女だったり、まだフラグは立ってない良いなかの男女で、男キャラをほかの男キャラとくっつけるため別の女キャラとくっつけること。女キャラ同士に萌えたわけではないなという作品を見たことがある。BLっぽいということが、人気の要因となったGLCPもあるとは聞いたことがある。百合の意味をBL的な意味(受け×受け)に乗っ取られかけたりするなど、BLよりはヒエラルキーが下の感覚はある。男性向け界隈では、自分以外の同性(男)を見ずに済むためか重宝されているものの、本質としては男性向け男女(自分×キャラ)の代替の場合も結構ある印象。ただ同人作品としてみることは経験上少なく、一次創作のほうが多い。
BL、夢、男女どれかしか食べられない人、萌えるメインが存在する人、全部同じくらいに好きな人と様々だろうし、あるジャンルでBL書いている人が女夢主との恋愛を書いていること、男女を書いている人が女夢主を書いていることを見た経験もあるし、ジャンルによっては違うと思う。男性ファンが多く、女性キャラが多いジャンル(艦これやラブライブなど)だと、BLのヒエラルキーは男女(男性向け女性向け関係なく)よりは下に感じることもあるだろうし、女性ファンが多く、男性キャラが多いジャンルだとこっちみたいに男女のヒエラルキーをかなり下に感じるだろう。グラブルやfgoなどの両性をターゲットにしてどの層にもサービスを行うジャンルでは、ヒエラルキー差は強く感じないこともあるだろう。自分が被害を受けたことは忘れなくても、自分が攻撃をしたことは忘れているため、こっちがメインの男女のやらかしを過小評価、BLや夢のやらかしを過大評価している節も否定できない。