はてなキーワード: スタンスとは
明日5月22日9時から衆議院文部科学委員会で #著作権法改正案 の継続審議。他の重大問題が重なる中 #ダウンロード違法化問題 の本質に踏み込んだ審議もなくそのまま可決される恐れも強い。衆議院ネット中継 -> https://t.co/KR7UOmHamM— 兎園 (@fr_toen) 2020年5月21日
自民案でも問題点があるのは事実なのに野党も審議を深めずにこのコロナ禍で立て込んでいる時期のドサクサに通すって事になるから。
検察法や種苗法みたいに騒がれたら止めて、これみたいに騒がれなければそのままこのコロナの時期に問題があっても通すと言うスタンスは本当にどうかと思うわ。
それとオタクと言うか反対派の人達や山田太郎議員の人達も当時はアレだけ騒いでいたにも関わらず、いざ自民案が出た途端だんまりだし、あの人達に関しても色々な意味でスタンスが見えたと思う。
(ヨ)界隈のリベラルや←に関してはただ山田太郎議員周辺の人達に反発しているだけで実質規制大好きな人達だから論外だけどさ。
このままだと入れる政党なさそうだな(苦笑)
世の中はリソースの奪い合いじゃない、ゼロサムゲームじゃない、みたいに言う人ちょいちょいいるけど、あれが納得できない。
そりゃ数十年単位とか、世代を越えた範囲で見れば人類全体の過ごしやすさは上がってるだろうけど、大体世の中の人はそんな話はしてなくて、一時間後とか来月とか五年後とかの、実生活と繋がってるスパンの話をしてるわけじゃん。
ほんで、そういう時間スパンや、ミクロな個人規模では、そりゃ基本的にリソースは奪い合いでしょ。
手術の順番待ちでどんな人間が優先されるかで生き死にが決まるのに、人類全体の医療レベルはあがって~とか言われても困るでしょ。
スーパーマーケットの棚にどんだけ並べてもらえるかで売り上げが全然変わるのに、棚スペースの奪い合いじゃないわけない。
人材も予算も時間も限りがあるんだから、誰を救って誰を後回しにするかで福祉の奪い合いだ。
テレビの局数も放映時間も番組数も限りがあるんだから、嫌いなコンテンツをどれだけ潰せて好きなコンテンツをどれだけ増やせるかは日々の楽しさに直結する。
まあゼロサムではないかもしれんよ。元の材料以上の価値を生み出せるからな。+15幸福ポイントを取り合うゲームかもしれんよ。+1、+5、-2、+9みたいなゲームかもしれんよ。
それで幸福ポイント+1とか-2とかの立場で満足できますか。私は無理だね。生きてるだけで寿命が減ってく損害を受けてんだから、できれば9点、せめて5点はかき集めたいね。
ある限られた関係においてはたまにwin-winが成立することもあるが、それは麻雀でコンビ打ちやトリオ打ちしたらそいつらは得、みたいな話で、誰かはカモにされてんのよ。
リソースの奪い合いじゃないよって人は、マジでどういうスタンスで言ってるんだ? 他人をカモにするつもりの悪党か、自分がカモと気づかずに仲間を増やそうとしてるしやわせな不幸者か? 好きな作家がろくに広告費かけてもらえず消えていった経験とかがないのか?
自分は年間の支出が200万程度。両親共働きで健在で、聞いたら自分たちの面倒見られるくらいの貯金はあるらしい。
独身だけど、仮に結婚したとしても子供は要らない。マイホームも別に夢じゃない。趣味は読書(図書館派)と映画(Netflix月額1,000円)。
タバコ吸わないお酒飲まないギャンブルしない(投資は年利3%目標でiDecoとかNISAとか活用してるしふるさと納税で豚小間とか鶏ももとかもらうタイプ)、ユニクロで十分だしそのスタンスを見下さない友人に恵まれている。今のところ健康。貯金1,100万+株&投信950万、年収700万くらい。28歳。千葉在住。転職活動中。
次はまったり働きたい。
70のおじいちゃん社長(社内全員が知っている愛人がいて正妻との間の長男が総務部長)と寝て役職を勝ち取る三十路の女(既婚)から夜中にskypeくるようなことのない職場がいい。
年収300万あれば手取り200万は超えて、生活費賄って余った端数を投資して、今ある貯金も300万くらい残してあとは投資にまわして、年利3%でも定年までに1,000万以上は増えるし、大怪我するとか万一のときは家族を頼れるし(情けなくてごめんね)、ゆるーく働いていいんじゃないか。
20代のうちからなにを言ってるんだって思う?いくら必要?どのくらいなにを頑張るべきかわからなくなってしまった。
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貯金があるのは最近まで室内にネズミとナメクジが出るボロアパートに住んでいたからで、収入があるのはラッキーだけど、ラッキーなだけだから転職したら下がるし下がるとしても転職したい職場です。
結果を言えば、私の働き方や仕事へのスタンスからかなり無理があると言える。
そもそも仕事の後に寛ぐスペースに仕事持ち込むのが辛いのと、誘惑が多い。
せめて小さい机でも買って専用のコーナーを作らないと精神的に仕事モードにならない。
書類仕事だけまとめて自宅勤務は2時間だけと言うのも移動時間で集中が切れて効率が悪い。
そして、書類仕事といえども、職業柄(ハードウェアもソフトウェアも関わる)ので、開発品で確認したいことは書類書いてて山ほどある。
会社の中の本業ではない書類仕事の方を固めて実施するしかなさそう。
それでもVPNなしで、あらかじめ会社のサーバーから支給されてるノーパソにデータを引き上げるのもだるい…(これはVPNのライセンスが逼迫してて取得できないため
まず自分は、今回の検事長法改正案は(少なくともタイミングという点において)問題があると思っているし、法改正以前に定年変更を押し通したのは大問題だと思っている。その上で、今回の件に限らない「著名人が政治的スタンスについて表明すること」の是非については、(政治的スタンスが同様の)多くの人たちと考え方が違うのだなと思って、ここで思考を整理させてほしい。(あるいは、いっそのこと論破してくれたら嬉しい)
当たり前だが、個々人の政治的信条とは、右も左もどちらかが一方的に正しい/間違っているのではなく、スタンスが違うことがほとんだと思っている。どちらかが一方的に正しいわけではない、ということは、今回の件とは真逆の政治的思想を著名人が表明しても、表明すること自体は受け入れるべきだと思っている。(あんまり自分の中でダブルスタンダードを許容したくないタチだ)
一方で、正直な気持ちとしては、自分の推しがある日、自分の政治的スタンスとは逆の立場を表明したらすごく悲しい。たとえば、あなたの推しが「検察庁法改正案に興味ありません」ハッシュタグを使い出したらどうだろう?あなたの推しは「確実に自分が好きになるような人だから、自分と同じ政治的スタンスだろう」って言い切れるような人だろうか?
あるいは、近年のゆずにがっかりしたことはなかった?自分は「夏色」や「さよならバス」まで色褪せていくように思えてしまった。
(参考: https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55216 )
別に自分の考えと逆のスタンス表明されるのだけが嫌なわけじゃなくて、結局いつだって、間違っているわけではない逆の立場の人達が、こういう思いをするんでしょって思ってる。
自分の推しに恋人がいるかどうか知りたくないのと同様、自分の推しの政治的スタンスなんて知りたくない。恋人いることを表明しながらデビューするような手法をとってくれればいいのかな。それともファンが、政治的スタンスと、その人を推したい気持ちを、切り離して考えていけるようになるべきだろうか。政治発言の多いアメリカの有名人ファンとかどうやってんだろ。
別の観点として「"不勉強なことを語るな"と言うべきでない」という風潮もあるけど、たとえば、不勉強なまま医療についての発言をされるのは完全に害悪では?それは命が関わるからだろうか。ただ、政治だって(少なくとも)中長期的には自分たちの命を左右するものでは。というわけで不勉強を自覚するのならば、下手に影響力ある人が政治を語るのは正直やめてほしいと思っている。
確かに「政治を語るな」を個人に押し付けるのは良くないと思う。というわけでなるべく誰かに押し付けずに済むよう、ここに書きにきてしまった。また、「政治を語ってほしくない」というこの文章も、結果として一つの政治観を語ってしまってるのだが、自分の人格と切り離してそれを語れるこの場所があってよかった。きゃりーぱみゅぱみゅも増田に書けばよかったのにねって思っちゃう。
http://blog.livedoor.jp/tokyolaw/archives/1077404701.html
ネットにおける検察庁法改正案反対運動の動きは目覚ましいものがあり、どうでもいい問題と思っていた私としても意見を変えつつある。世間の状態や政権不信があると、こういう技術的なものに近い話が、特に興味を持たない、何となく怖いと思っているだけの人々をここまで大きく動かせるのだと、率直に恐怖に近い感情を覚えた。専門家からの指摘についても、良いものもあるが、上記の東京法律事務所の記事は法案反対・現政権批判という色が強く、ややバランスを欠いているように見える。
この件については、既にバズっているとんふぃ氏のまとめが比較的中立でわかりやすいが、少し専門性が強く読みづらいかもしれない。ちなみに、別にとんふぃ氏は改正賛成はではなく、どちらかというと反対に近いように見えるが、本当の問題がどこにあるのか、という点から、網羅的・中立的にまとめておられる。
https://note.com/tonfi/n/n95a2265c6273
また、慶應義塾大学大屋雄裕教授のTwitterも参考になる。
https://twitter.com/takehiroohya?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
こういった良情報があり、注目を集めてもいる状況がありながら、東京法律事務所の記事が分かりやすいと賛同を得る状況を見るに、内容面への理解というよりは、現政権はおかしい!何か危ういことをしようとしている!というスタンス・危機感に合っているかどうかが重要視されるようになっているのではないかと感じている。
こういうときに、上のお二人には到底及ばないが、少しでも落ち着いて考えるように促す投稿が別途あっても良いかもしれない、というのがこの投稿を書いている動機である。
本改正案は、細かいところを捨象すると、①検察官全体の定年を63歳から65歳に引き上げる、②一定の役職については役職としての定年を63歳(現行法の通常の検察官の定年と同じ)にする(=その後は平の検察官に戻る)、③一定の事由がある場合、内閣によって②の役職の定年や①の検察官としての定年を延長することができる、という3段階の制度を設けていることは広く知られていると思う(ただ、ここは、役職等により色々な条項が入り乱れており、ざっくりまとめれていることがほとんどであるため、理解をしにくくしている点かもしれない。)。
このうち、問題視されている③について、私は、特段必要性がないと思っていることが反対の理由である。三権分立というような大上段の話ではない。
①については、公務員全体の定年引上げという中で、そこと揃えるのであるから、特に反対する理由は思いつかない。ここについては、東京法律事務所も問題ないとしているので、特に取り上げない。
②についてであるが、高齢化社会において定年の延長という社会全体の趨勢があるとしても、トップやそれに近い要職に高齢者が就いているという事はあまり好ましいものではないと考えており、私としては問題がないものと考えている。ここも、東京法律事務所の記事で特に反論されていないのでこれ以上は触れない。
③については、例えば民間企業等において、優秀なトップに引き続き職責を務めてもらいたい、というような理由で高齢の方が一般の定年年齢を過ぎた後も働くということは往々にしてあると思われ、規定の趣旨としては理解できるものである。ただ、そのような能力があると言えるかどうかの検証は困難であると思われ、実際には、政治力等々、様々な事情の絡んでくる話になるだろう。とすれば、②の趣旨を貫徹し、一律新しい風を吹き込むべきであるというのが私の見解である。この辺りは、各人に考えの違いがあるのではないか。ただ、それは、定年という制度への考え方についての話であり、三権分立がどうとか、現政権の陰謀というような話にはならないだろうし、これほど世間が大きく盛り上がるような話でもないと考える。
2.三権分立について
何故、私が、今回の件について三権分立と関係しないと考えているかという点だが、これも散々に指摘されているところではあるが、そもそも、現行検察庁法上、「検事総長、次長検事及び各検事長は一級とし、その任免は、内閣が行」うものとされていることから明らかなとおり、内閣に一定役職の任免権があるからである。
最も恣意的な関与を及ぼしやすい場面の一つである任命について内閣にその権限があるのに、定年を伸ばすという「出口」だけを殊更問題視することで、いったいどれほど政権の恣意の排除ができるのだろうか。
この点について、東京法律事務所の記事は「歴代の自民党政権は、検察庁とりわけ前任の検事総長の意見を尊重し、これに介入しないという慣例がありました」として、任命権があるからと言って時の政権の自由にできたわけではないことを挙げているが、まさか、この慣例に反することが違法だという趣旨ではないだろう。そうだとすると、検察庁法の立て付けとして、任命については、精々政権が慣例に配慮することを望むことはあるかもしれないが、内閣に任せても三権分立は維持できるということになっている。ならば、定年延長についても個別事例においてきちんと国民が監視を行い、問題があれば、当該政権への非難を行えば十分であるだろう。余談だが、先述の慣例を無条件に守るべきであると考えているのであれば、昨今(というほど最近でもないが)の司法制度改革を通じ、一種「象牙の塔」と化していた法曹界に国民との間での双方向性を入れてきた流れとは、ずいぶん異なるようにも思う。
結局、この法改正があろうがなかろうが、適正な三権分立の維持のためには国民の不断の監視こそが重要であることは、若干文脈が異なるがとんふぃ氏の指摘するとおりである。三権分立の点から批判するのであれば、せめて、任命についても含めて、より大きな視点からの制度設計を描かない限り、説得的ではないのではないか。
(ここからは全くの邪推だが、定年を伸ばせる程度では大したことはできないだろうという見解に対し、任命の問題と別の大問題だという見方をする方の背後には、桜を見る会やモリカケ、あるいは、それこそ黒川氏の定年延長問題など、様々な問題についての現政権批判が結局は世論に届いてこなかったという無力感や怒りがあるように感じることがある。結局、国民が監視し、意見するということの力は、大したことがないのだと。ただ、本当にそれは大したことがない力しかないのだろうか。)
正直に言えば、黒川氏の定年延長については私の興味の外に近い。既に内閣の見解として、検察庁法に関わらず定年延長可能という解釈が示されている以上、今回の改正と絡めて邪推をするよりも、個別に法解釈上の問題を争うとともに、個別の妥当性についても問題にすべきだろう。事後的に定年延長を正当化するものであり、政権の不当な解釈変更を事後的に承認しかねないものだという見解も多く見られるが、国会において適法に成立した法に則り、適切なプロセスを経て定年延長をすることが仮に可能なのであれば、それはそれで問題が無いのではないか。こういうのもなんだが、そもそも、わいろというのは見える場所でやり取りする物だろうか。丸見えのわいろに従って忖度した判断をする検事総長等々の判断に反抗しないほど個々の検察官は軟弱で、国民は見抜けない程阿呆なのだろうか。
ただ、結局、この問題と絡めたおかしな邪推がしやすいような状況で、改正を推し進めた結果が国民からの不信を高める結果を助長したのは間違いがなく、改正法は成立になっても不成立になっても禍根を残すだろう。非常に悲しく、恐ろしい状態になってしまったなと感じる。
4.今回の反対運動について
まとめであるここの項が、一番言いたいことであり、また、一番の放言であるのだが、Twitterのハッシュタグでの拡散による反対運動が一定の成功を収めたように見えることは、非常に怖いことであると感じた。今回の件について、きゃりーぱみゅぱみゅ氏が炎上してしまったことは大変悲しいことであると思うし、個々人が、自身の理解の中である政治的問題への意見を表明すること自体は悪いことであろうはずもない。ただ、Twitterという短文投稿の場で、ハッシュタグの拡散を行うという安易さは、民主主義の基礎たる議論となじむものなのだろうか。そこにあるのは、何となくの不安や恐怖に対する共感が主であり、相互理解のための議論があるとはどうしても思えないというのが私の意見である。そういった共感による多数を作ることが民主主義なのだとしたら、全体主義はそのすぐ隣にいるのではないだろうか。
基本は考え方が変わっていないし、思っていたほどやさぐれていなかったし、今よりも分析屋のスタンスだったんだな、と思った。
いろいろと思うことはあるけれど、いちばん納得したのは、
同窓会で再会した旧友を見て、10代20代で何をどれだけ頑張ってきたかで、30の立ち位置が違っていたという話。
それは仕事だったり、結婚だったり、大なり小なり、みんな一心不乱にやってきた成果が出るのが30歳という境目だった。
頑張っていた人は満足して輝いて見える人生だった。いろいろと文句や屁理屈こねて曲げて生きてきた自分は気まずかった。
いろいろと反省して軌道修正した事もあったはずなのに、結果として変わらない事の方が多い気がする。どうしようもない動けない事が増えた。
たぶん、20~30の間は、頑張りが本当に必要な時期なのだと思う。ここを超えてから、何をしようと思っても、軌道修正は効きづらい。特に仕事関係。
今の20代未満に告ぐ
何者かになりたい、何かの目標があるのなら、10代20代のうちに、可能な限りの努力はしたほうがいい。
努力をしないで才能が無いという言葉に逃げるのは、結果的に10年後に後悔しか生まない。と思う。
悔いのない30歳を迎えてほしいと思う。
疫病が猛威を振るい、歴史が示してきたとおり人々は政治への議論を活発にしている。
だが私は政治の話ができない。めちゃくちゃしたいのにできない。何故か?
政治の話をする人が右左関係なく口がめちゃくちゃ悪く、ヤバい人に見えているだからだ。
一緒の扱いをされたらたまったものではない。
こういうスタンスの人は結構いる。政治の話になった時にこういったことをポロッと言ったら結構私も私もとなったからそうだと思う。
この時点で「もっと政治に興味を持つべきだ!」とか「不勉強!無知!」とかそういう罵声が飛んできそうなところだが、
なぜヤバい人に見えるのかというのを私の視点から述べたいと思う。
「そういう人があまりにも目立つだけで、そういう人ばっかりではない」というのを踏まえて欲しい。
相手の意見を「正しさ」ではなく「立場」で判断し、全否定か全肯定のどちらかしかない人に見えてしまう。
言い換えれば、自分が所属する立場かどうかで相手を判断するというめちゃめちゃな偏見の塊に見えている。
「一番大事なのはそれをしてどうなるかや論理であって、あなたが正しいかどうかは全然どうでもいいんですけど?さてはこいつ利用しているだけで本当は興味がないな?」
と警戒心を持つこともしばしばだ。
論理や理屈の話をしているはずなのに怒りやら悲しみやらを感じている人が多すぎる。
100*0=0の計算に対して、「せっかく100もあるのに0になるなんて悲しすぎる!この計算嫌い!」と言われたときの気分だ。
感情を表明されても困る。
こっちが読みたいのは論理の構造や問題点を示した評価レポートであって、感想文ではない。
これが一番でかいかもしれない。
批判する相手が安倍晋三にしても、山本太郎にしても、蓮舫にしても、立場関係なくそういう人が多い。
通常、目の前の人間に「無知」「無脳」「独裁者」といった類の言葉を投げかけるのは完全に倫理観に問題がある。
相手に問題があるなら、相手を傷つけていいのか?と言い換えればわかりやすいだろうか?
これを許容し、かつ実行する人間であるということは、政治に興味を持ち、問題から目を背けないということよりも遥かに人間的に問題がある。
正義の側でいることは大事だが、正義を執行するのはあなたではないのだ。
中国やインドが国力を伸ばし、アメリカ一強の時代が終わろうとしている今、政治や社会情勢に興味を持ち、議論をして考え方をアップデートしていくというのはとても大事なことだと思う。
その大事な時に、話の場が劣悪な環境なのは良くない。日本人は議論が下手くそと言われて久しいが、せめて感情や正義感に溢れすぎている議論というのはやめて欲しい。
同卓者はイラつくだろう。じゃあその怒りの拳を運営に向けろよ。運営がフラットに牌をよこせばそれで済む話
俺に勝たせないと俺にイラつく奴がその分増えるぞ?俺はどうでもいいんだが?どうする運営?
コロナ自粛ってただのわがままだろ。なんで僕がそのわがままに振り回されなければいけないんだ。
前らは鎖国だの攘夷だの大義名分を振りかざしているけれども、徳川幕府になろうが明治政府になろうがどのみち地方の貧農でしかないような人が、なんで幕府や政府のために命がけで戦ってくれると思ってるの?
コロナなのに遊び回ってる人たちを見てみんなこう思っているはずだ。
『誰の目にも今は自粛するべき時だと分かりきっているのに、遊びに行く奴はよほど頭が悪いのだろう』と。
でも、それ以前に『そもそもコロナ自粛自体に承服していない人』もいると言うことをわかってほしい。
今、自粛によって僕から当たり前の日常が奪われたのだ。これは重大な問題だ。僕はカラオケに行きたいし、プロ野球を観たい。簡単に言わないでほしい。
今ここで僕が野球を見たいという気持ちとお前が生き残りたいという気持ちがぶつかっている。この対立軸を整理して考えていきたい。
コロナなのに遊びにいきたいというのはわがままだということは認める。でもコロナだから自粛してほしいというのも、もう一方のわがままだ。なんでこっちだけわがまま扱いされてそっちは社会正義扱いされてるか。そこが不満である。
まるで文化祭の合唱コンクールや体育祭の応援合戦で絶対優勝したいクラスの中心人物たちと、クラスの辺境にいる帰ってゲームしたいオタクの構図だ。
僕はわがままが悪いことだと思っていない。言いたいことは言ったほうがいいし、その上でお互いの利害を調整して、譲れるところと譲れないところの落とし所を探っていくのが社会ではないだろうか。
ところが、一方がたまたま『正義』を名乗ることに成功してしまったら、際限なく一方のわがままだけが増長することになる。
これは良くない。
だから僕は、『どっちもただのわがままでしょ』と言い張っていくスタンスである。
これはただのわがままである。僕が自粛したくないというわがままと同列に扱われるべきわがままだ。
確かに、もしかしたら僕がコロナを持っているかもしれない。僕が遊び回った結果誰かが死んでしまう可能性が僅かにある。でも、はっきりいうが僕とお前は完全に他人だ。知らない誰かだ。お前が死なないために僕がそこまでしないといけないのは全く納得いかない。
『自分の大切な人が死んでほしくない』はより自分勝手なわがままである。高齢の両親が心配なんだろう。でも、それはみんなが当たり前の日常を送ったら死んでいたはずの人ということである。放って置いたら死んでた人を救うためになんで周りが気を使わんといかんのだ。お前は自分の力で守れない命を守るために他人に責任をなすりつけている。ヒーローになりたいなら一人でやってほしい。
ちなみに僕は家族が嫌いでとっくに絶縁しているので、特に死んでほしくない人とかいない。友達もいない。子供もいない。結婚もしていない。彼女ができたこともない。少々知らない誰かが死んだって困らないのさ。
コロナ自粛派は様々な理由をつけて「これはただのわがままではない。より上級の命題だ。よってお前の遊びに行きたいというわがままに優先するべき事案だ」と言い張るだろう。
その主張の問題点を指摘して、やっぱりコロナ自粛はただのわがままに過ぎないことを明らかにする。
医療崩壊なんてしない。お医者さんも看護師さんも定時になったら帰ればいいのだ。それで何人死のうがお医者さんも看護師さんも悪くない。
例えば、電車に轢かれて四肢がバラバラになった死体を、お医者さんが直せなかったとして、誰も文句言わないはずである。それは医者の怠慢ではなく『現代医療の限界』である。
そうであれば、お医者さんが定時で帰ってしまったがために誰かが死んだとして、なぜそれを『現代医療の限界』と割り切れないのか。
『お医者さんが残業で診療してくれれば死ななかったかもしれないのに!』なんて、都合が良すぎである。他人に何を期待しているんだ。それこそただのわがままである。
医療関係者は普通の3交代制を引いて、定時になったら病人が何人いようとさっさと帰るべきだ。それで誰かが死んでもしょうがないで済ますべきだ。
確かにそれはそうかもしれない。僕はそう思う。でもおそらくお前は本当はそんなこと思ってない。
僕は昔から8時間寝ている。野菜と肉と魚をちゃんと食べている。毎日運動している。お酒は飲まない。タバコ吸わない。嫌いな人との関係はバンバン切っている。会社に歩いて行ける距離に住むことで満員電車を回避している。
絶対お前の方が健康を粗末にして生きている。これをしていない奴が健康を持ち出して僕を批判するのはおかしくないだろうか。
突然だが、救急車に道を譲らない車が多すぎると思う。僕は運転中であろうと歩行中であろうと絶対に緊急車両に道を譲っている。でも譲らない人が大半である。多分この投稿を見てキレてるお前も普段は救急車に道譲ってない。お前は本当は人命を軽視しているんだ。
救急車のためにたった30秒待たない奴のために、なんで僕が一ヶ月もカラオケを我慢しなきゃいけないのか。
だから、人命や健康に関することはわがままと一括りにせず例外に扱うべきだという主張は納得するが、この件にそれを持ち出してくるのはお前の自己欺瞞だろとも思う。
コロナ自粛派はみんなのために言っている。コロナ自粛反対派は自分のことだけを考えている。そう思ったはずだ。
そもそも、みんなのためという理由で人の自由を奪っていいのであれば、では年金暮らしのジジババや介護が必要な方にはさっさとお隠れになっていただいたほうがみんなのためではなかろうか。お前が腎臓をもっと優秀な人に分け与えたほうがみんなのためになるのであればお前は肝臓を差し出すんだろうな。
年金ぐらしのおじいさんおばあさんも、生きていれば様々なことでみんなのためになっている、などと軽薄な功利主義を唱えるのはやめてほしい。教養がない。一番大事なことはそこではない。みんなのためだからといって個人に我慢を強いるのは限度があり、絶対に超えてはいけない一線があり、その先のことをどうするかについては本人の意思決定を尊重するべきだ。それがこの社会の約束である。
そもそも、僕がカラオケに行きたいというのは『みんな』に含めてもらえないのだろうか。野球を見たい人が野球を見れないのは『みんな』の問題ではないのだろうか。
僕は大変優しい人なので、みんなのために自分が犠牲になることはやぶさかでない。しかし、だからこそ「みんなのため」を誰かが勝手に決めていることに対して腹が立つ。
先に断っておくが、僕は大変な紳士であり善人だ。
定食屋さんでは必ず『いただきます』『ごちそうさまでした』という。
スーパーの店員さんにも必ず敬語だ。怒鳴ったりクレームをつけたことは一度もない。レジでは必ず『お願いします』『ありがとうございました』という。
職場でも全員に敬語だし、いわんや誰かをいじめたりいびったり口撃したことなんて一度もない。いつもニコニコしている。
読みたい本は必ずお金を出して買っているし、聴きたい曲は必ず各種有料サービスを使って作者にお金が回るようにしている。
あくまで、これはこの問題の構図が完全に不公平であるという点を主張しているのであって、僕の人格がおかしいからだとかいって済ますのはやめてほしい。
「今回ばかりは、xxさんも言ってるし、これこそ大問題に違いない!!」という思考様式は、
愚民、などと言い捨てるほどに自分が愚かでないとも思っていない。
正確に言えば、自分を愚かだと感じるし、上記の人々を愚かだと感じる。
わからないことだらけなんだ、という前提で、でも自分で決めるしかないね、
「xxはxxxです!!!」という言い切り、
例えば
「日本は対策が遅れているので2週間後には死者で溢れ地獄となります!!!」とか
兵長なら言うだろうか。
判断に足るほどの情報を収集・分析するのは、多くの人(立場)にとって困難なことだ。
その手前で言い切ってしまう様子は、距離と角度次第で、誰の目からも滑稽なはずなのだが。
だが自分もついやっている。あの人もやっている。気付くのはいつも後になってから。
愚かだよな、私は。あなたたちは。
だから表立って「デザインやりたいんす」みたいなこと俺も言えないよ。
仕事の片手間に同人やインディーズでなんかやってる人に絡んだりクラウドソーシングやったりするのが現実的な妥協点なのかなと思う。
でもおれはそういうスタンスで業務に関わろうとしていることを面接なりで誤魔化せない。
いや、現実をちゃんと考えれば仕事に悩殺されて自分のやりたいことなんてまったくできないなんてよくある話で、俺自身ももうさすがにがっつり割り切らないといけないところなんだと思う。
でもどれだけ理解したつもりで口先で「めっちゃがんばりまっせ」といっててもやっぱりいまだに気持ちは浮ついてる。そんな自分の幼稚さが恥ずかしい。
むかし演劇やってたけどなんだかなぁー?というか、別に言いたいこともないから、なんだろうなあー?的な感じである
叩かれている時だけその界隈に人が集まるのは演劇にかからず普遍的だし
怒りとかじゃなくて、まぁーそうだよなぁー的な
オリザさんはいい劇もあるけど臭い劇やったりすることもある、だいたい文化人なんて一長一短あるでしょう
だからそこらへん叩かれるのもそうだよなぁー的な
ただ、今回のことで演劇に対する印象が悪くなった、とか、これから演劇好きのやつは面倒臭いという意識で見る、言ってた人がいたが、それは嫌な言い方をするなぁというのは思った。思っただけだけど
もとより万人に受けるもんでもないマイノリティーの反骨精神の人が多いから、これが正義だよとか、これが受けるとかのスタンスとは合わないよね
そんなんだからはてなスターの人気投票との相性はかなり悪くて、反論とかもそのシステムを使うのが嫌というかそもそも面倒くさいよね
たぶん
あと、金ないよね
これまで、2度ほどレールを踏み外した。
1度目は就職を決めないまま院を出て、半年ばかりニートしてた時。
新卒カードもクソもないから、一流企業になんぞ入れる訳もなかった。
技術が身に付きそうなブラック企業を探して入り、3年間頑張って精神を病んだ代わりに、初歩的な技術力を手に入れた。
3年目にソリの合わないサディスト上司に当たってしまって、鬱で仕事を辞めて1年間ニートした。それが2度目。
1年間のニート生活で貯金を使い果たした代わりに精神の再建に成功し、1社目で手に入れた技術力をアピールして、そこそこグレーの企業に入った。
5年間頑張った。
社員数20人程度の中小企業で、5年経っても全く大きくならないなら、この先潰れる事はあっても大きく成長する事はないだろうと判断した。
年齢的に30代後半だったので、まともな転職できるのは最後になりそうだという焦りもあった。
一番大きいのは、ソリの合わないサディスト野郎が管理者として入社してきたからだ。
1社目の経験で、ソリの合わないサディストが上長になってしまった場合、最終的に鬱退職以外の終わり方がない事は骨身に染みていた。
いかにIT土方と呼ばれようと、手に技術力を持っていると有利だ。選ばなければ職には困らない。えいやで辞めた。
下手するとここで3度目のニートをやりかねなかったが、幸い2社目で付き合いのあった取引先の人の紹介で、3社目に入った。
3社目はそこそこホワイトな企業だ。今の会社だ。何事もなければ骨を埋める気でいたので、定年までもってくれそうな大き目の会社を選んだ。
といっても、500人程度の会社だ。
重要なのは、この規模になると、仮にソリの合わない上長にぶつかってしまっても、退職以外に「部署異動」という逃げ道がある事だ。
新人さんよく聞けよ。会社には下てに出るなよ。黙ってても努力を見てくれてる人がいる、なんて思っちゃいけないよ。
努力を見てくれてるのは、会社の財布を握ってない下っ端だけだよ。給料が上がるのは、給料を上げろと言える人だけだよ。
そして5年経って今に至る。
で、2度のニート生活から抜ける時に、真っ先に必要なのは覚悟だった。
履歴書にある大きな空白を引っさげて、企業の面接を突破する覚悟だ。
謙虚になってはいけない。「自分を採用した方が絶対将来この会社のためになる」という自信を持たなければ、面接なんて通るわけがない。
このヤローの自信はどこから来るんだ? と呆れられるくらいで丁度いい。
「何でもします」もNGだ。やりたい事を言えない奴は足元見られるだけだ。足元を見られたら、切られて終わりだ。
「これがしたいから御社を選んだ」という、ナチュラルに自分が選ぶ側であるという前提を絶対に崩さない。
入社する前と後とで、その会社に対する認識が根本的にズレてたとしても突破していけるだけの馬力だ。
それがなければ、入社して認識違いに気づいた途端にやる気を失いかねない。そんな人を取るのはリスクが大きすぎる。
応募してくる人間の「御社しかない」なんて言葉を人事が真に受けるわけがない。そんなの、嘘を吐いてるのでなければヤバい奴である。
応募してきた段階では、その企業の内情なんて知ってるわけがないである。
本当に「御社しかない」なら、認識違いがあった時点でアウトである。
「他の会社にも行けるけど、御社のこの部分を評価したんで、やりたい事ができそうだと判断して応募しました」くらいの方が頼もしい。
という事で、1社目の面接を受けた時から、自分の面接スタンスは全てそれである。
年齢相応のものは持ってない。でも全く何もない訳でもない。だったら、持ってる僅かなもので戦うだけだ。
あとは、運と相性次第で何とかなる。
入社した後は、最初の一週間で最終退室を経験するくらい腹をくくってかかる。
最終退室近くになると、一番苦労してる層が残っていて、仕事疲れと深夜テンションで口も軽くなっているので、その部署の内情を割とペラペラ喋ったりしてくれる。(クソな上司ならもう帰ってしまっていないので遠慮なく悪口を言えるという事情もある)
まあ、そんなメソッドは二度と使う必要はあるまいと思っていたのだが、
IT業界は急には影響を受けにくいが、BtoBはジワジワ来るだろう。何しろ発注する側の企業があっちこっちで大打撃を受けている。
コロナ前は引く手あまたで、リソースの足りなさから案件を断る事すら多かった我が部署だが、向こう数年はどうなるか分からない。
Webアプリケーションは在宅勤務と相性がいいが、そもそも「使う金が顧客に無い」という事になれば、相性もクソもない。交渉下手な我が上長は極限まで買い叩かれたブラック案件を受注しかねない。
となると、最悪、部署縮小ないし、部署閉鎖という未来が見えてくる。
そういう時は、最後まで居残ってはいけない。沈む船からネズミが逃げられるのは、まだ船が港にいる間だけだ。
どの部署に異動になるか分からないが、その際に「年齢上、こいつは辞められまい」と会社に足元を見られたら、ロクな未来が待ってない事は容易に想像できる。
まあ、これから転職しても派遣などで買いたたかれる可能性が高いから簡単には辞める気はないが、辞めても生きて行けるという認識はやはり強い。
いいかい新人さん、転職をな、転職をいつでもできるくらいになりなよ。それが、人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ。
前回の転職から更に5年が経ち、もう40代だ。何も考えずに新しい環境に突っ込んでいける年齢ではない。
しかし、全く何も持ってないわけでは無い。
ひん曲がった鉄の棒に過ぎない。だが頑丈な鉄の棒だ。切れ味は悪いが色々使える。見方によってはバールのような物にも見える。
「ベストのタイミング」なんて待ってはいけない。そんなものは過ぎ去った後にしか分からない。最悪のタイミングではないという見極めさえつけば行くべきだ。
何が最悪かというと、今はどの企業も半年先1年先をひどく警戒している。
このタイミングで人を集めて事業拡大しようなんてのはとんでもないアホなギャンブラーであって、到底将来を任せられない。
まして、転職者は3か月~半年くらい試用期間がある。このタイミングで採用されても、半年以内に状況が悪化したら試用期間で切られて無職プーである。
だから、待つべきは良きにつけ悪しきにつけ、今とは潮目が変わり、先の見通しが立ってくる半年後。
頭と尻尾を猫にくれてやって、俺が掴むのは背ビレくらいが丁度いい。
ポーの短編に「メエルシュトレエムに呑まれて」という、大渦に呑まれる話がある。
大渦の中で海の底へ向けてグルグル回っているその時、円筒状の物が渦に飲み込まれる速度が遅い事に気づいた主人公が、樽を掴んで、船と船にしがみ付く兄を置いて海に飛び込む印象深い場面があるわけだが、
転職とはこれに似ている。
今の環境にいても助かるかもしれないという根拠のない希望、次の環境に行っても状況が悪化するだけかもしれないという恐怖。残る人達への義理。それらを取り巻くあらゆる曖昧なもの。
それらを飲み込んで、自分の読み一つに人生を預けて、樽を掴んで海に飛び込むのが転職である。
半年以上1年以内に、もう一回その覚悟が必要となる日が来るのだろう。