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はてなキーワード: 酩酊とは

2022-01-08

anond:20220108041845

大人同士で同意があればセックスしても誰も傷つけない」と主張する人もいますが、それは間違いです。

現実には大学生新入社員など、20代前半の女性が酒やドラッグ酩酊させられ、「同意」を捏造するという性犯罪の手口が横行しています

大人同士であろうが、同意があろうが、「生きた人格のある人間相手セックスしてもよい」という狂った倫理観肯定すること自体性犯罪蔓延奉仕しているのです。

そもそも対人セックスなんて人生必要はありません。

生きた人体の内蔵と内蔵を擦り合わせて性的快楽を得るという危険行為に走らずとも人は生きていけるし、性的に満足することも可能です。

あなたセクシュアリティ肯定するために、対人セックス必要ないはずです。

先進的な人々は既に対人セックス卒業しています

あなたも早く意識アップデートしましょう。

2022-01-07

大人同士で同意があればセックスしても誰も傷つけない」と主張する人もいますが、それは間違いです。

現実には大学生新入社員など、20代前半の女性が酒やドラッグ酩酊させられ、「同意」を捏造するという性犯罪の手口が横行しています

大人同士であろうが、同意があろうが、「生きた人格のある人間相手セックスしてもよい」という狂った倫理観肯定すること自体性犯罪蔓延奉仕しているのです。

そもそも対人セックスなんて人生必要はありません。

生きた人体の内蔵と内蔵を擦り合わせて性的快楽を得るという危険行為に走らずとも人は生きていけるし、性的に満足することも可能です。

あなたセクシュアリティ肯定するために、対人セックス必要ないはずです。

先進的な人々は既に対人セックス卒業しています

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2022-01-05

anond:20220105201510

大人同士で同意があればセックスしても誰も傷つけない」と主張する人もいますが、それは間違いです。

現実には大学生新入社員など、20代前半の女性が酒やドラッグ酩酊させられ、「同意」を捏造するという性犯罪の手口が横行しています

大人同士であろうが、同意があろうが、「生きた人格のある人間相手セックスしてもよい」という狂った倫理観肯定すること自体性犯罪蔓延奉仕しているのです。

そもそも対人セックスなんて人生必要はありません。

生きた人体の内蔵と内蔵を擦り合わせて性的快楽を得るという危険行為に走らずとも人は生きていけるし、性的に満足することも可能です。

あなたセクシュアリティ肯定するために、対人セックス必要ないはずです。

先進的な人々は既に対人セックス卒業しています

あなたも早く意識アップデートしましょう。

anond:20220105033939

元増田じゃないけど、大麻がもたらす何らかの変化(酩酊状態とかそういうの よく知らんけど)が、現状世の中で問題ないことにされている酒以上に他人危害を加えないものなのだったらそうなんじゃない?

選択夫婦別姓他者に有形の危害を与えないので同列に語ることじゃないだろう(「お気持ちを害する」とか「社会不安が」とかは知らん)。

2022-01-04

anond:20220104221311

大人同士で同意があればセックスしても誰も傷つけない」と主張する人もいますが、それは間違いです。

現実には大学生新入社員など、20代前半の女性が酒やドラッグ酩酊させられ、「同意」を捏造するという性犯罪の手口が横行しています

大人同士であろうが、同意があろうが、「生きた人格のある人間相手セックスしてもよい」という狂った倫理観肯定すること自体性犯罪蔓延奉仕しているのです。

そもそも対人セックスなんて人生必要はありません。

生きた人体の内蔵と内蔵を擦り合わせて性的快楽を得るという危険行為に走らずとも人は生きていけるし、性的に満足することも可能です。

あなたセクシュアリティ肯定するために、対人セックス必要ないはずです。

先進的な人々は既に対人セックス卒業しています

あなたも早く意識アップデートしましょう。

2022-01-02

大人同士で同意があればセックスしても誰も傷つけない」と主張する人もいますが、それは間違いです。

現実には大学生新入社員など、20代前半の女性が酒やドラッグ酩酊させられ、「同意」を捏造するという性犯罪の手口が横行しています

大人同士であろうが、同意があろうが、「生きた人格のある人間相手セックスしてもよい」という狂った倫理観肯定すること自体性犯罪蔓延奉仕しているのです。

そもそも対人セックスなんて人生必要はありません。

生きた人体の内蔵と内蔵を擦り合わせて性的快楽を得るという危険行為に走らずとも人は生きていけるし、性的に満足することも可能です。

あなたセクシュアリティ肯定するために、対人セックス必要ないはずです。

先進的な人々は既に対人セックス卒業しています

あなたも早く意識アップデートしましょう。

2021-12-30

成人したばかりの大学新入生や新入社員を、酒やドラッグ酩酊させて「同意」を捏造するという性犯罪が横行しているのに、未だに「成人同士で同意があればセックスしてもよい」という価値観社会に擦りこもうとしている人はなんなんだろう。

あなたいくら意識の混濁した状態同意同意じゃない」と言い張っても、倫理観崩壊した性犯罪者には届くわけないでしょう。

性犯罪を撲滅するには「たとえ同意があったとしてもセックスは悪である」という価値観を「常識」にしなければいけない。

なんでこんな簡単なことがわからないのか。

2021-12-06

なーんもやる気出ない

働きたくない仕事行きたくない無理無理無理

無理すぎてストレス半端ないせいでなんか楽しみを用意して自分を労ってやらないと電車止めてしまう気がしてホテル泊まることにした

今日は昼まで寝て、午後からデパートレストラン街でランチして、その足でデパ地下惣菜ケーキ買って、ホテル近くのコンビニで缶酎ハイスナック菓子買って、ホテル着いて、きれーにセットしてあるベッドでごろんごろん寝返りうって暴れて、ケーキ食べて、湯船でソシャゲしてYouTubeみて、久しぶりにテレビニュースなんか見ちゃったりしながら惣菜アルコールで良い感じに酩酊してこれから寝るわけだ

明日の朝は朝食バイキングも待ってるわけなんだけど、そこから仕事行かなきゃいけないのが唯一の欠点なんだよな〜〜〜

でもここから会社まではホームドアある地下鉄から飛び込む心配はないだろうからそこは安心だな〜〜〜

寝よ寝よ

2021-11-23

anond:20211123073736

20代前半の大学生新入社員を酒やドラッグ酩酊させて「同意」を捏造してレイプするのが対人性愛者。

同意を取れば恋愛結婚セックスしても良い」という倫理観は、「如何にして同意捏造するか」という性犯罪傾向を肯定する。

2021-11-17

anond:20211117212642

電磁波酩酊状態になるとか、何学会で発表された内容なの?エビデンスある?

まーたプ〇ウスかよ

ト〇タの営業妨害になるからかい声では言わないけど、これEV電磁波なんだよ原因。

老人だから体力が弱いか電磁波酩酊状態になってしまう。

ト〇タも気づいてるはずなのにまだ対策しないのが驚きとしかいえない。

何人ころしてるんだよ。モーターの位置変えるとかあるだろうに・・・

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211117/k10013351041000.html

2021-11-10

anond:20211109132706

沢山書いたやで

 

実名主義

80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数社会的人格を持って経済活動する事ができた。

職場旧姓を使い続けても問題無かった。1986年米国マネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。

 

MDMAエクスタシー)の不使用

MDMA非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。

心臓発作を惹起する為に規制m.o.v.e.のmotsu所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。

 

マリファナの不使用

90年代クラブではマリファナ普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。

 

・式場での結婚式

1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式キリスト教教会一般的。

団塊世代ロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻自由憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。

団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。

古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。

 

公共空間でのマナー

1990年頃まで日本人の公共空間でのマナー先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。

1990年代に反省の機運が起こり急激にマナーが向上した。

 

外国で旅の恥をかき捨てない

かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本旅行者特に団体)は眉を顰められる存在だった。

遺跡名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクター痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。

これを西洋宗教倫理文化日本恥の文化共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。

自省により90年代に急速に改善

 

固定電話を初期費用無しで引ける

電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。

この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年から段階的に廃止された。

 

役所サイトが一日中閲覧できる

森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバIISインターネットインフォメーションサーバー)サービスHP提供していたため。

終業時間になるとサーバルータの電源を落として帰っていた。サイト作成役人趣味みたいな感じで作っていた。

コードレッドワームなどが流行すると当然に全滅。

 

ネットワークプリンタ共有

1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。

 

・駅のトイレトイレットペーパーがある

駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。

民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。

 

路上駐車車両が無い

90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両タクシー客待ちで二重駐車になっていた。

90年代中ごろに警察取締りを強化して根絶。

 

・TIMESなど時間駐車場

2000年から増える。警察路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。

 

洋室だけの家やマンション

和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習

 

家電量販店での価格表示

家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員交渉で決めるという風になった。この為に店員電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。

客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。

 

スリム自販機

バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機建物看板道路使用徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。

これに対応して既存機の撤去スリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。

 

日本109キーキーボード

以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフリセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。

2000年くらいに今の配列に一本化された。

 

プチフリしないSSD

2006年ころに一世を風靡したネットブックSSD一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。

 

会社員就業時間中に中抜けしない

嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。

当然平日3時までしかやっていない銀行会社員が行けるわけがない。

そこで振り込みの為に仕事中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅

 

飲酒は二十歳から

18才は未成年飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。

ゼミ飲み会普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。

 

線路を歩かない

都電ローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。

90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故連続し、その後厳しくなっていった。

 

飲酒運転絶対ダメ

初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキー酩酊するからダメ」と書かれている。

 

・小銭を所持しないで外出

1000円札の読み取り装置一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。

この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。

 

一円玉の使用

1989年消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉公共料金以外殆ど使われていなかった。

 

・個室

和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。

 

個人

家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員プライバシー踏み込む」という感覚が余りなかった。

会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。

オークマンは街で個人空間に浸るものだとして批判対象になった。個人主義はそれ自体罵倒文句だった。

 

大学生勉強する

全共闘運動はあらゆる権威攻撃し、大学の知の権威というもの破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態継続。やがて学生は脱政治化したが大学学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。

90年前後大学改革ICU上智比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり学生勉強するという当たり前の状態が復活した。

この為に卒業1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。

 

・様々な塩製品

塩は国家専売品だったので専売公社製造する塩以外の岩塩ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可標識の掲出が必要だった。

1985年自由化により今の状況になった。

 

・「メイド喫茶」などの語

メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制階級制の象徴のような職業であって、戦後身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤一般的な「雇用」となった。

一周回ってメイド構造過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。

 

・キャノーラ

キャノーラ油の原料は菜種。

米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。

米国生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。

 

弁護士事務所広告

過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。

但し「勝訴率〇%」のような広告は今でも禁止

 

・夜まで開いてるスーパーデパート

1991年大店法改正されるまではデパート閉店時間はPM6時、スーパー閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。

基本的地元商工会意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正商店街の全滅に繋がった。

 

生ビール

ビール酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール

この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。

1970年代末にサントリーフィルター酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。

から地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品生ビールサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。

 

サービス残業

バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。

それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。

これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。

 

東京自動改札機

1990年から1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的

 

あきたこまちひとめぼれ等の米

1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。

冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまちひとめぼれが席巻するようになった。

 

バイク駐車違反

駐車違反バイクと車の別はないが、バイク駐車違反2006年まで摘発されていなかった。摘発民間委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。

 

大学生の専攻無し

学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から

2021-11-04

上司に「普段酒を飲むか?」と聞かれたのでストロングゼロを常飲していると答えた

すると上司もっと美味い酒を飲めと言う

美味い酒ってなんだよ

酒とは酩酊感を得るために飲むものではないのか?

舌で感じる味に有意差があろうもの

どうせ酔っぱらうと味なんてわかんなくなるんだ

2021-11-02

子ども苦手だったけど出産した。赤ちゃんかわいい

子どもが苦手だったけど妊娠した。夫の長年の夢だったから。

夫の、自分の子どもが欲しいという夢を叶えてあげたいと思った。

夫の願いに対して、私は子どもを育てることに強い不安感があった。

私の育った家は、酩酊状態理不尽に怒鳴りつける父親が中心だった。母は夫への恐怖で洗脳状態になり、子を庇うこともなく嵐が過ぎるのを待っていた。

きょうだいたちは、父から受けるストレスを発散するためにお互いに嫌がらせをしていた。

家族全員が歪んでいた。いちばん上のきょうだいは、社会人になって家を出た瞬間に心優しい性格になった。

私も家を出た途端にストレスから解放されて、惨めな思いをしなくなった。

そんな家庭で育ったので、そもそも結婚にもネガティブイメージ強めだし、ましてや子どもなんて考えたくなかったけど、夫が大好きだったので子どもを作ることにした。

子作りは、夫の「愛情が湧かなくても構わない。私が育てるし。産んでみてから決めてくれたらいい」という一言も大きかった。

不安と同時に、もしかしたら私も世間と同じように、我が子を愛せるのかもしれない。という期待もあったから。

そうして先日、子どもが生まれた。

私も世間と同じように、子どもが泣き声をあげた瞬間に涙が出てきた。

大声でなく声も、眠る姿も、夢中でおっぱいを飲む姿も、ぜんぶが愛しい。

怖がる必要なんてなかったらしい。

過去が嫌だったなら、自分で良いものを作ればいいという話だ。自分過去を思い出しながら育てていくつもり。

2021-10-06

Death, Black, Dark, Blood, Dead

(ぜんぶ妄想です)

そのバンド名前は「Death, Black, Dark, Blood, Dead」。歴史に深く刻まれ名前ではないが無名でもなかった。

結成は1996年京都。編成はVoGuBa、Drの四人組で、ジャンル的に言えばDoom Metal。陰鬱超自然的で夢幻酩酊感に浸る暴動BGM

手元にある『ロッキン・オフ京都』って2003年発刊のコピー紙で作られたミニコミにはDeath, Black, Dark, Blood, Dead(以下DBDBD)のインタビューが載っていて、メンバーフェイバリットアルバムとして挙げられているのがBlack SabathやCathedralだったりElectric Wizardだったりする。でもそこではCANやPublic Enemyなんかも取り上げられていてメタルだけではない幅広い音楽バックグラウンドを感じさせたんだ。

ちなみに余談だけど、この『ロッキン・オフ京都』を発行してた京大軽音楽部の人は百万遍の近くで古本屋をやっていて、ミニコミのことを訊けば喜んで当時の話をしてくれるよ。『DOLL』のバックナンバーめっちゃ揃ってる。

初めてのライブは、結成したその年の京都市立比叡中学校での文化祭。ヘナヘナでヨレヨレの演奏だったよ。だいたい「何?そのバンド名は?」みたいな失笑だった。中2病が過ぎる、みたいな。でも実際メンバー全員中2だったわけだし一番病状が重い時期じゃない?

私はその頃ガレージパンクに恋狂いで、ヘナヘナこそ愛すべきロックンロールだと思ってたしヨレヨレこそ美学だと信じてたから、彼らのその拙い演奏サバスの遺伝子が宿っているのを感じたんだ。

なんでそんなことを知っているのかと言うと、Drの吉田君は私の同級生だったから。他のメンバーは他校の同い年の子たちで、平日の建築現場での雑工のアルバイトで知り合ったんだって

吉田君は不良じゃなかったけど学校に時々来ない長髪のいつもイライラしてる人だった。キレたらヤバイ奴。家が金属回収業の仕事から汚いなんて陰口を叩く子もいたりして、そりゃイライラもするよね。そんなこと言うべきじゃないのに。

一度、西院ツタヤアダルトコーナーから出てくる吉田君を見つけたことがあって、いけず心が発動した私は「あ、吉田君やん、何借りたの?」って声をかけたんだよ。吉田くんってばドギマギしちゃってさ。まだその頃のレンタルVHSだったか吉田君が持ってる重ねたテープの一番上は『プリティ・ウーマン』だったことを覚えてる。やっぱり普通映画カムフラージュするんだ、と思ったもんね。カウンターのところでお店の人に「こちらとこちらはお貸しできません」って取り上げられてプリティ・ウーマンだけ持って帰る吉田君の後ろ姿には十代の男子けが背負っている哀愁があった。

後日、いけず心が再起動して「プリティ・ウーマンどうだった?」って訊いた私に吉田君

あんなん金持ち札束ばらまいてるだけの話やないか気に入らん!」って怒ってはった。「お、パンクじゃん」って思ったね。

高校吉田君とは違う学校になって会うこともなくなったけどバンドをやってるらしいってことは風の噂で聞いてた。中学校友達と会ったりしたら誰それは学校やめたらしいとか、妊娠したとか、そんな噂話をするでしょう?そんな感じでなんとなくは知っていた。

高校の頃は部活勉強で忙しかたから無理だったけど、大学に入ってからの私はライブハウスに通うようになった。女同士で集まってバンドも始めた。

回生の頃にめちゃくちゃヤバイバンドがいるって聞きつけて二条西洞院ライブハウスにバンド仲間と行ったら客層が恐ろしくてさ。町内一番の荒くれ者が選抜されて来たんですか?みたいな感じで長髪やスキンズのごつい男達が集まってた。マッドマックス撮影ですか?みたいな。その頃はメタルパンクもごっちゃでラウドロックって括りでみんな一緒にやってたんだよね。

バンドが出演していて、最後に出てきたのがDBDBD。ずっと忘れてたけどその名前を聞いて「あ、吉田君バンドやん」ってすぐ分かった。でもドラムセットセットに陣取った彼を見た時は、違う人かな?と思うくらい凄みを増してたんだ。

スロー陰鬱パートから始まった演奏は、重く苦しい中間部を経て、死と破滅に聴衆を誘う。ライブはめちゃくちゃ盛り上がってさ、と言うか、荒くれ者たちが最高に荒くれるので私達は身の危険を感じてトイレ入り口避難してそこから見てたよ。暴れ狂う彼らは、今この瞬間だけに生きていて明日のことに希望なんて持っていないようだった。

帰る道すがら色んなことを思ったよね。あの吉田君のヘナヘナのバンドが男たちを狂わせる音楽をやるまでに成長したんだなとか、それに比べて私はとか、ツタヤビデオカセットを持つ吉田君の指がとっても白かったこととか。

その後もDBDBDは京都活動を続けていて、京大西部講堂でのライブがあまりにも盛り上がりすぎて主催者からお叱りを受けたなんてこともあった。吉田君とはライブ会場で顔を合わすようになってからまた話すようになったりして「あれは怒られたよねーホント怒られたよねえ」なんて笑ってたけど。

DBDBDの名前関西のシーンで大きく浮上してきた背景にはこんな事件があったの。

2005年だったはず。当時DBDBDはメタルパンクハードコアのシーンで活動していて、前述のようにかなり激しいステージングと客層で一部では評判になってた。

一方その頃に大阪では武闘派を名乗ってる「Citizen’s Enemy」(以下CE)ってHipHopクルーがいて、他のグループ威圧したり脅したりしてのし上がってきたあんまり夜露死苦ない評判のその人たちが「DBDBDなんてクソ」みたいなこと言ったらしいの。関西で一番ヤバイのは俺たちだ、みたいな宣戦布告だったと思うんだけれど、それを聞いたDBDBDのメンバーがCEを急襲するって噂が流れて観に行ったんだよね。

その日はCEのライブが始まって会場が温まってきたところにどやどやとDBDBDのメンバーがやってきて「勝負しろ!」って言ってさ。「待て待て待て待てー」みたいなプロレス的なコミカルさがあって、笑いも沸き起こって盛り上がったんだよ。CEのDJに「どけ、俺がやる」みたいな感じでDBDBDのベースターンテーブル占拠したりしてさ。

で、フリースタイルのバトルが始まったんだよ。まだフリースタイルダンジョンなんてない頃だよ。でもCE側は武闘派を名乗ってたからDBDBDが面白登場したのが気に入らなかったみたい。なのでシリアスdisり合いになっちゃったんだけど、言葉のキレとか、disりながらも一抹のリスペクトは失わないDBDBD側のラップが素晴らしくてさ、お客さんもHipHop好きな人からどっちが巧者かは分かっちゃうじゃない?だからDBDBDの方が上だな、みたいな空気でそこは終わったわけ。DBDBDのVoがさ「何が市民の敵やねん!公権力の敵であれ!俺たちの敵は権力者やろ!」ってアジテーションしてステージを降りたのは格好良かったんだよ。

その時私は「ああ、あのミニコミPublic Enemyフェイバリットに挙げてたのはVoの彼だったな」って思い出したんだ。

いけないのはそこからで、それから少し経ってDBDBDのライブ難波ベアーズで行われたんだけど、CEのメンバーがやってきて会場で爆竹に火をつけてライブ妨害したんだ。こっちは向こうの流儀勝負を挑んだのに(というか、和ませる雰囲気さえ醸し出してお邪魔したのに)向こうはただ邪魔しに来ただけっていう。で、どうなったかというと、そこには町内荒くれ者甲子園を勝ち抜いてきたお客様たちが集結してるじゃない?その人たちにCEのメンバーは捕まってちょっとお叱りを受けたっていう。ライブは盛り上がったらしいよ。

CEの人たちは武闘派を名乗ってたのにボコボコにされちゃったかメンツ的なものを失って、その後はなんだかフェードアウトしちゃった。CEのメンバーの一人は最近になって大阪維新から会議員に立候補してたけど、どうなったのか知らない。

DBDBDはそれからも地道に活動を続けて、Napalm DeathVoだったLee Dorrianが主催している英国Rise Above Recordsからアルバムを出す話もあったんだ。でもその頃ってメンバー家族を持ったり仕事責任ある役割を担うことになったりして、なかなか時間がとれなかったからうまくいかなったの。

吉田君曰く「英語でのメールのやりとりも難しかったし、イギリスでの録音っていう条件がネックで実現しなかったんよなあ、あれほどのチャンスはなかったけど」って。

その後はライブの回数も音源の発表も少なくなっていったんだよね。巷では「失速した」なんて言われたりしたけど、そんな言い方ないよ。彼らは中学の時からずっと働きながらバンドやってたんだから

吉田君は今も京都に住んでいて、休日に近所の公園砂場で遊んでる娘の相手をしてるのを時折見かける。染織工場で働いていて労働組合委員長でもあるらしい。この業界はもう価格的に外国とは太刀打ちできないらしくて、いくら京都ブランドだっていっても厳しくて廃業する会社も多いんだって会社の存続も心配しなくちゃいけないけど労働者権利雇用も守らなくちゃいけない立場で悩みは尽きないとのこと。「バンドはどうすんの?」って一度聞いたら、遠くの方を見つめながら「あん名前バンド誰も覚えてないやろ。でもやりたいなあ、またぶちかましたい」って言ってたよ。

比叡山の緑を眺めながらね。

thanks

https://anond.hatelabo.jp/20210929113343

https://anond.hatelabo.jp/20210929113456

https://b.hatena.ne.jp/entry/4708979924673792418/comment/flirt774

2021-09-26

NY小室圭に取材したの、酩酊会見の中川昭一の娘というのが笑う。

2021-09-14

仕事を早期リタイアして困るのは金よりも自制心の無さ

酒が好き、ってゆうか酔うのが好き

シラフだと俺のような非モテコミュ障陰キャには現実が何も面白くないか

酔って現実逃避したいから、休日酩酊するほど飲む

だけど俺は体質的に酒に弱い。すぐに下痢ピーになって栄養失調気味になるし、自律神経もバグって迷走反射起こしてぶっ倒れたりする

若い頃はそれでも若さゆえの体力で何とかなったけど、だんだん老いを感じるようになってきたこ身体では過度な飲酒はすぐに病気に繋がるだろう

俺が何とか社会生活を営めているのは、仕事をしているからに他ならない

毎朝起きて会社に行くというルーティーンが、何とか俺の生活を律している

非モテコミュ障陰キャにとって会社仕事は当然つまらないものではあるし、会社行きたくねーってなることもしばしばだが、

もし俺がこれから一生安泰の金を手に入れて会社を辞めて、遊んで暮らすリタイア生活を送ったところで、

すぐに健康を失い、陰惨鬱々とした地獄のような日々が顕現することは火を見るより明らかだ

早期リタイヤ生活を楽しむのにも資質がいる

俺にはきっとそんな資質はなく、かといって仕事社会生活に生きがいを見出す資質もこれまたないのである

2021-09-09

母が死に、煙を好むようになった

去年の今頃、母が死んだ。末期の大腸がんだった。

未だに電話は苦手だ。去年の夏、うだるような暑さの中で急に父親から電話がかかってきたことを未だに思い出す。

「母がな、大腸がんらしい。」

頭が真っ白になった。何かにすがらねばならぬと思いぱっと思い浮かんだのが煙草だった。黄色アメスピを買った。

肺まで白煙を深く吸い込み、酩酊を感じながら、足元が深く、酷く崩れていくのを感じていた。

一本を深々と吸い切った後、もう一本と火をつけ、吐いた。

そこからは本当に早かった。

母は入院し数日後には抗がん剤治療が始まるといわれていたが、病状があまりにも進行しすぎていたためにできず、末期治療が始まった。

感染症流行っている時期ではあったが私は実家帰省し、父と妹とともにその日が来るのを待ち構えていた。

母はモルヒネを投与され、常に夢と現実のはざまを行き来していた。

そうして、その日は訪れた。

私が電話を受けてからちょうど一ヶ月後のことであった。

母の葬式を済ませ、通夜を行っている中、私は一人会場を抜け出しコンビニへと行った。

ふと目についたセブンスターを買い、一人隠れて火をつけた。

コンビニの横、ほのかに店の灯りが漏れる灰皿のそばゆっくりと吸ったセブンスターは、ほんのりと甘く、脳を痺れさせた。

それ以来、私は煙草を好むようになった。

「ヒトはどれだけまともに生きていようとも理不尽な死に方をする」

母の死後、私に付きまとうようになったこ刹那的感情はどうしても消えない。

煙草によってがんのリスクは跳ね上がり、より死に近づくのだろうなと思いつつも心を煙で埋めている。

そうして、今日も私はほのかに甘い煙に夜を溶かしている。

いつか私も、母と同じように急に死んでしまうのだろうかという当てのない空虚さを感じながら。

2021-09-08

不登校児と身体障害者、優先されるべきはどちらですか

一方的批判だけでなく対話のできる誰かに返事頂けるまで投稿しま

不登校児の人生身体障害者教諭体裁、優先されるべきはどちらなんですか

もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました

見学面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療連携してサポートしますと言われたので

それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました

その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました

その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした

担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました

3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内問題自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした

メモ日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました

私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、

しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした

書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました

高校担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした

ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした

高校卒業になり家庭内問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました

別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で

時間けが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした

ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?

返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃん自分問題なくよくできたいい子だったのに、など

質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした

メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました

許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました

それでその元担当に一通送りました

そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と

今思えば当たり前ですが元担当警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科閉鎖病棟へ入れられました

その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか

担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と

スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました

それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました

退院したあとも色々ありましたが、私は世の中の無差別殺人のように短絡的に実行しませんでした

それでも今なお元担当教諭病院非難されず、私はただの凶悪犯予備軍として何も問題を聞き入れてもらえないんでしょうか?

2021-09-07

不登校児と身体障害者、優先されるべきはどちらですか

もう一度投稿しま

人生殆どがかかってる問題なので誰かまともに返事頂けるまで投稿しま

不登校児の人生身体障害者教諭体裁、優先されるべきはどちらなんですか

もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました

見学面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療連携してサポートしますと言われたので

それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました

その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました

その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした

担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました

3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内問題自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした

メモ日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました

私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、

しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした

書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました

高校担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした

ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした

高校卒業になり家庭内問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました

別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で

時間けが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした

ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?

返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃん自分問題なくよくできたいい子だったのに、など

質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした

メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました

許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました

それでその元担当に一通送りました

そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と

今思えば当たり前ですが元担当警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科閉鎖病棟へ入れられました

その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか

担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と

スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました

それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました

退院したあとも色々ありましたが、私は世の中の無差別殺人のように短絡的に実行しませんでした

それでも今なお元担当教諭病院非難されず、私はただの凶悪犯予備軍として何も問題を聞き入れてもらえないんでしょうか?

不登校児と身体障害者、優先されるべきはどちらですか(再々掲)

読み取れない点は質問して下さい、どこか書いてないかウソと決め付けないで下さい

こういう状況に陥った人がいることに意見下さい

もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました

見学面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療連携してサポートしますと言われたので

それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました

その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました

その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした

担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました

3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内問題自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした

メモ日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました

私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、

しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした

書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました

高校担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした

ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした

高校卒業になり家庭内問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました

別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で

時間けが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした

ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?

返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃん自分問題なくよくできたいい子だったのに、など

質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした

メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました

許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました

それでその元担当に一通送りました

そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と

今思えば当たり前ですが元担当警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科閉鎖病棟へ入れられました

その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか

担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と

スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました

それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました

退院したあとも色々ありましたが、私は世の中の無差別殺人のように短絡的に実行しませんでした

それでも今なお元担当教諭病院非難されず、私はただの凶悪犯予備軍として何も問題を聞き入れてもらえないんでしょうか?

不登校児と身体障害者、優先されるべきはどちらですか(再々掲)

読み取れない点は質問して下さい、どこか書いてないかウソと決め付けないで下さい

こういう状況に陥った人がいることに意見下さい

もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました

見学面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療連携してサポートしますと言われたので

それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました

その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました

その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした

担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました

3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内問題自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした

メモ日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました

私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、

しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした

書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました

高校担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした

ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした

高校卒業になり家庭内問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました

別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で

時間けが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした

ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?

返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃん自分問題なくよくできたいい子だったのに、など

質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした

メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました

許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました

それでその元担当に一通送りました

そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と

今思えば当たり前ですが元担当警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科閉鎖病棟へ入れられました

その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか

担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と

スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました

それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました

退院したあとも色々ありましたが、私は世の中の無差別殺人のように短絡的に実行しませんでした

それでも今なお元担当教諭病院非難されず、私はただの凶悪犯予備軍として何も問題を聞き入れてもらえないんでしょうか?

不登校児と身体障害者、優先されるべきはどちらですか(再掲)

もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました

見学面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療連携してサポートしますと言われたので

それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました

その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました

その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした

担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました

3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内問題自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした

メモ日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました

私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、

しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした

書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました

高校担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした

ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした

高校卒業になり家庭内問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました

別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で

時間けが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした

ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?

返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃん自分問題なくよくできたいい子だったのに、など

質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした

メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました

許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました

それでその元担当に一通送りました

そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と

今思えば当たり前ですが元担当警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科閉鎖病棟へ入れられました

その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか

担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と

スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました

それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました

退院したあとも色々ありましたが、私は世の中の無差別殺人のように短絡的に実行しませんでした

それでも今なお元担当教諭病院非難されず、私はただの凶悪犯予備軍として何も問題を聞き入れてもらえないんでしょうか?

不登校児と身体障害者、優先されるべきはどちらですか

もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました

見学面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療連携してサポートしますと言われたので

それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました

その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました

その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした

担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました

3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内問題自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした

メモ日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました

私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、

しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした

書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました

高校担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした

ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした

高校卒業になり家庭内問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました

別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で

時間けが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした

ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?

返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃん自分問題なくよくできたいい子だったのに、など

質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした

メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました

許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました

それでその元担当に一通送りました

そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と

今思えば当たり前ですが元担当警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科閉鎖病棟へ入れられました

その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか

担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と

スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました

それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました

退院したあとも色々ありましたが、私は世の中の無差別殺人のように短絡的に実行しませんでした

それでも今なお元担当教諭病院非難されず、私はただの凶悪犯予備軍として何も問題を聞き入れてもらえないんでしょうか?

ネタだと言われましたが嘘じゃないです

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