はてなキーワード: 物質とは
今一人一人が社会の一員としてやらねばならないことは、自分が感染しないこと、人に感染させないこと。
日本社会には、また、今回のコロナでも政府の対応は問題だらけで、政治家、行政、専門家、メディアなどの問題を露呈しました。布マスク配布にはじまり、GoTo、税金の無駄遣いとしか思えない愚策の数々、それらは、可視化された機会に、個別に問題を指摘し、改善されるべき点です。コロナ下で一部の医療関係者に負担が偏ったなどの医療制度の問題を機に、真剣に見直しを考えるなど、社会を見直す必要かついい機会です。
外食もできないわけではありません。外席なら比較的問題ないです。しかし、以前と全く同じように行動することは無理です。友と会ったり、集まったりすると、どうしても嬉しくて、コロナのことは忘れて盛り上がりがちですが、感染対策を忘れて行動することはできません。そこに、感染者がいる可能性があることを想定して、常に行動することが必要です。また、特に屋内などの換気は、その場所場所で状況が異なるので、個別に判断する必要があると思います。マスクも、アクリル板も、ウイルスを100%排除するわけではありません。換気、距離を取る、空気の流れなど、もちろん接触など細かく見る必要があります。
世界中が同じ状況の中にいる今、人類皆で、知恵を集めて、この時期を乗り切るしかありません。
そして、以前から指摘していた人がいるように、コロナが出現した原因は、人間による環境破壊です。環境問題に目を向けて少しでも破壊を遅らせるよう考えて行動することが必要です。問題の解決は根本から取り組まないと本当の解決はありません。ゴミを減らす、化学物質の使用を減らす、食べ物を見直す、農業を見直す、世界のサプライチェーンに目を向ける、などを皆が考えて行動するようにならないと、新しいウイルスの出現も減らすことはできません。
結局こんにちの混乱は、「政治的な意見を自信をもって発言する模範的な市民になりましょう」という、極めてうさんくさい学級委員長的規範めいたものから発せられていると言えるでしょう。
例えば政治学のせの字も知らない人々がこの風潮をうけたときまず何をするでしょうか。
GoogleやTwitter、YouTubeで話題のキーワードを検索し、ある程度の注目を集めているようである刺激的な「新常識」を目にするのです。なるほどそれらの「新常識」をめぐって、多くの人々が賛成と反対の意見を交わしているのを彼らは目の当たりにします。
なかにはテレビに出ている有名人や、なんとなく肩書きの堅い大学の先生もいるようです。
自分も早くたくさんの知識を吸収して話に追いつきたい、周りの人間よりも一歩賢い人間として自信をつけたいという、学校のお勉強以外ではじめて学びを得ることの楽しさや知的好奇心を発見した彼ら。次第にどこかのコミュニティめいたものに所属するようになり、仲間意識や自尊心も形成されていくことでしょう。
いったい彼らのどこを責められるでしょうか。
彼らは真面目な努力家で仲間思いの、社会や国を良くしたいという立派な目標をもった模範的な市民そのものです。
少しばかり学問の体系についての知識が足りないだけで、日々ひたすら誠実に新たな知識を探し自身の成長を求めているのです。たまに批判者に対して汚い言葉を使ったりもしてしまいますが、日本の文豪たちがユーモラスに罵り合っていたエピソードがあなたたちに人気であることを彼らは何度も目にしています。
で、こんにちの混乱を収めるために何が必要となるでしょうか。上のプロセスを踏まえていくつか挙げてみましょう。
・学問の体系が少しだけ身につくような挑戦の機会を義務教育中に与える
・インターネットには嘘と悪意がはびこっていることを知らしめる
・労働や趣味に打ち込むことで日常生活から充実感を得られるような社会構造にする
なんだかありきたりで見たことのある意見ばかりですね。最初の一つは除くとしても、どれも教育的で正しい、凡庸でつまらない意見に言い換え可能です。
ただ、これらの実現には相当の期間と多大な努力が必要となることは間違いありません。
この手間を避けて強引に混乱をなかったことにしようとするから、インテリたちは真面目な彼らを小馬鹿にする書き込みをするのです。いや、小馬鹿にする書き込みしかできないと言ってよいでしょう。
彼らもまた、一分野での成功を願い努力する才能をたまたま得られただけの人々なのです。政治や社会についてまともに勉強する余力がないので、なんとなく賢そうな社会学者の小言に同調しつつ、業界内の空気読みにふけっている賃金労働者に過ぎません。
ではこんにちの混乱を収める方法はもはや存在しえないのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。われわれは2つの可能性を無視してきました。
ひとつは、よくわからない観念は一掃し平静を取り戻した心で、日常と少しの非日常を真面目に生きる伝統感を獲得することです。これは、各自が自分の人生を一回きりのものとしてなるべく味わい尽くすように努め、それに多少のまぼろしを混ぜ合わせて一体感を作り出す、保守的な社会を目指すものとなるでしょう。
もうひとつは、すべての意見を外部のシステムに依存し、ひたすら物質的な世界に満足できる身体を社会的に創りあげ、民主主義を脱皮することです。これは、政治機構や巨大IT企業にイデオロギーを一任し、それに従うだけで正しさが付与される、内と外の善悪の熱気を帯びた合理的な共同体を目指すものとなるでしょう。
・【教育者が考える優秀な人】:何の教育者で考えるとは何を基準化したもので、優秀とはそのうちの何割なのか。
・二次試験が思考力を問い、1次試験で処理能力を問うてるらしい:一次二次の文字が違う意図と順序が逆な理由、その「力」とは具体的に何がどれだけ出来ることなのか、その問われている基準は得点か偏差のどの部分を問うているのか。
・ぼくがネットで調~い理由:個人が行ったことが個人として特有でない事を前提としないと他の人がそれを同じにできるわけがないがぼくというのはどの広義の平均を言っているのか。
・教育レベルの知識:他に何のレベルがあり、それらは段階としてどれだけあり、羅列していくというサンプル提示がそれらすべてなのか、結果を出して報告することなのか。
・詰め込み教育~できんかったのかな?:何の話をしているのか。詰め込み否定からのゆとり、成果物やエンタメとか意味が不明。「でした」「ありました」と成果をあげることと成果物の差は、エンタメとは「人が興味をもつ事、楽しいと感じる方法」のことであればその対象に付与されるべき装飾は結論について何らかの意味をもつのか。
・けっこう大事な観点:なにがどうどの分野において重要視されているのか。
・ゴリッゴリのヘンタイだったり、マニアックな形で知識を使ったりしててユニーク:手段は特殊であっても導かれる答えは有用であり一般的なはずだが、手段について特殊性を先述のエンタメや新しいものにする必要はない。伝統的な同じ数字と記号でしかできていないし公式の利用も同じで充分。用途にあわせて意外性を発揮することを創作と同じ未定義の空想や仮定を織り込むのはそんな妙な表現でするものではないはずだが。
・知識の使い方や見せ方を面白くできる人:継承には必要かもしれないが実質的に知識を利用するのは結果を出すことであって、当人の特殊性を評価するものではないはずだが。
他にも多く訳の分からない文章はあるけれども、最低限これらは定義していただかないと、妄想小説とかわらないのではないか。
文章の雰囲気から高校教育についての議題で高校教育の教育者が行っている教育内容について「教育者」が登場しそれらが考えている基準かのように見えるが、試験についての意見を述べているようなので「大学受験を採点する位置にいる教育者」の話のようでもある。
それらが混在するのであれば教育者に番号を振ってどの教育者の問題なのかを明確に分ける必要がある。化学物質の水溶実験をするのであればその触媒にもとから混在している物質ができるだけ少ないほうが結果を再現率たかくできるし要素を明確にしていたほうがそれをまとめて情報化したときに再利用できる情報として利用できる。
試験で何を問われているのかしらないが、問うからには答えを返す受験生がなにかの解答をしているはず。能力を答えるわけではないだろうという事から、能力を測定できるなんらかの結果を返しているはず。思考の力や処理の力とは何を指しているのか。
学校教育で覚えた定型の公式や基本構造の骨子を変えず代入する値や求めるべき結果の状態を変えて記憶したものを再現させる数学問題などで途中式や結果の正誤を採点している現在の様式についてなんらかの問題を提起しているのだと思われるが、学校教育の記憶とそれを応用する1場面中の注目点以外に採点基準があるのだとしたら、思考の力や処理の力とは何なのか。
後半は導かれた結果が、いかに大衆受けする身近で理解が容易く期待をさせ購入や投資などなんらかの行動を喚起するような表現方法をする必要性が書かれているようだが、人間の関心や行動が具体的にデータになっていないのではそれらがどれだけの割合で影響しているのか、人数以外では測定のしようがない。
人数で行動原理が測れるなら人に迷いはないはずで、そうなれば買い物や事故や犯罪について統計から正確な予測ができるはず。人の行動が予測できないためそんなものは出来ていないのはエンタメや新しいものというのは成果物の評価とは別のものだということになるが、そのいう教育とは一体なにを指しているのか。
文系ならば一旦理系のように、準備するものを紙に書いて一覧にしてほしい。
東浩紀氏のようにゴリッゴリの文系が言葉が世界を創るとか、準備なしでその場で言葉にするライブや動画での音声で知がどうのといった頭のおかしい事を言うそれの様に、その場で言葉で言ったから、先に言った通り、他の誰かの言葉を借りるなら、という構成では結果は再現性も再利用性もなくその場にそれが存在したというだけの証明にしかならない。
まず準備した要素を並べて合わせて、結果がでたのならそれら1要素ずつを組み合わせて得られた結果に有用性のあるものを残していった結果がどうなるのか。
理系であるならば、答えを導くための要素を準備の段階で精製し、再現率が高くなるように合成の手順を単純化し、得られた結果から従来の手段や結果にどう利用できるのかを文章にすべきだろう。
教育者に免許をもたないものや幼稚園の保育士も含むのか、考えるとか優秀なとは日常的な接触を含むのか具体的な試験のどれの得点を指すのか、それらをどのタイミングでどの部分を変化させれば現在に発生していない結果が得られるのか、それを示すべき。
いまの文章では砂場で泥団子や砂山をつくって、自分は城が創れるのだけれどもなぜみんなこんなものができないのか、これからはこういうのが大事だ
と言っているのとさして変わらない。
どの成分のどんな素材をつかって、どういう経緯を経ればどんな形を形成することができるのか、それは何に応用できるのか
そういうことではないか。
以上で凡そお分かりの通り、文系や理系にもどちらかよりに中間の者はいると思うが、それらが大きく異なる点がある。
理系の分野において否定をもって何かを成立させようとすると無限に否定の要素を永遠に試し続けなくてはならない。
できない、しない、たりない、ならば、できたことを、してみて、たしていく、をするだけだ。
魔法に制限がなく単なるデウス・エクス・マキナとしてしか機能してない感じ
なぜかプリンだけ都合よく開発されていない
王様が執務室で王冠つけっぱなし
なぜ揃いも揃って両手持ちで剣道型?
つまりここまで雇える主人公の総資産額が億超えてるがぜんぜん語られてない
ついに携帯電話登場
もうなんでもいいでしょ
物質に対する概念がいい加減なのに、なぜかウルフの在庫に関しては現実感を重視
クラーケン登場だけで海路封鎖されて物価が跳ね上がるから普通に商売したほうが早いと思う
身分が身分だけに囲い込みも簡単なはず。なぜ犯罪行為までする必要性があったのか
みんなで鍋を囲む風習が地中海気候の地域にあるの? 熱海付近と勘違いしてない?
ここまで見てもくまにした理由がこれっぽっちも見当たらない
フェニミスト協会グローバル本部という宗教法人でバイトをはじめてから2週間くらいたつ。仕事内容はそんなに難しくなくて、書類の整理が多い。PCを使うのは会員名簿を見て発送作業をするときくらいで、あとは古い書類の仕分けをすることが多い。
30年以上経った古い書類は個人情報に気をつけてシュレッダーにかける作業を先週はしていた。埃だらけのドキュメントボックスにはやたらと古い手紙が入っている。昔は団体の会報で人生相談みたいなコーナーがあったらしく、そのときに会員から本部に寄せられた手紙らしい。
ほとんどの便箋にはホッチキスで別の紙がついている。同じ人の筆跡で、かすれた青い文字で書いてある。見たことはないけど、これはたぶんカーボン用紙でとった昔のコピーなのだと思う。相談員か代表(?)が相談に答えた手紙のオリジナルは箱の中に入っていない。たぶん印刷のために写植に回ったのかもしれない。
手紙はたくさんあったので全部は内容を覚えていないけれど、廃棄後もまばらに記憶に残っているやつがある。たとえば、1983年12月付で、20代の女性らしい人から来た手紙だ。80年代っぽい丸文字で書いてある。
親愛なる総長様
いつも陽の光のような愛につらぬかれて生きていきたいと思っているのですが、最近は心に思い悩むことばかりが多く、また、ちょっとビロウなお話ですけれど、おトイレにばかり行きたくなるんです。それで、大きいほうがたくさん出てしまうのです。気にしていると余計、一日に何度も行きたくなってしまいます。まるで私、大きい方を作り出すだけの機械になったような気がして、苦しい思いです。気にせずに過ごす方法はないものかとますます思い悩むばかりです。
別紙で回答(?)がついていた。
迷えるフェニミの子へ
お腹が毎日張って苦しいことでしょう。また、みずからの「思いなし」に囚われていることも同様に苦しいものです。そのようなときにはなによりも、つねに私達とともにある唯一神フェニミの教えを思い出すことをお勧めしたいと思います。すべては太陽の如き神の愛に貫かれ、フェニミの意志によって設計されているのです。種から芽を出し、天に向かって伸びる花は、神の意志に沿って作られた機械なのです。あなたもまたその機械の一部であり、巡り巡る物質を摂取し、産み出すべきものを産み出す機械なのです。あなたは大きいものを産み出す機械であり、子を産む機械であることに気づくでしょう。神の意志に沿って、神の愛を感じて生きるとは、機械の動きのままに生きることなのです。そうすればおのずから心も安らかになってくることでしょう。毎日しっかり食べ、しっかり寝て、どんどん産み出していきましょう。
そもそも差別とは何か、なんちゃら差別という用語はほうぼうで見るし、学校でも差別について教える。子どもたちは差別はいけないことだと思いますという回答をしながら差別をするこの現状を教育機関は完全に放置している。
当たり前だ、子どもたちが本気で差別というものを理解してしまったら学校がいかに差別の温床かばれるからだし、世の中の差別問題の殆どが実は差別問題ではなく利権獲得闘争でしかないとばれるからだ。
まず、差別とは何かという話だが、端的に行って対象の属性で結論を出す、という行為だ。
問題にならない差別というのは、例えばそれが法律で定義されている場合だ。
選挙権の有無は年齢によって判断される明らかな差別だが、法律に定められているので差別だが問題ではない。
いろいろな国が自国に滞在できるかを国籍によって分けているが、これも合法だから差別だが問題ではない。
次に問題にならない差別は、誰も損していない場合だ。この損には金銭的、物質的、そして感情的なものが含まれる。
若い女性社員を捕まえて、結婚しないのか、彼氏はいないのかとか言う男性は差別をしているだろうか。金銭や物質的な損はしていないが、人によっては不快な思いをする。不快な思いをした人にとっては差別だが、不快な思いをしない人にとっては差別ではない。
フェミニズムでは女性ならみんな不快な思いをするはずだ、すべきだ、なんとも思わないならお前は男社会に洗脳されているか男にこびた名誉男性だよと言い出すのでおかしくなるが、このあたりは客観的に見れば「差別かどうかは人による」が答えだ。
力仕事は男がすべき、というのも同様に人によるが、男は力があるのだからこの作業で補助器具を使ってはならない、というのは差別だ。このルールは男性であることを理由に余分な肉体的負荷をかけているからだ。
昔どこかの会社で、男女の区別なく応募は受け付けるが、家の会社ではドラム缶を持って運んでもらうから実際にそれをやってもらう、と言っていたが、このアプローチは正しい。
では、よく買い物をする客には特別な割引をする、というのは差別だろうか?差別化戦略というものだ。
買い物の頻度で客を差別するな、と言うかもしれないが、これは差別化戦略だがここで言う差別ではない。なぜかといえば客の購買実績という客観的な事実に基づいた判断だからだ。
そして誰も損していない。
この割引分がそもそもの価格に上乗せされているかもしれないが、ものを買うというのは相互の合意に基づく契約行為なので、ならば買わなければいいと言う話でしかない。
というように差別というものは実はかんたんに理解できるもので、属性で判断した上に損させる、というものだ。
日本では普遍的な差別を局所的なものにしたり、局所的なものを普遍的なものにしたい人が相当多い。そのための理屈を日々編み出し続け、普及している人たちもおるようだから、注意したいところだ。
武蔵大学北村紗衣先生のディストピア文学の読み方が話題になっている。「ディストピア文学を自分の住んでいる日本に結び付けないのは問題」が話題になるのも当然で、数多くの専門家が北村紗衣先生の教えに反しているためである。
フィクションに限っては、人はユートピアよりもディストピアが好きだ。その心理は、ホラー小説や絶叫マシンを楽しむ心理に似ているのかもしれない。エンタテイメントとして「死」を疑似体験することで、私たちは命の価値を噛みしめ、平凡な日常の輝きを見つめ直すことができる。それと同じメカニズムで、「お話」としてのディストピアに浸ることによって、自分が身を置いている現実の良いところを再確認し、フィクションのディストピアが未来の現実にならないようにするには何を心がけるべきなのかと考える機会を得る。(書評 ディストピア・フィクション論…円堂都司昭著)
自分が今いる良いところの再確認(「日本はディストピア作品みたいになってない(これからもならないようにしよう)」)は、ディストピア作品が自分のいる場所を描いているとして読むことの真逆である。
「こうなったら嫌だな」とは思いつつも、現実感はありませんでした。ただヒトラーやスターリン下の世界では、こういうことが起こり得るのかなとは思いましたが。(社会人になって1984年を読んだ感想)
フランスの作家による新たなディストピア小説の出現だ。(略)終盤で一度ならぬ“どんでん返し”がある。本作はある種、現在のアメリカ、あるいはアメリカに象徴される利潤追求第一の物質的競争社会に対する、シビアな警告と挑戦状ともいえるだろう。(『透明性』/マルク・デュガン 書評)
(小川洋子著)『密やかな結晶』(英題The Memory Police、スティーブン・スナイダーさん訳)も「神話のような響きがあり、寓話(ぐうわ)でも、ディストピアでもある」と評された。帽子、リボン、小鳥、様々なものが消滅していく島で、秘密警察が消滅が滞りなく進むよう監視の目を光らせる物語だ。
日本では1994年に刊行された作品だが、選考委員は「何年も前に書かれていながら、あまりにも現代的で目を見張らされた」と驚きを口にした。米トランプ政権下などでフェイクニュースが横行して真実が失われ、コロナ禍で人々が集まる様々な活動が控えられる現実が作品世界に重なった。(興野優平)=朝日新聞2020年9月2日掲載(ブッカー国際賞、「ディストピア」がキーワード 小川洋子「密やかな結晶」も最終候補)
イギリスの文学賞選考委員であるが、ディストピア作品をアメリカと関連付けている。
身も蓋(ふた)もない本音で支持を集めるトランプを見て個人的に想起したのは<3>庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫・497円)だった。(略)「感性」がつぶしにかかる戦後民主主義ひいては人間の文明という「知的フィクション」を守るために薫くんは戦っているのである。だが勝ち目は見えず、敗北すなわちディストピアの到来が覚悟されて終わる。「知的フィクション」に、たとえば「ポリティカル・コレクトネス」(差別や偏見を含まない言葉遣い)などを代入すれば、トランプ危機との近しさが見えるだろう。 (ディストピアの予感)
日本を舞台としたディストピア作品をアメリカと結び付けている。
果たして今後、世界はどうなっていくのか。世界情勢とともにディストピア小説の動向を追ってみると、新たな発見があるのではないでしょうか。(【ディストピアとは?】「監視社会」や「行動の制限」などの“あるある”から徹底解説。)
ディストピア作品を世界情勢に結び付ければ発見があると書いている。
トランプ氏は、メキシコ国境の壁、難民やイスラム圏からの入国制限など過激な政策を進めているが、「独裁者を彷彿(ほうふつ)とさせる姿がこうした小説を連想させるのかもしれません」と山口さんは推測する。(好調ディストピア小説 トランプ政権誕生で脚光!? 小松左京さん「アメリカの壁」も電子書籍で)
文芸春秋では「小松さんはSF作家であると同時に優れた文明史家でもある。小松さんの鋭い洞察に触れることで、米国でいま何が起きているのか考える契機になるのでは」と話す。(同上)
批評家の佐々木敦さんは「トランプ氏の存在自体が戯画的。以前は考えられなかったようなことが起こっている」と指摘。「現実がフィクションを超えてしまった。今を知るための手がかりとしてディストピア小説が読まれているのでないか」とみている。(同上)
(北村紗衣先生の教えでは、間違った解釈や浅薄な解釈となる)日本以外に結び付けるというディストピア作品の解釈は、学生だけではなく、書評の専門家にも多く蔓延していることが実例で明らかになった。「アメリカはディストピアだ」と言っておけばよいといった間違いで浅薄な解釈が、日本のみならず、イギリスの文学賞選考委員にまで広がっていることは、驚愕すべき事実である。数々の専門家も間違えている、「ディストピア作品を新しく、深く解釈するために、自国に結び付けることを常にしなければならない」というディストピア作品解釈の素晴らしい方法を公にされた武蔵大学と北村紗衣先生に感謝し、世界中の人にぜひとも広めてほしい。
横だがこういうことだと思う。
細菌は目に見えないが、細菌の影響で作られた物質は目に見える。
小島慶子のことは嫌いではなかった。むしろ好きな部類に入る方の有名人なのだが、このエントリ(https://fujinkoron.jp/articles/-/2959)はホント胸糞だ。
正しそうな、何一つ彼女の論理に破綻がなさそうに見えるのに、読後感が半端なく胸糞なのだ。その証拠に、何が胸糞なのか整理するのに3時間も彼女の言い草が脳内を反復し、ゲロを吐くのを我慢しながら考え、時間を浪費してしまった。
その整理してみたけれど、きっとまだ整理しきれていない胸糞の原因は以下の通りだと思う。きっとこれから、もっとその原因が浮かんでくるとは思うが、いま書き出さないと脳が爆発、というより腐りそうだ。
匿名だから敢えて断っておく必要もないだろうが、決して売春や風俗を肯定する気はないし、女性の方が歴史上自由から迫害されて、総じて不幸せな環境にあったことも認めるし、自分自身もその加害者であったことがあることも認める。しかし、しかし、だ。あまりにも気持ち悪い理由は:
(1)夫が風俗で遊んでいたことに対して、すごくインテリ的な立場で非難している点。
前述したように、男性が風俗で遊ぶ際、女性性をモノ化して消費している側面はある。そのことに嫌悪感を感じる人も少なくないだろう。風俗やポルノが一般に忌避されているのは、人間味が損なわれて、消費の対象のように感じられるからであろう。しかし世の中には男性が男性を、女性が男性を、女性が女性を物質化して消費するような需要も少なくない。物質化された側が被害者意識を持つことは直感的で、痛みを感じることは、個人的に理解できる。しかも小島が感じた痛みはそんなインテリ的な、形而上の概念が原因であるはずがない。自分を物質化しないと生活ができないような同性に配偶者を一時的に寝取られた悔しさや、嫉妬、さらには低俗なサービスに欲望の解消を頼ってしまうような弱いオスを選んでしまった自分に対する憐憫や敗北感があるのではないか。もっと言えば、自分が腹を痛めて産んだ子供の父親がさほど強くなかったことや、腹を痛めた子供の育児中に欲望を一人解消していたことに対する妬みや、自分よりも低収入な夫がそんな贅沢な遊びをしていたことに対する嫉みも入り混じっていることを小島は自覚していない。
(2)インテリ的な非難をするのに値しない、低レベルの自意識。
配偶者は自分のDNAを後世に残すための精子提供者という一面を持つ。自覚できるかどうかは置いておいて、DNAレベルの判断を私たちは動物的に行っている。だから、理由なく異性を意識したり、性的魅力を感じたりする。そこには「異性を物質化」しているかどうかの理屈の入り込む余地はない。異性を異性化しているだけだ。女性が出産後、配偶者への愛情が低下するのも育児にエネルギーを手向けられるように進化の過程でできた適応だ。その適応の結果、DNAを未来に繋ぐために選んだ配偶者は、モノ以下になる。しかも夫の方が収入が低いとなれば、夫は生は、ほぼ用なし状態だったはずだ。自分は男をモノ化しておきながら、棚に上げ非難するのは完全に最も小島が非難している「自分に向き合っていない」ことにならないのか?自分に向き合っていない小島が自分に向き合えず結婚生活の継続だけを求める夫を非難できるのだろうか。小島は、収入こそ妥協したかもしれないが、健康的で異性として魅力的な顔立ちや体つき、一緒に子育てのできそうな精神的な安定に魅力を感じて配偶者を決めたはずだ。これこそがDNAとしての異性選択ではないのか、自分に問いてみるべきだろう。
(3)息子たちの性教育が終わったと断言できる浅はかさ。
性教育という概念はまだ新しい。しかも、その歴史を見ていくと、内容も時代とともに変わっている。つまり、「性」についての答えはまだ出ていないと考えるのが普通だろう。出産後の夫の不誠実さを悲しく感じることと、それと性教育との関係性はあまりにも薄い。生殖の仕組みについては、科学的な見解があるが、同性愛の問題も含めて性衝動や性的な魅力、恋愛感情についての科学的な理解はまだまだ一般的な正解はない。きっと小島が言っている「性教育」は「現代における社会的に容認できる性行動教育」だ。同じ科目が50年前に存在していたとすると、まったく内容は異なるし、それこそ男女間で大きく異なる。50年後も大きく違っていることだろうと予想する。こんな母親に育てられた息子たちが不憫でしょうがない。性は、表出化する行動であるだけでなく、人類がここまで繁栄、繁殖してきた原動力であり、私たちが幸せやエクスタシーを感じる手に取って誰もが感じることのできる能力なのに。初恋の気持ちや、愛する人を求めてしまう情動、そんな相手に振り向いてもらえなかったり、離れた時の悲しみは理屈ではなく、他ならぬ人間が持つ感情である。何度も言うが、小島が感じた悲しみや絶望を非難しているのではない。気の毒に感じる。小島に原因があったと言っているのでもない。
(4)今も夫に続けられる公開処刑。
現在別居状態にあり、風俗も禁じられているとすると、夫は極度の禁欲生活にあるに違いない。夫も極度の絶望状態にあることは想像に難くない。息子たちに過去のみっともない姿をバラされて、世間にも暴露され、それでも専業主夫を続けるのはもはや生存戦略でしかないだろう。私はキリスト教徒ではないが、罪をもって生まれてきた人間が幸福を目指して生きるには、欲望や邪念、煩悩をある程度昇華していくしかない。それを一人胸の内に閉じ込めたまま、矮小化された欲望だけが吊るしあげられた状態で生きていくのはかなり辛いだろう。小島には欲望は存在しないのだろうか?有名になりたい、モテたい、社会に貢献したい、子供が欲しい、お金が欲しい、自由な時間が欲しい。そんな欲望を本人は十分に発揮しているにも関わらず、あまりにもおぞましく強権的な攻撃ではないだろうか。それを恥ずかしげもなくモラハラになるかもしれない、などと言って経済的な支援だけを行っている気になっているとしたら、それこそ風俗で満たされるような支配欲を自分の夫で果たしたことになると言える。偉大な権力を持っていることに無自覚な罪だとすればバカでしかないし、知っていて快感に浸っているとしたら、一応ファンもいるのでやめてほしい。
専業主婦やハイクラス主婦をターゲット読者とする婦人画報は、ある意味女性性を売り物にして、収入の高い男性と豊かな生活を送るための情報を提供してきた。そんな中、夫の不貞や遊びで苦しんできた女性も少なくないはずだ。不倫に関する記事も読まれやすいだろう。不安を煽るビジネスはメディア業界の常套手段である。しかし小島のこの記事は不安ではなく、怒りを煽っている。つまり炎上商法だ。小島のライフスタイルをカッコよく憧れの対象と見せつつ、「女性の物質化」という尤もらしいが、誰も幸せにならない概念を売り込んでくる。小島の家庭事情を少しずつ切り売りして、そのネタとして夫の風俗通いがオチというのはあまりにも貧相な結末としか言いようがない。
女子アナとして知名度を持てるほど、メスとして魅力があるのが小島だ。メスが魅力的に映るには生殖能力も必要だが、優れたDNAを育み育てるための知性が必要だ。それらを存分に自覚し発揮し、その影響力を利用したスマートな生き方を体現しているのが小島慶子だと思っていた。昨日までは。
小島はスマートだと思っていただけにこの文章にはがっかりした。スマートであれば、どこかで自分の無知や認識の浅はかさを知って、愛する人を失う悲しみを乗り越えてほしい。人間が何に喜びを感じ、何に絶望を感じるかを知れば、きっと幸せになれる。