はてなキーワード: 物質とは
仮想通貨については前置きで本題は宗教の方なんだけど、背景としては次のようなものがある。
・仮想通貨の相場がいま全体的に上がっている。ただ、知ってのとおり乱高下の激しい市場なので、損が出たときはもちろん、儲かっても精神的にものすごく消耗しやすい
・宗教云々言っているが、俺は無宗教で無神論者だ。いつか信仰が雷撃のように俺を打ってくれればいいと思ってはいるが、たぶんそういうことはないだろう
・人は必ず死ぬ
…
一昨日、仮想通貨の銘柄の一つであるxemが高騰し、前日比で20%ぐらい額が上昇した。約3年前に日本の取引所からハッキングで流出したために話題となり、あまり良くない意味で有名な銘柄だ。
俺も保有していたので利益は出たが、想定以上の値上がりにかえってテンパってしまい、しょんべんくさい利確を繰り返して微妙な収支に終わった。そういうわけなので、「あのときああしていれば…もっと…」という強欲な後悔がいくらか割と残っている。
この後悔の根っこには、あるルールが俺の中で不在だったことが原因にある。株でもFXでも仮想通貨でも、あらゆる金融の教本やサイトで共通して書いてある「自分との約束を作り、これを守れ」というルールだ。例え、いくらで利確しいくらで損切りしろ、とは書いていない教則でも、この原則だけは必ず書いてあるのだ。
結局、運用にあたって売買の目安となる約束を自身との間に設けておかないと、今回の俺のように場当たり的な売買を繰り返して心の底から疲労し、収益を素直に喜べない。というか、利益が出たからまだいいものの、これで損失が出ていたら立ち直れない。
妙な気もするが、投資においてはまずは自分との約束を律儀に守ることが優先され、純利とはそこからもたらされる精神の平安に伴って自然とついてくるもの、なのかもしれない(本当にそうかは知らない。何しろ俺は金融に関してはポンコツなので)。
…
ただ、ここで約束という行為には、もうちょっと観念的な意味合いがあるんじゃないか、と思っている。それは、何かを決めてそれを守る、というルーチンを徹底することで、流れていく時間の上に想像上の節点を置き、好循環を意識させる働きがあるんじゃないか、ということだ。
例えば、
・「当初の目標の+値に達したから売った」→「得た利益で他の銘柄を買い、それも値段が上がった。一方、売却した銘柄はその後チャートが下がった」
という具合だ。
これは時間の流れに約束という節目を置いたからこそはじめて自覚できる好循環だ。約束をする、そして守る、という時間の区切り方によって、人間は自分が良い流れの中にいる、というイメージを持ちやすくなり、次のアクションを取る精神的な敷居が下がる。そして、それがさらに良い結果を生む、という具合に好循環が持続する。反対に、ここに約束が介在しないと、漫然と得をしたり損したりを繰り返すうちに精神がすり減っていくことになる(特に負けがかさんだ場合)。
え? そんな都合よく転がるか?
転がらない。
実際は、目標の含み益に達した銘柄は売却した後もさらに上がり続けるし、事前に設定した一線を下回ったので売った銘柄は、その直後に反転して値が上がり始めることも多い。
ただ、それでも約束が無意味ということにはならないと思う。ここには、人間の精神というやつの良くも悪くもいい加減な本質が関わってくる。
俺は、人間は直近の近視眼的な損得に一喜一憂するのと並行して、長いスパンの時間で因果を良い方に解釈することを自らに許す生き物だと思っている。
この世には値段が上がり続ける銘柄なんてものはないので(例外除く)、早めに利確しすぎて指をくわえて見るしかなかったものも、一晩寝れば結局落ち着いていたりする。損切直後に反転して悔しい思いをした銘柄も、やっぱり一晩寝ると、起きたら大幅に値を下げていたりする。
ちゃんと約束を守っている者の目には、利益は出ているように「見える」し、損は抑えられているように「見える」ことが多い。実態としてどうかは関係なく、好循環なんてのは結局は主観次第のサジ加減一つということだけど、俺はこれも知性の一つのかたちだと思う。
…
で、約束という行為を骨子にして俺たちのメンタルを安定させ、好循環という錯覚、あるいは人生観そのものを構成しようとする営みが、金融以外にも、もっとデカいフレームとして存在する。宗教だ。
あえて断言するが、たぶん、約束という概念がない宗教は存在しない。聖書の旧約・新約なんてまさにそのもので、これは、「(神との)旧い約束」、「(イエス・キリストとの)新しい約束」という意味だ。
宗教は時節によってやるべきことを定め、やってはいけないことを定め、本来は脈絡なく流れていくだけの時間の上に節目を作る。設けられた節目は他の節とつながって、約束を守ってきたから生きてこられた、という好循環(に見えるもの)を形成する。宗教とはある意味、約束を守り続けることで自分はいま良い循環の中にいると感じるためのシステムと言い換えられると思う(実際のところ、キリスト教の背景には「これまでの神との約束、厳しすぎて正直しんどくねえ?」というのがあるが、話がややこしくなるので触れない)。
この状況では、約束を破るのは人生を放棄するぐらいのインパクトがある。本当に執行されるのかは知らないけど、イスラム教なんて棄教したら教義上は死刑になるぐらいだ。つまり、約束を破ると文字通り人生がぶっ壊れてしまうのだ。
…
ところで、人間は必ず死ぬ。死後の世界云々は置いておいて、とにかく確実に死ぬ。つまり、金融における好循環の終点に目標となる利益があるように、人間の終着には死があらかじめ確実に設置されている。
ここでたちはだかるものすごくデカい問題は、人間が自分の死に様を選ぶことがほぼ不可能だということだ。順風満帆に生きていても病魔で苦痛にまみれて死ぬかもしれないし、反対に辛酸をなめ続けてこれ以上つらいことがあるかと思ったら結局もっと苦しんで死ぬかもしれない。事故でいきなり死ぬこともあるかもわからない。死は完全に中身が不透明な箱だ。その中から何が出てくるかその瞬間までわからない。
最後に待つブラックボックスから逆算して、それでも人生を好循環によってとらえようとするとき、どんな人生観ならちゃんと機能するのだろうか? 生きていく勇気を持てるだろうか?
何もかもがフラットにゼロ価値だ、という超物質的なニヒリズムを除くと、俺は宗教しかないんじゃないかと思う。フツーに無宗教で生きてます、ってかなり苦しい。俺がそうだけど。「生きて生き続けた最後に、お前はめたくそ苦しんでこれ以上なくみじめに死ぬ」という貧乏クジが一定の確率で出てくる箱に手を入ざるを得ないとき、「何にしたって、とにかく自分は神(あるいは霊的な何か)との約束だけはこの人生で守りとおした。だから人生はちゃんと好転していたはずだし、この死にも意義が存在する」という以上に人間の精神を守るように機能する人生観って、正直マジでないんじゃねえかな? と思う。
これはその通りだと思う。
ただ増田の主張「保守的な価値観と家族感がさんざん人々を苦しめてきた」
これが違うと思うんだよ。
現代のような、人々の繋がりが薄く孤独を感じやすい世界の方が圧倒的に苦しいと思う。
田舎で作った1をかき集めて他人がかき集めてきた1の集まりより
どれだけすごいか相手がどれだけダメかを宣伝して付加された価値をかすめ取って生きてる
借り物競争で負けて0が0のままだと他人が増やした付加価値をお恵みいただいて生きてる
娯楽がそう 自分が娯楽を提供するから勝ち組からおすそ分けをもらう
都会に娯楽があふれているのは勝てない宣伝と刷り込みがあるから
食費がひと月1万円もいかない生活ができる地域があるのに都会では5万円もかかるなど
その行為がまともではない事を本人もわかっているので気を紛らわせる娯楽が必要
農業で神事を行い0から1を作って刈り取る残酷さが自分に向けられないよう
刈り取ったところに返納し感謝する
他人を押しのけて突き落とし勝ち上がってきた自分が他人からみれば同じことをされてもおかしくない
その危機感を薄めるために多くの娯楽がある
都会と断絶することで実現しようとして過疎になったり継続性のみを重視して保守的になったり
コミュニティ単位での運営に成果と報酬を単位づける風習が減っているだけ
どこが住みにくくてどこに住みたいかなんてものはどこにだってある
自分の気持ちの表し方に人間を使って経済をつくってる都会にあわせるのか
自分の気持ちの対話の相手が人間以外多種多様な田舎にあわせていくのか
他人がつくった環境や伝統やルールで飼われて生かされていくのがつらいのはどこでも同じ
メンヘラでオタサーの姫でサークラでバイでM女だった私が、一般男性と結婚するから一部始終を聞いてくれ。
最初に言っておきますがこのページは100%自分語りと惚気です。
相手:30代前半正社員、程よく筋肉質なイケメン、但し重度のオタク
ここまでで分かる通り、私は自己肯定感が皆無だ。他者肯定だけでなんとか生きてきたタイプのメンヘラだ。
家庭問題のアレソレで心身症を引き起こし、どことは言わないけど学校を中退して、向精神薬漬けになり。ド底辺メンヘラが家を出るために生計を立てられるまでに社会順応するには、平静を装うために精神衛生をある程度保たなきゃいけない。定職につくまでえらい時間がかかったし、努力も要ったし、パニック発作を抑圧するのがしんどすぎたし。選んだストレス発散方法が、セックスだった。
選んだというかそれしかなかったというか。
幸い男性に好まれやすい体型に恵まれていたのと、自分の言動に対して相手がどう思うかを考え続けて生きてきたのでモーションをかけるのは得意だったしで、相手に困るということはなかった。選ばなければヤりたいだけの男なんていくらでもいるんだから当たり前だが。また、男性側も恐らく相手を選んでいなかった。全てが希薄で、霞のようだった。
それに慣れてきたら、今度は関係性を築いて壊すのが快感になっていった。
好き好き言ってべったりくっついて、ずっと一緒にいようねとか言って、急に連絡をプツンと切る。付き合ってるわけではないのに激昂した相手にストーカー紛いのことをされたこともあったりしたが、脳が快楽物質を出すそれをやめられなかった。喪失感の擬似体験が好きだなんておかしかったよな、良く今まで刺されずに生きてきたなとも思う。
それにも飽きる頃、もしかしたら男が嫌いなのではないかと思い始めた。散々良いように使ってきたのにだ。試しに女性と付き合ってみたら最高だった、関係性を保ちたいと思えたし、セックスなんてしなくても心が潤ったし。お母さんに愛されるってこんな感じかなとか思ったりもしたし。ただレズは大体病んでるから。メンヘラ同士というものはなかなか安定しないものだ、問題ばかり起きて続けるのが苦しくなった。
SMを趣味にしている彼女がいた。縛られて、叩かれて、首を絞められて、頭を踏まれて、綺麗な顔で眉ひとつ動かさないでこちらを見下す彼女のことを見て、このひとに一生ついていくんだと思った。
呆気なく別れてからもそれが忘れられず、アングラの世界に飛び込んだ私を待っていたのは壮絶なS女争奪戦だった。絶対数が少ない彼女たちには多数の貢ぎM男性がいて、侍らせて楽しんでいて、とても貧困アルバイターの私が入り込める世界ではなかった。自然、そこにいるS男性と関係を持ち始めることになる。
私の人生、ノーマルセックスよりもSMの方が多く嗜んでいるかもしれない。サークルをクラッシュしたりなどして気まぐれに遊んでいた時期とは逆転し、まさに奴隷みたいな生活が続いた。金銭を差し上げることは出来なかったけど、呼ばれたら駆けつけて家事をしたり甲斐甲斐しく世話を焼いたりしてそれでやっとプレイをして貰える。ありがとうございますと咽び泣き、ストレスを昇華する。たまの気まぐれで推しの女王様に遊んで頂けたときなどはもう、そのまま死んでしまいたいくらいだった。
この辺りで晴れて就職して正社員になっているのだけど、それでもストレス発散の捌け口は必要で。普通に普通の社会で生きるって難しいね。
肉体的な性欲を発散させてくれるSはそう多くない。お預けにお預けを重ねたり、縄で縛って苦しめて終わりだったり。性欲だけを発散するのには自慰が必要だったんだけど、自己肯定感がないのでひとりでは気持ちよくなれない。行き着いたのがテレフォンセックス、エロイプだった。
互いに慰め合うのが心底苦手で(男の喘ぎ声なんか聞きたくもないし)、一方的に虐めてくれる人だけを探した。女性にしてもらった事もあるけどコンマ数%だ、ここでも取り合いなのかと辟易した。
ここでも色々やった、催眠だの脳イキだの耐久5時間だの...現実で慣れっこだったから、あまりハマらないタイプの相手だと思考を飛ばして次の食事のことなどを考えながら事に及んでいた。全てがインスタントだった。
大抵はそんな内容の相手を誘う書き込みなのに、たまに普通に接してくる変な人が混ざっている。そんな人達と話すのも結構好きで、友達になることも多かった。婚約者は、その中の1人だ。これを読んでいる人は驚くだろうか、私も驚いているけれど。
最初は普通を装って、ワンチャン1発ヤリたいだけの人かと思った。ら、キチンと付き合おう、結婚をしよう。なんて言い出して、いやいや信じませんからねと笑っていたものの、付き合って数年、双方の親の顔合わせまで済んで、会社への報告も済んで、籍を入れるだけになっている。年内には済ませてしまう予定だ。嘘だろ。苗字が変わるらしい。
ここまで書いたことを会う前からほぼ全て知っている上に、出会ったのは私の酷い書き込み、初めて会ったのはホテルで言わずもがなそのままシケこんでいて、そんなセフレルート一択の男がしかもドノーマルの男が、旦那になるらしい。
愛の言葉も何も信じないと言い切る私に、信じられるくらい一緒に居ればいいねとか宣い、挨拶代わりのキスとハグをくれて、毎日褒めてくれて、私の精神的な発作にも文句も言わず付き合ってくれて、それで精神が壊れなかった人は初めてで、強メンタルとはこのことか...となるなどしている。この話になると惚気しかなくて無理。
今でもふらっと、遊んでいた場所に行ってみることがあるけれど、婚約者を越える良い人が転がっているはずもなく全く楽しくない。それを認識して遊ばずに彼の元へ帰る。ずいぶん丸くなったもんだな。
ただ、今のこれも他者肯定に完全に頼っている自覚はある。少しでも嫌われたら、また舞い戻ることになるだろうと。全面的に肯定されることが初めてだから戸惑うけれど、この環境なら自己愛を育めるかもしれない...と淡い希望を抱いていたりはする。少なくとも状況証拠で彼が私を愛していることは間違いないし、私も彼を愛している。生涯を共にすることを誓ったから結婚するのだから、まぁそうなのだけれど。
最近気付いたのだけど、普通にモテそうな彼が私を選んだのは今までまともにセックスできる相手がいなかったから。その...サイズが...あの...規格外で...私は慣れてるから...未だに痛いこともあるけど...致せないほどではないから...
つまりほぼ童貞だった。可哀想。今色々仕込んでるし結果オーライ。神様奇跡をありがとう。
ちなみに私のどこが好きか聞くと、笑ってくれるとこだって答えてくる。ずるいぞ、いつも機嫌良くいたくなるだろ。
ばばばっと書いたのでアラが凄いけど明日の朝になったら躊躇って投下しなくなるかもしれないからエイヤと投げます。長すぎて誰も聞いてくれないぜこんな話。リアルの知り合いには絶対バレたくないしね!!!
・たぶん一生独身
人を愛する素晴らしさは理解しているし、まっとうな人間には必要なことだとも理解している。
煩わしい。
その感情だけを優先して生きている。
右を向いても左を向いても毎日争いあってる。
建設的な議論なら歓迎だが大抵クソしょうもないビジネスのための火付けか、
2020年前とたぶんやってること変わらずに科学技術だけ辛うじて前進し続けている。
ヒトが単純に幸福を目指そうとする社会や、同じ問題過ちを繰り返さないための学習というものを社会が行えていない。
その様をこの先ずっと見せられるのかと恐れてから我が家にテレビを置かなくなった。
私より知性的で賢いであろう大人たちが自分の立場と金のためにこどものような喧嘩を繰り返すのを見続けなければいけないのは地獄だ。
自分の限界を知って適正がないことも知っているが、人生を修正するモチベも体力もない。
自分のやりたかったこともやりたくなくなり、何を糧に生きているのか分からない。
アニメオタクはけものフレンズショックで強制的に卒業させられ、
本を読むのもめんどうで、辛うじて漫画だけは読んでいるが面白いと思う作品は減り続けている。
シンプルに何を自分がすべきかは把握しているが、目的が気力を出す動機として不十分…いや、興味を持てないため行動できない。
心技体とはつくづくよく言ったものだと感心する。
・死が怖くなくなってきた
昔は死ぬ事自体に強いストレスを感じていたが今はかなり薄くなっている。
このまま生き続けていても自分に大きな変化はないのを気づいたときからかもしれない。
元々飽きっぽい性格をしているが毎日に新しい刺激がなくなり、退屈している。
さりとて犯罪者になるわけでもなく、凶悪犯のような他人の幸せを理不尽に奪う順法意識のない人間を嫌悪している。
自分が30円引きのヤマザキパンを旨そうに食ったところで地球の裏では孤児たちが飢え死にしている。
それは国内でも同じことが起こっているし、祈りが今その瞬間に等しく分け与えられるときは永遠に来ないので平穏な食事はあり得ない。
水が上から下に落ちるのが当たり前で、ずっと変わらず起きているのと同じように誰かの不幸の裏には誰かの幸福が隣り合い続ける。
地球を中心に太陽が回っている事をいまさら信じるやつはいないし、千年たっても変わらないものを変わると信じているやつもどうかしている。
誰かの幸せも泡のように消えるのが世の常であり、できることは人生という物語を綴って誰かに忘れられるまで残す程度のものでしかない。
・生まれる前は
死後の世界に興味を持つ人も、正しく生前の世界について話題にしている事は少ない。
どちらも自分がこの世に存在しない世界であるが、死後にどうなるか話題になっても生前自分はどうだったのか気にする人はいない。
何もないところから自分が生まれたのであれば、当然死によって何もなくなり、きわめて低い確率で何らかの生物に生まれ変わるのも可能性としては残る。
正直なところ、自分は二度とこの世に生まれ変わりたくないと思っている。
安寧の無があるのなら自分はそこに入りたい。
所謂神話としてのゼウスのような存在というより、プログラマーとしての神をイメージしている。
プログラムにはすべて目的があり、実在として道具は総て目的があって作られている。
人間の世界でいえばガンプラの目的はプラモデルを作る楽しさをモデラーに提供することであり、創造主はバンダイだ。
単純に考えてこの宇宙を作ったのは神であり、目的までは分からないにしても何らかの事情があるのだろう。
とにかく、在るということを肯定したこの基盤でまた生と死を繰り返す退屈さと苦痛を別の形で味わう事にはなりたくないという思いが、今は死よりも強くなっている。
反出生主義は幸福になれない可能性から誕生を否定するが、私はこの世界で生きる事そのものが悪であり不幸だと思っているのでやや主義が異なるように思える。
私は両親に感謝しているし、彼らの長所や短所も理解している。その上で自分をよく育ててくれたと思っているが、生きる事そのものが不幸だという考えは変わらない。
もちろん実際に自分が死ぬ場面に直面すると本能的恐怖に縛られるのは想像に難しくないが、平時における心境としては二度と神の道具の一部として生まれてきたくないと考えている。
生きる事の罪を業というのは人の口であり、自分はそれを信じていないし信じる気にもならない。
なぜなら何も分からずに遺棄され死する新生児は、何の罪と反省の意識があって死ぬというのだろうか。
宗教は祈れない者を救えない時点で信じるに値しない。
今でも乳幼児が飢え死にしかけた状態でお菓子の袋を破こうもがいた話が脳裏にこびりついて離れない。
神が善良であればあるほど、彼の死は重く、決して許されない。
神の使徒を名乗るのであれば彼を救えたのか。救おうとしているのか。いつになれば救えるのか。
私は忘れない。
・余談
あまりブコメに対する返信というのはしたくないが反応があったのと気になった点があるのでここに追記する。
事故死や病死する、凶悪犯罪者となり懲役刑を受ける、仲が悪くなり絶縁する、他人に殺害される。
もしくはこどもに される。こどもを す。
そういった可能性をこどもを持った地点から自分が死ぬまで抱え続けるという事実にはきちんと向き合えているか。楽観的すぎてはないか。
その不安に目を向けているのであれば危険に対処するための行動ができると思うが、ブコメを見ている限りだと「育てるのが大変な猫を飼った」程度の肯定感しか得ていないように見られる。
悲観的だと馬鹿にするのは少し待ってほしい。
失ってみないと分からないのではない、体験しなければ分からないのではない。
何のために想像力があるのか思い出してほしい。
親であるあなたはまた新しい死、新しい不幸を本能によって作り出したに過ぎない。
生存競争という恐ろしい渦中に新しい命を、あなた自身の意志で落としたに過ぎない。
こどもを抱えて頭の中の快楽物質がそれを正しいと言い続けても、事実は変わらない。
死の連鎖を繰り返した事に対して、そんなものに頼らず真正面から、あなたなりのきちんとした反論を用意しなさい。
あなたは訪れる恐怖の予感から、それは発達障害や鬱であると断定して逃げる事は容易い。
・ソープと筋トレとサウナでは解決に限界があり、彼ら自身それに気づいている
動物的快楽にも個々人に生まれ持った適正があり、それがないものには当てはまらない。
なぜ彼らがここまでソープと筋トレ(とサウナ)を信じて布教させようとしているかは、それらをやめた話を本人から聞くだけで済む。
続けている彼らは自分たちの努力や発散が「報われ続ける」ことを信じている。
意図的な継続の裏側にもまた、恐怖が根源としてある。「やめたらどうなってしまうのか?」という恐怖だ。
他人にそれを勧めるのは自分の信じる神を広めたい、宣教師になりたい動機がある。
いつか終わりが来ることを日々頭の片隅で実感しながらも、それを認められない脱出口として「布教」を選択している。
強い刺激は人の考えを変えさせるのに十分な切っ掛けだが、刺激というのはいつか慣れてしまう。
ソープ、筋トレ、サウナそのものを目的としているならともかく、何かの解消手段として行っている者は慣れた刺激と得られる報酬の差が開き続ける。
その結果、神格化して代わりの新たな報酬として「自己肯定感」を得ようと躍起になる。
「あらゆる悩みが〇〇で解決されると信じる」ことが目的にすり替わる。
筋トレで解消できているんだと、解消できている自分は素晴らしいのだと。
純粋に筋トレによって得られる効果だけで満足しきれなくなっている自分に薄々と気づいていながら。
身もふたもない言い方だが、思春期以来のオナニーと違う新しい刺激に興奮したものの、だんだんと刺激が減ってきて横道にそれた結果が布教という形になっている。
この1年で感じたことは、多くの親が感じていることだと思うけど、あまりに現代社会は育児するには環境が厳しすぎる。
近くに頼れる人がいない。
地元で就職できればよかったが、内定出た企業は一つだけ、地元は離れた。妻の実家はさらに遠い。
交通網、技術の発達で親元から遠く離れて住むことも多くなった現代、新幹線や航空機があるとはいえ
頻繁に、すぐに親に来てもらえる環境ではない。
保育園に入れない。
政令指定都市近くのベッドタウンに住んでいるのだが、周りにマンションとかが急増していて
まったくもって保育園が足りていない。
自分自身も住んでいるから人のことは言えないのだが、あまりにも鉄道沿線に人が集まりすぎていないか。
鉄道会社、不動産会社はこの戦略が儲かるんだろうけど、あまりにも過密に感じる。
日本国民もほとんどは声を上げてない、そういう私もインターネットの片隅に愚痴を垂れ流すだけ。
一人が立ち上がったところでたかが知れている。
自治体もしょうもない観光センターなんて作ってないで保育園に金を回してくれ。
まず妻の仕事先の上司が醜悪な人間らしく、仕事復帰の不安が募っている。
そんな職場ならそもそも辞めてもいいと言っているが、人出不足やら逃げたくないやらで続けることにこだわる妻。
出産後のホルモンバランスの崩れでただでさえイライラが募っているのに余計なストレスを生んでいる。
感情、もとをたどればホルモンだとか神経伝達物質だとかのごく微量の体内物質に帰着するのだろうが、
そんなちっぽけなもので普段の行動を大きく左右されてしまう人間。
人間は理性というものがあって感情、行動をコントロールできるのだろうが、
助けを求めるためのハードルが高い。
心を病んでいる人に、自治体の支援やこころの電話窓口やら地元の団体やら心療内科を調べて助けを求めるという行為はなかなかできない。
妻自身は全くできなかった。代わりに私が助けを呼ぶにも、平日の仕事は忙しい、家で気力はない。
家にいるときでも妻は不機嫌で、助けを求めることについての相談さえできないことばかり。
そんな中でも自分が動かなければと思って、近くの心療内科に予約のために電話した。複数の医者に電話したが、予約埋まりすぎ、混みすぎ。
コロナの関係もあるだろうが、なかなか都合がつかずに予約ができない。
でもわかる、こんなに複雑化した現代社会で、不完全な存在である人間が生きていくのは本当にしんどい。
ほとんどの一般市民は苦しみながら細々と生きて死んでいくだけだ。
そんなの大昔からそう。現代じゃなくてもそうだっていうのはわかっている。
でも、この数十年は46億年の地球の歴史の中でもあまりにも劇的な変化が起きた年代だったはずだ。