そもそも差別とは何か、なんちゃら差別という用語はほうぼうで見るし、学校でも差別について教える。子どもたちは差別はいけないことだと思いますという回答をしながら差別をするこの現状を教育機関は完全に放置している。
当たり前だ、子どもたちが本気で差別というものを理解してしまったら学校がいかに差別の温床かばれるからだし、世の中の差別問題の殆どが実は差別問題ではなく利権獲得闘争でしかないとばれるからだ。
まず、差別とは何かという話だが、端的に行って対象の属性で結論を出す、という行為だ。
問題にならない差別というのは、例えばそれが法律で定義されている場合だ。
選挙権の有無は年齢によって判断される明らかな差別だが、法律に定められているので差別だが問題ではない。
いろいろな国が自国に滞在できるかを国籍によって分けているが、これも合法だから差別だが問題ではない。
次に問題にならない差別は、誰も損していない場合だ。この損には金銭的、物質的、そして感情的なものが含まれる。
若い女性社員を捕まえて、結婚しないのか、彼氏はいないのかとか言う男性は差別をしているだろうか。金銭や物質的な損はしていないが、人によっては不快な思いをする。不快な思いをした人にとっては差別だが、不快な思いをしない人にとっては差別ではない。
フェミニズムでは女性ならみんな不快な思いをするはずだ、すべきだ、なんとも思わないならお前は男社会に洗脳されているか男にこびた名誉男性だよと言い出すのでおかしくなるが、このあたりは客観的に見れば「差別かどうかは人による」が答えだ。
力仕事は男がすべき、というのも同様に人によるが、男は力があるのだからこの作業で補助器具を使ってはならない、というのは差別だ。このルールは男性であることを理由に余分な肉体的負荷をかけているからだ。
昔どこかの会社で、男女の区別なく応募は受け付けるが、家の会社ではドラム缶を持って運んでもらうから実際にそれをやってもらう、と言っていたが、このアプローチは正しい。
では、よく買い物をする客には特別な割引をする、というのは差別だろうか?差別化戦略というものだ。
買い物の頻度で客を差別するな、と言うかもしれないが、これは差別化戦略だがここで言う差別ではない。なぜかといえば客の購買実績という客観的な事実に基づいた判断だからだ。
そして誰も損していない。
この割引分がそもそもの価格に上乗せされているかもしれないが、ものを買うというのは相互の合意に基づく契約行為なので、ならば買わなければいいと言う話でしかない。
というように差別というものは実はかんたんに理解できるもので、属性で判断した上に損させる、というものだ。
日本では普遍的な差別を局所的なものにしたり、局所的なものを普遍的なものにしたい人が相当多い。そのための理屈を日々編み出し続け、普及している人たちもおるようだから、注意したいところだ。