はてなキーワード: 性愛とは
同性婚を取り入れたことで話題になった『ファイアーエムブレムif』で、同性愛指向を薬で矯正するシーンがあったと話題になり、一部で吹き上がってるわけですが。
https://twitter.com/deviltruck2010/status/616765502656917504
違 う よ。
これそんなエピソードじゃなかったよ。
そもそも海外版未発売のソフトの海外レビューを鵜呑みにするなよ。元記事に至っては今になって訂正入れてるよ。
もしここに書かれてるエピソードまんまならとっくに国内で問題になってますよ。
日本の作品にしちゃ珍しく同性婚取り入れたって話題になったソフトですよ。ジェンダーに関する知識をきちんと持った人が、どっかで買って遊んでますよ。
こんなエピソードあったらそらもう、大変ですよ。
あ、以降はこのエピソードに関するネタバレになりますのでご注意ください。
ネタバレ気になる人にひとつだけ言っておくと、上で挙げた記事に書かれてるようなホモフォビア要素は決してないので安心して遊んでください。
さて、訂正前の記事や、それを鵜呑みにした方々の誤解の中では、
↓
ヘテロ男性主人公のカムイが、すべての人が女性に見えるようになる薬を彼女に盛る
↓
↓
薬の効果が切れるも、「男でもいい!カムイが好き!」と無事ストレートに目覚めたソレイユ、カムイとめでたく結婚
というお話になってる様子。
本当にその通りならえらい話ですよ。
ここまでヘテロ中心な価値観は、込めようと思ってもなかなか込められませんよ。
でも実際は、
↓
彼女は可愛い女の子が苦手、というより好きすぎて、見ると気絶してしまう。この悪癖?で苦労していて、自分が強くなれないのもそのためだと思っている
↓
カムイ、性別が逆に見える薬を彼女に盛る。女の姿をしたカムイと一緒に過ごすことで慣れていく作戦
↓
↓
っていう話。
いや確かにキモさは抜けてないけども。
PC的にまずい要素はないでしょこれ。
あんたら本当に遊んだの?
いやまあ遊んでないんですけどね。元記事は海外の人が日本語版を頑張って遊んだレビューだから誤解してるわけだし、ツイッターでキレてる人は@deviltruck2010のツイートやはちまの記事を鵜呑みにしてるだけだし。
元記事の人は、言葉を完全には理解しないまま遊んで、可愛い女の子を見たら気絶するっていう描写から「彼女はレズビアンだ!」と誤解したんだろうけど、設定自体のダサさキモさはともかくとして、可愛い女の子見たら気絶する→レズビアンだ!ってのは性愛中心的すぎないか。
でもまあ、FEifは、
コロプラのあのアプリで話題になった「なでなで」要素があったり、
そもそも全体としてギャルゲー臭かったり(結婚によってのみ支援Sつけられるってのがそもそもナンセンス)、
とまあ全体としてジェンダー観がやっぱり古くてキモい。ソレイユも「私の胸触ってみて」とか言い出すし。
だいたい前作に至っては「男同士で何を考えとるんじゃ」みたいなセリフが平気で出てたぐらいだし、トモコレの同性婚の騒動の時に任天堂が明らかにLGBTを軽視する弁解をしてたのも記憶に新しい。
任天堂がまたやらかした、という記事を見たら「やっぱりか」となる気持ちはわかる。つもり。
それだけの地盤がある。
でも、買って遊べとは言わないから、せめて、中途半端に遊んだだけの海外記事やら、アフィブログの記事やらを根拠にするのをやめてくれ。
発売前に誤った内容で叩くのをやめてくれ。ほんとに。
本当の話だけど叩くな、とかはさすがに言わないから。
ツイッターでこれにキレてる奴に限って、少しツイートを遡ると、デマには気をつけようとかソースは確認しようとか書いてるorリツイートしてるのが多いんだよ。
でだいたい怒りのデスロードについて熱く語ってる。いやこれはどうでもいい話だけど。
お前もデマ撒いた側になってるぞわかってんのか?
その知らせを受けて、多くのFacebookユーザーのプロフィール画像が国内外を問わず、
虹色にフィルター加工された。そういう画像加工の機能が公式に提供されたから、よく広まった。
と冷ややかに見ていた。
そりゃ確かにどんなセクシャリティを持った人も同等に、結婚という法の恩恵に
あずかれることは良いことだと思う。まったく反対しない。
支持か不支持かと言われたら支持するよ。
つまり、声高に支持するほどのことでもないんじゃなかろうか。
人狼ゲームの詳しいルールは割愛するが、プレイヤーには役職が与えられる。
どちらかが人狼(悪役)に食い殺されるか、
村人(悪役じゃない方)の合議で処刑されて死んでしまった場合、
どうしても相方をカミングアウトしなくてはいけない状況になった。
ぼくはふざけておどけて、男性の名を呼んで言った。
「あのう、実はおれ、◯◯と付き合ってんだ」
場はどっと沸いた、よく沸いた。
笑顔の中には、Facebookプロフィールを虹色に染めている奴の顔もあった。
「同性愛を嗤っていい、しかも面白い」という、このパラダイム、
狭い観測範囲だが、確信がある。きっとこのパラダイムは広い地域と世代に共有されているだろうと。
そしてそれはほとんど何も変わっていないし、
たぶんまだ変わらないなと思った。
ここまで読んでくれてお分かりの通り、
むしろぼくはこれからも同性愛を嗤うし、嗤うので、きっと同性愛者にとって
これ見よがしに虹色に加工したその顔で、平気で同性愛を嗤うそのツラの皮の厚さ。
あたかも性愛による差別から解放されたような風潮のなか、たしかに変わった法律と、
そしてそれを悲しく思っている当の自分が、同性愛を揶揄している事実。
いや、人は本当、業が深い。
読んでくれてありがとう。
1.はじめに、べつに誰かが結婚式を理解できなくても同性婚に問題はない。もし異性婚を理解できない同性愛者が存在したら異性婚制度も反対するのか?
加えて、「結婚」と「結婚式」も別物で、結婚はしたけど結婚式はしていないという異性愛の夫婦はいる。
結婚式を『したいというのが理解できない』というのを考えてみると、異性愛者が結婚式をしたいというのもまた理解が難しいのでは。
調べたわけではないが、結婚式という因習は人類が誕生した時からすでにあったわけではないだろう。
しばらくしてからある時点で結婚式という制度、因習が生まれたはず。
では、同性愛者にとってのその「ある時点」が現代だと考えることはできないだろうか?
「今までなかった」ということがすなわち「これからもない」ということではない。
因習にこだわる同性愛者も因習にこだわらない異性愛者もいる。そういう世界。
「車輪の再発明」とかでググってもらってもいいが、
他には、結婚式が「愛する者同士が結ばれる儀式」という抽象化をするとまさにピッタリだし、
根本的には「本人たちがそれをしたいと言ってるんだからすればいいじゃん」というのもある。
むしろ「結婚式をしたい」という感情は、性愛の対象が男か女かということに依存するのか?とも言えるかもしれない。
まず、「SM,グロ」が好きな人たちは異性愛と同様の地位を占めている。お互いの合意で結婚できるし、したいなら結婚式もできる。
『世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべき』まさにそうだ。というか正直この文章の結論がそうだ。
そこまでいって、なぜそこで『なぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?』という方向に落ち着くんだ?
言ってあげよう。
「なぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべき"ではない"って主張できるの?」
「SM好きか。いいね、異性愛者と同じ地位だ、ようこそ。君はグロ好き?OK、君も私たちの仲間だ。動物好き?そういう意味で?いいね!こっちにきなよ!おっと同性愛者か、君たちはあっちにいってな。そして二度とこっちにくるなよ?」
なんでだよ!?
(余談。動物に関しては「種が違う」というのと「お互いの合意」というのが問題だけど、いちおう法的でない結婚なら例がググれば出てきたりする。現代の法律というのは人という種に対する制度っぽいので、「異種婚」というのが実現するのはかなり遠い未来になりそう)
次に、「統計的に長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明される」ことが結婚を認められる条件ではない。
仮にそれが条件(の一つ)なら、もちろん異性婚が始まる時も証明されていなければいけないことになる。
まるで異性愛者はすでに証明されているか、証明を免除されているみたいな書き方だが、
もしそんなのがあったら今すぐソースを出して欲しい。人類史に残る偉大なデータになるだろう。
もちろんそんなのはないはずで、もしあったとしても現代に反例は余るほどある。
パートナーをとっかえひっかえしたりする異性愛者がいないはずがないし、
離婚を何回したら結婚の権利が剥脱されるという法律は私の記憶では存在しない。
もし仮に「同性愛者が統計的にパートナーをとっかえひっかえする」という証明があり、
かつ「とっかえひっかえする人は結婚する権利がない」というのが社会の合意を得られたとしても、
その統計的に「上位」の、とっかえひっかえしない同性愛者は結婚の権利を持つべきということになるし、
とっかえひっかえする異性愛者からは剥脱すべきという結論になる。
もし「とっかえひっかえする同性愛者には結婚する権利がないが、とっかえひっかえする異性愛者は結婚する権利がある」なら明確に差別だと分かりますよね?
つまり『長い期間1対1の強い結びつきを維持する』かどうか?は性愛対象が男か女かに依存する問題ではない。
3.アメリカの投票権の例えは「どちらか一方しか選べない制度」を選んでいるという点で
「SM好きの人が結婚するにはSMを諦めないといけない」並みに意味のない話。
例えば同じ日本人なのに一方の日本人は結婚できて、一方の日本人は結婚できなかったりするのが問題では。
『すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな』
「すぐに」ということは「そのうち」同様の認定と庇護を与えてくれるということで、
なら「今すぐ同性婚を認めてくれ。そのうち与えてくれるのを待つから」になったりする。
いや、そもそも結婚という制度は「社会的認定や庇護が得られる」ところまでで含んで結婚なので、
別に「結婚している」という名ばかりの制度が欲しければ今でもやりようはあるはず。
名実ともに「結婚」という制度が欲しくて同性婚を求めているのでは?
逆に、二組の結婚しているカップルがいて、同じ制度のもとにいるはずなのに
片方だけその制度の庇護が得られないって、それ明確に差別じみてるとは思いませんか?
4.『同性愛結婚を認めることで利益を得る集団がまったく見えない』
ググってください。「レインボープライド」とかでググってください。
私としてはむしろ「同性愛結婚を認めることで不利益を被る集団がまったく見えない」です。
やたらと『結婚類似の制度』を推しているが、ほとんど同じ条文と同じ仕組みで、名前だけ違う制度があったらそれは隔離政策というのではないだろうか?
同性婚に「結婚」という名前をわざわざ使わせずに別に分ける積極的な理由がないと支持は得られない。
どうもそこらへんが「アパルトヘイト」を想起させて心情的にあまりよくない。
"white"と"colored"が、"hetero"と"LGBT"に変わるだけじゃないのか。
「結婚と違う制度である必要はない」という考えをなぜ放棄したのかを自分の中で考えないと、
「なんとなく嫌だからじゃないの?」と受け止められても、仕方がないかもしれない。
『世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべき』
1,なぜ同性愛結婚をしたいのか理解できない。特に結婚式をあげたいというのが理解できない。
結婚式って異性間で行うように作り上げられてるじゃん。例えば衣装にしても、男性はこの服装で女性はこの服装でって。それを無理やり同性で二人ウェディングドレスとか着て異性婚者とおんなじ格好して結婚式をあげる意味がわからない。ウェディングドレスとか異性婚を前提としてそれに意味が付与されているわけだし、神父の言葉とかもそれを前提とされてるじゃん。
そういう以前からある異性婚を前提とした因習をもとにしたものなのに、同性愛者がそれをしたいというのが理解できない。同性愛ってそういう因習とかから自由なものじゃないの?
例えば、同性愛者の結婚類似の結びつきを祝う、独自の形態の祭りを発展させればいいじゃん。なんでわざわざ異性愛者と同様の結婚形式をとろうとするの?
「理解できない」っていうか、理解=受容する気がないだけでしょ。
異性婚者の結婚式は「異性婚者だからあの格好」なんじゃなくて、それを着る人が男性あるいは女性だからあの格好なんだよ。そこを意図的にごっちゃにすんなよ。
男性はこの衣装で女性はこの衣装って決まってるから、同性婚のときも男性同士は二人とも男性の衣装で、女性同士は女性の衣装でやってるってだけじゃん。
そもそも結婚式で異性婚前提にされてるのは祝詞くらいなんじゃないの?
少なくとも日本の結婚式においては宗教的意味はすごく薄れていて「結婚する二人のお披露目・お祝い会」ってのが存在意義なんだから、祝詞をそれに合わせて変えることが言うほど非合理的と思えない。
なんでわざわざ「結婚類似の結びつき」を別に作って独自の祭りを今から発明しなきゃいけないの?めんどくせえ。めんどくさすぎる。
それにその路線で行くとどうせその「お祭り」ではウェディングドレスや燕尾服や白無垢やその他異性婚者が今結婚式で使ってる衣装は使うなとか言われて着ると叩かれたりするんでしょ?
でも個人が個人のイベントで何着ようと本来は自由であるべきなんじゃないの?
2,なぜ同性愛者が異性愛者と同様の愛の形を持っていると当然のように語るのかがわからない。
いやさ、世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべきだと思うわけですよ。SM,グロ,動物。。。いいんじゃん?
でもなぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?
例えば統計的に同性愛者も異性愛者と同様の長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明されてるの?パートナーをとっかえひっかえしたりしないの?ほら、一部のゲイたちは「ハッテン場」とか言って乱交に近いような行為をする傾向にあるとか、まことしやかに言われるじゃん。それって一般的な結婚をするような異性愛者の行動とはかけ離れてると思うんだよね。もちろんそういう人たちが同性愛者の一部でしか無いのかも、とも思うけど、一部なのかかなりの部分なのか全然外からはわからないよね。友人にも直接は聞けないけど、なんとなく飲みの席とかで聞くには性に奔放だよね。
もし、安定したカップルが形成できていてそれで異性間結婚と同様の社会的認定を受けたいなら、やっぱり結婚類似の制度を作ってそれで認定してもらえばいいよね。それで結婚と同様の扶養とかの制度を受けられると。結婚と全く同じ制度である必要はないよね。
制度に愛の形とか持ち出すことの意味がわかんない。なに「愛の形」って。愛って有形なの?
人に相当の迷惑をかけない限り認められるべきなら、同性愛者で結婚考えてる人はお互い好き合って結婚するわけで誰にも迷惑かけてないんだから認められるべきじゃん?
なんで同性愛が異性愛と同様の地位を占めるべきでないって主張できるの?
カップルの安定度? 安定度で測るの? つーか安定度って何??
パートナーをとっかえひっかえするのだって「人に迷惑をかけない」なら認められるべきでしょ。それは異性愛間でだってそうじゃん?
逆にそれで人に迷惑をかけるんだったらそれは異性愛同性愛関係なくやめるべきじゃん?
なんで「結婚類似の制度」が必要なのかが全然説明されてないんですけど。
3,そもそもなんで結婚して結婚と同様の社会的認定や庇護が得られると思っているのかわからない。
結婚して何かメリットが得られるとしたら(本当にそんなものが得られるのかは不明だが)、それを同性愛者がほしいと思うのは理解できる。でも、それが与えられるかは別の話だ。
例えば、日本人のだれかがアメリカ人にとっての当然の権利であるアメリカの投票権がほしいと思ったら、、、アメリカに帰化するしか無い。「日本人のままでもアメリカの投票権がほしい」というのは気持ちは分かる。僕ももらえるならほしいかもしれない。でも、そりゃむりだろう。
なので、これまで異性間のものとして扱われてきた結婚というものに同性愛者が入り込んできても、すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな。
こういう結婚はこれまでの歴史、経緯で異性間のものとして扱われてきたという話をすると、「武田信玄も男の小姓に恋文を書いていて、同性愛は歴史的にも認められてきた」とか主張する人がいる。これは無理筋だと思う。僕も同性愛は長く歴史上存在してきたんだろうな、と理解はしている。だけど、同性結婚は直近の近代まで認めた社会があったとは聞いたことがない。同性愛は否定も差別もする気はないが、同性婚はそれとはまた話が別じゃないかな。
え、なにこれ。「ぼくは同性婚者に異性婚者と同等の庇護や認定や権利を与えたくありません!」って言ってるだけじゃん。論拠とか無いじゃん。
あなたが同性愛者イヤだから同性愛者に結婚制度認めたくないんですってゴネてるだけですよね。
「昨日まで黒人は奴隷だったんだから今日から法律変わって自由人になったからって白人と同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな」、って話に対して、「そりゃ法律変わったし本人ら何も悪いことしてないんだから認定と庇護与えない方がアカンのは明らかでしょうが。与えないこと正当化してんじゃねえよ」とか思わんのかいな。
いやどんな感想を抱くのも自由だけど、それを他人にもっともらしく主張して認定と庇護を付与する云々レベルにまで真顔で首を突っ込んでくるのはやめてくださいよジョークでも不快なのに。人の権利左右するような話題ですよ?
鬱陶しいし怖いわあ。これが通っちゃったら「ぼくは女に選挙権とか認めたくありません!」「わたしは男は全員去勢するべきだと思います!」とかも通っちゃう話になるじゃん。
イメージとしてはリベラルをきどりたい異性愛者の声が大きいようにみえる。たとえばエルトン・ジョンのように著名人が日本でカミングアウトをして権利拡充を歌っているのだろうか。マツコ・デラックスやミッツ・マングローブですら、「オカマ」という売り出しで同性愛的側面は強調していないように思える。また、そういう活動もしていないように見える。
誰が推進してるかってそんなに重要か?
つうか普通に同性愛者の団体とかが推進してんじゃないの。今だって権利制限されすぎだし。普通に同性婚が制度として確立されれば同性カップル利益あるじゃん。
ということで、「同性愛者に対する結婚類似の制度を作って認定していくべきだが、結婚と同じにしてしまうべきではない」というのが理解できない。
本人たちはなんでそんなことしたいと思うんだろう。
また、それを積極的に認めていこうと考えている異性愛者たちはちゃんとつきつめて考えているのだろうか。
ぼくには「同性愛者の友人もいる」し、全然同性愛者を差別する気はないんだが。
1,なぜ同性愛結婚をしたいのか理解できない。特に結婚式をあげたいというのが理解できない。
結婚式って異性間で行うように作り上げられてるじゃん。例えば衣装にしても、男性はこの服装で女性はこの服装でって。それを無理やり同性で二人ウェディングドレスとか着て異性婚者とおんなじ格好して結婚式をあげる意味がわからない。ウェディングドレスとか異性婚を前提としてそれに意味が付与されているわけだし、神父の言葉とかもそれを前提とされてるじゃん。
そういう以前からある異性婚を前提とした因習をもとにしたものなのに、同性愛者がそれをしたいというのが理解できない。同性愛ってそういう因習とかから自由なものじゃないの?
例えば、同性愛者の結婚類似の結びつきを祝う、独自の形態の祭りを発展させればいいじゃん。なんでわざわざ異性愛者と同様の結婚形式をとろうとするの?
2,なぜ同性愛者が異性愛者と同様の愛の形を持っていると当然のように語るのかがわからない。
いやさ、世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべきだと思うわけですよ。SM,グロ,動物。。。いいんじゃん?
でもなぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?
例えば統計的に同性愛者も異性愛者と同様の長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明されてるの?パートナーをとっかえひっかえしたりしないの?ほら、一部のゲイたちは「ハッテン場」とか言って乱交に近いような行為をする傾向にあるとか、まことしやかに言われるじゃん。それって一般的な結婚をするような異性愛者の行動とはかけ離れてると思うんだよね。もちろんそういう人たちが同性愛者の一部でしか無いのかも、とも思うけど、一部なのかかなりの部分なのか全然外からはわからないよね。友人にも直接は聞けないけど、なんとなく飲みの席とかで聞くには性に奔放だよね。
もし、安定したカップルが形成できていてそれで異性間結婚と同様の社会的認定を受けたいなら、やっぱり結婚類似の制度を作ってそれで認定してもらえばいいよね。それで結婚と同様の扶養とかの制度を受けられると。結婚と全く同じ制度である必要はないよね。
3,そもそもなんで結婚して結婚と同様の社会的認定や庇護が得られると思っているのかわからない。
結婚して何かメリットが得られるとしたら(本当にそんなものが得られるのかは不明だが)、それを同性愛者がほしいと思うのは理解できる。でも、それが与えられるかは別の話だ。
例えば、日本人のだれかがアメリカ人にとっての当然の権利であるアメリカの投票権がほしいと思ったら、、、アメリカに帰化するしか無い。「日本人のままでもアメリカの投票権がほしい」というのは気持ちは分かる。僕ももらえるならほしいかもしれない。でも、そりゃむりだろう。
なので、これまで異性間のものとして扱われてきた結婚というものに同性愛者が入り込んできても、すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな。
こういう結婚はこれまでの歴史、経緯で異性間のものとして扱われてきたという話をすると、「武田信玄も男の小姓に恋文を書いていて、同性愛は歴史的にも認められてきた」とか主張する人がいる。これは無理筋だと思う。僕も同性愛は長く歴史上存在してきたんだろうな、と理解はしている。だけど、同性結婚は直近の近代まで認めた社会があったとは聞いたことがない。同性愛は否定も差別もする気はないが、同性婚はそれとはまた話が別じゃないかな。
イメージとしてはリベラルをきどりたい異性愛者の声が大きいようにみえる。たとえばエルトン・ジョンのように著名人が日本でカミングアウトをして権利拡充を歌っているのだろうか。マツコ・デラックスやミッツ・マングローブですら、「オカマ」という売り出しで同性愛的側面は強調していないように思える。また、そういう活動もしていないように見える。
ということで、同性愛者が結婚をしたいというのが理解できない。
僕の意見では、将来的には同性愛者に対する結婚類似の制度を作って認定していくべきだが、結婚と同じにしてしまうべきではない。また、同性愛者たちは結婚類似の制度ができれば、異性愛者と同様に安定した家庭を築いて社会に貢献できる、ともっとアピールすべき。
異性愛者の結婚が以前より多様化、不安定化していて、異質な結婚形式を認める準備ができている、というのもそのとおりだとは思うしね。
同性愛結婚に反対する人が「僕にも同性愛者の友人がいるが」と話すことに対して、反論者が「テンプレうざい」的な反応するのはなんなんだろうね。わけわからん。
性欲は人間の三大欲求だけど、それを満たすためレイプをするのは許されないのと同じように。
でも日本の社会は、殺人を快楽と考えることそのものを許していないように見えて息苦しい。
これは幼児性愛等でもそう。他人に迷惑をかけない範囲であれば、例えば妄想やオカズで処理しきれるのならそういう性質を持つこと自体は許されてもいいのに…。
それは二次元性愛者という。LGBTなどと同じセクシャルマイノリティの一つだよ。
非対称も非対称で、男と女の間には、どうしようもないほどの格差がある。
そんで女性は、強者であるがゆえに常に男を値踏みして、不細工やコミュ障、
そして女性のお眼鏡に適った男だけがまともに「男」として扱われる。
別に悪いとはいわないよ。強者にはそうした横暴を行う権利があるんだろう。
下々の男たちの不幸なんて無視して好きに振舞えば良い。
でもね、傷ついてるんだよ。何か行動に起こしたりしないだけでね。
そうした背景があるからさ、良くないとは思うんだけど、貧困女性を見ると
スカッとするんだよね。
水戸黄門的な勧善懲悪みたいなね。悪いことしてる奴らにはちゃんとバチが
あたるんだなあ、みたいな。そういうことを思っちゃんだよね。
女性の平均年収が男性より低いというのも、ちゃんとバランスとれてるなあと嬉しくなる。
1.そんな訳ない
2.そんな訳ない
3.見えているものが違う
1-1.承認を必要とすること自体が社会的欲求なので、本能だの生物的だのは関係ない
2-1.異性から歯牙にもかけられない女は、少数なのではなく不可視
女にだって承認欲求はあるけど、好きな男に愛されて満たされるなんて無茶苦茶ハードルが高いってほとんどの女は知ってるんだよ。
(そこのハードルが高くない層はパートナー探しに苦労してないはずだから除外する。)
パートナーができたところで、自分の意志を尊重してくれるか、暴力は振るわれないか、問題がおきたら一緒に解決しようとしてくれるか、そもそもそんな男が実在するのか、いたとしても自分なんか選ばないだろうという帰結をもってモテない女は口を噤むわけだ。
女が男をあてがえって言わないのは、あてがわれた男が危険でない保証がどこにもない(というか、危険性のほうが高い)からだよ。
異性で承認欲求が満たされると考える男は、その異性によって肉体的・精神的に苦痛を被る可能性をほとんど考えてないように見える。
パートナーとの関係において、自分が主体的に振る舞えることを疑ってない。
女体好きの女嫌いが減らない限り、性愛と自我が一体化してる女は搾取される確率が高いし、そうでない女はうかつにそういうことを口にしない。
そもそも「異性に性愛的に愛されなくては幸せを感じられない」ってのが「男性性の規範」ってやつの一つで、
そこから解放されよう、ってのもフェミニストの主張の一つなのではと思うけど。
実際、女性は「男性に性愛的に愛されなくては女性として価値がない」と言う規範にかつては苦しめられたけども
実際「男性をあてがわれなければ幸せになれない」と考えている非モテ女なんてまず見ないし。
ただこれが社会的な刷り込みなのか、生まれながらの本能によるものなのか、ってのもあるからなあ。
生まれながらの本能であり、それが女性より男性により強いものなのであれば、本能を捨てろってのは無理があるのかもしれない。
精神の平衡を保てる程度の承認感というか必要とされ感というか自分に意味がある感覚というか、
そういうのを得るには異性(同性愛者なら同性?)に愛されることがたぶん必要不可欠なんだよ、ある程度の割合の男性にとっては。
なぜかそれは友人関係や血縁関係、はたまた仕事関係といった他の人間関係だけでは満たされないし、仕事や経済の成功だけでもダメで、
異性に性愛的に愛されなくてはならない。
では女性側から「男性を当てがえ」という要求がほとんどないのはなぜか、理由を幾つか考えてみたんだけど、
1.肉体的な性差が脳かどっかになんか及ぼしてなんか根本的に女性のメンタルヘルスには性愛関係が必要不可欠ではない。
2.異性から全く歯牙にもかけられない人間の割合は、男性より女性の方が少なく、だから女性はこの点において飢餓感を持つ層が少なく、声が小さい。
3.2の延長線上だが、女性はむしろ異性から性愛の対象に見られすぎることで苦痛を被る傾向があるから。男性は性的関心を持たれなさすぎて苦しみ、女性は性的関心を持たれすぎて苦しんでいる、だから女性は「もっと性的関心を抱いて!」どころか「性的関心をそんなに抱くな!」と望む。
自分に気があるんじゃないか。どう思う?
だいたい男は年下の女にそう思ってるし、女は年下の男にそう思ってる。
気になる理由はさして親しい関係じゃないのに親しげに話しかけてくるとか、個人的に食事に行ったとか、SNSでよくコメントくれるとかそういうの。
あのな、おまえが性愛対象じゃないから相手は安心して声かけてくんだよ。
若い側にしてみたらおまえがいまだ誰かを好きになるとかちょっと信じられない話なんだよ。
よもや自分世代を性愛対象にしているとは思ってもみないから油断してんだよ。わかれよ。子供に懐かれてることに気付けよ。
ということをやんわり言うと、相手はもう成人してるから子供じゃないとか言う。
でもやつらは親と同世代の人間の内面が、部分的に十代止まりとは思ってないんだよ。
自分が二十歳気分だからって相手と同世代感覚で惚れた腫れたを推論するなよ。
そういうの年甲斐もないって言うんだよ。わきまえろよ。
しかし相手はこちらのそんなモヤモヤを率直に言えるほど親しくもない。
「この間こんな展開があった。遊ばれてるだけだろうと思うんだけど…」
とモジモジ報告してこられると本当にうざい。ブロックするか、と思う。
だいたいそういうことを言っているやつらは昭和の価値観を都合よく持ち出して
「男だから女の子の前じゃ上がっちゃう」とか「男だから不器用でうまいこと言えない」とか
「女の方からは誘えない」とか「口に出せない女の子の気持ちをわかってほしい」とか言う。
将来ある若者が、10も20も年上の煮え切らない相手にどうしてそこまでがんばると思ってんだよ。
相手の話に付き合って「こっちはOKサインを出してる」ぐらいの気持ちでいるようだけど
あっちは話のわかる大人くらいにしか思ってねえよ。
いちいち深読みしたり傷ついたりしてんなよ。
ああ、嫌だ。考えてみると親が思春期じみたモジモジを出していたころと重なってウザい。
でも脈があるかどうか少し考えたらわかる相手のことを願望に基づいて都合よく考えてるのがウザい。
そんなの同世代の間でだってウザい。甚だしい勘違いで電話やコメントを寄越さないでほしい。
せめて正々堂々当たって砕けて結果を出してから来い。
何年生きてるんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20150525015701
フェミニズムは、「女性の地位向上」ではなく「ジェンダーの不平等を解消するための運動」(ジェンダーフリー)だと私は理解して
いるんだけど、その観点から考えれば、女性のジェンダー不平等だけではなく、男性のジェンダー不平等も解消する義務がフェミニズ
ムにはあると思う。少なくとも、理念上無視していい話ではない。
半世紀ほど前までの社会では、男性優位が圧倒的だったから、女性の地位向上だけを訴えていればよかったのだろうけれど、現代社会
では女性が男性よりも優位に立っている場面も多くあると思う。それが最も顕著に現れているのが「性愛」の場であり、それゆえ
本質的にフェミニストは、弱者男性とジェンダー的な部分で共闘できると思うし、理念的にも共闘する義務があると思う。少なくとも
建前上は、フェミニズムはそうして民意を獲得してきた歴史があるわけだし。(少し前に炎上したエマ・ワトソンのスピーチでもそう
した趣旨のことが言われている http://logmi.jp/23710)
フェミニストが弱者男性から敵視されるのは、建前上はジェンダーフリーを唱えつつ、その実、男性のジェンダー不平等を無視し、女
もし、フェミニズムが「ジェンダーフリーは動員のための聞こえがいい建前で、女性の地位向上しか頭にねぇよ。男のジェンダー不平
等など知ったことか」という思想なら、男性のジェンダー不平等なんて無視していればいいけれど、もしフェミニズムがそうした態
度をとるというのなら、ジェンダーフリーという建前を真に受け、フェミニズムにシンパシーを感じてきた1人として、私はフェミニ
ストに裏切られた/騙されたと感じるし、フェミニズムを支持/信頼することもできなくなる。
「弱者男性」(少なくともその自覚を持つ人)の敵は端的にマチズモだろう。
「男はこうあるべき」という価値規範から外れた男性は、規範が内面化されている場合であれ外的な圧力の場合であれ、相当のプレッシャーと負い目を感じる。またその規範は、たんに精神的なものにとどまらずに、さまざまな面(経済的であれ性愛的であれ)での実際の格差にもつながっている。
フェミニズムは女性の地位向上の運動であって、男性についての規範とは(少なくとも理念上は)関係がない。一方で、(男性だけでなく)おそらく多数の女性がマチズモを内面化している、あるいはマチズモの維持に加担していることも事実だろう。
「弱者男性」にとって問題をわかりづらくしているのは、女性の権利を主張するその口で「男(人間)はこうでなければ」「こういうのはだめな男(人間)」といったことを言ったりほのめかしたりする女性(ないし自称フェミニスト)がいることだ。こういうのが「弱者男性」からすれば「強者としてのフェミニスト」に見えるのかもしれない。
たしかにそういう人は「弱者男性」の敵ではあるのだが、それはフェミニストらしき部分で敵なのではない。それはマチズモに加担しているという点で敵なのだ。
この点を正しく把握すれば、「弱者男性」は、自分がなにに苦しめられているのか、なにと戦うべきなのかがわかるだろうし、なにが敵でないかもわかるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20150524050514
後半以外は同意。
結婚はコスパが悪い、って記事が話題になっているけれど、これは真実。
http://mainichi.jp/select/news/20150507k0000e040038000c.html
結婚して、子どもが生まれたとなると、心労と経済的コストは増す一方。
そのうえ、「可愛い」だとか「セックスすると気持ちいい」といったメリットは目減りする一方。容姿は劣化していくし、おなじ相手とセックスしていたら興奮は薄まっていくからね。
魅力的に思えなくなっていく相手と一緒に、労力もお金もかかる子育てを二十数年もしなきゃいけないだなんて、良いところがなさすぎる。
幸福感を得るだけだったら女友達とハグしたり、セックスしたりしているだけの方が断然、コスパが良い。飽きたら他の子に変えれば良いだけだし、面倒さもない。
僕の実感として一番コスパ良いのは、セックスできる女友達を4人作って運用していくこと。
1人か2人だと、自分が会いたいときに会えなかったりして、ストレスが溜まり、相手を攻めたりしてしまう。
4人いれば、誰かしら会えるし、タイプをバラけておけば、気分によっても相手を選べる。
僕の場合は年上2人、同年代1人、年下1人で運用している。甘えたいときは年上と会って、サクッとファスト・セックスがしたいときは年下。友達気分で遊びたいときは同年代といった感じ。もちろん全員お気に入りの、大好きな女の子たちだ。
これ以上増やすと、ちょっとそれぞれのケアが大変になって、コスパが低くなる感じ。週末がデートばかりになって、自分の時間も持てなくなってしまう。
この形式を作れてから、本当に人生が楽になった。仕事のストレスを溜め込んで、それを発散させたいのにパートナーと予定が合わない。生理でセックスできない。ケンカしてしまって余計ストレスを溜めてしまうetc。
今は会いたいときに好きな女の子と会えてるので、ストレスが溜まらない。予定が合わなくても、相手にイライラしない。すごく上質な暮らしを送っている。
そもそも脳は3年で恋愛相手に飽きるのに、何十年も一緒にいなきゃいけないというのがおかしい。
江戸時代は性愛に関してゆるかったっていうし、断言するが、おそらく「一生に一人」と添い遂げるなんてここ100年ぐらいの傾向に過ぎないだろう。
それが国家にとって運営しやすい形だと思われたからそうしたまでで、その綻びが見えてきたのなら、制度を変えるしかない。
もっと離婚のしやすい制度にして、パートナーの流動性を高めよう。今は泥沼化が前提の離婚制度になっているし、簡単にすればみんなHAPPYになるはずだよ。
フェミニズムを拗らせた結果、レイプものや売春もの等しか受け付けなくなった人達(と、百合しか受け付けなくなった人達) - Togetterまとめ
これにまとめられてるまくるめさんのツイートを最初に見た時私は凄く共感したんだけど、
RTされたり、更にこうやってトゥギャられたりするにつれて、
最初のまくるめさんとその周囲1クリックが持ってる感覚から外れた方向にも話が行ってる気がしたので、あれこれ書いてみた。
が、よくよく考えてみると、これはまくるめさんについて分析したのではなく、
まくるめさんのツイートに勝手に共感した私自身についての自己分析になってたので、
インターネットをしたり幾つかの本を読んでいると、
「男性が女性と性的関係を持つ際は、男性から女性に対する暴力や消費やサディズムが発生することを避けられない」と暗に明に主張するフェミニストを目にする。
この場合のフェミニストというのは、もしかしたら他に厳密な言い方があるのかもしれない。
たとえばラディカルフェミニスト、フェミナチ、ミサンドリストとかの、フェミニストの中でも偏った層かもしれない。
だが少なくとも私には、あの人たちの、男性の暴力性を訴える主張がインパクト強く受け止められた。
男女は不公平なものであり、そして性的関係においてその不公平さは特に発揮され、許されざる……なるほど!!
けれども私は異性愛者で、しかも割と性欲の強い方で、女性に性欲を向けずにはいられない。
つまり、女性に暴力性を向けずにはいられない悪辣な存在だ――少なくとも、私が意識したフェミニストの主張に沿えばそういうことになる。
だが、私は善人たりたい、いいカッコしたい、優等生でなければならないという意識も強く、自分のその悪辣さを仕方がないものとスルーすることはできなかった。
たとえ架空の女性キャラクターに対しても、素直な性欲を向けるのは自分が差別主義者である後ろめたさがつきまとったし、
私ではない主人公の○○君がヒロインと純愛を繰り広げる話であっても、暴力を美しい欺瞞でデコレートしてあるようで不道徳に見え、
異性愛には暴力性が伴う、だが性欲は消せない、つまり私はサディズムや暴力性を捨てられない、それとどのように向き合えばいいか……。
葛藤の結果、とりあえずの落とし所として私が縋ったのが、
「加害意識のない加害者よりは、加害意識を持ってする加害者の方が少しは誠実で公正だ」という倫理観だ。
この倫理が正しいかどうかは大変議論の余地があるだろうが、私自身を納得させるには足りた。
だから、男性の暴力性や加害性を極端に強調したハードレイプものや調教物、
女性が男性とセックスする理屈が明確な損得として可視化された売春物などを好むようになった。
女性に対する暴力を発揮する作品であることも、それを私が好んでいることも変わらない。
だが、その悪辣さを、美しい愛などという欺瞞で隠していない分だけ、僅かに免罪してもらえるような気がして、少しだけ安心できた。
桜の枝を折らずにはいられないけれど、それならせめて分かりやすく折っている方が許してもらいやすくなるはずだ、と(ワシントンと桜の逸話は創作らしいが)。
また、私は男性が登場しない百合作品も好む。そこには男性から女性への一方的暴力は存在しないから。
もちろん作品内にも現実にも同性間の暴力は存在するのだろうが、
私に強く影響を与えたタイプのフェミニスト達は、同性間においても恋愛は間違いなく暴力構造になっている、
ということをあまり言わないので楽しんでも罪深さを感じずにすんだ。
ところで、上記のまとめで家族について話が及んでいたが、私も家族関係にはわだかまりがある。
私の場合、家族環境がこの話の中でどういう影響を与えたかというと、
「男性が女性と性的関係になるとき必ず暴力性を発揮する」なるフェミニストの主張をすっかり受け入れてしまいやすくなった、
ということをもたらしたと思っている。
もしも健全な家庭環境で、男女間相互の愛の素晴らしさとか、性別に関わらず無償の愛を与えることが互いを幸せにするとか、
そういう愛や性愛の美しさや正義や有益さを信じられるように育っていたら、
フェミニストの主張を、ここまで深く飲み込み染まらずにいられただろう。
「暴力性が存在するなんて一面的でしょう、私の両親同士や、親と私という、愛しあい幸福である実例があるんだから」と、
心の中で反論できたのだと思う。
でも私はそうじゃなかったので。むしろ愛に対して不信感を抱いて育ってしまったので、
「なるほど、やっぱり男女関係はおぞましいものだよな!」と納得してしまったのだ。
もともと私が目にしたフェミニストたちは
「男女関係においては男性の暴力性が発露しやすいから気をつけましょう」程度にしか言ってなかったのに、
あの人たちの意見を幾つも集積した上で私は家庭環境によるフィルターをかけて、
「男性が女性と性的関係を持つ際は、男性から女性に対する暴力やサディズムが発生することを避けられない」とまで意味を強めたのかもしれない。
愛の素晴らしさを実感するとか、私の暴力性を許されるとかしたら少しは拗れが治るかもしれない。
暴力性について極論を言えば人間関係は全て暴力のやりとりなのだから、異性の恋愛関係についてのみどうこう言うのもおかしな話だ。
しかしそうは言っても私は、特に自分の性欲が女性から許されない感覚が拭えない……許してほしい……
許すそぶりを見せてくれたら治るんじゃないかな……甘えさせてほしいな……
でもどうせそこまで受け入れてくれたり面倒見てくれる女なんて現れねえんだし、フェミニストどもも家族も俺をここまで拗らせた責任は取ってくれねえんだ!
クソ! クソども! 女はみんなクソだ! 俺をここまで苦しませやがって! 俺はミソジニーに走るぞ!!
……という方向にはいかないようにしたい。三十路童貞なので三十路ニーくらいにしておきたい。