はてなキーワード: 初等教育とは
Willy OES@willyoes
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毎週小テストやるけど、与えた7?8問の問題すら解いて来ないのが米国の大学生。もちろん本人は「勉強したのに点が取れない!」とのたまう。
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RT @ken_math: アメリカの大学生の自己申告ほど当てにならないものはない。教科書を開いただけで徹底的に勉強したと言う。
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学部上級以上の統計のクラスでは、学生に一人一人、オリジナルのプレゼンをさせる。しかし、創造的なプレゼンをするのはほとんど博士課程の学生だ。創造性は、豊富な知識量と論理的な構成力から生まれる。
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米国の初等教育なんて崩壊してるよ。なんで4歳から英語の文章話し始めて3年しか経ってない上に、土日は完全日本語で過ごしてる娘の英作文力がクラスでトップクラスなのさ。
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もっとも、米国の私大などは、一生懸命勉強して学力付けた子に「無理に学力つけた(stretched)子供はいらない」とか不条理な事言って落としてるわけで、それよりは日本の方がまし。
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日本の子供が勉強しなくなったって言うけど、そもそも親も社会も子供に勉強させようとしてないよね。「ガリ勉はもう古い」とか「野球やサッカー」してる方が子供らしい、みたいな価値観を植え付けてるのは大人の方。
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初等教育の現場にいるんだが、たくさんの子どもたちを見てて思うのが結局子どもって親の真似をしながら成長していく。
親の言ったこと、親の行動や価値観を自分の中にDLして、それを駆使しながら社会と関わっていこうとしてる。
だから叩く親の子は叩くし暴言を吐く親の子どもは暴言を吐く。それでそういった行動を基本に周りとの関係を築こうとするんだな。
先生は子どもたちの成長のサポートはできるけど、何かあって先生が注意してもピンとこないことがままあるが、親が言うと効果てきめんだ。特に低学年層。
あとさ、人間として基本のきでも教えるという作業を省略しては何事も身につきにくい。
何かしてもらってありがとうって言うとかさ。時間を守るとか。あとルールを守る・・・例えば道で飛び出さないとか校内では上履きをはくとかそういうのでも。
そういうのなんとなくでは身につかないんだよ。やっぱり親が「何かしてもらったらありがとうっていうんだよ」とか一つ一つ明言して教えないと。
平 裕介 @YusukeTaira
弁護士(東京弁護士会所属)。研究者→https://researchmap.jp/7000001277。大学で授業(行政法等)を担当(非常勤)
表現/言論の自由というのは、国や自治体という公権力の介入を受けないことという問題に「限定」すべき、という考え方は、法学をよく知らない大人(特に法学以外の領域の専門家)が陥りがちな誤解。そういう考え方は初等教育か中等教育までにしてほしい。現代国家における表現の自由の問題はもっと広い
当アカウントにつき表現の自由戦士アカであり公権力に対する表現の自由等には無関心と思っている方もいるようですが、そんなことはないのでよろしくお願いいたします
つみたてNISAとか政策として違和感はあるんだけど貯蓄とか投資とかしておいてくれないとその個人が困るからやっておきなさいというまあおせっかいな親といった感じの話としてはまあ意味がなくもないかなあとは思う。
ただ国として投資を促して景気を刺激しろっていうマクロな話になると全く意味わからん話に思える。超富裕層向けなら持ってる総額それなりにあるからわかるよ?でもたかだか年収が1千万円もいかないような層が一生懸命貯金を投資に回したところでマクロじゃまったくインパクトないでしょうよ。
投資する者として国内最強なのはアホほど安い金利で潤沢に借りられる者、つまり国です。
たいていのギャンブルって上振れ引くまで倍プッシュで賭け続けてトータル勝った瞬間に逃げれば勝てるんで、倍プッシュし続けられる資金力があればほぼ確実に勝てる。しかもいわゆるちゃんとした投資って期待値が概ね1超えてるんですよ。まず勝てるでしょ。国なら。
財政再建したいとかいうなら他人に賭けさせてその利益から税をとろうとかぬるいこと言ってんじゃないよ。国債発行して投資に突っ込めばいいじゃない投資にプラスのリターンがあると思ってるならさ。投資のあがりで国債返せるでしょ簡単に。増税なんぞせんでもいいでしょ。
それができないっていうなら今の投資しろ政策って、「勤め人は資産を株式で溶かして失え、そして手数料を金融機関に渡せ」って政策にすぎないじゃん。不幸しか増えないじゃん。そんなんされるぐらいだったら今とってる税金を直接金融機関に渡してよ。
「おかね借り屋」として最強だっていう自覚が国にないのマジで奇妙なんだよな。「おかね借り屋」として国内最強だってことはギャンブラーとして国内最強だってことで、つまり投資家として国内最強なんだよ。しかも寿命もないから回収までめちゃくちゃ長くても待てるし、相続もないし、儲けても税金とられないし税金とっても自分に入るんだぜ?
株に投資する、不動産に投資する、これらは普通のヒトよりも気長に待てるしとんでもない資金力で押し切れる。もうこれ絶対に儲かる。なんなら企業が技術に投資して特許で稼ごうなんてのは国がやったらもっと大規模にできるし、そのために初等教育の時点から投資することすらできるんだよ?はちゃめちゃ儲かるはずよ?
小学校の先生ってことは早稲田の教育ー教育ー初等教育だろうと思うけど
あそこって小学校の免許必須だし、「とりあえず免許取る」ってノリではないんじゃないのかと。
法学部の滑り止めで受けるなら、教育ー社会ー公共市民あたりではって感が。
それとも、教育学部生は選考を通った一部の学生だけ中高免許とは別に小学校を追加できるからそれをやったのだろうか。
3年生にも4年生にも教育実習にいかないといけなくてつらそうで、「とりあえず」の人たちではないように見えたが。
まあ大学からうざいぐらい小学校を検定で取れとメールくるし、とりあえず勢は資格の1つとして取るのだろうか。
追加でやったのなら高校の教育実習にも行ってるはずだし、あの先生が朝日高校の教育実習でどのようなことを思ったかとか考えると面白そう。
新自由主義以前のケインズ主義はアメリカ、イギリスでは失敗してた。インフレだが、増加した需要を自分たちがつかめないスタグフレーションになったからだ。負けた相手は戦後復興したケインズ主義の欧州や日本であって新自由主義国じゃないけど。
なので、小さな政府に戻した。一つが費用対効果に立ち戻ることだ。
だけど、この費用対効果観測がとにかく近視眼だから、効果が見えるのが先になってしまう基礎萌芽研究投資は「費用対効果がない」ということで削られる。
大学ファンドも費用対効果を求めたために、実際の研究に投資せず、海外投資するファンドになって「競馬で勝ったら焼肉をおごってやる」程度の代物になってしまった。気分がいいときにおごりでやる程度のものでしかないってことだ。さらに円安の原因になってる。
最近生産的政府支出だとかいう人間がいるが「生産的か生産的じゃないか」の指標が近視眼的な費用対効果である以上、基礎萌芽研究投資は生産的政府支出にはならないだろう。それは大学ファンドの顛末をみても分かる通り。
他に教育や貧困者対策もある。教育も初等教育の影響が出るのは20年30年後だ。貧困者も食い詰めたやつが一部京王線事件みたいに殺傷事件起こすことがあるからな。
マスとして一部べらぼうに効果があるというのを、せめて過去の実績から推計すること、さらにいくら出せばいいかを推計していく必要がある。推計ができない状態なら感覚でばらまいたほうがまだマシということは言える。
>そうなんだ! 見てなかったけど、逆にその仕立てでよく「なぜ文革が起きたのか」が説明できたもんだな。
だから、全くしてないんだよね。時間がないせいもあったのかもしれないけど、毛沢東の独裁政治がずっと続いた、というストーリーの中にふわっとまとめて誤魔化していた。そもそも文革や天安門事件で突如沸き起こった下からの群集的な運動も中国社会の一面なんだけど、これが独裁政治とどう整合的に説明できるのかも全くない。他にもニクソン訪中などの外交や国際情勢についてもほぼ触れていなかった。最近のNHKの中国特集にはあまり期待してなかったけど、予想以上にひどかった。
そもそも毛沢東時代を暗黒化する歴史観も古くて、初等教育制度の確立や鉄道や道路のインフラの整備、感染症の撲滅などが急速に進み、その後の高度経済成長を準備した時代であったことも正当に評価しなきゃだめだろうと思う。
単純に、どこが悪いのかがぱっと見て取れない増田に対して、足が悪いという元担任の方が世間的に優遇されていると思っているのかな。自分の内情を誰も理解してくれないことにいらだって、同じように苦しんでいるけど支援を受けやすいであろう身体障害者を逆恨みしていると思われる。
文章も要領を得ないのでかなり初等教育が欠落していると思うし、メールで脅迫するくらいだから精神的にもかなり追い詰められているはずだ。
・その点はソシャゲがすごいとおもうのよ、500万文字のシナリオにじゃぶじゃぶ新規絵つけてなげこんで末はアニメ化。そりゃ国民的になるわ。集約農業って感じ。
・あとはフラットになっているので、プラットフォーマあるいは雑誌編集者として「あなたのための物語」をつくる努力が重要。ディズニー・チャンネルには抱き合わせでマーベルとナショナルジオグラフィックが入ってる。コロコロ、ジャンプ、そういった昭和でガチだった「まとまり」が今は薄れているけれどあえて厳密に(なんでも自由にやらせてみようと漠然とするのではなく身内に厳しく審査して)ターゲティングして「まとまり」をつくれるところが勝つようになってる。ソシャゲもコラボでお互いに導線つくってるしな。
衆議院議員の選挙が数ヶ月後に迫っているようだが、いい感じの投票先が見当たらない。
ならば被選挙権もあることだし、いっそのこと自分が立候補するか?!とも考えたが、供託金300万円が高すぎて難しい。貯金はもっとあるが、300万は大きな額だ。
現実には立候補は無理なので、かわりに政策集を投下しておこうと思う。投票する立場では、これらの考えに最も近い政党・候補者を選びたいところだ。
タイトルは増田党としているが、増田の統一見解を示す政党という意味ではなくて、増田の一人が立てた架空の党だという意味だ。なお「mass(多数派)打倒」という意味ではない。
電力は国の最重要基盤の一つ。
資源の乏しい我が国は、知恵と技術、そしてそれを育てる教育こそが国の中心である。
選挙のタイミングで、それからの4〜6年間ほどの全ての課題を議論できるはずが無い。今の国会議員が選挙で選ばれたときに公衆衛生に関する論説を国民に向けてやった者がどれほど居るだろうか?
なので選挙のときには、その時点のホットな話題についての候補者の考えを見聞きして、既知の課題だけでなく将来の未知の課題についても上手く取り組んでくれそうな人を推測するしかない。
増田には文字数制限もあるし、他のトピックは推測してくれ。そしてもちろん、本物の衆議院議員候補の政策も、そうやって読み、評価したい。
自分はよくVTuberを見るけど、ここで書かれているような学力の人が想像以上に多くて驚いたので、増田が書いていることはリアルなんだろうなと思うよ。
Vtuverもアイドル崩れとか声優の卵とかが結構いるけど、マジで
・日本の都道府県の位置関係をほとんど把握していない。それどころか北海道本州四国九州の位置関係が曖昧な人もいた
みたいな子がゴロゴロいる。これ全部別のVTuberだからね。
上に書いたような子たちは「勉強が苦手」とではなく、そもそも何らかの理由で初等教育からドロップアウトしたとしか思えないいんだよな。
VTtuberっていう職はかなりハードみたいで早々にリタイアする人も多いし、そもそもブームがどれくらい続くかも解らないし、いわゆる「中の人」のキャリアにもならない。
国語辞典やブリタニカのような写真ではなく字が主体の百科事典の動植物あるいは衣服等の説明は分かりづらいものです。
あれはそもそも現物を見たことがあることを前提にしているような解説になっているようにみえます。
辞書の主な使い方の一つとして、文章に出てくる具象名詞がどういうものか分からないから引いてみることがありますが、この場合現物を見たことがないことも多いはずです。
ですから解説に写真を用いないならば実物と相違ない像がありありと浮かんでくるような文章で説明されていなければある意味本末転倒なのです。
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試みにあなたが知らない植物を何か一つ引いて、その説明を読んで図に描いてみてください。そしてネットの画像検索で比較してみてください。
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今はAIがありますからより科学的に辞書事典の記述の妥当性を検証できると思います。
写実的な絵を描くことに定評がある人達から同じ植物の絵を集めて、模範的な絵として学習させたら、同じような人たちからその植物をまだ知らない人たちを選出し、辞書の説明だけを頼りにその植物の絵を描かせます。
次のパターンとして、絵は全くの素人という人たちに実物を見せてその絵を描いてもらったら、既に学習させた模範的な絵との比較で、両パターンの近似度の平均をそれぞれ算出します。おそらく全くの素人が実物を見て描いたものの方がまだ高い近似度を持っていることでしょう。
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広く捉えればこれは国語教育の問題かもしれません。つまり国民全体において辞書等から正しいイメージが得られないというのが平均的な水準として示されるならば、それは個人によつ勉学の怠慢という自己責任ではなく、教育制度側の過失といえることになります。
PISAではごく単純な論理パズルのような説明文を読ませて正答を導かせるようなことを行ってきていますが、一度、文章からそれが示す物体やその配置に関する図を選択させる問題も出してみるべきだと思います。
数学には取って付きのマグカップとドーナッツを「同型」とみなすようなトポロジーという学問がありますが、そのような緩い制約の下ですら構造的に異なるような一群を選択肢としても、なお正解を選べない人がごまんと出てくる結果となるかもしれません。
そうだとすれば小説の情景描写もまたまともに機能していないかもしれません。自覚のないあきめくらが読者かもしれませんから。
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本をたくさん読めば読解力が身に付くという考えが横行しています。この根性論のような考えも問題です。
PISA等で国民の文章からイメージを自分の頭に形成する力の低下が判明したら、文章とそれが一般的に指し示す図の対応ということに焦点を当てた学習法をぜひ初等教育に取り入れるべきでしょう。
やみくもに本を読んでれば読解力が上がるというのは、読書に慣れるとか、知らない単語を発見することで知識を埋め合わせる機会が得られるということが考えられるのである意味で正しいですが、しかし言葉をイメージに還元する力の育むに際しては根本的に、原理的に無力だと思います。
我々の脳よりもはるかに高い処理能力を持つAIでさえも、一部の学習に際してはフィードバックという一定の手順を必要するのです。
我々が文章から正しいイメージを得るようになる過程についても同じことが言えると思います。
「そのイメージで合ってるよ」「そのイメージは間違ってるよ」と教えられることによるフィードバックがなければ、自分の読みが修正される機会がなく、何かを読んでもトポロジー的にすら間違ったイメージを展開していくようになるでしょう。
あるいはそれは教育されなかった「ヒト」としての自然な姿なのでしょうけども、それはそれとして。
話を戻せば、するべきことは、文と図との基礎的な対応表を作って、九九のように叩き込ませることです。
これは一見根性論めいているかもしれませんが、無計画な多読よりも遥かに効率的でしょう。
基礎的な表がクリアできたら、もう少し複雑な文や文章でも作成しておいた対応表へと移行していけばよく、方式としても構造化されていて明快です。
結局これは数学において基礎をおろそかにすれば応用問題で容易につまづくようなこと、たとえば掛け算ができなければ割り算はできないとか、微積分の原理が分かってないのでは微分方程式は解けないということと同じです。数学に取り組むのとある意味で同じ態度で国語の学習にも臨まれるべきだと思います。
これは自分が理系(の中でも数学とかの理論系)だからなのか、具体的に説明されるよりも抽象的に説明される方が絶対にわかりやすいんだよな。
冠詞の話もそうだけど、英語教育とか全体的にそう思う。例文をいくら並べられてもわかんないんだって。それよりまず一般論を教えて欲しい。もちろん自然言語だから例外があるのはわかるけど、例外を後から覚える方が自分にはわかりやすい。
でも学校(初等教育)だと「具体的に説明しなければわかりやすくない」というルールが蔓延しているのが辛かった。最初に具体的な説明から入って、後から「実は~~」という種明かしで抽象的な説明に移行するよりも、最初に「これが答え」とズバッと抽象的な説明をして、後から一つ一つの具体例を見るという授業をしてくれた方が、自分にとってはよかった。(多くの人にとってはそうではなかったのだろうけど。)
まあ、「個別の特性に合わせて指導する」という目標自体が最近になって議論され始めた概念だと思うので仕方ないんだけど、願わくばこういう経験談が今後に役立って欲しい。
要するに、一般的に「大学レベルで難しい話」とされていることが自分にとっては簡単な話で、逆に一般的に「中学レベルで簡単な話」とされていることが自分にとっては大学レベルで難しい話である、ということがよくある。
「権威」という言葉に納得できないのであれば、われわれは、ある話題について、誰を、どの程度まで信じることができるか、という「実践感覚」を持って生活していると言い換えてもよいだろうか。
われわれは義務教育の教科書に書かれていることは概ね正しいと認識している。義務教育で教える内容はいわゆる「定説」として確立されたものであり、すでに複数の専門家による批判・検証を経て正統な保守本流の知識としての共通認識が成立したものであると理解しているためだ。初等教育過程で学ぶ知識の体系はほぼ権威による学びである。もちろん理科であれば実験をおこなうことによって、社会科であればフィールドワークを行うことによって、学んだことを経験によって確認する機会は設けられている。しかし学ぶ知識のすべてについてそのような検証を行うわけではない。教えられる知識が検証可能であることを示し正当性を担保するためと、検証する方法論を学ぶためである。
われわれは新聞やTVというメディアの情報が概ね信頼できることを知っている。しかし100%信頼できないことも知っている。各メディアごとに信頼度は異なり、同じメディアの中でも話題や分野によって信頼度が異なるという感覚も持っている。BBCやCNNのいうことは信頼できるがスプートニクや大紀元はトンデモだとか、岩波書店の出す書籍の内容は信頼できるが幻冬社の本は紙くずだとか、われわれはこのような無数の相場感覚、実践感覚を日々の生活で養いつつ、またそれを以って触れる情報の真偽のグラデーションを判断しているのだ。ここで見落とすべきでないのはそれら相場感覚、実践感覚はあくまでも「感覚」であって客観的基準ではないということである。
元増田への反論に論文査読や再現可能性、反証可能性を持ち出すのは筋違いの議論である。それらは原理的な主張としては正しい。しかしわれわれは全ての情報についてそのような判断をしているわけではない。例えば「SARS-CoV-2は空気感染する」という言説を聞いた時、それを主張する論文に当たり、誰が書いたものか、査読は誰が行ったか、それぞれの研究者の業績等を調べて真偽度を判定するというのは「原理的には」可能である。しかしそのようなことをあらゆる情報について行うことは余程の暇人でなければやっていられない。多くの場合はその分野の権威とみなされる研究者が論文に信頼性があると判断した(あるいは信頼性がないと判断した)という事実をもって自身の判断の参考にするだろう。すなわち権威による判断である。
初等教育で学ぶ知識の体系に照らして真偽を判断するということは可能であろう。しかし初等教育で学ぶ知識の体系というのは権威による学びであったことを忘れるべきではない。その知識の体系全てについて実験などによる経験として検証したと主張できる人は少ないだろう。(あとで、検証することが原理的に可能であるとしても)我々はそのように<権威によって>「定説」として与えられたものをもとに真偽を判断し、その真偽の判断が他の人の言説にどのように現れるかを以ってその人に対する信頼度を評価し、その信頼度においてその人の言説に現れた事象の真偽を評価するのである。そのような信頼と評価の積み重ねから真偽のグラデーションを判断する実践感覚が生まれているのだということ、多くの生活の場においてその感覚に依存しているのだということを忘れるべきではない。