はてなキーワード: ラストとは
この度、岩波文庫からアリエル・ドルフマン(昔は、英語風にドーフマン表記だった)の戯曲作品『死と乙女』が刊行された。90年代に一度、英語版から日本語に翻訳されたものが劇書房から刊行されたが、その後は長く絶版品切状態だった作品である。
「過去に読んだが岩波文庫から復刊したことは知らなかった」という人は、書店に急いで欲しい。
読んだことの無い人も、やはり書店に急いで欲しい。
もしかしたら、作品を読んだことは無くても、朴璐美や真木よう子などが主演した舞台を、日本国内で観たという人もいるかも知れない。または、ポランスキーによる映画作品を観た人もいるかもしれない。
ちなみに、これを書いている増田は、ど田舎生活の低所得者なので、演劇文化とは縁が無いことから、舞台を観たことはない。
今回の岩波文庫版は、著者の母語であるスペイン語で書かれたバージョンからの翻訳となる。翻訳者による詳細な解説があるので、作品執筆の背景となった70〜90年代のチリ内外の政治事情を知ることも出来ることから、一読者として有り難い。
これを目にしている貴方が、書店に赴いて『死と乙女』を入手して読んでくれるならば、もう以下の駄文を読む必要は無い。
この増田が読むことを勧めている『死と乙女』とは、どのような作品なのか、読んだことは無いが少しだけ興味が有るという人に向けて、以下を記す。
ただし『死と乙女』の結末に触れる部分があるので、未読で結末は自分で知りたいという人は、ここで一旦、この駄文を読むのをストップしてもらいたい。
また、直接的ではないものの、性暴力に言及する箇所もあるので、精神的な苦痛を喚び起こされる虞がある人は、ここで読むことを止めてもらいたい。
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1970年、南米チリで、サルバドール・アジェンデを大統領とする政権が誕生した。俗に、史上初の民主主義選挙により誕生した社会主義政権とされる。
しかし、アジェンデ政権を皮切りに中南米地域で社会主義国がドミノ倒し的に増加することを怖れた米国ニクソン政権は、チリへの介入を決定する。かくして、米国の後ろ楯を得たピノチェトが起こした軍事クーデターによって、チリは独裁国家となる。
この独裁政権時代のチリでは、多くのチリ国民が政治犯として弾圧され、不当な身柄拘束、拷問、虐殺の対象となっている。
チリ国外に亡命した人間もいる(亡命はしたもののチリ国外で暗殺されたという人間もいる)。映画『イル・ポスティーノ』の主人公の詩人も、そのような逃亡者であったことを、記憶している人もいるかもしれない。或いはまた、ヨーロッパに亡命していたチリの映画監督ミゲル・リティンが、ピノチェト支配下のチリへ潜入して取材する姿を、コロンビア出身ノーベル文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスがルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』(邦訳は岩波新書)として著したので、それを読んだ人もいるかもしれない。
本作『死と乙女』の著者アリエル・ドルフマンも、チリ国外に亡命した人間の一人である。
そして『死と乙女』の主人公パウリナ・サラスもまた、ピノチェト政権下で筆舌に尽くし難い苦痛を味わい、生還したチリ国民の一人である。
パウリナの夫ヘラルド・エスコバルは、ピノチェト政権下で、弾圧されている人々をチリ国外に亡命させる手助けをしていた。そのためにヘラルドは、ピノチェト政権当局から弾圧の対象とされた。
しかし、ヘラルドが当局の手を脱して逃亡したので、彼の居場所を吐かせるために秘密警察は、彼の妻であるパウリナの身柄を拘束し、彼女を拷問した。その時、拷問者は、目隠しされたパウリナをレイプしながら、シューベルト作品『死と乙女』をBGMに流したのである。
時が流れて90年代に入ると、チリは民主主義国家へと移行する。ヘラルドが逃亡する必要も、パウリナが夫の隠れ場所を吐かずに耐える必要も無くなり、二人は夫婦として、堂々と暮らせるようになった。しかし、パウリナの心には、拷問による拭いきれない大きな傷が残り、それが二人の暮らしに暗い影を落とし続けていた。
民主主義政権となったチリ政府は、ピノチェト独裁時代に行われた弾圧について、調査究明を行なうと国民に約束し、そのための調査委員会を任命する。今やパウリナの夫ヘラルドは、その調査委員会のメンバーの一人である。これが、物語の開始の時点で、主人公の置かれた状況である。
物語の冒頭、或る晩、ヘラルドは、パウリナの待つ自宅へと自動車で帰る途中、タイヤのパンクにより立往生していたところを、通りがかった医師ロベルト・ミランダに助けられる。ロベルト・ミランダの車で自宅に送り届けられたヘラルドは、夜も遅いし助けてくれたお礼にと言って、ロベルトに自宅へ泊まっていくことを勧める。
結局ロベルト・ミランダはヘラルドの申し出に甘えることにし、ヘラルドが寝室に居るパウリナに声を掛けて、彼女にも客人を泊まらせることを了承させる。
翌朝。
ロベルト・ミランダは、椅子に縛られている。パウリナが、彼にリボルバー拳銃を突き付けている。
それを見て驚く夫ヘラルドと、狼狽する医師ロベルト・ミランダに対して、主人公パウリナは告げる。
「昨夜、この男の声を聴いて気づいた。この男、ロベルト・ミランダこそが『死と乙女』をBGMとして流しながら、あたしを拷問し、レイプした人間だ」と。
ロベルト・ミランダに拳銃を突き付けて「洗い浚い罪を吐かせる」と主張する主人公パウリナに対して、夫ヘラルドは思い止まるように説得する。
チリがピノチェト独裁体制を脱して民主主義国家となったとはいえ、いまだピノチェトを支持するチリ国民も決して少ないとは言えない(現実世界の2023年現在でも、ピノチェト支持者が残っているのだから、民主政権に移行したばかりの90年代前半を時代設定としている物語の中では、尚更である)。独裁政権時代の弾圧活動に関与した人間たちの全てを、罪に問うて処罰しようとしたならば、親ピノチェト派の有権者からの反発を招き、まだ体制も盤石とは言い難い民主主義政権が倒れることになりかねない。最悪の場合、内戦が勃発して、更に血で血を洗う国民同士の殺し合いともなりかねない。
そのため、現実世界のチリで行われた調査も、調査対象事件を「被害者が殺害されたという重大なケース」に限定し、尚且つ、真実を綿密に明らかにした調査報告書を作成する代わりに、弾圧関与者の氏名公表や厳しい処罰を免除するという、謂わば折衷案の形をとらざるを得なかった。
処罰を免除するという条件を餌にした、一種の司法取引によって、ピノチェト独裁政権時代の弾圧に関与した人間に、己の罪を自発的に告白するように促したとも言える。
しかし、もしも調査委員の一人であるヘラルドの妻パウリナが、ロベルト・ミランダを殺害してしまったとしたら、いや、殺害せずとも、拳銃を突き付けてロベルト・ミランダに自白を強要したことが世間に知られたならば。
民主化した政権も、真相究明も、全てが水泡に帰すことになりかねない。
パウリナは、ロベルト・ミランダの命までは取らないことを条件にして、今ここにいるパウリナ、ヘラルド、ロベルト・ミランダの三人で"裁判"を行なうことを強引に承諾させる。かくして、現実のチリで行われた真相究明の動きを追体験するような、緊迫の一夜が、舞台上で演じられることとなる。
以下では、物語の結末に触れているので、未読の人は一旦ここで増田の駄文を読むのを切り上げて、まず『死と乙女』を読んでもらいたい。
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ロベルト・ミランダに罪を告白させること(供述をテープレコーダーに録音した上で、ロベルト自身の手で文字起こしの原稿を書かせ、さらに「自発的に真実を語った」と宣誓する署名までさせること)が出来たミランダは、ロベルトを監禁する前に家から離れた場所へ移動させておいた彼の車を、返すために取りに行くようにと夫ヘラルドに頼む。
そして夫ヘラルドが家を出て二人きりになると、パウリナはロベルト・ミランダに銃口を向け直す。
「真実を告白すれば命を助けると言ったのに、約束が違う!」と抗議するロベルト・ミランダに、銃口を向けるパウリナ。
パウリナは、ロベルト・ミランダの語りを聞いて、心の底からの反省や悔悛が彼には見られないと判断したのだ。
ここで演出として、舞台には幕が降り始め、パウリナとロベルト・ミランダの姿を隠すとともに、その幕は鏡となっており、演劇『死と乙女』を観ている観客たち自身を映し出す手筈になっている。
再び幕が上がると、物語のラスト場面であり、パウリナとヘラルドは、二人で連れ立って、音楽演奏会に出掛けている。演奏の休憩時間では、他の観客と、調査委員会による調査の成果について、夫ヘラルドは語り合っている。
休憩が終わり、演奏が再開される。
すると、その演奏会の会場にロベルト・ミランダが入って来て、主人公夫婦から離れた、ずっと後方の客席に彼は座る。
夫ヘラルドは気づいていないが、パウリナはロベルト・ミランダの存在に気づいて、しばし後ろを振り返り、ロベルト・ミランダを見る。ロベルト・ミランダは、何も言葉を発すること無く、ただ、主人公パウリナに視線を向け続ける。やがてパウリナも、ロベルト・ミランダからは視線を外し、前方(演奏会の舞台があると設定されている方向)を向いて、物語は終わる。
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この増田は、殺したと考えている。(続く)
乗り遅れすぎてるけど、【便乗】女性の性欲事情9選!(https://anond.hatelabo.jp/20230823152347)と、付け加えのトラバ(https://anond.hatelabo.jp/20230823160832)読んでてめっちゃ興味深かった。
あーそうそう! と思うところも、あんまそうじゃないなと思ったこともあった。
これは女性一般の話ではなく私の話なので、記事にアンサー形式で、自分の性欲についてメモ。
https://anond.hatelabo.jp/20230823152347 から↓
→私はエロいと思ってなくても濡れる、エロいと思った時には必ず濡れる。
「エロいと思った」のレンジがどうかという話なんだが、日常生活の中で男とか男の筋肉とか男の手とか見てエロいと思ったことはない。
an-anセックス特集的男性の裸体もどっちかというと気恥ずかしく思うたち。
明確に「これからセックスする相手が目の前にいる」「これから自慰をするためのおかずが目の前にある」ときじゃないとエロい気分にならない、エロいと思わないので、思った時には100発100中で濡れる。
→私はめちゃはやかったとおもう。
→自分がするのが一番好き
→完全にオカズ目的。実際に自慰しなかったとしても性的興奮目的。
他人事として眺めてられるBLのほうがはかどるし、女性とセックスしたことないししたいとも思わないという点で、どこまでも他人事なGLもはかどる。
オカズに感情移入したくない、シンプルにてっとりばやく興奮だけしたいので、自分が重なる要素、共感要素はすごく邪魔。
そういう意味で、NL(男女もの)、ストーリーが複雑なものはいまいち。エロいとこだけ拾い読みする。
→わたしは恒常的にセックスできてればオナニーしなくてもいい。
セックスとセックスの間が開くと、その間をオナニーで埋めるが、間があまりないならオナニーはしない。
→挿入絶対主義。
外のほうがイキやすいっていうのは同意だけど、中でもいけるので、中を刺激してもらわないとどうにもならない。
でもオナニーでは中いじらない。自慰はあくまでセックスのサブみたいなかんじでそんなに重きをおいてない。さくっと終わらす。
→別に「愛されてる」とかそういうレベルじゃなくてもよくて、ワンナイトであっても、丁重に扱われてるとか、礼儀正しいとか、人らしいコミュニケーションが取れるとか、ゴムを当然のようにする(生でやりたがらない)とか、その辺の条件がそろえば全然OK。
ただ、精神的に深いつながりがある相手とセックスできるんならそっちのほうがもちろん断然いいし、そういう相手がいるときはワンナイトにはいかない。
相手のテクうんぬんより精神的に満たされてるほうがよっぽど重要というのは絶対にある。
ワンナイトは完全にお互い抜き目的でそのあとなんかむなしいってのはあるし、あんまりいいこととも思わない。
→前半とエロいラストまではめちゃくちゃ同意。あんまりないどころかほぼない。
「AVのセックスシーンのみ」は、動画なら性欲はバキバキに感じる。感情移入したいわけじゃないので、ごちゃごちゃした周辺情報がないほうがありがたいかも。
→ほぼ同意。むこうのやり口がどんなにワンパターンでも、こっちだって同じだし。こっちが飽きることってあんまりないんだが、男性は明確に飽きてくるむきもあるのでは?
でも、レス気味になって終わる相手もいれば、長く続く相手とはほんとに長く続くので、よくわからない。
長く続いてくると「飽きないのかな?」と思うんだけど、こっちは特定の相手と長くセックスできるほうがうれしいし、無粋すぎてきけないので謎は解けていない。
↓https://anond.hatelabo.jp/20230823160832 から
→そうだと思う。開発が必要というのはものすごく同意で、私も最初から中でいけてたわけではなく、同じ陰茎で同じところをしつこく狙うなどを経た結果だと思う。
男性の射精は経験したことないけど、それと近似の感覚ともなんとなく思えない。
→半分同意なんだけど、私はPMSとかほぼないのもあって、生理中以外ならいつでもセックスOKだし、いつでもよく濡れる。人生を通して濡れにくいと思ったことはあまりない。
といいつつ、仕事のストレスがあまりにぐわーっときてるときとか、大きな懸案がある時はその気になれなかったりするけど(やってみたら意外とできたりもするんだけど)それは男女でどうというより、人間ってそうなんじゃないかなと思う。
→セックスはムード大事だよ!!! なんなら人間関係全部ムード大事なんじゃないか。
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あと、陰茎の大きさ気にしないってブコメかなんかでみたけど、私は太すぎるのは嫌だし、長いほうがいい。
小柄な友人は、膣も小さいのでいわゆる粗チンの人のほうが断然フィットして気持ちいいっていっていた。
別の友人も長さ重視。
ただ女性は男性以上に個人差が大きそうだと思っているので、「主語が大きい」「それは違う」などなど異論は認めます。というか異論をどんどんつけ足してほしい。
1. エロいと思ってなくても濡れる、エロいと思った時に必ず濡れるわけではない
2. 幼少時からエッチなものが好きな人もいれば嫌悪感を抱く人もいる
3. エッチな漫画や小説を読むのは好きだけど自分がするのは嫌い、という人もいる
4. エッチな漫画や小説を読むのはいわゆる「オカズ目的」とは限らない
5. セックスもオナニーも全くしなくても平気な人も一定数いる
6. セックスで挿入はなくてもよい
8. 女性誌の表紙の半裸男性の写真などを見て性欲を感じることはあんまりない。エロイラストやAVのセックスシーンのみを見ても性欲を感じにくい。
今おもいつくのこれくらい…また追記するかも
ここでいう一線級はオタクならまあ知ってるってレベルでジブリとピクサーだけが一線級とかじゃなくてな
オタクなら知ってる
・ぼっち・ざ・ろっく
ぐらい有名なのを除いてというやつ
・禍つヴァールハイト
今はなきソシャゲの前日譚で偶然の不幸にに巻き込まれ、人を殺めてしまい、
色んな出会いとトラブルに巻き込まれて国の陰謀に巻き込まれてゆく…
異世界転生するわけでも、派手派手のアクションもないのにも関わらず
・ACCA
伏線もバッチリ聞いていて、それを知ると前半と後半のほんとうの意味がわかるようになる
不穏な雰囲気が好きな方はぜひ
有名すぎるか・・?
浦沢直樹の原作に基づくアニメ作品。前半部分なら浦沢直樹最高傑作と私は踏んでいる
物語は、優れた脳外科医であるDr.テンマ。彼の一つの決断が、彼の人生と彼を取り巻く多くの人々の運命を大きく変えてしまい・・・
って話だけどラストは置いといて、あの原作ののめりこんでしまうような緊張感をだせているのがGood。ルンゲ警部好き
こんな感じで何か教えてくれると嬉しいです
この映画についての物議・炎上はいくつかあって個人的にも嫌な印象しかなかったんだけど、どうせ自分一人が見ても見なくても日本での売上は芳しくはないだろうと思って見に行ってきた。
そうしたら頭の片隅でずっと考えつづける映画になったので、思うところを吐き出しとこうと思う。
深夜の書きなぐりだから色々お粗末だろうが勘弁してほしい。
長いぞ!あと普段このサイトをそんなに見ないので空気感も分からない。
一番面白かったのは、ケンがバービーをやっと惚れさせることができた!!と確信して2時間か4時間かギターで弾き語りしてたあたり。
理由はざっくり後述するけど、男社会化したバービーランドで自信満々に振る舞っていたケンが、歌詞では『こんなダメな僕でも愛してくれるかい』みたいな弱気なことを言っていたのが毒っ気があってよかった。
それで、語るに外せないこの映画の社会的な側面についてだけど、当然かなり強いメッセージが感じられる映画ではある。
興味深いのはやっぱり、この映画がフェミニズム映画として評価されているのと同時に、アンチフェミニズム映画としても評価されているところだろう。
実際映画を見てみて自分も納得した。監督は女性で、女性についての映画を撮ることが多いそうだが、実はアンチフェミニズムの厭世観たっぷりなオジサンが撮ってますと言われてもまあ分かるような映画だと思った。
バービーが住んでるバービーランドは、完全な女社会だ。もっと言えば、現実の(従来の、あるいは誇張された形の)男性社会の反転だ。
総理大臣、一番偉い検事、ノーベル賞受賞者、マスコミ、工事現場で働く人、幸せで自由な住民。そのすべてが女性、つまりいろんなタイプのバービー人形である。
バービーランドには男性もいる。いろんなタイプの、と言ってもバリエーションは限られ、全員若い男だけだが、ケン達も住んでいる。
しかし彼らはバービーのおまけだ。バービーににこやかに挨拶して、バービーにかっこいいところを見せて、バービーがいなくては生きていけないと言うためだけに存在している。
夜になって、メインのバービー(以後マーゴット)に、メインのケン(以後ライアン)がキス待ち顔をしてみたり一緒に過ごさないかと提案してみるけど、ライアンはマーゴットに気まずそうに追い払われる。ライアンはもちろん深追いしたりせず笑顔で去る。全く彼を顧みず女子会に赴くマーゴットにいい感情は抱いていないのだろうけど、その国ではそうするしかない。
そう。この映画はバービーの付属品のケンたるライアンの、口に出せない苦しみからはじまっている。
そしてその直後に描かれるのが、バービーであるマーゴットの、バービー社会での初めての違和感だ。
バービーが『死について考えたことは?』と口にした途端、鳴り響いていたEDMが止まりパーティーが凍りつく。バービーランドでは多分、深く暗く考えることは好かれることではない。ライアンも後々深く考えるマーゴットは好きじゃないなどと言う。
ギャグの文脈でもあるだろうが、ちらほら映っていた重役のバービー達の仕事っぷりもそんなに思慮深そうではなかったし。
そんなマーゴットが抱えた違和感を出発点にして、マーゴットは、勝手についてきたライアンと一緒に、バービーランドを出て現実へ旅立つことになる。現実とはそのまま、人間が暮らす現代の社会──もちろんアメリカだ。(この旅の最中も、例えばライアンが料理か何かをしている最中にマーゴットはのんびりコーヒーを飲んでいたり、ちょっとした違和感が散りばめられていた。それともこれを違和感と思う自分の認識の歪みに気付かされるギミックなのかもしれないが)
そこからはかなり端折って説明する。マーゴットが旅に出たのは自分に起こった変化を治すためだったが、マーゴットは事態を解決する人間を見つけてバービーランドへ戻る。ところがそこは、現実の『男が尊敬される』男社会に感銘を受け、一足先に舞い戻っていたライアンによってケンダム(ケンの王国)に作り変えられてしまっていたのだ。
バービーたちは軒並み『洗脳』されており、大統領がメイド服でビールを運んだり検事がケンにマッサージをしてたりなどなど、変わり果てた有様にマーゴットは絶望するが──『変化』が嫌だと泣きわめいて──しかし、連れ戻った人間がバービー達をその洗脳から解き放つのだ。
バービー達はケンたちによる憲法の改正を食い止め、バービーランドに平和が戻る。
これが大筋だ。
この洗脳の下りは紛れもなく『woke』の比喩。しかも2重に交錯させた比喩のはず。
wokeとはググっていただきたいが、ざっくり説明すれば、直訳で目覚めた人々を意味し、フェミニズムなどの活動家を指している。侮蔑の意味合いで使われることもあるようだ。
表層を見れば、ここで描かれるwokeはバービーたちの方だ。
人間は、ケンダムと化したバービーランドの『おかしさ』をバービーたちにぶちまけて洗脳から解き放つのだが、やってることはひたすら説得である。人間はひたすら女性の生きづらさ──家事や子育てを押し付けられながらも綺麗でいなくてはならないとか、そういう愚痴をバービー達に語りかける。それで、バービー達は突然ハッと目を見開く。まるで今ようやく目が覚めたかのように。それで洗脳はとけ、社会を変革しようと活動し始める。
でも、作品の中で一番最初に『目覚めていた』のは、きっとライアンだ。
ライアンは男が立派な仕事をし、女性に必死にならず、振り回されず、通行人が丁寧に時間を聞いてくる現代社会に感動して、現代社会を作っていると図書館の本に書いてあったらしい、『男社会』の概念をバービーランドに持ち帰った。それは日本で言うところの『海外を見て日本の異常さに気づいた女性フェミニスト』の反転ではないだろうか?
バービーランドで無価値だった自分に気付かされた、ライアンもまたwokeだったのだ。
ライアンが短時間に実際どうやって、ケンたちはともかく、バービーまで男社会に染め上げることができたのか映画の中ではハッキリとは描かれていなかった。(とあるバービーが、バービー達は耐性が無かったのでケンに洗脳されたとは言っていたが、曖昧だ)
正直なところ、ここの急展開は若干違和感だった。まるでこの映画を、フェミニズム映画に仕立てるために無理やり男社会と女の生きづらさのエッセンスを詰め込んだシーンのようにも見えて、見ている間はずっと、制作陣はこれを皮肉のつもりで撮っているのだろうか?と勘ぐっていた。
それに、その違和感は多分全く見当違いなものでもなかったと思う。
結局ケンダムの夢は崩れさったわけだが、マーゴット(それか人間だったかも)は今までのバービーランドに戻るのではいけないと他のバービーたちを諭す。
その中で初めてバービーたちは、ケンたちがどこに住んでいるのか自分たちは知らないという事実に気づく。まあ多分、バービーシリーズの商品展開について詳しくないけど、ケンの家は存在しないんだろう。
その結果、バービーたちはケンたちの人権を認めると言う。ケンたちは大喜びだ。ある一人のケンがバービーに言う。『おれも最高検事になってもいい?』バービーは真顔で即答する。『それはだめ。でも下級検事ならいいよ』ケンはそれに喜び、ナレーションが入る。『ケンたちはまだまだこれからのようです…』
かなりの皮肉だよね?
口では権利を認めながら、実際は希望の職につけるかどうかは既得権益者の許可制なわけだ。明示的なwokeとして描かれた、女性の象徴であるバービーたちがその矛盾、つまり性差別をやらかしてる様をバッチリ描いている。結局変わらない憲法も、制限された自由に気づかず喜ぶ被支配者たちも、いびつだ。
これは、目覚めた過激なフェミニストたちがこのまま突き進んだって女尊男卑が訪れるだけですよ、なんてメッセージなのだろうか?
支障がなければいろんな人にこのシーンを見てほしい。これは、おそらく確実に、どちらとも取れるシーンだ。そしてその違いはきっと、その人が、今世間にあるフェミニズムをどう捉えているのかにかかってくる。
このシーンは現実の『行き過ぎた』フェミニズムの本末転倒差を指摘するものであるとするものと、あくまで現実の女性の苦しみのメタファーであるとするものだ。
前者は先程書いた通り。こういう見方をする人は、きっと『何でもかんでも男女差別だという今のエセフェミニストどもにほとほと嫌気が差している』という昨今なのではないだろうか。正義棒を片手に暴れ回る人々の脅威を感じているので、このメタファーが真に迫って見える。
後者は、きっと現実にはこんな女性優位の場所は存在していない(あるいはひょっとして存在し得ない?)と思っている人だろうか。だからこのメタファーがフィクションとして見れる。現実の女性と男性をただ反転させて描いただけだと読み取れる。性別を反転させて世の歪さを描こうとした作品はそう少なくはないだろうし、その系列だとも十分読み取れると考えられる。
結局変わらないルール。相変わらず性別の偏った管理職の面々。覚えのある話だろう。
はっきり言って、まるで分からない。そして(驕りかもしれないが)分からないのはきっと自分だけではないと思った。現に全く真反対の2つの陣営で評価されているのだし。
映画『バービー』は絡み合った皮肉だ。ただのフェミニズム、もしくはアンチフェミニズム映画だったとして、ここまで現実と比喩とを交錯させる必要はないんじゃないか?制作陣が描きたかったのは果たしてそのどちらかの主張なのか?
多分違うんじゃないかというのが、前置きが随分長くなったが、自分の考えだ。
映画バービーの締めくくりは、なんとマーゴットが人間になるというものだった。
変化の兆しを見せつつあるバービーランドに、マーゴットは上の空だった。あれだけ戻りたがっていた、バービーらしい日常に帰れることへの喜びは見えない。そこへ(詳しくはかかないけど色々あって現実で出会っていた)バービー人形の生みの親、ルースが現れ、マーゴットに手を差し出すのだ。
変化するのが嫌だ!と泣いて嫌がっていたマーゴットが──今思えばこの変化を拒む仕草も既得権益者側の改革を拒む姿勢のメタファーかも──考えが刻々と変わり、喜び、悲しみ、老い、変化していく『生き物』である人間になることを考える。
マーゴットは人間社会に飛び込んだとき、トレーラーにあるとおり警察に捕まったり、男にセクハラされたり、バービーランドとはまるで違う現実の荒波に揉まれるわけだが、その後、座ったベンチから、人間の生活のさまを広く見渡して涙を流すシーンがある。
公園の遊具で遊ぶ子供たち。親子。親密そうに語り合う若い男性二人。老人も。
マーゴットはそこで初めて、人間というものの理解の第一歩を踏み出したのだ。
そしてふと目を開けて、隣に座っていた老女と見つめ合うと、『あなたはきれいだ』と言って涙ながらに笑ったのだった。
流し見たインタビュー記事によれば、ここは監督が決して譲らなかったシーンなのだという。少なくとも監督のコンセプトにおいてかなり重要なウェイトを占める場面のはずで、実際演出も印象的だった。
映画のラスト、マーゴットはルースとの対話の末、人間になることを選ぶわけだが、その決断のときにも、人生というものがとても美しく描かれた。
笑顔の子どもたちが映るホームビデオ風の映像がいっぱい流れたのだが、最近こういうの全般に弱くて泣きかけた。
人生に起こるいろいろな問題に苦悩しながらも、人生の素晴らしさについて描く映画は一種のジャンルだろう。この映画はきっとそれに位置する。
男女差別についてかかれていたのは、勿論テーマ自体は主役扱いで、不誠実な描かれ方はされていなかったが、他の映画における、例えば叶わない夢の話や、恋、はたまた自然環境、仕事、社会問題など、『現代社会に生きる人々において共感を得る悩みごと』としてのテーマでもあったのではないか。
だってそうじゃないと、マーゴットは、他のバービーたちに背を向けて、バービーランドを抜け出さない。理想郷に永遠に住み続けていればよくて、いずれ死を迎える人間になんてならない。この映画が、女性は女性の理想郷で生きる権利がある、なんて事だけを説く映画なら、そんなエンディングにはしないはずだ。
いま分断社会に生きる我々は日々大いにストレスに晒されている。その中でも、人生が素晴らしいのだと思えるようであってほしいと伝える映画だというのが自分の所見だ。
少し話は戻るが、最後のマーゴットのルースとの対話の中で、細かい流れはうろ覚えだけど、特に印象に残った言葉があった。
人間になりたい気持ちの間で揺れるマーゴットが、バービーとして生まれた自分が人間になっていいのか、と産みの親に訪ねる。それに、答えるルースの言葉が、
さっきこれは単なるフェミニズム映画というわけではないとか力説したばっかりだが、テストで作者が考えるフェミニズムとは何ですかなどという設問があったら、自分はこれを抜き出して回答する。
男女差別と、人間賛歌という2つのテーマを包括する答えでもあるだろう。
フェミニズムが女性のためのものか、男性含む人間のためのものなのか。どちらと答えても炎上する今の世の中で、論争を煙に巻いて、たった一つの単純明快なフレーズを残したようなコメディ映画だった。
核使用を実行した屑って事になるんだぞ
逆に、面倒臭くてお堅い印象は確かにあるが
実際は格好が良いだけのテロリストなんだ
コロニー落としすらやっちまってる…
所詮義に寄って立ってるつもりの
"大きな戦乱は無かった"ってのが公式設定だ
……………わかるよな?しんのすけ
先週のギーツは酷かった
ギーツの良さって何だろうって考えるとギーツそのものの造形の良さや玩具としての完成度みたいな部分が殆どで、ストーリーはどんなに擁護しても「悪くないが別にどうでもいい」って感じだ
もちろん良い部分は多少あって、終盤でタイクーンが闇落ちする当たりはとてもよかった
ケケラは好きになれないがタイクーンをあんな形に落としたのはグッジョブといえる
あと、各ライダーの願いがほんの少しづつではあるが叶っていくのは意外と胸熱だった
逆にいえば全体的に低空飛行でタイクーン当たりがちょっと面白かったくらいなんだよな
そしてラスト1話を残した48話だけど、なんだこれって感じでオチを間違った感が否めない
正直ギーツが母親の身代わりになって創世の神になってしまい、バッドエンドになったほうがよかったんじゃないだろうか?あるいはギーツを救うために仲間が戦うってパターンでもよかった
そういうのに比べると蛇足感が強い
着地点を誤ったといっていい
また、ラスボスのスエルだが全然強そうではないしラスボスとしての風格がない
圧倒的な強者かキャラが立っているかのどちらかならいいんだけど、なんか裏でゴニョゴニョしている小物だったからね
そんでその中ボスをクリアする秘策がオーディエンスを懐柔するってのがなんだこれって
ガンダムとかでもロボット同士の戦闘だけじゃなくて政治の駆け引きがあるってのは展開としてはわかるんだ
けれどギーツでいままでそんなところなかったんだよね
子供たちにとっては「ギーツにもっと強いアイテムや力をくれるんじゃないの」ってことだろう
クソゲーの攻略がこれまたクソみたいな唐突な盤外戦術ってどうよ
そういう意味でこの数話は完全な蛇足って感じでほんと締まらない
戦隊シリーズって主人公たちが勝手にチャンバラしているだけなのが普通なのに、ちゃんと国と国民が登場してみんなで生きていこうってのが伝わる
モブに焦点を当てるってのは意外と大変なんだよな
例えばブリーチやナルトなんかでも、そこらへんにいる何の力も持たない人たちが一緒に戦ったり考えるってのは殆どないよね
日常も戦闘員同士の掛け合いばっかりで、非戦闘員や何の特徴もないモブって全然出てこない
けどキングオージャーはそれを国民という形で表現できているから凄いと思う
しかもあの人数だ
いや、仮面ライダーと戦隊ものって本当はライダーのほうがシリアスで重厚感あって面白いって印象だったけど、もはやライダーの脚本下手糞過ぎてどうでもよい感じになってきたな
もともとやってみたいとは思ってたけど他にやるゲームがある状態でカネだしてまで買うほどではないかなと思ってたやつ
深夜廻もカタログきたけど割と最近買っちゃったからショックだった・・・しかもまだやってないし
やっぱやるときに買うのが一番いいんだろうなと
事前に聞いてた通り短い
ストーリーはありきたりだけど、それを盛り上げる音楽、ビジュアル、世界観、キャラがよかった。
ボイテラとかの古なんとかさんががんばってそう
操作性がいまいちよくなくてストレスたまることが多いのがなあ・・・
いきなり難易度上がりすぎ!
トロコンはできなくもないとは思うけど、まあ暇になったら、かなあと
トロコン目指し始めると途端にストレスがマシマシになると思うからやらない
ただまあ・・・やっぱ短いのがねーとはいうけど、この話で10時間とか20時間ひっぱられてもそれはそれでどうかと思うからこれでよかったと思う
ただエロだけでは抜けないやつもいるし、
その人間がどういう人間なのかを知ってからエロをみるとより興奮する
ただエロをみても興奮できない
二次創作ならすでに原作でキャラストーリーが入ってるからそれを無意識に踏まえて一枚絵のエロイラストでも抜けるけど
コイカツでもそう
だから主人公が年上の男に取り入って上手く世渡りする『ストーリー・オブ・マイライフ』の監督を引き受けたのかと妙に納得
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/cinema/1691166012/
2023/08/12(土) 03:45:25.93ID:pWMq5NQl
①2010年3月公開の「ベン・スティラー 人生は最悪だ!」の撮影で監督(ノア)と女優(グレタ)の間に縁が出来る(現グレタ夫妻)
⑤遅くとも2011年からグレタとノアは交際している事を公言している
ノアとグレタが出会った時期を考えれば「元妻の出産前後に不貞をしていた」と考えるのが自然だな
2023/08/12(土) 04:13:11.33ID:Dv1vtZsY
本当
今回の共同脚本で今の旦那のノア・バームバックの前妻で女優のジェニファー・ジェイソン・リーが妊娠中に寝取った。
そんなクズ2人がラストで幸せな親子の描写…どの口が、って思ったわw
グレタはマンブルゴアのミューズとか言われてたが、その界隈の監督たちと寝まくってたと噂されてる。
こいつは人権派気取りが裏で差別しまくりなのがバレて転落した友人のラナ・ダナムと同じで、上昇志向が強い営業上手のビジネス・フェミだよ。
そんなのを天才とか持て囃して、見事に騙されてる自称映画通たちが痛い。
2023/08/12(土) 18:16:44.30ID:pWMq5NQl
上でも出ているがネタバレあらすじを読む限りノア自身の離婚調停をモデルにしたと公言している
「マリッジ・ストーリー」で主人公の舞台監督と舞台主任の不倫発覚というマクガフィンがあるよ
当然、ノア側に都合良く脚色していると思うが
略奪婚自体を必死に否定する人間なんて盲目的信者くらいしかおらんだろうな
2023/08/12(土) 18:36:33.03ID:pWMq5NQl
俺が「際どい」と言ったのは腹が膨れていた時期からの不倫ではなく
ワンチャン出産直後で新生活の準備に追われてる時に夫を寝取った可能性がある、ってだけで
ちなみに前妻のジェニファー・リーが初出産した時、47歳という高齢で
平成生まれでアニメは後追いで途中まで、映画は見た記憶はあるけど、どの作品だったかもわからず、記憶も曖昧。
ただ、あまりにも有名だしネタバレもネットで目にしてなんとなく知ってる気になってた。
こんな作品だったとは。
繊細チンピラなオタクが抱えるコンプレックスや欲望を、ここまで曝け出して、それを力技で正統なジュブナイルものに昇華するとは。
ちょっと、「君たちはどう生きるか?」に似てるよね。
あとシン仮面ライダーはこの長尺だから描けるテーマを2時間に取り込もうとしたんだからそら無理があるわな、とか。
でもこれって、みんなの知ってるエヴァンゲリオンで合ってるんでしょうか?
それとも、オリジナルのTVアニメ版を見ないといけないんでしょうか?
映画はまた別物なんでしょうか?