はてなキーワード: ベターとは
これを持ってる男は凄く多い。女にも高すぎる事をコンプレックスと思う人が居るが、比では無い。
身長コンプは凄く多い。ネットのような言い捨てが出来る場だとそれが特に顕著である。
例えばある例として
「180cm位はあるロシア人くらいのデカいおっさんに絡まれてなぁ」
という発言が出たとする。ベターなリアクションとしては「こわいね」等の共感だとか、その人物に対する対抗策だが書き記される事が多いが
「ほーん。俺と同じくらいやなぁ」という反応が見られる。
これは自分語り族として、一番に数が多い人種である。大柄である程度逸脱している人種に対する対抗心で
青年期に見られるマウンティングに非常に酷似している。他人が会話している時に聞いていないのに自分の武勇伝を語るような人種である。
また別の例として
172cmの成人男性が居たとする。平均値としては極めて信頼できる実績の元からなる数値であり
高くも低くもない。20~40才くらいの世代としてはフツーの背丈である。
それに対して「小せぇ!」と言う人が居る。
平均値から算出するに、その発言は観測者個人の主観であり 全体を通して見た人種としての発言ではない。
ソレを総意かのように主語を大きくして発言する人が居る。彼らは日本人の平均身長がオランダ人並かのような発言を繰り返す事が多い。
ちなみに平均値のピークは10年以上前の話で、現代の身長平均値は減少傾向にある。(今時の若者は大きい。は現在においては勘違い)
理路整然と突っ込んでも「俺は180cmやけど都会だと埋もれるデェ!」みたいな返事が返ってくる。眼球が口の横に着いていると計算が合うのでこれ以上は触れられない。
チン長はというと、多少事情が複雑になってくる。
チン長の平均値はソース元が不明瞭でイマイチ正しい平均値が測れないのである。(せいぜい10cm以下は小さいだろうし、18cm以上は大き目だろうか?これも目算でしかない)
チン長は身長に比べると更に不毛で、AVのスレや雑談スレなんかでゲリラ的に発生する事が多い。
「コイツちんこ小せぇなぁ」「普通だろう」「15cmだって!ワイは20cmや!小せぇなぁ!」「黒人のがでかいぞ」etc...
平均値が定かではない上、国家間での格差が身長以上に広く、かつ体格からの想定もし辛い為非常にカオスな事となる。不毛極まりない。
これらは小さき者のみが抱えているものではない、大きい者も独自の拗らせをしていて
某日、『ハテアニ』の親会社にて。
「これを見てください」
フォンさんはそう言って、ダンボール箱を机に勢いよく置いた。
その中には、シューゴ監督の降板に対する抗議文、メールで届いた写しなどが大量に入っていた。
「もちろんこれだけじゃありません。まだまだ持ってきていますからね」
父たちの打開策はこれだった。
重役たちは机の上に積まれた抗議文の山を、ただ黙って見つめていた。
それには理由があった。
「更に付け加えるなら、この抗議文はスタジオにきたものだけです。皆さんの会社にも同じくらいの……或いはそれ以上の抗議文が届いたのではありませんか?」
親会社やスポンサーにも、メールなどで抗議するよう世間に促していたのだ。
そもそもシューゴ監督降板の要因は、親会社が世間の風当たりを気にしていたからだ。
その世間が味方について、逆に親会社たちの敵になろうとしているならば、方針を変えざるを得ない。
「確かにシューゴさんの言動は反感を買いやすいです。色々とコンプライアンス違反もやらかしています。でも、それは彼なりに作り手としての矜持が常にあったが故です」
「もちろんアニメというのは監督一人で作っているわけではありません。それを踏まえてなお、今の『ヴァリオリ』があるのはシューゴさんの存在が大きいですし、そしてこれからもシューゴさんなしの『ヴァリオリ』なんて考えられません!」
当然、これは側面的な話でしかない。
抗議文を書いた人間の多くは『ヴァリオリ』のファンである人たちが多く、シューゴ監督を嫌う人たちは依然変わりない。
それでも、シューゴ監督が『ヴァリオリ』に必要であるという声も強いことを、否が応でも分からせるにはベターな手段だったのだ。
「皆さん、いま一度考えてみませんか。所詮アニメもビジネスです。コンプライアンスは大事でしょう。でも同じくらいクリエイター本位であることも大事なのです。それがアニメのクオリティにも繋がり、売り上げにも繋がりやすくなる。なぜなら彼らが見たいのは、こんな水面下のトラブルではなく、あくまでアニメなのですから」
こうしてシューゴさんは、今も『ヴァリオリ』の監督を続けているってわけだ。
ここで話を終えて、めでたしめでたし……でもいいかもしれないが、現実というものは綺麗に終わらないことが多い。
「視聴率は下がっちゃいましたね……それでも十分に、人気と呼べる程度ではありますが」
「まあ、作り手が同じだからってクオリティが安定するかはまた別の話だからな。同じ監督が作っても続編でコケるなんてのは、よくある話だ」
シューゴさんはそう言っていたが、実際の出来はこれまでと変わらなかった。
大きな要因は他にあったのだ。
そういった情報に敏感な人間はバイアスがかかってしまい、アニメを楽しく観れなくなっていたのだ。
「着ぐるみの中に人がいることを分かっていても、その中身を見せ付けられると興ざめする人間が出てくるみたいなものですね」
「マスダさん、あなたの例えは分かりにくいです。それにしても、作品の内容自体は問題ないのに、こんなに顕著に反応が変わるんですねえ」
「そうです。小便を完全にろ過しても、それが元は小便だと分かってたら嬉々として飲みたいとは思いません。変態でもない限り」
「マスダさん、あなたの例えは分かりにくいです」
「えー、つまり大半の受け手にとって、アニメってのは“現実”から離れていて欲しいってことです」
「そんなものと向き合いながらだと、アニメを楽しめない人間だってたくさんいる。そして俺たちはそんな人間を区別してコンテンツを提供することはできない。物理的に不可能なんです」
「不条理ですよ、そんなの。じゃあ今回の一件で誰が得したんですか」
「そんなのオレだって知りたい。まあ、ちょっとやそっとのことでゴタゴタしたりガタガタになるってことは、そのコンテンツ自体が実は大したもんじゃないってことの証明ではあるわな。今回、馬脚を露わしただけのことだ」
なんだか釈然としない話だが、とどのつまりアニメは観たいやつが観たいようにしか出来ていないってことなのだろう。
そして、そんな人間のために父やシューゴさんたちが日々翻弄されているのを思うと、アニメ関係の仕事は割に合わないなと俺は思った。
俺は呆れ果てて何も言えないでいたが、同じくクラスメートであるタイナイが、カジマの蛮行を嗜めた。
そのタイナイが嗜めるのだから、カジマのやっていることは思っている以上にタブーのようだ。
「抗議活動は結構だけど、これはただの目立ちたがりの売名行為にしかならない」
「こーいうのは目立ってなんぼでしょ!」
「悪目立ちで集まるのは、騒ぎに乗じたいだけの烏合の衆だ。それだと肝心の問題についても、大衆に正しく認知されない。主義主張が何であれ、正しい筋道で実行されなければ正しい支持も得られないんだ」
「あーあー、そうやって物知り顔で、抗議活動している人の出鼻を挫いていくんだよなあ。タイナイみたいな自称常識人は~」
タイナイの言うことは真っ当だが、カジマにはまるで通じない。
カジマに自身を客観的に見れる冷静さがあるなら、始めからこんなことをやろうとはしないだろう。
「カジマ、お前のやってることはむしろヘイトを広めるだけ。しかも、そのヘイトはお前自身に向かうぞ。一般大衆からはアニメオタクは過激で常識もないバカだと思われ、アニメオタクからは抗議活動の邪魔をする輩だと非難される」
「え……そこまで深く考えてなかった……よし、この抗議活動はやめるっす!」
カジマは大義名分があるからやっているだけで、別に高尚な志があるからこんなことをやっているわけではない。
いっちょ噛みしたいだけでリスクまで背負いたくはないので、それをチラつかせるたほうが効果的なのだ。
「あーあ。現実の喧騒から離れて、楽しい気持ちでアニメを観ていたいはずなのに、どうしてこんな現実問題でヤキモキしなきゃならないんすかね……」
カジマは何だか純粋ぶったことをのたまっているが、俺たちは面倒くさくなってきたので無視した。
ところかわって父のほうでは、フォンさんと共に重役たちの説得に回っていた。
「…………いま一度考え直しませんか」
「そうは言っても、アニメってのは総合芸術だろ? 監督とは言っても、その実アニメの製作は他のスタッフたちの働きによるところが大きい。彼が『ヴァリオリ』を作った代表者だと表現することは不可能ではないが、100歩譲っても彼だけの、彼のためにある作品ではないはずだ」
「もちろん『ヴァリオリ』はシューゴさんだけの作品ではありません。ですが……」
「我々だって何も全面的にシューゴ氏を責めているわけではない。出来れば彼に監督でいて欲しかったし、実際これまではそうしてきた。だがモノにはコンプライアンスがあり、限度もある。そして我々が何度言っても彼は改めなかった」
「言っておくが、君たちにだって責任はあるんだぞ。君たちが彼の手綱をちゃんと握っていれば、こうはならなかったかもしれないのだから」
しかし、いずれも色よい返事はこなかった。
ーー『ハテアニ』スタジオ。
世間ではかなり騒ぎになっていたが、スタジオ内は意外にも落ち着いていた。
この界隈でスタッフが途中で入れ替わるなんてのは珍しいことではなかったし、それは監督という立場でさえ例外ではない。
今回はそれが人気アニメの監督だったというだけで、世間よりも現場のほうが冷静な者は多かった。
それに監督が誰であろうと給料が変わるわけではないので、現場の人間はただ目の前の仕事をこなすしかないのだ。
せいぜい、暇をしてるアニメーターが、WEBメディアの取材でテキトーなことを並べるくらいである。
しかし、現状ではその程度で落ち着いていても、このままではいずれ瓦解するという危機感が、父とフォンさんにあった。
やはりシューゴさんを呼び戻すのがベターだが、成果は芳しくなく、父たちは頭を抱えていた。
「シューゴさんの『ヴァリオリ』における功績を丁寧に説明しても尚、誰も首を縦に振ってくれませんね……」
こうなった大きな要因は、シューゴさんに対するネガティブイメージが強く残り続けているのが大きな要因だった。
特にある一件では、彼の過激な言動によってアニメ業界全体が激震し、謝罪会見にまで発展したこともある。
経営側から見て、そんな人間を制作のトップに置き続けるのは、リスキーすぎると判断するのは当然だったのだ。
「フォンさん、“あれ”はどんな調子ですか」
「では、そろそろシューゴさんのほうにもアプローチをかけてみましょうか」
チカイケ秀夫さんの文章が話題になっていたので、添削してみる。
改善案も良い文章ではないが、少なくとも意味が通る文章にはなっていると思う。
というか、自分も作文が得意ではないので、トレーニング代わりに添削した。
今も…冒頭に副助詞「も」があらわれ、混乱させられる。「今も」ということは、「UI/UXの議論」が以前から続いており、今も議論が盛んであるという主張が読み取れるが、「UI/UXの議論が以前から続いている」という文脈は自明ではない。少なくとも、同じ文章中で文脈を共有していなければ、「も」は使うべきではない。
増えていますが…接続詞「が」を順接の意味で使っているため、やはり混乱させられる。「が」には逆説の意味もある。そのため、「が」を逆説と捉え、「増えている」ことに対する否定的な内容を想定した読者は、ずっこける。
すごい良い…「すごい」も「良い」も形容詞であるため、書き言葉としては好ましくない。「すごい」を副詞に置き換え、「すごく良い」ならば許容できる。なお、好みの範囲ではあるが、くだけた文体でなければ「すごい」の使用は避けて「とても」や「非常に」などを使う方がベター。
と思っています…「すごい良い」は筆者の主観なので「思っています」は自明。使わなくてよい。
IT業界が「UI/UX」が…格助詞「が」が連続して使われ、読みにくい。
見えますが…この「が」は逆説として機能しているが、前の文章に対して問題を提起する文章であるから、文頭に逆接の表現を置かないと、不意打ちの印象を受ける。
この問題…「この問題」が何を指すのか不明瞭。「アプリ」「WEB」における「UI/UX」の問題なのか、狭義の議論が行われていることの問題なのか。
一方で、特に議論が盛んなIT業界においては、「UI/UX」は「アプリ」「WEB」についての話に限定され、議論の幅が狭くなっています。
カスタマージャーニーなどもやっておりましたが…カスタマージャーニーなどをやることが「狭義の議論」に拘泥することだと読み取れるが、筆者にとって自明のことも、はっきりと文章中で言及する方がよい。そうしないと、本文の趣旨から外れる部分でつまずく、あるいは噛みつく読者(例:「カスタマージャーニーって?」「いや、カスタマージャーニーは本質に関わるだろ」など) があらわれる。
やっておりましたが…順接。
地元千葉…書き言葉としては「地元である千葉」とした方がよい。また、「地元が千葉という同郷のよしみで仕事をすることになったのか」「単に筆者の地元である千葉で一緒に仕事をした」のか不明瞭。
『現場に行ったみた?』…タイトルにもなっている、本文のキモである。しかし、「カスタマージャーニーなどやっていた」「マツモトキヨシのロゴデザインを手がけた小谷中さん」「縁があって一緒に仕事をした」など新しい情報が詰め込まれた一文に埋もれてしまっている。太字の決め台詞でタイプミスしているのも勿体ない。
今でも忘れられない一言…忘れられないのみならず、この一言がUXの本質を突くものだと明記しないと、のちの文章で面喰う。
とはいえ、私自身もカスタマージャーニーなど細かい手法論に囚われた時期がありました。
そんな私に、UXの本質を気づかせてくれたのは、デザイナーである小谷中さん(マツモトキヨシのロゴデザインを手がけた)でした。
以前、縁があって地元の千葉で一緒に仕事をさせていただいたとき、施設のパンフレットデザインを見た小谷中さんは私に向かって、次のように言いました。
『現場に行ってみた?』
1951年にロゴ制作(VI)など…やはり、ほぼ既出。なので、小谷中さん初登場時に付加情報としてまとめるか、当時から色々と活躍していたということを強調できる形に変えた方がよい。
UXの言葉…ここに至って、読者は前述の『現場に行ってみた?』がUXにまつわる言葉であると把握できる。なので予め、前の文章でUXの本質を突く一言だと明示する方がよい。また、「UXの言葉」が「UXにまつわる議論」なのか「UXという用語」なのか不明瞭。
UXの言葉はあるわけではない…「わけではない」は特殊な事情、状況、理由がないということを表す。「当時」は「UXの言葉」がない状況が一般的だったと想像できるので、「わけではない」よりも「ない」と言い切ってしまった方が読みやすい。
小谷中さんは、当時、マツモトキヨシのデザイナーとして活躍しており、UXという言葉が流行る以前から、UXの本質を見抜いていたのです。
場所に行って―中略―目に止まり、手にとって見てもらう…場所に行くのはデザイナーである。目に留まるのはユーザーである。手に取って見てもらうのはパンフレット、またはそう仕向けるデザイナーである。主語を明示しない、ひとつながりの長い文章となっているため読みにくい。
考えている事です…非常に厄介。「考えている」とあわさって、「事」が指すものをどう捉えるか。「現場に行ってみるとはどういうことか」ということ、あるいは「小谷中さんが実際に施設に行って考えていた」ことのどちらかを表現したいと思われる。
小谷中さんがいう「現場に行ってみた?」とは、つまり、デザインを、現場の視点で考えたかということ。
施設のパンフレットであれば、実際にどう並ぶのかを直接、目で確かめる。
複数並ぶパンフレットを見て、ユーザーの目線を意識しながら、目をひき、手に取ってもらえるような表紙のデザインを考えるということなのです。
「IDEO」が…「小谷中さんの話」から、「IDEOの話」へと切り替わる文章である。ここで重要なのは「IDEO」ではなく、あくまで「IDEOのソリューション」なので、「が」ではなく「は」の方が自然な響きとなる。
例:「IDEO」は倒産した。→倒産したことが重要な情報 「IDEO」が倒産した。→「IDEO」が重要な情報
売上、顧客の問題…売上の問題は顧客の問題に含まれる。「顧客の問題」とのみ書けばいい。あるいは別の形のソリューションと区別するために「売上を増やし、顧客の問題を解決」と書く。
米国の有名なデザインコンサルタント会社「IDEO」は、地下鉄の駅にある自動販売機の売り上げをアップして欲しいと顧客に依頼された際、『自販機の上に時計を置く』と提案して、実際に売上を増やしました。
産まれた…一般的に「産」は出産など、生命の発生に使われる。「利益を産む」とは書かないように、ソリューションも「生む」と書く方が自然。ただ、「ソリューションは産むものだ!」とこだわりがあるなら別。
特になし
今の、狭義のUI/UXの議論では、売上を上げたいというクライアントの課題に対して、ディスプレイをどうするか、ボタンの配置をどうするかなどの話になるでしょう。
本文中、最もAIっぽいというか、言葉が足りなくて何を言いたいのか分からない部分。
この2つの文はどういう繋がりになっているのか、言葉に間違いはないか、不足はないか、誰か教えてください。
は?
企業都合で話が進んでいるとしても、アプリ/WEB制作を前提とせず、『ユーザーが笑顔になる』体験を一番に考えるなら、ときにはアプリ制作から離れ、他の施策に予算をかけることもできるでしょう。
ふーん
今のIT業界のUI/UXは、―中略―制作会社、UXデザイナーは…主述が迷子。
今のIT業界においてUI/UXを考える場合、「IT革命」に並ぶこれからの「デジタル革命」の流れでは、WEBとリアルの垣根を越えて、「UX=すべての顧客体験」ということを、制作会社、UXデザイナーは突き詰めるべきです。
チカイケさんは単に文章を書くのが苦手なだけかもしれない。
より問題の根が深いのは「チカイケさんの文章を全然OKと思う人」だろう。
読める文章と読めない文章の区別がつかないということは、全て雰囲気で読解しているということだろう。
「まあ、なんとなく言いたいことわかった」みたいな。
論理を重視し厳密に書かれた文章、あるいは誰にでも分かるように平易に書かれた文章も、おなじように我流の読みで解釈するのだろう。
同人イベントでサークル参加者に差し入れをするとき何を選ぶかという話。(主に女性向けのイベント)
こういう話は検索すればいくらでも出てくるし、正直今更こうやって書いても意味ないだろうとは思うんですが、いまだにサークルさんに対して失礼な差し入れを渡してる人が大勢いるので書きます。
何かというと、ファミリーパック等の大袋入りの菓子をバラして個包装の状態のものを渡すやつです。(カントリーマアムとか源氏パイとかトッポとか)
個包装のものを別の袋に詰め直してラッピングしたようなやつも同様です。
→賞味期限やアレルギー表示を書いた紙を同封すればOKなんてことはありません。
また、賞味期限は「大袋を開封する前の賞味期限」として書かれているものも多いです。
→よくあるのは「待機列で地べたにお菓子を並べて詰め直した」というようなやつです。
そういうことをする人がいる以上、この類の差し入れは「衛生的に問題のある可能性がある品」です。
・単純に失礼
→「差し入れ」という言葉から気軽に捉えがちですが、面識のない人に渡す以上それは「贈り物」です。
贈答品以下のものを渡すことは、「あなたにはこの程度で十分」という意思表示と思われかねません。
こういうタイプの差し入れを選ぶ人はたぶん、「安くつくから」という理由でやっていることが多いですが、そもそもサークルさんに渡すものを安上がりで済ませようという気持ちが失礼です。
500円前後の小さな箱菓子を用意するか、それが無理ならポッキーの箱を渡すほうがずっと良いですし、ポッキーを買うのも無理という人は、差し入れを渡さない方がマシです。
それでもサークルさんに何か渡したいなら、手紙が良いです。手紙は嬉しい差し入れとして一番よく挙げられるものです。
「手紙なんて書けない」「手紙書くのはめんどくさい」という人は、そもそも手紙を書くという程度の労力を払えない相手に何かを渡そうとしないほうがいいです。
・日持ちしないもの(宅配で搬出したら家で開封するのは一週間後なんてこともザラです)
・搬出時かさばるもの(ダンボールに詰めて潰れる可能性のあるものは避けたほうがベター)
など、この辺は調べたら出てくるのでちゃんと調べてから差し入れを考えてください。
「もらう立場のサークルはなんでもありがたく受け取れ」という意見もあるでしょうが、これは最低限の「渡す側」のマナーです。
もちろんカントリーマアム一個でも嬉しいというサークルさんはいるでしょうし、大半のサークルさんはそういうものでも「ありがとうございます」とにこやかに受け取ってくださいます。
でもその場ではそう言っているだけで、搬出すらせず会場で捨てて帰るサークルさんだっているでしょう。
差し入れをする人は、サークルさんに喜んでもらいたいから差し入れをするのか、差し入れをしてサークルさんと交流する自分に酔っているのか、少し考えてみるといいです。
「この品種は環境のせいでウナギに慣れ親しんでいただけ。だからウナギを食べなくても支障がないんだ。わざわざ殺す必要はない」
「それは分かるが、そんな理由だけで皆が納得するようなら最初から害獣とは認定されていないぞ」
そう、そこが一番問題なんだ。
ナイフをぶら下げている人が「誰も襲わない」と言って、その理由をどれだけちゃんと説明できたとしても意味がない。
「まあ、そうなるよね。ここに放っておいても、いずれ業者に捕まったら殺されちゃうし」
とどのつまり飼うってことだ。
だが、この案が今まで出てこなかったのには理由があったんだ。
「言っておくが、我んちは無理だぞ。そもそも反対派だからお断りだ」
「妹が猫アレルギーで……」
みんな飼いたくても飼えなかった。
猫を殺すのは人間側の身勝手だと言っておきながら、この体たらくなのだから余計に際立つ。
「マスダは?」
「いや、俺は猫が好きでも嫌いでもないし。そんな人間の家に飼われても、この猫はロクなことにならないぞ」
そういう俺もこの期に及んで無関心を貫く。
つくづく身勝手なんだと思い知る。
だが、ここで一人だけ色よい返事をするものがいた。
「俺の家は飼えるよ」
弟だ。
当然、弟にそんな権限を持たせるわけにはいかないので俺は反対した。
「お前にこの猫を飼えるか? 父さんや母さんは認めてくれるかもしれない。だが、飼うのはお前だぞ? この意味が分かるか?」
そんな責任能力がないことは、本人も分かっていたのだろう。
「生半可な気持ちでやっていいことじゃない。いや、気持ちがあればいいってものでもないんだが……」
俺はそう語る途中で固まった。
自分で言っておきながら、その言葉に何か“引っ掛かり”を覚えたんだ。
俺は頭の中でその言葉を反復する。
そこに俺が出すべきなのに避けていた結論が、あるように思えたからだ。
だが、出てこない。
「なあ、お前はどうしたい?」
猫に話しかけても返ってくるのは鳴き声だけだし、そこに何らかの意図があっても読み解くことは当然できない。
仮に読み解けたとして、俺たちは結局のところ人間のエゴを押し付けることしかできない。
それが生かすか殺すかなだけ。
……そうか、そうだよな。
物忘れと怠惰防止にTodoアプリで管理してる『今日やること』と『今週の残タスク』について机の上とか壁に貼り付けたデジタルフォトフレーム上に
画像化して良い感じに表示しようと思ってるんだが、どんな感じで実装するのがベターかな?
当方Web屋だからAPIからTodo情報取得して適当なライブラリ使って良い感じに画像化、までは
多分余裕でできるんだが、そっから先がこれっぽっちもわかんねえ
とりあえず、表示端末側からは何も触ることなく最新のTodo情報を表示するようにしたい
Wi-fi対応のデジタルフォトフレーム?(ただあんまり需要ないのか売ってないみたい……)
激安タブレットを使う?
どれが一番楽かね
これはもうすでに都会を離れてしまった地方オタクが、これから上京してくるであろうオタクたちへ向けて思ったことを書き記します。
他界隈のことはよくわかりませんが、オタクというのは根底は一緒だと思うので、これを読むあなたに参考になる事があればうれしいです。
会社から交通費が出るなら遠くに住んで居住費を節約しよう!と考える人が多いと思います。
固定費の多くを占めるのが家賃光熱費ですので、安くしたい気持ちはすごくわかります。
もちろんその考え方も一つです。
チケ代、グッズ代、飲食代など1回の現場に使う金額は安くないです。
都内に住んでいるオタクと関東近郊に住むオタクとでは居住費は3万円以上違うなんてことはザラにあります。
その3万円があれば舞台がプラス3回行けてグッズも買える…そんな計算をするのは当たり前です。
でもよく考えてほしい。
Time is moneyという言葉の意味を。
AiiAまで30分の所に住むオタクと2時間かかるオタクだったらどっちが現場に通いやすいか。
日比谷まで20分の乗り換えなしと1時間半で乗り換え2回のだったらどっちが楽か。
楽、というのは、回数が増える、にもつながると思うわけで。
行きだけではなく、帰りも同じ時間が掛かることを考えると、楽しい現場の帰り道の地獄たるや。
だりー1限さぼっちゃおー、な学生ではない社会人の辛さたるや。
それはたまたまなんだけれど、今思うとそのたまたまは本当にありがたかったです。
東京ドームから30分で帰れる場所に住んでいて、22時前には自宅でレポ漁れるのは最高に楽でした。
現場の近くでなくても、都内勤務のオタクならせめて職場まで乗り換えなしで30分以内の所に住むと劇的に楽だと思います。
移動の間に本とか読むから長時間でも全然苦じゃないなんて、都内の交通網死んだ時にもそれが言えるのか?と思います。
出勤するだけで汗だく疲労困憊で、これが週5あるのかと思うと本当にげんなりです。
今は家賃補助が出る会社も多いと思うので、ぜひ少し無理しても近くで探してみてください。
出来ればターミナル駅から無理して歩ける所で。(歩いて1時間くらいなところがベター)
ジャニオタなら分かると思いますが、どこの現場に行くのも楽で仕方ないです。
羽田、成田、どちらにも行きやすいし、新幹線にもすぐ乗れます。
高いと思われがちですが、探すと意外と安い物件があったりします。
最近の同人系エントリが続いているので、クソカシクバリババァどもに届いてくれればありがたい。
カシクバリとは、同人系の差し入れで「とある形体」のものを差し入れてくる人を揶揄して使われる言葉である。
(出典は私も知らないけれど同人板あたりなんでしょうか?)
「とある形体」とは、スーパーやコンビニなどで売られているお菓子や飴玉なんかを
そういったものを差し入れる人のことをカシクバリと呼んでいます。(多分)
よく見受けられるものはファミリーパックのあるカントリーマァムやらホームパイ、キットカット、
飴玉、ラムネ(フィルムでねじねじしてるやつ)、ハッピータン、などなど。
えっよく買うしおいしいじゃん!てなる。分かる。私も自分で買うし大好きおいしい永遠に食える。
1衛生面が気になる。
個包装されているとはいえ、素人がひとつひとう手でラッピングしている。
とか言うと「手をちゃんと殺菌しています!」だの「仕事はパティシエなんでそういうのしっかりしてます」言い始める人も出てくる。
ちがう…そうじゃない…
お菓子だし多少はね…?と思うけど、本当にイベント前に買ったものなのか調べるすべはない。
↑こういう情報を見たのか「賞味期限記載してありますので!」と差し入れてくれるあなた…
だって差し入れくれたからって何かお返しするわけじゃねーしな…
あと「賞味期限が分からないのでこういった差し入れは遠慮します」=「持ってこないで欲しい」って何故わからないんだろうか??
3単純に貧乏くせぇー!!!すまんーーー!!!私はクソ野郎だからこれが一番当てはまるんじゃーーー!!すまねー!!!
やっぱりそれか。
そういうのしか差し入れられないレベルのサークルが何言ってんだ。
とか言われても仕方ないけど、自分で買えるもんをわざわざ手を入れて差し入れられてもさ…なんか…なんか…じゃね?
いっこいっこ丁寧()にラッピング()とか何かきめぇ…オカンアートの気まずさとちょい似てるんじゃ…
潔癖じゃない私ですら「子供の面倒みながらラッピングしました!」とか言われて差し入れられたら
ゴミ箱ダンクしたくなるだろ簡便しろ。いやそんな一言なくても嫌いなんですけど。独身だろうが素敵なママだろうが嫌なんですけど。
本当に心が貧しくて申し訳ねぇ!でも嫌いなもんは嫌いです。嬉しい度に表すと、
お手紙・素敵な贈り物くださる方>会場で本買うついでに一言感想くださる方・ただ本買ってくださる方>>>>>>>感想付カシクバリ>>>>>>>>>>>>>>>カシクバリ
ちなお手紙付きのカシクバリの場合手紙だけ貰った!て脳に勘違いさせてる。脳トレです。
あとカシクバリについて「え~私は詰め合わせ嬉しいけどな~」て偽善者サークルは滅んでくれ~お前はいいかもしれんけど嫌なやつもおるんじゃ!そして嫌なやつはなんかとても嫌なやつになってまうんじゃ!
こんなことで株を上げようとすんな!いや活動は勝手だからどんな株の上げ方してもいいんだろうけども!そして本当に嬉しいサークルも居るんだけども!!
この嫌だって主張してる時に「私はそんなことない」て言われると「うるせぇー!!」てなるの仕方ないだろ!
誰かの主張のアンサーじゃくて最初から、自分から主張してくれ!駄菓子詰め合わせセットが好きだと!勝手にやっててくれ!!
それって嫌いなもん持ってくるなっていう自分勝手でクソみたいな主張じゃん?
て感じだけど、ここ数年本当どのジャンルでも貰うので言わせてほしかっただけなんだ…
甘い物きらいなサークルが、甘い物差し入れられてキレてるのと変わらなくない?という問題だと思う人は同人界隈でも、一般参加の人ばかりだと思う。
サークル間だとけっこう処分に悩んでる人多い気がする…。問題になってる!とまでは言わないけどさ…
これ誰かがそういう方が喜ぶ、礼儀、みたいにしてるのか?金もらって本渡してる時点で等価交換は済んでるんですけども????
普段文章を書かないからもう疲れて来たし、まとめらんないし、〆るね!!
(カシクバリが嫌いかもしれない)作家さんへのおすすめの差し入れ
・手紙
以上!あと「駄菓子詰め合わせセット(=カシクバリ)私は好き!何で嫌われるのか分からない~」って作家さんにはばんばんしてあげて下さい。
※あと手紙が好きじゃない作家さんもゼロではないと思いますので自己責任です。ていうか差し入れもらうためにイベント行ってないので、
感想欲しそうにしてない作家さんについては何もしないのがベターですかね…。
それか聞いてください。リプ以外で。リプみたいな誰でも見れるところで本音なんて言えるわけねーだろ!!
こんなエキサイ!エキサイ!してしまってもうし訳ない…もう少し分かりやすく、人々に受け入れられるようにどなたかエントリして欲しい。個人の感情抜きのやつ。
こいう主張系って個人の感想入れると上げ足とられるしダメだってのは分かるんだけど、チラ裏としていいかって書いてしまいました。
頂いたものにどうこう言うのは正直心苦しいし、そもそも差し入れなんぞ無くたって本を買ってくださるだけでとても嬉しいです。
これがめちゃくちゃ大前提だということを分かって頂きたいです。
好きなサークルに何か差し入れたい!という気持ちを持って頂けたら、お互いに負担になりにくい感想がいいのかなと現時点では思っております。
(多くの場合は二次創作ですし、二次創作の感想を書くのってかなり難しいし、頭も時間も使うし面倒なのは分かりますが…)
善意だとは分かっているものの、駄菓子詰め合わせを持ってこられると素直に喜べないのです。
出版関係で働いていますが、本屋大賞とはまったく縁がありません。が、本屋大賞そのものは、爆発的に売れる販売力だけでなく、「書店員」という仕事に対する誇りや共感を高めている、本当に素晴らしい企画だと思っています。専門の小売が苦しい中、「本屋」という業態が消費者からの支持を集めてなんとかかんとか維持されているのは本屋大賞の影響もあるのかもしれません(ちょっと褒めすぎ?)。
昨年2017年、本屋大賞ノミネート作に「サンマーク出版」という文字列を見つけて驚愕しました。だって、サンマークだよ、文芸書とかのイメージないじゃん?
というか、サンマークのイメージって微妙じゃない? いや、そりゃ、ベストセラー沢山作ってるよ、すごいよベストセラー。そしてまた、作り方だけじゃなくてベストセラーの売り方がとにかく上手い。もうこれは出版業界で働いてたら常識。サンマークはベストセラー作るのも売るのも本当に上手い。
潰れる前のアスコムとか潰れる前のゴマブックスとか、ちょっと前だとカツマーの本出してた頃のディスカヴァーとかにも上手さはある。でも、そのあたりより作るのも売るのも上手いかなあサンマーク、『脳内革命』の頃から。『水は答を知っている』とか『病気にならない生き方』とか『人生がときめく片づけの魔法』とか『どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法』とか。「読んだことない人でもタイトルを知っている」ぐらいのベストセラーを作り出す。
「読者本人も気づいていないニーズを掘り起こす」ってことみたいだけど、それをできる編集者ってあんまりいない。しかも、それにちょいスピリチュアル要素盛り込んできたりする。
……。
出版社って諦めが早いというか堪え性がないというか、けっこうすぐに見切りつけちゃうところ多いんだよね。コミックとかライトノベルズで「発売後一週間の売上で~」とか聞いたことないですか。文庫とか新書もそんな感じ。2・3ヶ月前に話題になった新書とか、よっぽど大きい書店じゃないと置いてなかったり。
でも、サンマークは粘り腰なんだよ。直近の『モデルが秘密にしたがる体幹リセットダイエット』でも、テレビで急に火がついたみたいに見えてるかもしれないけど、実はその前にしっかりと売っている。テレビで盛り上がったのが年末だったのに対応も早かったよね。そのあたり、他はそうそう簡単に真似出来ないよね。
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芥川賞・直木賞的なものに対する反発っていうのはある一定わかる。選考の過程がクローズドだからね。「おいおい、セカオワのヒトの本とか、恣意的な何かが働いてんじゃねえの?」という疑念はもっともだ。少人数でクローズドな選考には常にそういう疑念がつきまとう。内容を吟味して選ぶと言っても審査員への働きかけは不可能じゃないんじゃねえの、とか、狭い世界で回してんじゃねえの、みたいな。
でも、少人数でクローズドな選考は人気投票的なところとは違うものを選べるし、それはそれで「人気投票やったら絶対落ちるだろ」的な作品に栄誉を与え未来にしっかりと残すという役割は果たしてるんじゃなかろうか。まあ、「結果に納得いかねえ」っていうのはある程度はしょうがないかと。
それに対して、本屋大賞はオープンだ。選考過程も透明だ。それは非常に良い点だ。人気投票に堕するという方もいるようだが、人気投票やってるんだから、それはいいんじゃないかな。で、冒頭にも挙げた通り、間違いなく売上にも関わるし、書店員たちの誇りにも、読者から書店員への信頼とそこはかとない憧れにも貢献している。なかなか無いよ、こういうの。CDショップが「ショップ店員によるCD大賞」みたいのを今さらやっても難しいだろうなあ。それぐらい、タイミング的にも本屋大賞は絶妙の時期にスタートできたと思う。
ただね。これだけ影響力が大きくなってくると、当然、出版社のほうも何らか働きかけを行いたいと思ってくる。既に以前からそういう話はあったんだろうなあ。2013年・2015年の川村元気とかはどうだったんだろう。2018年も扶桑社は『夫のちんぽが入らない』を推そうとしてたんだろうなあ。そういえば『ボクたちはみんな大人になれなかった』が新潮社だけど、新潮じゃなかったらもっとゴリゴリ推してたかも。
で、今の本屋大賞のスケール感って、(書店に対する)営業がうまい出版社にとっては、ちょうどいいぐらいのスケール感なんだよね。
サンマークは文芸書の売り込みについても手応えあったんじゃないかな。ただ、文芸は本筋じゃないから次は考えていないかもなあ。ディスカヴァーは文芸書の作り方と売り方がまだ分かっていないようなので(自己啓発系のビジネス書と同様に著者を売り出そうとしているけど、文芸はその方法論だと難しいはず)、しばらくは出てこれない。ひょっとすると数年後には文響社がノミネートに残るかもしれない。
昨年、サンマークが本屋大賞獲ってたら営業の上手い社が他にもごっそり参入してきただろう。文芸には強いけど書店との距離が少しだけある出版社は残らなくなってしまうかもしれない。「そんなことはない、書店員を馬鹿にするな」と言われそうだけど、そういう危機感ってあるよね? ないかなあ。
と、上記のような流れで、2017年の本屋大賞を『コーヒーが冷めないうちに』(サンマーク出版)が獲らなくて本当に良かった。心の底からホッとしています。
ということで、本屋大賞の審査に参加する書店員の皆様、2018年も「いちばん売りたい本」の審査、よろしくお願いいたします。
男性見たくない女性も女性見たくない男性も存在すると思うんだよね。
そりゃ一例で全体を嫌悪するなよーとは思うけど、しょうがないよ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんて諺もあるじゃん。そういうもんよ。
そういう嫌悪を忘れるためにも一旦距離を置くってベターだと思うんだよね。視界に入るから考えちゃうわけで、入らなきゃ忘れる人も居るよ。
忘れられない人はそこで暮らし続ければいいよ。それがお互いのためだよ。
だって何もしてないのに自分を憎んでる人と出くわすの怖くない?私は女憎んでる男と会いたくない。男性だってそうじゃないの?
距離取ればお互いハッピーじゃん。男憎んでる女に男性は出会わなくていい。女憎んでる男に女性は出会わなくていい。
誰も損してない。
ネットで動画を観ていると、観る動画を探す行為が煩わしく感じることがある。
無数に存在する動画の中から、自分が観たいものを検索し、探し当てなければならない。
一方でテレビは、とりあえずつけていれば何かしら映像を垂れ流してくれる。
映像が気に入らなかった場合でも、適当にチャンネルを回し、ベターな物を探せばよい。チャンネルは10にも満たないため、一巡する手間もほとんどかからない。
そこでふと思ったのだが、ネットがこれだけ普及した時代、未だにテレビをありがたがって見ている人は、「自分で選択・判断ができない人」なのではないだろうか。
内容が面白い面白くないは置いといて、とりあえずつければ何かしら提供してくれるテレビは、楽と言えば楽だ。しかし、自分が本当に観たいものを観られるという点において、テレビ番組がネット上の動画より勝っている点は皆無である。
もちろん、異論もあるだろう。「テレビ番組の方が面白い」という人だっている。
ネット上の動画は本当に玉石混淆だ。面白い動画の何百倍もつまらない動画が存在している。
しかし、テレビ番組が玉ばかりかと言えば、必ずしもそうとは言えない。むしろ毒にも薬にもならない、当たり障りのない番組が大多数だと感じる。「当たり」と言えるような番組に出会う確率は、ネットの動画よりも低い。
個人の感覚次第ではあるが、「テレビ番組の方が圧倒的に質が高い」という意見には、首を傾げざるを得ない。
そこで、テレビの利点として考えられるのが、上記の「自分で選ばなくてもいい」という点であった。
無数の動画の中から面白い物を探して観るという手間を掛けずとも、何となくそこそこの物を見せてくれる。砂漠の砂をかき分けてダイアモンドの粒を探さずとも、とりあえず河川敷に落ちているガラスの破片で満足できる。そういう感覚なのではなかろうか。
大体、テレビを長時間見ている人も、「この番組が観たい!」と思って観ている番組はごくわずかなのではないだろうか。
視聴時間の大多数は「なんとなく時間が空いたから」「食事の時に寂しいから」つけているのがほとんどではなかろうか。
そういう意味では、テレビの弱点とも言える「リアルタイム視聴しかできない」という点も利点になり得る。好きな時に好きな番組を観られない代わりに、基本的にいつでも何かしら流れている。ただ時間を潰したり気を紛らわしたりする時に、選択の手間が無いのは確かに快適であろう。
そうして「一億総白痴化社会」が実現してしまった今日、テレビから娯楽を与えられることに慣れすぎてしまった人たちにとっては、自分で観たい物を自分で決めることすら出来なくなってしまったのではないだろうか。
電波オークションが導入され、チャンネル数が増えて選択肢が広がった時、彼らが「不便になった」と言い出さないか不安でならない。
ハゲがコンプレックスの人もいればスキンヘッドに自信持ってる人もいる
身体的特徴はあくまでただの特徴であり、そこにポジティブな評価もネガティブな評価も周囲が下す必要はない
目をひく自分の特徴を生かして仕事に結びつけるのは、モデルやスポーツ選手もそうだし、ハゲ芸人やブサイク芸人もそう
それはそれで、本人の特徴として認めるべきことと思う
世間が褒め称えるモデル体型も、本人からすれば長身や小顔、手足が長いことがコンプレックスであることもある
冨永愛も、宇宙人と言われてよくいじめられた、とか話していたことがある
当たり前のことなんだけど、
ブサイクにブサイクですね、と言うのは褒め言葉にも傷つける言葉にもなる
モデル体型に足長いですね、と言うのは褒め言葉にも傷つける言葉にもなる
今のネットの議論の流れからすると、ブサイクにブサイクいじりはしちゃダメだけど、モデルの体型は褒めてもいい、みたいな変な方向にいきそうでちょっと危機感を持っている
一番大事なのは本人の主観で、本人が傷つくならしない、本人が嬉しいなら言う、でいいと思う
ただ、相手が本心でどう思うのかなんてわからないし、センシティブなことは無難に触れない、というのが多くの大人のたしなみではあるよね
そして、テレビや広告の場合、言われる本人は嬉しくとも、見る人が不快に思うなら、ちょっと微妙、というのが今の流れなのだと思う
やめるべきとは言わないけど、なるべく好き好んで探さないと目にしない媒体でしかすべきでない、というのがベターなのでしょうかね
映像化されたコンテンツでの出来事を語るには、作者の死ではないけど、本人の気持ちはもはや関係ないところにいってしまうから
これはもう、正しい間違っているではなく、表現の当事者以外は、リスクマネジメントとして受け入れるべき時代な気がするよ
文学なんか、かなり過激で奇人変人多いし差別も多い表現があるけど、文学は芸術であり意図があり、さらには映像ではないのでマイルドで、見たくない人が見てしまうという件数が圧倒的に少ないのが問題にならないポイントなのかな、とも思ったり
匂いが嫌という話だったら、遺伝子的に近い匂いを嗅いで嫌悪感を抱いているのかと思った。
近親相姦による遺伝子異常をさけるため、遺伝子的に近い人の体臭は臭く感じるんだとか。
そういう理由でないなら、「女は25歳を過ぎると打算的になる」というやつだろうね。
かつて、男性は女性の顔とカラダしか見ていないが、女性は男性を総合的に見て、良いところを見つけるから美人な人が本当に惚れて不細工な人と付き合っているということがあると昔恋愛指南書的な本で読んだが、それは25歳くらいまでってことなんだろうね。
例えば、こういう条件を考えてみる。
自分はaの方がベターだと思うのだが、25歳を過ぎてそれなりに経済力が出てくるとbの方がベターという人もそれなりに出てくるんだろうか。