はてなキーワード: グローバル化とは
押し寄せる不法「移民」や中国製品にEUやアメリカ経済が押されている所に米トランプ大統領の登場、イギリスのEU離脱、反グローバリズム、保護主義(排外主義)の盛り上がり
そして軍拡する中国へ反感の機運が盛り上がり掛けていた矢先に中国発のコロナウイルス登場
反中の右派はすかさず事態の原因は「中国の武漢ウイルス」と宣伝する。コロナ騒動の開始だ
移民とか政敵を感染症や病原体になぞらえる修辞の(右派的な)排外主義との親和性はナチスを引き合いに出すまでもなく既知のものだ
当初左派は差別の比喩としての「ウイルス」が持つ意味に反応し批判していたように(少なくとも自分には)思えた
もしトランプが外国から持ち込まれた「チャイナ・ウイルス」の脅威を目ざとく反グローバリズムに利用し感染症の脅威を誇張し不法移民をウイルスになぞらえマスクの着用推進など「社会統制」を強める方に向かえば
反トランプの左派は立場上「トランプ=ナチスからの自由のため」に右派のコロナウイルスの脅威の誇張を指摘し騒動を納める方に向かっただろう
しかしリバタリアニズムの影響かまたは一貫性の欠如の故かトランプはじめ右派はマスクを拒否し統制からの自由を求める
中国のウイルスを強烈に敵視する一方で国内ではウイルスなんてただの風邪だとうそぶき統制を嫌う。
外国からの移民に不寛容な右派が外国からのウイルスには寛容になると言うパラドックス(そしてこれはトランプとナチスとの違いでもある。トランプは快楽主義者であってヒトラーのような禁欲主義者ではないのだ)
このパラドクシカルな状況で、状況を俯瞰するだけの視野を欠いたまま反トランプのスタンスを愚直に貫き論陣を張った左派
いきおいコロナの脅威を誇張する事でトランプの感染対策の無策過失を強調する方向に向かう事になってしまった
右派に加えて左派もトランプ叩きや政権批判のためコロナの脅威を叫ぶようになった
こうして右も左もコロナの恐ろしさを叫びパニックが扇動される結果になった
このパニックを納めようとしているように見えなくもない勢力はホリエモンのようないかにも感じの悪い経済系ネオリベを除きもはやいない
2015年ころの漫画で、人に化けたコウモリが風邪をひく話がある。そいつは人獣共通の感染症が広まると大変だからしばらく学校を休むという。そのイメージとして「WHO 緊急事態宣言」という見出しの新聞とかが書かれてる。2021年の俺は、まさしくその見出しの記事を見たことがある。
これはミラクルどころかオラクル(神託)だ!と思って作者にDMを飛ばそうとしたが、そういえばフォローすらしていなかった。
そもそもコウモリを媒介する感染症はありふれていて、そういう新しい病気が出てきたらやばいってのは今まで何回かあった気がする。今回特殊なのは感染力の強さと、グローバル化しすぎた我々人類はそれに対応できなかったということ。神託に見えた漫画の一コマは変哲のないものを描いていて、我々はそれは何となく分かっていたが、実現してしまうと対応ができないという話なんだろう。
地方を議論するときに、地方の定義が人によって異なるため、東京23区を除いた地域とする。
東京が文化発信の中心地だった時代から、海外の方が相対的地位が高くなった。
東京に人口が集中したことによって、東京での暮らしに憧れる人達相手に商売がしにくくなり、海外に住んでライフスタイルを東京の人達相手に商売をするとなった。
ネットとスマホによってメディアが複雑になって、政治以外は誰も先導できなった。
東京の魅力は転職しやすいといったもので、文化面からどんどん離れている。
東京から発信される文化は減っていく一方で、日本全国から集めてきた人、ネタ、食材を発信することで構造を維持している。
東京は相対的に若い人が多いが、新しい感性で上書きされるというより、歳を取った人が若い人を使って構造を維持するのに躍起になっている。
ミスコンに反対しつつも、雑誌やSNSでのグラビアには声が上がらないといった感じだ。一度有名になり東京に有利に働いている限り、羨望の対象となっている。
東京は東京でグローバル化に曝されて大変だが、しわ寄せは地方に来る。
猿払村のように年間所得が3000万以上といった、地方でも儲かるところは儲かっているがバラつきが大きい。
先の猿払村だと所得が高い人がいる一方で、外国人実習生に頼らざるを得ないといった感じだ。
誰でもネットで情報発信ができる時代ではあるが、有象無象の一つに過ぎない。
ふるさと納税で他の地域と競争させられて、一番還元率が高いような地域にならないといけないといった具合だ。
京都のように観光資源が都市部に集中している地域なんて少ない。
YouTubeで観光を宣伝しようにも、観光資源が離れすぎていて、交通機関が発達している近辺をめぐるというのに反している。
これな。
自分なりの解釈をがんばってできるだけわかりやすく論じてみる。
・はじめに
ここでいう差別は、差別問題とは異なり、あくまで差別そのものを指します。
問題にならなければ差別を容認するというわけではなく、問題に至る前の差別そのものの是非について論ずることが目的です。
・差別とは何か
公立中学を動物園だと言った人を差別主義だとする根拠は、自分の経験だけでまるですべてがそうであるように表現したことにあります。
それならば、その人の中にあるその一意見をもとにして、その人すべてを差別主義だと決めつけることも、やっぱりそれは差別的だと言わざるを得ません。
「一つの(もしくはいくつかの)意見・側面をもとに、その人の全てを決定づけること」
白人全てが黒人差別をしていないのと同じ様に、一人の個人の中だけでも、差別主義的な意見とそうではない意見が存在しえます。
それを無視して、一つの(もしくはいくつかの)意見をもとに、その人を差別主義だと決めつける行為は、やはり差別的だと言わざるを得ないわけです。
残念ながら、日本ではまだこの違いを理解している人は少なく、結果的に、日本人はまだ差別意識に対して未熟だと言わざるを得ません。
それではこの筆者も同じ様に差別主義ではないかと思うかもしれません。
そうした意見を、それは差別的だと指摘・議論することは、差別主義ではありません。
もしわたしがここで、だから日本人は差別主義だと結論づけたのであれば、筆者は差別主義だと言えるでしょう。
そうではなく、あくまで問題の一点を指摘した上で、傾向を論ずることは差別主義でも何でもないのです。
それに対し、「あなたは差別主義だ!けしからん!」と返していても、この議論が一生前に進むことはありません。
公立中学が動物園と表明する自由はあり、そして、その意見が間違っていると指摘する自由もあります。
だからといって公立中学が動物園だと表明した人を差別主義だと批判することは、自分自身も差別的な行為をしているにすぎないというわけです。
しかし、このすれ違いこそが、差別問題の解決を困難にする一番の要因であるとも言えます。
なぜなら、差別主義を批判している側からしてみれば、自分自身に差別の自覚がないからです。
ナイキのCMに対して、ナイキが行ったことは、一部でそうした差別が存在したかもしれないことの示唆です。(そしてそれには多くの経験者による賛同を得ました。)
この時点でナイキは、だから日本人は差別主義だとは決して結論づけていません。
それに対し、「日本人を差別主義だと決めつけるとは何事だ!」と反論しても、そもそも議論が噛み合うわけもありません。
紐解いてみれば、一部の日本人が、ナイキに対して「ナイキは日本人を差別主義だと決めつける企業だ」という差別意識を表明しているにすぎないわけです。
もしここで正しく抗議をするのであれば、ナイキという企業に不買運動を働きかけるのではなく、CMで使われた映像の事実確認を行い、問題があれば是正、なければ意見に対して抗議をするのが本来のあり方と言えます。
かと言って、そのコメントを残した人自身を差別主義だと決めつけることは、やはり同じく差別主義的行為だということに変わりはありません。
そしてこのロジックは、いじめ問題の根本的原因であるいじめが発生するメカニズムにも共通しています。
特定の個人が何かしらのやらかしをしたとき、そのやらかしをもとにその個人そのものに対する攻撃が始まるメカニズムです。
ここで最初に立ち返れば、本来であれば是非を問われるべきはその行為そのものであり、その個人ではありません。
その行為に対し是非が問われ、それをもとに改善が行われるべきであって、行為の是非を個人の是非にするべきではないのです。
それを無視して、それが個人への攻撃を正当化するための理由として用いられてしまえば、まさにいじめ発生のメカニズムそのものと言えます。
つまり、ナイキに対してみんなで不買運動をしようと持ちかけることは、まさに、差別問題を棚上げにした消費者によるナイキという企業に対するいじめを持ちかけようとしていた状況に他ならないわけです。
こう考えれば、問題を問われるべきがどちらなのか、火を見るよりも明らかなのではないでしょうか。
しかし、悲しいかな、日本の教育現場では、このいじめの芽を積極的に取り除く取り組みが行われていないのが現実です。
差別とは何かを定義づけるとしたら、以下の通りであると宣言しました。
「一つの(もしくはいくつかの)意見・側面をもとに、その人の全てを決定づけること」
ならば、差別問題をなくすために個人個人が取り組むべきことは、以下の通りです。
「一つの(もしくはいくつかの)意見・側面をもとに、その人の全てを「いつまでも」決定づけないこと」
例えば、大坂なおみを見た目で個人を決めつけようとすることも、国籍や名前にしばりつけようとすることも、どちらも彼女個人を無視した差別主義的な考え方でしかないのです。
そうした情報にとらわれず、彼女の意見、一挙手一投足を見て、彼女がそういう存在なのだと受け入れることこそが、差別意識のない姿といえるのではないでしょうか。
ここで忘れてはいけないことは、個人の好き嫌いは最後まで個人の自由であり権利であるということです。
彼女の様々な側面を見た上で、好きとも嫌いとも表明することは自由であり、誰が侵害してよいものでもありません。
しかし、それをもって彼女が正しいか間違っているかは別です。彼女の存在そのものの是非を問うなんてもってのほかです。
今後一層のグローバル化が進んでいく時代、もはやこれは義務教育レベルで教育すべき内容であると、個人的には考えています。
お互いがお互いのありのままの姿を受け入れあうこと。
・淘汰と勝者
そうです。
お気付きの通り、差別意識をもって生きることも、自由であり当然許された権利でなくてはいけません。
いわばこれは反差別主義による差別主義に対する宣戦布告にすぎません。
そしてこれが、在日韓国人として日本に生まれ、数々の差別に身を持ってさらされてきた自分が、国籍や境遇を越えて差別主義を滅ぼすべくたどり着いた結論です。
さぁ、生き残りをかけた戦争を始めようじゃありませんか。
よくメディアで「コロナ禍」っていうものの言い方を見かけるけど、今起こってることって、ようするに「疫病」だよね。
この時代だからこそちゃんと「疫病」っていう言葉を使ったほうがいいと思うんだ。
戦争、飢饉、疫病に人類はもう何千年も苦しんで、対策をしまくってきたわけじゃない?
今起こってることって、歴史の大きな流れから見れば、繰り返していることじゃない?
なんらかの感染症が大爆発して、グローバル化のせいで世界全体が疫病の大流行になることは、予測していた人がいたわけじゃない?
でも人類の大部分がその人の話は聞かなかった。
どんなウイルスが流行するかはそのときになってみないとわからないかもしれないけど、「疫病」にいつかまた人類は苦しむと自覚して、そのときの備えをもっとすることはできたと思うんだ。もちろん、「たられば」だけどね。
で、その備えが足りなかったから、政治経済医療の制度が「疫病」に対応できてなくて、みんなバタバタして、先が見えなくて自殺してしまう人も出てくる。
「コロナ禍」という言葉遣いをメディアがするとき、それは「一過性の稀有な出来事」を指している気が、なんとなくするんだよな。
喉元過ぎれば熱さを忘れるってこと。
危機を煽るだけ煽っておいて、過ぎ去ったら何事もなかったかのように忘れる、いつものやりかただってこと。
そうじゃなくて、今起こってることは、人類がずっと苦しんできた典型的な苦しみのひとつ、「疫病」だってこと。
この苦しみはこれからもなくならないし、各自が死なないようにずっと備えていかなくてはならないってこと。
そういうことをちゃんと認めて、「疫病」っていう言葉を正面から使っていったほうがいいと思うんだ。
明治時代の統計を見ると、赤痢とかコレラとか結核で、コロナウイルスとは比較にならないくらい毎年人が数千人、数万人単位でバタバタ死んでる。
そのときにくらべると、その手の「疫病」はずいぶん克服されたわけだ。
でもそれは、新しい「疫病」に今後自分は絶対にかからないということではないよね。
だから、『「疫病」にかかったら、おれもおまえもけっこうあっさり死ぬかもよ?』てことをお互い忘れないように、「疫病」というちょっと禍々しい言葉を積極的に使っていったほうがいいと思うんだ。
私は毎年,九州大学の1-2年生を対象にした授業で,以下の2つの問いを別々の機会にそれぞれなげかけることにしている。
② 「グローバル化に備えて,日本語を廃止して英語に切り替えていくことに賛成か?」
このうち,①について「問題あり」と「問題なし」は,毎年ほぼ半々に分かれる。「問題なし」と考える学生は,言語をまずコミュニケーションの道具だと主張する。「少数言語や方言が減ることで,意思疎通がより進むので,誤解も減り,経済的にも(翻訳などの)負担が少なく,教育効果もあがるから,少数言語話者が少数言語を手放すのはむしろ自身にもメリットがある」というのである。
では,①について「問題あり」と考える学生たちの意見はどうだろう?九州の学生らしく,自らの方言を引き合いにだして,方言でなければ表現できないこともあること,方言が消えると大切なアイデンティティの一部が消えてしまうかもしれないことなどを語る。言語が,単にコミュニケーションの道具として存在しているわけではないと考えているのである。
面白いのは②に対する反応である。これまで,②に対して肯定的な態度を示した学生は1人としていない。①の少数言語の消滅に関しては「問題なし」とした学生も,②については「問題あり」と答えるのである。
この思考実験は,2つのことを示しているように思う。まず,言語がコミュニケーションの道具以上の「何か」である可能性があると,顕在的にであれ潜在的にであれ,我々は感じているということ。①の質問に答える際にはこのことに気づかない学生であっても,②では即座に気づくのである。言語が単にコミュニケーションの道具なら,日本でしか通用しない日本語よりも,世界で使われる英語に切り替えるほうが明らかに効果的であるが,学生たちは,「英語話者にすべて合わせて日本語を手放すべきではない」「「おもてなし」や「もったいない」など,日本語でしか表現できないことがある」「日本語がなくなると困る」「それは面白くない」など,論理的というよりも多分に情緒的な反論をする。ようは,アイデンティティを否定されることへの反論である。
思考実験からわかる2点目は,我々は直接の当事者にならない限り,とても無関心になる傾向にあるということである。学生の半数は,少数言語の消滅についてはコミュニケーションの効率性の観点を持ち出して賛成しておきながら,一方でその究極ともいえる英語への収束に対しては,日本語の独自性やアイデンティティを持ち出して抵抗する。これは論理的に矛盾している。そこで私は,こう尋ねる。
信じられない。
自分は日本が太平洋戦争で敗戦したと同時に日本語を廃止にしてGHQにより英語を日本の公用語にしてほしかった。
中途半端に英語の授業を取り入れるくらいならいっそ英語を日常的に用いて、日本語はたまに授業で習う程度でよかった。
なにが悲しくて日本語なんて欠陥言語を使わないといけないのだろうか。
「英語話者にすべて合わせて日本語を手放すべきではない」「「おもてなし」や「もったいない」など,日本語でしか表現できないことがある」「日本語がなくなると困る」「それは面白くない」
という反応が返ってきただけなんじゃないのか。
だいたい合ってると思うけど、一つ抜けているのは、今のような金持ちと貧乏人の分断というのは、グローバル化によって起きた。
グローバル化の利益は、どうしても富裕層にしか入らない。しかも投資先が海外だと地元に還元されない。
平民と平民の格差の拡大は、貧乏人が貧しくなることによってではなく、富裕層が豊かになることによって起きた。
遊戯王で言えば、コンボデッキが強くなりすぎて、普通にモンスターを出して殴るデッキがついていけなくなった状態。
たかだかコンボを組める程度で、つまり教育受けれて努力ができる程度で、できて良い差以上の差がグローバル化によって生まれてしまっている。このような環境では、努力ないから報われないんだとか考えるのは牧歌的すぎると思う。
そしてその是正、増田の言うような社会主義的な努力の否定ではなくて、グローバル化の抑制によって為されると思う。例えば、海外に投資した分は投資と見做されずに現金扱いのまま課税額の対象になるだとか。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65666230Q0A031C2MM8000/?n_cid=NMAIL006_20201030_Y
Sonyはここ最近の決算説明会などでFate Grand Orderやアニメ配信サイトなどのVideo Game以外のおたくカルチャーへの言及が増大しています。
これまでの傾向を分析するとアニメーションの数が増えるというよりは一本の作品に大型投資をする可能性が高い。
Demon Slayerのように時間とお金を使い大きく稼ぐ方向性です。
もしこの話が成立した場合業界全体が一気にSonyに傾く可能性があります。
なぜならSonyは日本の会社だからです。Daisukiなど過去に多数の失敗例がありますがクランチをそのまま吸収できるのであれば話が異なります。また、Netflixは未だに大ヒットの作品を作れていません。
最近日本以外のアニメーションを日本国内で上映するのが普通になってきておりフランスのアニメや中国のアニメも上映されるようになってきました。もちろんまだまだ小規模ですが。
しかし、業界全体がグローバル化の方向性に完全に舵を切り始めています。もしこの取引が成立すればポイントオブノーリターンになる可能性があります。
タイトルの通り知能で分断されているって印象ですけどね
日本も同じに思う
今もなおTVにケンタにファミレスにフードコートは金持ちに選択だからなぁ
(スーパーZIP・・・”those ranking highest on income and college education”、つまり、「居住者の平均所得や大学卒業率が、最高ランクである地域」のこと)
このスーパーZIPが全米でもっとも集積しているのがワシントン(特別区)で、それ以外ではニューヨーク、サンフランシスコ(シリコンバレー)にスーパーZIPの大きな集積があり、ロサンゼルスやボストンがそれに続く。
ワシントンに知識層が集まるのは、「政治」に特化した特殊な都市だからだ。この街ではビジネスチャンスは、国家機関のスタッフやシンクタンクの研究員、コンサルタントやロビイストなど、きわめて高い知能と学歴を有するひとにしか手に入らない。
ニューヨークは国際金融の、シリコンバレーはICT(情報通信産業)の中心で、(ビジネスの規模はそれより劣るものの)ロサンゼルスはエンタテインメントの、ボストンは教育の中心だ。グローバル化によってアメリカの文化や芸術、技術やビジネスモデルが大きな影響力を持つようになったことで、グローバル化に適応した仕事に従事するひとたち(クリエイティブクラス)の収入が大きく増え、新しいタイプの富裕層が登場したのだ。
マレーは、スーパーZIPに暮らすひとたちを「新上流階級」と呼ぶ。彼らが同じコミュニティに集まる理由はかんたんで、「わたしたちのようなひと」とつき合うほうが楽しいからだ。
新上流階級はマクドナルドのようなファストフード店には近づかず、アルコールはワインかクラフトビールでタバコは吸わない。 アメリカでも新聞の購読者は減っているが、新上流階級はニューヨークタイムズ(リベラル派)やウォールストリートジャーナル(保守派)に毎朝目を通し、『ニューヨーカー』や『エコノミスト』、場合によっては『ローリングストーン』などを定期購読している。
また彼らは、 基本的にあまりテレビを観ず、人気ランキング上位に入るようなトークラジオ(リスナーと電話でのトークを中心にした番組)も聴かない。 休日の昼からカウチに腰をおろしてスポーツ番組を観て過ごすようなことはせず、休暇はラスベガスやディズニーランドではなく、バックパックを背負ってカナダや中米の大自然のなかで過ごす。ここまで一般のアメリカ人と趣味嗜好が異なると、一緒にいても話が合わないのだ。
そもそも一億稼げるのは自分で使いきれない金を税金として納めて貧乏人に再分配してるから。
再分配のおかげで貧乏人がモノを買えるようになって、その結果一億儲けることができる。
そのループが崩れたら金儲けできなくなる。
金持ちが金のダムを作ったら結局自分の食い扶持を潰すことになるから税金で再分配する。
っつーのが無くなったんだよな、グローバル化で。
別に自分の国の貧乏人相手に商売しなくても全世界にいる金持ち同士でちょこっと金を出し合えば一億の収入を保持できるようになっちまった。
もう貧乏人が立ち上がらない限り再分配なんて夢のまた夢よ。
ちなみに増田は貧乏人側の人間だからどんどんどんどん生きにくくなる側な。今すぐ大人しく◯んだ方がマシな社会のお荷物の方な。
夕食を食べ終わって、晩酌しながらネットサーフィンをしていると、頭がくらくらするニュースが目に入ってきた。
オンライン会議で最近メジャーになったZOOMの決算が良かったらしく、1日で30%も株価が上がっているというのだ。
いくら成長性が高いとはいえ、1日で時価総額がこんなに増えるなんて、この値動きは完全にバブルとしか思えない。
ちなみにどのくらいバブっているかyahooファイナンスで調べてみると、株価を1株当たりの利益で割った割安性を示す指数のPER(Price Earnings Ratio)は5000倍近く。
どういうことかっていうと、例えばオイラがアラブの石油王の隠し子だったとして、5000兆円ほど自由に使える身だったと仮定する。
ZOOMの将来性を見越して、ZOOM株を100%買い占めてオイラの所有物にしたとしよう。この時の買収にかかる費用は時価総額(=株価x総株数)に等しくなる。
(買収合戦で値上がりするとかは考えない。)
この時の投資金額を回収しようと思ったとき、PERが5000倍っていう事は、1年で出る利益が1株当たりの株価の1/5000しかないという事。
1株500ドルだっとすると、利益はわずか10セント。要するに買収でかかった費用の元を取るのに5000年かかってしまうってことだ。
まあ、このままZOOMの事業がぐんぐん成長していけば、利益も右肩上がりになるはずなのでそのうちPERも下がってくる(=5000年かからずに元を取れる)だろうと考えられなくもないのだけども。
今日話題になっているZOOM以外でも、やれテスラやAmazonだ、謎の半導体メーカーのNVIDIAだと、アメリカ株の景気が良い話はよく聞くが、何でも上がっているかというとそうではない。
何を隠そう、オイラは実は渋谷区在住の米系外資エリートリーマンなのだが、そんなオイラの勤務先の株価はいまだにコロナ前につけたピークの2/3といったところである。
アメリカ株がなんでも上がっているなら、日ごろから会社で大活躍しているオイラはご褒美にもらったストックオプションでウハウハだったのに!悔しい!泣いちゃうぴえん...
さて、賢明な読者はおめーの業種がハイテクじゃないからダメなんじゃないの?と思われるかもしれない。
だが、外資系エリートリーマンのおいらがクレバーでスマートな頭で調べた結果判明したのだが、同じハイテクでも勢いのない会社や地味な会社はそこまでバブっていないのだ。
例えば半導体業界を例に出してみるとこんな感じになる。いかがだろうか。Intelに勢いがないのは事実が、半導体ブームで恩恵を受けそうな他の大手メーカーも含めて、セクター自体は実はそんなに割高でないことがわかる。
withコロナで人と人との接触を減らさざるを得なくなって、在宅勤務、勤め先の外資風に言えば 『ワークフロムホーム』が主流になれば、データセンター需要が爆発するので半導体関連の株価はなんでも上がる。
(データセンターで使われるサーバーにはGPU以外にもCPUもメモリもどんな半導体も入ってるよね?半導体増産するために装置バカ売れするはずだよね?)
そのシナリオが真なら、市場シェアが高いはずの上記企業の株価はなぜ割安に放置されているのだろう?
結論を言おう。
今の株価は決して合理的なプライシングではないバブルである。そしてバブルははじけるものと決まっている。
強気派はいつだって株価が割高でないと同じことを繰り返し言う。
直近ならこんな感じだ。
「PERなんて指標はゲームのルールが変わって役に立たなくなったんだよ。株価は未来を先取りする。ハイテク企業のイノベーションが世界をレボリューションしている限り経済は成長する!(だから株価は上がり続ける)」
同じようなことはリーマンショック、俺たち外資風に言えば『フィナンシャルクライシス』の前にもさんざん言われていた。
「PERなんて指標はゲームのルールが変わって役に立たなくなったんだよ。株価は未来を先取りする。新興国の人口は50億人。冷戦が終わってグローバル化が進んだ今、彼らが先進国レベルに豊かになるまで経済成長は続く。(だから株価も上がり続ける)」
だけど夢はいつか覚める。株価がウォール街してすごいヤバいことになる。寝言は寝て言うものだと理解していただきたい。
最近個人でやってるtwitterで、これは絶対バブルだ、みんな慎重になれ的なことを書き込んだら「アメリカ株をやらないやつは馬鹿。今利益出ていないやつは幼稚園児以下のうんこ」みたいに煽られることが増えたのである。
バリュー株メインで銘柄選定していてあまり儲かっていないオイラは少しムカついているので、株価が暴落するとメシウマなのである。(欲しい銘柄が安く帰るし、ショートでの儲けも狙うことができる。)
さて、バブルはいつはじけるのだろう?その時強気一辺倒で掛け金を上げ続けた哀れな子羊たちはどういうことを言うのだろう?今から言い訳が楽しみである。
2ヶ月くらい前のことだ。コロナの緊急事態宣言が解除された解放感で、友人と焼き肉を食べに行っていたときのエピソード。
オイラと友人が肉を食べていると、隣の席に不動産の営業と思しき、こんがり日焼けした肌に高そうなスーツを少しだけ着崩したチャラ目のグループがやってきて、席に着くなりアメリカ株の話を始めたのだ。
「なすだっく?ってのを買ったら絶対上がるんだよ。ここ10年ずっと右肩上がりだったっし、俺もコロナの後に友人の勧めで始めたけど、1月でもう30万儲けたぜ!マジヤバい!お前らも早くアメリカ株できる証券口座開いて、なすだっくを買うんだよ!」
面白そうな話をしていたので盗み聞きをしていたのだが、彼らはNASDAQが株式市場の名前であり、日々変動する数字がその取引所の株価指数を意味していることも、自分たちが買っているのは株ではなくて指数に連動するETFと呼ばれる上場投資信託であることも理解していないようだった。
ソーシャルディスタンシングで座席の間引かれた店内に響き渡る彼らの声を聞いて、かの有名な靴磨きの少年のエピソードを自分が体験するとはと、しみじみ思ったのであった。
ベーシックインカムだと何もしないでお金をもらうという話なのだが、
コンピュータを使って何かしら作ることはできる時代になったので、こちらの方法で大儲けはできなくとも、そこそこ稼げるようにならないものだろうか。
高齢者が増えていくなかで、体力が落ち、年金のみで生活するのに不安があり、消費に回すお金もない、
といった状況を変える1つの方法としてニーズはありそうに思う。
これまでのWebは、グローバル化と価格競争、広告で進んできたわけだが、期待値のわりに日本全体でパイの拡大ができていない。
(政策が悪いという意見はもちろんだが、他の方法もあるだろう)
Amazonの個人出版や、同人誌やオリジナル創作物の販売サイトはあるが、今のWeb構造だと埋もれてしまう。
コミケ、文学フリマ、技術書展といったイベントがトリガーで販売という方法もあるが、結局大規模なものしかネットで浮上しない。
よく老人の年金を若者が負担すると言っているが、キャピタルゲインで稼いでいる人数を支えられるのかという疑問からきている。
銀行による信用創造によって市中のお金の量が決まっているのだから、
荒い定義をすると、人口×1人当たりの借金できる金額で総額が決まる。
ただ借金返済の期間が何十年とあることと、返済時期がバラバラであるので、お金が一時的に偏在しても問題は起こりにくい。
1000億偏在していても、1億人いれば、1人あたりは1000円の負担なので小さい。
1000兆と桁で増えていったときはどうか。
のどちらかになる。
欧州の先進国の人口が増えなくなったが、世界的には人口が増えていた。だから人口を増えている国に借金してもらえばいい。
グローバル化の名のもとに、日本だと貿易立国から投資立国になった。
(いってもCIAのWorld Fact bookで見ると、アメリカの輸出で日本の割合は4.4%、輸入は5.8%で、カナダ、メキシコ、中国より小さいんだが)
かつては家畜や肥料によって支えられる人口が制限されていたが、化学肥料で制限は増えた。
②については大枠ではキャピタルゲインで稼いでいる人も含まれるわけだが、労働者を考える。
借金なので担保が必要で、労働力か資源(土地、金銀など)が必要となる。
60歳から80歳まで働く時間を延ばすなど、1人あたりの労働時間を増やすか、女性の社会進出を後押しする。
資源については、地球上の土地は既に権利者が決まっている。海を埋め立てるか、月か火星の土地を確保するかだが、お金がかかる。
1人当たりの借金の担保にしようとしているのに、今はないものを担保としようとしているので難しい。
金銀ももう新たに大量に出てくることもない。担保になるものの量を劇的に増やせない。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/2-270.php
行政書士として外国人問題を扱っていると、様々な出会いをする。ある日電話で、奥さんを日本に連れてきたいという相談を受けた。ご本人は会社を経営しており、利益もそれなりに出ている。通常であればどうってことのない案件である。「それでは、事務所にお越しください」と伝えて電話を切った。
次の日、約束通りの時間にその方はやってきた。日本人の女性と一緒だった。「妻です」と、流暢な日本語で紹介された。私が混乱したのを察したのだろう。すぐに「母国にいる妻を日本に呼びたいのです」と説明があった。お国はパキスタンである。パキスタンでは4人まで奥さんが持てる。その奥さんを日本へ連れてきたい、というのが今回の相談だった。
この方は30年以上も前に、政治亡命のような形で日本にやってきた。そのときに支えてくれたのが、10歳以上年が離れた今の奥様だったのだ。だが、子どもができなかったため、日本人の奥さんは、「自分はもう60歳を超えているので無理だから、パキスタンで若い奥さんをもらって、子どもを作りなさい」と、第2夫人を持つことを薦めたという。
しかし、「配偶者のある者は、重ねて婚姻をすることができない」と日本の民法は定めている(732条)。外国人であっても、日本国内に一歩足を踏み入れれば日本の法律が適用される。したがって、その第2夫人を配偶者として日本へ連れてくるためには、今の奥様と名実ともに離婚してもらうしかない。それをお伝えすると、日本人の奥さんはすぐに納得したのだが、決断できなかったのはご主人の方で、それから30分ほども涙が止まらなかった。「長い間なんでも相談して2人でやってきたのに......」
グローバル化に合わせて多様な結婚形態も認める時期に来ている。
日本も外国の同性婚や一夫多妻婚のカップルを受け入れざるをえないだろうし、日本のイトコ婚の家族を外国も受け入れざるをえない。
場合によっては、日本の民法が想定する年齢未満のカップルも外国で正式な婚姻関係と認められていれば受け入れることになるだろう。