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はてなキーワード: ぬことは

2011-10-11

売れる漫画法則一つ発見した

それは「自分の命や人生より何かを上に置くシーンがあること」

わかりやすい例で言えばアカギ丁半博打のシーン

ここでアカギ自分の命よりサイの出目を優先した、つまり命よりギャンブラーとしての信念やプライドといったものを上に置いている

ウシジマくんだったら楽園くん編で中田が湯船に沈められるシーン

ここでも中田はキミノリを売って自分が助かることより、キミノリとの友情を選んで死ぬことを選択する

この法則自分犠牲に誰かを助けるっていうことも含まれるから陳腐表現っちゃそうだけど、これが巧く描かれている漫画ってあんまりないよね

2011-10-03

http://anond.hatelabo.jp/20111003030352

それは「死におびえる現実」がこわいのであって、死ぬこととはちょっとちがうと思う

2011-09-27

から非コミュを辞めたければ、自分の都合の良いようにしか考えない自己中を辞めろ。

自己欺瞞の悪習を引き剥がせ。どんなに痛くても嘘や妄想や決めつけで自分を守ろうとするな。

事実を見て、事実を考えろ。それができるようになった時、自分を殺せる、死ねる。

武士道は死ぬことと見つけたりとはそういうこと。

それでやっと、他人として隣人として、あるべき自分として生きられる。

アリストテレス理想みたいに。

え?アリストテレスとか古代人持ち出されても馬鹿みたいだって

じゃあ何?アリストテレスに、孫子に、仏陀に、ガンジーに、お前は挑むつもりなの?

頭の弱いお前が、彼らが一生かけて考えた事の逆をやって人生上手く行くと思ってるのw

おお、絶望的な努力家よ!

2011-09-18

もしもこの世に苦しみがなかったら

 もしこの世に苦しみの類が無かったら、俺たちってきっと簡単に自殺しちまうかもしれないなwww

 だって苦しみがないんだったら、死ぬことを恐れようがないし、それに死んだ後のことを恐れたりもしないからなwww


 でもそれってきっと恐ろしいことだよな。だから、俺たちの世界にはそういう苦痛に満ちた事態を回避する為に苦しみがあるのだ

2011-09-13

クリエイターという人種

クリエイターという人種に、あこがれる。あこがれるとともに、知れば知るほど自分には絶対無理だと思わされる。それを実感させられるのは、たとえばこんな人を見たときだ。

http://anond.hatelabo.jp/20110907062309

この人は、それなりに大した作品を創り出せる。そしてその作品が一人歩きして大きな影響を人に与えることができる。高く評価される。だがそれに喜ぶどころか、評価を得れば得るほど、この人は果てしない孤独に落ち込んでいく。それも自分勝手にどんどん穴を見つけて深みにはまっていくように、気がつけばどんどんと人から遠ざかってゆく。そしてますます自分人生の全てをかけて創作行為に打ち込んでいく……。

……ほんとうにすごい。こういう泥沼のような性格の人でないと、創造などという神をも恐れぬ秘密の一端に手を触れることは許されないのか。これだけの犠牲を捧げなければ、創作物で人の心を打つことはできないのか。

読者・観客というのはワガママだ。極論すれば、芸人舞台の上で本当に死ぬことを求めている。それも芸人が素晴らしければ素晴らしいほど、舞台に命を捧げることを要求してくるのだ。芸人は、死のギリギリの淵まで笑顔で降りていって、観客をハラハラさせ煽ってみせる。観客は手もなく欺されながら、それでも「次は大丈夫かしら?今度こそ死んでしまうのではないかしら?」と眼をギラギラさせながら舞台上を見つめる。その眼に煽られて、芸人は再び、もっと際どい死の淵まで降りるような芸にチャレンジしてしまう……もちろん、そういう観客との危うい追いかけっこに足を踏み入れること自体、芸人の才能の証明であるとともに、ひどくレアなことではあるけど。

けれど、そんなとき、ふと舞台の上で孤独と、自分を見つめる観衆の残酷な眼の色に気付いた芸人は、果たしてどうすればいいのだろうか?

……私にも分からない。

なぜなら、あるいは自分もその観衆の一人かもしれないからだ。

2011-09-07

ねこきもち

箱の中がすっかり暗くなってしまってから、もう随分と時間が経ちました。

入れられる以前に小耳に挟んだことなのですが、どうやらこの箱の中には猛毒の入った小瓶が置かれているそうです。小瓶は口を溶接されて密閉状態にあるものの、すぐ側には振り上げられたまま固定された金槌が設置されていて、その金槌とある時間がきた途端に振り下ろされるのだそうです

そのとある時間なる時がいつを指すのか、私には全くわかりません。いまこの瞬間にもその時が来ているのかもしれないし、あるいはもっと先のことだったり、考えたくないことではありますが、もう過ぎてしまったことだったりするのかもしれません。金槌は誰の影響を受けるでもなく、独立した一つの事象として、完全な確率五十パーセントで振り下ろされることになっているのです。小瓶は割れてしまうのかもしれないし、割れないままかもしれない。私は死んでしまうかもしれないし、生きたままいられるのかもしれない。

まったく、とんだ状況の中に押し込めてくれたものです

激しい憤りを覚えずにはいられません。私の生死という何よりもの大事項が、私はもとより誰からの手も離れて、唯一、五十パーセントなどという無機質極まりない確率だけに委ねられているなんて。ほとほと酷いにも程があるのではないのでしょうか。

加えて理不尽まりないことに、この五十パーセントという確率をより厳密なものにするために、箱に入れられた私には様々な枷が与えられたのです

例えば視覚について。小瓶と装置が見つかっては壊されかねないとのことから、箱には完璧な遮光が施されることになりました。完璧な暗闇。暗黒と呼んでも差し支えのない暗さが用意されたのです。よって私には、少し先の様子はもちろんのこと、私自身の輪郭さえ視認することができません。そこに本当に私の身体があるのかどうか、馬鹿げた話ではありますが、疑いすら持ち得てしまえる暗さなのです

また聴覚についても、同様の理由からか、自ら発した声さえ聞きとれない程に徹底した遮断が施されています。どのような原理が働いているのかは不明です。そもそもなにも見えないのですから、確認のしようがありません。ですから以下は推測になりますが、もしかしたらここに入れられる前に鼓膜を破られたのかもしれないし、あるいは箱を形成する外壁に特殊な吸音板が使用されているのかもしれません。

兎にも角にも、防音吸音共に優れすぎた暗い箱の中で、私の視覚聴覚は文字通り死んでしまっているのです

極めつけとばかりに、全身を支配する身じろぎひとつ取れない虚脱感もまた、私に与えられた枷のひとつでした。暴れないようにとの理由から、箱に入れられる際に何かしらの弛緩剤を投薬されたのでしょう。半ば強制的に同じ姿勢のまま横たわらねばならなくなったので、次第に皮膚感覚麻痺していきました。

何も見えないし聞こえない。嗅覚も味覚もあてにならない上に、触覚までも機能不全に陥った。つまるところ私は五感を全て支配されてしまった木偶のような有様を晒しているのです非情まりない状況です。これほどまでに不自由を徹底するくらいなら睡眠薬を投与してくれたらよかったのにと思わずはいられません。一つも外傷を与えられないまま生殺しにされている気分なのです。私という生命存在について、これ以上ないほどに蔑ろにされているという屈辱感が、辛うじて私の精神を狂わせず律してくれているのです

私は、私の生命を、その生き死にを決定する何よりも重大な決定権があからさまに奪われてしまっていることが憎い。生命の存続を決定づける要素というものが、たった一つ、誰から意図から独立した、純粋まりない確率にだけ寄っているという事実が、憎くて憎くて堪らないのです

どうして私はこんな箱の中に入れられなければならなかったのでしょう。こんな馬鹿げた箱の中で、徹底して自由を奪われたまま生死の恐怖に怯えなければならないのでしょう。

こんなに理不尽なことがあっていいのでしょうか。こんなに残酷なことがあっていいのでしょうか。

はいま、とても孤独です。胸にぽっかり穴が開いたとか、むせび泣いてしまうとか、そんな孤独よりももっと深淵にある、一面の虚空とでも言うべき孤独感にやられてしまっているのです。すごくすごく、ものすごくさびしいのです。独りぼっちのまま、永劫の暗黒に投げ出されてしまったものですから絶対零度にも等しい肌寒さに打ち震えることしかできないのです

箱の中からは一切の遠近感が失われています。暗黒だけが広がっていて、どこかにあるはずの小瓶と金槌は当然のごとく、箱の壁も底も天井も全て消えさってしまたかのようです。無論、実際にはそこにあるのでしょう。けれども、ありとあらゆる感覚器が閉ざされ麻痺してしまった私には、当然のようにそこにあるはずの物ども(実際にはそれ自体に何かしらの存在意義が与えられているはずなのに)が、ないも同然になってしまっているのです

正直に告白しましょう。私にはもう、箱の中に私がいるという前提にさえ自信が持てなくなってきています。確かに私というもの存在している。こうして取り留めもないことを考え、あるいは空想している私の自我ないし意識とか精神などと呼ばれている唯一性は確保されている。けれども、その唯一性が本当に箱の中に閉じ込められているのかどうか。本当はもっと違う、どこか異質な空間を漂っているのではないか。疑念を払拭し切ることができないのです

しかしたら、いまこうしてここにある私は、どこか遠く宇宙の果てを漂っているのかもしれませんし、マリアナ海溝の水底に横たわっているのかもしれない。あるいはキラウェア火山の火口からマントルの方向に向かって沈下しているのかもしれません。

私には私自身を覆う箱がどうなっているのか知る術がないし、五感が死んだままではここが箱の中なのかどうか判別がつかないのです

加えて、いまここにある私が本当に生きているのかどうか。そんなことさえも私には確認する方法が与えられていません。ともすれば私は、二分の一の確率をすでに通り過ぎてしまっているのかもしれないのですから。私はもう死んでしまっているのかもしれませんし、運良く生き残っているかもしれません。弛緩剤を打たれた身体で浅い呼吸と僅かな拍動を続けているのかもしれないし、その全てが停止したままだらんと横たわった肉塊になっているのかもしれません。

私は私自身の肉体を自由にできるだけの力を奪われてしまっているのです。私という思考が生命活動を続ける健全な肉体に宿っているなどと、一体誰が認めてくれるのでしょう。完璧な暗闇に毒された五感は、すでに感覚器としての意義を失くしています。私にはもう本当を確かめるだけの機会さえ与えられていないのです。ありとあらゆる想定は、もしかしたら私自身が作り出した捏造なのかもしれない。私を巡る様々な状況や、そもそもの私という唯一性についても、プログラムされたロールプレイにすぎないのかもしれない。

私という存在について、口惜しいことに、ゆらぎの只中にある私には振る舞い方を決めることができないのです

叶うことなら、誰かに私を見つけ出してほしいくらいです。私を閉じ込めた狭い箱をこじ開けて、私がどうなっているのかを観測して、私の有り様を決定して欲しい。私にはもうそれだけの力が残されていませんから。身動きも取れないまま、孤独に身を震わせ続けることしかできないのですから

全能の神であれば、光あれと呟くこともできることでしょう。無茶な願いだと承知のうえですが、そう告げることができたのならどんなによかっただろうと感じずにはいられません。

自身を巡るありとあらゆる不確定なゆらぎを自らの意思で確定できるなんて!

あこがれは、しかし一方で臆病な陰影を生み出すものです。箱が開かれ、私が見つけられて観測され、結果的に私の有り様が決まることについて、嘘偽りなく告白すると、確定されるいまに不安を感じていることから目を逸らすことができなくなるのです

生きているのか死んでいるのかさえも自分自身では確かめようのない私ではありますが、それでもやっぱり死ぬことは怖いのです。死んでいると決定してしまうことが生理的に恐ろしいのです。どうしても受け付けられない。きっとそれは私がまだ具体的な死という現象を体感することも想像することもできていないからなのでしょう。

いいえ、なにも私に限った話ではないのでしょう。人徳有望な仁君名君であっても、極悪非道殺戮者であっても、遍く存在する人畜無害一般人であっても、誰だってそうだろうと思うのです。年老いた人や、病床に伏せる難病患者であるのならば、もしかしたら限りなく近しい想像を働かせることが可能かもしれません。が、それでもやはり具体的な体験については一生不明なままだと思うのです

結局、死とはゆるがせにできない圧倒的な意味を持つ終着点だと思うのです時間というもの、あるいは意識というものが絶対的な不可逆性を有しているように、たとえそれが儀礼的な通過点や他に類を見ない印象深いイベントであったとしても、決して覆すことのできない絶対的な事柄に違いないのです

私は、いまここにある私という思考は、私を巡る様々な有り様が決まった瞬間にここから存在しなくなります。頭までどっぷりと浸かった、熱くも冷たくもない、温度を感じることのできない完璧ぬるま湯を抜かれてしまって、否応なしに外気に触れざるを得なくなってしまからです

そんな取り返しの付かない変化が恐ろしい。死んでいると決定づけられるだけに限らないのです。私にはもう、生きていると決まってしまうことさえ不安不安でたまらないことなのです

きっといまここにある私は、永遠とも感ぜられる点に留まった小さな小さな幻想のようなものなのでしょう。それ以上広がることもなければ縮まることもない、伸びることもなければ短くなることもない。拡散することも閉塞することもない、数学的に正しい唯一一点に留まったまま自己同一性勘違いしてしまった幽霊のような存在なのでしょう。

その点は、座標平面上の至る所に存在し、同時にとある一箇所には存在していないのです一心同体も同然となった私のことなんて気にも留めないで、ある特定の事象が起こった瞬間に、その事象が起こったありとあらゆる時空間の中のたった一つに、まるでバスから降ろすかのようにして私を収束させるのでしょう。

またそんな点に留まってしまった幻は、実物になる可能性も、霞となって消え去る可能性も平等に有している。

はいま、どんな時空間にも存在し、ありとあらゆる性質を有していながら、同時にどんな性質からも見放された孤独に苛まされています。誰かに見つけて欲しいと願う一方で、その時一体私がどこにいるのか、どのような姿になっているのかが不安でならないのです

因果の理から放たれてしまった私は、何時迄経っても不確定なままなのです

2011-09-05

http://anond.hatelabo.jp/20110905123746

意図的に偏った言い方をしてるので

はぁ。偏った言い方っていうのは「文章では「殴りたい」とか厳しいことを言ったけど」とかいうことですか。

言い方っていうか内容も大概偏ってるっていう話なんスけど。

論語感ってなに?

孔子論語」(上から目線で)感。カッコのつけどころ間違ったなw

あなたは人を助けるときにどういう姿勢なのかな?

坂口安吾エゴイズム小論でも引いとこうか。青空文庫だし多分大丈夫だろう…と思いたい。

 人は道義頽廃といふ。だが、彼等の良しとする秩序とはいつたい何物であるのか。行きくれた旅人を泊めてもてなしてやつたか美談だといふ。この旅人小平のやうな男で、親切に泊めたばかりに締め殺されたらどうするつもりなのだ。フランス童話にあるではないか赤頭巾といふ可愛いゝ親切な少女は森のお婆さんを見舞ひに行つて、お婆さんに化けてゐた狼に食べられてしまふ話が。だから親切にするなといふのではなく、親切にするなら小平や狼に殺される覚悟でやれ、といふことだ。親切にしてやつたのに裏切られたからもう親切はやらぬといふ。そんな親切は始めからやらぬことだ。親切には裏切り報酬もない。小平や狼の存在が予定せられ、親切のおかげで殺されても仕方がないといふ自覚の上に成立つてゐる絶対の世界なのである

基本的には、人を助けるというのはこの「親切」に準ずる行為なのではないですかね。というスタンス

自分の身に傷が及んでも(たとえ助けた相手その人に傷つけられても)そのことで相手を恨まない。助けて「あげる」とか極力思わない。まあむずいけどね。

から「上(優位)に立ってモノ言うのを助けと称するって実際どうなの」と思っちゃう。

縋られたという立場につけこんどるだけやん。身内でやられたら余計かなわんわww

「ありがたいアドバイス」にはケチつけづらいしwww「その話三回目ですよ」とか絶対云えねえwww

あ、「別にありがたがれとか言うつもりはない」とかはやめてね。上からモノ言う限りそこんとこは全然説得力ない。

感覚的に具体例側に近い人が反論したくてたまらんみたいだけど。

玄関の例でいこうか。

ブログ記事では宅急便が来たときに、「玄関で靴をきちっとしとく」という具体的行動を取らされたって例をあげているけど、筆者自身としては靴が多少散らばっててもいいから早く対応したい派。その方が宅急便の人にとってもありがたいんではなかろうか、と。

でも「自分ならその具体例の行動の方がいい、靴はつねにきちんとが正しい」派が、「靴きちっとしとくの悪くない!言い過ぎ!宅配便に対してみっともない!だらしない!」と反論したくてたまらないみたいだけど。という話。

だらしないとか云うなら自分で出なさい。子に任せたからには子のやり方を許容・尊重すべき。とか思わんのかしら。思わんのだろうな。

子は道具で私有物ならば、自分の思い通りに子が動かないのは誤作動なわけだから、しつけと称した修理を要するって思考に転がる。尊重って発想が「大げさ」になる。

宅急便にはよ出ようというのはそれ自体間違ってるわけじゃないのにね。

特に婉曲的にモノ言ってるつもりはないです。というか文章くりぬいて引用していちいちあれこれ言ってみてるのに、どこか婉曲的でしたかね。

しゃべり方がバカっぽいのは私がバカだからだよ。

言わせんな恥ずかしいwwworz

2011-09-04

http://anond.hatelabo.jp/20110904225715

自殺する奴ってもう狂ってて死ぬこしか考えられない状態だもんな。

理性的自殺する奴なんていないっつーの。

2011-08-31

向き不向き

正直なところ、先のことを考えると、恐ろしくなる。「不安」などという、漠たる感情ではない。それはもう気が遠くなるほど、ぞっとしてしまうのである

適応能力がないのだと思う。自分の置かれた状況を、理解していないわけではないが、それを甘んじて受け入れられない。少なくとも、この世界においては単なる文句とされるようなことばかり、脳裏をよぎる。余計な考えを起こしてしまうのだ。そして、残念なことに、それをコントロールできるほど、できた人物でもない。ゆえに上手く立ち回れない。

アホな人は幸せだろう、そう、考えることがある。失礼な話であるしかし、考えてもどうにもならぬことに囚われる可能性がないということは、本当に素晴らしいことだと思う。

例えば、彼らは然るべき年齢になれば、何ら疑問を持つことなく、職に就こうとするだろう。その行動は、おのずと経済的な自立、親への孝行などにつながっていく。いずれも、この世界においては良しとされることだ。

一方、ここで面倒な屁理屈をこねるような人は、就職への踏ん切りがつかない。やれシステムおかしい、リクルート死ね、出生前にそんな話は聞かされていないなどなど、言ってみたところで何が変わるわけでもないから、取り残される。そうして、絶望けが、彼の眼前に横たわる。自業自得、ということになる。結果を見れば、こちらの方がよほどアホだと言って、差し支えいかもしれない。

2011-08-26

Facebook連携機能で、ブラウザクラッシュ

web製作に関しては素人なので用語などわからぬことも多いのですがご容赦くださいませ。

最近スマートフォンを買いまして、android 2.3.3ちゃん可愛いなあペロペロという生活をしています

<!DOCTYPE html>
<html lang="ja" xmlns:fb="http://www.facebook.com/2008/fbml">
<head><title>サイトタイトル</title></head>
<body>
<div id="fb-root"></div>
<script src="http://connect.facebook.net/en_US/all.js"></script>
<scriptFB.init({appId : 'xxxxxx', status : true, cookie : true, xfbml : true });
</script>
<div style="border:1px red solid;">
<fb:comments href="example.com" num_posts="2" width="500"></fb:comments>
</div>
</body></html

こんな感じのコードスマホブラウザから表示すると、赤い枠がどんどん拡張していくのですが何故でしょう?

facebook側のバグandroidブラウザ側のバグ

どうもブラウザが悪い気がしますけども。

https://developers.facebook.com/docs/plugins/

ここにあるプラグインのうちいくつかはandroidブラウザでも正常に動き、

いくつかは縦にどんどん伸びていくし、いくつかは横にどんどん伸びていくみたいです

このあたりの動作の影響なのか、スマホで閲覧ができないサイトが、一部ではクラッシュまでしてしまサイトもあるようです

あるサイトXでは横幅・縦幅がどんどん大きくなっていくので、

文章の入ったコンテナ部分がどこか遠くに行ってしまい読みようがないのです

あるサイトYでは、FBその他のプラグインを大量に張っており、相性の問題もあるのか

一分ほど放置するとブラウザ勝手に落ちます

私が検証した範囲では、

Xperia acro標準ブラウザダメ

Dolphinブラウザ:問題なし

Opera mini:問題なし

でした。

これって私だけ?

また、僕のケータイだけの問題かどうかも分からないので、

今一度、みなさんも検証していただけたら、と思います

2011-08-23

http://anond.hatelabo.jp/20110823173301

いまのうちに便所紙とミネラルウォーターと米とガソリン備蓄しといて、地震がきたら高く売りつけよう。

都民情強情弱かはどうでもいい。でもカネもってるのだけは間違いないから、いくらでも高く売れるぞ。

東京直下で都内、神奈川埼玉の半数、千葉茨城の過密部の大半が死ねば、エネルギー需要は相当安定するだろう。

人間以外の動植物エネルギー消費はたいしたことないだろうから人間けがなるべく多く死ぬことが望ましい。

2011-08-20

【追記】「人生を楽に生きる8つの方法」は半分ウソだと思う。

人生を楽に生きる8つの方法

http://chaos2ch.com/archives/2982681.html

これを読んでいたらもやもやしてきたので書く。



4つだけは本当だということじゃない。

8つすべては「真実」に近いと思う。

実践できれば楽に生きれると思う。

それがいいとか悪いとかいう問題じゃない。

ただ、この理論だけでは結果的に不十分だとおもう。



いったいなにを欺いているのか?

この方法には2つのウソが隠されていると思う。

リンク先で語られている内容よりも

語られなかった内容に注意してほしい。




上のリンククリックした人は、それだけでかなり頭がいい。

つの方法を抜き出してみよう。


1、今に生きる

過去を悔やんでたらればを繰り返したり、起きてないことをあれこれ憂いたりするのは時間と労力の無駄遣いで非生産的

今の自分の状況や気持ちに行動原理をおく。


2、人や社会に期待をしない

求めたり「こうあるべき」とイメージを持ったりすれば、現実との差異にがっかりすることになる

基本は人生自己責任


3、他人は自己投影

自分が見ている他人は、他人という物質に反射して映った自分だと考える。

それが心地よくないものなら自分が変われば良い話


4、事象を引き寄せている(選んでいる)のは自分

その出来事を通して味わいたい思いや学びたいことがあるからそれを引き付ける。

災難ととるのではなく自分の選んだものと思って構える


5、自分がいなくても世界は回る

自分が思うより他人や社会自分を見ていない。

こうしなきゃ、こうでなきゃ、というのは自己満足であって、大抵の場合は不必要


6、ワクワクするものごとを選ぶ

自分の選択で他人が困っても、それは他人が対処すべき問題。

選択の連続人生で、自分の心がワクワクする方を正直に選ぶのが一番スムーズ。これができないと葛藤ジレンマに苦しむ


7、自分の行いは必ず帰ってくる

自分の行動は、空へ向けてボールを投げるのと同じ。

きちんと受け止めないでぶつかった時に、痛いと言って責任転嫁しようとしても事は進まない。

自分が受けたい言動をとればそのまま返ってくる。


8、物事は全て中立

「悪い出来事」「縁起の良い場所」なんてのは本当はなくて、全て中立な物事に自分意味付けをしてるだけ。

たとえば同じ場に居合わせ災害にあったとしても、ある人はたまたま見舞われたと感じるし、ある人は自分宗教の教えを遵守しなかったからと捉えるかもしれない。

自分の見方で世界が変わる。





方法自体はほとんど正しいとおもう。

ぐうの音もでない。

いろんな本を読んだり、テレビを見たり、人と話したりすれば

わりと納得できる考え方だなーと。

(というかこれがわからないとしんどい)




しかし、正しいということとそれが妥当であるということはまた別の問題だと思う。




でも、とりあえず

この方法実践することで人生が楽になる

ということはほぼ間違いないと思う。


世界じゅうの人がみんな

この方法を身につければ

きっと生きやすい世界が目の前に広がると思う。






ちょっと想像してみよう。



  • 過去のことは水に流してくれるし未来絶望しなくてもいいし(今に生きるから
  • あーしろこーしろとうるさく言われないし(人や社会に期待をしないから)
  • 相手を責める前に、まず自分の非を疑うようになるし(他人は自己投影から 以下略
  • 現状を肯定できるようになるし
  • 構ってもらえなくても大丈夫だと思えるし
  • 楽しいことを選ぶことを肯定できるし(仕事は厳しくあるべきなんてことも言わない)
  • 相手のことを慮ることが、自分をいたわることだと気付けるし
  • いいとか悪いとかい価値観に縛られなくなるし





現在あなた人生をおびやかす何者か

(親、兄弟、親戚、同級生、上司、同僚、社会のしくみ、政府日本テロリスト、なんでも)が

もし、これらの特性を身につけたならと考えてみよう。

こりゃパラダイスだ!

ぼくたちはお互いがお互いを認められるような

真に寛容な社会を実現できる!

誰と遊んでいようが楽しい

よーし!あの丘の上まで競争だ!




少なくとも2011年の今現在

これらの方法に従うことで楽に生きられると思う。





でもそれは「従うことができれば」の話。





つの方法としてまとめられた人生訓は

実際、どこの場でも目にする。

人生論」でも、「大往生」でも、「論語」でも、「エセー」でも、「徒然草」でもなんでもいい

長く広く読まれている「人生の教え」的な本を読んでると

最後にはだいたい前の8つくらいに収まる

(代わりにどっかの社長の話を聞いてもいいし、テレビ美輪明宏さんの話を聞いてもいい)。

昔の人は偉いなあと思う。




そういう感じの本はいろいろ読んだ気がする。

もちろん、まだまだ読み足りない。

なにせぼくはまだ今年から活字に触れはじめたばっかりだ。

きっと死ぬまで読んでも読み足りないのだけど

個人的には、ぼくの考えを

そういう本が「間違っている」と指摘してくれることを期待して

かばうんざりしながらもそういう本を読んでいた。




今のところ、ぼくの考えを「否定してくれる」本は見つからない。

いや、正確に言うと、否定してくれはするけども

それが納得できないのだ。

ぼくの読解能力がないだけならそれでいいんだけど

もしヒマならちょっとぼくの考えを聞いてほしい。






まず1つめのウソ

ぼくが言いたいのは

すべての人間がこれらの方法を実行するのは不可能だということだ。






古今東西のえらい人がみんな同じ結論にたどりつくなら

さっさとそれを実行すればいいのに

なんで同じ内容の本ばっかり書かれていくんだろう。

なんで大昔の本が現在ぼくらの胸に響くのかと聞かれたら

それが人間全体に広くみられる普遍的な問題だからじゃないかなあと思うけど

じゃあ、なんでその普遍的な問題が

大昔から今まで解決されないままなんだろう。




般若心経の新訳を読んだ。

あれもやっぱり8つの方法の言い換えみたいなもんだ。

聖書だってそんなに変わらないかもしれない。

ぼくらはなんで2000年も前の真理がいまだに実行できないの?






そりゃあれじゃないの?

本などの論理的なものほとんど触れないような

感覚で生きている人がすごく多いからじゃないの?






父ちゃんは「男はつらいよシリーズ」が好きで

こないだシリーズDVDツタヤで片っ端から借りてきて

大笑いしながら観ていた。



その中の一作で寅さんの「おいちゃん」が

実は若い頃は文学をやりたいと思っていたと話すシーンがある。



おいちゃんは父親にこう言われたらしい。





「団子屋に文学なんか必要ない」





男はつらいよシリーズフィクションだけれど、

しかに団子屋に文学はべつに必須ではないとおもう。

団子屋は文字より数字数字より団子が読めればいい。

団子屋が文字を読む必要がないなら、

本なんてまったく読まない人がいてもおかしくないんじゃないだろうか。





これは団子屋だけの問題か?





勉強するくらいなら技術を磨けと教えられた人は

かなり多く存在してるんじゃないのか?

それでなんの不自由もなく生きていけたなら

感覚だけで生きていくことを恥じることもない。

それどころか、論理的なことをバカにさえするかもしれない。




ぼくのお父ちゃん電気会社に勤めている。

難しいことはわからない。

バック・トゥ・ザ・フューチャーを何十回も観てるのに

なにがどうなっているのかいまだに理解できてない。

過去に戻ったり未来に行ったりすると

物語の内容がつかめなくなる。



でもそれがどうした?

父ちゃん電気会社に勤めている。

たんまり儲けている。家族を養っている。

バック・トゥ・ザ・フューチャー理屈がわからなくてもなんの不自由もない。




熱心な仏教徒

敬虔キリスト教徒のうちで

その「教え」に追随する人はいったい何人いるの?



わかりにくいな…。

例えば新興宗教信仰者なんかだと

ただ一つの「救われた経験」を足がかりにして

熱心に信仰する場合があるみたいだけど

その最初の救いを信じていたら

つのまにか犯罪者の仲間入りをしていたことだってあるみたいだ

オウム真理教の元信者のそういうエピソードを読んだことがある)。




大昔の日本の百姓のいったいどれだけが

仏教意図を理解していたんだろう。

念仏を唱えれば救われる」って

そそのかされただけじゃないのか?




文学がわからない団子屋。

バック・トゥ・ザ・フューチャーがわからないお父ちゃん

教えがわからない「熱心な」信仰者。

念仏を唱えるだけの百姓。

そういう人たちがいるかもしれないと思ったことは?




まり、ぼくが言いたいのは

人生を楽に生きる(たった)8つの方法でさえ

読めない人がいるかもしれないということだ。

読んだ人に待ち受けているのは

やるかやらないかの差でしかない。

でも、読んでない人はどうすりゃいい?

つの方法論理的にほとんど正しい気がする。

で、その論理を理解できなかったら?ほったらかし?



ぼくは8つの方法を否定したいわけじゃない。

くり返し言うけど、これらを全ての人間が理解して実践できたら

そりゃあもう素晴らしいことになるとおもう。



でも、現実はそうじゃない。

つの方法をはじめとする人生訓が何を語っているか、よりも

何を語っていないかをもっとよく考えたほうがいい。

この人生訓がなぜいいのかということを

絶望的なまでに理解できない人がいる。

そういう人たちは人生訓が提示されるたびに足場が少なくなっていく。

要するに勉強ができない、感覚で生きている人たちをないがしろにしているのだ。

このたぐいの人生訓すべてが。

掛け算までしかからない子どもに、方程式の素晴らしさを説いているようなもんだ。

上から目線で「こうしたらいいのに」と言ってしまってることになる。

いつまでも掛け算のところでつまづいて

文句ばっかり言ってる子どもはほったらかして先に授業を進めるべきなの?

掛け算のところに戻って教えなおしたほうがいいんじゃないの?




やっと言いたいことの一つが終わった。

冗長になりそうだけど

もうひとつ言いたいことがある。

更に絶望的な想定だ。






理論としては正しいのに極少数の勝ち組しかトクにならない?







さて、こんな文句をどこかで見たことがあるだろうか。

  • 時間は戻ってこない。目の前のことに集中しよう。(今に生きる 以下ry
  • 現実は甘くない。
  • 人のせいにしない。自分の態度を改めよう。
  • 自分ごまかさない。自分うそをつかない。
  • あなたがいなくても代わりはいます
  • 他人の選択で自分が困っても泣かない。
  • 責任を取りなさい。
  • 運、不運のせいにしない。





つの方法をもうちょい過激に言い換えてみた

(まちがってたら言ってください)。

なんかさぁ…

内容自体はそんなに変わらないのに

急にうっとうしくなった気がしない?



どこかで見たことあるなあ…

これどこで見たんやろう…

ああ、そうか






就活の時の企業パンフレットに載ってたわ。





「これ、うちの経営理念やわ」っていう人いる?

こういうことを上司先生や親に言われて

「だから頑張れ」で締めくくられて説教されたことある

その時どんな気分がした?

殺したくなった?

泣きたくなった?



人生を楽に生きる8つの方法

その2つめのウソにして、絶望的な想定はこれである

正義づらした誰かに強制されるのだ。

それが「楽に生きる」とは真逆の事態を連れてくる。

底辺を鼓舞搾取)するための大義名分になってしまう。

ぼくみたいなゴミクズ人間はそのことがよくわかる

(このたぐいの説教は何回も何回も聞かされているから)。

から近づきたくないのだ、こういう人生訓には。

うんざりするのだ。自己嫌悪するのだ。



この想定のたちの悪いところは

その大義名分が「間違ってない」というところだ。

誤解なら間違ってると指摘することはできるけど

これは単に曲解しかない。

各々の解釈の違いでしかない。



冒頭に述べたとおり、8つの方法

ほぼ正しいと思う。楽に生きるためならね。

え?

間違ってないなら実行できない人が無能怠惰なんだから仕方ないって?



wikipediaによると2009年の時点で日本ニート総数63万人

しかだんだん増えている。

彼らがみんな死んでしまえばいいと思うの?

賢くて強い人だけ生き残ればいいと思ってるの?

ニートだけじゃない。実際働いている人でも

これらの大義名分に苦しめられている人はいると思う

(実際これだけの説教レパートリーがあれば人格破壊するには充分すぎるとおもう)。


1つめのウソで挙げた、感覚で生きている人を合わせると

この方法に従えない人はかなり多いんじゃないかと思う

統計を出すつもりはないけど)。




1つめのウソで言及しているような

感覚で生きていて、なおかつこういう人生訓に苦しめられている代表選手

DQNとか低学歴低賃金職人とか派遣社員とかだ。


2つめのウソで言及しているような

搾取され支配され無能呼ばわりされている代表選手

ニートとかひきこもりとか普通会社員とかだ。



こういう人たちはまとめて死ぬべきなのか?

損する人のほうが多くないか



そう考えたら、「人生を楽に生きる8つの方法」が最後の答えだと思えない。

この考え方を否定してもらいたくてそういう本を読んでいた。

でも納得できない。

これでは救いにならない。

でもいつまでも状況に進展がない。

だれか否定してくれよ。

「おまえ間違ってるよ!」って。




1つめのウソについては別の解決策が見当たらないし探そうともしてないけど

(ぼくは感覚で生きる人間ではないからあまり真剣になれない)

2つめのウソはぼくにとっては生死に関わるまさに死活問題だ。

そして、その解決策をこの場で披露することを許していただきたい。




働きたくない働きたくない働きたくない

枠組みを作ろうと思う。

ぼくみたいなクズ人間ものほほんと生きていける枠組みだ。

ほとんど働かなくてもいいような枠組み。

楽観的な言い方をすると、これは収益を生み出せるかもしれない。

そうして、口やかましい人たちを黙らせる

(ぼくはこれが実現できないとリアルに死ぬしかなくなる)。

http://auauai.tumblr.com/post/9080858048

幸せものさしの種類がもっとあってもいいと言うのなら

生き方の種類だってもっとたくさんあってもいいはずだ。




これはブログでも書いてるけど

やりたいことはphaさんのギークハウス構想に似てると思う。



クズ人間を数人集めて家を借りよう。

クズ人間がお互いのクズ性を認めあう場所だ。

クズであることを糾弾されないリアル空間だ。

リア充は入っちゃいけない。怖いから。

ネットのような優しい空間であることを目指す。

優しくて閉鎖的な空間だ。

個人的にはなるべく一人でいたいんだけどそのためのコストが高い。

でも家の外にはクズ人間の敵がわんさかいる。

そういう人と連帯を組むことはしたくない。

じゃあ、ぼくが怖がらずに近づけるのは

同じ穴のムジナであるしかいない。

落伍者うつ病患者社会不適合者、怠け者…

そういう人たちととりあえずお互いを認め合う。

自信を少しずつ取り戻す。

まずはそこからだ。

だって生きていていいんだという相互理解をつくることだ。




心底、世の中に絶望していた。

人生訓の本にはそうあるべき人の生き方が載ってたけど

どれも納得できなかった。





太宰治とかの救われない小説

共感をもたらしてはくれたけど

やっぱり現実はしんどいままだった。





鴨長明吉田兼好良寛みたいに

山の中に草庵でも建てて住もうと本気で思っていた

(いまでもその選択肢を考えてる)。





いくら本を読んでも

現在の恐怖と、わずか数年後の不安を解決してくれるものすらなかった。






でも最近考え方が変わった。

それもやはり本を読んで変わった

(次に挙げるだめ連の本とはまた違う本だ)。






だめ連の本によると

一人の時に負うコストリスク労働量も精神的負荷も、

連帯すると分散される(当たり前か)。

家賃10万円の家を10人で借りたら一人1万円だ。そういうことだ。

だめ連はけっこうハチャメチャなことをやってたみたいだし

近隣の人の援助もあったらしい。

それはちょっとできるかどうかわからない。

でもぼくらにはインターネットというツールがある。

それもだめ連の時よりも更に強力に整備、普及されたものだ。



ニコニコ動画の「歌ってみた」からプロデビューする人がいたり

レゴ作って2chスレ立てるだけでプロビルダーになる人がいたり

自分の顔を毎日撮って繋げただけの動画Youtubeで何万再生もされたり

「ありがとごじゃいます」って歌って動画として公開するだけでテレビに出演できたり



要するに「好き」とか「やってみた」とかの

草の根レベルのちょっとしたアイディアを発表するだけで

負け犬から注目される人になる可能性がぐんと高くなっている。

ということは

そういうしょーもないアイディア収益化する可能性があるのだ。



リスクコストのかからなくて

ちょっとでもおもしろそうなことはなんでもやってみりゃいいのだ。

社会不適合者が集まっているということだけでもちょっとおもしろいかもしれない。



誰が許さなくても本当は関係ないんだよね。

自分が感じる心苦しさより欲求が勝てば、そっちの選択のほうがワクワクするものなはず



冒頭のまとめスレにはこんなレスもある。

心苦しさを飛び越えるほどの、欲求があればぼくらは動ける。

外にある楽しいことに手を出すのは怖いしめんどくさいけど

ネトゲくらいならちょっとやってみようかなーなんて思える。



とりあえずヒマならその家に集まってみて

生きるのに向いてない人がリラックスできる場をつくる。

なんかちょっとやる気出たり、アイディアわいてきたら

そういう人たちの「好き」とか「アイディア」を片手間でネットに発信してみる

(ぼくもいくつかアイディアがある)






奇しくもこの考え方は

人生を楽に生きる8つの方法の6つめに従ったやり方だ。

楽しいことだけを追い求めて生きていくことが可能かどうか確かめたいのだ。



収益化ができてしまえばあとはどうとでもなる。

しかし、生きるのに向いてない人がラクになれる場所

SNSでの付き合いで世界のツラさを「ごまかす」だけじゃない場所だ)

これができるだけでも意味はあると思う。



もうだから早く家借りよう。

とりあえず、ツイッターmixiメールかなんでもいいから連絡をください。

http://twitter.com/yukkun1986/

http://mixi.jp/show_profile.pl?id=25533767&from=navi

breed0902@gmail.com

ぼくは幸運なことに個人情報晒すことはあまり怖くない

(悪いことをまったくやってないってことじゃないけど)。

これが実現できないと絶望するしかない。

ぼくにとっては個人情報なんか出し惜しみしてる場合じゃない。



ぼくらクズ人間同士でつながろう。

もうイヤやねん。働きたくないねん。怖すぎるねんこの世界

たすけてくれよ。「私も怖かった」って言ってくれよ。

怖いよねー(*´・ω・`)(´・ω・`*)ネーって慰め合おうよ。

別に住まんでもいいのよ家には

慰めとか遊びとかアイディアの拠点にするねん。

もう疲れた。

もう待てない。

もう泣きたくない。

誰かが泣くのも見たくない。

ぼくが許せないのは自分と誰かが死ぬことそれだけだ。

きみは死ぬな。

どんなに腐ったような人間でもかまわんから生きてよ。

ぼくだって生きててもなんの価値もない。

それでも生きれるようにしたいのよ。

ぼくもきみも。

これがぼくらの「楽に生きるための一つの方法」じゃないかと思うんだ。




追記

コメントに返事を書く!


なげーよ。

ごめんなさい。短くしようともしてませんでした。

短く的確に書ければいいなと思います

書いていくだけでその練習になればいいななどと虫のいいことを思ってます


誰も強制してないし、できない奴を馬鹿にしてもいない。自意識過剰自分以下を眺めて満足したいだけでは?/「5. 自分がいなくても世界は回る」の「自分」は語り手を選ばないからこそ「楽」につながる

途中で途切れてしまうのでトラックバックとして書きます

2011-08-17

地震起こしたのは私です

告白します。

地震を起こしたのは私です

正直、すまんかった。今は反省している

話は去年の3月にまでさかのぼる。

大学をやめるかどうか先延ばしにし続けて一年が経っていた。

意を決して復帰すると言った。でも、言った直後からもう大学に行く気などとうに失せていた。

だがそれを隠してマンションを決め、小遣いをせびり、自由な生活を手に入れた。

それから地獄天国毎日入れ替わるような日々を送ることになった。

躁と欝の波が絶え間なく押し寄せてくる。死にたいと思った次の瞬間には生命の喜び、生きる喜びを感じて笑い出す始末。

何をやってもすぐにやめ、うまくいかないと周りのものに当り散らし、思いつきで高額な商品を買いまくり、ついにはクレジットカードにも手を出す。

理想現実どころか、何が理想で何が現実なのかも分からなくなり、ついには真剣に死ぬことを想うようになる。

そして10月電話してきた親に「もう会いたくないか電話しないでくれ」と蚊の鳴くような声で伝える。家族旅行を計画していた父が電話の向こうで泣き始めた。

いたたまれなくなって帰省を決意、しか死にたいという想いは日に日に強くなっていく。

親にクレジットのことなどを明かし、自分病気かもしれないと告げると、精神科をすすめられた。

結局休学の口実になるから精神病自分を演じるようになる。のらりくらりと治るんだか治らないんだかよく分からない説明。

薬を出され、これで立派な精神病患者の仲間入りとウキウキするも、考えることはオーバードーズでどうやって死ねるかということだけ。

年末が近づく頃になって、いままで大事にしていたものを処分し始める。ノートパソコンゲーム機段ボール箱4箱分の本、アルバム写真日記

家族に隠れてこっそりシュレッダーにかけ、夜中にゴミを捨てに行く日々。

すっきりした部屋を見た妹が気づく。もしかして何か変なこと考えているのではと。笑ってごまかす。

年が明けるともう毎日が死ぬ方法ネット検索する日々になる。

1月末には突然猛烈な寒気に襲われ何年もひいたことのない風邪を引く。これで死ねたらと思う。

2月3月はやけくそな気分を誰かに知ってもらいたくて匿名コミュニティ上でだれかれ構わず意見を垂れ流す。

少しでも叩かれると感情的に反応し、人格否定、殺す死ね罵倒、一時間に50回以上も投稿し続け、手が動かなくなっても目が真っ赤に充血しても深夜だろうが早朝だろうが構わず相手を否定し続けた。

目が覚めると死にたい、死ぬの投稿。我に返り謝ってみるが、すぐに怒りの感情が溢れてきて人格否定。

そうして、あの日がやってきた。

思えばあの日までい鬱積した自分ネガティブエネルギー臨界点をとうに越えてしまっていたんだと思う。

死ぬ気はあっても死ぬことが出来ない、家を出てのたれ死ぬという選択肢をとることも出来ない、いつまでも甘えて他人をのろい続けることしか出来ない自分エネルギーが、地震という形で世界に反映された結果なんだ。

ぬことが出来なかったのは自分がまだ自分人生を生き切っていないからだと思う。それなのに死にたいと唱え続けたから、地震が引き起こされたくさんの人々が死ぬというヴィジョンによって死への欲望が満たされた。そう考えるとあの地震がとても理解しやすくなる。

東京マグニチュード8.0というアニメは、主人公の少女世界崩壊を望んだことから地震が起きるという描写がある。もちろん本当にそういう設定であったのかは謎だが、このアニメを知っていたことが、今回の地震という表現に繋がっているとは考えられないこともない。ましてやあのアニメも今回の地震も、とてつもない大地震という点で一致している。

地震が起きたとき今まで家族バラバラだったのがきちんと揃っていたのも、偶然とは思えない。あの日を選んで自分地震を起こし、家族には危害が及ばないよう調整したとしか考えられない。

あれ以来、なぜか死のうという考え方はすっかりなくなってしまった。

死に対して興味を抱かなくなった。そこらじゅうで人は死んでいるし、別に何もなくなって人間はいつか死ぬ。そう思うと、自ら命を絶つことがとても馬鹿らしく思えるようになった。

やはり地震を起こしたのは私なんだろう。

私が作り出した現実にいる私が作り出した人々には申し訳ないことをした。

2011-08-16

新しいことにチャレンジすることをやめると、魂の力は弱くなり、邪心が出たり、よからぬことに手を染めたり、悩みが増えたりするもの。だから未知の何かに取り組むようにする。日常生活でも、駅までの道を変えたり、難しめの本を読んだり、新料理に挑戦したりと、一工夫。

新しいことにチャレンジすることをやめると、

魂の力は弱くなり、

邪心が出たり、

からぬことに

手を染めたり、

悩みが、

増えたりするもの

から

未知の何かに取り組むようにする。

日常生活でも、

駅までの

道を変えたり

難しめの

本を

読んだり、

料理に挑戦したりと、

一工夫

2011-08-15

誰も死なせないために、ネガコメ論争について考えることをやめない。

ネガティブなことは言ってはいけないのか」論争に終止符を打ちたい

http://anond.hatelabo.jp/20110813021554を書いたものです


たくさんのコメントブックマークありがとうございます

もうちょっと書きたいことがあるので書きます


コメントトラックバックの様子を見ていた。

ぼくらはけっこう慎重なもんで、

「○○についてどう思う?」という問いかけを目にすると

「ああい場合もあるし、こういう場合もあるんじゃないか

という考え方に持っていこうとする。


じっさいそれは素晴らしいことだとおもう。

なにか大きな疑問があって、それに対して必ず正解があると考えることのほうが危険なのかもしれない。

もっと優しく、賢く、謙虚になろうと思ったら、自分勝手に結論をゴリ押ししないで

あまねく人と可能な限りとことん話し合うほうがいいのかもしれない。

そういうのをなんて言う?構造主義的?

現在属している共同体文化価値観に従って決定することを避けられないから、

ぼくたちはとんでもない誤りを犯している可能性が常にある。

慎重に慎重を重ねても、結論を出すのに「慎重になりすぎる」ということはないのかもしれない。


しかし、ぼくはもう待てない。

そうこうしてるあいだに誰かが死んでいるかもしれないから。


間違った部分を一つ一つ改善することなしに(長期的な)幸せなどあるものか。

というコメントを頂いた。

ぼくは長期的な幸せを望む。

間違った部分とは何か、という疑問についてはもっと考える余地があるかもしれないが、

ぼくたちはおそらくみんながみんな、

なるべく誤魔化しや、

その場しのぎでない、

恒久的、

永続的な幸せを望んでいると思う。


しかしたら、前回の増田で例に挙げた、世界の多様性を示す例(ニューギニアアフリカの話)は

「間違った部分」なのかもしれない。根絶すべき人間の悪性なのかもしれない。


よく考えてみてほしい。


ナチスユダヤ人大量虐殺は「世界の多様性」と言ってしまっていいのだろうか?

9.11の同時多発テロは他人が介入すべきでない文化なのだろうか?


こういう例は枚挙にいとまがない。

うーん。そういうことにYESと言える人はあまりいないような気がする。

基本的人権というシールが、いつからか(先進国の人が考える)全ての人にへばりつくようになった。

このシール大事にする人は、生きていい人と死んでいい人という区別があるのは認められないと言って、

テロジェノサイドを非難するような気がする。


慎重に慎重を重ねてものを言うなら、

「人を殺してはいけない」という価値観ですら狭い考え方でしかいかもしれないし、

それにもし、第二次世界大戦連合国側が負けていたなら、

「人を殺してもいいじゃん」という価値観が(先進国で)普通になっていたかもしれない。

そうじゃなくなったのは、人間の理性が悪を打ち破ったからではなくて、たまたまだという気がする。


奇しくも今日終戦記念日であるらしい。

ぼくは戦争のことなんてなにも知らないけど(体験してないのに知っていると言ってしまうのはウソである気がしてる)

戦争はいけない」という価値観を受容して(強制されて)生きている。

そんなぼくが「戦争してもいい」という価値観を持つ人のことを理解できるわけがない。

理解できると言ってしまうのはウソな気がする。


からぼくはいまの環境価値観に則って問題を考えてみよう。

戦争のことを知らないぼくが、戦争はいいとか悪いとか言っても説得力がないが、

少なくともぼくらは、大量虐殺はいけないと言ってもいい。テロはいけないと言ってもいい。

そう考えることしかできないと思う。


さて、間違った部分とはなにか?

ネガティブな発言を減らしていくということは、

間違った部分を正していく行為なのかもしれない。

それが長期的な幸せを作っていくのかもしれない。


ぼくが言いたいのは、

ネガティブな発言をしてはいけない」という社会的合意が先鋭化されて、

ネガティブな発言をやめられない人は生きていてはいけない」という主張に変わり、

実際に人が死んでいるかもしれないということだ。


もう一度言うが、ぼくは長期的な幸せを望む。

ネガティブな発言をみんながやめられるということが

少なくともぼくらの共同体では正しいことならば、そうする方が望ましい。

ハッタリの幸せはいらない。

しかし、短期的にはその考え方のせいで人が死んでいるかもしれないということならば

話は別だ。


ぼくらは結局わかりにくいやり方で人を殺しているとおもう。

いちばん救われるべきだった弱いあの人を、ぼくらみんなが団結して殺した。

死因は自殺で、直接手を下したのはその人自身だったとしてもだ。


それはちょっと考え方が突飛すぎるだろうか?

考え過ぎだろうか?自意識過剰だろうか?

そうであるならばそれが一番いい。

ぼくひとりが間違っているのなら、それでいい。

殺されている人はいないのだから


自己責任が重視される社会

がんばらなければいけない社会

他人を傷つけるくらいなら自分を責める人がいて

自分が傷つくくらいなら他人を責める人もいる。

かなりの人が閉塞感を覚えているのだけど、その社会を選んだ(選ばされた)のはぼくらである

民主主義によって、多数決でこの社会が選ばれた。少数派を殺そうという選択だ。


最近はもう少数派と呼べるほど無視できる数ではなくなっている。

弱い人が、

虐げられた人が、

ネガティブな発言をやめられない人がどんどんどんどん増えている。

その問題を優しくて、賢くて、謙虚な人たちがどうすればいいかとうんうん考え込んでいる。

はてな民」たちはそういう人たちだと思っている。ありがたい。


しかし、あーでもないこーでもないと選択を先延ばしにしている間にも

世界は止まることがない。

つねに何かが選択されて、何かが切り捨てられていく。

切り捨てられていく中に弱い人達が含まれている。

もう待てない。

ぼくは、こんなふうに話し合っていくことが、

いつか世の中全体を変えるだろうと思っていた。

弱者を救済するための装置として、ベーシック・インカムに期待していた。

もう待てない。


長期的な幸せもいいが、まずは人を殺さないでほしい。

がんばって死ぬくらいなら、がんばらないで生きてほしい。

地面をはいつくばって生きるしかない人にとどめを刺さないでほしい。

ぼくらは死ぬために生まれたとでもいうのか?


蛇足かもしれないけど、

資本主義社会というのは、言ってみれば個人の自由を最大限尊重する社会だ。(その代わり平等ではない)

逆に人の自由を最大限奪ってしまものは「死」だ。

なにしろ死体になってしまうと、自分ではなにもできなくなるからね。

まあ、だから個人の自由を認める気があるなら、

資本主義を持続させようとするなら、一番避けるべきは誰かを殺すことじゃないかと思う。


それで、ぼくは「ネガティブな発言をやめろ」という言い方は誰かを殺すかもしれないと思うし、

解決するためには慎重に考えて、こうやって話し合っていくことが長期的な幸せにつながるのかもしれないけど、

考えれば考えるほどその間に人が死んでいってるかもしれないと思っているのだ。


まず「殺さない」ということだけでも、先になんとか決定できないだろうか。

ぼくは非道い人間である

ネガティブ発言を許せない誰かが狂ってでも、殺すことはやめようと言っているのだから

その人はもしかしたら有能で、社会をより良くしてくれる救世主かもしれないが、

それでも誰かが死ぬことよりはマシだと思っているのだ。

理由は単純で、ネガティブ発言を許せない人よりも、

ネガティブ発言をやめられない人のほうがすぐ死んでしまいそうな「気がする」から

(どちらの側であっても心に余裕がないのかもしれないけど)。

ぼくは常に一番「死」に近そうな人の味方でありたい。

強い人は強い人で楽しんでくれたらいい。


ていうか、ぼくが殺されたくないからこんなこと書くんやけどね。

クズ人間であっても、最低限生きていることくらいは許してほしい。

すいません。言い方を変えます

ぼくを殺さないでください。


上から目線で「あーしろこーしろ」と言いたくない。

ほんとは殺さないことが人のあるべき姿かどうかなんて、ぼくにもよくわからない。

このままのペースで世界の人が増え続ければ、間違いなくエネルギーや食糧が枯渇するから

あんまり人は増えないほうがいいという説を読んだことがある。

死んでいく人が増えることはいいことなのかもしれない?

でもぼくは死にたくない。これ以上誰かが死ぬのも見たくない。


一番死に近い人にとって、生きながらえるための最後命綱が、

ネガティブ発言」に込められているかもしれないと思ったのだ。それを奪わないでほしい。

もっと前向きな解決法があったらいいなーと思うけど、

「こんなふうにしてみようよ☆(ゝω・)v」

と言われて、

自然に従えるほどぼくは素直じゃない。リア充怖い。

ぼくに必要なのは、一緒に泣いてくれる誰かだ。

後ろ向きなままでは前向きな方法は毒にさえなる。

まずは、死にそうな人を心穏やかにすることが先じゃないのかな。それも死ぬ前に。


ダメだ…支離滅裂ですいません。

これはちょっとさすがに自分でも意味がわからない。書けば書くほど冗長なだけになる。

http://d.hatena.ne.jp/yukkun1986/20110811/1313037111

ぼくのブログですが、よかったら補足程度に読んでください。

2011-08-14

http://anond.hatelabo.jp/20110814095124

自分も似たような感じ。

ただ、親より先に死ぬことほど親不孝なことはないだろうっていう申し訳なさで生きてる。

死にたい」系のことを第三者に話すと、親や友人、知人が悲しむからって決まり文句みたいに言うが、

自分と関わりを持った時点でその位覚悟していただきたいのだけど。

2011-08-13

死ね

東京直下で都内、神奈川埼玉の半数、千葉茨城の過密部の大半が死ねば、エネルギー需要は相当安定するだろう。

人間以外の動植物エネルギー消費はたいしたことないだろうから人間けがなるべく多く死ぬことが望ましい。

2011-08-10

日本で多数の一般ネットユーザーを相手にしたサービスをやるなら

2011-08-07

続き2

http://anond.hatelabo.jp/20110807224419

隠し子に母親はどうしているのかと聞きました。

母親は数年前に自殺した。それ以降は母方の実家暮らしている。

私が父親に面会を求めて無視された後、父が母に公衆電話から電話をかけてきて、

子供をよこすな、勝手に産んだくせになぜ関らせようとするか、そんな子供殺してしまえ』と罵倒していた。

母親は早い段階、おそらく出産以前から、私を産んだことが正しいことか間違いなのかとずっと苦悶して精神を病んでいた。

それに父親の反応が拍車をかけた。

私自身もまさか実の父親がそんなことを言うと思っていなかったから、絶望し、

母親になぜ望まれていないのに産んだのか、私は生まれてこなかった方が良かったではないかと問い詰めた。

母親は私を殺して自分も死のうと考えていたらしいが、手をかけられず、自分ひとりで死んだ。

存在してはならない人間を産んだ罪を犯した自責の念に堪えられない、というようなことを言っていたからそれが自殺の動機だ。」

「母が自殺して保険金が数百万おりた。自殺では保険に加入してから数年しないと保険金がおりないか保険金を与えるために自殺したわけではないと思うが、

母は早い段階から死を願望していたようだったから、もしものときのために私のために保険に入っていたのだと思う。」


「最終的な目標は父親に私を殺させること。殺さずにいられなくなるまで父親を徹底的に苦しめる。

実際父親は私への殺意で沸騰しているからちょっとしたきっかけがあれば手を下すだろう。

責任をとりたくないために実子を殺した殺人鬼として死ぬまで罪を背負わせる。」

「ただあなたたち母子に罪はない。

私が認知訴訟したために旦那・父親との絆を失ったことに対しては申し訳ないと思っているから、罪滅ぼしとしてひとついい手を提案する。

あなたが私と養子縁組して私に生命保険をかけて、受取人はあなたたち母子にしたらいい。

父親には受け取らせない。あなたが父親と共同ではなく単独で養子縁組すれば、あなたがた母子だけに私が死んだ時の保険金を受け取らせることができる。

旦那に私を殺すようそれとなくほのめかし続けろ。

それで旦那が私を本当に殺したら保険金が手に入るし、私がいなければ旦那の相続はすべてあなたがたのものになる。

それであなたから夫を、子供たちから父親を奪ったことの償いとさせてもらいたい。」

「これから徹底的に過去の父親の行状を世間に暴く。そのための材料はそろっている。

耐えかねた父親が私を衝動で殺したら、私もあなた方も願ったりだ。悪い提案じゃないでしょ?」



養子縁組なんて簡単にできるわけないでしょう、第一夫の同意がないと無理でしょうと言ったら、

「私が成人したら旦那と共同で養子縁組をする必要はない。旦那の同意は必要だが。

あなたが単独で養子縁組すれば私はあなた嫡出子になるが、父親にとって私は非嫡出子のままだ。

から父親の遺産相続も異母兄弟の半分にしかならない。

遺産狙いで私が提案しているわけではないことは分かるな。

どっちにせよ父親が死ぬころには非嫡出子相続分も嫡出子と同額になるからそもそもこの議論は無意味だし。

父親には『隠し子に保険金をかけておいて何かあれば受け取れるように準備しておく。

渋々認知したのだから怪我したり死んだりした時ぐらい役立ってもらいたい』と言って同意をもらえばいい。

そのことが頭の隅にあれば一層私を殺す衝動に駆られやすくなるかもしれないしな。

まああのクズは考えなしに暴力に訴える野獣だから、本当に私を殺すとなればそんなことまで計算せずに実行するはずなので、

あなた共犯者として疑われることもない。」

「旦那の同意を得るのが難しいなら娘が希望するとおり旦那と離婚して単身になってから養子縁組するのでもいい。

その場合旦那の同意は要らない。」


「まああなた嫡出子になればあなた相続は引き継ぐことになるが、

からこそあなたは『馬鹿な夫が孕ませて認知もしなかった隠し子をわが子として育てようとする慈悲ある母親

として世間に評価される。あなたデメリット一つもないでしょ?」


「今の提案を父親に話してもいいけど、父親がそれを聞いて策謀にはまらないために理性を働かせて私を殺そうとしなくなったら、

結局保険金を受け取れなくて損をするのはあんたたち母子だから、よく考えて旦那と交渉しろ」



自分の命を失ったら何も意味がないではないか、一体何が望みなのかと聞くと、

「父親が『お前なんて生まれてこなければよかった、いなくなれ』って何度も言っていた、聞いただろ?

母親も周りの人たちからずっと言われ続けてきた。

『父親から生まれてくるなと言われている子供を産むなんて無責任だ、間違っていた』と。

その罪に苛まれて母親自殺した。」


母親は十分私を作り生み出したことへの責任を果たし罪を償った。今度は父親の番だ。

私が発生したのは両親双方の責任だ。

母親は命をかけて責任を果たしたのに、父親がなにも責任を負わないのはおかしい。

お前なんて存在しなければよかったんだと自ら言っているんだから

存在すべきではない人間を作り出した罪を償うために、私を殺すべきだ。

中絶しろと再三言っていたんだ、母親の胎内にいるか外に出てきているかだけの違いであって、私を殺せと言っていることに変わりはない。

法律の網を拭って合法的に人殺しをしようとするなんて卑怯な真似は許さない。

父親自ら私を殺させる。それで初めて父親の罪は贖われる。」




「それと、妻であるあなた

あなたが隠し子を殺してくれて、私たちは手を汚さずに保険金を受け取ることができてラッキーだわ』

と嘲笑われた時の絶望感を体験させたい。

それはかつて父親が私の母親にやったことだ。

『俺は手を汚さずにお前が子供を殺して俺を責任から解放しろ』と奴は私の母親に言った。

どれだけ悔しかたか、同じ目にあわせてわからせる。」




認知養育費の支払いはもうするしかないと思います

財産のことも、弁護士に依頼して相談して決定します。

隠し子の母親とは連絡をつけられないという夫の発言は、母親自殺したことを隠すための嘘だったようです

私たち母子と夫はどうするべきなのか、分かりません。

夫は離婚したくないし子供たちを手放したくないと言っていますが、

娘は父親と縁を切りたい、介護もしたくないと言っています

隠し子を養子にすることについても、今はどうすべきか考えられないと言っています

隠し子の言うとおり、私たち母子は、夫に騙されていたのでしょうか?

また、隠し子の「私を父親に殺させる、あなたたち妻子は私と養子縁組して保険金を受け取れ」という考えに対して、どう対処したらいいのでしょうか?

2011-07-29

幸せになりたい

どうして苦しいことを認められなかったのか。

私の苦痛は私の苦痛であって他人には計れないはずでした。

だけど私は自分苦痛を見ようとしませんでした。

小学生の頃、道徳の授業で少年兵についてのビデオを観ました。

「かわいそう」でした。

人の世と隔たれた様なアフリカの小さな村での、矮小な自由から別の異質な自由を手に入れた彼等は、かわいそうでした。

彼等は学校に行けません。

彼等は人を愛せません。

彼等は私たちと同じじゃありません。

からかわいそうでした。

皆大体同じことを考えたと思います

今の社会では愛や希望と同じくらいに、他人の苦痛が氾濫しています

そして情報化のおかげで感情というよくわからないものが相対化され、値札がつくようになりました。

苦痛という感情もその一つです

彼等の苦痛と私たちの苦痛は同じ所に並べられません。

違うのです

単純に、彼等の苦痛が大きくて、私たちの苦痛が小さい。

周りの人も全然疑問は湧いてないようで、私もそう考えていました。

「苦しい」と言えば、

「お前より苦しい生活している人は一杯いる。」と言われ、

死にたい」と言えば、

「お前が死にたがっている今日は、昨日死んだ奴が生きたかった明日なんだ」と言われる。

そしてそんな言葉を口にすること自体が恥ずかしく思われる様になり、中二病なんて名前が付けられる程になりました。

私は小学生の時に太っていることを理由にいじめられていました。いじめと言っても一部のクラスメイトなどに「デブ」などと言われるくらいなのでまぁ大そうなものではありませんが。はっきりとではありませんがその頃、デブスポーツも出来ない私は全く価値の無い人間なのだと考えていたのですが、小学校高学年あたりでそのいじめはなくなりました。

理由は私の兄にありました。

私の兄は、かっこよくて、スポーツが出来て、私みたいに太っていなくて、そして、とてもユーモアのある人でした。

少し我の強い人でしたが、一緒に遊んだ時はなにかと私を笑わせてくれたのでその時の兄はとても好きでした。私はかっこよくないし、スポーツも出来ないけど、人を笑わせることなら出来るんじゃないか、と考えました。

実践してみれば簡単なことでした。

道化と化した私はクラスの人気者になりました。

その時は嬉しかったのです

変顔をするだけで笑ってくれるし、デブと言われても開き直ればそれでまた皆笑ってくれる。ああ、自分価値はここにあるんだなと思っていて、将来はお笑い芸人になろう、などと考えていました。

今思えばここが間違いだった、と感じています

道化見世物です。故に私という存在は指をさされ、馬鹿にされ、笑われるべき存在です

そしてそのピエロは観客の嘲笑に包まれた喜びを糧に生きていくのです

私は見世物として存在することに慣れました。

人の好奇心は底が無く、少しタガが外れれば面白いことならなんでもいい、と考えてしまます。要するに、面白ければ私には何をしてもいい、という結論に至るのです

私はそれを苦痛だと考えませんでした。

周りの人が笑ってくれることが喜びであり、それが快感でした。

ただ、やはり好奇心というものは一か所に止まらずに色んな方向に向くもので、自分では飽き足らず、いじめや、危ないいたずらもするようになりました。

私はそれを見ているのがとても嫌いでした。

笑うべきは私の存在であり、どんな下らない罵倒でもそれを身に受けるのは私の専売特許のはずでした。私の生きがいを横取りされたような気持になりました。

しかしその時からいらぬ疑問を抱くようになりました。

他の人はいつも私がされていることを嫌がるのです

それは単純に、私は苦痛を喜びに変えただけであって、他人にとって苦痛はただの苦痛だったのですから

私は本当にうれしいのか?

中学生になり、地元学校だったので小学校ほとんどの生徒が同じ中学校入学しました。思春期ですのでこの頃から自分の体型にコンプレックスをもつようになり、友達部活の入部を勧められて、これは良い機会だと思い、サッカー部に入りました。

相変わらず私を知っている人達は私を私として扱います

そうするとやはり、私を知らない人達も私を私として扱うのです

わたしは結論しました。

自分はいじめられていると。

部活に入ったお陰で自分でも見違える程痩せることが出来ました。しかし二年生になってすぐやめてしまいました。原因はいじめもありますが、何より私はスポーツのセンスが無いようで、後輩に馬鹿にされるのがこわくてやめて、というのが一番でした。

こう書いていると私はいつも教室の隅に追いやられているような生徒に感じると思いますが、私は交友関係が広く、人気もそこそこありました。情けないことに、私こそ周りの人達と同様に私を私として存在させていたのです

何故なら、私はその私しか知らなかったかです。それに、今の私をやめてしまえば私の価値はどうなるのだろう、何か残るのだろうか、と考えていました。

中学生にもなると、いたずらなどを楽しむより、好奇心の側面としての、暴力的な行動が盛んになります。それで中学二、三年生では私はサンドバックでした。どこかで会う度に殴られるようになり、私のクラスでは暴力をけしかけるような人はいなかったので、教室の外へ出るのが恐くなりました。

勿論初めのころは抵抗していました。しかし、毎日、毎時間と続く暴力と、自分が未だに道化でいるという立場のせいで怒りを露わにすることができないという下卑た矜持と、そして何より、彼等の私に対する態度に絶望しました。

私が少しふてくされると、彼等は「ごめん」と言ってくれました。しかしすぐにまた同じことをするのです。その度に彼等は謝り、謝罪という行為の中に含まれているであろう自省や克己を蔑ろにして、5分前の誓約を堂々と捨てるのです

一度、本気で怒ったことがありました。その日は珍しく喧嘩別れになったのですが、翌日にその人物は私に少し沈鬱な面持ちで謝罪してきました。私はその言葉を信じていました。しかしその翌日には何も変わってない、彼等と私の関係が在るだけで、自分が激怒した様子を真似された時は、名状しがたい、確かな殺意と、他人に対する恐怖と、途方もない呆れがないまぜになった感情で吐きそうになりました。その時、自分は人に怒ることはやめて、諦念が纏わりつくようになりました。

ただの暴力一部の人間には大変興が乗るようですが、大半の人は一歩引くのが普通であって、いくらなんでも、やり過ぎではないのか、何故こんなことをするのかと聞くことにしました。この頃は最早彼等の前での私が思う私はただのいじめられっ子でした。

彼等いわく「お前を見ているとむかつくから」とのことでした。

なるほど私を見ていると苛立つのですかそうですか、じゃあ私はどうすればいいのだろうか、私という存在がむかつくのですかじゃあ私が消えればいいのですね。

彼等は私を少しも憎んでいないというのは知っていました。週末になれば遊んだりもするし、私を殴る以外にもコミュニケーションをとろうとするからです。一方私は殺意を持っていましたが、彼等に対する好意も持ち合わせていました。何故なら、暴力的じゃない彼等は面白くて、自分と対話してくれるからです。そして彼等は私をいじめていると考えていないのです

限界はどうしても来てしまものです。三年生頃には、家に帰って布団の中で泣くことが多くなりました。何故自分がこんな目に、自分は悪くない、やりかえそう、殺そう、という感情が渦巻くのですが、不思議なことに翌朝になると何事もなかったかの様にすっきりとしてしまうのです。一人で絶望を反芻する度に決意し、忘れる、ということを繰り返していました。同時に、私は学生生活を楽しんでいました。私でいることを楽しんでいたのです

そして学校面白い奴でいる私と家で惨めに布団にくるまって泣いている私とで、完全に乖離しました。

しかし私は希望も持っていました。自分の様子が変だと気付いた母親に尋ねられ、私は「馬鹿で嫌なやつがいる」とだけ言いました。すると母は、高校生にもなればそんなやつはいなくなる、と言ったので、私はなるほどと思い、多少の虚脱感と戦いながら勉強に励みました。高校生になれば自分は変われる、と信じながら。

勉強のお陰で、それなりの、県内で指五本のうちに入るか入らないかというレベルの高校に入学出来ました。少し離れたところにあり、何より自分日常的に殴っていた人達はその高校に全くいなかったのでとても喜びました。

人格は変えることができませんが、キャラのようなものなら簡単に変えられると思っていました。しかし私はそこでも私を私として存在させたのです

何故そんなことをするのか、私はいつまでも子供ではなく、自分の思考、行動の原因がわかるような年齢になりました。

かわいそうな自分が好きでしょうがない。

私なりの結論でした。

そしてそれは正鵠を得ていました。

教科書を破られたり、靴を捨てられたり、落書きされたり、チョークを食べさせられたり。一日そんなことが無いと、何故か残念な気持ちになるのです。そして、私が望んだ苦痛を与えられると、不快感情と同時に、安心できるのです高校生にもなって、いじめられている悲劇的な私が好きなのです。皆から同情の目線で見られている私が好きで好きでしょうがないのですしか絶望します。私は変わることができなかった。私は悪くないのに惨めなままだ、それは他人が無知蒙昧であるからだと怨み言が頭に並びます

この頃、自殺願望がありました。しかし実際は死にたくなどありませんでした。何故なら私はまた、今の私を楽しんでいたのです

高校三年生頃になると、受験シーズンとなり皆が勉強に励むのですが、私は中学生の頃の 様に大学希望を持つことが出来ませんでした。それ以前に、普段の勉強からしてやる気になりませんでした。たまにやる気になって休み時間などに勉強していても、クラスの人が辞書を投げてきたり教科書を濡らされたりして勉強になりませんでした。

全てが嫌でした。

それなのにクラス委員などに就いている自分が嫌でした。

苦痛を期待している自分が嫌でした。

惨めに耐えているだけの自分が嫌でした。

友達と楽しく会話している自分が嫌でした。

こんな恥ずかしいことで頭がいっぱいになっている自分が嫌でした。

死にたい、とか、何故生きているのか、とかは子供が持つ感情であり、十八にもなった男子が持つべ感情じゃないのです。何より私は毎日学校に通えて、屋根のある家で寝食が出来て、家族がいるので、とても恵まれた人生を送っているのです

私より不幸な人は世界中にいっぱいいるのです。私は、私の苦痛を認めることなど許しは出来ないのです

二律背反の、板挟みの状態がずっと続きました。

学校で笑います。家に帰って泣きます。猿の様に自慰します。寝ます。さっぱりして学校に行きます。この頃は寝ることと自慰行為が喜びでした。

私はそれでも狂えない。皆の前では面白いやつで、先生の前では立派なクラス委員ですおかしいはずなんです。頭が焼き切れるはずなんです

それでも私は理性的です。生きているのです

しかし生きることを望みたくないのです。私が悲劇であるためには。

生きることも、死ぬことも、選びとらずに責任を放棄したのです

結局これが私の思春期の全てでした。

大学生になりました。

冬に勉強をそこそこにして、なんとか国立大学に入り、親の前での面子を保たせました。

大学は県外で、更に海を渡ったので、実家に帰るにも一苦労なところまで来ました。と言っても別にその大学に行きたかった訳でなく、県外であり、かつ自分学力で行ける範疇大学を選んだだけでした。やりたいことも無ければ、大学生の遊びを謳歌したいわけではなく、またしても選ぶことをやめたのでこの結果になったということでした。

大学生活の一番初めの感想は、喪失感でした。

大学生にもなり、皆、落ち着いた行動をしている。それに慣れていなかったので戸惑ったのと同時に、自分の知っている自分がいないことに気付きました。

最早かわいそうな私はいないのです

かわいそうな私を求める人はいないのです

随分と薄っぺらい絶望が全身を覆います

大学では色んな人が色んなとこからます

しかし確実に私と違うところがありました。

彼等は正常でした。

彼等には目的があり、良心があり、喜びがあり、夢があるのです

彼等は目を輝かせて自分の将来を語るのです

彼等は何の疑問を持たず勉学に励むのです

思い切り殴られた時より、制服をびりびりに裂かれた時より、この目を見るのが苦痛でした。

苦痛の得ることの出来ない私は、更に酷く、目を覆いたくなるようなことをするようになりました。

自分苦痛を認めずに、自分いじめ人間に同情をし始めました。彼等を誰も止められなかったのがいけないのだ、彼等の行いは環境のせいでありもし自分が彼等ならば同じことをしていた、と。傍観して楽しんでいた人達も同様に立場が逆なら私もそうするだろう、と。

苦痛の無いことが私には苦痛なのだ、苦痛を失えば私は私でいられないのだ、と。

現在私は大学二年生になり、成人を迎えました。

使用期限の過ぎた苦痛に、記号と化してしまった過去苦痛に相変わらず縋りついています

行きたくは無かったのですが、身体が限界の様なので、最近になって心療内科に行ってみました。どうやらパニック障害のようですしかしその症状は殆どからあるもので私には馴染み深いものでした。この機会に精神科に行こうか、とも考えたのですが、この頭を治す気にはなってないのでやめておきました。

すぐに三年生になり、就活が始まります

私は毎日働いて生きていくことに魅力を感じませんが死にたくはありません。生を望み、相も変わらず自慰をして寝る生活です

結局私はいつまでも私なのです。変わることなど出来ませんし、忘れることも出来ません。意志も薄弱で、一人の大人としての責任も持てません。

しかし案外明日には希望を持って歩き出すかもしれませんし、誰かと衝撃的な出会いをして価値観が180度変わるかもしれません。

こんな人間になってしまいました。多分私は誰かに決めて貰うのを待っているのでしょう。そしてわかったような顔をして卑下をしながら斜に構えていればいいと考えるのでしょう。

私の苦痛は私だけのものです。他の不幸や苦痛と秤にかけることなど出来ないんだ!、とでも思えばよかったかもしれません。

でも結局子供ですし、そんな考えにはなかなか辿りつきませんよね。大変です人生は。

なんか最後の方で口調が変わっている気がしますし、長ったらしく冗長とした文をたっぷりと書きましたがこれもオナニー好きな私のオナニーです。不幸自慢みたいなのって気持ちいいですよね。書いたら少しすっきりしました。何も解決してませんが。

それよりとにかく幸せになりたいです。でも私の求める幸せがよくわかりません。

こんなクソッタレはもうダメですかね?

2011-07-26

恐ろしいものを見ているようだ。

政治家とは国民の信によって立つもの

政治とは国民のためのもの

国民に対し約束したことができなければ、信を裏切ったことに対し報いを受けるもの

それは信を失うことであり、つまり政治家として死ぬこである

既に菅直人国民の信を受けられる状況ではない。裏切って裏切って、

なお政治家として生きている『つもり』でいる。

言うまでもなく、既に死んでるのに。

ホラー映画だ。ヒーローは声援で復活するが、こいつは悲鳴や罵声で復活する。

出てくるだけで気味が悪い、恐ろしい怪物。言うなればゾンビ

ゾンビは、他者の生を羨んで、生命を奪おうとして襲ってくる。

菅というゾンビもそうだ。他の政治家の(主に民主党議員)と国民

生命が欲しくてしょうがない。

最近こいつが怖い。マジで怖い。

生の実感

今日、親から連絡が入った。もう限界らしい。

内容は聞いてないが、間違い無いだろう。父と母から連絡が入っているのだから間違いない。

しかし、仕事は決まらない。

大学を辞めた。

借金けが残った。

価値がない。

最善手が死ぬことだというのは明明白白だ。

しか死ねない。

が、家は出るべきだ。

ホームレス

日本においては日陰にいて人目についてはならない存在であり、新たな被差別部落民だ。

僕はそうなる。


思えば、受け身ばかりの人生だった。

何も創造的なことができず、インプットができてもアウトプットは乏しく、応用が利かず、不器用で、屑だった。

MARCH未満大東亜帝国以上の大学に進学したものの、就活に負けて意欲が減退し、卒論も書く手が止まりそれから一年天井を見ていた。

改善されるわけがなく、声とも似つかぬ音波で大学中退する旨を教授に申告する。教授は僕に期待していたのか、それともただの世辞なのか、今でもよく分からない。

よく褒められた。嬉しかった。でも、一度期待に応えることができなかったそれだけで息苦しくなり、死にたくなる。

もう教授最後の会話すら覚えていない。たった半年前なのに。


しかしたら、祖母に何かあったのかもしれない。

足を骨折してリハビリしていると聞く。震災以降、里帰りさえしていない。ましてや、祖母に顔を見せることなど、しようはずもない。

老齢の人が骨折すると、認知症を起こしがちらしい。

しかしたら、もしかするのかもしれない。

少し、胸が透く。

不快だ。祖母に何かあったと決め付けることで、自分を免責しようとしている。

ここまで堕落たか

ともあれ、頭の隅には入れておいていいだろう。


どのみち、屑なのだ。

出せる卒論も出さず、5年を無為に過ごした人間に、社会参与する資格はない。

企業人間だって、そんなクズを雇いたいとは思うわけがないだろう。

救いがたい。

免許も持っていない。癲癇なのだからこれはいいことだとは思っているが。

思っているが、それは重荷でしかない。

資格もない、取る気もしない、価値もない、生み出す気もない。


仕事に貴賎はないという。しかし、貴賎はないというが、あるだろう。

選り好みしてられる環境ではないし、選り好みしたっていいという意見もわかるが、許さないだろう、すべてが。

理想論が叶うなら、こんなところに身を窶してなどいない。

選別される覚悟で、選別しなければならない。

たとえ、ナチズムと言われようと。

しかし、私には選別する権限も、地位もない。

私は常に選別される。

私は選別された結果に、身をまかせるしかない。

それが、今の結果としての環境

あらゆる汚泥隠蔽し、露出を拒むその環境

その汚泥に埋伏するのが、私の結果。


埋もれる前に、生きた証を残せはしまいか

何も殺人をしようというわけではない。

しかし、私が生きていたという厳然たる事実を、残せはしまいか

石に名を刻むか。電磁位相投影させるか。

何か、ポジティブに、何かを残して笑って死ねる、そんな場はないか

しかし、一度踏み違えてはならない。

見方次第で、それは殺人と地続きだ。

モラルで留めよ。理性で留めよ。道徳は思想遺産。


親と連絡がつかない。

電話をかけても、連絡がつかない。

消える。親とのつながりから、私の記憶から世界から、私が消える。

虫っ子ひとつをたやすく殺す人間が、死に際に卑しく這いずり回る。

お前は蟻だ。

小学校の帰り道、何度踏みつけても死なずに逃げまわり、つま先に力を入れて踏めば軽く死ぬと学び、私が踏みつぶしてきた蟻だ。

お前は私だ、例外はない。


迷惑にかからず死ぬすべはない。すべては連鎖の只中に。

それは生きろという意味ではない。俺の見えないところで死ね、という率直な表現である

すなわち、死にたいならば、ホームレスのように死なねばならぬ。

鉄塊に投身などあってはならない。

そのような死の露出、生の証拠など、残してはならない。

酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出すよう、連続的に、無自覚かつ無意識に為されなければならない。

それが生死の狭間にあるべき姿なのだ。

死を知覚させてはならない。視圏に死を漂わせてはならない。


私は死ぬ。

お前も死ぬ。

苦しみ、安らかに、消え去よ。

2011-07-24

柴田大輔・映画監督について

今日さらっと柴田監督について小際しているサイトをご紹介します。

最近は、あまりニュースがありませんが、この機会にいろいろと人物としての監督を知ってもらうことができれば嬉しいですね。

今日一言

相撲は、全身全霊をかけた戦いであることを痛感した。絶対負けられない戦い。負けないためには全力で自身が持っていることをいかんなく発揮することであると言えるであろう。

そうして負けたとしても、それは負けではない。勝負に負けたが、相撲には勝ったそう言えるのではないだろうか。

上手を取られても、あきらめなかった。巻き返しての下手。そこから紙一重の技術を駆使して、もろ差しを勝ち得た。

きっと柴田大輔も映画世界に取り組むことを胸にこれからも全力で作品作りに心血を注ぐに違いない。

私はそう信じてやまない。そのように考えさせられた、大一番であったように思うのである

日々精進。何事も叶わぬことはない。本気でそれに向かっていけば、必ず道は開けるである。まずは一歩を歩みだそう。

さらば愛しの大統領

http://www.cinematoday.jp/name/67f4753059278f14/

お笑い芸人世界のナベアツ大阪府知事当選した上、独立国家宣言をして大阪合衆国大統領に就任するという奇想天外エンターテインメントムービー・・・

世界のナベアツ監督柴田大輔監督インタビュー/『さらば愛しの大統領

http://cinema.pia.co.jp/interviews/153874/99/

柴田CM製作仕事はオンエアされる前提で作っていて、極端に言えば駄作でもCMとして流れてしまう。でも、映画は観てもらわないといけない。映像を作ることはできても・・・

Web広告の作り方・映像広告の作り方

http://event.67.org/cm/

CM/映像業界からディレクター 柴田大輔氏を、Web業界からWebデザイナー 鎌田貴史 氏をお迎えし、「広告」をテーマに、実際の案件をもとにコンテンツ制作の考え方や制作過程をご紹介いただきます・・・

柴田大輔 | 王様のブランチ | TVでた蔵

http://datazoo.jp/w/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%A4%A7%E8%BC%94/4716327

今回初監督を務めたその他(芸人・演者)が、「こんなに製作費をもらえるとは思わなかった。金額聞いてから王子ですよ」と感想を述べる。さらに出演者2人がインタビューで、柴田大輔監督撮影初日に営業に行くため途中で帰ったことなどを暴露映画今日から新宿バルト9他で公開。・・・

柴田大輔監督 -- 現代用語のクソ知識

http://cinema-magazine.com/i/1944/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%A4%A7%E8%BC%94%E7%9B%A3%E7%9D%A3

柴田大輔監督」の用例、関連語の紹介...監督は「3でアホになる」という衝撃のギャグを世に送り出し、放送作家としても活躍する世界のナベアツと、NOVAウサギジョージアなどのCMを手掛けてきたクリエイター柴田大輔。本作で映画監督デビュー・・・

柴田大輔・語録集

http://wanpakukozou.seesaa.net/

デザイナー柴田大輔の語録を様々な角度から集めたブログ。例えば、「マンモスが飛ぶ」とは、誰でもやれないことはない。本気でやろうと思えば実現することを伝えています

実現しなかったら、その思いは本気でなかったと言うことである、そう伝えているのです・・・

ところで、最近まりメディアに出ませんが、密かに次の撮影の準備を進められているようです。

どんな映像かはまだ詳細不明ですが、パロディー系でシリアスな内容との噂はあります

きっと柴田次郎長のようなものだとは思いますが、いまから楽しみでなりません^^みなさんもぜひ一度ご覧になってください。

2011-07-23

http://anond.hatelabo.jp/20110723161203

いくらなんでも無理があるだろww

 いや、無理は無いね

 もし、その人間電車を待つという目的無しにケータイをいじってるとしたら、その時その人間は『ケータイをいじる』ということを既に目的にした上で、しか現在進行形で達成してるんだよ

 それは例えば、車に乗ることを目的にしている人間が、車に乗っているのと同じことなわけ。このことを暇潰しとは言えないだろ?

 そういうことだ


この全て同じこと、生きている間に為すことすべてを等しく無価値だと述べるための「人生は暇潰し」というフレーズなんでしょ?

 うーんとね、つまり俺が言いたいのはね

 寿命で死ぬことを目的にした時に、『人生は暇潰し』って言うとすると、その言葉は『人生人生』って言ってることと同じことになる、ってことなのよ

 分かるかな

http://anond.hatelabo.jp/20110723155245

 俺の文章をちゃんと読め

 お前が俺の文章をちゃんと読んでないのに、何で俺がお前の質問に答えにゃならんのだ……答えるけど


・君の定義だと「電車に乗るわけでもないのに駅のホームでケータイいじくってる」のは何て言うの?

 それは「駅のホームでケータイいじくってる」って言うんだよ

 少なくとも「暇潰し」じゃないね


寿命待ちは、君の言う『目的達成に伴う必然的な時間経過』じゃないの?

 この話の元になった項目から派生したツリーに同じことを書いたんだが

 そうなると、「ひまつぶし」という行為が相対化されてしまって意味を為さなくなる

 寿命で死ぬことを最高の目的としてしまうと、暇潰しという行動は消滅してしまうんだ。だって全てが同じことになるからな。分かるかな

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