これは俺の勝手な考えだけど、人には自分に合った文章の長さというのがあると思う
140文字じゃ足りないという人もいれば、140文字で満足できる人もいる
ブログくらいの長さまでは書けるけれども、それ以上は書けないという人もいる
長編小説くらいの長さの文章を書かないと納得できない人もいる
俺は修学旅行で、漏らしたことがある
古い話だけど、京大アメフト部で鍋パーティの事件の時、アメフト部の人のマイミクだった京大の女子学生が、本当はこうなる前に気付くべきだった、止めるべきだった、みたいな事を書いて
Aはだいたいの人が賛成の目玉政策、Bは反対の人もそれなりにいて大多数の人はどっちでもいいみたいな感じとするよね。
この時、人物xあるいは政党xでも良いんだけど、当選すると、民意の支持を得たっつって、AもBも実現しようと動くんだよね。
ここにマニフェスト選挙の良くないトコが出るよね。
はぁぁあぁぁっぁぁぁ
大して仲もよくない人たちと二泊三日ってなんなんだよう
あーもういきたくねえ、めんどくさい、早起きとか、勉強とか、観光とか
もう駄目だ、金25000くらい払っちゃったけどもう、なんだ、嫌だー
ぜんぜん、予習してないし、旅支度もすんでない
あー、はぁー、ふぁぅー
小学生の時の林間学校とか楽しかったけれど、なんかもう不安だったのをよく覚えていている。
それで帰ってきてから、普段そんなに飲まないコーラを飲んで「娑婆に帰ってきたぜ」みたいな感じだったのもよく覚えている。
別に家に居て何するわけでもないんだよ。
好きなものに満たされた部屋に居れないこと、時間がきっかり区切られていることに酷く不快感を覚える。
いまこの部屋が愛おしい、超愛おしい。
最近は誤用とも言わなくなったとwikipediaにも載ってたような
誤用と言われなくなり使われるようになったって載ってたと思う
話は違うけど
はてなは書き方がめんどくさい
コピペしてトラックバックしなきゃならないの、何とかならないのかな
wikipediaは、好ましくないとか誤用の指摘とか書かれながら、倫理の欠如として用いられてる報告も書いてあります。
ここのキーワードのページにwikipediaへのリンクもありましたね。上でできたリンクはキーワードのページ直接じゃないのでそれも貼っておいた方がいいかな。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%e2%a5%e9%a5%eb%a5%cf%a5%b6%a1%bc%a5%c9
なんだこの記事。主張は分かるし、日本語はほめる言葉少ないとよく言われるし、日本人は無言でサービス受けとるしな。
けど、何この無内容で焼き回しなものを丁寧に包装してみただけの記事。
ブクマ狙いなのかしらんが、はてながブサヨの巣窟だみたいにレッテル張られるのも仕方なく思えるわ。
「社会」だからキリッって、20世紀前半のフランス思想をさも自分の発見のように語る内田樹並に寒いわ。道徳の教科書かって音読してろ
これ書いた人(元増田っていうの?)自分の事責めてたか責めて欲しかったのかな・・・
意外と少ないけど、男の嫉妬やうらやま感から、叩かれそうな話を、叩いて欲しそうなスキを見せて書いている。
マジ欝かもしれないよ。
ありがとう。さっき気付いてそれ見てた
人助けする人の気持ち悪い心理が書いてあったりする
それはまずいがさりとて必要な場合仕方ない
特定の人やボランティアやNPOだけがすることじゃなく、社会に基本的人権の尊重やその具体的な救済の方法がもっとわかりやすく流布されなければ、と思う。
それを道徳や精神論だけで説くんじゃなく、もっと効率と言う面から説明しておく
本来はそれが教育のはずなのに
言い尽くされてる事かもしれないけど、爪も牙もない動物である人間がここまで増えてのしあがったのは、効率的な相互扶助の性質があったせいだと思う
その時点での強さで図った単純な弱者を切り捨ててたら、ここまで増えて繁栄はできなかっただろう。
動物だって、像なんかかなり弱者を守ろうとしたり慈悲深いそうだが、人間と言う生き物が動物と違った部分や、知性というのは、こういう部分にこそあったはずなのに。
仕事でも日常でもテレビの中でもどこにでも「すみません」が先にあって、
と思わずにいられない。そしてそもそもそんなに他人に謝罪を表明する必要性そのものに疑問を感じる。
疑問というか、不健全さといったほうが近い。
「お忙しいところ申し訳ありませんが、よろしくお願い致します」
「この度はお手数おかけして、大変申し訳ありませんでした」
すみませんじゃないけど、どうも謝罪ワードで締めくくられる。
これが「お忙しいところありがとうございました! 大変助かりました」
ではダメだろうか? と思うのだ。
こう言われたほうが、嬉しくないだろうか?
実際、俺はありがとうと言われたほうがうれしい。
「どうもすみません」
と言われるよりも
「助かりました、ありがとうございます」
と言われたほうが、やっぱり嬉しい。
どうもすみません、て言われるともしかしたら自分一人でできたのかな?
俺のしたことは余計だったかな? なんて気持ちも湧いてしまう。
……この違いって何だんだろうか?
そしてそれらの不足を補ってくれた誰かに対してお詫びを表明している、
だから言った方も言われた方もすっきりしないのだろうと思うのだ。
例えばベビーカーだったら、
(一人でベビーカーの乗り入れができなくて申し訳ない)
(もっと器用だったら一人で乗せられるかもしれのに)
とこんな具合だ。「すみません」ということで、暗黙のうちに自分の不出来さと
相手に迷惑をかけたことを詫びているのだ。
それなのに常に「すみません」が先行する社会って肩がこらないだろうか?
完璧にこなす人間なんてごくわずかだし、そういう人を基準に社会が作られても
みんながみんな「すみません」の旗のもと、疲弊するだけだ。
「すみません」は個人が完璧であることを前提に使われる言葉という感じがしないかな?
ありがとうという言葉が暗黙のうちに示している空気はどんなものだろうか?
と、こんな具合にポジティブで助けれてくれた相手を認めてくれている雰囲気を感じる。
だから「ありがとう」って言われるを気持ちが良いのだと思う(NHK的な表現だが)
「すみません」に比べると、言った方の能力/配慮不足をあまり気にしていないというか
それらの不足を前提にしない言葉の使われ方に思える。
こっちのほうが神経すり減らない気がする。
(1)ググれ
(2)よく読んでください
(いちいち人に聞かないでよ)
(文章読んで自分で判断してよ)
「すみません」とは言われる状況や方向が違うけど、
弱っている相手に配慮を求める点では非常に似ていると思う。