「ぬこ」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ぬことは

2011-07-23

人生は死ぬまでの暇潰し(笑)

 とか言ってるやつ

 あのな、暇潰しっていうのは、『時間経過しか手段のない』人間けが使える言葉なんだよ

 自発的に死ぬことができるのなら、『暇潰し』っていう言葉は使えないの

2011-07-21

http://anond.hatelabo.jp/20110721192447

バイトぐらいは出来るでしょう。

ここに文章を書き込むぐらいなら。

ぬことは無いですよ。僕も時折死にたくなりますけど。がんばって。

自省も必要です自己反省ほど大きい一歩はありません。

2011-07-07

http://anond.hatelabo.jp/20110705201212

増田の主題とは外れるけど、

現在、死んじゃってる人、生きてはいるが社会的に死んでいたり、絶望していたりといった人は、人の話を聞いてこなかった人達なんじゃないかと思う。

これちょっと違う。

私はかつて社会的に死んでて絶望して、今徐々に生き返りつつある人だけど、私みたいな人間に共通してるのは、「子供が親の話を聞く」「親が子供の話を聞かない」なんだよね。

親の言うこと聞くのやめて、自分の判断で行動するようになってから、良い方向に進むようになったわ。

他人の言うこと聞いて死ぬこともあるんだから、本当に大事なのは自分自身の判断力の精度を上げることなんじゃないのかな。

どのアドバイスを聞き入れるのかっていうのも、結局は自分が判断するものなんだからね。

2011-06-30

どうやっても他人に嫌われる行動しか出来ない

どうあがいても、他人に嫌われる行動しか出来ない。

「じゃあそういう行動をやめりゃいいじゃん」

って思うだろう。

そうじゃないんだ。もう無意識のうちにやってしまってるんだ。

頭の回転が遅いとか、根本的に馬鹿なんだとか、そういうことでもあるんだが。

馬鹿でも愛嬌のある人間って居るだろ?その全く逆なんだよ。

とにかく、なすことやること全て、他人を不快にしている。

友人はとっくの昔に居なくなったよ。

昔の友人みんなから疎まれて、蔑まれてる。

最近じゃ死ぬことばかり考えてる。

こういう人間居るか?

2011-06-13

「二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか」に対して

どうも。こないだまで就職王って名乗ってましたが、今は無職です

で、前回書いたコレhttp://anond.hatelabo.jp/20110429004257

なんかすごい真面目なトラックバックが来てたので、なんか書かなきゃなーと思いました。

今日結構真面目に書くので文体は素で。ネタ無し。

二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか

http://d.hatena.ne.jp/thinking-terra/20110529/1306640590

で、これ読んで思ったんだけれども。

ぼくが思うに、現代日本若者における問題ってのは最早「価値観」の問題ではないと思うのね。

いうなら、それは生存の問題だし、もっと明確に言えばいかにクサレ年寄りから椅子をムシリ獲るかってことなんだと思うんだ。

既存価値観に乗ることは出来ない」とテラケイさんは仰る。でも、ぼくはそれは違うと思う。

むしろ、現時点に於いても生存戦略としては「既存価値観にドップリ漬かる」は限りなくベストに近い。

「世代」のことを考える前に、「自分」のことを考えて、グダグダ言わずに東大を出るべきなんだ。

もちろん、東京大学というのはかなり極端な例だけれども。

ミクロで考えるなら、まだ現代日本は個人の力で「なんとかなる」社会だとぼくは思う。

ぼくの「就職王」コラムは個人化戦略の極地のようなものだけど、実際あの程度でなんとかなってしまう。

でも、もちろんマクロで考えるとこれは明確に間違っている。

だって椅子の数が限られているなら誰かは必ず負けるんだから社会には一定水準の競争が必要である、という

命題を真であるとした上でも、社会を構成する一定層はそれなりの職を得て暮らしていけなきゃまずい。

それに、ぼくのような口先だけで逃げ切るやつが評価される企業の土壌というのも、あんまりよくない気がする。

やっぱり、社会は少しずつでも変えていかなきゃならない。ぼくらの世代が楽しく生きるために。

社会を変える」って言いにくい世代だよね、ぼくらは。上の世代が派手にコケたから。

どうせ社会なんて変わらない、馬鹿どもの轍を踏んでたまるか。そういうところがある。

デモやる?って言われても「それ頭の悪い年寄り大分前に失敗した」としか思えない。

カウンターアクションは必要だけれど、それはやはり時代に即したものでなければいけない、と思う。

少なくとも「就職クソッタレ」って言って変わるものがあるなんて考えられない。そうじゃないか

ウザイ自分語りで申し訳ないけれど。ぼくが就職したのは「箔をつけるため」だった。

今、起業をするために色々じたばたしてるんだけれど、やっぱりカネを出して貰うにはそれなりのものが必要になる。

少なくとも、「真っ当に勤めていれば生涯年収4億近かったですよ」くらいのことは言えないと、

与えられたカネの代わりに差し出すものとしては、とても足りない。実はこれでも全然足りないんだけれど、

それでも何某かのバックボーンにはなる。使えるモノは、使わなきゃ損だ。就職して数年踏ん張るだけで得られる

ステータスって、実は結構お買い得な気がする。ある意味大学名前以上に。

この日本社会は実にクソだと思うけれど、使えるものを使わずに戦うのはいかにも勿体無い。

価値観を変える」なんてのは、ヒッピーになるのと同じだ。ヨガをやってもマリファナやってもロックフェスをやっても、

実はどーにもならない。それは、かつてアホな連中がもうやった。ぼくらがそれをやる必要はない。


ぼくは巷で見る就職活動批判にすごく違和感を感じていて、つまるところそれはどこまで言っても

負け犬の遠吠え」としか認識されないんじゃないか、ってこと。

かつての頭の悪い年寄りには「世界同時革命」みたいな強烈なイデオロギーがあったから、「就活バカヤロー」よりは

スケール感もまとまりもあったけれど、ぼくらの世代にはそれもない。あるべき社会モデルすらない状態で、

価値観を変えろ」って言われても、それは「解脱しろ」とか言われるのと一緒だ。シャクティーパッドとかポアとか

そういう語感にしかならない。そんなことにはほとんど何の意味もない。

まりところ、それがミクロの問題であれマクロの問題であれ、既存社会からの断絶というのは不可能なんじゃないかと思う。

テラケイさんは価値基準を語るときに「外部」と「内部」という言葉を使っているけれど、ぼくには価値観に於いて明確な

「外部」ってのがあるとは思えない。テクストに外部はない、みたいな学問を専攻してたせいもあるんだけど

それを差し引いても、既存価値観を排除して生きていけるなんてとても思えない。そんな強くないからね。

ロストジェネレーション世代にニーチェじみたものを押し付けても、それは「レッツ自殺!」って結果しかもたらなさないのではなかろーか。

我々が目指すべきものは、この社会から乖離したものではなく地続きにものでなければいけない、と思う。

じゃあ、どうすべきかってことなんだけど。

とりあえず、まずは団結すべきだと思うんだ。勝ってる奴も負けてる奴も。

世の中はクソで、なんとかしなきゃ楽しい人生は送れそうもない、って意識を共有することだと思う。

ぼくはかつて、ものすごく貧乏大学の学費にもメシ代にも汲々としてた時期があったんだけど、

その時、やっぱり同じような奴らと相互扶助的に生きていて、それは例えば部屋を分け合ったりとか

僅かなカネを分け合ったりとか、電気釜を共有したりとかそういう話だったんだけど、そういうところからだと思う。

例えば、イタリアの話。イタリアは、失業率がアホほど高いけど、自殺率は低い。これは何故かっていうと、一説には

一族主義が強く根付いているからだ、と言われている。縁のある誰かが食えてなければ、誰かが食わす。そーいうところがあるらしい。

じゃあ、我々悲惨な現状にいる連中も、そーしとけばいいんでないかな、と思ってる。

とりあえず、屋根とトモダチがいれば死ぬことはない。ぼくはそー思う。

こうすることで何が得られるかといえば、リスクを取るのが非常に容易になる。

「1人が1のリスクをとる」ことと「10人がそれぞれ1のリスクを取り、リターンを分配する」ことは大分違う。

もちろん、10人全員が敗れ去るパターンもありえるけれど、かなりのヘッジが出来ることになる。

そして、何よりだけど精神的にとても楽だ。ぼくは「起業」の道を選んだけれど、他にもロースクールに行ったりとか

そういう道を選ぶことにもやはりリスクはつきまとう。金銭的なリスクもそうだけれど、孤独化してしまうことが何よりヤバイ。

官僚から政治家目指すぜ、みたいな道にしてもやはり同じだ。そういうとき価値観を共有出来るつながりがあることは

何より強いとぼくは思う。いや、今んとこカネを得て起業に漕ぎ出したところだから、この先なんかわかんないけどね。

仲間にも全部見捨てられて、一人ひっそり首を括るって可能性も全然あるわけだし。

それで、社会批判の話に戻るんだけれど。ぼくが「就職王」でやりたかったことは

就職活動批判」のちょっとスマートな形を提示するってことなんだ。

確かに、マクロ的に考えると我々は既存価値観に乗っかることは出来ないかもしれない。

しかし新しいマクロ価値観ライフスタイル創造することも、おそらく出来ないだろうってこと。

その行き詰まりの中でクリティカルなクリティークを社会にカマすとしたら、

既存価値観に乗っかって踊り狂いながら、同時にそれ自体を批判として成立させるしかないんじゃないかと思う。。

ダンスパーティー台無しにしたいなら、まず誰より上手く踊らなきゃいけない。そうでなければ、誰も話を聞いてくれない。

やはり、我々はこのクソみたいな社会で戦っていくしかないし、クソみたいな社会を否定したところで

クソじゃない社会青写真を描けるわけじゃない。それは、大分昔に失敗した。

から、このクソだめみたいな社会の集団的蛆虫として既存価値観と地続きの世界をサバイブしていく以外に多分道はない。

そして、九人がダメでも、一人が生き残れればそいつが他を引き上げればいい。もちろん、現実的にこんなことが上手く行くか?

ってところはあるけれど、独力で社会と隔絶された「価値観」を作り出すよりは、十人で価値観を「共有」するほうがまだ成功率は高い。

悟りを得た」人はそんなに多くないけど、「宗教にハマって死んだ」人は腐るほどいる。

その程度の価値観共有なら多分できるんでないか、そういう風にして戦っていくしかないんじゃないか、と思ってる。

人間、上手いこと価値観を刷り込まれれば飛行機ビルに突っ込めるんだから、それくらいできるんじゃね?と。

まー、なんというか。

これはぼくの戦略っぽく見せかけた誇大妄想から、なんのあてにもならないけれど。

とりあえず、若い人間はもーちょい戦略的に生きるべきだと思うし、また同時に団結すべきだと思う。

個人の内面ナイーヴな話に閉じてしまうのは、なんかどーなんだろーな、とぼくは思うんだよね。

これから具体的にどーするか、どのようにして生き残ってリスクを取っていくかを論じるべきじゃないだろうか。

まだまだやれることあると思うんだよね、実際。

ところで、死ぬほどどーでもいいけど、「ロストジェネレーション」って若い頃第一次世界大戦に遭遇して、何か価値観クラッシュしちゃったよーな世代の作家達を指す言葉で、「二代目」っていうとちょっとおかしいことになるよね。ロスジェネの「二代目」世代ったら、ビートの時代でケルアックとかギンズバーグとかを指すと思う。

不況なんかにぶつかった「貧乏くじ世代」を指す意味で「ロストジェネレーション」って語を使うと、今の世代は何代目になるのか、すごくめんどくさい議論が要るね。個人的に、「ロストジェネレーション」を現代の「失われた世代」に当てはめるのは色々ムリがある気が。字面はいいけど、原義から考えるとスゲービミョーな感じ。ロスジェネ論争とか言われると、今更ヘミングウェイとか論じてんの?って思っちゃうのはぼくだけじゃないと思う。

エクストリーム世代」とかなんかそんな感じの新語を誰か考えるべき。

2011-06-09

とっとこブサ太郎!

ハム太郎は自ら死ぬことを選んだ!!

お前達はどうだ!?

2011-06-01

http://anond.hatelabo.jp/20110601171956

息子がビンタされたからといって何もしなければ、それ以上なにもなかったはずだろ。最善策は何もしないことだよ。でも、それじゃ済ませられない感情がこの親父の胸の内にくすぶったから、わざわざ抗議しにいったんだよ。もち喧嘩になるリスク込みで。大人同士がけんかになればある程度は死ぬことも覚悟する必要もある。一言文句言っておしまいっていうのは、親父の威厳も保てて被害なしで最高だったかもしれないけれど、世の中そううまくはいかないもので、結局脳挫傷意識不明っていう結果なっちゃったんだ。しかたがないんじゃないか

2011-05-28

http://anond.hatelabo.jp/20110528174952

死ぬべき人間が死ぬことによって国の新陳代謝活性化する。

昔そんな考えで世界大戦まで起こした馬鹿がいたね。

グンクツの足音が聞こえるとか言われちゃうぞw

(あえてグンカとは読まない)

http://anond.hatelabo.jp/20110528174433

全員を救おうという前提に立てば、英雄は要らない。

バカまで救うなどという非効率なものまで要求されれば資本主義とてお手上げさ。

もちろんだからって共産主義に走るのはゴメンだけどね。

死ぬべき人間が死ぬことによって国の新陳代謝活性化する。

2011-05-25

「僕は死ななければならない」

僕が欝になって早3年。

それまで割とまっとうな人生だったし、

チヤホヤもされてた。同期に比べて収入も、身分も良かったし、女の子にも(多分)モテたし。

そんな僕がある事件をきっかけにスッテンコロリン人生階段を転げ落ちている。アレだよ、階段が一気に滑り台になるコントみたいな感じ。

こんな心の叫び的な内容、増田上には既にごまとあるし、

きっとこれもTLっぽく流れていってしまうんだろうなぁと思うとちょっと切ないけど、

これもひとつボトルメールみたいになって、誰かに届くかも?という前向きな気持で書いてみます

欝を含めた「こころ病気」って、罹った人以外は絶対に理解出来ないっていうのが僕の持論です

例えば、先進国毎日1ドル以下の生活をしている人を、一般的な日本人想像できないのと一緒で。

マリー・アントワネットのような? ちょっと厨二的発想かもね。すんません。

んで、まぁ何が言いたいかっていうと、

誰も理解出来ないこの「病」を理解してもらうには、多分「死」しか無いと思うんですね。

つまり「死ねば」理解してもらえる、っていう、一種の希望が僕にはあって。

そりゃぁもう嬉しいに決まってるじゃないですか、人がどういう形にせよ、知ってもらえるんですよ!

から、「僕は死ななければならない」なんですよー

一応!そんな苦しい気持ちを聞いてもらいたい!構って、構って!で2つの病院行きました

ひとつは、初めに僕を「欝」と診断した医者。2年後にさじ投げましたね。

もうひとつはそれなりに良かったけど、高い。ネットでも結構有名なところです

でも、もうやめました。治んないもん。

うそう、昔、「いのちの電話」に3時間ぶっ続けでかけまくったけど、全部話し中で結局1度も繋がらなかったこともあったなー

あれ、絶対良くないよ。余計絶望するっちゅうに。

今の僕の希望は、

僕が死ぬことによって、誰かに知ってもらえる事。

「可哀想」でも「辛かったんだね」でもなんでもいいです

ただ、心残りなのが、やはり家族

僕には子供がいないので、両親がどのような反応を示すかはあまり理解できないけど

大好きな映画ナンニ・モレッティの「息子の部屋」みたいな感じで、しばらくは絶望するけど、それからなんとか生きていく、みたいな感じになりそうだな。

あれ?意外と大丈夫じゃね?

あ、これ遺書じゃないです。まだ死にませんから通報とかやめてね(はーと)

ただ、結構ガチでヤバイんで、まだ精神的に余裕がある今のうちに、ちょっとだけ吐露させていただきました

じゃーな!

2011-05-23

http://anond.hatelabo.jp/20110523103225

しかに。

誰の得にもならない仕事(ただ案件としてあるからやるだけ)ってすごい苦痛だよね。

からって、何も死ぬこたあないんじゃないか

2011-05-20

http://anond.hatelabo.jp/20110520155544

なぜ死ぬ必要があるのかわからない。

もしも彼らが全員死んだら明日から電気使えなくて首都圏パニックだけど。

今までに発生した損害の数十倍以上の損害が出るだろう。

彼らが死ぬことによって誰にどんな得が?

2011-05-05

から生きる意味を考えた

つい先月、父がガンで入院した

から親とはあまり意見が合わず、中学に入って以来、あまり話をしなかった。

実家大阪なんだけど、親元から離れたいこともあって茨城県大学に進学、一昨年に静岡就職。そして今年2月に結婚した

これから、親とはあまり関わらない、自分だけの人生が楽しめると思っていた。

僕にはやりたい事がたくさんあって、ただ食べるために働くのは嫌だった。何かを成し遂げたかった。

父は仕事後にビールを飲むのが生きがいで、たまパチンコに行くのが趣味。それ以外に何の楽しみもないようで、僕には何のために生きているのかさっぱり分からなかった。

僕は逆に多趣味で、毎日がとても忙しいけど、そんな趣味に生きるのが好きで、いつか趣味に関わることで何か成し遂げられたら良いな、と思っていた。

最近はずっと、成し遂げたい「何か」がなんなのか、を考えていて、何をするにしても、自分や周囲の幸福度を上げる事が一番だ、という考えを持った。

幸せとは何か?といえば、不満が無い状態かな、と思う。

しい物を手にいれれば幸せだし、何かに夢中になれれば目的目標に飢えることが無く、幸せだ。

から、適度に難しい課題自分で設定して、それをこなす事で、人に物を提供するのが良いかな、なんて考えていた。

そんな矢先、父がガンと言われて、生きる意味を改めて考えさせられた。

自分にとって親は、いつか死ぬもので、死んだら悲しいけど、いつ死ぬか分からないし、「とりあえず今は何も考えなくて良い存在」。

たま実家に帰った時にちょっと話をして、話が長くなると意見が合わなくて嫌になる、そんな存在だった。

から実家に帰るのは一年に一回か二回、結婚したので今後は一年中帰らないこともあり得ると思っていた。

だけど、ガンって言われてようやく気づいた。

一年に2日会うとしたら、20年後に死ぬなら40日しか会えない。

しかも、よく考えたら親は近い日に簡単に死ぬかもしれない。病気でなくても、事故って死ぬかもしれない。

いつ死ぬかわからいからこそ、死ぬ前にできることは何よりも優先してやらないといけない。「とにかく今何かを考えなくてはいけない存在」だ。

ガンって言われると、急に親の死をリアル想像できて、想像するたびに涙が出た。

で、泣いているときに、今の自分は何故悲しいのか?と考えた。

親が死ぬからしい

いつかは絶対死ぬ、そんな分かりきったことが悲しいのか?

やっぱり悲しい。死ぬことが、ただ悲しい

つまり、人が死ねば、どう頑張っても、周囲の人を不幸にするんだと思った。(残念ながら、人が死んで幸せな人もいるかもしれないが)

人は生まれた時点で死ぬ運命にあるので、死ぬときに必ず不幸を撒き散らす。

じゃあ人は、その不幸を上回るような幸福を生み出さなければいけない。それが人の生きる意味なんじゃないかと思った。

僕にとって生きる意味って、なんだろう。

それは、親や嫁、そのほか多くの人を幸せにすることだ。

いつか死ぬ彼らに、いつか死ぬ自分が撒き散らす不幸よりも多い幸せを与えることだ。

まずは、ガンになった父に今まで世話になった御礼をちゃんと伝えて、

僕は育ててくれたことを大変感謝している、父は自分を誇りに思っていい、父のおかげで今の自分がいる、

父を失うのは本当に悲しい、僕は父が大好きだ。というところまで、ちゃんと伝えなければいけない。

今まで親と会話をしなかった分、きっちり自分の考えを伝えて、そこに安心してもらいたい。両親とも、不安に思っていると思うから

その上で、ガンが治るなら治って、その後も、いつか死ぬその日まで、なるべく多くの楽しい時間を共有して、笑い合って過ごせたら、それはきっと幸せだ。

本当は死ぬ事なんか意識しないで、大笑いして過ごして、気づいたら死んでいた、というのが一番なんだと思う。

そうなれるように、僕は変な反抗期なんか克服して、素直になるべきだ。

以上、チラシの裏した

GWを利用して昨日今日と父の見舞いに行ってきたら、どうしても書きたくて書きました

まさかこんなシリアスな話を自分Blogに書けないし、というのがひとつと、

あとは似た境遇の(親と距離があるような)人が居たら是非親孝行をしてほしいな、というのがもうひとつ

そんな理由で書きました

そんじゃ、読んでくれてありがとう

2011-04-21

人生の消去

ダメに成ったら消して

消して、消して、消して

なかったコトにして

終わったことにして

無敵バリア

それは死ぬことで

今日死にたいエントリした

2011-04-17

期限が守れない

 あらゆることの期限が守れない。病気ってほどではないと思う(信じたい)のだが遅刻、提出物の遅れ、テスト勉強間に合わず、なんてことが昔から非常に多い。これで何度失敗し、後悔したか。何度その後悔を忘れ繰り返したか。何度変わろうと決意して、変われなかったか

 

 本日また重大な失敗をした。人に助けてもらったにも関わらず、それを台無しにするような行為をしてしまった。死にたい死にたいなんて落ち込んだり、言い訳を探したり、変わるしかないと決心したり、こんな文章書いてみたり、している。

 

 思えば、これってかなり昔から性癖だったように思う。何かを完璧に準備して事に当たれたことがない。何かをやって、もうやることはすべてやり切れたと思えたことがない。ずっとこれだ。そしてずっとこれで、落ち込み続けている。

 

 このままでは何にもできない。彼女結婚もできないし母親幸せにすることもできないし、このままだと自分を責めることに逃げ続けて、最終的に自殺してしまいそうだ。

 

 親父が自殺してる。病気とか、金銭面とか、生活とか、いろいろなことに押しつぶされて死んだのだろう。自分も死ぬんだろうか。死を選ぶんだろうか。親子といっても他人だ、そんなのは運命でもなにもないとわかってる。死ぬかもしれない。親父を否定したくないから、死ぬことは否定できない。でもでもでも、死にたくないのだ。

 結局、俺は自殺しないと思う。そしてだらだら生きていくのだ。変わりたいと思いつつ。こんなのは自分じゃないと否定しつつ。

 

 ごめんなさいお母さん。お父さん。俺は駄目みたいです

  

 なんかこれ書いてたら元気が出てきたぞ。死んでたまるかぼけ!

 

いじめられていた頃を思い出した

憲法理念について考える過程で、中学生のころいじめられていたことを思い出した

現在俺は大学生でかなり充実した生活を送っていると自分でも自負しているし、他人からも言われている。

そんな今になってやっと気持ちの整理がついたので、その頃に起こったことを綴りたいと思う。稚拙な文章ではあるがお付き合いいただきたい



俺は中1の頃部活であることをやらかした。その内容については書かないことにする。


その後仲良くしていた友達全員が急に態度を変えた。

誰も話しかけてくれなくなった。じきにその中から罵倒するやつが出てきた。

大半は俺に関心を寄せまいとした

そいつらの俺に対する見方は分かっていたから、憎むことはなかった。「うわ、汚い。」

自分そいつらの立場ならそう思っただろう。

しかし、あー人ってこんなもんなんだーとあの時悟った。


俺を遠くから罵倒した人のことを今でもはっきりと思い出す。あの顔。薄ら笑っていた。

そんな時そいつらに背を向けて俺はただ窓から外を眺めていた。


関わったらいじめられる、といったことは憶測ではあるが、大半はあまり考えていなかった。

ただ俺は軽蔑の対象であり、関わろうという気にもならない、といったところだろう。


事件直後、俺のことを助けてくれると宣言した人がいたと顧問が言っていたので期待していた。

でもなかった。話しかけられたことは、一度もなかった。

俺が一人でいて、かつ誰にも見つかることがないタイミングなんていくらでもあったのに。


事件があって間もないころ、帰り道であいつを見かけた。

俺はあいつに気にしないほうがいいのかなあ、と明るくいつも通りに言った。

あいはいつも通りの口調で笑いながら、自分の置かれている状況は気にしろよ、と言って俺を後にして前を歩いていた部活の集団に向かって走っていった。

親友だと思っていたあいつにこんなことを言われた。あいつなら大丈夫だと思っていたのに。こんなものなのか。

一緒に野球していたじゃないか。一緒に何回も遊んだじゃないか馬鹿なこともしたじゃないか

人間不信に俺は陥った。


その集団の中で話しかけてくれた同級生は一人だけだった。

中学で知り合ってあまり親しくない子だった。

練習場所の水抜きをしていたとき、明るい声で話しかけてくれた。たぶん挨拶だった。

あの時すごくうれしかった。本当にうれしかった。

こんな屑に話しかけてくれてありがとう、と心から思った。


また話しかけてくれてたのは事情を知らないクラスの人たちだった。

いや、噂で知っていたのかもしれない。でもそいつらは気にしていなかった。

くそいつらと中学中庭で鬼ごっこをした。楽しかった。その中で一瞬だけ自分の状況を忘れることができた。

しかし俺はある意識を常に持っていた。その意識に縛られていた。「俺は屑だ。」


一番賢い学校にいってみんなから離れようと決心した

中1なのにもう先のことを考えていた。

中学校でのことはもう諦めていた。罵倒され続けよう。耐えよう。俺が悪いんだから


俺は自分のことを価値のない人間だと思い、死ぬことをいつも考えていた。偶然の事故とかで死にたかった。

ぬことは理由をつけて避けていた。死ぬのは怖かったから。

ただ死にたいと思うことに理不尽さを感じることはなかった。生きている価値はないと思っていたから。


家が俺のただひとつの居場所だった。事情の知らない家族との他愛のないおしゃべり。十分だった。

部活が終わった皆がいない帰り道でやっと安心できた。そして明日のことを思いすぐに憂鬱になった。


俺はベッドの中で人知れず涙を流した。部屋の空間に背を向け壁に向かって。

意図的に自分の状況を考えて悲しい感情に浸り、流したこともあった。

カタルシス本能的に感じたかったのかもしれない。


しか学校毎日通っていた。

なんで不登校にならなかったのかは分からない。部活も休まず行っていた。

自分は強い、と思っていたわけでもない。なぜいっていたのだろう。今でも分からない。何かに突き動かされていた。


たいつも自分眉毛をできるだけ垂れ下げるようにしていた。

申し訳なさそうな顔をするために。

実際申し訳なかった。こんな屑が存在していてごめんなさいって。



ある日顧問から一年生は理科室にくるように、と招集がかかった。

俺は一番後ろに座った。そして顧問はどんな話をするのだろうとぼーっと考えていた。

顧問は俺へのいじめをやめよう、とみんなに静かに言い聞かせて会合は終わった。そんなに長くはなかった。

顧問が喋っている間、俺はありがた迷惑だ、と思っていた。

もう俺には触れないでくれ。こんなので改善されるわけないだろう。


俺は教室最後に出て、皆が向かった練習場所のほうへ行った。

なぜ反対側に行かなかったのだろう。そうすればまだ安心できる学校での居場所である自分クラスに戻れたのに。

淡い期待があったのかもしれない。


練習場所の脇に皆が円になって立っていた。

からごめんって次々に言われた。

謝罪の言葉を聞いた俺はそばの壁に腕を当て顔をうずめて泣いた。声を上げて泣いた。

場所が元に戻るかもしれない。


しかし懐疑心はまだまだ残っていた。

今だけなんじゃないだろうか。いや、きっとそうだろう。今までそうだったのだから


その招集後初めての部活

帰りに部活の皆と一緒に帰ることになった。

誰かが面白いことをいったとき、俺は腕で顔を隠して笑った。

なぜそうしたのかその時は分からなかった。

今はそうした理由が分かる。俺が笑う顔を見せることなんておこがましいと思っていたからそうしたんだ。

そこまで自分は屑である内面化されていた。たった半年で。

それから俺へのいじめはなくなり、皆とぎこちないながらも仲良くやることができた。



時間は進んで中3のころ、いじめられていたやつが腕で顔を隠して笑うのを見た。

心に何かが刺さった。

しかし俺もそいつのことをみんなと一緒に影でいじめ、関わらないようにしていた。

こいつを庇ったらまたいじめられる。もうそんなことは絶対に嫌だ。


人をこんな風にした原因はなんだ?

教育環境だ。

あれから何も変わっちゃいない。


こういった経験をしてよかったと今は思う。

ただこんな思いは誰にもさせたくない。

俺が日本を変えよう。俺が行動しよう。


追記1: 感情が高ぶっていたために文章の論理関係がめちゃくちゃな部分がありましたので訂正しましたツイートしてくれた方などありがとうございます

追記2: >migurinさん やらかした内容について書かなかったところについて言及されていると思うのですが、全体の文章から伝わるようにしたつもりです。それ以外のところでしたらお答えします。

2011-04-15

http://anond.hatelabo.jp/20110415170317

team_nakagawaのブログより

確率的影響」=「発がん」が起こる確率は、ごくわずかな量の被ばくであっても上昇し、被ばくした放射線の量に応じて増加すると考えられています。これ以下の線量であれば、大丈夫という“境目”=「しきい値閾値)」がないのですしかし、実効線量で100~150mSv(ミリシーベルト)未満の放射線被ばく(蓄積)では、発がんの確率が増すかどうか、はっきりした証拠はありません。

(注2)(参考: http://www.rerf.or.jp/rerfrad.pdf

閾値がないと考えれば10msvの被曝で0.5%の発ガン率の上昇があると考えられるが、統計学的裏づけはない。

あくまでそういう考え方があるってだけの話。

つまり、今の時点では低被曝量の発ガン率上昇は証明されていない。

もう一つ、「確率的影響」と区別しなければならない生物に対する放射線の影響とは、「確定的影響」です。こちらは、白血球が減ったり、生殖機能が失われたりするものです。この「確定的影響」は、放射線細胞が死ぬことによって起こります。逆に、(確率的影響である)発がんは、死なずに生き残った細胞に対する影響と言えます。「発がん」以外のすべての影響は、確定的影響です

白血球が減り始めるのは実効線量で250mSv(ミリシーベルト、蓄積)程度からです。この線量が、すべての「確定的影響」のしきい値です。つまり、これ以下の線量では、確定的影響は現れないと言えます

そして、私たち一般市民が実効線量で250mSv(ミリシーベルト)といった大量の被ばくをすることは想定できません。私たちが心配すべきは、「確率的影響」つまり、発がんリスクの上昇です。その他のことは、問題になりません。

よって確定的影響は考慮不要。

追記

あくまで首都圏の話ね。

原発周辺エリアは被曝量が積算で既に20msv超えてる恐れのあるところもあるから、別の考慮が必要。

2011-04-13

石原慎太郎氏の支持者に垣間見える「甘え」

2011年4月10日

統一地方選東京都知事選にて、現職の石原慎太郎氏(78)が他候補を圧倒し、四選を果たした

石原慎太郎氏は、政策や数々の発言に対して、様々な批判も受けている。が、それ以上に多くの支持も受けてる。少なくとも東京においてはそれは間違いない事だ。

僕個人は、石原氏への評価は良くも悪くもない。良いと思う政策もあるし、彼の発言にスッとする時もある。逆に評価できない政策もあるし、不愉快に思う発言もある。

だけど、僕の評価なんてどうでもいいことだ、僕は政治家でも政治評論家でもジャーナリストでも無い。東京都民ですら無い。

つまり、石原氏が何をしようと僕の生活にさして影響は無いし、僕の評価は石原氏の都政に一切影響を与えない。

ただ、今回の選挙で一つだけ気になったことがあった。

それは本当は今回の選挙で、石原氏は「150%」引退するつもりだったけれど、周囲の後押しで、結局出馬に踏み切ったという事だ。

文章だけ読むなら、別に問題は無い。むしろ石原氏の人望に感動するような所かもしれない。彼の年齢考慮しなければ。

石原氏は現在78歳、今期を務めあげた暁には、82歳になっている。

僕は別に老人が政治家になるな、と言いたいわけじゃない。

前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」なんて言うつもりは無い。

そんな発言は、この年になるまで三期の間東京の為に働いてきた石原氏に対しあまりに無礼な発言だと思う。

しかし、石原氏本人が一度選挙の不出馬を決めた時の理由として自分の心身の健康を理由に挙げている。

実際の所どうかは分からないが、今回の石原氏は

自分の身体に不安を抱える老人をよってたかって祭り上げ、東京都知事選にかりだした

という体裁を取っているのである

そして、その前後からネットで見られる一部の石原支持者の言論が、暴走し出した

石原氏の素晴らしさを、標榜し、他の候補者を貶め、さらにその候補者の支持者を貶める。

さらに、もっと酷いものになると、石原氏を支持しないというだけの理由で、相手の人格すら全否定する。

石原氏の権威をかさに来て、石原氏の威を借る狐と化している。

これは、別にネットにいる人々だけではない。

今回石原氏を支持した自民党公明党関係者も同様だろう。

特に自民党石原伸晃幹事長は、石原氏の長男である

自分の親が、引退したいと言った時に、代わりの候補者が見つけられず、結局親に出馬してもらっている。

なんて情けないんだろう。とことの顛末を遠くからぼーっと見る身ながら、思った。

石原氏は、東京都知事だ。その都政に対し、成功には称賛を、そして失敗には批判を受ける。

石原氏は、やると言った事はやりぬこうとする、銀行だって移転だって条例だってオリンピックだって石原氏は批判を受けても、自分の政策を実行しようとしている。

石原氏は、自分が言いいたいことをはっきり言う。それが批判を受けても、簡単に手のひら返して謝ったりしない。

それが、良いか、悪いかは、また別の話として、そんな石原氏の姿勢共感し、憧れて石原氏支持するのは当然個人の自由で、それを責められるいわれは無い。

当然、逆の場合もそうだ。石原氏の政策を評価できないことがあったとしても、その事でどうこういわれる言われる筋合いは無い。

ただ、石原氏と言う大きな存在に「甘えて」我が物顔で正義を振りかざして、他者を否定するような姿勢は、不快だし、不遜だ。

石原氏の功績を、勝手に我が物顔で誇る事も、僕は違うんじゃないかと思う。

結局、そう言う一部の支持者は石原氏に甘えてるのだ。自らの理想石原氏に投影する事で、カタルシスを得たいだけだとしか思えない。

今回の選挙で、反石原氏の勢力が、投票する候補者をまとめられなかったと言う言葉が聞こえたけど。

それは石原支持者も同じだ。正確に言うのなら「石原路線」の支持者だが

当たり前の話だがタレント人気投票では無いのだから石原氏を支持している人間は、もれなく石原氏の政策を支持する人間である

本人にその自覚があろうが無かろうが、政治家投票するって言うのはそういうことだ。

石原氏がいなくなっても「石原路線」の政策は、都に残っている。

それを継承するのか、路線を変えるのか。石原支持者は当然石原路線の継承を目指さないといけない。

では今回、一度石原氏の不出馬が取りざたされたときに、石原氏の支持者は投票すべき候補者をまとめる事が出来ただろうか。

今回石原に入った票の全てが、松沢氏の得票になっただろうか。

現在石原氏は、五期目も目指そうかという発言をしているらしい

石原氏本人に元気がある事はとても喜ばしいことだけど、もし、石原氏が五期目をやり遂げたとした石原氏の年齢は86歳だが、それでも石原氏の支持者は彼を都知事選出馬させるのだろうか。ああまりにも当然のとこだが石原はいずれ引退する。その時に、反石原路線の候補者当選すれば、それまでの石原氏の功績は無駄になる。全てではないが、多くの政策が否定されて無に帰すだろう。

そうならないためにも、石原氏の支持者は、石原氏の路線を継承しうる候補者を見出さなければならなかった。

候補者一人まとめられないと、反石原派の面々を嘲笑っているが、それはどちらも同じ事だ。

今回は「たまたま石原氏が出馬しただけで、石原氏不在の中、石原路線VS反石原路線になれば、彼らもきっと候補者をまとめられない。

それは決して個人レベルの話で無くて、石原路線を継承させるべき自民党ですらそうだ。先も書いたが、自民党は、今回も後継足る候補者を見つけられなかった。

石原氏に頼り切って、甘え切っている。

いつまで「偉大なリーダー」に甘えているんだ? そろそろ、彼から得たものを次に継承しろよ。誰も彼からバトンを受け取る気が無いのか?

から4年後になってもまだ

「じゃあ他にまともな候補者がいるのか?」

なんて言うつもりじゃないだろうな。

僕は、石原氏の批判をするつもりでこの文章を書いたんじゃ無い。そう受け取れるような文言があるかもしれないけれど、少なくとも石原氏を批判する意図で書いた文は一行も無い。

同時に、石原氏を支持する方々を全否定するために書いた訳でもないし反石原派の方向でこの文章を書いた訳じゃない。

ただ、石原氏に甘えて、調子に乗っている奴らにムカつただけだ。

ここ数日のイライラをぶちまけたせいで、ずいぶんと乱雑で冗長な文になってしまった。一部読みにくい所もあるだろう。

この文章を読んで不愉快になる人もいるだろうし、鼻で笑う人間をいるだろうけど、僕は別にそれでもいいと思っている。

極論を言えば東京がどうなろうと、僕の知ったことじゃない。

ただいつまでも偉大な老人におぶさりながら、背中の上でふんぞり返っていはいられないという事はゆるぎない事実だと、僕は確信している。

2011-04-02

Re:解除条件停止条件を理解するためのウエシマ作戦

http://anond.hatelabo.jp/20110326211559

ダチョウ倶楽部の一連の芸を例にすると

「条件」ではなく「期限(不確定期限)」ではないだろうか

事実の発生が確実だから

 たしかに、熱湯がテレビ画面に登場してその場にウエシマが居合わせれば、日本テレビ番組の中では100%ウエシマが入ることになりますが。

 「不確定期限」と言い切るには、ウエシマが熱湯に頭から飛び込むことと人間がいつか死ぬこととが等価である証明しなければならんでしょう。

http://anond.hatelabo.jp/20110402185446

健全な人なら暑さで死ぬこはないからね。死ぬなら所詮その程度ってことで。

2011-03-30

http://anond.hatelabo.jp/20110330160102

これまでの日本社会は君が活躍する土壌はなく、死ぬことのみが君の価値証明する手段だった。

しかし今は違う。君が必要としているところはある。しかもそれは限られた時間だけだ。

さあ、月収40万を手に、社会未来に役立つ仕事をしよう!

君の命はムダにしない!

2011-03-28

http://anond.hatelabo.jp/20110328020853

から金払う代わりに死ぬことが代償になるの?

もしも数百万人が死ぬことにでもなれば、命で贖えるわけがない。

リスクけが上がって誰も成り手にならなくなるだけ。

政治家人材がお寒い状況なのはなんのせいだと思う?

2011-03-25

不安を吐き出させてください

格納容器とか高汚染部分を巻き込んで水蒸気爆発が起きた場合の避難するべき距離ってどのくらいになるのだろう

100kmで本当に足りるのだろうか。

もし自分東京に勤めてたら、多分もう疎開していると思うのだけど(被害が明らかになった時点で人数が多すぎて脱出手段が失われるので)

この期に及んで東京にいる人達怖い。狂気を感じる。

自分カメラ持って突っ込んでいって、現在の状況を具に観察して安楽死と遺族への補償金が出るなら

行ってみても…っていうのはやっぱ無理だな。死ぬことを前提とした計画じゃあ旧日本軍と変わらないよね。

東海村被災者への恐怖から、人よりは原子力発電を嫌ってたのに具体的な行動を起こさなかった自分にも責任を感じる。

火力だって地熱だって人は死んでるのに、どうして原子力だけこんな怖いんだろう。

死なないまでも不調になるとか、分かりにくいことへの恐怖なのだろうか。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん