なんか必要に体があつい。たしかに気温も高いのだけど、ちょっとこれは変だと思う。
顔を洗ったり、水を飲んだり、上着を脱いだりしているけど、やたら火照っている。
そういう風に叩かれていたポメラは今どうなったんだっけ?
自分ってアスペルガーと空気読めない人の間くらいなんじゃないかって悩んでる人って結構いるんじゃないだろうか。
私はアスペルガー症候群の存在を知って、自分ってもしかしてって思ったし、友達にもそんなのはいる。にちゃん見てても自分は障害とか言い出して叩かれてる人って結構いた気がする。
自慢だけど父親は賢い。京大出て研究職してるし、小学生の時には微分積分わかってたとか自慢された。ただ空気読めない。急に出かけるとか言い出して、すぐに支度しろあと5分とか言い出す。出かけたくないっていうとメチャクチャ怒る。
母の買ってきた棚をノコギリで切り始めたりしたこともあったっけ。
最近分かったけど、どうもこちらを威圧したいわけじゃなく、なんかもう本人もわけがわかってない様子。自分が怒ってる時の相手の表情なんか絶対見れてないし、こっちが怖がってることも気づいてなかったんじゃないだろうか。
×空気を読む
○空気を見る
みたいな記事読んだけど、ほんとにそうだと思う。
私自身について言えば中・高の時は男子の顔は全部同じに見えて、女子も髪型や体型が似通ってると無理。酷い時は1年経っても同じクラスの人間の8割の顔を覚えてなかった。写真どころか本人を見ても自分と同じクラスの人かどうかすら分からない。
大学入ってからは加えて先生の顔もわからない。しっかり毎回真面目に授業受けてたのに、その先生の部屋にレポート出しに行って、それが授業してた先生かどうかわからない。
××先生ならあっちのほうで見かけたよとか言われるとかなり困った。
ずっと自分は人の顔が覚えるのが苦手だと思ってた。
覚える前に見てないだけだった。
意識して目を見るようにしてみたら急に色々わかるようになった。今まで自分が相手の声色でしか反応を測ってなかったことに気付いたし、2・3回頑張れば顔の見分けがつくこともわかった。
相手がどんな人なのか憶測して噂話する面白さがわかった。
自分はアスペルガーなんじゃないかとかいうと、すごく怒る人の気持ちもわかる。
ほんとにアスペルガーだと、もっとすごい空気の読めなさなんだと。お葬式中に人間を焼いた煙がどうして灰色じゃなくて白色なのか気になってしょうがなくて、きちんと答えてもらえるまで周りの人に聞くのをやめないとか。
NHK教育でアスペルガーの子供向けの番組をやっているけど、黙って隣の子の消しゴム取ったらダメとか、ものすごくあたり前のことをやっててびっくりした。
ちょっと困るどころじゃなく周りの人全員から関係を断たれかねない言動をしばしば起こしてしまったら、確かに生活に支障を来たすし、障害と呼ばざるを得ないと思う。
しかし私だってずっと困っていたんだ。芸能人だと誰がタイプ?とか聞かれてアイドルは全部同じに見えるとか言えない。(顔は整ってるほど見分けが困難だ。)
話について行けなくて何度寂しい思いをしたことか。
みんなしっかり顔を見て覚えていたなら教えてくれたら良かったのに。というかそれまで自分が見ていなかったことに気づいて愕然としたというか。
顔の作りや表情を意識して見るようになって急に世界が広がった。
もし顔がさっぱり覚えられないという人がいたら、ぜひ一度周りの人の目を見て生活してみて欲しい。
http://anond.hatelabo.jp/20111011224340
http://anond.hatelabo.jp/20111011222240
わたしが自分を「女性版不能」(適切な言葉が分かりません、すみません)だと思いつめているのが伝わったらしいので、先に安心させようとしているのだと思います。
ただこうやって書いてみると、わたしも彼氏も、どこか主体性がないというか、自分のことなのに他人事のようにことを見ているので、こういうのを達観をいうのかとか、間違った解釈をしています。
彼氏は好きですが男性は怖いです、が女性に興味があるわけでもなく恋愛感情もあります、でもセックスはできないです焦ります。デモデモダッテですね。すみません。
学寮の自由作文を頼まれると、自称読書家で元ブロガーは平気で制限を超える。
ものを書いたのは久々だが、気持ちよく書けたので記念に投稿してみる。
自由作文は難しい。大喜利なら書けることとウケること、この2つを考えればいい。しかし自由が与えられると、「自」も出る。自分にしかなしえない体験を、優越感たっぷりに書こうとする。書きたいこと、書けること、ウケること。これらをどう調和させるのか、ジレンマも生まれる。やがて面倒になる。白紙ができる。
自由はもてはやされる。マンガや小説やドラマ、物語は自由を求める。現実も変わらない。12時消灯より無消灯、時間帯の定まった食事より、各々の食事時間。自由最高。と、まあ例を挙げればキリがない。しかしそれは一面に過ぎない。
職業の話をしよう。英語には「職業」を表す"vocation"という単語がある。「これが、あなたが生まれてきて行うべき職業(使命)です」と神が呼びかけたから、との語源だ。なるほど「呼ぶ」のvocareと似るわけだ。だが今の日本に、神は声を残さない。かわりにわたしたちが声を上げる。わたしたちは自らの有用性を社会へ企業へ訴えかける。これが使命と感じた、とうそぶいたりする。社会は企業はそんな中から、選んだり、選ばなかったりする。勤労に義務はあるが、雇用にはそれがない。訴えるのは、全て自由だ。それに生じたもの、全てに責任だ。痛い目を見ても、そう、自分のせいだ。神の職務怠慢は、弱い人を苦しめる。自由は恐ろしい。
それでも全ては戯言だ。環境に適合できない生物は、絶滅する。そうやって今までご先祖様は勝ち抜いてきたのだし、そしてこれからもそうなるのだろう。
と、わたしが強者なら、こう断言しただろう。何が言いたいのかというと、
職が欲しい。
……泣きたい
よく話し合って理解し合えて、できるようになるまで待つよ、みたいな展開なら
良かったね!
彼が大切に思っていてくれている事がわかって、良かったとは思うものの
なんで、一生とかそういう話に?!と思ったので。
彼氏も心の準備が必要なのかもしれないし、一生そのままにはしておかないと思うので、増田さんが望むなら、自然な形で望む時期に何とか頑張ってくれようとしてるのかなと、思います。
増田さんを思ってたら、増田さんが思うようにしてくれるでしょうから、大丈夫
彼にお任せして、彼を焦らせないで、増田さんも焦らないで、待ってたら良いのでは?
ここでアカギは自分の命よりサイの出目を優先した、つまり命よりギャンブラーとしての信念やプライドといったものを上に置いている
ウシジマくんだったら楽園くん編で中田が湯船に沈められるシーン
ここでも中田はキミノリを売って自分が助かることより、キミノリとの友情を選んで死ぬことを選択する
この法則は自分を犠牲に誰かを助けるっていうことも含まれるから、陳腐な表現っちゃそうだけど、これが巧く描かれている漫画ってあんまりないよね
http://anond.hatelabo.jp/20111011215058
どういえば良いんだろ
女なんだけど、煽りとかではないんだけど、言い方によっては下世話になってしまう。
増田さんが良ければ良いと思うけど、何がエエヤンなのかよくわからない。
http://anond.hatelabo.jp/20111011083552
勿論妄想でも釣りでもない。こういうケースもあっていい、んだろうか。でももし結婚して子供がどうこういう話になったら、どうしよう。
うちの近くのスーパーで捌いてあるイカを買ってきたら
吸盤とってないし、中骨も取らずにぶつ切りだし、足の真ん中にある歯みたいなのもついたまんまだし
やってある事といったら内臓取って切っただけで
時間がないから捌いてあるイカを買ったのに、意外と時間がかかったわ。
捌くのならぜめて中骨くらいは取ってほしかった。
僕自身にその自覚も意図もなかったが、僕は無意識に略奪ゲームをしていたのかもしれない。
誰だって弱っている時に優しい言葉をかけてもらえれば嬉しいものだ。
それに、自分で言うのもおこがましい話だが、僕の優しさなら彼女は受け入れてくれる。
いいだろう、匿名だから、それくらい書いたって、バチは当たらない。
心から彼女のことを想い、癒し、包んであげたかったことは確かだし、彼との仲を引き裂こうなどと思ってはいなかった。
でも、彼と彼女の関係が終りを告げてしまうことがもしあったとしても、僕と彼女の関係は終わらない。
その時だって、僕は彼女にまた優しい言葉をかけ、安心させてあげればいい。
遠すぎて会いに行けないから、それしかできないのがつらいけれど。
彼は彼女のすぐ近くにいるのに、一緒にいるための努力をしなかった。
それどころか、連絡もせず、一緒にいようと持ちかけられても断った。
なぜだ。それがくだらないプライドなのか。それとも、他に好きな人でもできたのか?
前者ならばそれは間違っていると言おう。価値観はそれぞれ、という以前の問題だ。
彼女がこんなにも望んでいることを、何の理由があって断るのだ。
僕自身、そっけないことがカッコいいと勘違いしていたこともあるから、だからこそ許せない。
しかし、それもこれも彼が悪いのだ。
僕に付け入るスキを与えるほど、彼女のことを寂しがらせ、放っておいたのが悪いのだ。
彼女がいつまでも待っていてくれると思っていたのが彼の傲慢だ。
もっとも、最後の起爆剤になったのは、僕自身にも原因はあるのだけれど。
それは“彼女に対して”詫びるつもりだ。
いずれにせよ、僕の思っていたとおりなのかもしれない。
彼女を悲しませないためにできる限りの努力をしなかった彼に、彼女を愛する資格はない。
君は僕の恋敵だったかもしれないが、この勝負、君の負けだ。
僕は少なくともそうだった。要領が悪いから。
だが、これが、経験と信念の差だ。僕と彼の差だ。
痛みを知った者の強さだ。
女、32にもなると、結婚してるかしてないか、旦那の経済状況、子供あるなし、
等、置かれているシチュによって話が合わなくなり、一緒にいるのが苦痛になってくる。
学生時代は同じ学年ってだけで仲良くできたけど、
32にもなるとも~不可能。無理無理。
以下愚痴話。(長文ごめんなさい)
この間都会に嫁いだ友人がこっちへ里帰りする事になり、本人が幹事になって集まる事になった。
私は既婚で小梨。友人は既婚農家子供3人、独身、独身の計5人。)
久しぶりに旧友と会えるとあり、忙しいだろうに他県に就職引越しした友人もわざわざ集まってくれた。
幹事に対して、周りの人がおのおの近況報告(自慢話ではない)してたんだけど、
幹事が何か気に障ったのか、あからさまに不快な顔をしてるのに気づいた・・。
私が話している時も、他の人が話している時も、全然楽しそうじゃない。
私自身、幹事に対して失言があったとしたら土下座モノなんだけど、
友人のたわいもない話(自分、彼氏も出来ず、仕事しかないわー・・その仕事もしんどいけど。私一生独身かもー><;あはは(笑))という捨て身自虐でギャグ取ってる話にも
しゃくにさわってる状況を見て、やっぱ根本的に幹事がおかしい。。。と確信。
(自分が幹事で人あつめといて、人の話に不快な顔するって、この集まりなんなのwww
お土産も買って、休みもわざわざ合わせて呼ばれて行った私ら、一体なんなの・・w)
と思ったけど口や態度には出さず、決死の集中力で周りのノリに合わせて平和に終わらせた。
のちに、その幹事が仕事や旦那との仲が上手くいってない、仕事も辞めようか悩んでる・・とメールが来た。
それで聞く話聞く話にイライラしてたんか・・と納得・・。
(憶測だけど、くだんの独身の子が国家資格で仕事しており、一生独身でも有意義に暮らせる、転職も有利、子供も旦那もいないし自由☆
これから素敵な旦那を選べる。普段は可愛い服も買ってのびのび輝いてるって所がしゃくにさわってた様です。)
もーこんな事になるなら、最初っからこういう会を開かず、自分の親にでも思う存分愚痴や話を聞いてもらえばいいんだよ・・
んで、幹事自身の精神状態が落ち着いたら、皆でのびのびご飯食べたらよかったんじゃないのかなー。
自分が辛いって事も、集まりの時に話してくれてたら、古い仲なんだしみんな励ましたり共感してくれてたんじゃないの?
そういう風に「健全な人との関係」を目指すべきだったのでは????と心底思った。
また、幹事自身が負けず嫌いで人と張り合うタイプなので、周りの人みんなが自分より幸せそうに思って、
でも、他の友人も色々と苦労しているし、「自分ばっかり苦労!!!」とか、そんなわけないんだよね。
口には出さないだけで、みんな色々あるんだよー。
幹事本人は周りから心配してもらったり、ちやほやしてもらいたかったのかもしれないけど、
それなら相手の話の相槌くらい、嘘でもいいから打てばいいんだよ・・。
「みんないいなぁ~頑張ってるんだね。」「そういうの大変だよね。辛いのに頑張ってるんだね。」とか言って、
「実は私は・・」って打ち明けたりとかだと自然に話せるし、相手も自分の話を聞いてくれるし慰めてくれるよね。
ただ受け身になって、不快な態度だけして、「察してよ~」ってのは幼稚すぎるわー。ないわー。
もー本当にあの会はすっごく苦痛だったので、もう会いたくない。
あのころがなつかしい。
彼女とのことを詳細に記すことは難しい。
今はそれだけにとどめておこう。
彼のことを記すのはもっともっと難しいだろう。
理解できない。僕自身の過去と同じ過ちを犯しているからこそ、殴り倒してやりたい気持ちはあるのだが、そもそも何故そういう行動に出るのか分からないことが多々ある。
といっても、伝聞の限りだけれど。
彼女が悩みを抱えていた原因ではあるけれど、皮肉なことに、その悩みが僕と彼女を結びつけたのだ。
少なくとも、悪く言わないようにはしていたつもり。
ただ、僕は彼と仲良くはできないだろうなぁ、とも思っていた。
それは今のような関係のせいと言うよりも、人格的な相性の問題だと思う。
実は、僕は彼の名前を知らない。
わざと聞かないようにしていた。
調べようと思ったら、どこまででも調べてしまえるから、絶対に僕には言わないようにと彼女にお願いしていた。
それでよかったのだと思う。知ってしまっていたら、僕は今頃どうなっていたか分からない、かもしれない。たぶん。
僕と何もかもそっくりな彼女。僕と何もかも正反対な彼。僕は彼の詳細を聞き、彼は僕の存在だけを知っている。
非対称だ。
神に誓おう。仏でもいい。
そのために、何のバイアスもかけない言葉だけを伝えるようにした。
「君は悪くない。でもこうしてみたらもっとよくなると思う」
「僕も同じ事を考えたことがある。でもうまくいかなかった」
「僕と同じ失敗をして欲しくない」
「一度は失敗しないと分からないけれど、できれば終わらせて欲しくない」
僕に出来なかったことを成し遂げてほしい。そして幸せになってほしい。
そんな想いだけがあった。
彼女は僕のことも愛してくれた。
ふたり同時に好きになるって、本当は許されないのかな。
僕はそんな引っ掛かりもあったけれど、それでも、僕は彼女がめいっぱい自分のことも愛してくれることが、ほんとうに嬉しかった。
ちゃんと、節度はあったのかな。
普通に見たら、どう考えても許されなかったけれど。
それでも、自分たちの間には、ちゃんとラインが引かれていた。
それでよかった。僕がそれ以上を望んでいることも、彼女には正直に伝えたけれど。
でも、ふたりが納得して決めたことでないと、意味をなさない。
或る人の話をしようと思う。
今となっては、最も愛すべき存在になった人のこと。
でも、その前に、少しだけ恨みつらみも書こう。
彼のことである。
正直に言おう。僕は彼に嫉妬していた。
会ったこともないのに。彼女からの伝聞でしか聞いたことがないのに。
僕のほうがずっと大人で、彼女に優しいんだと思っていた。
実際100人中100人がそう言ってくれるであろう自信がある。
彼女は彼のせいで悩みを抱えていた。
仕方ないのだというけれど、同じ悩みを過去に抱えていた僕には、到底許しがたいことであった。
なぜかって? 彼女は僕と同じだったから。何が、ということはない。全てにおいて。
僕と彼女は性別は違えど、血肉を分けた兄妹のような不思議な関係だった。
だからこそ、彼女が悩んでいる気持ちが誰よりもよく分かったし、過去の自分と同じ過ちを犯していた彼のことが許せなかった。
本音を言えば、自分のほうが優れていても、あばたもえくぼ、彼女が彼のことが大好きなのは仕方がないと思っていた。
僕も、それが成就するように精一杯の助言をして、彼女の心のケアもした。
少し悔しいけれど、僕は彼女が幸せになってくれれば、それでよかった。その力になれることが嬉しかった。
でも、僕が彼女にどんな言葉を伝えても、それは彼には伝わらない。
僕自身の存在さえ彼に知られてしまったのに。それでも変わらない。
もどかしかった。出来ることなら彼のもとへ行って、殴り飛ばしてやりたかった。
僕だって彼女の笑顔が大好きなのだ。それを守りたいと思っているのだ。
死亡動機を書かないために、志望動機を書くんだ。
知人が小学生の子供を亡くしました。病気の発見から約1年の闘病を経てのことでした。その子の病気はグレードⅢの脳腫瘍で手術ができないタイプのがんだったので、放射線と抗がん剤による治療しか選択肢がなかったそうです。
知人は子供の死後にブログで1年間の闘病生活の成行きを公表しはじめました。そこには、最初はただの体調不良でかかりつけの小児科にかかったこと、すぐさま大学病院で検査入院することになったこと、がんとわかって別の大学病院に転院したこと、日に日に悪化していく我が子の体調への不安と絶望、なにか打てる手はないものかという知人夫婦の苦悩、インターネットで見つけた「統合医療」で「重大な脳疾患の子供が完治した」ことに一縷の望みをかけるさま、(医師の制止を振りきって)大学病院を退院し遠方の統合医療の医師のもとに向う様子、などが綴られています。
ブログに登場する「西洋医学」の医師たちは、当時の病状と治療方針、薬の効果と副作用、治療の限界、今後のあり得る成行きについて、最大限誠実に説明しているようです。しかしその誠意は知人には届きません。知人に届くのは「決して大丈夫といってくれない」「我が子の今この時の苦痛を取り除けない」「強い副作用のある薬をたくさん飲ませなければいけない」「我が子が次第に元気をなくしていくのに、医師は何もできない」といった、ただただ西洋医学の先生が執り行う西洋の治療の限界とそれへの不信や不満、であったようです。
一方の「東洋医学や漢方を勉強し統合医療のクリニックを立ち上げた名古屋のO先生」は、電話で経緯を聞いただけで「なんとかなります、一度いらっしゃい」と請け合います。そしてクリニックに赴いた知人に対して「この程度なら大丈夫」「原因不明の脳の難病の子供を助けた」と話すのです。そして知人は続けます。「先生は不思議な機械で体のあちこちに金属の棒を当ててあらゆる臓器の数値を測定しました」「遠赤外線で体を温め免疫力をアップする施術を受けました」と。
知人は以前からいわゆる代替療法や「ナチュラルなもの」への親和性が高い人でしたから、このような成行きはある意味当然のことだったのかもしれません。もとより治癒の見込みの殆ど無い病気ですから、なにをやっても(やらなくても)所詮は同じことだったのかもしれません。であれば、残されたものが「できることは全てやった」「これでよかった」と悔いを残さないことこそが一番大事なのかもしれません。
しかしやはりぼくには件の「統合医療の医師」の悪辣さがどうにも我慢なりません。彼(女)はいったいどんな心持ちで「大丈夫、なんとかなる」と言ったのか、何百キロも離れた土地に「一度いらっしゃい」と軽く呼び寄せたときいったい何ができるつもりでいたのか、「不思議な機械の金属の棒」を子供の体に当てながらなにを思ったのか、何の効果ももたらさないだろう「施術」を施して高額の治療費を受け取ることに何の良心の呵責も感じなかったのか。
ブログはまだ半年前の日付までしか進んでいません。なので、半年前から今日までの間に事態がどう進展したのか、ぼくはまだ知りません。それでも最終的に知人の子供は亡くなりました。それが事実です。もしも例えば彼らが根気よく「西洋医学」の治療を続けていれば、治癒はともかく寛解の時期が訪れて、短いながらも一時的にでも学校に戻れる日がきたかもしれない、そうでないかもしれない。ぼくには「統合医療の医師」がなんの裏付けもなしに、ただ己の商魂からいい加減な安請け合いをすることで、一人の子供の一縷の可能性を奪ったように思えてなりません。
知人は子供の死後、同じような難病を抱えた子供たちとその親を支えるボランティアに参加しています。自分と同じ境遇の親子と関わりながら、我が子にしてやってよかったこと、できなかったこと、してやりたかったことをひとつずつ思い起こしながら伝えること。それはきっと今の知人に必要なことなのだと思います。子供を亡くした親の気持なんてぼくにはきっとわからないし共感もできません。だけど知人にはできるだけ早く、元気に穏やかに暮らせるようになってほしい。今ぼくが望むのは、知人が己の確かな経験をもとに、他所の誰かに「西洋医学の限界」や「統合医療の素晴らしさ」を軽々しく吹聴しないことです。