はてなキーワード: うずくとは
皆さんは『コブクロ』というデュオをご存知だろうか?「ゆず」と区別のつかない人、身長差がある方です。
今やその名をインターネットで検索すれば焼肉の部位よりも上位にヒットするようになった彼らは、2001年に『YELL〜エール〜』でメジャーデビュー。2007年に日本レコード大賞を受賞した『蕾(つぼみ)』や、卒業ソングとして知られるようになった『桜』も耳に馴染みがあるのではなかろうか。
「卒業式で歌った!」という方、羨ましい。
「ゆったりした応援ソングばかりのイメージ」という方、間違ってはいない。ロックな曲も多いがヒットするのはバラードばかりなのが歯痒い。
「ゆずと区別がつかない」という方、わかる。私も区別がつかない歌手は山ほどいる。
「自分は歌が上手いと思っているおっさんが部下を連れたカラオケで得意げに歌う歌手」という方も、まあそういう人が周りにいるのだろうから間違ってはいない。
「正直一時期流行りすぎて聞き飽きた、歌詞がサムくて胸焼けがした」と感じている人もいるかもしれない。コブクロの歌詞は綺麗事が多いから、そういうのがアレルギーな人もいるだろう。ただこれに関しては、小渕さん(小さい方。詞曲とギターを担当する)が「自分が落ち込んでる時に言われたい言葉を書いている」と言っていたので、そういう側面が大きい。ちなみに私は綺麗事や理想論を貫くタイプの創作物が大好きな人間だ。
「スキマスイッチ?」、豆知識だがコブクロとスキマスイッチはかなり仲良しだ。
「ゆず?」、違う。大先輩。
はてな語で書いているので前置きが長くなったが、本題は「コブクロの人生がほぼ漫画」という話だ。
ことわっておくと私はヤバいレベルのアニメオタクだ。ツイッター廃人で、ソシャゲに課金しまくり、dアニで毎日ホビアニを観て泣いている。同人誌も出している。家にはたくさんの漫画や小説がある。舞台も観に行く。映画もドラマも好きだ。
つまるところ「人の作った物語」が好きなのだ。人の作った物語には「テーマ」や「意図」があり、それを直接台詞で、あるいは暗喩で伝えてくれる。「これはこういう意味で描かれたんだなぁ……」と思うのが好きだし、作品を観ていて「なるほどこれがこの話のテーマだったのか、これを伝えるためにここまでの本編の全てがあったのか」と分かったときの感動は凄まじい。そういう意味でホビアニはテーマが明確なので最高だ。子供でもわかるように作ってある。
と、話がまた脱線したが、『コブクロ』という物語の持つ「テーマ」を私は「パートナーシップ」だと思っている。「パートナーシップ」というものを念頭に2人を見ているとエモくてエモくて仕方がないのだ。
小渕さん(小さい方)は宮崎県の生まれで現在42歳。18歳の時に亡くなったお母さま(有名な『蕾』の母だ)と、4年前に亡くなったお父さま(この時のことを歌った『星が綺麗な夜でした』という楽曲がある)は民謡を教えており、音楽に触れて育った。BOØWYに憧れるギター少年だった。
黒田さん(大きい方)は大阪府の生まれで同じく42歳。オトンとオカンの話はライブでも頻出するのだが、所謂ベタな"大阪人"家族だ。子供の頃から背が高く、ランドセルを背負っているとおかしいからと小学校は途中からトートバッグで登校させられていたらしい。めっちゃかわいそう。
2人が出会ったのは1998年、小渕さん(小さい方)は音楽で食べていきたいという夢をとうの昔に諦め、故郷を離れ大阪堺市でサラリーマンの仕事に精を出していた。シロアリ駆除会社の営業で主任をしていたそうだ。当時21歳で……すごいな……。そして仕事の憂さ晴らしに毎週末ストリートライブをしていた。いや元気すぎるだろ。ちなみにこのサラリーマン時代の経験から「会社はクソ!!!!」みたいな曲も幾つか作っている。強すぎる。
黒田さん(大きい方)はニートの傍ら(?)堺市の銀座通り商店街でストリートライブをしていた。「大きい方ってギターとか弾けるの?」と思った方、実はあまり弾けない。ノリで弾いていた。冬は軍手をして弾いていたらしいがそれって音とか出るのだろうか。にわかには信じ難いが歌がうますぎるので許されていたのだろう。
2人は偶然にも同じ時期に同じ商店街でストリートライブをしており、双方声がデカすぎるので徐々に周りから他のストリートミュージシャンがいなくなっていった。そして交流し、互いの歌を認め合い、「オリジナル曲を作ってくれないか」と頼んだのは黒田さん(大きい方)だった。カバーしか歌っていないのは小渕さん(小さい方)も同じだったがせっかくだからと了承し、仕事の合間を縫って少しずつ歌を考えた。そうして手探りで出来た歌が『桜』だ。テーマはうっすらわかるが、歌詞のまとまりがあまりなく、フレーズごとの繋がりがフワフワと宙に浮いているような感じがするのもそういう経緯が理由だ。
黒田さんは曲を貰うと早速ストリートで歌った。小渕さんが気になって聴きに行くと、歌はめちゃくちゃ上手いが相変わらずのめッッッッちゃくちゃなギターで珠玉の名曲『桜』は歌われていた。見かねた小渕さんが「イヤイヤイヤなんじゃその演奏は!!!!!貸せやい〜!!!!」(※イメージです)とギターを奪い取り、ノリでハモって一緒に歌い上げた。すると商店街の道を塞ぐほどの観客が集まり、その後二人はコンビを結成する。『桜』の歌詞カードに「こぶちとくろだだから、『こぶくろ』」と書いて配ったのが、コブクロ誕生の由来だ。
ここから先も時間があればあるだけ語れてしまうような長い道のりがあるのだが、あまり長すぎても読んでもらえないと思うので泣く泣くカットして「パートナーシップ」の話をしよう。
オタク的なデフォルメ説明をするなら、コブクロの二人は「夢を諦めた天才と、夢を直向きに追い続けてきた天才」のユニットだ。
夢を諦めてサラリーマンをしていた作詞曲の天才が、ガツンと頭を打たれたような衝撃と共に歌の天才に出会い、「この声を世界に届けたい、この声を一番生かせる歌を書けるのは俺しかいない」と創作意欲を刺激されて再びギターを握った(一人でストリートをしていたのでギターはずっと握っていたが、これは比喩です)物語だ。
いやもうキンプリのコウジとヒロじゃん?(オタクすぐそういうこと言う) オタクこういうの好きでしょ?うたプリ1期でもハルちゃんが言ってたじゃん、「皆さんの歌を作れるのは私しかいません!」って。まさにそれ。
1998年の夏、人生を変える出会いをしたんですよ二人は。ジョジョ4部か?
今でも小渕さんは黒田さんの歌が大好きで、ライブで黒田さんの『流星』聴いて泣くんですよ。好きすぎか?普通相方の歌聴いてステージ上で泣くか?
すごいのが、小渕さんわりと「小渕さんから見た黒田さんのことだろうな……」って歌詞を書いて黒田さんに歌わせるんですよ。黒田さんどういう気持ちで歌ってんだろうな、これ……てなる。
「夢を拾った桜の下で君に出会わなければ今ここにいない」(『STAGE』より)
「子犬のようにびしょ濡れでうずくまった rainy day 心にさす傘を探し彷徨った lonely days 君の声だけがどんな雨も避けてくれたんだ
(中略)いつでも 僕らここで一つになれる 夢だけ忘れないでいたなら」(『One Song From Two Hearts』より)
「短い針が止まれば長い針も止まる 同じ痛みを分け合えることいつしか喜びに変わるから (中略)出会えてよかった」(『時の足音』より)
イメソンだ〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!(ニコイチに弱いオタクの叫び)
これらの曲以外にもコブクロはめちゃくちゃ自分たちのことを歌ってくれてるので、私オタクはコブクロのことを「二人のパートナーシップを題材にした少年漫画」と勘違いしてしまうんですよね。音楽系コンテンツみたいな。
前述したように私はテーマや作り手の伝えたいことが見えるものが好きなので、こうもはっきりそれを伝えられてしまうと大歓喜をしてしまう。先程歌詞を挙げた『時の足音』なんかは特に顕著。
「誰もが一人 一つ 一瞬 一秒 一度きり 巻き戻せない時を躊躇わず生きていける そんな出会いを探してる」
という歌詞、まじで、コブクロのことじゃん……自分がそういう出会いをできたから、こんな歌が書けるんだ……てなって泣くんですよ。
私は常々「誰か一人に向けたたった一つの強い感情が一番多くの人の心に届く」と思っていて、まあこれも実は小渕さんに気付かされたことなんですけど。
小渕さんが以前インタビューで「千人に向けて歌っても誰も振り向いてくれない。だけどたった一人に向けて歌えば、千人が千通りの受け取り方をしてくれる」と仰っていたことがあって。全然違う場所だけど、映画『ボヘミアンラプソディ』でもQueenが『Bohemian Rhapsody』をレコード会社に「意味わからん」と言われた時に「意味は聴く人自身が受け取ってくれる。聴き手はみんな自分のことだと思ってこの歌を聴くんだ」みたいなことを言ってて、マジでそれ〜!!!!と思った。
コブクロNo. 1ヒット曲の『蕾』もそう。ただ一人、世界でたった一人しかいない自分の母親に向けて作った曲だからこそたくさんの人の心に届いた。うたプリの初期曲だって春歌のためだけに作ったラブソングがめちゃくちゃ私たちの胸に響くし、伏見弓弦の『ずっとそばで…』とかたった一人の愛しい人に向けてるからこそ強い力を持った曲になってる。大衆向けにぼんやり作られた歌は、やっぱりぼんやりとしたメッセージしか持てない。
そういうわけで、コブクロの曲っていうのはメッセージを伝えたい相手がたった一人であることが多い。小渕さんが自分自身に向けてのメッセージを書いてることも多い。ファンに向けて書いてる曲も。他人の歌じゃなく、自分たちの中にある物語を歌ってる。
だから私はコブクロが大好きだし、コブクロの歌を「胡散臭」と思っている人たちにこの『コブクロ』という物語のイメージソングとして聴いてみてほしいと思っている。
コブクロファンが 『桜』のことをやたら大切にするのは、この曲がヒロとコウジで例えた時の『pride』だからだ。あんスタで例えた時の『ONLY YOUR STARS』だからだ。うたプリで例えた時のオーディションソングだからだ。
二十代の女が40過ぎのおっさん達に2次元アイドルさながらのコンビ萌えをしているのもどうかと思うが、ここで語ったことはコブクロに強く心惹かれる要因うちの一つであって、黒田さんの歌の強さ、声のすごさ、トークの面白さなどなど複合的な理由で私は一生コブクロのオタクをやめられないと思うし爆音でコブクロを聴いては「歌がうめえ……歌詞がエモい……イメソンじゃん……歌うま……ここのしゃくりが最高……」と一生泣いてると思うし、これからもライブに行きまくると思うし、とりあえず大阪に移住したい。
何言っとんのか分からなくなってきたけど、とりあえず終わり。今年のツアーのオープニング映像を見て生きてる人間同士の映画のような奇跡の出会い、共に20年歩んできたパートナーシップへの尊さが爆発して書きなぐったオタクの長話でした。
数年前、社員旅行で1週間ほど会社の人と過ごすことになった時の話だ。
そのうち社員Aさん(シンママ・当時45)の5歳息子の子供が預け先がないってことで、5歳児も旅行には一緒だったんだが、
その5歳の息子が、まーワルガキで。
会って数時間の他の社員に「○○(苗字読み捨て)、バカ!」とか連呼したり、お腹殴りつけたり。
「慣れない環境だし不安にもなるんだろう」と未婚小梨の俺は思ってたんだが、Aさん曰く「すみませんね~。でもこれまだおとなしい方なんですよ~」って笑って
「○○ちゃん、ダメでしょ~」って一歩離れたところから声かける程度だった。
自分が小梨だから許容できないだけで、毎日あんなのと一緒なんてそりゃ疲れるだろうし
他の人がいる前で、あんまり自分が怒ってる姿を見せたくないのかもしれない。
そう思って、男児のオイタぶりにはしばらく目をつむることにした。
でも数日かけてどんどんエスカレートしていって、ある日男児はとうとう、他の女性社員のお腹を力いっぱい殴ってた。
殴られた子はしばらくその場にうずくまってて、それでもAさんは男児を叱る様子はなかった。
(殴られた女性に対してはもちろん誤ってた。子供は知らんぷりしてたが)
さすがにおかしいだろと思って、「Aさんって、子供のことあんまり叱ったりしないんですか?」と遠回しに効いてみたら
「どんなに叱っても言うこと聞かないから、3歳ぐらいで叱るのはやめました~。叱ったり怒ったりするだけ、心が乱れるから私が損だし。」
って言ってて目が点になった…。
え?俺が子供にキツいだけ?
もうその会社辞めたんで、そのAさんとも会うことはないだろうが、あのときの男児が分別のある大人に成長してくれることを願う。
今日という日は四月も終わりだというのにやたらと寒かった。件の病院に向かうのに外へ出たら季節を間違えたかと思うような肌寒さだったんだ。受付の30代前半くらいの女のまたかと言わんばかりの不快な表情も近頃はあまりお見かけしていない。こちらに目も向けずただ機械的かつ事務的に僕を処理しようとしていた。
「忘れました。」
僕は答えた。
「お名前を教えてください。」
「...忘れました。」
女はうんざりしたように僕の手首に括り付けられた忌々しいJEIを小型リーダーで読み込んだ。なんせこんなやり取りを今までに何十回と繰り返しているんだ。うんざりもするだろう。僕だって教えて欲しい。でも忘れてしまったんだから仕方ないんだ。女はまるで始末の悪いガキを追いやるみたいにして僕を出入り口付近の腰掛け椅子に座るよう指示した。僕のような悪ガキを何百人座らせたらこんなふうになるんだろうと思うほどカチコチな腰掛け椅子だった。まるで冷たい岩にティッシュペーパーを敷いてやったみたいなんだ。本当さ。つくづく嫌な女だが僕のような12級3号の国民にとっては国営医療を受けられるだけでもありがたかった。下級国民に世間は冷たいんだ。しかし彼らは言うだろう。必要なのは平等と多様性の受容、そして怠惰で猥褻な思想を排除することだと。
「先日、新元号が閣議決定され、令和の時代も残り3日となりました。グエンさんは令和をどのような時代だったとお考えでしょうか。」
「この53年間、我々第三移民にとっては激しい差別と闘争の時代でした。ハノイ郊外のスラムで育った私にとって当時の日本は電気羊の縮れた腸のように思われました。労働を求めて重金庫にホールデン・コールフィールドのハンチングを閉じ込めた私は...」
僕はひどく座り心地の悪い椅子に腰掛け、受付に座っている冷血な女の言葉をすっかりスカスカになってしまった脳みそで反芻していた。
僕は15、6の頃、祖父の家の屋根裏で見慣れないディスクを見つけた事がある。ホコリを被った古い型番の汎用リーダーで再生してみると「教えて欲しい 教えて欲しい 教えて欲しい」と歌う男の声がノイズ混じりに聞こえてきた。頭がおかしくなったのかと思うかもしれないけど、それからしばらく裸電球が灯る薄暗い屋根裏で一人うずくまって泣いていたんだ。おかしな話かもしれない。当時僕には教えて欲しいことが山ほどあった。誰でもいい。何でもいいから答えて欲しかった。何をと聞かれても、それは対数計算の解き方でも、化学教師の本当の国籍でも、質の良いマリファナの見分け方でもないことは確かだった。僕は本当のことを求め、渇望していた。まるで冷たい宇宙に漂う北斗七星のようなもの。今ではそれが何だったのか、思い出すことすらできない。
「点数配分を誤った第一移民たちが私たちに馬の目を抜くような大量の綿菓子を抱え込んでいました。我々は令和という時代のカタルシスに翻弄された夜鷹として...」
普通はそれぞれの正しさを競わせるんだけど、おまえはうずくまって「おまえの正しさは正しいとは限らない!」って叫ぶだけだし。
家にテレビが無いから、社員食堂で垂れ流されているワイドショーだけが情報源なんだけど
去年の春 桜が満開の駅で、ピカピカの新卒だった俺はうずくまっていた
新生活を始めたくなくて、新しく暮らす街の駅に着いた途端動けなくなったのだ
本当はこんなはずじゃなかったのに
俺は当時 内定をもらった中で、一番有名でデカくてCMもよくやってる所に就職した
デカけりゃ潰れる事も無いだろう
一通のメールが届いた
詳細は割愛するが「数日間山奥で合宿」「携帯使用禁止」「外部には漏らさない事」
ネットでよく見るブラック企業研修 そのままの内容で一瞬頭がクラクラした
だけどもう卒業も目前に迫っているし
就職活動できる時期でもない
それに、山奥ってだけで内容は普通のビジネスマナーとか そういうものかもしれないし...そう誤魔化すうちに合宿の日はやってきた
「社会人としての心構えを作るために」新入社員は数日間山奥で叫び続け(特定出来ないよう詳細は省く)毎日毎日繰り返し訓練を続けた
夜は2人1組で宿泊部屋が与えられて、俺は真面目な眼鏡の男と同室だった
携帯禁止だろうが 外の世界の情報がないと気が狂いそうになったので俺は夜中いつも携帯を触っていた
付近にバス停は無かったが(独自のバスでここまで連れて来られた)4時間歩けば 交通機関にたどり着けるようだ
当初 眼鏡は気さくなやつだったのに、もう完全に笑顔が無くなっていたし、真面目な性格が災いしたのか 合宿の訓練での失敗を真剣に悩んで寝言で「すいません、すいません」と謝るほど病んでいて可哀想だと思ったのだ
俺の脱出計画を聞くと 眼鏡はすっくと立ち上がり部屋を出て行った
は????
俺が呆然としていたら 眼鏡はすぐに戻ってきた 後ろに指導教官を連れて
謀反者の俺をチクったのだ
俺は滅茶苦茶にしばかれた
肉体的にも精神的にもきつかったが
罵倒の言葉や行為より この状況にいる自分が惨めで ただ親に申し訳ないとそればかり考えていた
事が終わる頃にはもう日が暮れていた
一人で冷めた弁当を食った
合宿に行く前、家族は就職を祝って俺の大好物のすき焼きを作ってくれた
「よかったなぁ よかったなぁ」
「お前の良い所を見つけてくれる会社が絶対あるって 言っただろう?」
「立派な会社に入って 自慢の息子だ」
弁当に少しだけ入っていた肉を食って そんな事を思い出してしまい 俺は急に怖くなった
この合宿が終わったら俺はどんな顔で家に帰ればいいんだろう?家族はきっと笑顔で「どうだった?」って聞いてくるだろう
本当の事を話したらきっと悲しませる
ちゃんと嘘つけるだろうか
それが一番怖かった
耐えて耐えて 合宿最終日を迎えた
今までの俺たちを認める言葉を沢山投げかけて、もう20歳もすぎているのに 子供みたいに同期は皆泣いていた
久々に暖かくてうまい飯も出た
帰りのバスで「いい経験になったね」と口々に語り合う同期達の隣で 俺はぼんやりと外の景色を眺めていた
来た時には積もっていたはずの雪が すっかり溶けて無くなっていた
ようやく一人になって家に帰るまでの間
俺はずっと迷っていた
本当の事を話して就職を蹴るか
家族の顔を見た瞬間 きっと許してもらえると
そう思って 合宿の全てを話した
けれど俺の予想に反して 家族には認めてもらえなかった
そういうのは良くある話で、社会人とはそういうもので、多少の辛いことは乗り越えるべき せっかく大きな会社に入ったんだから、頑張りなさい そうやって励まされて励まされて
俺はやめる勇気もなくて、ただ鬱々とした気持ちばかりが大きくなって 入社日を迎えた
入社式では チラホラと空席を見かけた
俺のほかにも辞めたいと思った奴 やっぱりいるよなと安心した一方で、こんなにも(ほぼ全員)が辞めずに入社式に出ている事も異常だと思った
続きは後日書きます
○朝食:サンドイッチ
○昼食:豚のご飯
○夕食:大根おろし、納豆、卵、ツナ缶を混ぜたものをかけたウドン。
○調子
はややー。
なんていうか、なんのためにエンドユーザーと俺ら開発者の間に何人も何人も何人も何人も何人も挟まってるのか、少しは考えてくれよと言いたくなるぐらいに間の人たちが何やってるか見えてこない。
その、自分の仕事をベストエフォートと思うのはよくないみたいな話は、重々わかってるけど、それでもさすがに今回のドタバタは耐えきれない。
イライラすると、体の調子がままならなくなるのか、帰り道に路上演奏をしている人がいて、その演奏に耐えきれず、その場で耳を塞いでうずくまってしまった。
気持ち悪い……
○グラブル
グラフェスと予想してたけど、どうしても水着ロゼッタが欲しくて朝にいきなり回したら、本当に出てかなりかなり驚いた。
ロゼッタを全て集めるのが、大目標だったので、目標が一つかなった。嬉しい。
残業で遅かった……
ゲームに繋がらなくてプレイできなかった。こういう運営型のゲームでこういうのがあるのは、仕方ないね。
ついさっき早朝5時頃、日課のランニングしてたら帰り道にうずくまっている女性がいた。発見先は渋谷の繁華街から徒歩10分くらいの場所だからおそらく酔いつぶれたんだろうなとは思ったけど、人通りの無い道だし、まだ寒くて雨が振り始めたから気になった。とりあえず大丈夫か聞きながら肩を揺すってみたが反応が無い。ランニング中でスマホをもっていなかったので、近くの交番に行くことに。行ってみるとパトロール中で誰もいない。一旦帰宅することに。救急車呼ぶかどうか迷ったら電話する番号があるのはなんとなく覚えていたので検索して電話してみたが、電話が込み合ってるって言われて通じない。結局初めて119番したんだけど、やっぱり119番しか無い?他にいい方法あるなら教えて。
119番って結構決断を迫られるんだな。「うずくまっている人がいて、多分酔いつぶれだとは思うんだけど、寒いし雨降ってるからちょっと気になってる。どうしたらいいか。」って聞いたら、救急車は必要かどうか逆に聞かれて。まあでも仕方ないか。アルコールの社会的コストは半端ないな。自分も好きだけど。
ふとした瞬間に足元が崩れ落ちるような気分が襲ってくる。
今まで価値のあると思ってたものが全て無価値に感じる。今この場で死ぬことが最良の選択で、もっとも魅力的に思える。
体調のいい日だったら、「少し休憩しよう」とか「美味しいもの食べよう」とか切り替えが出来るけどその瞬間だけはどうしようもなくなる。頭がきちんと働かない。
その時は、「自殺 失敗」や「自死家族」で検索したり、「いのちの電話」をかけたりする。
前者は、死ななかった苦しみや家族を失った苦しみが書いてある。
後者はなかなか繋がらないが、話を聞いてもらうと少し楽になる。
(繋がるコツは、北海道〜沖縄まで全部チャレンジすると大体どこかにはかかる)
この辛さは、気持ちの持ちようだとは思うけど解消法が分からない。
知っている人がいたら、教えてくれ。
私の右手は震えていた。右手を抑えると今度は左手まで震えだした。
「おいお前、今日が初めてか?」
隣にいた大男が声を掛ける。
「お前、武器持ってねーじゃねーか」
「どうすんだよ、まったく、俺の貸してやるから使ってこい。」
「モーニングスターって言うんだ、かっこいいだろ?」
大男はそのままホームの先へ歩いて行った。
電車は1分もしないうちに姿を見せた。
電車の中は、異様な光景だった。黒いスーツとバッグの人間で溢れかえっていた。止まる時までどの顔も下を向いていたので表情はまるで見えなかった。
電車が止まり、扉が開いた瞬間、サラリーマンたちがドッと外に飛び出してきた。最初の攻撃で我々の「相手が整っていない間に襲いかかる」という計画はあっけなく崩れてしまったようだった。
私に武器を渡した大男など何人かが踏みとどまっていたが、それもサラリーマンの渦の中に巻き込まれていき、1人また1人と消えて行った。
我々は総崩れになって散り散りに退却した。大変な負け戦になったと思った。階段を降り、改札を出た。大通りへ向かうのは右だが私は左に走った。それが良かったのか、こちらへ追ってくる人数はだいぶ少ないようだった。
このまま逃げられるんじゃないだろうか...そう思った時、背中に鈍い痛みを感じ、私は派手に転んだ。後ろを見るとビジネスバッグが落ちており、1人のサラリーマンがこちらへ歩いてきていた。
「お前、俺に走りで勝てると思ってんの?こっちは皇居の周りを毎日2時間走ってんだよ?」
つかつかと私の目の前に来てバッグを拾った。
絶体絶命だと思った時、急にサラリーマンがうずくまり、変な声を出したかと思うと、息が小さくなっていき、うううと声を出して動かなくなってしまった。
「過労死」と私は思った。働きすぎたサラリーマンは時々その限界を超え、死んでしまうことがあることを私は知っていた。
九死に一生を得た私は、そのまま駅を出て、寂れた街を走って行った。誰にも会わなかった。
走りながら私の心は、堅く堅く決心を固めていた。
・38週プリミ(初産)と秘書が会社を休めと言っている事から産前休暇中。
・急にうずくまり即病院に連絡していのでおそらく破水した。(急な陣痛にしても周りのリアクションからして破水が妥当)
・さあやは実は医者ではなく助産師。(助産師であれば21歳からなれるらしい)
・ダイガンが産婦人科医師。分娩時になにか(大量出血や会陰切開、吸引分娩など)あった時の為に居るがお産が順調なら特に何もしない。
・ほまれが一番最初にかけつけたのは家族や夫の居る場所よりも空港の方が病院に近かったから。空港に居たのははなの予定日に帰国を合わせたのかもしれない。
・ほまれが来たとき既にいきんでいるので出産も終盤。病院に来た時点でかなりお産が進行しており、麻酔は出来ない(しても効く前に出てくる)状態だったと思われる。
それでも残る疑問
・分娩台じゃなくただのベッド。あれではいきめっていうのはかなり辛い。
・赤ちゃんの心音や陣痛をチェックする機械(NST)をつけていない。お産が順調だから不要と判断したのだろうか。
・血道確保の点滴無し。大量出血したらどうするつもりだったんだろう。
導き出される答え
「ハラミ会」じゃないけれど、女性の人権やセクハラに対する世間の意識が高まることで、女性とどう接していいかわからなくなった。
ぼくは今年31で、はっきり言ってけっこうモテると自分では思っている。というのも、女性に断られるとか、ぞんざいに扱われるという経験がまったくないからだ。
それどころか、たいていの女性とは仲良くなれるし、事実として好感を持たれているし、ネットでいわゆる「非モテ」たちの悲惨な体験談を読むたびに、自己評価は高まるばかりである。
今までのぼくは女性と仲良くなると「ああ、かわいい。セックスしたいな」と思ってきた。事実、セックスしてきた。自慢することじゃないが、断られることはほとんどない。
しかし、今やこんな行為は世間的にNGであることは明らかだし、ぼくもやっちゃいけないな、と思っている。
フェイスブックを見ていて、かつてセックスした女性の投稿が表示されると、ああ、ひょっとしたらこの子にMeTooされるかもしれない、と頭によぎる。それは恐怖である。
だが、いざ「セックスをしてはいけない」となると、女性とどう接していいかわからなくなる。
これ以上仲良くなったらセックスしたくなるな、と考えてブレーキを踏むぼくがいる。それは女性と楽しく会話することができないことを意味している。
あまり踏み込まず、当たりさわりのないことを言ってやり過ごす。今のぼくは、女性と接することに臆病になっている。
さっきも若い女の子と名刺交換をして、ああかつてならこの子に情熱を燃やし、セックスに邁進したんだろうなと切なくなる。ショートカットでメガネの子だった。ああ、その小さい口で、ぼくの性器をくわえてごらんよ。叶わぬ思い。虚しい。
女の子と距離を縮めていって、そして服を脱がしてセックスをするのは、とても崇高で、何物にも代えがたい楽しい時間だった。あの生命の輝き。まるで太陽へ少しずつ近づくイカロスのような気分。
しかし、それはもう禁忌となってしまったのだ。それでもセックスがよぎる。女性と無味乾燥な会話をして「かつてなら……」と考える。
きっと同じことを考えている人間はいっぱいいるはずだ。たった一人でこの思いを抱えて、暗闇のなかでうずくまっている友よ、朋輩よ。
みんなどうやってこの思いを克服しているんだい。ぼくはセックスに呪われている。どうやったらこの呪いが解けるのか、男性性から自由になるのか。だれか教えてくれ。
当時は溢れ出る正義感と、ずっとつるむ友達はいない程度のコミュ力、そこそこの成績もあって
どんどん「まとめあげる」的な中間管理職的なことの難しさだとか、
色々言われるのにも疲れて正直「向いてないな」って思ってた。
でも学期ごとのそういったもののの選出は名前が上がり、向いてないと正直に言いつつも結局やることになるのがほとんどだった。
行事のための看板製作などは喜んで参加してたし、そうのには関わることはしたいと思ってた。
その流れで生徒会に立候補するのは、自分でもまっとうな理由だったと思っている。
だがしかし、そこには大きな壁があった。
生徒会は内申にしっかり書かれ、影響する。そのため、やりたがる人間が多かったのだ。
自分の中学校の生徒会選挙は1年任期。毎年3学期に1,2年が、投票する。
そこそこ付き合いのある同学年はともかく、何もしらない下級生、上級生から票が入ってる気がしなかった。
おそらく同学年からも入ってないとは思わないが決め手なるほどの支持を得られてなかったのだろう。その程度のコミュ力だった。
だがしかし、まだチャンスはあった。
その後に選出される議長は、ほぼ生徒会と同じ行動をし、行事に関われる。
幸い自分は何度も役職を任された経験上司会を何度も経験し、そこそこできている自覚はある。
しかもこれは
・必ず2年生から
で決められる。
他に枠はなくこれが最後のチャンス。だがしかしこれなら任されると思った。
…が、落ちた。
選ばれた子は友人だった。
だがしかし、その子は内申+αが目的で、本当にそういった仕事をしたかったのではないのは感じていた
生徒会長もよく知った中ではあったし、教師受けもよかった(実際、担当した教員から「この役職が向いてる、推薦する」とお墨付きももらっていた)。
だがしかし、自分が良くないと思ったことは曲げられないタイプで「扱いにくい」と感じられていることも自覚していた。
多分敗因はそこだろう。そう自覚しつつも非常に悲しく悔しかった。
それまで面倒を避けてたような要領の良い子が7~8割(もしかしたらそれ以上)が占め、
いままでコツコツとクラスや委員会の運営を支えて来たような子たちはほとんど落ちていった。
それからしばらく進みできる限り行事に関わるものに参加しつつ、結果受け入れて生活していた。
中学3年にもなると受験を意識し、更に「◯◯長」をしたがる人間が増えた。
郷土に関係することをテーマを分けて発表する、という内容だったのが、
他の希望者多数のテーマに組み込まれた。しかしそれでもやっぱりそのテーマをちゃんと学習したくて立候補した。
だがしかし、昨年までが何だったのかというくらい希望者多数となり、じゃんけんで負けた。
勝者は正直、同学年の支持がない子だった。
案の定、自分のやりたかったテーマは影が薄れ、忘れ去られ、それでもやることはやって着々と作業を進めていた。
そして発表時テーマの班長は決まっていながら、それとは別に発表の「監督」を複数人選出することになった。
もちろんこれは内申に影響しないし、監督になると発表する側にはなれない。
そして後半は発表に準備だけになるし、実質、監督が指揮を取ることになる。
「船頭多くして船山に登る」状態になるのには反対したが通らず、やはりそこで自分が担当することになった。
(今思えば、それまでの行動で求心力がなかった班長で進めるのを避けたかったのかとも疑っている)
発表側をやりたかった自分は不承不承、しかし決まったものは仕方ないと全力で発表に向けて走り回った。
発表側になった班長や、人員が不足したときいつのまにか発表側に回った同じ監督だった子を羨ましいと思いながら。
確か、小道具の場所を把握してないのは監督としてどうか、的なことだったかと思う(余談だが小道具係は別にいる)
些細なことだし苦笑いしてやり過ごしたが、これまでのことでパンク寸前だった自分にはだめ押しとなって
本番中誰も来ないところでうずくまってこっそり泣いた。
部長・副部長は生徒の投票を加味して「顧問が選ぶ」という方式だった。
当時の部活は「顧問VS部員」の構造があった。その結果、明らかに「顧問が付き合いやすい」
「票が入ってないわけではない」と強調していたが、密な付き合いのある部員間の話では
それが嘘でなくても1,2人いる?という票数であるのは皆察していた。
(ぶっちゃけ、得票数TOP3の子たちは顧問に不満は持ってなかったんだから
その結果、顧問が転属して居なくなると「部長・副部長VS部員」の対立構造に変わり、
部長、副部長が居づらい環境になり、不満を持つ子たちが言うことを聞かず、落ち込んでいってるのがわかった。
自分は比較的その子達と仲良かったのもあり、緩衝材として連絡する、仕切る、やきもきするという謎の構造ができていた。
正直この行動は部長たちの孤立を加速させ、良かったのかは自分でも疑問であったが、そうしないと団体行動も怪しい状況だったのだ。
結果、最初に話した議長/各種委員長でもあった2人は生徒会に入り浸り、ますます対立を深めていった。
これに関しては正直、仕方ないことだと思うし、それほど2人は追い詰められて居たと思う。
だが、生徒会室で仕事がなくても談笑した姿をみると自分が本気でやりたかったことを逃げ場にしていること、
その一方で自分がやりたくもないことばかりしている状況にがすごく虚しかった。
その気持を抱えながら部活動はやりとげた。
今でもこの一連の流れは思い出す。
まあ、その程度でなにやってるんだろう、明らかに貧乏くじじゃないか。
そして残念なことにこの正確、環境は今でも変わってない。
根本的な理由は「やりたがる」「でしゃばりたがる」正確と長年いじられ続ける容姿、
心意気をうまく伝えられないコミュ力、プレゼン力であり自業自得だ、と自覚している。
本気で「義」を理由に口を出ししても、「自己のため」と誤解されることも多々ある。
そこを変えないと…と思いつつも、「誰かがやらないといけないこと」をやり続けても「やりたいこと」がやれない思い出を愚痴らせてほしい
29歳の女性です。
お陰様で大病もなく、入院も一度もしたこともない。しかしここ最近、私は妙に周りの人達よりも常に眠たい、常に身体がだるい感じがあるのでは、と思うようになった。
0歳の頃の思い出話を母に聞くと、いつもこう返ってくる。「夜泣きは最初の一ヶ月くらい。泣かず一日20時間くらい寝てくれたから育てやすかった。寝すぎて怖かったからよく呼吸を確認しに行ってたし、ミルク量を確保するため起こさないといけなくて辛かった」。
3才頃でもまだ「寝る子」で、アルバムに残っている集合写真に殆ど私の姿は残っていない。いつも部屋の隅、レジャーシートの上、車の中で昼寝を始め、解散まで起きなかったらしい。お友達と遊んでいる途中でもウトウトし始め、複数人の子供が走り回って騒がしい部屋の真ん中でうずくまって寝ていることもあったという。
朝の幼稚園バスでもいつも寝ていたらしい。これは今でもそうだが、ボーッとした子だねとよく言われていた。普通幼稚園から帰ってきたら家で遊んだりするものだが、私の場合は昼寝していた。あまり遊んだ記憶はない。休日遊びに連れて行ってもらっても車の中では常に寝ていたそうだし、事実疲れるから、あまり外をウロウロするのは好きでは無かった。(遊園地でも乗り物に乗るより、ベンチでアイスクリームを舐めながらボーっとするのが好きな子供だった)。
小学校に上がると体育がある。体育そのものよりも次の授業が苦痛だった。身体が重くて、よく眠くなった。また家に帰ると身体がぐったりすることもよくあって、帰るとよく昼寝していた。この昼寝の習慣は中学でも続いた。
高校では授業中によく寝た。部活には入らず、帰りの電車の中でよく眠った。この頃から私は虚弱体質なのでは?と思うようになった。が、疲れるとかそういうのは気合の問題だけな気もするなとも思い直した。
大学は進学したものの、朝起きられず(普通に23時くらいに寝てたと思う)、出た授業も眠気が強くてまともに聞かず、半年留年してしまった。一年休学し、半年分の学費を稼いで復学しなんとか卒業した。
就職先は近所の小さな企業の事務職。9時5時勤務の比較的ゆるい仕事だったと思うが、それでも眠気はついて回った。毎日のようにエスタロンモカなどを2回飲み、エナジードリンクでごまかしながら仕事をし、家に帰ったら夕飯も忘れ、朝の7時まで泥のように眠った。それでも眠気は続いた。
あれから転職して別の企業で働いているが、相変わらず眠気や身体のだるさをごまかす生活を続けている。
寝ても寝ても、寝た気がしない。これまで一度もぐっすり寝たという感覚がない。金晩に寝始めて、土日月と寝ても翌火曜日の朝まだだるくて、これ以上寝てももう改善しないなと諦めて仕事に行く、そういう感じだ。今朝は、土日月ひたすら寝続けたのにまだ身体が重すぎてベッドから出れず、仮病を使って休んでしまった。
気合が足りないと思う。でも、眠気と気合というのは本当に関係してるんだろうか?みんなこんな感じの身体の辛さを抱えながら気合で、深夜まで働いているのだろうか?
※とても長いです
何かのまとめでも見た気がするし、世界三大痛のような誰かが勝手に作ったランキングにもあった気がする。
Discoveryチャンネルだったかのドキュメンタリーを見たときにはすでに知っていた。
その映像では男性が痛みを抑えるためにマスクで何かを吸入していたり、大麻を薬用で使えないか、
とか頭痛に関連することが色々出ていた。大変なんだなぁと思っていた。
ある年の冬。確か1月だったと思う。11月かもしれない。「1」という文字が入っていたはずだ。
ある日、変わった痛みに襲われた。
最初は無意識に右目をぶつけたことを疑った。鏡で見た限り目立った外傷はなかった。
目を上から手のひらでゆっくり押すと、何とも言えない圧迫感?があると思うが、それに痛みが加わったような感覚だった。
こう表現すると少しも痛そうに思えないのが残念だ。実際はとても痛かったのだが。
痛みで目を開けられないし、ひどいときは眼球が破裂するんじゃないかと不安だった。
毛布か何かを握りしめて丸くなったり身を捩ったりして2時間ほど過ごしたと思う。
「不摂生の賜物なんだろうな」となんとなく思っていた。
次の日もだいたい同じ時間に、痛みに襲われた。そこから2週間ちょっとで十回ほど、そういうことがあった。
継続する時間や発作(?)が始まる時間にずれや差がある場合があるものの、記録を見た限りではそこそこ定期的と言って良さそうだった。
このころには、これはあの群発頭痛ってやつじゃないか?と疑い始めていた。
痛くなる部位は目の周辺が多い。だいたい右目側だった。
痛みは頻繁に大小した。その大小の周期から、どうも脈拍のような定期的なものとは思えなかった。
さらに痛みは1時間から3時間、長いと寝るまで続く。ただあの痛みで寝れるとは到底思えないので気絶しているんだろうか、とも思っている。
その継続時間内でも痛みの大きさには波があって、これにも周期性のようなものはなかった。
痛みの質もほとんど圧迫感だけからかなりの鋭い痛みまでの幅で大きく変わるらしかった。
手の指の骨が折れたことがあるが、折れた指に突き指するような形で何かが強くぶつかったときが、その鋭い痛みと近いと思う。
痛みの質は数時間の継続時間の中であまり急激に変化はしないらしい。
立っていられるが車の運転のような作業はしたくないくらいの痛みからだいたい始まり、
徐々に寝た状態で丸くなって、何か握ったり噛んだり、痛みに反応して体のどこかしらが硬直するくらいになり、
ひどいときは目を開けられなくなり、眼球が破裂しそうな感覚、涙、声が漏れる、体を止めていられない、くらいになる。
何度か経験して、「確かにこれは、痛みの質や大きさ次第では目を抉られると言ってもいいような痛みだ」と思った。
ドキュメンタリーの男性がベッドの周りを歩き回ったり唸ったりしていたのがよく分かった。
部屋が広ければ私も歩き回るだろうし、たまに唸っている。
この痛みの質なり大小なりがどう変化するのか、継続期間がいつまでか、わからないことが辛かったし、面倒だった。
まず、予定を入れることができなくなった。
「病気です、寝坊しました、交通機関が麻痺していました、冠婚葬祭です」あたりは何かの予定をキャンセルできる理由だろう。
相手の方によく思われないかもしれないけれど、一応は相手も「そういうことは起こりえる」と判断してくれるからキャンセルできるだろう。
では「目の奥がめちゃくちゃ痛いです」というのはどうだろうか。
少なくともこんな理由で予定をキャンセルして、その後も付き合いを続けてもらえる、なんてことはあまりないんじゃないだろうか。
友人や家族なら別かもしれないが、理解なんて到底してもらえない理由だろう。
そもそもそんな意味が分からないことを言う奴と付き合いを続ける理由もないんじゃないか?
そんなわけで頭痛の期間が明けるまで予定は入れられないようになった。
外出が怖くなった。
おそらく街中で、急に頭痛に襲われたら、例えば横断歩道の途中で。
渡り切れないかもしれない。頭痛が酷ければまず渡り切れないだろう。
階段も手すりなしではまず昇り降りできないだろう。
一日に10人も通らないような雪道で数時間うずくまっていても死なないかもしれない、けれど確信はなかった。
次の頭痛が怖くなった。
一度、頭痛が始まると、「痛みから逃れるためなら何でもする」衝動が起きるようなこともあった。
この衝動が本当に怖い。平常時に比べると様々なアクションのハードルがかなり下がっていると思う。
壁に頭突きをする、声を上げる、痛みを少しでも軽減してくれそうな動きはしてしまいそうだ。
頭痛時に周囲に銃とか刃物とか、開いた窓があったら本当に危ないのかもしれない。
医者は前に行ったところではCTかMTを半日待たされて撮影した挙句、
「器質的異常はないですね。あとアレルギー性結膜炎です」なんてことを言われて結局何にもならなかった。
他でもらった鎮痛剤も効かなかった。
冬に外で数時間うずくまって動けなくなるかもしれないリスクを考えるとあんまりな成果だと思う。
頭痛がない時期に行けばいいんだろうか。
偏見かもしれないけれど、
「前痛かったけれど今は大丈夫です。でもまた次もきっと頭痛が来るので鎮痛剤なり予防薬なりください。」
なんてお願いが聞いてもらえるとは思えない。
そんなこんなで、ある日すうっと頭痛は起こらなくなった。
それから再発といったん静まる、を繰り返している。
前回は10日と少しくらいで、前々回に比べると期間が短くなっていたこともあって
「徐々にマシになっているならいいな」なんて楽観的だった。
そもそも前々回と前回には2年の間隔があった。
私は群発頭痛というものには年単位の長い間隔なんてものはないと思っていた。
だから2年も感覚のあった私の頭痛は群発頭痛ではなくて別の何かなのだろうと思っていた。
一回だけで終わることを期待していたけれど違った。
今日調べなおしてみると群発頭痛は年単位で間隔があいたりするものらしい。
寄生虫よりはマシなんだろうか。
医師に診断されたわけではないので、自分でそれらしいと考えているに過ぎないけど。
私は相当ダメなやつなので頑張らないといけないと思っていたところに
頭痛が足を引っ張ってきたので少しやる気をなくしている。
キャンセルした予定もある。目の前の人が急に丸くなって唸りだしたら誰だって困るだろう。
これまで積み上げたものは決して大層なものではないが、それでも何度も崩れるさまを見てしまっては積み上げるのは馬鹿らしく思う。
賽の河原のようだ。
ここで吐き出したのでまたやれるだけ頑張ることにする。
駅から自宅に帰る途中、気づくと速い動悸で胸が痛くなった
帰り道、走るようなことは一切してない
それどころかいつにも増してのんびりと歩いていたのだ、ゲームなんかしながら
だから動悸と胸の痛みに息苦しさを感じて、これはただ事ではない!と焦った
動悸が激しく胸が痛く苦しく、その場に座り込みたくなるような
けど 住宅街の静かな道でうずくまるのもためらわれ、ゲームで立ち止まったフリをした
動悸が少し落ち着いて、あまり刺激しないようにと いつにも増してのんびりと家に帰った
今も若干痛みがある
ネットで調べたが、候補としてはズバリ心臓の病気か、貧血からくる動悸が確率高そうだ
心臓は親族に何人か患った人がおり、あまり強くはない遺伝もあるようだし
貧血はもう持病レベルの慢性症状だ、しかも最近ちょっと悪化した自覚もある
なんにせよ放っておいて良さげな症状ではないようだった