当時は溢れ出る正義感と、ずっとつるむ友達はいない程度のコミュ力、そこそこの成績もあって
どんどん「まとめあげる」的な中間管理職的なことの難しさだとか、
色々言われるのにも疲れて正直「向いてないな」って思ってた。
でも学期ごとのそういったもののの選出は名前が上がり、向いてないと正直に言いつつも結局やることになるのがほとんどだった。
行事のための看板製作などは喜んで参加してたし、そうのには関わることはしたいと思ってた。
その流れで生徒会に立候補するのは、自分でもまっとうな理由だったと思っている。
だがしかし、そこには大きな壁があった。
生徒会は内申にしっかり書かれ、影響する。そのため、やりたがる人間が多かったのだ。
自分の中学校の生徒会選挙は1年任期。毎年3学期に1,2年が、投票する。
そこそこ付き合いのある同学年はともかく、何もしらない下級生、上級生から票が入ってる気がしなかった。
おそらく同学年からも入ってないとは思わないが決め手なるほどの支持を得られてなかったのだろう。その程度のコミュ力だった。
だがしかし、まだチャンスはあった。
その後に選出される議長は、ほぼ生徒会と同じ行動をし、行事に関われる。
幸い自分は何度も役職を任された経験上司会を何度も経験し、そこそこできている自覚はある。
しかもこれは
・必ず2年生から
で決められる。
他に枠はなくこれが最後のチャンス。だがしかしこれなら任されると思った。
…が、落ちた。
選ばれた子は友人だった。
だがしかし、その子は内申+αが目的で、本当にそういった仕事をしたかったのではないのは感じていた
生徒会長もよく知った中ではあったし、教師受けもよかった(実際、担当した教員から「この役職が向いてる、推薦する」とお墨付きももらっていた)。
だがしかし、自分が良くないと思ったことは曲げられないタイプで「扱いにくい」と感じられていることも自覚していた。
多分敗因はそこだろう。そう自覚しつつも非常に悲しく悔しかった。
それまで面倒を避けてたような要領の良い子が7~8割(もしかしたらそれ以上)が占め、
いままでコツコツとクラスや委員会の運営を支えて来たような子たちはほとんど落ちていった。
それからしばらく進みできる限り行事に関わるものに参加しつつ、結果受け入れて生活していた。
中学3年にもなると受験を意識し、更に「◯◯長」をしたがる人間が増えた。
郷土に関係することをテーマを分けて発表する、という内容だったのが、
他の希望者多数のテーマに組み込まれた。しかしそれでもやっぱりそのテーマをちゃんと学習したくて立候補した。
だがしかし、昨年までが何だったのかというくらい希望者多数となり、じゃんけんで負けた。
勝者は正直、同学年の支持がない子だった。
案の定、自分のやりたかったテーマは影が薄れ、忘れ去られ、それでもやることはやって着々と作業を進めていた。
そして発表時テーマの班長は決まっていながら、それとは別に発表の「監督」を複数人選出することになった。
もちろんこれは内申に影響しないし、監督になると発表する側にはなれない。
そして後半は発表に準備だけになるし、実質、監督が指揮を取ることになる。
「船頭多くして船山に登る」状態になるのには反対したが通らず、やはりそこで自分が担当することになった。
(今思えば、それまでの行動で求心力がなかった班長で進めるのを避けたかったのかとも疑っている)
発表側をやりたかった自分は不承不承、しかし決まったものは仕方ないと全力で発表に向けて走り回った。
発表側になった班長や、人員が不足したときいつのまにか発表側に回った同じ監督だった子を羨ましいと思いながら。
確か、小道具の場所を把握してないのは監督としてどうか、的なことだったかと思う(余談だが小道具係は別にいる)
些細なことだし苦笑いしてやり過ごしたが、これまでのことでパンク寸前だった自分にはだめ押しとなって
本番中誰も来ないところでうずくまってこっそり泣いた。
部長・副部長は生徒の投票を加味して「顧問が選ぶ」という方式だった。
当時の部活は「顧問VS部員」の構造があった。その結果、明らかに「顧問が付き合いやすい」
「票が入ってないわけではない」と強調していたが、密な付き合いのある部員間の話では
それが嘘でなくても1,2人いる?という票数であるのは皆察していた。
(ぶっちゃけ、得票数TOP3の子たちは顧問に不満は持ってなかったんだから
その結果、顧問が転属して居なくなると「部長・副部長VS部員」の対立構造に変わり、
部長、副部長が居づらい環境になり、不満を持つ子たちが言うことを聞かず、落ち込んでいってるのがわかった。
自分は比較的その子達と仲良かったのもあり、緩衝材として連絡する、仕切る、やきもきするという謎の構造ができていた。
正直この行動は部長たちの孤立を加速させ、良かったのかは自分でも疑問であったが、そうしないと団体行動も怪しい状況だったのだ。
結果、最初に話した議長/各種委員長でもあった2人は生徒会に入り浸り、ますます対立を深めていった。
これに関しては正直、仕方ないことだと思うし、それほど2人は追い詰められて居たと思う。
だが、生徒会室で仕事がなくても談笑した姿をみると自分が本気でやりたかったことを逃げ場にしていること、
その一方で自分がやりたくもないことばかりしている状況にがすごく虚しかった。
その気持を抱えながら部活動はやりとげた。
今でもこの一連の流れは思い出す。
まあ、その程度でなにやってるんだろう、明らかに貧乏くじじゃないか。
そして残念なことにこの正確、環境は今でも変わってない。
根本的な理由は「やりたがる」「でしゃばりたがる」正確と長年いじられ続ける容姿、
心意気をうまく伝えられないコミュ力、プレゼン力であり自業自得だ、と自覚している。
本気で「義」を理由に口を出ししても、「自己のため」と誤解されることも多々ある。
そこを変えないと…と思いつつも、「誰かがやらないといけないこと」をやり続けても「やりたいこと」がやれない思い出を愚痴らせてほしい