はてなキーワード: 虚弱とは
また詭弁だなあ。
「カラスは黒い」だってアルビノのカラスを一匹探しだしてくれば「間違い」ってことになっちゃう。
「あらゆる」を追加しだした時点で
実際的な議論から逃走して現実とは無関係な論理的な話に逃げ込んだというサインでしょ。
たとえば「男は女より筋力がある」という言説があったら
これは傾向の話であって「あらゆる」のような究極論理の話ではないから
君が試みたのはこれと同じインチキだよ。
このように論理立ててどんなインチキかと指摘できない人を相手にするときなら
話をうやむやにして引き分けにするぐらいの効果を発揮することもあるのかもしれないけど、
(足の遅いケニア人を1人連れてきても傾向は否定できないというのは先ほど触れたとおり)
人当たりがよく、笑いをとるために人を傷つけたりせず、音楽だけじゃなくて俳優としてもすごいし、ラジオとか面白いらしいし、冠番組持っちゃってるし、人間的にまともで、完全に成功した人。
でも、コカインで捕まって、パトカーに乗せられているめちゃくちゃ顔色悪いピエール瀧にものすごくときめいてしまった。初めて彼に関心を抱いた。
その日から、ボロボロになって誰からも見向きもされず絶望している可哀想なピエール瀧で性的な妄想をするようになった。
あんなに華やかな人生を送っていたのに、そこから転落して、犯罪者として糾弾されて、たくさんのものを失って、可哀想だと思った。(ざまあwとかは全く感じなかった。)そして、とても可愛いなと思って、すごく興奮した。
犯罪者が好きなのだろうか?と思ったけど、今まで犯罪者にときめいたことはないし、ガラが悪い人は嫌いだし、たぶん違う。あと、人を傷つけたいとかいじめたいという願望もない。(可哀想な人に興奮している時点で、ある意味傷つけたりいじめていることになると言われると何も言えないが。)
私は昔から、ふだんきちんとしている人が、酷い風邪を引いていて具合の悪さをがんばって隠そうとして隠しきれてない とか、ありえないミスをしてへこんでいるのを見てどきどきする人間だった。
日頃から具合が悪そうな虚弱体質の人とか、すぐ具合悪いよ〜という人とか、デフォルトで失敗が多い人には惹かれない。
今回のピエール瀧の件も、これに通ずるところがあるのではないかと考えている。
これは多分表に出すとまずい性癖だと思うので口にしたことはないが、同じように思っている人がいるのではないかという気がしている。
もしそういう人がいたら、ピエール瀧の他によさそうな例があったら教えてほしい。
ホリエモンはすごいし正直だし頭の切れる人だと思いますが、もともと人当たりがよくなくて性格がきついので興奮できませんでした。
・草なぎ
本件と類似性がありますが、興奮できませんでした。本人がもともと好人物という訳でないせいかもしれません。あるいは、ジャニーズだからかも。私は、自分の外見的魅力を(他人から見てどうかではなく)自覚している「アイドル」という属性を持つ人間には興奮できない性質です。
・山口達也
上で述べたようにジャニーズだからかもしれませんが、それ以前に、人生の破滅の原因が悪質な性犯罪であること、そして以前から素行が悪かったために興奮できませんでした。
・市橋達也
好人物であったとか、社会的成功があったかというと疑問があり、また破滅の原因が性犯罪ですし人が死んでるので興奮できませんでした。しかし、犯罪を犯してからの迅速な対応や、警察の目を長きにわたりかいくぐってきた知性と行動力はすごいと思います。性的な訴えはありませんが。
・上祐
麻原が作り上げた帝国のパーツというか手足に過ぎないため興奮できませんでした。
興奮できませんでしたが、彼女らがアイドル・元アイドルという特徴をもつためかなと思いましたが、ここで、知性も重要なポイントであることに気がつきました。確かに、草なぎと山口達也にはあまり知性が感じられません。
ホリエモンについて再び考えてみると、ライブドアの件は出る杭は打たれるという感じであり、ホリエモンの内的な弱さのようなものにより破滅したという要素が希薄であるように思えます。
もともと興味がなく、事件が原因で知ったという点においては瀧と同じですが、汚職は興奮できませんでした。
例えば、今波に乗っている人物が破滅した場合のことを考えてみる。例として、落合陽一氏を瀧のケースに当てはめてみましたが、興奮できませんでした。氏は知的ではあると思いますが、好人物ではないからでしょうか?結構難しいですね。
よく「男女がいてこらえられなくなった男が女に抜いてもらう」みたいな展開のエロ作品あるじゃん。あれ自体はまあ夢みたいなところあるし、あわよくば僕もされたいから、「現実ではありえない」みたいなツッコミをされても「現実ではない。」みたいな返しをしておけばいいけどさ。
でも、その流れで。どうしても納得のいかないが1つだけあって。
「すっきりした?」
すっきりするって何?10年来射精し続けてきて1回もすっきりなんてしたことないぞ?お前は射精を何だと思っているんだ!?
まず、他者から観測可能な結果の一つであるところの射精を目標とした一連の行動 S について考えなければならない気がするんだよな。別にこれは自分で手コキしようと他人に任意ズリさせようと何でもよくて、最終的に射精するために行う動作ならばなんでもいいんだけど。あ、話を簡単にするためにとりあえずドライは考えない方向で。
英語でシコることを jerk off というらしいので、抜く人を jerker 、 抜かれる人を jerkee とおくことにするか。一人遊びならこの2つは参照等価ってことで。さしずめ、冒頭のストーリーならば jerker !== jerkee && jerkee.sex === 'male' && jerker.sex === 'female' ってわけだ。
この場合、少なくとも jerker の目標には「jerkee を射精させること」が含まれる。「S は射精させるために行われる」という前提だけど、まあ「S が行われるならばそれは射精させるためである」でもいい……よな。射精以外の目的をもつ行動は S に含まない、にしよう。
性欲の鎮圧以外を含みうるのか、については真だろうな。「なさけない顔を見る」とか「背徳感を得る」とか、よく考えれば他の目的なんていくらでも足せるじゃんな。
……うーん。射精って jerkee が自分の身体と契約を以て行われるものではないんだよなあ。あたりまえだけど目標は叶わない可能性も十二分にあるし。
目標が叶わないといえば、男女の場合は往々にして知識が非対称だから jerker が射精させようとしてもできないってのは普通にありうるか。それはそれでかわいそうだな……。jerkee になったらいたたまれなくて泣いちゃうかもしれない。
あー。射精はコミュニケーションという説があるな。一人遊びは実際自己との深い対話だもんな。我々は精液が尿道から射出されるという非対称な現象を通じて相互理解の境地にいたることができるのか。
そんなわけねえだろ
実はこれけっこう怪しいと思っていて。というのも、枯れると文字通り枯れるから観測不能になっていくじゃん。まあ握っていればちんちんの収縮ぐらいはわかるだろうけど。
観測を以って射精を定義するならば精液が出なくなった時点でそれはもはや射精ではないということになっちゃうねこれ。言葉としては正しいと思うけど、ではドライオーガズムではない、シコってイッたが外見上何も起こらないというのはどう定義しておけばいいんだ? vacuous ejaculation とでもしておくか。
vacuous ejaculation を認めるとこの男女間射精コミュニケーションの飽和状態ってかなり危うそうだ。 jerker の手が果てるのと jerkee の精液が果てるの、よほど jerker が虚弱貧弱でない限り後者が先だし、前者が発生するまでは continuous vacuous ejaculation が発生する。vacuous でなくとも理性を保つのは極めて困難であるからして、これは廃人まっしぐらなんじゃないのか?
これは絶対に疎だと思うね。密結合だったらちんちんに生活が支配されないじゃん。
結局「すっきりする」というのがわからない。単にたまっていたものが抜けたような感じを受けるという程度の話なのであればそれは単純で、物理的に抜けているのだから可能であると結論付けられるように思える。
しかし、しかしだ。「すっきり度」を時間で微分して、射精した瞬間その値が一定以上でなければ実感として「すっきりした」という感覚を得られないとしたら?絶対的に一定以上常にすっきりしている人間は、つまり「すっきりした」という感覚を一生得られないということにつながるのではないか?
同じことが「賢者タイム」という概念についても言える気がしてきたぞ。賢者になりきってしまったらちょっとやそっとの愚行では何とも思わなくんしまうんじゃん。
自分がシコりすぎて頭がおかしくなっている。そろそろ通算10000回はシコったと思うし、自分にごほうびでも買ってあげたほうがいいかもしれんなあ。
虚弱な知性で書いた感じが伝わってくる 偉い
29歳の女性です。
お陰様で大病もなく、入院も一度もしたこともない。しかしここ最近、私は妙に周りの人達よりも常に眠たい、常に身体がだるい感じがあるのでは、と思うようになった。
0歳の頃の思い出話を母に聞くと、いつもこう返ってくる。「夜泣きは最初の一ヶ月くらい。泣かず一日20時間くらい寝てくれたから育てやすかった。寝すぎて怖かったからよく呼吸を確認しに行ってたし、ミルク量を確保するため起こさないといけなくて辛かった」。
3才頃でもまだ「寝る子」で、アルバムに残っている集合写真に殆ど私の姿は残っていない。いつも部屋の隅、レジャーシートの上、車の中で昼寝を始め、解散まで起きなかったらしい。お友達と遊んでいる途中でもウトウトし始め、複数人の子供が走り回って騒がしい部屋の真ん中でうずくまって寝ていることもあったという。
朝の幼稚園バスでもいつも寝ていたらしい。これは今でもそうだが、ボーッとした子だねとよく言われていた。普通幼稚園から帰ってきたら家で遊んだりするものだが、私の場合は昼寝していた。あまり遊んだ記憶はない。休日遊びに連れて行ってもらっても車の中では常に寝ていたそうだし、事実疲れるから、あまり外をウロウロするのは好きでは無かった。(遊園地でも乗り物に乗るより、ベンチでアイスクリームを舐めながらボーっとするのが好きな子供だった)。
小学校に上がると体育がある。体育そのものよりも次の授業が苦痛だった。身体が重くて、よく眠くなった。また家に帰ると身体がぐったりすることもよくあって、帰るとよく昼寝していた。この昼寝の習慣は中学でも続いた。
高校では授業中によく寝た。部活には入らず、帰りの電車の中でよく眠った。この頃から私は虚弱体質なのでは?と思うようになった。が、疲れるとかそういうのは気合の問題だけな気もするなとも思い直した。
大学は進学したものの、朝起きられず(普通に23時くらいに寝てたと思う)、出た授業も眠気が強くてまともに聞かず、半年留年してしまった。一年休学し、半年分の学費を稼いで復学しなんとか卒業した。
就職先は近所の小さな企業の事務職。9時5時勤務の比較的ゆるい仕事だったと思うが、それでも眠気はついて回った。毎日のようにエスタロンモカなどを2回飲み、エナジードリンクでごまかしながら仕事をし、家に帰ったら夕飯も忘れ、朝の7時まで泥のように眠った。それでも眠気は続いた。
あれから転職して別の企業で働いているが、相変わらず眠気や身体のだるさをごまかす生活を続けている。
寝ても寝ても、寝た気がしない。これまで一度もぐっすり寝たという感覚がない。金晩に寝始めて、土日月と寝ても翌火曜日の朝まだだるくて、これ以上寝てももう改善しないなと諦めて仕事に行く、そういう感じだ。今朝は、土日月ひたすら寝続けたのにまだ身体が重すぎてベッドから出れず、仮病を使って休んでしまった。
気合が足りないと思う。でも、眠気と気合というのは本当に関係してるんだろうか?みんなこんな感じの身体の辛さを抱えながら気合で、深夜まで働いているのだろうか?
差別心のある人間って全部じゃないけどこういう「被害者意識」なんだよな
被害者ヅラっていうとまあ悪く聞こえるけど、要は繊細で虚弱な精神なんだよ
でもトランスとかも好き好んで性自認が不一致な肉体に生まれたわけじゃないのと同じように
こういう差別主義者も好き好んで繊細で虚弱な性格に生まれてきた訳じゃないんじゃないかなって思う
自分で自分の人格や考え方をえいやって変えれる人間なんてそうそういないんだから
「お前のその感じ取り方は悪だ」っていうのと「トランスなんて気持ち悪いから別の浴場やトイレ使って欲しい」ってのは
質は実際全然違うけど根源的には一部分で同じことなんじゃないかって思ったりするんだよな
不寛容に寛容である必要がないってのはまったく道理なんだけど、
私の名前を仮にY氏として、個としての自分、つまり本来のY氏としては10代の頃に死んだのでしょう。
あの頃は精神状態がボロボロだったのにも関わらず、そこにトドメを差すような出来事がありましたからね。精神面もとい、内面が壊れた。その時でしょうね、元々の私が死んだのは。
えぇ、私もつい最近自覚しました。その事実に。元の私と今の私の記憶が混同してて、今まで気が付きませんでした。
今の私が自覚した事は、皮(ガワ)として外見から見た私は、昔通りの私のまま成長して今に至りますが、今の私は「元の私に限りなく似せている私」なんですよ。
分かりづらいですか?そうですね、ルパン三世ってあるじゃないですか。アニメの。
初代は山田康雄氏で、二代目が栗田貫一氏。中の人は変わってもキャラとしては基本的に外見変わらないですよね。
それと同じ理屈です。もっと砕いて言えば、生きた脱げない着ぐるみですよ。脱げないのに中の人が変わる、不思議な事もあるんですね。
そんな話あるんですよ、嘘みたいな話ですけどね。
私はいいんですよ、あぁ今の私という意味ですよ。ただ、元の私の親に対して可哀想な気持ちになってきますね。
だって、皮としてはそこに生きているのに、貴方が愛した子の「元々の個」はとっくの昔に死んでいるんですもの。
通りで私が親と会話してても他人に感じるので不思議に思ってましたが、今回の自覚でハッキリしました。だって今の私が他人なんですもの。そりゃ他人ですよ、実質。
しかし、そうは言ってもその親と生きて行かないといけないという問題もあるので複雑な気持ちですね。
えっ、親離れしないのかって?そりゃしたいですよ、今の私としては。ただ、元の私としての記憶もある以上、親との記憶も深いもので。切れても切れないんですねコレが。
別に私はサイコパスではありませんからね、感情はある程度はありますよ。冷たいと言われることはあれど。
今の私からしてみれば他人とは言っても、皮としてはこれだけ縁深い体である以上、折り合いつけて一緒に生きていくしか無いですね。
どうせ演じるなら、元の私とは違う別人を演じればいいのに?それは私もそう思います。ですが、残念ながらこの体は虚弱なもので。元の私を演じているのが一番落ち着くんですよね。肉体的にも精神的にも。
23区内では、集団健診や予防接種や母親学級やらを行う保健施設(区の運営)と、虐待などの相談を受けたり一時保護する児童相談所(都の運営)は明確に別の施設だよ。2017年の法改正で区でも児童相談所を作れるようになったので、子育て支援まとめるかってことで青山にも併設する計画ができたわけだけど。
妊娠した幸せカップルや赤ちゃん連れのパパママがキャッキャ訪れるのは子育て支援センター、保健所、保健相談所の類でしょ。
名前が違うだけでそれが児童相談所なんだって言いたいんだろうけど、都の児童相談所は都内11箇所しかないので違うよ。
児相は受け付けてる相談内容の例もなかなかヘビーなものが多いよ。より専門性の高い対応が求められるよ。
東京都保健福祉局http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/smph/jicen/annai/jido_sodan.html
保護者の病気、死亡、家出、離婚などの事情で子供が家庭で生活できなくなったとき。
わがまま、落ち着きがない、友達ができない、いじめられる、学校に行きたがらない、チック等の習癖、夜尿などで心配なとき。
いや、全員が全員そういうわけじゃないけど。
例のコウノドリもそうだけど、一部の人が露骨に特定世代の男性を悪者扱いしていたり、さらに接種に消極的な男性をひどく叩いている光景を見てしまうと、こいつら信用できんって思ってしまう。
別の世代あるいは異性が無料で打ってもらえたものを、1万円かけて自腹で打て、そうじゃなければお前は迷惑な加害者だ、っていう主張はあんまりにもあんまりだと思う。それはないよ。不公正で不正義だよ。
医学的には、風疹ワクチンの効果は高いのだろうと思う。先天性風疹症候群が悲惨なのもよくわかった。そんな悲しい病気がなくなるといいね、とは思う。別に私は反ワクチンというわけではなく、ワクチンは医学的に効果の高い感染症対策なのだろうとは納得している。
納得できないのはそこじゃなく、なんでその費用を特定世代の男性は自腹で持たなきゃならないのか、そしてなんでその費用を惜しんだりワクチンを打っていなかったりすることが攻撃される理由になるのか、という点。
1万円とか、普通に高いよ。あなたが1万円出せばアフリカの子供が飢餓から救われますと言われて、ポンと1万円出せるか? 私には無理だ。アフリカの子供のために出せないカネを、日本の子供のためならポンと出せるなんてわけがない。もちろん、1万円なんてはした金と思えるくらいの安定した収入を得られるなら喜んでアフリカや日本の子供を救うために喜捨するけど、残念ながらいまの私にとって1万円ははした金ではない。それを惜しむことが攻撃される理由になるのは本当に理不尽だ。
というかそもそも、そんなに対策の必要性と有用性と緊急性があるなら全額公費で持つのが筋だと思うのだが、なぜそこが放置され打っていない男性が批判されるのか皆目理解できない。接種費出してあげるから行って、と呼びかければ行く人はそれなりにいると思うのだが、広報とかにかけるカネの一部を支給用の実費にまわすという考えはないのだろうか。
(妊婦の配偶者とかは無料になる地域も多いみたいだけど、魔法使いには縁のない話だし。検査費用が来年度から無料になるらしいけど、接種が有料ならそもそも検査なんて行かねーよ……)
そして、それ以上に、あちこちで「加害者」という言葉が飛び交っているのが本当に無理。
風疹にかかって、それを妊婦さんにうつしてしまうと「加害者」と呼ばれることになるらしい。
私は病気がちな子供だった。風邪インフルエンザ水疱瘡あたりのメジャーなやつはどれもやったし、EBウイルス感染症で病院に担ぎ込まれたことも髄膜炎で死にかけたこともある。大人になってからは感染性胃腸炎に苦しめられたし、多分麻疹もどこかでやってる。同じ腹から生まれたきょうだいは風邪すら滅多に引かないのに。
私がかかりたくて感染症にかかっていた/かかっているわけじゃない。病気の方が私を放っておかないのだ。私は病気に対しては被害者でしかない。
なのに、なんで被害者であるはずの感染症罹患者が「加害者」呼ばわりされないといけないんだ?
意図的に感染症にかかった上でばらまいてやろうという悪意を持って行動した人間みたいなレアケースでもなければ、感染症にかかった人間は断じて被害者であり、加害者ではない。
痴漢冤罪にたとえよう。もちろん架空の被害をでっち上げて示談金むしり取ってやるぜみたいな悪辣な人間がいないとは言い切れないが、間違った人間を痴漢として告発してしまった人のほとんどは、本当に痴漢の被害に遭っていて、めぐり合わせとか運とかそういったものが悪かったせいで無実のリーマンの手を掴んでしまった人だろう。その人たちは私にとっては純然たる被害者であり、冤罪の加害者と呼ばれるのは不正義だと思う。その人たちはただの被害者なのに。痴漢に遭うことがなければ、間違った人を告発することもなかったのに。
私にとって感染症もそれと同じだ。多くの罹患者は被害者であり、悪いのは感染症だ。彼らは断じて加害者ではない。
たとえインフルエンザにかかっているのに出勤し職場にインフルエンザを撒き散らした人であっても、麻疹にかかっているのに飛行機に乗り日本各地に麻疹をばら撒いた人であっても、そして風疹に感染して妊婦に近寄ったことで胎児を先天性風疹症候群にしてしまった人であっても、その人たちは被害者であり、絶対に加害者ではない。
彼らを加害者呼ばわりする人間は、かつての私のような感染症に弱い人間を、ただ懸命に生きて日常生活を送ろうとしているからという理由で加害者と呼び断罪している。私にはそれは容認できない。そのような主張は、私のようなかつての虚弱児にとって敵でしかない。
遺憾ながら、風疹の予防接種を訴える人たちの中には、無視できない割合で私にとっての敵がいる。「加害者にならないために」と「啓蒙」する連中が大勢いる。そしてそういう言説がなんの違和感もなく受容されている。はっきり言ってそんな界隈、関わり合いになりたくもない。
私が風疹ワクチンを積極的に打とうとはしない理由の9割くらいは、面倒なのとカネがかかるからだ(それが解消されたら、まあ打ちに行ってもいい)。でも残りの1割は、ワクチン接種を呼びかける人たちが信用ならないからだ。私の敵に唯々諾々と従いたくなんてないからだ。私の敵が大勢混じっている運動の呼びかけに、なんで私が協力しなければならないのか。感染症被害者を加害者と呼ぶ倒錯した連中の言うことなんて、意地でも聞いてやるものか。こんな気持ちが1割くらい存在する。
別に、そういう連中を自浄しろとかそういう発言をやめろと言うつもりはない。表現の自由というものがあり、いかに気にくわない言論であろうとも止めさせる権利は私にはない。ただ私は私でワクチンを接種するか否かを決める権利と自由があり、私は何と言われようとそれを行使するというだけ。だからどうぞ私のことは気にせずワクチンを打ってください。私はあなたの選択を止めたり誹謗したりなんてしないから。
「予防せずに不特定多数の人間と性交して性病に感染した。パートナーにも感染させた。感染させる意図はなかったので責任はない」みたいな。被害者と加害者は排反ではなく両立する。カルトやマルチ商法がいい例。
特に感染対策をせず街中を歩くことは不特定多数とのセックスに相当する行為なんだ……
もう無理。感染症に対して意識高い人たちのナチュラル抑圧者っぷりが本当に無理。無料になっても義務化されて罰金が徴収されるようにならない限り風疹ワクチンは打ちません。抑圧者に加担なんてしたくないので。どうもありがとうございました。こう思えるようになったのも皆さんのおかげです。啓蒙活動の成果を誇っていいですよ。
今流行りの深夜アニメを見ていると、絶対にちびまる子ちゃんみたいなアニメは出てこないのかと思う。
ちびまる子ちゃんの物語内には、色々な「クセ」のある子供や大人のキャラクターが多く出ていた。
みぎわさんや前田さんのような、性格にクセのあるブスな女の子キャラは、今アニメでやると苦情が来そうなレベル。
現在の深夜アニメでは、ブスで性格の悪い女子キャラは、完璧と言っていいほど排除されている。
山田のような発達障害のボーダーや、山根みたいな虚弱体質、はまじみたいなパワハラ素養がありそうな男子たち。
だからこそ、今の深夜アニメでは性格のよさそうな美男美女のキャラしか出てこない。ポリコレ的にはいいことなのかもしれないが、物語の深みが少なくなった気がする。
今のアニメの中で、クセのあるキャラクターを登場させることが出来るのはちびまる子ちゃんくらいである。
30年近く続いている伝統があるから可能なのであり、ちびまる子ちゃんが今後終わってしまったら、クセのある人間の居場所は完全になくなりそうだよね。
その本質は徒弟制度の職業訓練所である。卒業生のほとんどが臨床医となり、いくらかの変わり者が研究者となり、その他民間企業や行政方面に進むものはごくわずかしかいない。卒業後の進路にこれほど偏りのある学部や学科はあるだろうか。その上、彼らの存在そのものが日本の医療という非常に重要なインフラを支えるための貴重な資源であり、したがって大学の使命はおおむね優秀な医師を社会に送り出すこととなる。卒業生の8割が医療系コンサルに進む医学科があったとして、社会はその大学の存在を認めてくれるだろうか?優秀な頭脳を持っていても重大な持病を抱えていたり、虚弱であったりするものばかりの大学の存在を認めてくれるだろうか?40歳で医学部に入る再受験生だらけの大学を認めてくれるだろうか?誰も循環器科や消化器外科に進まない大学を認めてくれるだろうか?結果、大学受験は就職活動、就職試験の役割を担う必要が出てくる。つまり優秀なだけでなく、臨床医として有能であろう人間を選別するシステムが大学には必要であり、それが入試時の面接であったり各種のハードな実習や研修であったりするのだ。その結果、社会を維持するために若い男性が優遇される結果となるのは自明であるように思われる。大体、多浪や再受験生がその年齢に応じて減点されていることはすでに明らかな事実だ。国立、公立大学にあっても露骨にそうなのである。年齢差別、男女差別、疾病差別、地域差別・・・あらゆる差別がそこにはあるのだろう。
無論、日本でのペーパーテストの公平性への信頼感は貴重なものであり、それをないがしろにし揺るがした今回の事件は大きな問題である。だが純粋な公平性を保つためには前述の問題、つまり、実質的に現場を支えることのできる医師が減ることをも許容しなくてはならなくなるだろう。面接をなくせば、性別や年齢の記入欄をなくせば、公平になる。それは正しい。だがその結果、現状で年に数千人しか生まれない医師が実質的に減ってしまうことになるのだ。定員を増やせ?それもいい。それは必要なことだろう。だが無論莫大なコストがかかり、それは医療費の高騰にも繋がりうる。医師の給料を下げろ?そうすればすぐに医師は減るだろう。多くの現場を支える医師は金銭のためというよりも、技術に対する向上心や人々から向けられる尊敬の眼差しのためにその過重労働に耐えているのだ。
今までの医療界は、おそらく他のインフラ業界もそうであろうが、数多の犠牲の上に成り立ってきた。個人の健康や幸福を犠牲にしても医師として過重労働に耐えつつ名誉や金銭、達成感などを追い求める人々と、そんな医師の過程を支える家族と、健康でヘビーな労働に耐えるという能力が欠けていたため医師になれなかった人々の犠牲の上に。だが我々は進歩し、そのような個人が社会のために犠牲となる時代を脱しようとしている。少なくともそう試みようとしている。それはなんの疑いもなく素晴らしいことである。だが、そのためには手放さなければならないものも多くあるに違いない。その一つが現代日本における医療の高度さや利便性であっても、驚いてはならないのだ。
夜食:チーズたっぷりのパン、鳥もも肉の大葉炒め(316kcal)
ついに夜食なんか食べてしまった。今朝測ったら体重増えてましたしね。仕方なし。チーズのパンは本当に悪魔みたいな食べ物。
夜7時に運動出来る装いに着替えて外に出てみたものの、暑すぎて帰って来てしまった。虚弱なので暑い中慣れない運動をすると倒れる気がする。内陸の方のかなり暑くなりやすいところに住んでいるので夜でもなかなか気温が下がらないみたい。明け方に起きて運動しよう。
消費カロリーは1989kcal。食べすぎたといえど、消費カロリー>摂取カロリーなので許していきたい。
あと食べなさすぎなのか生理がいつもに比べてめちゃくちゃ長い。生理が終わればジムに行くとって言ってるのに全然行けない。鉄分とか足りてないのかもしれないのでマルチビタミンのサプリを買ってきた。性別のせいにするわけではないけど、やはり男性だと生理などを気にせずにジム通いとか出来るから羨ましい。
昨日のトラバで筋トレしてないのにプロテイン必要?と聞かれていたけれど、たんぱく質の摂取が減ると筋肉量が落ちる、筋肉量が落ちると基礎代謝が落ちるのでリバウンドしやすいと見たのでプロテインを飲むことにした。筋トレも増やせればいいけど腹筋は2日に1回してて、スクワットはやってみたら自重が重すぎたのか翌日膝がめちゃくちゃ痛くなった。関節も軟骨も有限のものなので焦らずに身体を痛めない方法を探っていきます。長くなってごめん。
『金閣寺』という小説が何を表しているのか、単刀直入に語るとすればどのような言い方になるだろうか? それについて敢えて率直に語る事はすまい。
とは言え、勿論その文章の中心的な部分は割に簡単な言葉で表す事ができる。つまりは「美しさ」と「地獄」という二語によってである。ただし、これだけだと余りにも簡単に説明でき過ぎてしまう。実は、金閣寺はこの二語のみによって説明できる小説なのであるが、それではあまりにもざっくばらんすぎて、説明が詰まらなくなってしまいかねないのだ。その為、少しだけ読者を焦らす事にする。
金閣寺は1956年に雑誌『新潮』に掲載され、年内に単行本化し15万部のベストセラーとなった――また、現在に至るまで文庫を中心に300万部以上を売り上げる日本の伝統的近代文学の内の一つである。海外においては複数の言語で翻訳され、日本文化を緻密に描いた三島由紀夫の文章は各地で絶賛を浴びた作品でもある。しかし、無論この小説には難しい部分がたくさんあって、一朝一夕で読み解くにはハードルが高い。
しかし、繰り返すようにこの小説は二つのポイントをさえ押さえるならば十分に理解することができる。
金閣寺は美しさの象徴であると同時に地獄の象徴であった。これが三島由紀夫がこの小説において語ろうとしていた全てである。小説『金閣寺』は1950年に発生した、青年僧侶による「金閣寺放火事件」を下敷きにしており、三島由紀夫はこの青年僧の犯行の根底に「美への反感」があることを読み取った。そして、そのコンセプトを元に書き上げられたのが、当の大作『金閣寺』なのである。
「美への反感」。
つまり、人は美しいものを時に憎むのである。そのような感情は一言に言って地獄の現出に他ならない。
「金閣寺放火事件」の主犯となった青年は幼少より吃音の症状を呈しており、恐らくその吃音症は彼の人生に薄すらとした重たげな影を投げかけていた。
吃音症は美しいか否か、と語るとするならば、恐らく人は吃音症を称賛するよりも嘲笑するだろう。いや、これもまた偏見なのかもしれないが、少なくとも三島由紀夫はその吃音の症状一つ取るに、青年僧の人生に降りかかる薄すらとした影の姿をまざまざと感知したのであった。そして、青年僧は自身が美という観念からはやや隔たった存在であることを自覚すると共に、美に対する拭い難い憎しみの存在を抱え続けることになるのである。――自身の美への憧れの象徴として、自身の父親から長く「美しい」と語られていた金閣寺の存在を、憧れと同時に、憎悪の対象とし始めるのである。やがて、青年僧は最終的に犯行に及ぶ――金閣寺に放火し、その美の象徴たる美しい建造物を、焼き払ってしまうのであった。
美に対する憧れ、そして憎しみ、そのような薄すらとした影が、青年僧の人生には降り掛かっていた――これが、この金閣寺という小説を書くに至って、著者である三島由紀夫本人が青年僧に対して抱いていたイメージの重要な箇所であるだろう。そして、もはやこれは自明のことであるとは思うのが、その薄すらとした影――つまりは「美への反感、憎しみ」――とでも言うべき影は、三島由紀夫の人生そのものをも固く包み込んでいたのである。
三島由紀夫、本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)は1925年に父、梓。母、倭文重(しずえ)の元に生を享ける。
幼い頃は虚弱体質であった三島が、長じてからは肉体強化のトレーニングに励んでいたことは周知の事実であろう。
三島の心中にいかに「美」に対する執着と、そして同時に反感とが存在していたかは推して知れることである。小説『仮面の告白』においても語られていた通り、三島由紀夫の心中には鬱々たるものがあった。そして同時に、そこには複雑な、文章によって表現することの憚られるような感情が幾つも幾つも存在していた。恐らく、彼はそのような歪な感情の存在する理由を、人生において追究していたに違いないと思われる。
ともかく、三島由紀夫はその人生において複雑な美意識を持っていたし、同時に、その美意識に対する反感を抱き、自分自身の感情を飼い慣らすことに苦労していた――そこには美に対する憧れと、同時に美に対する反感、そして美を中心とした地獄があった――これはおおよその三島由紀夫研究者が抱いている彼に対するイメージであろうと思う。三島由紀夫は彼の小説において、彼の人生そのものを率直に表そうとしていた。彼の人生というものは、恐らくは彼の書いた小説以上にわかりやすいものだったのかもしれない。
金閣寺の作中において、柏木という名の登場人物が現れる。この人物は跛足であり、つまりは歩行に困難を抱える身体障害者であった。
そして、小説『金閣寺』においては明確にこの人物が、当小説における極めて重要な部分を語る鍵となっているのである。
作中における柏木のキャラクターについてはここでは敢えて詳細に語らないが、しかし彼が主人公の青年僧に対して口にしていた、『金閣寺』という小説の根幹を成す極めて重要な台詞について語ることにする。それは、以下のような台詞であった。
柏木というキャラクターはいわば「地獄」に関する伝道者としての役割を果たしている。「地獄とは暗闇の中で一切が明晰に見えることである」。この言葉の意味は曖昧模糊としている。そこには、語るまでもなく明らかな矛盾がある。暗闇の中では一切が曖昧で、決して明晰になど見えはしないのだ。しかし、このような矛盾は物語の後半において一挙に解消されることとなる。そう、ここにおいて柏木の語った一節は、当小説の重要なテーマである、金閣寺の「美的側面」、ひいては、金閣寺の「地獄としての側面」に対して、判明な解答を与える重要なキーワードであるのだった。
飛んで、物語の後半。主人公の青年僧は、ついにその目的を実行に移そうとしていた。
彼の中にある美への憧れの根源――金閣寺の存在そのものを一挙に焼き払おうというのである。しかし、時刻は夜であった。そこは全くの暗闇であり、暗黒であった――。しかしそれでも主人公の目には、暗闇の中にある筈の金閣寺がまざまざと視認され始めるのである!
そう、正に「暗黒の中で」「すみずみまで明晰に」金閣寺が浮かび上がったのだ。
が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。(p.319)
ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐々にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隈々まできらめいて、私の眼前に立ち現れたことはない。(同)
そう、ここで暗闇の中で明晰に知覚できたのは、美の象徴として語られる金閣寺の姿そのものだったのである。
金閣寺はここにおいて、彼の記憶に根差した「美」の象徴として語られている。そして、同時に、かつて語られた柏木の警句が浮かび上がらせるのは、金閣寺の「美」としての側面と同時に立ち上がってくる「地獄」としての側面だったのである。
小説『金閣寺』は、青年僧の中に存在する「美」への屈折した感情を描き切った名作であった。そして彼はその「美」をも、「地獄」をもまた共に焼き払ったのであった。