はてなキーワード: 指南とは
タイトルの通りの身分です。学生です。自分の書いている文章を客観的に見れず、もうどうしたら良いのか分からなくなってきました。文章遍歴です。長ったらしいです。
まともに文章を書き始めて一年ほどの若輩者です。二次小説を書き始めた動機は絵が下手だからというとても不純なもの。本が好きで、作品が好きで、なおかつ小さい頃から人並みよりさくさくと文章を書けるタイプだったので軽い気持ちで書き始めてしまいました。
普段は旧Twitterと支部で短編を上げています。人気ジャンルのCPで書いたものが400ブクマ付いて喜んでいる程度の薄っぺらな書き手です。
衝動で書いた一作品目に評価がついたとき、初めて文章の質というものを意識しました。そういえばこれって他人に読ませる文章じゃん、と。慌てて自分の書いた文章と、自分が大好きな作家さんの文章を比べました。適切な比喩、ちょうど良い一文の長さ、形容詞の位置、描写の順番……などなど、素人でも分かる違いが山ほどありました。それはもうバスタオルと羽毛布団くらい違いました。要するに幼稚な文章なんです。色がありません。温度もありません。パッサパサの乾パンでした。
次に文章を太らせようと思いました。もうちょっと情報量を増やそうと。そしたら今度はすごく冗長でつまらないものが出来上がりました。文字の量を増やすだけでは10Lに薄めたカルピスみたいな読むのが苦痛な作品になるだけでした。
ここまでもし読んでくださった方がいたらこいつど素人にもほどがあるだろうとお思いになると思います。字書き経験のある先輩方でしたら尚更です。ごめんなさい。
語彙を増やそうと思いました。毎日通学時に周囲の写真を撮って、匂いや気温を書き取って、その時に見た景色をメモ帳に描写しました。Web辞典と、プロの一次作家様の文章を横に並べながら。なんだかちゃんと文章を書いてる気がしてだんだん楽しくなってきました。「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる……」また比喩を使っちゃいますが、枕草子みたいな感じです。
よっしゃやるぞーと思ってまた二次創作を書き始めました。今度はプロットなるものが立ちはだかりました。起承転結というやつです。この辺りで私は、あれ、小説書くのって想像以上に難しいのでは……と気づいてしまいました。二〜三千字くらいのワンシーン切り取り型の書き方ならともかく、私は数万字に及ぶ長編に憧れてしまったのです。プロット無しの見切り発車で書くのはあまりに危険でした。しかし、見様見真似で書き起こしてみるものの全然上手くいきません。浮かぶのはつまらない展開ばかりでした。そんなこんなで今は三千から五千字のものをちまりちまりと書きながらいつか長いもの書きてぇとぼやいています。
冒頭に戻ります。本当に良い描写は脳みそにスッと入ってくるんです。たった一文で全部を分からせてくるアレです。難しい言葉も要らないし、何度も言い換えて重ねる必要もない。あれって天賦の才なんですかね。最近、解像度の高いものを書こうと思って気合を入れて書いた作品が、2週間後に読み返してみたら装飾過多、結局何が言いたいの?と思われそうな駄文になっている、ということを繰り返しています。カッコいい文章に憧れます。
ネット上の二次創作においては、流麗な描写よりもオタクに刺さる台詞のある作品のほうがたぶんウケます。自分もそういう作品は好きでした。自分自身、以前は難解な地の文なんかポイポイっと読み飛ばしてキャラ読み(?)していたわけですから。でも書き始めてから、読み手にウケるかどうか以前に自分が「こんな適当な文章で推しを表現したくない!」という執着に取り憑かれてしまったんです。もう自己満足の部分もあると思います。推しの眺めている花はただの花じゃなくて、真っ白で、透けるくらい薄くて、とても良い匂いがして……
文学オタクの扉が見えてきました。もう戻れません。知れば知るほど、私の小説はつまらない。どうつまらないのか分からないけどとにかくつまらない。引き込まれる表現が足りない。たぶん内面描写も浅いし、そもそも二次創作として、公式設定資料を読み込むのを怠っていました。なんてことだ。しっかりとした長編で評価されている方々は本当に凄いです。
自分が心底納得のいく小説が書ければきっとある程度の評価はついてきます。でも、その「自分が納得のいく小説」までにどれだけの差があるのか、具体的にどこがダメなのか、分かりません。あぁ、誰か私の小説に適切に文句をつけてくれる人居ないかな。雑魚メンタルですが最近批評が欲しいと思えるようになりました。
長々と書き連ねましたが、要するに良い作品が全然書けなくて、目標までが遠すぎて死にそうです。文章の指南書をこの前注文しました。でも本当にあんな凄いものが書けるのか……?神字書きの皆様へ尊敬と羨望と、諸々の気持ちが溜まっていきます。
文章うまいね、そんな言葉1ミリも要らないんです。いや嬉しいは嬉しいんですけど、要らないです。正直やっぱ欲しいです。でも上手くなるほうが大事です。批判が欲しい。
そういえば触れてませんでした。一次創作書けばいいじゃんっていう話についてです。私の今のモチベーションの核は、ひとえに好きなキャラを最強の文章と構成で表現したいという衝動で成り立っています。つよつよな文章で推しが喋ってる……うおお……という感動を味わいたいです。それだけです。
世の中、腹が立つ作品には批判が飛んできます。でもつまらない作品には何も言ってもらえません。ありふれた話ですが、それをとても実感しています。
派閥が本当に考えの違いや学習の場としてあるなら良いのですが、問題の本質は「派閥の権限」なのです。
派閥に所属する議員が派閥に従わなければいけない、忖度しなければいけない状況がコンプライアンス、議員活動、選挙活動、各後援会に波及して、お金の扱いまで指南している状況が無くならなければ、表立っての派閥が無くなっても、本質は変わらないでしょう。
国民は選挙に行くしかないですが、候補者になる前から派閥の権限でありきで次の議員を決めているわけですから、派閥の権限など関係ない候補者が出てくるはずがありません。
これまで、もうだめです。これ以上続けられませんと何回か宣言して、つい半年前は破綻の手続きを進めてもいたが、その度に支援者やステークホルダーからその場をしのげるギリギリの資金を融通され、がんばれと言われてなんとか続けてきた。会社経営においてほとんどの人は「がんばれ」「君なら大丈夫」などと言ってくれるが、誰も「もうやめていいよ」とは言ってくれない。無理筋のビジネスモデルを押し通し、借金まみれで引くに引けなくなっている経営者に引き際を指南してくれるような仕組みがもっとあっても良いと思う。別に罪を犯したわけでもないのに利害関係者から罵倒され、全ての財産を失い、自己破産して不便な生活を送らなければいけないのを身から出た錆と言われてしまうのは、不憫だと思う。
父(フリーランス)
母(パート)
私(一人っ子)
大の甘党だった父は、鞄に飴やらチョコやらを常備していて、朝保育園へ送る二人きりの車の中でよくそのお菓子を母には内緒と言って私にくれた。
保育園脇の駐車場でもらったお菓子を味わい、それがなくなったら父に行ってきますのキスをして登園する日常。
送迎時以外でも母の目を盗んでよくお菓子をくれる父に多分母も気付いていて、私に「歯磨きした後にお菓子食べちゃだめ」とよく言っていたけど、母に内緒で食べることを父から提案されたら禁止の効力なんてないも同然なわけで。
次第に私の中で
母→いつもダメダメばっかりで怒ってる、嫌い
父→いつもお菓子くれる、優しい、好き
になっていった。
当時は本気で父と結婚すると言い張ってた。
あるとき父が飴を手渡さず自分の口に含み、口移しで渡してくるようになった。
元々母も含め家族間の挨拶のキスは口にする習慣だったので、特に違和感も持たずに甘いものが食べられるならと喜んで応じた。
そのうちお菓子がなくても、父と二人きりのときは舌を絡めるキスが普通に。
父とはお風呂に一緒に入ることも多く、「痒いところはございませんか〜?」的な感じでお互い洗い合ったりしていた。
洗い合いながら、自分には無い父の男性器を面白半分いじり倒すこともよくあったり。
何歳のときだったのか定かではないけど「そこにチューしてみて」という父の言葉だけ未だにはっきり覚えてる。
おしっこする所だから汚いとかそんな感じのことを言った気がするけど、結果的には丸め込まれてした。
そうすると父はやたら上機嫌で、それが私も嬉しかったし、風呂からあがったらお決まりの「お母さんには内緒ね」のフレーズと共にお菓子をもらって最初の嫌悪感はあっという間に彼方へ。
その先は省く。
お菓子以外の“内緒”が母に発覚したのは、私が母へ挨拶のキスをするときに思いつきで舌を入れようとしたから。内緒ねと言われても、母と舌を入れるキスをしちゃダメとは言われなかったので。
そこから芋づる式に全部バレた。
結果見事に家庭崩壊、小2のとき母は私を連れ実家へ帰り別居生活へ。
父が大好きだった私は、父に会いたがっては母をキレさせついには心中未遂なんかもありつつ無事歪んで成長、今に至る。
そこそこ特殊なケースではあるだろうけど、程度によってはそんな珍しくもないんじゃないかという気もしてる。
後から知ったけどお菓子を口移しするのはペドがよく使う手法らしい。クソがよ
無理矢理行為に及ばれたわけではないので(むしろ自らすすんでやることすらあった)トラウマとかフラッシュバックみたいなのは今まで一度もないけど、他者への深い部分での信頼的なものは多分ずっと死んでるしこれからもきっとそうだろうなと。
こんなこと想像もしなかった、作り話だろ、そう思った人はぜひそのまま幸せな人生を歩んでくれ。
※追記
吐き出したものが思いの外たくさんの人に読まれててびっくりした。
これをオカズ扱いせず怒ってくれる人がいるおかげで私は一応人の心を保ってるよ。ありがとう。
ガチの奴らははむしろ衆目に晒さず非公開ブクマやらなんならコピペで文字だけ保存して“指南書”扱いしてたりするんだろうなとも思うので、それが機能しないくらい多くの人に注意喚起として頭の片隅に留めてもらえたら幸い。
クボユウスケという人がマジですごいという2年の前の増田を読んだのだが、これに非常に賛同できるので、クボユウスケという人物について私の知っている話を書こうと思う。
結論から言えば、クボユウスケという人物は仙人の様な価値観で生きていると言える。
クボユウスケという人物がどんな人物かについては、冒頭で紹介した増田に書かれているので、先ずそちらを読んで頂きたい。
その上で、クボユウスケという人物はフェミニスト陣営の中では職業や素性が全く知られていない謎の人物となっている。
その理由は、クボユウスケ自身が職業や素性をインターネット上で明かさない様に細心の注意を払っているからなのだが、その結果、
クボユウスケを批判するアンチフェミニストの批判時の発言は、どうも歯切れの悪い批判しかできなくなる傾向が有る。
クボユウスケを批判しようとすると、得体の知れない物を批判するため、批判しあぐねてしまっているという傾向が有る様に見受けられる。
しかし、クボユウスケのTwitterアカウントを見ると「2011年2月」にTwitterアカウントを使い始めたことがわかる。
そこで、クボユウスケの過去のツイートを掘ってみた結果、下記の事が解った。
・1979年4月8日生まれである
これは、誕生日を明かしているツイートと、その他複数のツイートを見ることで解る。
・2011年~2016年までは福岡に住んでおり、趣味はフットサルだった
これは、2011年~2016年までのツイートを見れば解る。
・2017年1月に突如ツイートが途切れ、2017年7月までの半年間、ツイートが無かった時期が有る
これも過去のツイートをさかのぼって全部見れば解る。
・2017年9月時点で東京に住んでいる事をツイートしている
2017年9月中のツイートで言及している。
・2019年8月19日に「飲食店・小規模企業のマネジメント(≒経営管理・経営指南(経営アドバイザー))を数社引き受けている」とツイート
上記のツイートと、2021年9月のツイートから、新大久保と巣鴨の韓国料理店のマネジメントを引き受けている事が解る。
では、何故彼が石川優実の味方をするのか、だが、これについてはツイートを遡っていて面白いものを見付けた。
彼の中学か高校の同級生で、彼と仲の良かった人物が、どうやらイジメを苦に自殺した事が有る様だ。
その同級生は虐めっ子達に「やりたくない事」をやらされていて、それを苦に自殺したらしい。
その出来事が彼の精神構造に大きな影響を与えた様だ。
ツイート以外の媒体等での彼の発言も併せて整理すると、
彼にはTwitter上でアンチフェミ達に叩かれている石川優実が自殺した同級生と重なって見えて
「気が付いたら、石川優実を叩いているアンチフェミ達に反撃していた」
「石川優実が、心からやりたいと思っている事を自由(アンチフェミから見ればこの自由は無責任と同義になる)にやらせて、
石川優実が、やりたくないと少しでも思う事はやらせない、そのための盾になろう」
と思ったというのが石川優実の味方になった理由らしい。
アンチフェミは主張に筋の通っていないフェミニスト等が嫌いだというのがフェミニストを批判する理由に有るが、クボユウスケの価値観では、
アンチフェミが重視する「主張に筋が通っているか通っていないか」は彼にとっては価値の無い話、どうでもいい話である。
「石川優実本人が、やりたいと思ってない事を石川優実にやらせるな。
石川優実がやりたいと思っている事を石川優実がやるのを邪魔するな。」
「石川優実がやりたくないと思っている事を、石川優実にやらせようとする者と、
石川優実がやりたいと思っている事を、石川優実がやるのを邪魔する者が悪である。」
というものになる。
そして、クボユウスケはそういう考えで石川優実の盾になる事に見返りを何も求めていない。無償で、義憤だけで盾になると決めているのだ。
故に、石川優実が「やりたい」と思って始めた事を途中で「飽きた」と言って投げ出したとしても、クボユウスケは投げ出した事を「やりたくなくなったんだからやらなくて当たり前だ」と許容・肯定する。
「石川優実という人物がやりたいと思った事だけをやり続けた結果どうなるかを、近い位置で見届けたい」
それだけが理由で動く堅牢な盾であり、行く末を見届ける傍観者という立場に居るのがクボユウスケという人物と言える。
それはアンチフェミには理解できない価値観だろう。
だから、アンチフェミはクボユウスケと決して話が噛み合う事が無い。
アンチフェミが人間だとするならば、人間とは全く違う、霞を食べて生きる仙人の様な価値観で生きている
クボユウスケという人物に接する時は、人間とは違う価値観を持った存在であるという認識を持って接するのが良いだろう。
ジャニーの件もそうだけど被害者だと告発してた人もジャニーズ指南本出してたりジャニーの葬式に顔出したりしてるんだよね
そいでそれを叩かれたりしてたけど被害を受けたことと加害者を許しているかのようなムーブをしてしまったことは別に両立するというか、お礼を言ってたから合意だろとかそんな話ではないと思うんだけど、被害者は常に一貫して被害を訴えろそうでなければ認めないぞというのはセクハラに限らずパワハラ、モラハラなんかに関しても被害者に厳しすぎるなとは思う
あとジェラールドパルデューを全面擁護のフランス映画界みたいに、ある芸術的才能や功績があったからこの人は無罪みたいなのは全く理解できない(これに関して言うとフランス映画界のセクハラに対する閾値が世間に比べるとめちゃくちゃなのかもしれないが)
熱き血潮渦巻く 非処女を求めて!
「私 処女じゃないよ」
「やっぱり気になる?」
「多少・・・」
「ま…ちょッ…えりちゃん……?な…なんかその…慣れてない?」
「その……ごめんなさい……実は私……あの……初めてじゃなくて………」
どこにでもいる普通の学生の主人公・洋太(童貞)は、家に遊びに来た幼馴染の女のコ・理緒(非処女)と何故かエッチな展開に……。
「君もあたしとエッチしたい…? 抜いてあげよっか……」
好きだった子の積極的な誘惑に最初は戸惑いながらも、彼は初めて味わう女の柔肉に溺れていく……。
(好きな子が非処女という設定の為、若干の寝取られ描写があります。ご注意ください)
学生同士の飲み会むにうかない主人公。女性に縁のない彼にふとしたきっかけでチャンスが訪れる。
相手はボーイッシュな人。はじめてのラブホで戸惑いながらも、彼女のリードで念願の初エッチ!
「初めては中2の時で修学旅行の時にノリで」
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文章論を見つけるとつい読んじゃうんだけど(文章がうまくなりたいので)、そうすると「万人が理解できて、親しみやすい文章を書きましょう」という指南が良く出てくる。
いわく、誰もが理解できる簡単なことばを用い、一文の長さは短めに云々。同じ語尾を続けて使うとテンポが悪く云々。「だ、である」調よりも「です、ます」調のほうが親しみを持たれやすく云々。その際敬体と常体は統一して云々。
なるほど確かにそういう文章は読みやすい。その一方で、これらをどこまでも愚直に守りつづけた先に行きつくのはたぶんあれだよな、とも思う。あれっていうのはあれです、記事の最後に「いかがでしたか?」ってつくタイプのキュレーションサイトの文体。自分以外の人が定めたレギュレーションにがっちがちに縛られた文章。いや、そうならない人もいるんだろうけれど、何も考えずに「なるほど、一文はなるべく短く! 同じ語尾は続けずに!」ってのを盲信して、それがすべてだと思ってずーーーーーっと突き進んじゃうと、そこに行きつくだろうという話。
冒頭に挙げたようなテクニックはあくまで文章をあまり書いたことがない人に向けた基本のキで、それを身に着けたうえで基本をいかに崩すかという点にこそ、書き手の色が出てくるんだと思う。実際プロの文章では、同じ語尾を連続させることで畳みかけるようなスピード感を出していたり、判決文かよと思うレベルで一文を長くして独特のリズムを作ったり、句読点を取っ払うことで狂気その他のっぴきならない状況を演出していたり、そういったことはいくらでもある。それらの文章が万人受けするか? と言われるともちろんそうではないんだろうけど、でもその人には明確に書きたい文章、狙いたい効果というものがあって、それが刺さる人にはきちんと刺さっているからこそプロとして文章を書いているんだろう。
そういう「基本を身に着けたあと」について書いてある文章論の本ってあんまり見なくて(あったとしても精神論がほとんどのように思える)、もうそこからはひたすら読んで書いて自分で掴めってことなのかな。
ともあれ世の中にある文章論に関しては、ターゲットがあまりに偏ってる気がしている。「文章をあまり書いたことがない人に向けた基本のキ」の指南本、多すぎません?
特に、そこに書いてあることさえ守れば文章で身を立てられると言わんばかりに、「書いて稼ぐ」ことを煽る本。文章の価値はフォロワーやPV数、Googleの検索トップに表示させられるか否かで決まると、信じて疑わない価値観で書かれた本。
そういうものを見るたび、活字を読むことが好きでたまらない身としては、暗澹とした気分になってしまう。「楽に稼ぎたい」という人間の心理をついたような文章論に吸い寄せられて、「なるほどこれが稼げる、いい文章の条件なんだ!」と素直に思って、基本のキや小手先の集客テクニックを真面目に守り続ける人がどんどんライターやブロガーに流れていけばいくほど、インターネットに生み出される文章はどんどん画一化されていってしまうんじゃなかろうか。私が今楽しんで読んでいるような、書き手の衝動と個性がにじみ出る文章は、工業製品みたいなテキストに押し流されてどんどん見つけづらくなってしまうんじゃなかろうか。
心配しすぎかなあ。
でも、最近グーグルで何かを検索したときに出てくるキュレーションサイトの群れは、どれをクリックしても同じ人が書いたような画一化した語り口をしている。それを読んだときの砂を噛むような感覚に、どうしてもそんなことが頭に思い浮かんでしまう。私が好きなインターネットは淘汰される運命にある、といえばそれまでなのかもしれないけれど。
生まれてから高校までアメリカで過ごし、それ以降は日本で住み就職もしている。今20代前半。
最近X(Twitter)でこんな動画が賛否両論を生んでいた。
https://x.com/sgwhn8727/status/1627815915457839104?s=20
「子どもたちの自己肯定感を上げるため、わたしのクラスでは毎朝affirmationを言います。I am loved, I am brave, I am smart, I am kind, I am a problem solverと言い合って、ポジティブな気持ちで1日過ごせるようにします。これを毎日繰り返すことでポジティブな自分になることが狙いです。」
これを見て、自分が今まで生きてきて感じたことを色々と思い出したので少し書く。
便宜上、「アメリカ」「日本」と大きな主語を使うが、もちろん家庭や土地によって差はあると思う。
アメリカでは↑の動画のように、「あなたは素晴らしい存在である」と言われ育つことが多い。
「あなたは賢い」「あなたは強い」「あなたは愛されるべき存在」と。
日本では謙遜という概念や「能ある鷹は爪を隠す」という言葉があるように、素晴らしい能力を持った人でも偉ぶらず控えめであることが求められることが多い。
そんな日本の文化を窮屈に思い、アメリカの文化を羨ましく思う人も多いだろう。
しかし、アメリカの「自己肯定感アゲアゲ」文化には致命的な欠点が存在する。
身も蓋もないことを書いてしまうが、いくら本人が「自分は素晴らしい存在だ」と思っていても、現実は違うことの方が多い。
「アメリカは個性を尊重する」とか言ってる人もいるが、誰だってバカより賢い人の方が好きだし、ブスより綺麗な人の方が好きなのだ。それはどこの国も変わらない。
そもそも、「誰もが素晴らしい」が声高に主張される社会=そう言わなければいけない社会、ということである。
社会に出たら嫌でも自分のランクを思い知らされる。自分の上位互換がいくらでも転がっている。
自己肯定感のメッキが剥がれる瞬間が辛いなら、最初から身の丈にあった感覚を持ち生きたほうがマシではないか。
特に今、日本中国韓国の若者と同じように、多くのアメリカの若者には金も希望もない。
インフレや格差にあえぎ、親と同等の暮らしをすることをあきらめている人がほとんどだ。戦争や気候変動など世界的な問題も山積みだ。
こんな中で「自分は素晴らしい」「人生は素晴らしい」と言われても困るのである。もはや呪いでしかない。
「自分は素晴らしい」という言葉は呪いだ。なぜなら、むしろ自分のクソさに気づいたとき、そのクソさがものすごく大きく見える。
その人は「ブスの戦い方」を指南していた。美人はどうやたって生きていけるが、ブスは工夫しなければいけない。しかし、努力すればむしろブスは美人よりも大きな成果を上げることができると。
その話は「ルッキズムを植え付けるな」なんて批判されていたが、自分は感動した。
自分が美男美女ではないから生きづらいと言っている人に対して、「あなたは美しいよ。素晴らしい存在だよ。」と言うのは正しいのだろうか。
非美男美女としての生き方を提案するのが本当の優しさなのではないだろうか。
もちろん美醜だけでなく、頭が悪い、身体が弱い、など、それを素晴らしいよ・あなたの個性だよで終わらせるのではなく、弱者としての戦い方を徹底的に教え込むべきなのではないか。
そもそも、アメリカの自己肯定感は間違っている。「自分は素晴らしい」と思わせるのは自己肯定感をはぐくむことではなく
どんなスポンジケーキかということを考慮せずに、クリームをゴテゴテ塗ってごまかしているようにしか思えない。
「あなたは素晴らしい」と言われ育ったが、そうではないことに気づいてから人生計画を立て直すのに時間がかかった人はたくさんいると思う。
自分ももう大人になったし今は幸せなので、今まで受けた教育にだらだらと文句をつける気はないが、最初から人生がクソゲーだと教えられていたらもっと楽に生きられたと思う。
自己肯定感とは、どんなに自分や自分の人生がクソでもなんとか生きていける能力だと思う。
でも昨日食べたラーメンはおいしかった。信号ですれちがった犬がかわいかった。昨日より1mmは仕事ができるようになった。だからよかった。
日本の「自虐文化」は批判対象になることが多いが、実際無意識に救われてる人も多いのではないかと思う。
あと、これは書くか迷ったんだけど、アメリカの自己肯定感アゲアゲ文化は奴隷を育てるためではないかと思ったことがある。
日本の詰め込み個性ガン無視教育は批判されているし自分もどうかと思うけど、ほぼ全員に最低限の教育を施し、子供たちが次の道へ進みたいと思ったときへの土台作りはできると思う。
しかし、アメリカは頭のいい子への教育は天才的であると感じるけど、バカへの教育はあまりよくない。最低限の基準に達していないバカに「君は素晴らしい」「我々は強い」と言って、一部の天才の奴隷にしようとしているのではないかと思った事すらある。これは陰謀論とかではなく本当に。まあ奴隷育成に失敗して中身スカスカなのに態度がでかい人間を量産してるけど。
父から40万円の振込があった。ほとんど、私が1か月に稼ぐ額だ。
父から振込があったという言い方になるが、祖父母が亡くなった時に、孫として相続した分で名義は私のお金である。使い道もなく管理を任せているものだ。
新制度に移行する前に、今年の積立NISAに充填するようにということだった。よくわからないが、証券口座に入金したあと、何を買うべきかはまた教えてくれるらしい。
人が死んだことによる不労所得。
それを、運用してくれようとしている誠実な親。
けれど、この、身に余る待遇にたまに、ゾッとしてしまう。けれど、それをほうって捨てられるほど強くはない。
きっと私はこの後、住む家も買ってもらうだろうし、今後の積立NISAも指南を受けつつ、やると思う。働かなくてもギリギリ暮らせるけど、一応アリバイ証明のために働いている。
先日、専業主婦は骨から美しい、というのが話題になったが、ちょっと分かる。自分でいうのもおこがましいが、私は骨が艶やかなバターでコーティングされている、昭和生まれの甘くてリッチな焼き菓子みたいなものなのである。クリームがない分、見た目だけちょっと堅実めいていて、でも、アーモンドプードルとバターで出来ている、全く堅実でないお菓子。
親ガチャに成功した、才能がない子供ってのも、なかなか辛いもんである。これが自虐系自慢って思う人もいるとは思うんだけど、でもまぁ、実際のところ、なかなか立つ瀬はないのである。
と、インターネットの海に投げてみる。
ジャニーズとか宝塚とかをきっかけに「推し活」そのものにも批判的な目が向けられてる現状にちょっと言いたくて書く。
性犯罪とかパワハラとかが違法行為であって糾弾されるべきなのはそう。そこに異論はない。
ただ、歴戦のオタクとして、「推し活」そのもののあるべき姿みたいなのにはちょっと思うところがある。
具体的な年代は避けるけど、かつてオタクやってたときはまだ「推し」なんて言葉はなかったし、今よりずっと「オタク」もネガティブなイメージの言葉だった。
当時は某グループのオタク。バーチャル系ではなく実在のグループで、まあCD出したりグッズ売ったり、ライブやったりしてる感じ。まだ配信文化もなかった。
ツアーの全通(非オタク向け補足:ライブツアーなどに全公演参加すること)経験もある。チケ代交通費宿泊費グッズその他で数十万かかったけど、まあ楽しかった。
その後、主要メンバーの引退やら卒業やらで少しずつ離れていき、数年間の非オタク期間を経て、1年ほど前からまた別ジャンルのオタクをやってる。
年齢も人生経験もちょっとは積み重ねて、推し活に対するスタンスも固まってきた。別に正解があるわけじゃないが、推し活やるならこうしたらいいぞ、っていうオススメを書いておきたい。
一言でまとめると、「推しの人生は推し本人のもの、お前の人生はお前のもの」だ。
どうかなあと思うのは、自分の人生を推し活に注ぎ込みすぎてるパターン。それで結局推しの引退やらなんやらで、気がついたら年齢を重ねた自分と虚無感だけが残った、みたいなやつだ。
昔からそういうオタクを周囲でたくさん見てきた。それでもある期間は楽しかったんだからいいのだ、と割り切れるならまだいいが、そうでない人も多い。
ファンと結婚する芸能人、みたいなのに憧れがあるのもわかる。でもあれは、「もともと出会えるぐらいの距離感の関係性」だった対象が、たまたまファンだったというだけに過ぎない。もしくは、ちょっと知ってた、くらいの話を「昔からずっとファンでした」に脚色したほうがニュースバリューがあると判断した結果の演出だ。残念なことだが、この世界はそういうふうにできている。
ライブでファンサもらえたとしても、ラジオや配信でメールが読まれたとしても、それはお前の人生が推しの人生と重なったことにはならない。
推しは推しの人生という列車に乗っていて、お前の乗ってる列車の線路とは交わってないのだ。ライブやメールっていう接点は、あくまで車窓から見えた、程度のこと。
その景色が見えようと見えまいと、推しは推しの線路を進んでゆく。それはお前もそうなんだ。お互いが交わったと思いたい気持ちはわかる。でもそうではないということをまずは理解しよう。
じゃあどうしたらいいか。
お前は推し活をしている以上、推しから何らかの影響を受けているだろう。推しも、個別に一人ひとりを認識してはいないにしろ、ファンの反応には影響を受けているはず。そういう意味では、
お互いに影響しあっている。推しはファンのリアクションを受けて、活動を続けている。お前も、推しから受けた影響を「お前の人生」に活かせ。
お前が推しの人生を変えようとしても難しい。推しの人生は推し自身が自分で決めて進んでいくのだ。同様に、お前の人生を決められるのはお前だけなんだ。
ちょっと話は逸れるが、オタク歴が長くなって気づいた、ラジオなどでメールが読まれるコツみたいなものを伝えておく。
可愛い、かっこいい、歌やダンスが上手い、など推しに対してストレートに感情を伝えるメッセージは、それだけでは弱い。なぜなら、ある程度の活動をしている人はそういう言葉を浴びせられることに慣れているからだ。
「あなたの歌(orダンス、演技、etc...)からこんなことを感じて、自分も◯◯してみました、◯◯にチャレンジしています」などというように、
「推しの活動から影響を受けた自分がどのように変わったか」を書くんだ。
推し対象が何らかの芸能活動をしているのであれば、自分の生み出したコンテンツが誰かにプラスの影響を与えた、誰かの人生に作用したと思えることが嬉しくないはずはない。
どんな仕事でも、自分の仕事が世の中の役に立っている実感が得られるかどうかは、やりがいに直結するだろう。それと同じことだ。
自分は、いまの推し対象が音楽をいろいろ突き詰めているのをみて、楽器を始めた。もともと音楽は好きで楽器が演奏できることへのあこがれはあったが、推し活がきっかけになった形だ。
練習しているのはもちろん推しの楽曲だ。なんとか1曲弾けるようになって、推しの記念日に某所に演奏動画を上げたら、同ジャンルのオタクたちがリアクションくれてちょっと承認欲求が満たされた。推し本人が見てくれていたらいいなあと思う。
初級レベルを出るくらいまではきた自覚があるので、おそらく今の推しが引退とか活動休止したとしても、楽器は続けていくと思う。これは推しに出会わなかったらきっかけがなかった自分の人生の変化だ。
言い換えただけだが、自分の考える推し活のあるべき姿は「推しを力に変えてお前の人生を生きろ」だ。
お前がお前の人生を生きている限りは、グッズを山ほど買おうが、ツアー全通しようが、批判されるべきことではない。それを力に、お前の人生をより良い方向へ変えるには、と考えて進もうや。
蛇足だが、推し活のための借金はおすすめしない。それはお前の人生が担える範囲を超えているからだ。
推し活などに全く頼らなくても生きていける人も大勢いる。だが、我々のような人種は基本的に弱いんだと思う。だからその弱さを推しに補ってもらって、自分の人生を歩もう。そうやって良い方向へ自分のファンが変わっていくことは、推し本人にとっても喜ばしいことのはずだ。
「ネット民の力を信じる」「スゴイ一体感を感じる」的なノリに冷静に距離置かせるカバオコピペがあったので2chは良いって棘が人気だけど
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2258034
そのコピペって2ch全体で貼られてた訳じゃないぞ。当時の2chは全能感全開だったぞ。
そんな中で特異だったのがこのコピペで、隣組破りというか異端というか、かなりの軋轢があって叩かれてたぞ。
元の「スゴイ一体感を感じる」の投稿がされたのは毎日新聞変態英字記事に対する炎上の中だったのが、この毎日の記事は単独のものじゃなかった。
当時、毎日のWEB版では時々変な性的な記事が載って一部の好事家の間で話題になっていた。
例えば愛染恭子というポルノ女優が居るんだが、彼女が紙面で夫婦間のセックス指南をしたり、関係が無いような社会現象でセックスが原因だからとまたセックス指南したりと結構訳が分からん記事を書いていた。
昭和40年代に「表現者」というアングラジャンルがあって、自分の性的な事を全面に出して芸術や芸能と結びつけるという表現形式が流行っていた。
三島由紀夫の聖セバスティアヌスとか『薔薇刑』とかはこの流れのものだ。宮台真司なんかがやたら自分の性体験を赤裸々に語るのも同じ流れにあるし、国民的アングラ女王椎名林檎の『歌舞伎町の女王』とかもそうだな。
多分この延長で「赤裸々な性」のコンテンツを目指したのではないかと思われる。
また紙の方に載っていたかも未確認だ。紙の新聞の日曜版は風変りな特集記事が載るし、また折り込み形式の特別版ともなれば全然新聞記事っぽくない、ミニコミ紙みたいな記事も載る。
そういう垣根で分かれていない、フラットなWEB版ではそれらはとても奇妙な記事群だった。真面目な記事と並列で愛染恭子などのセックス相談が載ってるというアレな状態だ。
炎上後直ぐに記事が見れなくなって増田は見てないのだが、そういう記事が英語に翻訳されて居たのではないか?という気がする。
ネットvs.旧メディアの図式でそれらのうち、「日本の娘はセックスが好きで」みたいな記事が炎上し、ROM人という法科大学院卒の人物が中心になって行ったのだが、当時の2chはかなりの全能感の中にあった。
郵政選挙で小泉純一郎は旧弊な既得権益に侵された日本vs.本来性を目指す右派革新という図式を提示して勝利し、2chもこの流れに乗っかっていた。今から見ると非常に紅衛兵っぽい。
変態記事想騒動は2008年の初夏であるから、この熱気支配されていて、迂闊に疑念を表したりすると叩かれてパージされてしまう。だから反対意見を態々いう者はほぼ居なかった。
また、大事なのは、犯罪予告連続逮捕事件群が2008年の冬にあった。「よーし、お父さん埼京線の上野駅で連続殺人しちゃうぞー」「学校の校庭で小女子を焼き殺します」が有名だ。
この事件群の以前には、ネットでの犯罪予告は全く逮捕されていなかったのだ。だから責任感とか全く考えず、その場の勢いで法人や個人を罵倒したりいわれのないデマ書き込みしたりが放置されていた。
これも全能感を加速させた。「あの新聞のこの記事は自分の一昨日の書き込みに反応したものだ」とかいうヤバゲな奴とか大量にいた。
そんな感じで冷や水を掛ける人がいない環境であった2chだが、幾つかの例外があって、その一つがガイドライン板、通称ガ板だった。
ガイドラインと言いながら運営上のガイドラインを議論するんじゃなくて、あるテーマに沿った面白コピペ収集やバカレスの晒しが大半だ。
ガ板ではそんな2chの全能感に水を注すようなコピペ収集が以前からされていて目を付けられていたんだが、「スゴイ一体感を感じる」のレス転載は一連の運動を馬鹿にするのが見え見えだから当然「〆る」つもりの反発も食らった。
だが、「スゴイ一斗缶を感じる」とか「すごい水上置換を感じる」とかの改変が多数行われると面白過ぎて盛り上がり、隣組圧力を突き放す形になった。
そもそも法科大学院を出た後にちゃんと就職しておらず、身分も精神も不安定であった。渦中の毎日新聞を提訴したのだが、そもそもこういう日本人の名誉=自分の不利益というのは反射的利益であって原告適格性を認められない。その法的文書も酷くて法科卒とは見えないレベルだった。
そして自殺予告や未遂を起こし、あまりに精神不安定さに同居家族がネットに書き込んで「これ以上持ち上げないで」と懇願するに至った。
因みに彼も1000万円を超えるカンパを得ている。
最近では見る事が少なくなったが、ネット中毒を拗らせて精神を病む、人格が社会から完全に乖離する、ゆえに破滅するというのは良く見られた。彼もその一人だ。ネットから引き離さないと直らないという典型的な状態だ。
こうして運動の方は自然消滅していった。カンパの1000万がどうなったかは知らん。
だから「すごい一体感」は2chの冷静さじゃなくて、全能感や一体感の隣組的圧力を意に介さなかったガ板の冷静さであった、ということ。
更に「ネット民の力を信じるすごい一体感を感じる」的ノリというのは、恥ずかしいもの、では済まず、結構悲惨で親族や本人の人生を巻き込んだ大仰な結果に至っているのだ、ということ。