はてなキーワード: 文章論とは
文章論を見つけるとつい読んじゃうんだけど(文章がうまくなりたいので)、そうすると「万人が理解できて、親しみやすい文章を書きましょう」という指南が良く出てくる。
いわく、誰もが理解できる簡単なことばを用い、一文の長さは短めに云々。同じ語尾を続けて使うとテンポが悪く云々。「だ、である」調よりも「です、ます」調のほうが親しみを持たれやすく云々。その際敬体と常体は統一して云々。
なるほど確かにそういう文章は読みやすい。その一方で、これらをどこまでも愚直に守りつづけた先に行きつくのはたぶんあれだよな、とも思う。あれっていうのはあれです、記事の最後に「いかがでしたか?」ってつくタイプのキュレーションサイトの文体。自分以外の人が定めたレギュレーションにがっちがちに縛られた文章。いや、そうならない人もいるんだろうけれど、何も考えずに「なるほど、一文はなるべく短く! 同じ語尾は続けずに!」ってのを盲信して、それがすべてだと思ってずーーーーーっと突き進んじゃうと、そこに行きつくだろうという話。
冒頭に挙げたようなテクニックはあくまで文章をあまり書いたことがない人に向けた基本のキで、それを身に着けたうえで基本をいかに崩すかという点にこそ、書き手の色が出てくるんだと思う。実際プロの文章では、同じ語尾を連続させることで畳みかけるようなスピード感を出していたり、判決文かよと思うレベルで一文を長くして独特のリズムを作ったり、句読点を取っ払うことで狂気その他のっぴきならない状況を演出していたり、そういったことはいくらでもある。それらの文章が万人受けするか? と言われるともちろんそうではないんだろうけど、でもその人には明確に書きたい文章、狙いたい効果というものがあって、それが刺さる人にはきちんと刺さっているからこそプロとして文章を書いているんだろう。
そういう「基本を身に着けたあと」について書いてある文章論の本ってあんまり見なくて(あったとしても精神論がほとんどのように思える)、もうそこからはひたすら読んで書いて自分で掴めってことなのかな。
ともあれ世の中にある文章論に関しては、ターゲットがあまりに偏ってる気がしている。「文章をあまり書いたことがない人に向けた基本のキ」の指南本、多すぎません?
特に、そこに書いてあることさえ守れば文章で身を立てられると言わんばかりに、「書いて稼ぐ」ことを煽る本。文章の価値はフォロワーやPV数、Googleの検索トップに表示させられるか否かで決まると、信じて疑わない価値観で書かれた本。
そういうものを見るたび、活字を読むことが好きでたまらない身としては、暗澹とした気分になってしまう。「楽に稼ぎたい」という人間の心理をついたような文章論に吸い寄せられて、「なるほどこれが稼げる、いい文章の条件なんだ!」と素直に思って、基本のキや小手先の集客テクニックを真面目に守り続ける人がどんどんライターやブロガーに流れていけばいくほど、インターネットに生み出される文章はどんどん画一化されていってしまうんじゃなかろうか。私が今楽しんで読んでいるような、書き手の衝動と個性がにじみ出る文章は、工業製品みたいなテキストに押し流されてどんどん見つけづらくなってしまうんじゃなかろうか。
心配しすぎかなあ。
でも、最近グーグルで何かを検索したときに出てくるキュレーションサイトの群れは、どれをクリックしても同じ人が書いたような画一化した語り口をしている。それを読んだときの砂を噛むような感覚に、どうしてもそんなことが頭に思い浮かんでしまう。私が好きなインターネットは淘汰される運命にある、といえばそれまでなのかもしれないけれど。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59443
まず、この文章論点がとっちらかっていて何が言いたいのかわかりにくい。
「大柄」は、そこに恐怖を感じたという表現が後に出てくるからわかるとして、「40前後」「金髪」という形容は必要か。
こうした特定の要素を持ち出すことにより、「40前後」「金髪」というクラスタを攻撃する意図を感じてしまう。
このように書くと、「40前後」「金髪」が問題であるかのような印象を受けてしまう。ITジャーナリストの金髪豚野郎を思い浮かべてしまい、頭から離れなくなってしまった。
ハイネケンを飲むような金髪豚野郎は許せない。筆者のそんな強い思いがビンビンに伝わってきた瓶ビールだけに。
ハイネケンを飲むようやつは最低である。男は黙ってバドワイザー? よほどハイネケンに恨みがあるらしい。
無駄にクラスタを特定して恨みを飛ばすので、本編に入る前にうんざりしてしまった。もう「ハイネケンを飲んでる金髪豚野郎は最低だな」で終わらせても良いかと思ったくらいだ。
まあ、めげずに読みましたよ。しかし、終始主観的な感情しか語っておらず、筆者自身もおっしゃる通り「それが何か?」としか思えなかった。
私ですらそう思ったのだから、この方が怒りをぶつけたい「女性をモノ扱いする男性」たちからすれば、「女に生まれたことを自己嫌悪しているのかな?お気の毒さま」くらいにしか思わんのではなかろうか。
少なくとも、何を怒っているのかわからないはずだ。そのくらい常識で考えろ? 空気を読んで察しろ? 無理でしょう。それができるくらいなら、彼らは最初から女性に無礼などはたらかない。
もし、私が筆者の立場だとしたら、酔っぱらいに中指で差されて「3番」と言われたら、「酔っぱらいウゼえ」と顔をしかめて終わりである。
こんなに何日も何日も恨みがましく思い続けて、あまつさえ文章に起こしてハイネケンの名誉を傷つけてまで記事にしたりはしない。
私が男だからわからない? 他人だから? そりゃそうだ。他人が何を感じたかなんてわかりゃしない。男だ女だというのは大して関係ない。他人の気持ちはわからない。
もちろん金髪ハイネケン豚野郎にもわかるはずがない。ましてや、そいつは酔っ払いだ。自分自身の言動さえも制御できていない。もしかしたら記憶にすら残っていないだろう。
これは、ハラスメントにも通じる。ハラスメントの加害者は、その多くが自分の行為がハラスメントだと理解していない。自然に生活する中で、ハラスメントがにじみ出るのだ。
なぜなら、何をもってハラスメントなのかは、時代によっても違うし、環境によっても違う。それを受け取る人によっても違ってきてしまう。
例えば、私が生まれるずっと前の通勤電車は、女性が一人で乗ることはほとんどなく、もし乗車したなら100%痴漢に遭うことを覚悟しなくてはならなかったそうだ。
電車に乗った時点で周りの男がほとんど全て痴漢をしてきたらしい。それは、悪いことだと考えられておらず、一人で乗ってきた女性が悪いという感覚だったらしい。
私が若いころでも、未婚の女性に対して「行き遅れ」みたいなことが会話の中で普通に出て来たりしていた。女性の前で卑猥なことを言ったりね。
今だと「女子力がある」みたいな言い回しが普通に使われているが、これもセクハラ発言と言われるようになってきている。(LGBT的にも問題がある。)
何が言いたいかというと、ハラスメントは、被害者が「嫌だ」と意思表示をしないと改善していかないのである。
「察しろ」とか「空気嫁」とか「こんなに呪っているのに」とか、そんなものは通用しない。
怖くても気まずくても、泣き寝入りせずに意思表示していかなくてはならない。
もっとも、ハイネケン豚野郎は酔っていたようなので、言っても無駄だったかもしれないが。
そういう意味では泣き寝入りしたくなかったからこのエッセイを書いたのかもしれないが、こうやって感情的になって呪詛を吐き出すような文章は、読み手が素直に受け入れ難い。
ましてや、増田などではなく歴としたゲンダイの記事である。しっかりと要点を整理して、他人にも何が問題かわかるように論じるべきではなかろうか。
ぶっちゃけて言ってしまうと、「やはりフェミニストはヒステリックで話しても無駄」と感じてしまった人もいるのではないかと心配している。
私たちはエスパーではないから、他人の心の中は容易に理解できない。
ちなみに、私の元カノはMっ気があったので、「もっと乱暴にしてほしい」とか「縛ってほしい」とか「なじってほしい」とか、よくリクエストされていた。
そういう女性がいるのも確かで、そういう女性とばかり交際している男性がいたら、そりゃ女性に対する敬意が失われていくのも無理はない。
IMAKITAを試すついでに訳わからん文を勢いで書いたが、ホント俺の文回りくどくて文意が見えねえな。
・俺は出来れば肉体が男になって生きていきたい。
そのことが、就業して生産活動をしない生活の言い訳になるとは思えないが、俺は俺を男として見てもらえない社会でうまく機能することができないと固く信じている。
ただ、俺は男として見なされた瞬間から暴力を振るい始めるだろう。
俺が男になって暴力を振るいたい気持ちとうまく付き合うには、何かが出来るように正当な努力を払うべきなのだろう。
男になって暴力衝動を操縦して禁欲的な色気をもって自己を確立したい。
以上が5行の結果である。